佐伯 有清 (さえき ありきよ、1925年(大正14年)3月… 佐伯 有清 (さえき ありきよ、1925年(大正14年)3月2日 - 2005年(平成17年)7月19日)は、日本の歴史学者。 1925年、東京市赤坂区で生まれた。法政大学第二高校を卒業し、名古屋大学文学部国史学科に進学。1952年に卒業し、1957年に東京大学大学院国史学専攻を修了。 1952年より母校の法政大学第二高校に勤務。後に同校校長となった。1962年、学位論文『新撰姓氏録の基礎的研究』を名古屋大学に提出し、文学博士号を取得。1971年、北海道大学教授に就いた。1983年、成城大学教授に転じた。1995年に成城大学を退任。 専門は日本史で、日本古代史。その研究内容は大きく下記の3つに分けられる。
中村 善也(なかむら ぜんや、1925年3月2日 - 198… 中村 善也(なかむら ぜんや、1925年3月2日 - 1985年4月5日)は、日本の西洋古典学者。 1925年、福井県で生まれた。京都大学文学部で学び、1949年に卒業。 卒業後は西京大学で教鞭を執った。1959年に西京大学は京都府立大学となったため、以降京都府立大学助教授。後に教授昇進。1985年、在職中に死去した。 専門は西洋古典学。ギリシア関係ではホメロスの叙事詩、ローマ関係ではキケロの『法律論』など多数の作品を翻訳した。
伊吹 新一(いぶき しんいち、1925年3月2日 - 201… 伊吹 新一(いぶき しんいち、1925年3月2日 - 2012年7月26日)は、京都府京都市生まれの指揮者・音楽監督・音楽教育者。 オーケストラ・合唱・吹奏楽を指揮することが多い中で、ハイドンのミサ曲の演奏に力を入れた。アメリカ、ハワイ、中国、カナダ、オーストリア、ウィーン、ドイツなど海外公演もこなし、国際的な活躍もみせた。 京都府京都市西本願寺前の念珠屋「伊吹新八商店」八代目として生まれる。立命館大学専門部法政科卒業後、同大学法学部へ進学。在学中に立命館大学メンネルコール、立命館大学混声合唱団メディックス、立命館大学交響楽団を創部。京都市役所渉外課に依頼され、マシュー・リッジウェイ第8軍司令長官宅でクリスマス・キャロルを演奏する。
青村 真明(あおむら しんめい、1924年3月2日 - 19… 青村 真明(あおむら しんめい、1924年3月2日 - 1953年5月13日)は、日本の歴史学者。専攻は近代日本思想史。 東京生まれ。甲子郎と名付けられる。1937年に父親の奨めにより僧籍に入り、真明と改名する。旧制麻布中学校卒業後、1941年に第三高等学校文科甲類に入学し、1943年に卒業。1943年10月に東京帝国大学文学部国史学科に入学するも、1944年8月から1945年4月まで土浦海軍航空隊入隊、ついで同年6月まで横須賀海軍通信学校を経て、松山海軍基地で終戦を迎える。同年10月に復学し、国史研究室の民主改革に努め「青村時代」と称された。卒業論文「所謂『明治四十年代』の一考察」をまとめ、1948年9月卒業。
植田 辰洋(うえだ たつひろ、1924年3月2日 - 201… 植田 辰洋(うえだ たつひろ、1924年3月2日 - 2014年4月18日)は機械工学者。東大名誉教授。元日本伝熱学会会長。 岡山県生まれ。1947年東京帝国大学第一工学部機械工学科を卒業。1949年東京大学第一工学部機械工学科大学院修了、東京大学講師。1960年東京大学教授。1983年伝熱学会長。1984年定年退官、工学院大学工学部機械工学科教授。科学技術功労賞、通産大臣表彰など受賞。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
大埜 正雄(おおの まさお、1923年3月2日 - 2001… 大埜 正雄(おおの まさお、1923年3月2日 - 2001年2月11日)は、神奈川県出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW、HB。 神奈川県立湘南中学時代の1939年に全国中等学校蹴球選手権大会(全国高等学校サッカー選手権大会の前身)でベスト4に進出。1940年に湘南中学を卒業し、旧制水戸高等学校に進学。東京帝国大学経済学部へ進学しア式蹴球部に所属。東大LB(現役、OBで構成される混成チーム)の一員として有馬洪らと共に1949年の全日本選手権の優勝に貢献した。 大学卒業後は日産化学工業に入社した(勤務先でサッカー部活動を行ったかは不明)。 1955年に松永碩、岩淵功らと共に東京クラブに加入。
森政 逸郎(もりまさ いつろう、1923年(大正12年)3月… 森政 逸郎(もりまさ いつろう、1923年(大正12年)3月2日 - 1992年(平成4年)6月8日)は、実業家である。元日清製粉(現:日清製粉グループ)取締役。広島県出身。 1923年(大正11年)、広島県に生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、同期には、日本原子力研究所副理事長となる天野昇、新見市長となる福田正彦、丸善石油副参与・北海道の丸善石油関連社長となる古米初男、大学教授となる田井庄之助がいた。1940年(昭和15年)3月に同校卒業した。 その後、同年に旧制松山高等学校文科乙類へ進学する。1943年(昭和18年)に同校を卒業を経て、京都帝国大学法学部へ進学。1946年(昭和21年)3月に京都帝国大学法学部を卒業する。
西内 文夫(にしうち ふみお、旧姓・平井、1922年3月2日… 西内 文夫(にしうち ふみお、旧姓・平井、1922年3月2日 - 2001年8月23日)は、日本の陸上競技選手。 香川県丸亀市広島町出身。丸亀商業学校(現:丸亀城西高校)、中央大学卒。 1951年、インドのニューデリーで開催された第1回アジア競技大会十種競技で金メダルを獲得(記録:6324点)。1954年、フィリピンのマニラで開催された第2回アジア競技大会では銀メダルを獲得した(記録:5429点)。 日本陸上競技選手権大会では1950年から1953年まで四連覇を達成。 その後、母校の中央大学陸上競技部監督に就任し、東京箱根間往復大学駅伝競走で8回優勝した。 2001年8月23日、急性心不全のため死去。
小尾俊人(おび としと、1922年3月2日 - 2011年8… 小尾俊人(おび としと、1922年3月2日 - 2011年8月15日)は、日本の書籍・出版編集者。 長野県茅野市出身。羽田武嗣郎の出版社「羽田書店」の社員だったが、1945年に独立、山崎六郎、清水文男らとみすず書房を創業、編集長として「現代史資料」「荻生徂徠全集」などを編さん。1990年定年退職。
天野 公義(あまの きみよし、1921年3月2日 – 199… 天野 公義(あまの きみよし、1921年3月2日 – 1990年7月29日)は、日本の政治家。自治大臣(第24代)、国家公安委員会委員長(第33代)、北海道開発庁長官(第38代)、衆議院議員(11期)。戦前に東京府会議員を務めた天野頼義は父。 東京府北豊島郡日暮里町(現在の東京都荒川区)生まれ。旧制府立高校を経て、東京帝国大学文学部に入学。在学中はア式蹴球部(サッカー部)に入部。1941年には同部の主将を務めて、関東大学リーグで優勝も経験した。また、倫理学科では和辻哲郎の門下生であった。 卒業後に同盟通信社の記者となったが、戦後の1946年・1947年と総選挙に立候補して共に落選。吉田茂の首相秘書官の傍ら、東京大学法学部に在籍した。
辻野 知宜(つじの ともよし、1921年3月2日 - 200… 辻野 知宜(つじの ともよし、1921年3月2日 - 2000年4月17日)は、日本の経営者。同和火災海上保険社長、会長を務めた。広島県出身。 1943年に東京商科大学を卒業し、1949年8月に同和火災海上保険に入社。1973年6月に取締役に就任し、1977年7月に常務を経て、1979年3月に社長に就任。1985年7月荒1986年6月までに会長を務めた。 2000年4月17日呼吸不全のために死去。79歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
三隅 研次(みすみ けんじ、1921年(大正10年)3月2日… 三隅 研次(みすみ けんじ、1921年(大正10年)3月2日 - 1975年(昭和50年)9月24日)は、日本の映画監督。代表作は勝新太郎を主演に起用した「座頭市」シリーズや市川雷蔵主演の「剣」三部作(『斬る』『剣』『剣鬼』)に「眠狂四郎」シリーズ、若山富三郎を主役に据えた映画版『子連れ狼』シリーズなど。 神戸の海運業者の父親と、京都の芸妓の母親との間に、妾腹の子として京都市に生まれる。神戸市出生との説もあり、成人するまで母親に一度も会うことなく育った。旧制中学校卒業後、旧制高等学校には進学せず、立命館大学の専門部商学部を卒業。その後、日活京都撮影所に助監督として入社。1942年(昭和17年)に召集され、満州へ配属される。
角本 良平(かくもと りょうへい、1920年3月2日 - 2… 角本 良平(かくもと りょうへい、1920年3月2日 - 2016年2月7日)は、交通評論家。日本国有鉄道OB。経済学博士。 石川県金沢市出身。旧制第四高等学校、東京帝国大学法学部卒業。1941年鉄道省入省。東京、四国、門司などの鉄道管理局に勤務し、運輸省の官僚として1958年東海道新幹線の建設計画に参加。都市交通課長、国鉄新幹線総局営業部長、1966年国鉄監査委員、1970年運輸経済研究センター理事、のち理事長などを歴任。早稲田大学客員教授等も務めた。 国鉄分割民営化の際には、電力会社を参考に地域分割が必要であると主張した。 2016年2月7日、間質性肺炎のため死去。95歳没。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
秋元 雅一朗(あきもと まさいちろう、1920年(大正9年)… 秋元 雅一朗(あきもと まさいちろう、1920年(大正9年)3月2日 - 1990年(平成2年)2月7日)は、日本の声楽家(バリトン、バス)・オペラ歌手・音楽教育者・翻訳家(訳詞家)。二期会の創設メンバーの一人。本名は秋元清一(あきもと せいいち)。旧字体秋元淸一。 作曲家の関口孝明は孫にあたる。 東京府(現: 東京都)出身。1945年(昭和20年)東京音楽学校(現: 東京藝術大学音楽学部)研究科修了。本科では戸田敏子、畑中良輔らと同級。木下保に師事。 第二次大戦後まもなくの1946年(昭和21年)4月に藤原歌劇團 ビゼー『カルメン』エスカミリオでデビュー。その後オペラへの出演を続け、20年足らずの間に約90本ものプロダクションに出演している。
伊東 博(いとう ひろし、1919年〈大正8年〉3月2日 -… 伊東 博(いとう ひろし、1919年〈大正8年〉3月2日 - 2000年〈平成12年〉8月19日)は、日本の心理学者。位階は従四位。勲三等瑞宝章。 秋田県生まれ。東京文理科大学卒、ミズーリ大学大学院に学び、横浜国立大学教育学部助教授、教授、1983年定年退官。1984年、東京国際大学教養学部教授、1994年、退職。カール・ロジャーズの著作を多く翻訳した。 2000年8月19日、呼吸不全のため死去。死没日付をもって従四位に叙され、勲三等瑞宝章を追贈された。
美川 陽一郎(みかわ よういちろう、1918年3月2日 - … 美川 陽一郎(みかわ よういちろう、1918年3月2日 - 1976年6月2日)は、日本の俳優である。本名は三川 義一(みかわ よしかず)、旧芸名は美川 洋一郎。東京市生まれ。 世田谷中学(私立)を卒業後、義母との折り合いが悪く家出、17歳の時に榎本健一の付き人となったのが芸能界入りのきっかけである。1937年、19歳の時に新国劇に入団、当初から老け役を得意とし、『白野弁十郎』、『大菩薩峠』などに出演した。 終戦後の1952年、映画『次郎長三国志』(東宝、マキノ雅弘監督)の次郎長役に抜擢され、新国劇を退団するが、東宝の創業者・小林一三の意向で、次郎長役は小堀明男に決定したため、美川は端役に回された。
生江 義男(なまえ よしお、1917年(大正6年)3月2日 … 生江 義男(なまえ よしお、1917年(大正6年)3月2日 - 1991年(平成3年)4月28日)は、日本の教育者、専門は比較文化論。元学校法人桐朋学園理事長。 宮城県石巻市生まれ。石巻市立石巻中学校、東京高等師範学校卒、1941年(昭和16年)病のため東京文理科大学史学科を中退(のち53年卒業)。 1941年石巻市立石巻中学校教諭となるが、43年応召で中国に渡る。復員後、48年から桐朋学園に勤務。桐朋女子部教務・事務主任のときの51年、音楽科を併設して小沢征爾らの人材を輩出させた。60年から桐朋幼稚園・桐朋小学校・桐朋女子中学校・高等学校の専任校長となり、通信簿廃止・入学時の筆記試験廃止など個性重視の教育を実践し、62年桐朋学園大学教授兼務、86年から桐朋学園理事長を務めた。
大島 康正(おおしま やすまさ、1917年3月2日 - 19… 大島 康正(おおしま やすまさ、1917年3月2日 - 1989年12月20日)は、日本の倫理学者・評論家。筑波大学名誉教授。 1940年京都帝国大学文学部哲学科卒、助手となり京都学派の一員となる。戦後東京教育大学助教授、教授を経て筑波大学名誉教授、京都産業大学世界問題研究所長を務めた。日本ユネスコ国内委員会調査委員や中央教育審議会委員などを歴任。日本倫理学会常任評議員。 三島由紀夫は大島康正について、「きき捨てならぬのは、この大島氏が、高校社会科の指導要領の改定にあづかつて、教育基本法第九条の『公立学校では特定の宗教のための宗教教育をしてはならない』といふ条文から、文部省のしやくし定規に味方して、日本の親鸞も道元も、すつかり追ひ出してしまつて、何ら反省の色も見えぬことである。
高梨 公之(たかなし まさゆき、1915年(大正4年)3月2… 高梨 公之(たかなし まさゆき、1915年(大正4年)3月2日 - 2005年(平成17年)1月14日)は、日本の法学者。日本大学名誉総長。学位は、法学博士(日本大学・論文博士・1962年)。弁護士。紫綬褒章、従三位勲一等瑞宝章。栃木県出身。 民法・家族法・婚姻法関係の数多くの著名な研究で知られている。監修した『口語民法』はロングセラーとなった。日大紛争の時代に、当時日大大学院生だった小沢一郎に、司法試験(弁護士教育)と論文指導をした。2005年1月14日(平成17年)に肺癌のため逝去。享年89。
松永 亀三郎(まつなが かめさぶろう、1915年3月2日 -… 松永 亀三郎(まつなが かめさぶろう、1915年3月2日 - 1997年9月29日)は、日本の実業家。中部電力社長や、同社会長、中部経済連合会会長、中部航空調査会理事長、涼仙ゴルフ倶楽部理事長等を務めた。 長崎県壱岐島出身。松永安左エ門の甥。1936年関西学院高等商業学校(現関西学院大学)卒業、合同電気入社。1985年から中部電力社長を務めた。1989年涼仙ゴルフ倶楽部理事長。1991年同社会長及び中部経済連合会会長に就任。中部航空調査会理事長も務め、中部国際空港計画などにあたった。 墓所は川崎市春秋苑。
名和 青朗(なわ せいろう、1915年3月2日 - 1979… 名和 青朗(なわ せいろう、1915年3月2日 - 1979年1月4日)は、日本の放送作家、劇作家。本名は津久井柾章(つくい まさあき)。また、名和左膳の筆名もある。 東京出身。1938年日本大学芸術科卒業。1946年ひまわり社に入社し、雑誌『それいゆ』の編集者を務めた後、1950年より牧野英二が創刊した『別冊モダン日本』の編集者となる。他の編集者には吉行淳之介がいた。翌年13号まで発刊したのち、牧野が出資者と対立して廃刊となる。その後、石坂幸男によって設立された三世社で、牧野・吉行・名和の三人を中心として1952年2月から月刊誌「読切倶楽部」を創刊する。この「読切倶楽部」では名和左膳の筆名で主に漫才を執筆している。
小田村 寅二郎(おだむら とらじろう、大正3年〈1914年〉… 小田村 寅二郎(おだむら とらじろう、大正3年〈1914年〉3月2日 - 平成11年〈1999年〉6月4日)は、日本の保守派の学者。亜細亜大学教授。日本学生協会理事、精神科学研究所創立者、国民文化研究会理事長。戦前の帝大での学風刷新運動の中心人物で、右派の立場から体制批判、自由主義・社会主義批判、反戦運動を展開し、小田村事件により東京帝国大学法学部退学処分となった。 東京府東京市四谷区に小田村有芳の次男として生まれる。大正9年(1920年)4月、学習院初等科入学。大正15年(1926年)4月、学習院中等科入学。同年9月、東京府立第一中学校編入。中学卒業の頃に肋膜炎に罹患し、療養生活に入る。昭和8年(1933年)4月、第一高等学校文科丙類(仏語専攻)入学。
新福 尚武(しんふく なおたけ、1914年3月2日 - 20… 新福 尚武(しんふく なおたけ、1914年3月2日 - 2012年3月12日)は、日本の医学者・精神科医。東京慈恵会医科大学名誉教授。長男は医学者で神戸大学名誉教授の新福尚隆。 鹿児島県鹿児島市生まれ。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1937年九州帝国大学医学部卒業、下田光造に師事。1947年「ショック療法の精神病理学的研究」で九州帝国大学より医学博士の学位を取得。 台北帝国大学医学部精神科助手、陸軍軍医(高雄)、鳥取大学医学部助教授などを経て、1952年同教授。1966年東京慈恵会医科大学教授、1979年定年退職、名誉教授。アルコール医学会長、交通科学会長、心身医学会長、国際老年精神医学会名誉会長など。
姜 昌瑢(カン・チャンヨン、朝鮮語: 강창용、1914年3月… 姜 昌瑢(カン・チャンヨン、朝鮮語: 강창용、1914年3月2日 - 2000年9月25日)は、大韓民国の実業家、政治家。第2代韓国国会議員。本貫は晋州姜氏。 姜 昌鎔、姜 昌溶(それぞれ読み、ハングルともに同じ)とも表記される。 済州島北済州郡涯月面(現・済州市)出身。漢城商業学校卒業後は専売庁に就職した。咸鏡北道の出先支所に赴任したが、両親の懇願により2年ほどで済州島に帰郷した。1935年に涯月面書記に就任し、2年後に内地に留学に行った。1941年に法政大学政治経済科を卒業し、金融組合連合会理事見習試験に受験して合格した。慶尚北道・慶尚南道の金融組合で1950年ごろまでに朝鮮金融組合に10年勤務し、専務理事などを務めた。
三条 実春(三條 實春、さんじょう さねはる、1913年〈大… 三条 実春(三條 實春、さんじょう さねはる、1913年〈大正2年〉3月2日 - 1990年〈平成2年〉6月30日)は、日本の神職、華族。貴族院公爵議員。 父三条公輝、母多栄子(毛利元敏女)の長男として生まれる。1938年、東京帝国大学文学部を卒業。 1938年、厚生省体力局企画課嘱託となる。以後、厚生省人口局管理課嘱託、同研究所人口民族部嘱託を務め、この間、応召を受け陸軍中尉となった。父の死去に伴い1945年12月15日、公爵を襲爵して貴族院公爵議員に就任し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 戦後、春日大社宮司、平安神宮宮司を務めた。 実行 - 公教 - 実房 - 公房 - 実親 - 公親 - 実重 - 公茂 - 実忠 - 公忠 - 実冬 - 公冬 - 実量 - 公敦 - 実香 - 公頼 - 実教 - 実綱 - 公広 - 実秀 - 公富 - 実治 - 公兼 - 公充 - 実顕 - 季晴 - 実起 - 公修 - 実万 - 公睦 - 実美 - 公美 - 実憲 - 公輝 - 実春 - 公隆 - 実久
福與 正治(ふくよ まさはる、1913年3月2日 - 199… 福與 正治(ふくよ まさはる、1913年3月2日 - 1995年9月3日)は日本の英文学者。成蹊大学名誉教授。長野県下伊那郡上久堅村(現・飯田市)出身。 編著に『英文法辞典』(培風社)、訳書に『天路歴程 研究社新訳注双書』(研究社)などがある。
山中 宏(やまなか ひろし、1913年3月2日- 2008年… 山中 宏(やまなか ひろし、1913年3月2日- 2008年1月31日 )は、日本の経営者、商学博士。明治生命保険社長、会長を務めた。 東京都出身。1934年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に明治生命保険に入社した。1955年に欧米を視察し、1957年に財務部長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1972年4月に副社長に就任し、1974年4月には社長に昇格した。1982年4月に会長に就任し、1990年4月に取締役相談役に就任し、1998年4月から名誉相談役を務めた。 1950年から1958年までに成城大学で講師を務め、1959年から1969年までに東京大学で経済学講師を務めた。 1976年10月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲二等旭日重光章を受章した。
李 鎬雨(イ・ホウ、이호우、1912年3月2日 - 1970… 李 鎬雨(イ・ホウ、이호우、1912年3月2日 - 1970年)は、韓国の時調の詩人、ジャーナリスト。本貫は慶州李氏、本名はイ・ホ(이호)。慶尚北道の清道郡出身。妹は詩人の李永道。 解放後は詩人として活動しながら、大邱日報、大邱毎日新聞の編集局長・論説委員などを務めた。
池田 勝(いけだ まさる、1911年3月2日 - 没年不明)… 池田 勝(いけだ まさる、1911年3月2日 - 没年不明)は日本の教育者。 熊本県荒尾市に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1928年卒業)を経て、京城帝国大学法文学部を卒業した。 卒業後は朝鮮・全州師範学校教諭となる。戦後は母校である玉名高等学校の教諭を務めた後、熊本県教育委員会指導委員となる。その後教職に復帰し、熊本県立荒尾高等学校(1956年着任)・熊本県立宇土高等学校(1960年着任)・熊本県立第一高等学校・熊本県立鹿本高等学校で校長を歴任した。荒尾高等学校長就任は、生徒のストーム事件の事後処理がその理由だった。熊本県教育委員会では指導室長も務めている。
渡邊 浦人(わたなべ うらと、1909年〈明治42年〉3月2… 渡邊 浦人(わたなべ うらと、1909年〈明治42年〉3月2日 - 1994年〈平成6年〉10月18日)は、日本のクラシック音楽の作曲家。
高木 和男(たかぎ かずお、1909年3月2日 - 2004… 高木 和男(たかぎ かずお、1909年3月2日 - 2004年5月26日)は、日本の労働栄養学者。 東京府東京市深川区(現東京都江東区)木場出身。旧制湘南中学(現神奈川県立湘南高等学校)卒、横浜高等工業学校応用化学科(現横浜国立大学)卒、1953年新潟大学医学博士。管理栄養士。東京市衛生試験所、労働科学研究所(労働栄養学研究部長)、立正女子大学教授、相模女子大学教授、東京栄養食糧専門学校校長を務めた。民主栄養協会に属し、マルクス主義的な立場から労働者の栄養について研究した。 もともと病弱であった高木は家族の勧めで1918年(大正7年)東京から神奈川県高座郡藤沢町(現・藤沢市)鵠沼海岸にて療養を始めた。
岳野 慶作(たけの けいさく、1909年3月2日 - 199… 岳野 慶作(たけの けいさく、1909年3月2日 - 1992年3月26日)は、日本の神学者。上智大学名誉教授。 長崎県西彼杵郡(現・長崎市)生まれ。1936年東洋大学卒業。1961年パリ大学哲学博士。1953年南山大学仏文科講師、1956年上智大学講師、1961年助教授、1966年上智大学教授に就任、1980年定年により名誉教授となる。また、1979年聖カタリナ女子短期大学教授、1980年学長となった。 1978年フランス学術文化勲章オフィシエ章、1981年勲四等旭日小綬章受章。 1992年3月26日、肝臓癌のため死去。
河上 英一(かわかみ ひでかつ、1909年(明治42年)3月… 河上 英一(かわかみ ひでかつ、1909年(明治42年)3月2日 - 1992年(平成4年)8月12日)は、日本の演劇評論家。 1909年(明治42年)3月2日に東京府京橋で生まれる。1934年(昭和9年)、法政大学法文学部を卒業する。 1937年(昭和12年)に読売新聞に入社し、レビュー担当記者になる。読売新聞娯楽部長を経て、演劇評論家になる。 読売新聞夕刊娯楽面に毎週「月曜ジャーナル」を掲載した。 また、芸術選奨文部科学大臣賞の演劇部門の選考委員を務めた。 1992年(平成4年)8月12日に死去、83歳。
十代目 山村 新治郎(やまむら しんじろう、1908年〈明治… 十代目 山村 新治郎(やまむら しんじろう、1908年〈明治41年〉3月2日 - 1964年〈昭和39年〉10月2日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位。 元衆議院議員。予算委員長、議院運営委員長、自由民主党の国会対策委員長等の要職を歴任し、池田内閣において行政管理庁長官を務めた。他に佐原造船社長、山村産業社長、会長も務めた。 よど号ハイジャック事件で運輸政務次官として乗客の身代わりとなったことで知られる十一代目山村新治郎(旧名直義)の父。 千葉県佐原市(現香取市)出身。先代新治郎の長男。佐原中学卒業。肥料・米穀商を経営。 千葉県議を経て1946年(昭和21年)以来千葉県から衆議院議員当選9回。
高橋 浩之(たかはし ひろゆき、1908年3月2日 - 19… 高橋 浩之(たかはし ひろゆき、1908年3月2日 - 1962年1月23日)は、日本の農林省官僚、農林技官。コシヒカリ生みの親。 広島県高田郡川根村(現在の安芸高田市)出身。旧制三次中学(現在の三次高校)、旧制広島高校卒業。三代続いた医者の息子で、医者になることを望まれたが解剖を嫌い九州大学農学部に進み育種学を専攻。中学時代は落第もしたが大学時代の成績は優秀で、1935年卒業時には九大からただ一人推薦されて農林省農事試験場に採用された。農林技官として関東東山農業試験場(現在の埼玉県鴻巣市)に赴任し小麦の品種改良などを研究。5年後の1940年、新潟県農事試験場に転勤し水稲新品種育成試験地の主任となる。
今村 義孝(いまむら よしたか、1908年3月2日 - 20… 今村 義孝(いまむら よしたか、1908年3月2日 - 2006年10月18日)は、日本史学者。 熊本県飽託郡島崎村(現熊本市西区)生まれ。1930年東京高等師範学校文科卒業。高田師範学校教諭、熊本県立天草中学校(現熊本県立天草高等学校)教諭、秋田師範学校教諭、1949年秋田大学助教授、1952年教授、1973年定年退官、名誉教授。没後正四位。キリスト教徒。天草、秋田のキリシタン史などを研究した。
棚橋 諒(たなばし りょう、1907年3月2日 - 1974… 棚橋 諒(たなばし りょう、1907年3月2日 - 1974年5月5日)は、岐阜県出身の建築学者。 京都帝国大学卒業、神戸高工(現神戸大学)講師、昭和20年京都帝大教授。 1951年に京都大学工学部 石原藤次郎、理学部 小堀憲らとともに京都大学防災研究所を立ち上げ、初代所長を務めた。 日本建築学会第28代会長(1963年 - 1965年)を歴任。
玉置 敬三(たまき けいぞう、1907年3月2日 - 199… 玉置 敬三(たまき けいぞう、1907年3月2日 - 1996年7月8日)は、日本の官僚。通産事務次官を最後に退官後、東京芝浦電気社長・会長。 和歌山県出身。旧制姫路高等学校を経て、1930年、東京帝国大学法学部卒業。同年、商工省入省。 1941年4月、総力戦研究所出向経験を経て、戦後、通商機械局長(のちの機械情報産業局長)、1952年から1953年にかけて通産事務次官を務める。岸信介らの「統制派」の流れを汲み、その他に山本高行、平井富三郎、徳永久次らがいた。朝鮮特需によりジョゼフ・ドッジらによる自由経済から方向転換、統制派が復権、通商産業省による戦後政策のはじまりだった。 事務次官就任までの経緯は、白洲次郎らの「白洲派」・「外交派」または「通商派」に属すると目された入省同期の始関伊平(旧資源庁長官)との争いであった。
赤木 健介(あかぎ けんすけ、1907年3月2日 - 198… 赤木 健介(あかぎ けんすけ、1907年3月2日 - 1989年11月7日)は、日本の詩人、歌人、編集者、歴史家。本名・赤羽 寿(あかばね ひさし)、別名・伊豆 公夫(いず きみお)。 青森市生まれ。九州帝国大学法文学部中退。姫路高等学校時代から『アララギ』に投稿、1928年の三・一五事件以来、左翼運動に挺身。1933年、検挙投獄。1935年、出獄ののち、渡辺順三らの『短歌評論』に参加。1932年、唯物論研究会に属し、日本共産党に入党するが、1938年、一斉検挙にあい、1944年に判決が下って下獄。この間、1940年に「在りし日の東洋詩人たち」で第4回透谷文学賞を受賞した。敗戦後、1945年10月に連合軍により解放される。
中川 喜次郎(なかがわ きじろう、1907年3月2日 - 1… 中川 喜次郎(なかがわ きじろう、1907年3月2日 - 1982年1月15日)は、鹿児島県出身の実業家。 鹿児島県川辺郡西南方村(現・南さつま市)にて、中川伊勢次郎・イトの次男として生まれる。高等小学校卒業後、1936年に海産物商「中川商店」を設立し、南九州の海産物を満州に卸していき、満州に渡って関東軍の御用商人として財を成す。 1940年に「唐津造船所」を創設。また中川商店の海運部を分立する形で、1944年に大連にて中川海運を設立、終戦直前に帰国し1946年に水産業に進出し中川水産を設立。1948年に照国海運を設立、油送船や鉱石専用船を中心に展開し鹿児島から奄美群島への貨客定期航路などを展開、外航分野への進出で中型タンカー会社として成長を遂げ、最盛期には国内業界9位の中堅級の外航海運会社となっていた。
上廣 哲彦(うえひろ てつひこ、本名:上廣 三郎、1906年… 上廣 哲彦(うえひろ てつひこ、本名:上廣 三郎、1906年(明治39年)3月2日 - 1972年(昭和47年)10月6日)は、日本の社会運動家。実践倫理宏正会の創立者。栄典は従四位、勲三等旭日中綬章。 1906年3月、広島県山県郡豊平町(現:北広島町)に生まれる。 広島市で育ち、旧制中学卒業後、鉄工所や日本貯蓄銀行(現在のりそな銀行)などに勤務。1923年頃死線を彷徨う大病をし、その中から人生の目的と使命を悟る。 この後、人生の生き方についての哲学的な考察を深め、ひとのみち教団など様々な団体の遍歴をした。 1943年、三菱工作機械広島製作所(後の三菱重工業広島祇園工場)に入社し、社員教育を行う訓育課勤務していた時の1945年8月6日、アメリカ軍の広島市への原子爆弾投下により、爆心地から1.6キロの国鉄横川駅構内で被爆した。
細川 亀市(ほそかわ かめいち、1905年(明治38年)3月… 細川 亀市(ほそかわ かめいち、1905年(明治38年)3月2日 - 1962年(昭和37年)4月5日)は、日本の法学者、歴史学者、弁護士。元法政大学教授、元専修大学教授。専門は法制史、社会経済史。 香川県三豊郡麻村(現三豊市)に生まれる。1928年3月、法政大学専門部第二部政治経済科卒業。 1933年から法政大学で法制史を講義し、1936年に教授に就任する。1945年、『日本獄制史論』で法政大学から法学博士の学位を授与される。 1947年に公職追放されるが、1951年に解除される。1955年、専修大学教授に就任する。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
翁 孝文(おきな たかふみ、1904年(明治37年)3月2日… 翁 孝文(おきな たかふみ、1904年(明治37年)3月2日 - 1980年(昭和55年)5月9日)は、日本の実業家。倉敷紡績取締役を経て倉敷国際ホテル社長を務めた。広島県神石高原町出身。 広島県神石郡豊松村(現:神石高原町)の社家である翁家に生まれる。1919年(大正8年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、同期に石川達三、金澤覚太郎、日野西義輝がいた。1924年(大正13年)卒業後、名古屋高等商業学校(現:名古屋大学経済学部)へ進学。1927年(昭和2年)同校を23歳で卒業した。 卒業後、同年に倉敷紡績へ入社。総務畑を歩み、1937年(昭和12年)に当時の倉敷紡績の大原孫三郎の社長秘書課長となった。
樺 俊雄(かんば としお、1904年〈明治37年〉3月2日 … 樺 俊雄(かんば としお、1904年〈明治37年〉3月2日 - 1980年〈昭和55年〉12月23日)は、日本の哲学者・社会学者。立正大学教授・中央大学教授・神戸大学教授・東京外国語大学教授・創価大学教授を歴任。 数学教育近代化の先駆的役割を果たした数学者・樺正董の孫。安保闘争で死亡した東京大学の女子学生樺美智子の父でもある。 東京府平民・会社重役樺剛の長男。 1927年京都帝国大学文学部哲学科卒、東京帝国大学大学院入学。1928年、立正大学講師、1933年 立正大学教授。 戦後1947年 中央大学教授。1950年、神戸大学教授、1952年、東京外国語大学教授、1955年、再び中央大学教授。1971年、創価大学教授。
森本 六爾(もりもと ろくじ、1903年〈明治36年〉3月2… 森本 六爾(もりもと ろくじ、1903年〈明治36年〉3月2日 - 1936年〈昭和11年〉1月22日)は、大正時代から昭和初期にかけての日本の考古学者。 奈良県磯城郡織田村大泉(現:桜井市)出身。1920年に旧制奈良県立畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)を卒業する。奈良県磯城郡三輪尋常高等小学校の代用教員となり、香久山尋常高等小学校や生駒郡都跡尋常高等小学校でも代用教員を務めた。[要出典]1924年に上京して東京高等師範学校の校長であった三宅米吉の下で、歴史科に副手として勤務した。同年に東京考古学会を設立した。1929年、三宅の死去に伴い副手を辞任。1935年に夫人を結核で亡くし、翌年に神奈川県鎌倉市極楽寺の仮寓で同じく結核により32年の生涯を閉じた。
久保田 貫一郎 (くぼた かんいちろう、1902年(明治35… 久保田 貫一郎 (くぼた かんいちろう、1902年(明治35年)3月2日 - 1977年(昭和52年)7月14日)は、日本の外交官。外務省参与やカンボジア国最高顧問、駐南ベトナム大使を務めた。 和歌山県出身。進路に海軍兵学校か外交官か悩んだ末に外交官を志し、1924年に東京商科大学(一橋大学の前身)に入学。同校を中退し、外務省入省。 1953年(昭和28年)に日韓会談で日本側首席代表を務めた。その後、在メキシコ特命全権大使を務め、1957年(昭和32年)の帰任時には、メキシコ国内の事情を昭和天皇に進講した。さらに在南ベトナム特命全権大使等を務めた。 妻清子は石井菊次郎(元外務大臣)の子。 日韓基本条約に向けての日韓会談で、韓国併合が結果的にインフラ投資等で韓国の生活水準向上に貢献したと発言し、韓国から「久保田妄言」として反発された。
小林 珍雄(こばやし よしお、1902年3月2日 - 198… 小林 珍雄(こばやし よしお、1902年3月2日 - 1980年4月10日)は、日本の経済学者。上智大学名誉教授。 1902年、神奈川県横浜市で生まれた。1926年に東京帝国大学法学部を卒業。1929年、東京帝大大学院卒業。帰国したばかりの岩下壮一神父が東京帝大で試みていた「カトリック研究会」に出席したことで、岩下神父を知る。同師の影響を受けて、1931年に上智大学内でヨハネス・クラウス神父より洗礼を受けた。1938年より上智大学経済学部教授。1940年の10月8日より、興亜院の要請を受けた岩下神父と共に秘書として華北地方を視察し、同年11月11日に東京に帰還。1954年より上智大学経済学部長を務めた。
岡副 鉄雄(おかぞえ てつお、1901年〈明治34年〉3月2… 岡副 鉄雄(おかぞえ てつお、1901年〈明治34年〉3月2日 - 1985年〈昭和60年〉)は、日本の板前、実業家。金田中、岡半各会長。新橋演舞場、演舞場サービス各社長。 三重県津市出身。片田小学校を卒業する。料理店見習い後、割ぽう鶴屋を開店する。大正時代創業の金田中を、当時の経営者からの願いで譲り受け、1945年に新たに開店する。1959年、新橋演舞場専務に就任。 趣味は書画、ゴルフ、俳句、絵画。住所は東京都中央区銀座7丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
柳 武(やなぎ たけし、1900年3月2日 - 1971年6… 柳 武(やなぎ たけし、1900年3月2日 - 1971年6月6日)は、日本の経営者。日本製鋼所社長を務めた。 栃木県出身。1923年に東京帝国大学工学部冶金学科を卒業し、同年に日本製鋼所に入社。1947年11月に取締役に就任し、1948年10月に常務、1956年5月に専務を経て、1957年11月に副社長に就任し、1959年11月には社長に昇格。1965年11月に相談役に就任。 1971年6月6日、急性肝炎のために死去。71歳没。
丹下 郁太郎(たんげ いくたろう、1899年〈明治32年〉3… 丹下 郁太郎(たんげ いくたろう、1899年〈明治32年〉3月2日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡南道知事、京畿道知事。朝鮮総督府警務局長。建築家の丹下健三は弟(異母)。 丹下辰世の長男として愛媛県越智郡今治町(現今治市)に生まれる。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科に合格。1922年(大正11年)東京帝国大学経済学部を卒業し、旭石油を経て、朝鮮総督府に奉職。京畿道、忠清北道各勤務、全羅北道警務課長、咸鏡南道、平安北道各警察部長、朝鮮総督府警務局保安課長、総督官房資源課長、企画部第一課長兼総督官房資源課長を経て、1941年(昭和16年)6月、咸鏡南道知事に就任した。