笹原 恵通郎(ささはら えつろう、1930年4月2日 - )… 笹原 恵通郎(ささはら えつろう、1930年4月2日 - )は、群馬県出身のプロ野球選手。 高崎高校、伊藤商店、桐生織物、大生相互銀行を経て1954年に東映フライヤーズへ入団。同年に退団した。
4月2日生まれ:363人
笹原 恵通郎(ささはら えつろう、1930年4月2日 - )… 笹原 恵通郎(ささはら えつろう、1930年4月2日 - )は、群馬県出身のプロ野球選手。 高崎高校、伊藤商店、桐生織物、大生相互銀行を経て1954年に東映フライヤーズへ入団。同年に退団した。
本多 正昭(ほんだ まさあき、1929年4月2日 - )は、… 本多 正昭(ほんだ まさあき、1929年4月2日 - )は、日本の哲学・神学者。相即人間学会代表、産業医科大学名誉教授。 長崎県出身。1955年九州大学文学部哲学科卒、1957年同大学院修士課程修了。1958-61年マニラ教皇庁トマス大学修了。熊本マリスト学園高等学校教諭。神戸海星女子学院大学・短期大学講師、助教授、1978年産業医科大学教授、1992-94年聖泉短期大学学長、1996-98年ノートルダム女子大学学長。 2006年11月瑞宝小綬章受章。
林 保夫(はやし やすお、1928年4月2日 - 2022年… 林 保夫(はやし やすお、1928年4月2日 - 2022年8月14日)は、日本の政治家。元衆議院議員(民社党)(3期)。 岡山県総社市出身。岡山一中(現岡山県立岡山朝日高等学校)卒業、海軍兵学校中退。1947年時事通信社に入社。神戸支局長、経済解説編集長などを経て、1972年日本経済教育センター事務局長に就任、その後専務理事に就任した。1975年民社党岡山県連常任顧問執行委員長、民社党機関紙局副局長、国際局副局長を務め、1979年、第35回衆議院議員総選挙で岡山2区から初当選。通算3期務めた。1990年の第39回衆議院議員総選挙で落選し、政界から引退した。後継候補は石田美栄。1998年、勲三等旭日中綬章受章。
勝田 久(かつた ひさし、1927年4月2日 - )は、日本… 勝田 久(かつた ひさし、1927年4月2日 - )は、日本の声優、ナレーター、俳優。東京都出身。聖学院高等学校を卒業。東宝演劇部、NHK東京放送劇団、俳協を経て、アーツビジョン所属。
角田 式美(かどた しきみ1925年4月2日 - )は、実業… 角田 式美(かどた しきみ1925年4月2日 - )は、実業家、角栄建設(後・ジョイント・レジデンシャル不動産)、角栄ガス創業者。
篠原 一男(しのはら かずお、1925年4月2日 - 200… 篠原 一男(しのはら かずお、1925年4月2日 - 2006年7月15日)は、日本の建築家。 静岡県生まれ。1947年東京物理学校卒業後、東北大学で数学を専攻。建築に転向し東京工業大学建築学科で清家清に師事。1953年卒業後、1986年定年退官に至るまで東工大の教壇に立ち、プロフェッサーアキテクトとして、住宅を中心とする前衛的な建築作品を一貫して手がけた。 磯崎新と並んでメタボリズム後の日本建築界のリーダーと目され、特に1970年代以降の住宅建築デザインに多大な影響を与えている。坂本一成、白澤宏規、長谷川逸子、葛西潔、葛西秀一郎、高橋寛、高橋晶子、武田光史、西村博司、坂牛卓、安田幸一ら篠原研究室出身者の他、伊東豊雄へも直接的な影響を与えており、彼らは、篠原のカリスマ性や哲学的スタイルから「篠原スクール」「エピステーメー派」などと称された。
堀江 文夫(ほりえ ふみお、1924年〈大正13年〉4月2日… 堀江 文夫(ほりえ ふみお、1924年〈大正13年〉4月2日 - 2016年〈平成28年〉4月22日)は、日本の政治家。群馬県沼田市長(4期)。 群馬県利根郡薄根村(現・沼田市町田町)出身。旧制沼田中学を卒業後、1945年(昭和20年)、桐生工業専門学校(現・群馬大学工学部)機械科卒。1951年(昭和26年)、薄根村議会議員となる。1954年(昭和29年)、薄根村は合併により沼田市となったため、沼田市議会議員となる。沼田市議を5期務めた後、1970年(昭和45年)、沼田市長に当選する。沼田市長を連続4期務め、1986年(昭和61年)に退任した。 1980年(昭和55年)4月藍綬褒章、1994年(平成6年)4月勲三等瑞宝章(地方自治功労)を受章。
山岡 一三(やまおか いちぞう、1923年(大正12年)4月… 山岡 一三(やまおか いちぞう、1923年(大正12年)4月2日 - 1996年(平成8年)2月25日)は、日本の土木工学者であり、教育者でもある。建設省を経て関西大学工学部教授。国際ジオシンセティックス名誉会員。岡山県高梁市出身。 1923年(大正12年)、岡山県上房郡(現:高梁市)の山岡信治郎の子として出生する。1942年(昭和17年)地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業し、同年、山口県にある旧制山口高等学校理科へ進学する。 その後、同校を1945年(昭和20年)に卒業し、同年、京都帝国大学工学部へ進学。その直後日本は第二次世界大戦に敗北。戦後の混乱の中、1947年(昭和22年)山岡は3年次途中で卒業扱いとなり、同大学を卒業し、建設省へ入省する。
三木 與志夫(みき よしお、1923年4月2日 - 1994… 三木 與志夫(みき よしお、1923年4月2日 - 1994年5月16日)は、日本の地方公務員。東京都交通局長、東京都副知事、東京都競馬代表取締役社長、東京都住宅供給公社理事長などを歴任した。 1946年東北帝国大学法文学部法科卒業、東京都入庁、調査室。1960年東京都企画室副参事。1961年東京都総務局副主幹。1962年東京都財務局管財部都有財産調査課長。1963年東京都財務局経理部検収課長。1964年東京都総務局総務部庶務課長。1967年東京都企画調整局参事(企画調査担当)。1969年東京都清掃局作業部長。1972年東京都住宅局総務部長。1974年東京都住宅局次長。1975年東京都清掃局長。
小栗 一也(おぐり かずや、1923年〈大正12年〉4月2日… 小栗 一也(おぐり かずや、1923年〈大正12年〉4月2日 - 2001年〈平成13年〉12月13日)は、日本の俳優。本名は中村 俊男(なかむら としお)。 東京市荏原郡世田ヶ谷町(現・東京都世田谷区)出身。正則英語学校(現・正則学園高等学校)中退。たむらプロ、岩崎事務所に所属していた。 1946年に文芸劇場に入団。1955年に劇団葦の結成に参加。その後はフリーとなり、味のある名脇役として数多くの映画、テレビドラマに出演した。 2001年12月13日、肺炎のため死去、78歳没。
神代 雄一郎(こうじろ ゆういちろう、1922年4月2日 -… 神代 雄一郎(こうじろ ゆういちろう、1922年4月2日 - 2000年)は、日本の建築史研究者、建築評論家、明治大学名誉教授。専門は、近代建築史。建築と環境の関係を研究した。 東京出身。東京帝国大学工学部卒。大学院を経て明治大学理工学部助教授。1962年、「近代建築思潮形成過程の研究」で東京大学工学博士。1962年、教授。1993年、定年退任、名誉教授。
安倍 治夫(あべ はるお、1920年4月2日 - 1999年… 安倍 治夫(あべ はるお、1920年4月2日 - 1999年8月16日)は、日本の弁護士、検察官。 1920年4月2日生まれ。北海道根室市出身。1943年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 1949年に東京大学法学部政治学科を卒業。 1951年に札幌地検検事となり、その後東京地方検察庁・法務省刑事局・福岡高等検察庁で検事職に従事した。この間に法務総合研究所教授・国連アジア極東犯罪防止研修所教授も務めた。ハーバード大学に留学して刑事学を専攻し、1953年に卒業。
飛鳥田 一雄(あすかた いちを、1915年〈大正4年〉4月2… 飛鳥田 一雄(あすかた いちを、1915年〈大正4年〉4月2日 - 1990年〈平成2年〉10月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)、横浜市長(4期)、日本社会党委員長を歴任した。 横浜市滝頭町出身。厚木市の旧家で医師の家に生まれる。 父は弁護士で横浜市会議長・高松高検検事長を務めた飛鳥田喜一。5歳の頃に小児麻痺にかかり、左足が不自由となった。これを機に、名の読みを「かずお」から「いちを」に改める。障碍を理由に入学を反対する教員を長野正義(のち飛鳥田夫婦の仲人。横須賀市教育長を経て横須賀市長)らの教員が説得して入学できた神奈川県立横浜第一中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校)を経て、旧制水戸高等学校(現・茨城大学)を受験するが、左足の障害を理由に不合格とされた。
田村 幸久(たむら ゆきひさ、1914年4月2日 - 199… 田村 幸久(たむら ゆきひさ、1914年4月2日 - 1990年8月9日)は、日本の外交官。外務省に入省後、フランス書記生としてキャリアをスタートさせ、駐カンボジア日本国特命全権大使、在カサブランカ日本国領事などを歴任した。最後の在外公館長は駐アルジェリア大使であった。 父は外交官、国際法学者の田村幸策。 1939年(昭和14年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。前年に高等試験(外交科)に合格し、外務省に入省した。最初はフランス書記生として勤務した。 その後、在カサブランカ日本国領事館領事、在カンボジア日本国特命全権大使などを務め、カンボジアとの経済・技術協力や貿易取極に関する業務に携わった。
猪野 謙二(いの けんじ、1913年4月2日 - 1997年… 猪野 謙二(いの けんじ、1913年4月2日 - 1997年9月11日)は、文芸評論家、近代日本文学研究者。 宮城県仙台市生まれ。東京府立第六中(現都立新宿高等学校)を経て1937年東京帝国大学文学部国文科卒。在学中に立原道造らと『未成年』を創刊。戦後日本文学協会に属し、歴史社会学派の立場から日本近代文学の研究・評論を行った。1954年神戸大学助教授、1975年学習院大学教授。1984年定年退職。
徳永 康元(とくなが やすもと、1912年4月2日 - 20… 徳永 康元(とくなが やすもと、1912年4月2日 - 2003年4月5日)は、日本の言語学者、ハンガリー文学者。 東京府豊多摩郡大久保町字百人町(後の東京都新宿区百人町)に生まれ育つ。父徳永重康は東大動物学科出身の古生物学者・地質学者で理学博士・工学博士、早稲田大学教授、東大地質学教室非常勤講師。実弟の徳永重元も地質学者。徳永家は元の苗字を吉原と称し、薩摩藩士の家系だった。重康が高島鞆之助の三女と結婚した時に徳永と名乗り始め、その後離婚に至ってからも苗字はそのままになった。日本銀行初代総裁吉原重俊は父方の祖父の弟にあたる。母方の祖父柴田承桂は薬学者で東京大学教授をつとめた。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)から同中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を4年修了で卒業し、府立高等学校文科乙類で実吉捷郎や石川道雄に師事。
白石 敏夫(しらいし としお、1910年(明治43年)4月2… 白石 敏夫(しらいし としお、1910年(明治43年)4月2日 - 1995年(平成7年)11月5日)は、日本の政治家。埼玉県三郷市長(初代 - 第3代)。 埼玉県北葛飾郡八木郷村(のち東和村、現・三郷市)出身。1935年、報知新聞社に入る。その後、満州国に渡り、満州国協和会中央本部に勤務する。間もなく帰国し、1943年、東和村会議員となる。議員を一時辞めて、出版業に従事する。 1957年、三郷村議会議員となり、のち同村助役に就任する。 1967年、三郷町長に当選、 町長2期目の1972年、三郷町の単独市制施行により、 初代の三郷市長となる。1975年、初めての市長選挙で再選(通算3選・4期)。
奈良岡 良二(ならおか りょうじ、1908年4月2日 - 1… 奈良岡 良二(ならおか りょうじ、1908年4月2日 - 1992年6月2日)は、日本の陸上競技(競歩)選手、保健体育学者。青森県出身。1936年ベルリンオリンピックに50キロメートル競歩で出場した。競歩競技では日本初のオリンピック選手である。 青森県南津軽郡浪岡町(現青森市浪岡)出身。実弟の奈良岡健三ものちに競歩選手となる。 青森県師範学校に学び、在学中は短距離走・駅伝からスキーまでをこなした。同校を卒業し、1931年に東京に出る。「いつでもトレーニングできる種目」として競歩を選んだといい、競歩がオリンピック種目として復活すると、1936年ベルリンオリンピックに向けて計画的にトレーニングを重ね、国内予選を突破して日本代表選手に選ばれた。
権 泰羲(クォン・テヒ、朝鮮語: 권태희/權泰羲、1907年… 権 泰羲(クォン・テヒ、朝鮮語: 권태희/權泰羲、1907年4月2日 - 1983年5月29日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の牧師、教員、中学校校長、政治家。制憲国会議員、文教社会分科委員長。本貫は安東権氏(朝鮮語版)。 作曲家・声楽家の権泰浩(朝鮮語版)は兄。 慶尚北道金泉または慶尚南道密陽生まれ。大邱啓聖中学校、平壌崇実専門学校文科卒業。平壌神学校で牧師の按手を受け、同志社大学神学科修了(聴講生)。その後帰国し、安東と密陽の教会の牧師、キリスト教安東連合会会長を歴任した。解放後は京城神学校講師、密陽公立農林学校教師・校長を経て、1947年に金泉公立中学校校長を務めた。1948年の初代総選挙で金泉郡から無所属で出馬し当選した後、国会で文教社会分科委員長などを務め、農地改革、国軍の組織にも参加したが、朝鮮戦争の際に北朝鮮に拉致された。
彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2… 彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2006年6月1日)は、日本の数学者。東京大学名誉教授。「弥永」と表記される場合もある。 1906年、東京府生まれ。東京府立第四中学校(現 東京都立戸山高等学校)卒業。同校では、犬井鉄郎(のち東大応用数学科教授)らと親しくしていた。四年修了での旧制第一高等学校受験にうっかりミスで失敗し、四中卒業後に一高に入学した。その間、秋山龍や森外三郎らの訳書である代数や幾何などの一般数学書や、アンリ・ポアンカレの「科学と仮説」に親しむ。同高校を卒業後、東京帝国大学理学部数学科に入学。高木貞治に師事して主に類体論について学ぶ。1929年、同大学を卒業。
彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2… 彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2006年6月1日)は、日本の数学者。俗字で「弥永」と表記される場合もある。
神谷慶治(かみや けいじ、1905年4月2日 - 1998年… 神谷慶治(かみや けいじ、1905年4月2日 - 1998年10月26日)は、日本の農業経済学者。東京大学名誉教授。 静岡県掛川市生まれ。1931年東京帝国大学農学部農業経済学科卒、1932年同副手となり、1935年講師、1939年助教授、1948年教授となり、東京大学農学部教授、1962年農学部長を務め、1966年定年退官、名誉教授、東京農業大学教授、1976年退職。そのほか、1951年農林省農業綜合研究所長。1974-1979年大日本報徳社社長。日本農業経済学会会長、日本農村更生協会会長を務めた。日本学術会議会員。1960年「日本農業機械化の分析」(共編)で日経・経済図書文化賞、1968年日本農学賞受賞。
湊 顯(湊 顕、みなと あきら、1905年(明治38年)4月… 湊 顯(湊 顕、みなと あきら、1905年(明治38年)4月2日 - 1992年(平成4年)3月20日)は、日本の薬学者。薬学博士。専門は臓器薬化学。北海道薬科大学初代学長。千葉大学名誉教授。位階は従三位。 岩手県生まれ。1930年(昭和5年)東京帝国大学医学部薬学科卒業。同年、同医学部助手。1937年(昭和12年)東京薬学専門学校講師。1942年(昭和17年)千葉医科大学薬学専門部教授。1951年(昭和26年)千葉大学薬学部教授。1962年(昭和37年)同薬学部長。1974年(昭和49年)千葉大学停年退官。同名誉教授。北海道薬科大学初代学長に就任。1984年(昭和59年)北海道薬科大学退職。1992年死去。
結城 令聞(ゆうき れいもん、1902年4月2日 - 199… 結城 令聞(ゆうき れいもん、1902年4月2日 - 1992年8月28日)は、日本の仏教学者、元東京大学名誉教授。兵庫県姫路市の浄土真宗の寺善教寺に生まれる。1927年、東京帝国大学文学部印度哲学科卒。1929年、大学院入学、東方文化学院助手。1930年、大学院退学。1934年、東方文化学院研究員。1942年、東洋文化研究所嘱託。1949年、同教授。同年、「世親唯識の研究」で東京大学より文学博士を取得。1960年、東京大学東洋文化研究所所長、東京大学評議員。1963年、定年退官、京都女子大学教授、のち学長。1991年[要出典]、東京大学名誉教授。 浄土真宗本願寺派初代伝道院長も務めた。 剣道範士八段。
中村 茂(なかむら しげる、明治34年(1901年)4月2日… 中村 茂(なかむら しげる、明治34年(1901年)4月2日 - 昭和53年(1978年)2月6日)は、NHKのアナウンサー。 東京府出身。1923年東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部卒業、日蘭貿易入社。NHKラジオが放送開始された1925年にNHK入局。二・二六事件で「兵に告ぐ」を担当。NHK業務局告知課長として「淡々調アナウンス」を主導。 NHK国際局亜州部長、理事兼札幌中央放送局長を経て、1950年NHK放送文化研究所所長。1956年に退職後、電波タイムス社社長。1962年藍綬褒章受章。1971年勲四等瑞宝章受章(放送事業功労)。1978年に老衰のため死去し、従五位に叙された。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。
松本 春子(まつもと はるこ、1900年〈明治33年〉4月2… 松本 春子(まつもと はるこ、1900年〈明治33年〉4月2日 - 1989年〈平成元年〉6月27日)は、日本の書家。日本のかな文字の第一人者、北海道を代表する仮名作家の1人とされる。毎日書道展名誉会員、創玄書道会名誉会員、藤女子大学教授。旧姓は小川 春子(おがわ はるこ)。 北海道帯広で誕生した。「女性に学問は不要」との考えが根強い時代にあって、進歩的な考えを持つ父のもと、幼少時より読み書きやそろばんを学んだ。特に父は書道に力を入れ、自身が道議会議員を務めたほどの名士だったこともあり、書道用具はすべて本場の中国製の物が揃えられた。これにより春子は小学生の頃、すでに大人顔負けの美しい文字を身につけていた。
新関 八洲太郎(にいぜき やすたろう、1897年(明治30年… 新関 八洲太郎(にいぜき やすたろう、1897年(明治30年)4月2日 - 1978年5月30日)は、埼玉県浦和市出身の実業家で、元三井物産社長・会長。
相賀 武夫(おうが たけお/おおが たけお、1897年4月2… 相賀 武夫(おうが たけお/おおが たけお、1897年4月2日 - 1938年8月12日)は、日本の出版事業家、小学館及び集英社の創業者。1932年(昭和7年)7月に相賀祥宏と改名している。長男は小学館第2代社長の相賀徹夫。孫は小学館第3代社長の相賀昌宏(徹夫の長男)。 岡山県都窪郡加茂村(現在の岡山市北区加茂)出身。1897年(明治30年)4月2日、庄屋を営む相賀虎右衛門の長男として生まれる。祖父の春治は村会議員を務め、私財を投げうって村の発展に尽くしていた。 父・虎右衛門の時代には生家が没落して貧しかったため、1910年(明治43年)3月に加茂尋常小学校(現・岡山市立加茂小学校)卒業後は書記見習として県立高松農学校(現・岡山県立高松農業高等学校)に書記見習として就職(後に書記代理へ昇進)。
茂森 唯士(しげもり ただし、1895年〈明治28年〉4月2… 茂森 唯士(しげもり ただし、1895年〈明治28年〉4月2日 - 1973年〈昭和48年〉2月5日)は、日本のジャーナリスト、評論家。 熊本県生まれ。東京外国語学校卒。 はじめ左翼だったが、戦時中転向し、戦後も反共の論陣を張った。産経新聞論説委員、世界動態研究所所長、人権擁護調査会常任理事。
三浦 弥平(みうら やへい、1891年4月2日 - 1971… 三浦 弥平(みうら やへい、1891年4月2日 - 1971年4月)は、日本の陸上選手(長距離走)。現在の福島県伊達市出身。1920年アントワープ・1924年パリオリンピックのマラソン競技に出場。早稲田大学卒業後、ドイツに留学して体育学を修め、帰国後は郷里のスポーツ振興に尽力した。 福島県伊達郡白根村字木ノ田(現在の伊達市梁川町白根字木ノ田)に生まれる。生家は蚕種製造を行う大きな農家であった。 白根村立白根尋常小学校から梁川町立梁川尋常高等小学校(現在の伊達市立梁川小学校)に進む。幼いころから病弱であり、高等小学校2年時にはリウマチによって1年半の休学を余儀なくされている。1907年、白石中学校(現在の宮城県白石高等学校)に進学後も病気のため留年を経験した。
山下 寿郎(やました としろう、1888年4月2日 - 19… 山下 寿郎(やました としろう、1888年4月2日 - 1983年2月2日)は、日本の建築家。昭和時代にかけて活躍。山形県米沢市出身。昭和の初めに事務所を設立して以米、幾多の建物設計のなかで霞ヶ関ビルやNHK放送センター等が代表的な作品である。その一方で建築施工に関する研究も続け、28年にわたり東京大学の講師として後進の指導にあたった。 幼少期は教育者であった父、新力から、米沢士族の子弟として、誇高く厳格な家庭教育を受けて成人した。叔父に当る山下源太郎海軍大将に深く私淑し、一生人生の師範として敬った[要出典]。上京の後、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科に学び、1912年に卒業。
立汐 祐治郎(たてしお すけじろう、1888年4月2日 - … 立汐 祐治郎(たてしお すけじろう、1888年4月2日 - 1972年11月7日)は、青森県西津軽郡木造町(現つがる市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は長谷川 祐治郎。身長170cm、体重86kg。最高位は西前頭13枚目。立汐唯五郎は実弟。 浪ノ音健藏に見出され入門。1906年5月に初土俵を踏み、1910年6月十両昇進した。1911年10月、岐阜県内での巡業中に八甲山純司が締めていた化粧廻しを見て「そんな化粧廻しはみっともないぜ」と言ったのに対し、八甲山は「お前に言われる筋合いはない」と反論されたのに腹を立て、取組で土俵に上がった八甲山に剃刀を手にした立汐は土俵に乱入してその場で八甲山のマゲをつかんで切り落とし、さらに右腕に長さ10cmの切り傷を負わせるトラブルを起こした。
安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 192… 安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 1924年7月23日)は、日本の評論家。 秋田県北秋田郡(現・北秋田市)生まれで、中学までは能代市で育つ。父正治は元長府藩士で、阿仁鉱山の高級機械工を経て、東雲の精錬所に勤務した。弟には歌人の安成二郎、福原信三の秘書を務めた安成三郎がいる。 大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)時代は正岡子規選の新聞「日本」に投稿した。また校長排斥ストライキの首謀者として無期停学の処分を受けるが、県知事にかけ合って最終的に校長に辞表を書かせた。 高等工業学校への進学を望んでいた父の願いに背き、作家を志して早稲田大学文学部英文科へ進学。日露戦争の真っ只中であり、文学者の中に反戦気運が広がっていた。
藤岡 兵一(ふじおか ひょういち、1885年〈明治18年〉4… 藤岡 兵一(ふじおか ひょういち、1885年〈明治18年〉4月2日 - 1957年〈昭和32年〉1月5日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事、浜松市長。 石川県出身。藤岡明郷の長男として生まれる。第四高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し岐阜県属となる。 以後、岐阜県事務官、山口県事務官、同理事官、静岡県理事官、鳥取県警察部長、群馬県警察部長、宮城県警察部長、広島県警察部長、内務事務官兼内務書記官などを歴任。 大正12年(1923年)9月、高知県知事に就任。在任中の同年12月5日、高知城公園内の板垣退助銅像が建立され、退助令孫・板垣守正の手により除幕されている。
玉ノ川 脇太郎(たまのかわ わきたろう、1885年4月2日 … 玉ノ川 脇太郎(たまのかわ わきたろう、1885年4月2日 - 1924年11月20日)は、現在の東京都あきる野市(当時は神奈川県)出身で佐渡ヶ嶽部屋、伊勢ノ海部屋に所属した力士。本名は加藤 脇太郎。9代佐渡ヶ嶽。164cm、79kg。最高位は西前頭17枚目。 1903年1月初土俵、1911年6月十両昇進。またこの時から二枚鑑札。1915年6月に入幕したが、在位2場所に終わり、その後は十両に低迷して最後は幕下に陥落し、1918年5月引退した。年寄専任となったが、若くして亡くなった。小兵であり、もぐらなければ相撲にならなかった。
尾崎 重美(おざき しげみ、1883年(明治16年)4月2日… 尾崎 重美(おざき しげみ、1883年(明治16年)4月2日 - 1959年(昭和34年)11月23日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 高知県幡多郡中村(中村町、中村市を経て現四万十市)出身。尾崎重勝、美弥の三男として生まれた。早くに父が没し、苦学して中学卒業資格を取得。 東京郵便電信学校を卒業後、通信手、統監府通信属を務めた。1914年(大正3年)、中央大学を卒業し、高等文官試験と弁護士試験に合格した。青島守備軍民政部事務官、三重県桑名郡長、安濃郡長、会計検査院副検査官を歴任した。さらに市来乙彦東京市長の秘書官を務めた。その後、弁護士を開業するとともに判例集報社の経営にあたった。
間宮 龍真(まみや たつま、1882年(明治15年)4月2日… 間宮 龍真(まみや たつま、1882年(明治15年)4月2日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。東京市麻布区長。 島根県松江市出身。佐々木龍夫の五男として生まれ、間宮興孝の養子となった。1907年(明治40年)に東京外国語学校を卒業した後、長崎高等商業学校助教授を務めた。1914年(大正3年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、1917年(大正6年)内務省に入省して埼玉県属となり、同南埼玉郡長、島根県飯石郡長、同理事官、島根県学務部長、埼玉県学務部長を歴任し、1931年(昭和6年)に大分県警察部長に就任した。 退官後、東京市に入り、教育局庶務課長、同社会教育課長を務め、1937年(昭和12年)に麻布区長となった。
戸部 彪平(とべ ひょうへい、1881年〈明治14年〉4月2… 戸部 彪平(とべ ひょうへい、1881年〈明治14年〉4月2日 - 1945年〈昭和20年〉2月16日)は、日本の政治家、農政家。群馬県吾妻郡嬬恋村長、同村会議員。 群馬県吾妻郡嬬恋村田代に、戸部常太郎の長男として生まれる。小学校卒業後、近衛歩兵第2連隊へ入営し、日露戦争に従軍して勲八等、功七級に叙された。 1924年(大正13年)に同村の田代区域長となり、1925年(大正14年)より村会議員。1928年(昭和3年)から1936年(昭和11年)まで連続3期嬬恋村長を務めた。渋川駅から嬬恋村・鳥居峠を経て長野県真田に至るバスの開通をはたらきかけ、1933年(昭和8年)に実現させた。 1932年(昭和7年)からは当時貧窮に陥った嬬恋村の村民への救済のために、青果商人の青木彦治や農業技術員として活動していた塚田国一郎と共に冷涼な気候に適していたことよりキャベツの栽培及び生産を始める。
熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月… 熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月2日 - 1977年〈昭和52年〉8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。勲三等(辞退)、文化勲章(辞退)。 1880年(明治13年)4月2日、機械紡績を営む事業家で地主の父熊谷孫六郎と母タイの三男(7人兄弟の末っ子)として岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)に生まれた。子供時代から絵を好んだ。父親の孫六郎は学も財もない中から製糸業で成功し、岐阜県会議員となり、1885年(明治18年)には同議長を務め、人口不足のため市制が布されなかった岐阜の将来のため有力者に働きかけて市制実施運動を興し、近隣町村を合併して人口を増やし、私財を投じるなどして市制を実現し、1889年に初代岐阜市長に就任、1892年には衆議院議員に選出され、岐阜の名士となった人物。
西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4… 西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4月2日 - 1958年(昭和33年)3月30日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家。本名は西山 夘三郞(にしやま うざぶろう、新字体:卯三郎)。 1879年(明治12年)に京都伏見に生まれる。1893年(明治26年)に 竹内栖鳳の門下に入り日本画を学ぶ。翌年から各展覧会や博覧会で入賞を重ね、若くして頭角を現して同門の西村五雲や橋本関雪とともに栖鳳門下として名を馳せた。後に翠嶂は栖鳳の女婿となっている。その後京都市美術工芸学校に入学し日本画の更なる研鑽に励んだ。 1907年(明治40年)の第1回文展に「広寒宮」を出品して三等を受賞したのを皮切りに、その後の文展にも出品を重ねて受賞や特選が相次いだ。
中野 寅吉(なかの とらきち、1879年(明治12年)4月2… 中野 寅吉(なかの とらきち、1879年(明治12年)4月2日 - 1962年(昭和37年)7月5日)は、日本の政治家、警察官、実業家、僧侶。衆議院議員。旧姓は小林。 福島県大沼郡雀林村字古屋敷(赤沢村、会津高田町を経て現会津美里町雀林字古屋敷)で、小林清三郎の三男として生まれる。苦学して、1901年(明治34年)東京専門学校法学部を卒業した。1907年(明治40年)頃、北海道の小樽日報社に入社し石川啄木の同僚となった。事務長であった中野は記者の啄木とは反りが合わず、啄木が札幌に何度も出かけることを編集長(啄木とは懇意だった)に咎めたが逆にたしなめられ、編集長の帰宅後に啄木が戻ったところを殴打、それが原因で啄木は小樽日報を退社した。
岩本 栄之助(いわもと えいのすけ、明治10年(1877年)… 岩本 栄之助(いわもと えいのすけ、明治10年(1877年)4月2日 - 大正5年(1916年)10月27日)は、大阪の株式仲買人。大阪市中央公会堂の寄付者として知られる。 大阪の両替商「岩本商店」を営む岩本 栄蔵の次男として、大阪市南区安堂寺橋通2丁目(現在の大阪市中央区南船場2丁目付近)に生まれる。市立大阪商業学校、大阪清語学校及び明星外国語学校で、商業学及び外国語(英語、フランス語、清語)を修める。1904年日露戦争に出征して陸軍中尉となり、凱旋後、従七位に叙し勲六等単光旭日章を授けられる。 明治39年(1906年)3月、栄之助は早死にした兄に代わり、父・栄蔵の家督を相続し、株式仲買人となる。
岡 順次(おか じゅんじ、1877年〈明治10年〉4月2日 … 岡 順次(おか じゅんじ、1877年〈明治10年〉4月2日 - 1964年〈昭和39年〉10月14日)は、日本の政治家、実業家。徳島県鳴門市出身。位階は従七位。勲等は勲四等瑞宝章。 板野郡撫養町(現在の鳴門市)で生まれた。公友会派に属した。1911年(明治44年)10月1日から板野郡選出の徳島県会議員を務めた。また、1915年(大正4年)10月12日から1918年(大正7年)12月25日まで第24代同副議長を、同日から1919年(大正8年)9月30日までと、同年10月14日から1920年(大正9年)5月11日まで第22・23代同議長を務めた。その他、大津村長、徳島倉庫取締役、徳島民報社取締役会長、徳島毎夕新聞社長などを務めた。
渡辺 長男(わたなべ おさお、1874年(明治7年)4月2日… 渡辺 長男(わたなべ おさお、1874年(明治7年)4月2日 - 1952年(昭和27年)3月3日)は、明治から昭和にかけて活動した彫刻家(彫塑家)。同じ彫刻家の朝倉文夫、大塚辰夫(大塚周夫の父・大塚明夫の祖父)は実弟。妻は岡崎雪聲の娘。 1874年(明治7年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市)村長であった渡辺要蔵の長男として生まれる。彫刻家を目指した長男は東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学し、仏像彫刻家の山田鬼斎に師事する。すぐに頭角を現し、イタリアへと留学していた長沼守敬に欧州の彫刻技術を学ぶなど、先駆性を発揮した。 1897年11月に高村光太郎や武石弘三郎、白井雨山、青木外吉ら同窓生と「青年彫塑会」を結成し、木彫家をもまじえて技術上の交流をはかり、新進気鋭の彫刻家として注目されるようになる。
西村 清雄(にしむら すがお、明治4年2月13日(1871年… 西村 清雄(にしむら すがお、明治4年2月13日(1871年4月2日) - 昭和39年(1964年)12月25日)は日本の教育者。日本人の創作賛美歌の有名な古典「山路こえて」を作詞したクリスチャン。松山名誉市民第3号。 祖父は幕末の松山を代表する歌人西村清臣。叔父は道後村村長で道後温泉本館を建てた伊佐庭如矢。 1871年(明治4年)、愛媛県松山市北京町に伊予松山藩士の長男として生まれる。1885年(明治18年)、愛媛県第一中学校(後の松山中学校、現愛媛県立松山東高等学校)へ入学するが、翌年、廃校。この頃、カトリック教会の洗礼を受けた。 1888年(明治21年)、大阪で英語を学び、大阪基督教会で宮川経輝の教えを受けプロテスタントの信仰を持つ。
安満 欽一(やすみつ きんいち、1871年4月2日(明治4年… 安満 欽一(やすみつ きんいち、1871年4月2日(明治4年2月13日) - 1960年10月24日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
南部 麒次郎(なんぶ きじろう、1869年4月2日(明治2年… 南部 麒次郎(なんぶ きじろう、1869年4月2日(明治2年2月21日) - 1949年(昭和24年)5月1日)は、日本の陸軍軍人、銃器開発者。東京砲兵工廠提理、南部銃製造所創設者。階級勲等は陸軍中将勲二等。工学博士。 明治末期、大正、昭和にかけて銃器開発で活躍した日本陸軍技術将校である。日本の警察が制式採用する拳銃ニューナンブM60や、明治時代の傑作軍用小銃と評価される三八式歩兵銃などにその名を残す。 肥前鍋島藩の士族、砲術家の南部春雍の二男として生まれる。母親は幼少の時に亡くなり、実家も大変貧乏だったため10歳で商家に奉公に出される。苦労を重ねた後、佐賀中学、干城学校を経て、陸軍士官学校合格(2期)。
野間 五造(のま ごぞう、慶応4年3月10日(1868年4月… 野間 五造(のま ごぞう、慶応4年3月10日(1868年4月2日) - 昭和21年(1946年)2月18日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。ジャーナリスト。 岡山藩士野間隼太の長男として生まれる。岡山中学校を卒業後、同志社英学校などを経て、1887年(明治20年)に東京専門学校に入学した。1888年(明治21年)に英語科を卒業し、翌年には邦語政治科を卒業した。1890年(明治23年)、『東京日日新聞』の記者となる。翌年、清に渡って広東同文館で中国語を学び、また『東京日日新聞』『東京新報』特派員として長江流域の哥老会反乱を報じた。1893年(明治26年)、沖縄県に渡って琉球新報社を興し、主筆となった。
川上 善兵衛(かわかみ ぜんべえ、1868年4月2日(慶応4… 川上 善兵衛(かわかみ ぜんべえ、1868年4月2日(慶応4年3月10日) - 1944年5月21日)は、新潟県上越市の岩の原葡萄園の創業者であり、「日本のワインの父」「日本のぶどうの父」「日本のワインぶどうの父」と呼ばれる。 岩の原ワインは、現在でも代表的な国産ワインとして人気が高い。
斎藤 斐章(さいとう ひしょう、慶應3年2月26日(1867… 斎藤 斐章(さいとう ひしょう、慶應3年2月26日(1867年4月2日) - 昭和19年(1944年)5月27日)は、日本の教育者、歴史学者。 岩手県出身。1899年(明治32年)、東京高等師範学校文科を卒業し、東京府師範学校訓導・教諭となる。1902年(明治35年)、東京高等師範学校助教諭となり、1906年(明治39年)に教諭、1908年(明治41年)に教授に進んだ。歴史学・歴史教育法研究のため欧米に留学し、1911年(明治44年)に帰国した。1920年(大正9年)からは附属中学校主事を兼ねた。1936年(昭和11年)、退官。