安部 祐一朗(あべ ゆういちろう、2002年3月8日 - )… 安部 祐一朗(あべ ゆういちろう、2002年3月8日 - )は、日本の画家。京都府京都市生まれ。色鉛筆で宝石と融合した生物を描く独特の作風で知られる。 中学生の頃に行ったユニバーサルスタジオジャパンのゾンビメイクに感銘を受け、メイクアップアーティストをめざし、色の濃淡などの練習のため色鉛筆で絵を描き始める。高校入学祝いに両親からファーバーカステル社の色鉛筆をプレゼントされ、「長靴をはいた猫」のユーザーネームでツイッターに投稿したリアルなユキヒョウの絵が話題となり、メディアで取り上げられる。高校卒業後は理容美容学校に進学。「リアルを求めるなら写真でいい」とネット上で批判されたのをきっかけに、宝石と生物を融合させた作品を制作するようになる。
只埜 なつみ(ただの なつみ、1992年7月4日 - )は、… 只埜 なつみ(ただの なつみ、1992年7月4日 - )は、日本の画家、女優、グラビアアイドル、官能小説家。京都府八幡市出身。 2011年に京都から東京へ上京し、俳優としての活動を開始。小劇場での舞台出演で俳優デビューを果たし、出演を重ね経験を積む。 2021年、ミス夕刊フジ子2021準グランプリと、東映特別賞をW受賞する。同年、画家としての活動を開始。ギャラリーや喫茶店など、幅広い場所で展示を行なっている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、アイドル(グラビアアイドル・ライブアイドル・ネットアイドル・レースクイーン・コスプレイヤーなどを含む)に関連した書きかけの項目です。
村山 大明(むらやま ともあき、1989年〈平成元年〉7月2… 村山 大明(むらやま ともあき、1989年〈平成元年〉7月22日- )は、日本の画家、ドローイングアーティスト。 京都府南丹市出身、静岡県伊東市在住。「自然との調和」をテーマにモノクロのペンによる細かな描き込みで動植物の群像を描く。 石粉粘土やアクリル樹脂、アルミニウムなどを素材に自ら造形したものをキャンバスとして、ドローイングと同じように描く線で質感や凹凸を表現する独自の作品スタイル「3-Draw series」を制作。立体と平面を組み合わせたインスタレーションも展開している。 幼少期は京都府南丹市の山村で育ち、自然環境や動植物との触れ合いが幼い頃から生活の一部であったことが創作の原点となっている。
SHOGEN(しょうげん、1986年(昭和61年)3月29日… SHOGEN(しょうげん、1986年(昭和61年)3月29日 - )は、日本の画家。京都府船井郡京丹波町出身。 2008年3月に龍谷大学を卒業後、日本メナード化粧品に入社。営業部員として働いていたが、雑貨店で6色のペンキで生き物を描くアート(ティンガティンガ)に出会ったことがきっかけで脱サラし、2014年に発祥の地であるタンザニアに渡航。村人と生活を共にしながら現地のアーティストであるノエル·カンビリ(Noel Kambili)から技法を学び、独自のスタイルを身につけた。 共に生活をしていた子どもをテーマにした作品がしばしば見られる。[要出典] 2018年3月に日本ペイントとスポンサー契約を結び、同社の公式キャラクターとなった。
樫木 知子(かしき ともこ、1982年 - )は、京都を拠点… 樫木 知子(かしき ともこ、1982年 - )は、京都を拠点に活動している画家。芸術家。孤独な女性の夢のような情景を描いた作品が多いことで知られている。 京都市生まれ。2006年に、油絵で学士(美術)を取得、2008年に修士(美術)、2011年に絵画の博士号をいずれも京都市立芸術大学で取得した。 日本画を学んできた樫木の作品は、シュルレアリスムの作品と比較されることもあるが、その「とろけたような」主題と個性的な技法は、樫木が持つ特徴の一つである。 また、東日本大震災など、日本国内の自然災害による社会の不安からの逃避を視覚的に表現した作品も見られる。 2011年、ニューヨークのジャパン・ソサエティーで開催された"BYE BYE KITTY!!! Between Heaven and Hell in Contemporary Japanese Art"展に、15人の現代日本のアーティストと共に参加した。
伴田 良輔(はんだ りょうすけ、1954年11月17日)は、… 伴田 良輔(はんだ りょうすけ、1954年11月17日)は、日本の作家、版画家、翻訳家。映画監督としても作品がある。 執筆ジャンルは美術、写真、自然科学、パズル、動物など多岐にわたる。趣味はペタンクと木陰での昼寝。メキシカン・ハンモックの愛好家でもある。美術家としての名義は小原 有月(うげつ)。 京都府福知山市出身。福知山高校を卒業、上智大学外国語学部英語学科中退。在学中に銀座のタウン誌の編集にかかわり、それをきっかけに著述活動に入る。 海外を放浪。帰国後の1985年、雑誌「GS」(浅田彰, 伊藤俊治, 四方田犬彦らの共同編集)の特集に寄稿した原稿をもとに初の単行本『独身者の科学』(冬樹社)を戸田ツトムの装丁で上梓、性のビジュアルとアフォリズムの組み合わせによる斬新な語り口で反響を呼ぶ。
久我 なつみ(くが なつみ、1954年7月24日- )は、日… 久我 なつみ(くが なつみ、1954年7月24日- )は、日本のエッセイスト、作家、元画家。美術に関する著書を多く執筆する。 京都市生まれ。父邦光史郎、母田中阿里子はともに作家。同志社女子高等学校、同志社大学文学部英文科卒業。YMCAで英語講師のかたわら美術を学ぶ。新制作展入選3回。関西新制作展入選2回。1998年『フェノロサと魔女の町』で第5回蓮如賞、2005年『日本を愛したティファニー』で第53回日本エッセイストクラブ賞受賞。日本文学についての著述もある。
村居 正之(むらい まさゆき、1947年4月20日 - )は… 村居 正之(むらい まさゆき、1947年4月20日 - )は、日本画家。日本芸術院会員、日展理事、大阪芸術大学教授美術学科長。金沢美術工芸大学客員教授。 父玄之助 (大正5年10月28日生)と母ハナ江 (大正9年3月21日生)の次男として京都市で生まれる。京都市立日吉ヶ丘高等学校美術工芸コース日本画科卒業後、池田遙邨に師事。日本芸術院会員、日展理事、大阪芸術大学教授 美術学科長。2019年に「月照」で恩賜賞・日本芸術院賞受賞。
青木 敏郎(あおき としろう、1947年 - )は、日本の洋… 青木 敏郎(あおき としろう、1947年 - )は、日本の洋画家。京都市生まれ。リアリズムの作風と、ヨーロッパの古典絵画の技法を現地での研究をもとに追求し続ける画家。 1973年、東京造形大学を卒業。中村正義の援助にて留学、ベルギーヘントのロイヤルアカデミー(英語版)に在籍、その後1978年までオーストリア、オランダ、他に滞在する。 1980年、京都市立芸術大学講師となる(以後1983年まで)。 1981年、東京セントラル美術館油絵大賞展で佳作賞受賞。 1982年、第25回安井賞展入選、賞候補に上がる。 1983年、東京セントラル美術館油絵大賞展招待。 1984年、第27回安井賞展入選 渡欧。オーストリア、ウィーンの美術史美術館にてフェルメールの「画家のアトリエ」、オランダ、デン・ハーグのマウリッツハイス美術館にてフェルメールの「デルフト眺望」を模写。
森岡 順子(もりおか じゅんこ、旧姓:長束 順子、1945年… 森岡 順子(もりおか じゅんこ、旧姓:長束 順子、1945年8月9日 - )は、日本画家。滋賀県出身。京都府京都市育ち。京都産業大学言語学科スペイン語学部卒業。 18歳の頃に日本画家・堂本印象に師事。27歳のときに建築家の森岡邦彦と結婚し、現在の姓を名乗る。 1966年に第15回関西展日本画において『花』が2席受賞して以降、第16回関西展日本画で『春園』、第17回関西展日本画で『ラン』、第19回関西展日本画 で『花』、第20回関西展日本画で『寺の思い出』がそれぞれ入選した(関西展は現在、全関西美術展と名称を変更)。また1972年には第7回日春展日本画において『胡蝶蘭』が入選した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
黒田 アキ(くろだ あき、本名: 黒田 明比古(くろだ あき… 黒田 アキ(くろだ あき、本名: 黒田 明比古(くろだ あきひこ)、1944年10月4日 – )はフランス・パリ在住の日本人画家、芸術家。男性。 京都府京都市出身。1970年にパリに渡り、以降ヨーロッパを中心に活動している。 彼の作品には、ギリシャ神話にまつわる迷宮・ラビリントスの半人半牛のミノタウロスが象徴的に描かれており、アリアドネの糸が空間を走る。またカリアチードのシルエットでも有名である。キャンパスがパサージュとしての存在を放つ、極めて独創的な作品制作を続けている。 1992年から現在まで「COSMOGARDEN」(コスモガーデン)と呼ばれる、流動的、「異種混合的」なトータルアート・スペクタクルの活動を続けている。
岡村 倫行(おかむら りんこう、1944年(昭和19年) -… 岡村 倫行(おかむら りんこう、1944年(昭和19年) - )は日本画家。京都府京都市出身。
田主 誠(たぬし まこと、1942年 - 2023年3月17… 田主 誠(たぬし まこと、1942年 - 2023年3月17日)は、日本の版画家、エッセイスト。本名・誠稔=のぶとし。 1942年京都府舞鶴市生まれ。 1969年から国内の現代日本美術展、日動版画グランプリ展、シェル美術賞展、北陸中日展、日本版画展などで入選および受賞を重ねる。 1995年、ニューヨーク国際メディアフェスティバル銀賞受賞。1999年から川端康成作品シリーズを発表。 2003年〜2004年、NHK総合テレビ「4時です 上方倶楽部」にレギュラー出演し、西国札所巡礼の木版画を発表。 著書に『川端少年の歩いた道』『世界民族博物誌』『心の旅 西国三十三所』『山頭火の風景』など。また『梅棹忠夫著作集』(全23巻)など数多くの学術書の挿画装幀を手掛ける。
竹内 浩一(たけうち こういち、1941年8月28日 - )… 竹内 浩一(たけうち こういち、1941年8月28日 - )は、日本の画家。 京都府京都市生まれ。日展審査員、晨鳥社会員。
和歌山 静子(わかやま しずこ、1940年〈昭和15年〉7月… 和歌山 静子(わかやま しずこ、1940年〈昭和15年〉7月24日 - 2024年〈令和6年〉1月8日)は、日本の挿絵画家、絵本作家。京都府京都市生まれ。神奈川県逗子市に在住していた。 幼少期を函館市で過ごし、戦後間もなく国立市の小学校に入学した。武蔵野美術学校を目指すべく吉祥女子高等学校に進学し、美術部へ入部する。1962年、武蔵野美術短期大学デザイン美術科を卒業。 フリーのデザイナーやイラストレーターとして活動していた1966年、デザイン会社からあかね書房に和歌山の絵を斡旋してもらったことがきっかけで、児童文学者の寺村輝夫に見出され、学習研究社の雑誌に連載する『こびとのピコ』の挿絵を担当する事となった。
矢田作十路(やた さくじゅうろう、1937年〈昭和12年〉1… 矢田作十路(やた さくじゅうろう、1937年〈昭和12年〉12月24日 - 2018年〈平成30年〉5月30日)は、日本画家。雅号は白羊。日本の荒海や山間の静寂を題材にした作品や、中国の古典にならった虎や鷹の作品を多く残している。仏教にも造詣があり羅漢山宝住寺の釈迦三尊像や十八羅漢の石像の下絵を制作、城西山安養寺と羅漢山宝住寺の七条袈裟なども制作した。 1937年(昭和12年)、京都府何鹿郡中上林村(現在の綾部市)の京友禅の家系に生まれる。友禅の職人であった父・矢田茂久雄に師事し幼少時から筆を握っていた。 『作十路』の命名は禅僧によるもので、十牛図にみる十段階の悟りの境地をただ追い求める姿勢を表したものである。
井上 稔(いのうえ みのる、1936年4月16日 -)は日本… 井上 稔(いのうえ みのる、1936年4月16日 -)は日本画家。京都府京都市生まれ。日展会友(出品委嘱)、朴土グループメンバー。
秋野 亥左牟(あきの いさむ、1935年4月7日 - 201… 秋野 亥左牟(あきの いさむ、1935年4月7日 - 2011年11月23日)は、日本の画家、絵本画家。沢宏靱と秋野不矩の次男。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
中路 融人(なかじ ゆうじん、1933年〈昭和8年〉9月20… 中路 融人(なかじ ゆうじん、1933年〈昭和8年〉9月20日 - 2017年〈平成29年〉7月18日)は、日本画家。日展常務理事、日本藝術院会員、晨鳥社会長。 1996年4月に開館した近江商人博物館(東近江市五個荘竜田町583)では、2016年4月に中路融人の作品が多数寄贈されたことで中路融人記念館を加えている。
山岸 純(やまぎし じゅん、1930年 <昭和5年> 9月1… 山岸 純(やまぎし じゅん、1930年 <昭和5年> 9月14日 - 2000年 <平成12年> 12月17日)は、日本画家、日本芸術院会員。位階は正四位。 京都市生まれ。1953年京都市立美術大学日本画科卒。1955年同研究科修了、徳岡神泉に師事。1955年日展初入選。1961年日展特選・白寿賞。1966年日展菊花賞。1974年京都市立美術大学助教授、日展評議員。1975年日展文部大臣賞、京都市立芸術大学教授。1990年京都府文化賞功労賞受賞。1992年日本芸術院賞受賞。1993年日展理事。1996年京都市立芸術大学を退職、名誉教授、京都市文化功労者。1997年名古屋芸術大学教授。1999年日本芸術院会員。
堂本 尚郎(どうもと ひさお、1928年〈昭和3年〉3月2日… 堂本 尚郎(どうもと ひさお、1928年〈昭和3年〉3月2日 - 2013年〈平成25年〉10月4日)は、京都市出身の洋画家、文化功労者。東京都在住。 日本画家・堂本印象の甥。父は堂本四郎。妻は洋画家の洋画家の毛利眞美。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
加山 又造(かやま またぞう、1927年9月24日 - 20… 加山 又造(かやま またぞう、1927年9月24日 - 2004年4月6日)は、日本画家、版画家である。京都府京都市上京区相国寺東門前町生まれ。 祖父・田辺玉田は北陸若狭の出身で、京都で活動の後、旅をしながら各地の風景を描いていく「旅の絵師」となり、旅先の一つ、広島県で結婚し、父・田辺勝也も広島で生まれた。祖父は広島を中心に中国地方で画家として活躍し、作品が二点広島県立美術館に収蔵されている。父は幼少期を広島で過ごした後に父(又造の祖父)と共に京都に移り住み加山勝也と改名。西陣織の図案家(デザイナー)となり、1927年、又造は京都で生まれた。 京都市立美術工芸学校(現 京都市立銅駝美術工芸高等学校ならびに京都市立芸術大学)、東京美術学校(現 東京芸術大学)を卒業。
中野 弘彦(なかの ひろひこ、1927年4月3日 - 200… 中野 弘彦(なかの ひろひこ、1927年4月3日 - 2004年3月4日)は日本画家。山口県生まれ。京都市育ち。
芝田米三(芝田 米造、しばた よねぞう、1926年(大正15… 芝田米三(芝田 米造、しばた よねぞう、1926年(大正15年)9月12日 - 2006年(平成18年)5月15日)は、日本の洋画家。金沢美術工芸大学教授を務めた。日本芸術院会員。位階は従四位。 京都生まれ。1939年、京都商業学校入学。今井憲一に師事し油絵を学ぶが、戦時下のため入営する。戦後、独立美術京都研究所で須田国太郎に師事。1950年独立展独立賞、サロン・ド・プランタン賞受賞、1963年安井賞受賞。1965年、1971年、1973年に渡欧。1974年安井賞選考委員、日伯美術連盟評議員、1975年ブラジル・サンパウロ州議会より騎士賞授与、1978年京都府芸術会館理事、1979年訪ソ、1989年京都府文化賞功労賞、1993年独立美術協会功労賞、1994年京都市文化功労者、「楽聖讃歌」で日本芸術院賞を受賞、日本芸術院会員。
堂本 元次(どうもと もとつぐ、1923年〈大正12年〉4月… 堂本 元次(どうもと もとつぐ、1923年〈大正12年〉4月9日 - 2010年〈平成22年〉1月4日)は、京都市出身の日本画家。本名は塩谷 元次。 日本画家堂本印象の長兄、堂本寒星の養子。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
大野 俶嵩(おおの ひでたか、1922年(大正11年)1月2… 大野 俶嵩(おおの ひでたか、1922年(大正11年)1月20日 - 2002年(平成14年)9月5日)は、昭和・平成期の日本画家であり、京都市立芸術大学名誉教授である。 京都府京都市生まれ。本名は大野 秀隆。 須田国太郎の指導を受けた1941年(昭和16年)京都市立美術工芸学校日本画科を終えると、京都市立絵画専専門学校日本画科(現・京都市立芸術大学)を1943年(昭和18年)に卒業。 1948年には星野眞吾の推薦を受けパンリアル美術協会に参加し、下村良之介らと翌1949年に「パンリアル宣言」を発表、パンリアル美術協会を公に結成する。同年、第1回展を開催し、1958年(昭和33年)まで同展に出品。
堂本 阿岐羅(どうもと あきら、1922年〈大正11年〉 -… 堂本 阿岐羅(どうもと あきら、1922年〈大正11年〉 - 2008年〈平成20年〉12月12日)は、京都市出身の日本画家。本名は堂本 亮。 日本画家堂本印象の次兄、堂本漆軒の子。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
上前 智祐(うえまえ ちゆう、1920年(大正9年)7月31… 上前 智祐(うえまえ ちゆう、1920年(大正9年)7月31日 - 2018年(平成30年)4月16日)は、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)出身の画家。独学で洋画を学んだ後に吉原治良に師事し、具体美術協会の結成に参加した。 1920年(大正9年)7月31日、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)1459番地に生まれた。父は上前由蔵、母は永濱里ん。1歳だった1921年には父の由蔵が死去した。1927年(昭和2年)3月の北丹後地震では家屋が倒壊し、下敷きになりそうなところを巫女に助けられた。同年には奥大野村倉垣尋常小学校に入学した。1932年(昭和7年)には舞鶴市の中村京染洗張り悉皆店に丁稚奉公に出たが、ここで経験した縫い作業がその後の創作活動の原点となった。
小野 春男(おの はるお、1917年 - 1943年12月2… 小野 春男(おの はるお、1917年 - 1943年12月2日)は、京都市出身の日本画家。日本画家小野竹喬の長男。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
佐藤 太清(さとう たいせい、1913年〈大正2年〉11月1… 佐藤 太清(さとう たいせい、1913年〈大正2年〉11月10日 - 2004年〈平成16年〉11月6日)は、京都府福知山市出身の日本画家。本名は佐藤 實(さとう みのる)。 花鳥画と風景画を融合させた独自の花鳥風景画(かちょうふうけいが)を確立したことで知られる。日本画壇の重鎮として戦後の日展を支えたほか、晩年は福知山市佐藤太清賞公募美術展を福知山市と創設し、後進の育成に尽力した。 日展初入選は30歳と大変遅咲きだったが、1966年(昭和41年)第9回新日展に出品した「風騒」は、全く新しい画期的な日本画として絶賛され、文部大臣賞、日本芸術院賞をダブルで受賞し注目を浴びた。1980年(昭和55年)日本芸術院会員、1988年(昭和63年)文化功労者顕彰、1992年(平成4年)には文化勲章を受章。
松田 文雄(まつだ ふみお、1908年3月9日 - 1971… 松田 文雄(まつだ ふみお、1908年3月9日 - 1971年7月9日)は、日本の洋画家。一水会会員。
中村 綗(なかむら けい、1905年〈明治38年〉9月10日… 中村 綗(なかむら けい、1905年〈明治38年〉9月10日 - 没年不詳)は、日本の都市計画家。建築行政家。建築家。建築行政と都市計画に広く関わった人物。日本国内の都市や建築の他、戦前期は台湾で活躍し、戦後は関西方面で活動する。京都市生まれ。 1928年(昭和3年)、京都帝国大学工学部建築学科卒業。同年に警視庁建築技師。1933年(昭和8年)から、都市計画地方委員会の技師として、愛知県に赴任。 1937年(昭和12年)から台湾に赴任。同地の都市計画令施行を受け、台湾総督府土木局都市計画技師に就任。2年前から台湾に赴任していた京都帝大の先輩である内務局土木系技師の早川透とともに、都市計画事業にまい進する。
城米 彦造(じょうまい ひこぞう、1904年5月4日 - 2… 城米 彦造(じょうまい ひこぞう、1904年5月4日 - 2006年5月8日)は、日本の昭和時代に活動した画家、路上詩人。第二次大戦後の10年間、国鉄の有楽町駅前にて自作の詩集を手売りしていたことで知られる。 1904年、京都にて16代続いた老舗呉服・染物屋の長男に生まれる(京染め悉皆業の長男と表現する資料もある)。実母を亡くした後、継母との仲に悩んだ末、放浪を繰り返し、その後、18歳の時に上京する。小石川区の旧制私立豊山中学校(現日本大学豊山高校)定時制卒業。城米が文筆家の道を歩み始めたのは、神田区役所(現千代田区役所)に勤務していた1931年のこと。小説家の武者小路実篤のもとに税金の督促に赴き、そこで感化されたことによる。
上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年〈明治35年〉1… 上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年〈明治35年〉11月4日 - 2001年〈平成13年〉3月11日)は日本画家。花鳥画の近代化に貢献し、文化功労者となりさらに文化勲章を受章した。京都市立芸術大学教授。 本名は信太郎。母は近代美人画の大家、上村松園。未婚で松篁を出産した松園はその父について自ら語ることはなかったが、一部の書籍では松園の師の日本画家・鈴木松年が父であるとみなされている。松年が実の父であることは、松篁が著作中で明らかにしており、13歳のころに初めて松年を父と紹介されたとしている。 息子は同じく日本画家の上村淳之。 1902年(明治35年)、上村松園の長男として京都府京都市中京区四条堺町に生まれる。
杉田 勇次郎(すぎた ゆうじろう、1900年11月6日 - … 杉田 勇次郎(すぎた ゆうじろう、1900年11月6日 - 1984年8月31日)は、京都市出身の日本画家。号は遊子。おもに水彩画や油彩画を手がけ、洋画の技法を取り入れた作品が多い。 京都市下京区に生まれた杉田は、長じて京都市立絵画専門学校(京都市立美術大学の前身)に学び、在学中の1920年に「海近く」で国画創作協会展に初入選した。1922年に卒業した後も、入江波光に師事しながら。その後も国画創作協会展などに出品し、1926年には国画創作協会会員に推されたが、同会日本画部は1928年に解散してしまう。そこで、新樹社に参加するが、1931年には脱退する。 1934年に満州へ渡って美術教師となり、旅順高等公学校や大連の芙蓉高等学校で教鞭を執った。
稲垣 仲静(いながき ちゅうせい、本名:稲垣 廣太郎(いなが… 稲垣 仲静(いながき ちゅうせい、本名:稲垣 廣太郎(いながき ひろたろう)、1897年(明治30年) - 1922年(大正11年)6月25日)は、大正時代の日本画家。京都市出身、 日本画家で工芸図案家の稲垣竹埠の長男に生まれ、克明な自然描写の中に官能性や凄みを表現する画家として、将来を期待されながらも早逝した。 弟は型絵染の人間国宝に認定された染織家の稲垣稔次郎。 1912年(明治45年)に京都市立美術工芸学校(美工)に入学し、京都派の基礎とも言える写生技術を身につけた。1917年(大正6年)京都市立絵画専門学校(絵専)に進学し、翌1918年(大正7年)に美工出身者の研究団体「密栗会」に参加した。
徳岡 神泉(とくおか しんせん、1896年〈明治29年〉2月… 徳岡 神泉(とくおか しんせん、1896年〈明治29年〉2月14日 - 1972年〈昭和47年〉6月9日)は、京都市生まれの日本画家。本名、時次郎。 京都写生派の流れに立った写実を発展させ、神泉様式とも表現される幽玄かつ象徴的な独自の日本画は、戦後の日本画に大きな影響を与えた。作品全体に深い印象を与える繊細な地塗りも有名。1966年(昭和41年)文化勲章受章。 1896年(明治29年)2月14日、京都市上京区に生まれる。 1909年(明治42年)に土田麦僊の紹介で竹内栖鳳の画塾竹杖会に入り、本格的に画を学ぶ。翌年には京都市立美術工芸学校絵画科に入学。卒業までの4年間に、金牌、銀牌を獲得するなど優秀な成績を修め、卒業制作の『寒汀』は学校買い上げの栄誉を受けた。
中澤 誠一郎(なかざわ せいいちろう、1896年(明治29年… 中澤 誠一郎(なかざわ せいいちろう、1896年(明治29年)1月24日-1986年(昭和61年)8月29日)は、日本都市計画学会は発起人としても関与し、日本都市学会や近畿都市学会は会長を歴任した都市計画家、建築行政官、都市研究者。大阪市立大学名誉教授。日本建築学会名誉会員で、大阪市政研究所にも所属した。京都市生まれ。 旧制第三高等学校を経て1920年(大正9年)7月東京帝国大学工学部建築学科を卒業。ただちに内務省大臣官房都市計画課勤務。1921年大阪府警察部技師。中の島大阪市庁舎新築工事などを担当。 1924年愛知県警察部建築課長。1931年愛知県土木部建築課長。1932~39年:大阪府警察部建築課長と、都市計画並びに建築行政の分野で業務を歴任。
吉川 観方(よしかわ かんぽう、1894年〈明治27年〉 -… 吉川 観方(よしかわ かんぽう、1894年〈明治27年〉 - 1979年〈昭和54年〉4月16日)は、大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家・版画家。 京都市に生れる。本名は賢次郎。1900年(明治33年)、まず書を岡阪鉄山に学んだ後、1901年(明治34年)、西堀刀水、竹内栖鳳に師事して日本画を学んでいる。1905年(明治38年)、京都市立一ツ橋小学校を卒業する。1907年(明治40年)、藤原重浪に和歌の添削を受け、1909年(明治42年)から浮世絵の研究を始めた。1913年(大正2年)に京都府立第一中学校を卒業、翌1914年(大正3年)に京都市立絵画専門学校予科に入学した。この頃、江馬務が主宰していた風俗研究会に参加、1916年(大正5年)に江馬が『風俗研究』を創刊してからは、同誌のために古画の模写や挿絵を担当していた。
堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉1… 堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉12月25日 - 1975年〈昭和50年〉9月5日)は、日本画家。帝室技芸員。日本芸術院会員。本名:堂本三之助。 1891年(明治24年)12月25日、京都府京都市出身。 1910年(明治43年)、旧制京都市立美術工芸学校(現:京都市立美術工芸高等学校)を卒業。西陣織の図案描きの仕事をしていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。 1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校研究科修了。 1919年(大正8年)、帝展初出展作「深草」が入選した。帝展第3回展では「調鞠図」で特選、第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められた。
長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7… 長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7月9日? - 昭和15年(1940年)10月12日)は京都府出身の洋画家、歌人。名の読みは「りこう」とも。
須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月… 須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月6日 - 1961年〈昭和36年〉12月16日)は洋画家。京都市立美術大学名誉教授。重厚な作風と東西技法の融合に特色。
奥瀬 英三(おくせ えいぞう、1891年2月28日 - 19… 奥瀬 英三(おくせ えいぞう、1891年2月28日 - 1975年11月23日)は、三重県出身の洋画家。浦和画家の一人。示現会代表。瑞宝章受章者。 三重県上野村(現:伊賀市)に生まれ、画家を目指して上京。太平洋美術学校の教授になった。帝展にて連続して特選を受賞し、1929年には審査員となった。1931年には埼玉県浦和市に移住し、終生居住したことから浦和画家として知られている。戦後は山岳風景画を多く残している。新光洋画会や槐樹社、示現会の結成者の一人。蕨画塾講師。勲四等瑞宝章のほか埼玉新聞社から埼玉文化賞が贈られている。
池田 永治(いけだ えいじ、1889年10月15日 - 19… 池田 永治(いけだ えいじ、1889年10月15日 - 1950年12月30日)は、日本の漫画家、洋画家、挿絵画家、俳画家。京都府出身。大正期から昭和20年代にかけて活躍した。 1889年、京都市木屋町生まれ、大阪育ち。 本名は池田永治。1928年以降は(妹繁子の死を悲しみ)池田永一治(読みはエイジのまま)と称した。他の画名に永一路、牛、牛歩、田牛(たのもう)などで、これらは丑年うまれにちなむ。 父直次郎の木版印刷業を継がずに上京して、太平洋美術学校を卒業、同校教授となる。珊瑚会に加わり、太平洋画会を中心に活動し、1910年第4回文展褒状「牧場」から1946年日展入選「鳥渡る」まで、日展(帝展、文展)関係の褒状2回、招待2回、無鑑査4回、入選16回に及び、風景画を得意とした。
平井 楳仙(ひらい ばいせん、1889年1月5日 - 196… 平井 楳仙(ひらい ばいせん、1889年1月5日 - 1969年8月30日)は、京都府京都市生まれの日本画家。帝国美術院展覧会審査委員。本名は平井秀三。 1906年(明治39年)に京都市立美術工芸学校絵画科卒業。1907年(明治40年)新古美術展四等受賞(夕月)第1回文展入選(宮苑の朝)。 1910年(明治43年)に京都市立美術工芸学校卒業生入江波光・榊原紫峰らによる研究会「桃花会」を結成し、翌年には、榊原紫峰・野長瀬晩花・星野空外ら京都大学文学研究者たちと「バトサヤ」を立ち上げる。文部省美術展覧会(初期文展・新文展)・帝国美術院展覧会に無鑑査出品を続け、戦後は後援会の楳推会を中心に活躍した。
梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年〈明治21… 梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年〈明治21年〉3月9日 - 1986年〈昭和61年〉1月16日)は、日本の洋画家。京都府京都市下京区生まれ。はじめ龍三郎、1914年(大正3年)までは梅原 良三郎(うめはら りょうざぶろう)と名乗り、再び龍三郎と名乗った。 ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。 京都府京都市下京区生まれ。生家は染物問屋だった。京都府立第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を中退し、伊藤快彦の画塾・鍾美会で学んだ後、浅井忠が主催する聖護院洋画研究所(現・関西美術院)に入った。
榊原 紫峰(さかきばら しほう、1887年〈明治20年〉8月… 榊原 紫峰(さかきばら しほう、1887年〈明治20年〉8月8日 - 1971年〈昭和46年〉1月7日)は、京都市出身の日本画家。本名は安造。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4… 西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4月2日 - 1958年(昭和33年)3月30日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家。本名は西山 夘三郞(にしやま うざぶろう、新字体:卯三郎)。 1879年(明治12年)に京都伏見に生まれる。1893年(明治26年)に 竹内栖鳳の門下に入り日本画を学ぶ。翌年から各展覧会や博覧会で入賞を重ね、若くして頭角を現して同門の西村五雲や橋本関雪とともに栖鳳門下として名を馳せた。後に翠嶂は栖鳳の女婿となっている。その後京都市美術工芸学校に入学し日本画の更なる研鑽に励んだ。 1907年(明治40年)の第1回文展に「広寒宮」を出品して三等を受賞したのを皮切りに、その後の文展にも出品を重ねて受賞や特選が相次いだ。
田村 宗立(たむら そうりゅう、弘化3年8月20日(1846… 田村 宗立(たむら そうりゅう、弘化3年8月20日(1846年10月10日) - 大正7年(1918年)7月10日)は、明治期の洋画家、画僧。別号に月樵、十方明。京都において浅井忠に先立って洋画普及の礎を築いた。 丹波国船井郡上河内村(現在の京都府南丹市園部町船岡)に田村宗貫と佐野忠左衛門の次女尚子との間に生まれる。宗立は僧名とする説もあるが、師・憲海は弟子に法諱を授ける際に「憲」の字を与えるのが基本で、父の名が宗貫な事や遺族の証言から戸籍名で、本名を法諱に転用した可能性が高い。公卿中山家に仕えた父に従い、幼時を京都、亀岡で過ごした。3歳ではじめて絵筆を持ち、9歳の時百人一首を模写して周囲を驚かせたという。
円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字体: 圓山 應擧、享保1… 円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字体: 圓山 應擧、享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))は、江戸時代中期~後期の絵師。 近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した画風が特色である。 諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。 本姓は藤原、後に源、姓は円山、名は岩次郎、後に主水。夏雲、雪汀、一嘯、仙嶺、僊斎、星聚館、鴨水漁史、攘雲、洛陽仙人と号す。石田幽汀の門人。享保18年(1733年)、丹波国桑田郡穴太(あなお)村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)に農家の次男として生まれた。穴太は、西国三十三所の札所寺院である穴太寺があることで知られる。