石井 晴一(いしい せいいち、1934年6月25日 - 20… 石井 晴一(いしい せいいち、1934年6月25日 - 2013年1月24日)は、日本のフランス文学者。青山学院大学名誉教授。オノレ・ド・バルザックが専門。 群馬県桐生市生まれ。1954年東京都立日比谷高等学校卒業。1958年東京大学文学部フランス文学科卒業。1961年から1964年までフランス政府給費留学生としてパリ大学に留学。1964年東京大学大学院人文科学研究科仏語仏文学専攻博士課程中退。東京大学教養学部助手などを経て、1982年青山学院大学文学部教授。2003年定年退職、名誉教授。
長沢 延子(ながさわ のぶこ、1932年〈昭和7年〉2月11… 長沢 延子(ながさわ のぶこ、1932年〈昭和7年〉2月11日 - 1949年〈昭和24年〉6月1日)は、日本の詩人である。群馬県桐生市出身。群馬県立桐生高等女学校(現・群馬県立桐生女子高等学校)卒業。姓の長沢は長澤とも表記される。 1932年(昭和7年)、群馬県桐生市で生まれる。父親は織物会社を営んでいた。延子には姉と兄がおり、のちに弟が生まれる。1936年(昭和11年)、延子が4歳のときに母親が胃癌で亡くなる。延子によれば、自分の一番最初の記憶は棺の中の母親の死に顔であるという。1938年(昭和13年)、桐生市西尋常小学校(1941年に桐生市西国民学校と改称)に入学、クラスで一番成績が良く、ずっと級長を務めた。
上原 進(うえはら すすむ、1932年 - 2023年11月… 上原 進(うえはら すすむ、1932年 - 2023年11月24日)は、日本の歯科医師・歯学者・博士。元日本障害者歯科学会理事長、日本大学名誉教授、元日本大学松戸歯学部障害者歯科学講座教授、元川崎医療福祉大学教授。 群馬県桐生市出身。群馬県立桐生高等学校卒。1957年に東京歯科大学卒業、以後日本大学助手を経て1978年より1998年まで日本大学松戸歯学部障害者歯科学講座教授。1998年より同大学総合科学研究所教授。2000年より2005年まで川崎医療福祉大学教授。
川口 節子(かわぐち せつこ、1931年〈昭和6年〉9月8日… 川口 節子(かわぐち せつこ、1931年〈昭和6年〉9月8日 - )は、1950年代前半に活動した日本の元女優。群馬県桐生市出身。夫は元俳優の波島進、長女は同じく元女優の小倉加代。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
常見 忠(つねみ ただし、1930年11月11日 - 201… 常見 忠(つねみ ただし、1930年11月11日 - 2011年11月30日)は、日本の元プロ野球選手、釣り師。群馬県桐生市出身。
石川 信義(いしかわ のぶよし、1930年〈昭和5年〉8月2… 石川 信義(いしかわ のぶよし、1930年〈昭和5年〉8月20日 - 2020年〈令和2年〉7月2日 )は、日本の精神科医。三枚橋病院創設者。 群馬県桐生市生まれ。旧制・群馬県立桐生中学校、海軍兵学校(78期)、旧制・第二高等学校を経て、1952年(昭和27年)に東京大学経済学部を卒業後、安田生命保険(現・明治安田生命保険)に入社。しかし、医者になるため数年で退社し東京大学医学部に入学。スキー山岳部に所属していた1961年(昭和36年)には、第5次南極地域観測隊に参加した。 1962年(昭和37年)に東京大学を卒業後、精神科医となり、東京大学医学部附属病院神経科、東京都立松沢病院に勤務。同病院には4年ほど勤務するが、このうち、1年間はライシャワー事件を起こした青年の主治医を務めた。
水野 繁(みずの しげる、1929年〈昭和4年〉9月16日 … 水野 繁(みずの しげる、1929年〈昭和4年〉9月16日 - 2014年〈平成26年〉9月17日)は、日本の官僚、実業家。大蔵官僚として国税庁長官などを務め、日本たばこ産業社長、整理回収銀行社長、東京経済大学理事長などを歴任した。 群馬県桐生市に、桐生警察署長だった水野栄・タヨの三男として生まれる。群馬師範附属小学校から前橋中学校に進学。戦闘機乗りを志して仙台陸軍幼年学校に学び、終戦後に前橋中学校に復学し1947年卒業。旧制浦和高等学校文科甲類から東京大学へ進む。 1953年に東京大学法学部法律学科を卒業して大蔵省に入省。入省同期に吉野良彦、大場智満、宮下創平、津島雄二、楢崎泰昌らがいる。銀行局検査部管理課に配属。
荒木 幸雄(あらき ゆきお、1928年〈昭和3年〉3月10日… 荒木 幸雄(あらき ゆきお、1928年〈昭和3年〉3月10日 - 1945年〈昭和20年〉5月27日)は、群馬県桐生市出身の大日本帝国陸軍軍人、操縦士、陸軍特別攻撃隊第72振武隊員。 「子犬を抱いた少年兵」(右図)の写真で知られる。 1928年(昭和3年)3月10日、桐生市宮前町で菓子屋を営む荒木丑次・ツマの次男として生まれる。 1940年(昭和15年)3月、桐生市西小学校を卒業。翌年、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まる。 1943年(昭和18年)3月5日、海軍飛行予科練習生(予科練)試験に合格するも、その後の入隊時の身体検査で不合格となった。そのため体を鍛えて同年8月に陸軍少年飛行兵(15期乙)試験を受けて合格。
須田 茂(すだ しげる、1928年2月22日 - )は、元大… 須田 茂(すだ しげる、1928年2月22日 - )は、元大井競馬場所属の元騎手・調教師である。黎明期の南関東公営競馬で6年連続リーディングジョッキーに輝き、川崎の佐々木竹見騎手に抜かれるまで日本における最多通算勝利数記録を保持していた。 群馬県勢多郡新里村(現・桐生市)出身。高等小学校を卒業すると、13歳で埼玉県朝霞町に存在した陸軍予科士官学校に徴用され、馬係を任される。その後は終戦まで同学校で将校用の馬を世話しつつ、合間を縫って騎乗技術の手ほどきを受けたという。 終戦後は北関東の草競馬でセミプロとして農耕馬などに騎乗していたところ、軍時代の先輩から当時高崎に厩舎を構えていた田中利衛調教師を紹介される。
高草木 昭允(たかくさぎ てるちか、1927年〈昭和2年〉1… 高草木 昭允(たかくさぎ てるちか、1927年〈昭和2年〉11月18日 - 1994年〈平成6年〉8月15日)は、日本の作詞家。群馬県桐生市出身。 1927年(昭和2年)、桐生市に生まれる。桐生高等工業学校附属商工専修学校を経て、関東短期大学英文科を卒業。桐生市役所に入庁し総務課へ配属された。公務員としての職務の傍ら作詞に取り組み、教育委員会社会教育課長在職時の1968年(昭和43年)に県が明治百年を記念して実施した3代目県民歌の一般公募で応募作が入選する。これ以降、一般公募や直接の依頼を受けて県内の複数の小中学校で校歌を作詞した。 桐生市立中央公民館長兼青少年センター長、市議会事務局長を経て市総務課長に至る。
森 菊蔵(もり きくぞう、1927年〈昭和2年〉5月4日 -… 森 菊蔵(もり きくぞう、1927年〈昭和2年〉5月4日 - 1997年〈平成9年〉1月21日)は昭和・平成期日本の詩人、作詞家、ラジオパーソナリティ。日本詩人クラブ会員。 別名義に槍 一之(やり かずゆき)がある。 群馬県桐生市出身。旧制桐生中学校を経て、慶應義塾大学在学中より地元の群馬2区選出であった衆議院議員・長谷川四郎の秘書を務める。福田正夫の知遇を得て主観社文学会へ入会し、後に『日本詩壇』復刊へ参加した。1955年(昭和30年)、詩集『背後』を刊行。 詩人として活動する傍ら日本抵抗器工業振興会事務局長やNETテレビ番組企画委員を務め、1965年(昭和40年)に株式会社東京企画を設立して以降はいわゆる「代議士ソング」や市町村歌、音頭の企画を精力的に売り込んでいた。
首藤訓宏(しゅどう くにひろ、1927年3月20日- )は、… 首藤訓宏(しゅどう くにひろ、1927年3月20日- )は、日本の英語学者。 群馬県桐生市生まれ。本名・新八。1948年東京外国語大学卒業。51年に渡米。アズベリー大学院修士課程修了、ノースウェスタン大学院に留学後、60年に帰国。群馬大学教授、東京慈恵会医科大学教授、新潟経営大学教授。
木暮 英路(こぐれ えいじ、1927年1月30日 - )は、… 木暮 英路(こぐれ えいじ、1927年1月30日 - )は、群馬県桐生市出身の元プロ野球選手。巨人などでプレーした木暮力三は実兄。 桐生中学から1944年に阪急軍へ入団。投手兼内野手としてプレーする。 終戦後はアマチュアの全桐生でプレーし、1950年に西鉄クリッパースでプロ復帰。同年で退団し、その後は大生相互銀行でプレーした。
小暮 智一(こぐれ ともかず、1926年6月10日 - 20… 小暮 智一(こぐれ ともかず、1926年6月10日 - 2025年5月22日)は、日本の天文学者。専門は天体物理学、天体分光学。京都大学名誉教授。美星天文台名誉台長。第35代日本天文学会理事長。群馬県桐生市出身。 1926年群馬県桐生市生まれ。父は開業医。9人兄弟。桐生市立昭和尋常高等小学校、旧制・群馬県立桐生中学校、旧制・浦和高等学校(理科甲類)を経て、1950年に京都大学理学部(宇宙物理学専攻)を卒業。数少ない同期の一人に寿岳潤がいた。大学卒業後、大阪市立高校で数学、京都府立高校で地学の高等学校教員を務める。 1961年京都大学理学部助手。1969年茨城大学理学部助教授。1969年茨城大学理学部教授。
堀越 暢治(ほりこし のぶじ1926年5月11日‐2017年… 堀越 暢治(ほりこし のぶじ1926年5月11日‐2017年8月30日)は、日本の牧師、著作家。 1926年群馬県桐生の神社の息子として生まれる(神官だった父親も後にクリスチャンになる)。1962年、日本基督神学校卒業後、日本基督長老教会四日市教会牧師に就任したが、1999年に辞任。1999年5月に創愛キリスト教会を開拓した。その後、教会に創造の真実を伝えるための記念館「ノアの箱船記念館」を創立。2017年8月30日、召天。 1970年4月から1974年4月まで、ソルドの後をついで日本基督神学校の校長を務める。また、東京キリスト教学園理事と「めぐみ園」の園長を務める。その傍ら多数の著書を著す。
田沼 肇(たぬま はじめ、1926年〈大正15年〉4月19日… 田沼 肇(たぬま はじめ、1926年〈大正15年〉4月19日 - 2000年〈平成12年〉8月9日)は、日本の社会学者・社会運動家。 群馬県桐生市生まれ。本籍東京市(現港区)。武蔵高等学校卒、1948年東京帝国大学経済学部卒、商工省調査統計局勤務。1950年法政大学大原社会問題研究所勤務、1963年同社会学部助教授、1964年教授。1970-1971、1978-1981年社会学部長。1993年退職、名誉教授。1983年原水爆禁止日本協議会代表理事。 1987年に発病し、1995年パーキンソン症状を伴う進行性核上性麻痺と診断される。1993年東京都重度心身障害者手当を申請するが、判定医の診断により却下される。
中島 巌(なかじま いわお、1926年1月4日 - 1995… 中島 巌(なかじま いわお、1926年1月4日 - 1995年3月13日)は、日本のアマチュアゴルファー・ゴルフ指導者・ゴルフ場会社経営者・ゴルフコース設計者。中島常幸・中島和也・中島恵利華の父。群馬県桐生市出身。 アマチュアゴルファーとして活躍していたが、長男・常幸の誕生に際し、息子を一流ゴルファーに育てることを決意。常幸のみならず、三男・和也、長女・恵利華にも厳しい練習を課し、プロゴルファーに仕立て上げた。その指導は徹底しており、常幸は練習に専心するため、通っていた私立樹徳高校を中退させられたほどであった。次男・中島篤志によれば、巌は「巨人の星」の星一徹を地でいく筋金入りのがんこ親父であり、子供を“育てる”というよりも“つくる”という感じであったという。
稲田 献一(いなだ けんいち、1925年〈大正14年〉3月8… 稲田 献一(いなだ けんいち、1925年〈大正14年〉3月8日 - 2002年〈平成14年〉5月17日)は、日本の経済学者、大阪大学名誉教授。 群馬県桐生市に生まれる。旧制群馬県立桐生中学校(現・群馬県立桐生高等学校)、旧制第一高等学校を経て、東京大学理学部数学科卒業、同大学院理学研究科数学専攻修了。 1948年(昭和23年)獨協高等学校教諭となり、1953年(昭和28年)東京都立大学講師、助教授を経て1965年(昭和40年)教授に就任。1966年から1969年にかけてニューサウス大学、スタンフォード大学の客員教授に招かれる。1969年(昭和44年)年に大阪大学社会経済研究所教授となり、後に所長。
大川 栄二(おおかわ えいじ、1924年〈大正13年〉3月3… 大川 栄二(おおかわ えいじ、1924年〈大正13年〉3月31日 - 2008年〈平成20年〉12月5日)は、群馬県桐生市出身の実業家、美術品蒐集家。大川美術館創設者・初代館長。 群馬県桐生市生まれ、実家は畳屋であった。桐生高等工業学校(現・群馬大学工学部)染色化学科卒業。1946年、三井物産入社。1969年、株式会社ダイエーへ移り、副社長を経て1976年にマルエツ株式会社(旧サンコー)代表取締役社長。1981年、株式会社ダイエー取締役副社長。1983年株式会社丸興(後ダイエーファイナンス、現セディナ)会長。中内㓛社長付きの部長という肩書きで、新店舗開発など最前線で指揮をとり、急成長するダイエーを影から支えた。
木暮 力三(こぐれ りきぞう、1923年2月21日 - 没年… 木暮 力三(こぐれ りきぞう、1923年2月21日 - 没年不詳)は、群馬県桐生市出身のプロ野球選手。左投左打。西鉄などでプレーした木暮英路は実弟。 桐生中学(現群馬県立桐生高等学校)では、1939年の夏の甲子園に一塁手として出場。1942年に読売ジャイアンツに入団。強打者として期待され、1943年には応召した川上哲治に代わって一塁手のレギュラーとなり、巨人の第9代4番打者も務めた。 戦後の1946年に、かつて巨人監督だった藤本定義が監督に就任したパシフィックに入団。外野手のレギュラーとなり、打率.246を打ってリーグ33位に入った。しかし、同年限りでパシフィックを退団して、1947年は全桐生に参加し、都市対抗野球にも出場している。
稲川 豪一(いながわ ごういち、1920年1月11日 - 没… 稲川 豪一(いながわ ごういち、1920年1月11日 - 没年不明)は、群馬県桐生市出身のプロ野球選手。稲川東一郎は実兄。 桐生中学校から全桐生を経て、1950年に東急フライヤーズへ入団。同年で退団し、その後は大昭和でプレーした。
神山 恵三(かみやま けいぞう、1917年〈大正6年〉1月1… 神山 恵三(かみやま けいぞう、1917年〈大正6年〉1月18日 - 1988年〈昭和63年〉12月22日)は、日本の生気象学者。東京農工大学教授、共立女子大学教授を歴任。医学博士。日本環境学会会長。 1917年(大正6年)、群馬県桐生市に生まれる。旧制桐生中学校を経て、1949年(昭和24年)気象大学校を卒業。 1949年(昭和24年)から気象研究所に勤務し、1950年(昭和25年)研究室長となった。1951年(昭和26年)東京医科歯科大学講師を兼務。1959年(昭和34年)「寒冷刺戟によるプレチスモグラムの変動について」で東京医科歯科大学医学博士。1976年(昭和51年)東京農工大学農学部教授となり、1980年(昭和55年)まで勤務。
小林 一郎(こばやし いちろう、1916年〈大正5年〉9月1… 小林 一郎(こばやし いちろう、1916年〈大正5年〉9月10日 - 2009年〈平成11年〉4月11日)は、日本の国文学者。田山花袋研究の第一人者。東洋大学短期大学学長を務めた。 群馬県桐生市生まれ。旧制桐生中学校、二松学舎専門学校を経て、東洋大学文学部国文科卒業。 1975年、「田山花袋研究」で文学博士号取得(東洋大学)。伝記的、実証的研究によって田山花袋研究の基礎を作った。館林市田山花袋記念館顧問。花袋のほか、森鷗外・夏目漱石・川端康成・太宰治についての研究も行う。 2009年4月11日、心臓疾患のため92歳で死去。
栗原 五郎(くりばら ごろう、1915年〈大正4年〉8月14… 栗原 五郎(くりばら ごろう、1915年〈大正4年〉8月14日 - 2009年〈平成21年〉12月4日)は、日本の経営者。三重銀行頭取を務めた。 群馬県桐生市東久方出身。旧制桐生中学校を経て、1936年に東京商科大学専門部を卒業し、同年に住友銀行に入行した。1966年5月に取締役に就任し、1967年10月には三重銀行副頭取に就任し、1968年10月には頭取に昇格。1979年6月に会長に就任し、1989年6月に取締役相談役、1991年6月に相談役、1997年6月に特別顧問を経て、1999年6月には顧問に就任。 1980年四日市商工会議所会頭に就任し、翌1981年から三重県商工会議所連合会長を務めた。
久保田 魁(くぼた かい/いさお、1915年〈大正4年〉3月… 久保田 魁(くぼた かい/いさお、1915年〈大正4年〉3月6日 - 1976年〈昭和51年〉5月27日)は、昭和時代に活動した日本画家、日展会員。 単色・同系色を繊細に使いこなして日本の山川を表現する風景画を得意とし、多くの作品が絵画として頒布されている。同時期に活動していた奥田元宋らとともに児玉希望に師事し、不忍池辯天堂の天井絵を合同で描いた。 1915年、群馬県桐生市にて生まれる。 奥田元宋や佐藤太清と親友関係にあり、絵の世界でも切磋琢磨しあう関係だったとされている。奥田と佐藤は文化勲章を叙勲しており、久保田もその才能に期待はされていたものの、久保田は長らく戦争に出兵しており惜しくもその機を逃した。
森 寅雄(もり とらお、1914年〈大正3年〉6月11日 -… 森 寅雄(もり とらお、1914年〈大正3年〉6月11日 - 1969年〈昭和44年〉1月8日)は、日本人の剣道家、フェンシング選手。剣道の段位は八段(範士追贈)。米国フェンシング界では「タイガー・モリ」の異名をとった名選手である。昭和初期の日本剣道界、米国フェンシング界でトップクラスの実力を持ちながら、さまざまな事情で優勝を逃した「悲運の剣士」としても知られる。 群馬県山田郡桐生町新宿(現・桐生市新宿)に、野間(旧姓・岡田)善次郎・ヤスの子として生まれる。初名は野間 寅雄。曽祖父は幕末の北辰一刀流玄武館四天王の一人である森要蔵。寅雄の名は、要蔵とともに白河戦争で戦死した彼の息子(野間寅雄の大叔父)・森寅雄にちなんだものである。
鈴木 セイ(すずき セイ、1912年〈明治45年〉3月30日… 鈴木 セイ(すずき セイ、1912年〈明治45年〉3月30日 - 2013年〈平成25年〉1月23日)は、日本の福祉活動家。群馬県桐生市境野町出身。 結核患者の介護を志し、母が娘の結婚のためにと貯蓄した資金を学費とし、1942年に看護婦免許、1948年に栄養士免許を取得した。1938年(昭和13年)、榛名山の麓に結核保養所の榛名荘(現、榛名荘病院)を開所し、常任理事に就任した。以後、終生にわたってこの榛名荘に第二の故郷として定住した。 重症心身障害児が福祉制度の対象にならず、障害児者関係制度の狭間に置かれていたことを憂慮し、1965年(昭和40年)、群馬県高崎市榛名山町で、群馬初の重症心身障害児施設である「はんなさわらび学園(現、はんな・さわらび療育園)を創設した。
星野 愷(ほしの やすし、1909年〈明治42年〉6月18日… 星野 愷(ほしの やすし、1909年〈明治42年〉6月18日 - 1986年〈昭和61年〉7月25日)は、日本の電気化学者。東京工業大学名誉教授。 群馬県勢多郡黒保根村(現・桐生市黒保根町)に、群馬県会議員・黒保根村長をつとめた星野元治の長男として生まれる。黒保根尋常高等小学校、旧制前橋中学校を経て、1934年(昭和9年)に東京工業大学電気化学科を卒業。 東京工業大学助手を経て、1940年(昭和15年)助教授、1953年(昭和28年)教授に就任。1945年(昭和20年)11月工学博士の学位を授与されている。 人造偏光板・磁気録音読書機の発明者。数々の特許を申請し、特許数は日本国内で58件、海外(アメリカ、イギリス、ドイツ各国)で59件。
大森 義夫(おおもり よしお、1909年3月7日 - 198… 大森 義夫(おおもり よしお、1909年3月7日 - 1983年11月17日)は、日本の俳優。本名は菅沼 常吉。
松澤 知恵(まつざわ ちえ、1909年(明治42年) - 2… 松澤 知恵(まつざわ ちえ、1909年(明治42年) - 2006年(平成18年))は、昭和初期の社団法人日本放送協会東京中央放送局の女性アナウンサー。 群馬県桐生市出身。7人姉弟の2番目として生まれる。桐生で生まれた後、すぐ京都へ移り、小学校入学の時に東京へ転居。女学校時代は再び桐生へ戻り、その後大阪へ移る。大阪府女子専門学校(後の大阪女子大学 → 現・大阪府立大学)国文科卒業。学生時代の1930年2月に大阪放送局にて童話の放送への出演を経験している。最初、学校を卒業した後は国語の教員になろうと思っていた。学校を卒業した後、父の転勤により東京へ移り住む。長姉が嫁いだ後に、当人については「良い働き口があれば、働きに出したい」と方針が変わり、1932年に東京中央放送局がアナウンサーを募集した際、親がたまたまラジオを聴いていてそのアナウンサー募集を知り、アナウンサー受験を勧めて叔母の家へ手伝いに行っていた先の桐生から東京へ戻る。
森 喜作(もり きさく、1908年〈明治41年〉10月4日 … 森 喜作(もり きさく、1908年〈明治41年〉10月4日 - 1977年〈昭和52年〉10月23日)は、群馬県桐生市出身の農学者(農学博士)。森式純粋培養菌種駒製造法の発明者で、現在の原木シイタケ栽培技術を確立した。森産業株式会社創業者。歴史学者の羽仁五郎は叔父。 1908年(明治41年)、群馬県桐生市の素封家・森家の次男として生まれる。桐生中学校、宇都宮高等農林学校を経て1935年(昭和10年)京都帝国大学農学部を卒業。 大学在学中に大分県を訪れた際、シイタケの発茸を祈る農夫の姿を見てシイタケ栽培の研究を決意(後述)、大学卒業の翌年に森食用菌蕈研究所を設立して研究を開始した。1942年(昭和17年)森式純粋培養菌種駒製造法を開発し、翌1943年(昭和18年)に特許を取得した。
細谷 喜一(ほそや きいち、1904年〈明治37年〉4月23… 細谷 喜一(ほそや きいち、1904年〈明治37年〉4月23日 - 1980年〈昭和55年〉11月3日)は、日本の内務官僚。内閣官房副長官。 群馬県山田郡桐生町横山(現・桐生市横山町)出身。細谷信次郎の長男として生まれる。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、第一高等学校を卒業。1931年10月、高等試験行政科試験に合格。1932年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、内務省に入省し警視庁警部補となる。 以後、警視庁警務課教養係長、大塚警察署長、渋谷警察署長、地方警視・静岡県警察部刑事課長、岡山県警察部特別高等警察課長、興亜院事務官・政務部第三課勤務、警視庁警視・労働課長、兼警視庁事務官・調停官、地方警視・京都府警察部特別高等警察課長、千葉県官房長、四国地方総監府副参事官、香川県部長・警察部長などを歴任。
塩谷 太郎(しおや たろう、旧字体: 鹽谷 太郞、1903年… 塩谷 太郎(しおや たろう、旧字体: 鹽谷 太郞、1903年〈明治36年〉11月8日 - 1996年〈平成8年〉)は、日本の翻訳家、児童文学者。本名・相馬 一正(そうま かずまさ)。 群馬県桐生市生まれ。群馬県立桐生中学校出身。東京外国語学校(現・東京外国語大学)ドイツ語科を卒業。商社勤務を経て翻訳家になる。ドイツ語圏、英語圏の児童文学・ノンフィクションなどを日本語に翻訳した。最初の訳書はおそらく1941年のテオドル・シュトルム『少女ローレ』(改造社)。(ヴィツキー・バウムの長篇 Das große Enimaleins を訳出したが、出版に至っていない。)1962年、『ハウフ童話全集』でサンケイ児童出版文学賞を受賞。
羽仁 五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月… 羽仁 五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員。日本学術会議議員。
境野 清雄(さかいの きよお、1900年〈明治33年〉1月9… 境野 清雄(さかいの きよお、1900年〈明治33年〉1月9日 - 1968年〈昭和43年〉7月2日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 群馬県山田郡桐生町(現・桐生市)で、境野源八郎の二男として生まれる。群馬県立太田中学校(現群馬県立太田高等学校)を経て、早稲田大学商学部を卒業した。 家業の輸出織物商を営む。桐生絹人絹織物配給常務取締役、群馬織物代表取締役、桐生布帛製品代表取締役、群馬県輸出織物社長、三山物産社長、桐生商工会議所会頭、群馬県地方労働委員会委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で群馬県地方区から民主党公認で出馬して落選。竹腰徳蔵の公職追放に伴い同年8月に実施された第1回通常選挙・群馬県地方区補欠選挙に出馬して当選し、その後、民主クラブに所属し参議院議員に1期在任した。
松井 豊吉(まつい とよきち、1895年〈明治28年〉2月1… 松井 豊吉(まつい とよきち、1895年〈明治28年〉2月1日 - 1959年〈昭和34年〉1月23日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員(3期)、桐生市会議員。 群馬県桐生市宮本町に松井兵三郎の次男として生まれる。尋常高等小学校卒。1915年(大正4年)徴兵検査に合格し水戸の工兵大隊に入営し、伍長勤務上等兵として満期除隊。その後は一時農業に従事したが、1928年(昭和3年)に土建業を創業。桐生屈指の業者に成長する。 1933年(昭和8年)に桐生市会議員に当選して以来15年在職。1945年(昭和20年)10月に群馬民衆党を結党し党首となった。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に立候補するも落選。
稲村 豊二郎(いなむら とよじろう、1891年〈明治24年〉… 稲村 豊二郎(いなむら とよじろう、1891年〈明治24年〉1月17日 - 1972年〈昭和47年〉1月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 1891年(明治24年)に群馬県桐生市東久方町で生まれた。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第37期卒業。1935年(昭和10年)に関東軍参謀に就任し、1937年(昭和12年)に陸軍兵器本廠附となり、1938年(昭和13年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級。12月10日に第106師団参謀長に転じ、日中戦争に出動。南昌作戦で指揮を執った。 1940年(昭和15年)4月17日に留守第6師団参謀長に就任し、12月2日に陸軍少将に進級。1941年(昭和16年)8月1日に北部軍兵務部長、10月21日に駐蒙軍参謀長と歴任し、1942年(昭和17年)に樺太混成旅団長に着任した。
山崎 匡輔(やまざき きょうすけ、1888年〈明治21年〉2… 山崎 匡輔(やまざき きょうすけ、1888年〈明治21年〉2月9日 - 1963年〈昭和38年〉8月8日)は、日本の官僚、土木工学者、教育行政家。鉄道院技師、東京帝国大学教授、日本学術振興会理事長、文部次官、東京都教育委員長、日本放送協会常務理事、東海大学第2代学長、成城大学学長。工学博士。土木学会名誉会員。第12回(昭和35年度)NHK放送文化賞受賞。 群馬県桐生市に、吾妻郡長をつとめた山崎金四郎の長男として生まれる。旧制前橋中学校、旧制第一高等学校理科を経て、1915年東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。鉄道院技師をつとめたのち、1920年東京帝国大学助教授を経て1939年同教授となる。 1945年文部省科学教育局長となり、1946年文部次官に就任。
白梅 文治郎(しらうめ ぶんじろう、1884年10月25日 … 白梅 文治郎(しらうめ ぶんじろう、1884年10月25日 - 1936年1月31日)は、群馬県山田郡(現在の桐生市)出身で峰崎部屋(入門時は白玉部屋)に所属した大相撲力士。最高位は西張出前頭18枚目。現役時代の体格は身長164cm、体重86kg。得意手は右四つ、投げ。 7代白玉(最高位:幕下二段目、現役名:淀川)の弟子となり、初め小枩谷の四股名で取り進んだ。序二段の1903年1月場所で白梅と改名。1907年5月場所で新十両となったが、病気がちで幕下に陥落した場所もあったものの、1912年1月場所で5勝2敗1分2休の成績を挙げると、翌5月場所に入幕して幕尻格(前頭18枚目格)の張出前頭となるが、2勝8敗と大負けして1場所限りで十両陥落。
青木 精一(あおき せいいち、1883年(明治16年)4月1… 青木 精一(あおき せいいち、1883年(明治16年)4月19日 - 1945年(昭和20年)4月14日)は、日本のジャーナリスト・政治家で立憲政友会→昭和会→立憲政友会革新同盟所属の衆議院議員。 群馬県南勢多郡板橋村(新里村を経て現桐生市)出身。正教神学校を卒業。日露戦争に召集され従軍。日本電報通信社記者となり、シベリア出兵の際には浦塩派遣軍司令部附従軍記者を務めた。その他、大阪新報社東京支局長、中央新聞社政治部長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、当選回数は7回を数えた。政友会に所属し、1927年(昭和2年)には、議会乱闘事件に関与したとして傷害の容疑で起訴。
林 幸平(はやし こうへい、1880年(明治13年)4月 -… 林 幸平(はやし こうへい、1880年(明治13年)4月 - 1934年(昭和9年)10月26日)は、明治時代から昭和時代前期の実業家。三越の取締役を務めた。 群馬県桐生市で林伊太郎の次男として生まれる。12歳で、当時の越後屋呉服店(後の三越)に入社。室内装飾研究のため、イギリスやアメリカに留学した。帰国後、三越加工部主任兼営業部長として和洋折衷の室内装飾を手がけた。またパリの日本大使館の室内装飾なども手がけている。経理部長、参事を経て常務となり、二幸商会の監査役を兼任した。享年55歳。戒名は清徳院誉彰顕達道居士。墓所は多磨霊園13区1種5側。
園田 真次郎(そのだ しんじろう、1876年 - 1961年… 園田 真次郎(そのだ しんじろう、1876年 - 1961年)は、日本の占い師、作家。日本の気学の祖と言われた。易者名は荻野地角(おぎの ちかく)。 明治9年(1876年)、現在の群馬県桐生市に生まれる。大正13年(1924年)に、日本で流行っていた九星方鑑学(江戸時代の松浦琴鶴の系統の九星を用いる方鑑学の流派)をベースに九星術を気学(九星気学)として簡略化してまとめ、これ以降日本で気学は一般に広まっていった。昭和36年(1961年)死去。
森 邦武(もり くにたけ、慶応4年1月18日〈1868年2月… 森 邦武(もり くにたけ、慶応4年1月18日〈1868年2月11日〉 - 1924年〈大正13年〉1月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。前名は平吉。 上野国山田郡桐生本町(現・群馬県桐生市本町)に、町会議員を務めた森卯平の子として生まれる。先代の長次郞の養子となり、1878年(明治11年)12月、家督を相続する。桐生学校、群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶ。 1890年(明治23年)陸軍士官学校第1期卒業、 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科21番/103名で卒業している。翌年、陸軍歩兵少尉に任官する。1894年(明治27年)中尉となり日清戦争に従軍。
飯塚 春太郎(いいづか はるたろう、1865年2月6日(慶応… 飯塚 春太郎(いいづか はるたろう、1865年2月6日(慶応元年1月11日)- 1938年(昭和13年)1月8日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 上野国山田郡、のちの群馬県山田郡広沢村(現桐生市広沢町)で、賀茂神社祠官・飯塚二葉の長男として生まれる。群馬県中学校(現群馬県立前橋高等学校)を卒業し、1882年(明治15年)家督を相続。1890年(明治23年)東京法学院(現中央大学)英語法科を卒業した。 広巾輸出絹織物製造業を営む。桐生織物同業組合長、渡良瀬水電取締役、日本絹撚取締役、両毛整織社長などを務め、桐生の織物業の近代化に貢献した。 政界では、1893年(明治26年)群馬県会議員に選出され2期在任した。
新井 毫(あらい ごう、安政5年11月10日〈1858年12… 新井 毫(あらい ごう、安政5年11月10日〈1858年12月14日〉 - 1902年〈明治35年〉11月24日/25日?)は、明治時代の民権運動家・政治家。衆議院議員(3期)、勢多郡会議員、黒保根村議会議員。国民協会所属。 安政5年(1858年)、上野国勢多郡下田沢村字鹿角(群馬県勢多郡黒保根村を経て現・桐生市黒保根町下田沢)に、新井乙瓢(佐吉)の第四子として生まれる。初名は筆吉。 明治5年(1872年)横浜に出て英語を川村敬三とドクトル・ブラオンに学ぶ。さらに慶應義塾や共慣義塾で勉学に励む。卒業後の1876年(明治9年)、「英学校静知社」を創立し校長となる。東京で雑誌『與論新誌』や『東京政談』を発刊し、「東京政談演説会」を主宰。
新井 領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日(1… 新井 領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日(1855年8月31日) - 昭和14年(1939年)4月10日)は、日本の実業家、日米生糸貿易の創始者。旧姓名は星野良助。星野長太郎の実弟、孫娘の夫に駐日米国大使のエドウィン・O・ライシャワー。 上野国勢多郡(現群馬県桐生市)の農民であったが、明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目した兄星野長太郎と連携し、日本製生糸の市場開拓のためニューヨークに渡った。直ちに顧客獲得に取り組み、日本初の生糸直輸出を実現した。有力絹織物業者などとの取引を通して生糸輸出量の飛躍的拡大を図った。絶えず高い品質維持を目指し品質向上にも努め、市場からの高い評価と信頼を勝ち取った。
竹内 鼎三(たけうち ていぞう、嘉永5年5月28日〈1852… 竹内 鼎三(たけうち ていぞう、嘉永5年5月28日〈1852年7月15日〉 - 1900年〈明治33年〉7月26日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、群馬県会議員。幼名・伴吉。 上野国勢多郡新川村(群馬県勢多郡新川村、南勢多郡新川村、新里村、勢多郡新里村を経て現桐生市新里町新川)で、竹内小吉郎、なか の二男として生れ、1877年(明治10年)叔父・竹内文五郎が病死したため、その死籍を継承し鼎三と改名した。学問を好み、村塾で儒学を修め、渡辺真楫から治水造林を学んだ。 15歳で父に代わって公務に就き、小学校教員、同教頭を務めた。学務委員、村吏となり、1880年(明治13年)7月、群馬県会議員に選出され、1891年(明治24年)まで在任し、この間、常置委員、第4代副議長も務めた。
星野 長太郎(ほしの ちょうたろう、弘化2年2月3日(184… 星野 長太郎(ほしの ちょうたろう、弘化2年2月3日(1845年3月10日) - 明治41年(1908年)11月27日)は、日本の実業家・政治家。衆議院議員当選1回(当初は甲辰倶楽部で、後の大同倶楽部に所属)。農民出身であったが外国人居留地外商を介さず日本人による初の生糸直輸出を実現した。産業組合結成などにも取り組み、明治期における日本製生糸の品質向上と輸出の飛躍的拡大の先駆者となった。 上野国(現群馬県)勢多郡水沼村(後の黒保根村、現桐生市黒保根町)の農民であったが、明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目して、群馬県初の日本人の手による民間洋式器械製糸所を開設。実弟をニューヨークへ派遣し、市場開拓・販路を確保するなどして日本人による初の生糸直(じか)輸出を実現した。
新居 日薩(あらい にっさつ、天保元年12月26日〈1831… 新居 日薩(あらい にっさつ、天保元年12月26日〈1831年2月8日〉 - 1888年〈明治21年〉8月29日)は、日蓮宗の僧。日蓮宗の初代管長。久遠寺73世。 上野国山田郡桐生(現在の群馬県桐生市)の織物問屋の6男として生まれた。字は文嘉。号は文明院と容月。また祖父の新居善右ヱ門は、寂光院の前進である寂光庵を建立した人物である。1839年(天保10年)に出家し、その後、加賀国金沢(現在の石川県)にある充洽園に入って日輝から開明的な宗学を学んだ。 明治以降は東京に移り住み、東京・二本榎(現在の港区高輪)の日蓮宗宗教院を拠点に宗門子弟の育成に当たった。また1874年(明治7年)には日蓮宗の初代管長に就任した。
黒川 真頼(くろかわ まより、文政12年11月12日〈182… 黒川 真頼(くろかわ まより、文政12年11月12日〈1829年12月7日〉 - 明治39年〈1906年〉8月29日)は、江戸時代・明治時代の国学者、宮内省御歌所寄人、東京帝国大学教授。 日本の古来からの歴史、制度、有職故実、風俗、律令、格式、法制史、日本文学、音韻学、美術、工芸など幅広く研究し、考証学的な知を近代に継承して、再編成した明治の碩学である。大学校、元老院、東京帝国大学で研究した著書・論文は数多く、日本文化の集成者と言われた。 本姓は金子、幼名は嘉吉、名は寛長、号は荻斎。上野国桐生新町(現在の群馬県桐生市)にて代々機業を営む父・金子吉右衛門治則と母・るゐの子として生まれる。生まれつき右目が不自由だったが、幼少時から家の土蔵の中で本を読みあさった。