古井 喜実(ふるい よしみ、別表記 : 古井 喜實、1903… 古井 喜実(ふるい よしみ、別表記 : 古井 喜實、1903年 <明治36年> 1月4日 - 1995年 <平成7年> 2月3日)は、日本の内務官僚、政治家。日中友好議員連盟会長を務めた。位階は正三位。 鳥取県八頭郡国中村(現・八頭町)に、古井實壽の二男として生まれる。生家は祖父久次郎の代からすでに田五町歩、山林三町歩をもつ小地主だった。父實壽は古井が生まれたころ、郡役所の書記だったが後に国中村の村長を務めた。 旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、第三高等学校を経て、1922年東京帝国大学法学部英法科に入学する。なお中学時代の同期生に政治学者の矢部貞治がいる。1925年内務省に入省する。
石島 房太郎(いしじま ふさたろう、1903年1月4日 - … 石島 房太郎(いしじま ふさたろう、1903年1月4日 - 1981年12月1日)は、日本の俳優。本名は同じ。 山口県下関市出身。旧制豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)を中退。 初めは工芸の仕事をしていたが、舞台俳優を目指して1924年に松竹に入り、後に前進座に移る。1935年に『街の入墨者』で映画デビューする。 1937年、石島と同じく前進座に所属していた原ひさ子と結婚した。 1944年に夫婦揃って東宝の専属となり、後に東映などに所属、『ひめゆりの塔』(1953年)や『警視庁物語シリーズ』などの映画に出演した。またテレビドラマにも多く出演した。
阿部 武雄(あべ たけお、1902年(明治35年)1月4日 … 阿部 武雄(あべ たけお、1902年(明治35年)1月4日 - 1968年(昭和43年)2月5日)は、日本の作曲家。 山形県鶴岡市湯野浜に旅役者の息子として誕生するも、生後間もなく両親は離別、再婚した母に伴われて横須賀に居を移したが母が病死したので、祖父母と石巻に転住。まだ小学生という頑是無い子供であるのに、町役場の給仕として働き生活の辛酸を舐めていた。 苦学の末、東洋音楽学校に入学。卒業後、神戸オリエントホテルのバンドマンとして就職。10年程、楽士として各地を転々とする。 1933年(昭和8年)、作詞家藤田まさとの紹介でポリドールに入社し、専属作曲家となる。1934年(昭和9年)、東海林太郎の歌う「国境の町」、1935年(昭和10年)「むらさき小唄」が大ヒット。
北村 小松(きたむら こまつ、1901年(明治34年)1月4… 北村 小松(きたむら こまつ、1901年(明治34年)1月4日 - 1964年(昭和39年)4月27日)は、日本の劇作家、小説家、脚本家。 青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)生まれ。八戸中学校を経て慶應義塾大学英文科卒。在学中から小山内薫に師事して劇作を学び、卒業後に松竹キネマ蒲田研究所に入社。松竹の『マダムと女房』(1931年)など多くの映画シナリオを書く。戦後はユーモア小説作家に転じた。『人物のゐる街の風景』(1926年)が初期代表作で、初期は左翼文学にも手を染めたが、戦時下は戦争協力小説を多く書き、スパイものを編纂した。ほか翻訳がある。終戦後の1948年(昭和23年)に公職追放を受けて活動停止追放処分となる(1950年(昭和25年)に解除)。
浅野 孟府(あさの もうふ、1900年(明治33年)1月4日… 浅野 孟府(あさの もうふ、1900年(明治33年)1月4日 - 1984年(昭和59年)4月16日)は、日本の彫刻家。東京都渋谷区生まれ。昭和時代初期、前衛美術運動に参加し、活躍したことで知られる。本名は猛夫。東京美術学校(現在の東京芸術大学)塑造科で北村西望に学ぶが中退。1973年(昭和48年)、大阪芸術賞受賞。作品に「レーニン像」「原爆母子像」「テラコッタの馬」「方形婦女」など。連作に「大阪の女」など。
奥村 喜和男(おくむら きわお、1900年1月4日 - 19… 奥村 喜和男(おくむら きわお、1900年1月4日 - 1969年8月19日)は、日本の逓信官僚。内閣情報局次長。革新官僚の代表的人物の一人。号は東陽。 福岡県今川村(現在の行橋市)出身。豊津中学、第五高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。1923年に高等文官試験に合格、1925年に大学を卒業して逓信省に入省。 同盟通信社や満洲電信電話株式会社の設立に参画し、1935年の内閣調査局設立時に調査官に任じられ、出弟二郎とともに電力国家管理案を作成して電力会社の「民有国営」の実現に奔走した。1937年の企画院創設によって同院調査員に転ずる。統制経済の推進役、革新官僚(新官僚)の代表的存在であった。 1941年には東条内閣の内閣情報局次長に任ぜられ、戦時体制下における言論統制及び統制経済の確立に努める。
野々山 広三郎(ののやま こうざぶろう、1899年1月4日 … 野々山 広三郎(ののやま こうざぶろう、1899年1月4日 - 1985年8月8日)は日本の実業家。サッポロビール社長。長野県東筑摩郡宗賀村(現塩尻市)生まれ。
十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月… 十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月4日 - 1989年(昭和64年) 1月7日 )は、日本の西洋史学者。専門は、ドイツ近世史。 香川県高松市出身。生家は旧高松藩の御用商人を務めた旧家の次男として生まれる。雅号は悠亭。父の忠貞(襲名権三郎)は、中川愛山に学んだ画人でもあり自由民権運動団体「博文社」の会頭の一人でもあった。 郷里の高松中学時代は、1歳で父親を癌で亡くしたこともあり、身体を鍛えるために海水浴、武徳会での柔道、ボートなど勉強そっちのけで遊んだという。不勉強がたたり浪人を強いられたが、方丈記、徒然草、夏目漱石を耽読し勉強に気が入らなかったという。 2年間の浪人の末、早稲田大学高等予科の文学科に入学した。
橋浦 はる子(はしうら はるこ、1899年〈明治32年〉1月… 橋浦 はる子(はしうら はるこ、1899年〈明治32年〉1月4日 - 1975年〈昭和50年〉2月25日)は、日本の社会運動家。日本で初めて女性が参加した1921年(大正10年)のメーデーにおいて、女性による社会主義団体「赤瀾会」の1人として参加したことで警察に拘束され、「日本で初めてデモ活動に参加した女性」として話題になった。 鳥取県岩美郡岩美町で、10人の兄弟姉妹の末子として誕生した。父は新進的な考えの持ち主、長兄は大学で学んだ社会主義思想を家に持ち込み、はる子はこの家庭環境で大きな影響を受けて育った。 18歳のとき、勉学を望んで、兄を頼って上京し、精華女学校(後の東海大学付属市原望洋高等学校)や渡辺女学校(後の東京家政大学)専門部に学んだ。
山縣 昌夫(やまがた まさお、1898年(明治35年)1月4… 山縣 昌夫(やまがた まさお、1898年(明治35年)1月4日 - 1981年(昭和56年)3月3日)は、日本の船舶工学者。東京大学名誉教授。
樋浦 誠(ひうら まこと、1898年〈明治31年〉1月4日 … 樋浦 誠(ひうら まこと、1898年〈明治31年〉1月4日 - 1991年〈平成3年〉1月14日)は、日本の農学者。専門は植物病理学。農学博士(北海道帝国大学)。酪農学園大学初代学長。酪農学園短期大学初代学長。聖隷学園浜松衛生短期大学初代学長。 新潟県西蒲原郡西川町(現新潟市西蒲区)出身。 1916年東北帝国大学農科大学予科入学。1919年北海道帝國大学農学部に進学。 1922年北海道帝國大学農学部農業生物学科卒業。同農学部助手。1924年岐阜高等農林学校教授。1929年アメリカ・ヨーロッパ留学。1949年各種学校として酪農学園大学部を設立し、学長に就任。1950年酪農学園短期大学を設立に参画し、初代学長に就任。
鈴木 信雄(すずき のぶお、1898年〈明治31年〉1月4日… 鈴木 信雄(すずき のぶお、1898年〈明治31年〉1月4日 - 1979年〈昭和54年〉6月15日)は、日本の弁護士、政治家、実業家。勲等は勲三等。位階は従四位。 弁護士としては1921年(大正10年)の登録から50年以上に渡って活動し、その間に生地静岡県における三百屋の規制や被疑者の人権擁護などに役割を果たした。政治家としては戦前に立憲政友会の所属で静岡市議、静岡県議を務め、戦後も県政において保守派の重鎮として影響力を保った。その他、1976年(昭和51年)に設立された静岡県民放送の初代社長を務めるなど、県の行政分野にも影響を残している。 1898年(明治31年)1月4日、静岡県小笠郡笠原村の裕福な農家に生まれる。
門脇 季光(かどわき すえみつ、1897年(明治30年)1月… 門脇 季光(かどわき すえみつ、1897年(明治30年)1月4日 - 1985年(昭和60年)6月18日)は、日本の外交官、実業家。1955年(昭和30年)3月1日から1957年(昭和32年)1月23日まで外務事務次官。外務省退官後、ホテルニューオータニに入社し社長等を務めた。 島根県八束町(大根島、現在の松江市)出身。門脇虎市の四男として生まれる。旧制島根県立松江中学校、旧制三高を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。翌1924年(大正13年)外務省に入省した。青島領事、駐イラン公使などを経て、1955年(昭和30年)3月1日から1957年(昭和32年)1月23日まで外務事務次官を務めた。
正木 博(まさき ひろし、1897年(明治30年)1月4日 … 正木 博(まさき ひろし、1897年(明治30年)1月4日 - 1973年(昭和48年)4月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・上野。 福岡県出身。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第19連隊付となる。1922年(大正11年)3月、陸軍砲工学校高等科を卒業。帝国大学理工学部陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部電気工学科に入学し、1925年(大正14年)3月に卒業した。 1925年5月、兵科を航空兵科に転科し航空兵中尉に任官。同年9月、陸軍航空技術研究所付となり、陸軍航空本部員を務め、1927年(昭和2年)3月、航空兵大尉に昇進。
泉洋 藤太郎(いずみなだ とうたろう、1896年1月4日 -… 泉洋 藤太郎(いずみなだ とうたろう、1896年1月4日 - 1937年12月17日)は、現在の大阪府高石市出身で井筒部屋、猪名川部屋、再度井筒部屋に所属した力士。本名は山条 藤太郎(やまじょう とうたろう)。176cm、105kg。最高位は西前頭7枚目。得意手は右四つ、寄り、押し。 1912年1月場所に井筒部屋より初土俵を踏むが、番付につく前に、すぐに大坂の猪名川部屋に移籍する。その後、1916年5月場所に東京に復帰し、幕下付出で再登場した。1922年1月場所に十両昇進。1926年5月場所に新入幕、上位にはあがれず1928年1月場所に廃業した。
浅海 喜久雄(あさみ きくお、1895年〈明治28年〉1月4… 浅海 喜久雄(あさみ きくお、1895年〈明治28年〉1月4日 - 1967年〈昭和42年〉10月10日/12日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1895年(明治28年)に群馬県太田市鳥山で浅海三津三郎の次男として生まれた。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を経て、陸軍士官学校第29期、陸軍大学校第41期卒業。1938年(昭和13年)12月に北支那方面軍司令部附となり、1939年(昭和14年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、1940年(昭和15年)8月に支那派遣軍御用掛となった。1941年(昭和16年)6月に歩兵第76連隊長に転じ、1942年(昭和17年)12月に第39師団参謀長(第11軍)に就任し、中国戦線に出征した。
八代目 淺尾奥山(あさお おくやま、明治27年〈1894年〉… 八代目 淺尾奥山(あさお おくやま、明治27年〈1894年〉1月4日 - 昭和49年〈1974年〉11月29日)とは、上方の歌舞伎役者。屋号は錢屋。定紋は木槌、替え紋は裏牡丹。本名は尾田木駒造。 京都生まれ。三代目淺尾大吉(浅尾関十郎)の門人となり、浅尾関三郎を名乗って初舞台を踏む。昭和5年(1930年)1月、淺尾奧山の名跡を襲名。以後関西歌舞伎で世話物の老け役、脇役として活躍する。昭和30年(1955年)から長谷川一夫の誘いで映画に転じ大映京都に所属し、映画や東宝歌舞伎に約10年間出演した。その後歌舞伎に復帰し東宝系で活躍。 堅実で老巧な芸で「名優奧山」と賞され、『治郎吉懺悔』の伝吉、『仮名手本忠臣蔵』の「六段目」のおかやなどが印象に残る舞台だったが、特に最晩年の昭和48年(1973年)7月、歌舞伎座で十七代目中村勘三郎と舞台を共にした『夏祭浪花鑑』の義平次は絶賛された。
今井 新造(いまい しんぞう、1894年〈明治27年〉1月4… 今井 新造(いまい しんぞう、1894年〈明治27年〉1月4日 - 1962年〈昭和37年〉8月23日)は、大正から昭和期の実業家、剣道家、政治家。衆議院議員、剣道七段・教士、範士。 山梨県甲府市魚町(現中央三丁目)で生まれる。1924年(大正13)に分家した。 魚問屋業を営み、山梨モータース商会専務取締役、山梨開発協会取締役、甲府魚市場 (株) 顧問などを務めた。 政界では、山梨県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務めた。1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から出馬して当選し、第20回総選挙でも再選。1942年(昭和17年)4月、第21回総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受けて出馬し再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年… 宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年)1月4日 - 昭和40年(1965年)8月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。長男は、陸軍士官学校出身で元明治大学総長の宮崎繁樹。 岐阜県出身。岐阜中学(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業後、陸士(26期)を卒業、席次は737人中230番。歩兵第16連隊(新潟県新発田市)に配属された。本来であれば陸大に入学するのに必要な連隊長からの推薦も受けられない成績であったが、二度目の受験で合格し陸大36期を64人中29番で卒業した。 参謀本部支那班などを経てハルビン特務機関補佐官についた。満州の不安定化と日本軍の勢力拡大を目論む甘粕正彦などの工作活動に関与した。
窪井 義道(くぼい よしみち、1892年(明治25年)1月4… 窪井 義道(くぼい よしみち、1892年(明治25年)1月4日 - 1949年(昭和24年)11月13日)は、日本の政治家・弁護士・実業家。立憲政友会→昭和会→政友会革新同盟→日本進歩党所属の衆議院議員で内務政務次官や海軍参与官を務めた。 山口県熊毛郡三丘村(現・周南市)出身。1918年(大正7年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。大倉商事に入社したが、1922年(大正11年)に法律研究のためドイツに留学した。1924年(大正13年)に帰国し、弁護士を開業した。 1924年(大正13年)、衆議院補欠選挙に出馬し当選。さらに第18回衆議院議員総選挙から第21回衆議院議員総選挙まで4期連続当選を果たした。
村上 龍太郎(むらかみ りゅうたろう、1892年(明治25年… 村上 龍太郎(むらかみ りゅうたろう、1892年(明治25年)1月4日 - 1964年(昭和39年)7月31日)は、日本の農林官僚。馬政局長官。 愛媛県出身。1916年(大正5年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。山林属、山林事務官・農商務事務官、特許局事務官・農商務参事官、農林書記官・大臣官房文書課長・統計課長、農務局農政課長を歴任。1931年(昭和6年)、畜産局長となり、1933年(昭和8年)には山林局長に転じた。山林局長在任中は関東軍軍令部附・同顧問を務めた。1937年(昭和12年)、馬政局次長、ついで馬政局長官に就任した。 退官後は日本競馬会副理事長となり、1941年(昭和16年)からは農地開発営団理事長となった。
登坂 良作(とさか りょうさく、1891年(明治24年)1月… 登坂 良作(とさか りょうさく、1891年(明治24年)1月4日 - 1982年(昭和57年)11月11日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員、官選函館市長。 新潟県北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)立売町で登坂岩内の四男として生まれる。新潟県立新発田中学校、第二高等学校を経て、1917年4月、東京帝国大学法科大学(英法)を卒業。義兄堤清六が経営する堤商会(後のニチロ)に入って北洋漁業に携わりロシア帝国カムチャツカ州、千島列島に渡航した。 1918年12月、函館区で弁護士を開業。以後、函館市会議員、同議長、北海道会議員、同参事会員、(財) 相馬報恩会理事長、全国人権擁護委員会連合会理事などを務めた。
土屋 耕二(つちや こうじ、1891年(明治24年)1月4日… 土屋 耕二(つちや こうじ、1891年(明治24年)1月4日 - 1947年(昭和22年)10月11日)は、日本の内務官僚。印刷局長。 千葉県夷隅郡長者町(現在のいすみ市)出身。1915年(大正4年)10月、文官高等試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。北海道庁理事官、広島県理事官、広島県書記官・学務部長、石川県書記官・警察部長、長野県書記官・警察部長を歴任。 1928年(昭和3年)、内閣印刷局書記官・総務部長に転じ、1936年(昭和11年)には内閣印刷局長に就任した。1943年(昭和18年)に内閣印刷局は大蔵省印刷局に改組されたが、引き続き局長を務めた。退官後は日本銀行監事を務めたが、戦後に公職追放となった。
杉山 六蔵(すぎやま ろくぞう、1890年1月4日 - 19… 杉山 六蔵(すぎやま ろくぞう、1890年1月4日 - 1947年6月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 農商務省官吏・杉山栄蔵の五男として東京で生れる。鳥取中学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を次席で卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。1917年(大正6年)11月、海軍水雷学校高等科を優等で卒業し、「天津風」乗組、オランダ駐在、「矢矧」水雷長、「夕暮」駆逐艦長、「春風」駆逐艦長を経て、1924年(大正13年)11月、海軍大学校(甲種22期)を卒業した。 「第6号駆逐艦」(早苗)艦長、海軍省軍務局(第1課)局員、第2艦隊参謀、軍令部出仕、第1艦隊兼連合艦隊参謀、海大教官、「由良」艦長、「青葉」艦長、「八雲」艦長、「日向」艦長、第3艦隊参謀長などを歴任し、1936年(昭和11年)12月、海軍少将に進級。
夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年(明治22年)1月… 夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年(明治22年)1月4日 - 1936年(昭和11年)3月11日)は、日本の禅僧、陸軍少尉、郵便局長、小説家、詩人、SF作家、探偵小説家、幻想文学作家。他の筆名に海若藍平、香倶土三鳥など。現在では、夢久、夢Qなどと呼ばれることもある。戒名は悟真院吟園泰道居士。禅僧としての名は雲水(うんすい)、法号を萠円と称した。
浅井 茂猪(あさい しげい、1889年(明治22年)1月4日… 浅井 茂猪(あさい しげい、1889年(明治22年)1月4日 – 1956年(昭和31年)5月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。 高知県安芸郡羽根村(現在の室戸市)出身。高知県立第一中学校を卒業し、小学校に勤務した。その後、早稲田大学に入り、1917年(大正6年)に政治経済科を卒業した。『土陽新聞』記者となり、シベリア出兵に従軍記者として派遣された。その後、土陽新聞社社長に就任した。また高知市会議員、同参事会員、高知県会議員、同副議長に選出された。 1938年(昭和13年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。 その他、高知県書籍雑誌商組合長、高知木工工芸学校長などを務めた。
井内 彦四郎(いうち ひこしろう、1888年(明治21年)1… 井内 彦四郎(いうち ひこしろう、1888年(明治21年)1月4日 - 1969年(昭和44年)11月6日)は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌)に入社し、その子会社の参宮急行電鉄(参急)専務取締役を務め、同社の路線規模拡大の先導役となった。高知県出身。 高知県安芸市(当時は安芸郡安芸町)、三菱財閥創始者である岩崎弥太郎を輩出した街で生まれた井内は、明治39年に県立第三中学校(後の安芸高校)を卒業、東京高等商業学校(後の一橋大学)に進学後、岩崎弥太郎の従弟である豊川良平から三菱系列へ入社することを推薦された。しかし、「三菱は既に組織が整っており、私のような鈍才がいってもやる事はない。
両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年(明治21年)1… 両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年(明治21年)1月4日 - 1963年(昭和38年)9月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長野県諏訪郡湖東村[要出典](現茅野市)出身。諏訪中学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第58連隊付となる。同連隊中隊長などを経て、陸軍歩兵学校で甲種学生として学んだ。 以後、陸士生徒隊中隊長、教育総監部付勤務、豊橋陸軍教導学校学生隊中隊長、同校副官、歩兵第59連隊大隊長、歩兵第59連隊付、歩兵第1連隊付(東京慈恵会医科大学配属将校)、歩兵第29連隊留守隊長、歩兵第65連隊長、本郷連隊区司令官などを歴任し、1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級。
森 俊成(もり としなり、1887年(明治20年)1月4日 … 森 俊成(もり としなり、1887年(明治20年)1月4日 – 1956年(昭和31年)9月16日)は、日本の華族、政治家。貴族院子爵議員、中野町長。旧三日月藩主森家第11代当主。旧名は訥郎。 子爵関博直の四男として生まれ、1900年(明治33年)に子爵森長祥の養子となり家督を相続した。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学を卒業した。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出された。1928年(昭和3年)には東京府豊多摩郡中野町(現在の東京都中野区南部)の町長に選出され、1932年(昭和7年)に中野町が東京市に編入され消滅するまで在任した。中野町消滅後に東京市会議員選挙に出馬し、当選。
岡田 壽吉(おかだ ひさきち / じゅきち、1887年1月4… 岡田 壽吉(おかだ ひさきち / じゅきち、1887年1月4日 - 1949年3月6日以降)は、長崎市長(2期)。1945年8月9日の長崎原爆投下時の市長でもあった。名前は寿吉とも表記される。 兵庫県出身。1921年東京帝国大学法学部を卒業。三菱重工長崎造船所に入り、総務部長、副長などを務め、その一方、長崎市会議員を2期務めた。1941年10月22日長崎市長に就任した。民間出身としては初の市長となった。就任直後に太平洋戦争が勃発、戦時体制が強化されるなか困難な市政運営であった。 1945年8月9日、長崎市への原子爆弾投下により市内に甚大な被害が生じた。岡田は市庁舎に居て被爆したものの助かったが、爆心地から約200ⅿの位置にあった自宅の妻と長女、旧制瓊浦中学に通学していた長男の家族3名を失った。
高畠 素之(たかばたけ もとゆき、1886年1月4日 - 1… 高畠 素之(たかばたけ もとゆき、1886年1月4日 - 1928年12月23日)は、日本の社会思想家、哲学者。資本論の全訳を行い、国家社会主義を唱えた。 旧前橋藩士の子。クリスチャンとなり同志社神学校に入るも、途中キリスト教を捨て中退。高崎市で社会主義雑誌『東北評論』を発刊、1908年新聞紙条例により禁固2ヶ月の刑を受け入獄、獄中で英訳のカール・マルクス『資本論』(1867年出版)に出合う。 1911年、売文社に入り社会主義活動に身を挺す。1915年、堺利彦・山川均らと『新社会』を発行することで、マルクス主義を紹介した。特に1917年からカール・カウツキーの『資本論解説』(原題『カール・マルクスの経済学説』、1887年出版)を翻訳したことは、彼のマルクス研究者としての地位を確固のものとした。
広野 規矩太郎(廣野、ひろの きくたろう、1885年(明治1… 広野 規矩太郎(廣野、ひろの きくたろう、1885年(明治18年)1月4日 - 1961年(昭和36年)12月21日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家。衆議院議員(1期)。 実業家・広野織蔵の長男として滋賀県犬上郡彦根江戸町(彦根町を経て現彦根市)に生まれる。彦根中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)京都帝国大学法科大学政治科を卒業。横浜正金銀行に入行し、本店、大阪、神戸各支店にて勤務。1920年(大正9年)1月、父が頭取を務める百三十三銀行に移り専務取締役に就任した。 のち百三十三銀行、滋賀貯蓄銀行、近江信託、琵琶湖ホテル各取締役、滋賀銀行取締役、同頭取、同会長を歴任する。
伊藤 吉之助(いとう きちのすけ、1885年(明治18年)1… 伊藤 吉之助(いとう きちのすけ、1885年(明治18年)1月4日 - 1961年(昭和36年)7月7日)は、日本の哲学者。 1885年、山形県酒田市で生まれた。旧姓は須田。生家は雑貨卸商であった。 1903年に山形県立荘内中学校を卒業し、第一高等学校 に入学。一高を卒業後は東京帝国大学文学部哲学科に進学。同期生には安倍能成、小山鞆絵、宮本和吉らがいた。また、同郷であった阿部次郎と宮本和吉と合わせて「庄内の哲学三羽烏」と呼ばれた。1909年、卒業論文「カントを中心とした空間論」を提出して同大学を卒業。卒業後は同大学大学院に進み、5年間在籍した。 1911年から1918年まで、東京帝国大学副手を務めた。
南波 杢三郎(なんば もくさぶろう 1883年1月4日 - … 南波 杢三郎(なんば もくさぶろう 1883年1月4日 - 1967年12月17日)は、日本の検察官。 東京中学、三高を経て、1908年10月に東京帝国大学法学部法律学科独法科卒業。同年11月に司法官試補。石巻区裁判所・古川区裁判所各判事、前橋区裁判所検事などを経て、1916年に東京区裁判所兼東京地方裁判所検事に就任。以後、栃木県警察部長、福井県内務部長を経て、1924年12月に退官。1927年、時の内相・鈴木喜三郎により、内務省警保局長・山岡萬之助(のちの日本大学総長)とともに、警保局保安課長に任ぜられる。またこの件にて保安課長は奏任官から勅任官となる。特別高等警察の拡充、治安維持法の強化を図り、内務省の権限と影響力を強化した。
吉田 真策(よしだ しんさく、1883年(明治16年)1月4… 吉田 真策(よしだ しんさく、1883年(明治16年)1月4日 - 1927年(昭和2年)9月29日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 広島県山県郡吉坂村(現在の北広島町)出身。1909年、京都帝国大学法科大学卒業。統監府検事、朝鮮総督府大邱地方裁判所検事を務めた。退官後、京都で弁護士を開業し、1911年(明治44年)に広島に転じた。また広陵中学校理事も務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4… 池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4日 - 1921年(大正10年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。 1883年(明治16年)1月4日、東京府京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。1895年(明治28年)に水野年方に内弟子として入門。1899年(明治32年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。1902年(明治35年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌1903年(明治36年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。
関口 義慶二(せきぐち ぎけいじ、1882年〈明治15年〉1… 関口 義慶二(せきぐち ぎけいじ、1882年〈明治15年〉1月4日 - 1945年〈昭和20年〉2月3日)は、大正から昭和時代前期の政治家。群馬県桐生市長。 関口玉吉の長男として群馬県邑楽郡高島村(現・邑楽町)に生まれる。1903年(明治36年)3月、群馬県師範学校を卒業後、教員となり、1907年(明治40年)3月、群馬県川場小学校の校長に就任。 ついで、官界に転じ、同県北甘楽郡視学、群馬県属、知事官房主事、碓氷郡長、山田郡長を経て、1925年(大正14年)8月12日に桐生市長に就任。1933年(昭和8年)に桐生火葬場事件の責任を取って一旦辞任したものの、市議会に推されて40日後に再就任し、1940年(昭和15年)5月まで市長を務めた。
小幡 豊治(おばた とよじ、1880年1月4日 - 1961… 小幡 豊治(おばた とよじ、1880年1月4日 - 1961年7月30日)は、日本の内務官僚、検察官、弁護士。政友会系県知事。 千葉県出身。小幡締次郎の三男として生まれる。1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法省に入り、千葉地方裁判所・津地方裁判所・名古屋地方裁判所・浦和地方裁判所・東京地方裁判所などの検事を歴任。 1917年(大正6年)1月、内務省に転じ警視庁保安部長に就任。以後、愛知県・大阪府の各内務部長などを歴任。 1922年(大正11年)10月、高知県知事に就任し、郡道の県立移管問題や発電所の増設に尽力。さらに、鹿児島県知事、徳島県知事を務める。1926年(大正15年)9月28日に知事を休職。
石川 定辰(いしかわ ていしん、1880年〈明治13年〉1月… 石川 定辰(いしかわ ていしん、1880年〈明治13年〉1月4日 - 1947年〈昭和22年〉10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 秋田県南秋田郡秋田町中長町(現秋田市中通)出身。新聞記者、秋田時事新聞主幹、秋田新聞社、東北拓殖、東北物産商事、能代無尽各(株)取締役、秋田木工、辛酉銀行各(株)代表取締役となる。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙において秋田1区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが次点で落選した。1936年(昭和11年)第19回衆議院議員総選挙で立候補したが次点落選。最下位当選者とは1票差だった。しかし、同年12月に同じ選挙区の中田儀直の当選無効により、更正決定で議員となる。
大場 信続(おおば のぶつぐ、1879年(明治12年)1月4… 大場 信続(おおば のぶつぐ、1879年(明治12年)1月4日 - 1964年(昭和39年)10月7日)は、日本の郷士家。農業土木技術者。大場家は源平合戦(治承・寿永の乱)に勇名を知られた大庭景親の後胤で近世では代々世田谷郷の井伊家領土の代官。信続は13代目にあたる。父信愛の長男として世田谷邸世田谷代官屋敷に生まれる。 東京帝国大学農科大学農学科に入学し、学生時代農科の端艇部ボート選手として紫友会に活躍。1903年(明治36年)卒業後、兵役に服し陸軍砲兵少尉に任じる。1905年(明治38年)大学院に進学。農業工学を研究し、また1年間大学主催の耕地整理講習会にも参加。その後、東京農業大学の前身東京高等農学校講師、農商務省嘱託。
牧野 輝智(まきの てるとし 1879年(明治12年)1月4… 牧野 輝智(まきの てるとし 1879年(明治12年)1月4日 - 1941年(昭和16年)8月29日)は、日本のジャーナリスト、経済学者。専門は財政学。学位は経済学博士(東京帝国大学) 牧野鼎藏の三男として熊本県に生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)を1897年(明治30年)に卒業して、熊本県立商業学校で英語や地理を教え、間もなく教頭になる。その後佐賀県立佐賀中学校、暁星中学校等の教壇に立つ。 同郷の大先輩である清浦奎吾が農商務大臣に就任すると、清浦の要請で農商務省特許局嘱託の農商務大臣秘書に転身し、清浦と久米金弥特許局長が創設した工業所有権保護協会の機関誌『工業所有権雑誌』の主幹も務める。
高木 音蔵(たかぎ おとぞう、1878年〈明治11年〉1月4… 高木 音蔵(たかぎ おとぞう、1878年〈明治11年〉1月4日 - 1958年〈昭和33年〉3月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県海西郡、のちの海津郡海西村(平田町を経て現海津市)出身。京都高等蚕業学校(現・京都工芸繊維大学)卒。岐阜県蚕業取締所吏員、土岐蚕業講習所長、恵那郡蚕業技手、海西村議、同村長、水利組合会議員、県町村会評議員、郡農会、村農会、県農事協会、同地方協会各役員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において岐阜4区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に入り、衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
長野 幹(ながの みき / かん、1877年1月4日 - 1… 長野 幹(ながの みき / かん、1877年1月4日 - 1963年1月)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。旧姓・大木。 元福井藩士・教師である三寺三作(後に大木本彌に改名)の息子として生れ、長野家の養子となる。1903年7月に東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年11月、高等文官試験行政科に合格。内務省に入省。東京府属。 1911年には、ドイツで開かれた万国衛生博覧会に参加。欧米各国を視察した。その後、1916年に三重県知事に任命され、その後、山梨県知事、朝鮮総督府学務局長、秋田県知事、鹿児島県知事などを歴任。1927年5月17日に鹿児島県知事を休職となり、以後民間で会社経営などにあたった。
池田 稔(いけだ みのる、1876年(明治9年)1月4日 -… 池田 稔(いけだ みのる、1876年(明治9年)1月4日 - 没年不明)は、日本の建築家。正七位勲六等。工学士。 松本藩士、池田義重の長男として生まれる。1902年(明治35年)、東京帝国大学工科大学(現東京大学工学部)建築学科卒業。同年東宮御所御造営厨設計課勤務を嘱託される。1905年(明治38年)には日露戦争に陸軍歩兵少尉として出征するが、同年再び勤務し、1906年(明治39年)農商務省に入省、技師となる。1909年(明治42年)アメリカ合衆国差遣。 1911年(明治44年)10月、一般の新聞ならびに建築雑誌などにおいて懸賞募集が広告された三菱本館のコンペティションに応募し、2等に選出される。
國ヶ岩 夘八(くにがいわ うはち、1875年1月4日 - 1… 國ヶ岩 夘八(くにがいわ うはち、1875年1月4日 - 1932年2月17日)は、徳島県美馬市出身で小野川部屋、草風部屋(京都相撲)、入間川部屋に所属した力士。本名は山本 宇八。8代待乳山、7代稲川。165cm、88kg。最高位は東前頭18枚目(ただし、番付外幕尻格)。 大坂相撲、京都相撲に在籍し、京都相撲では史上最後の大関となった。その後39歳で東上し1914年5月幕尻格で初土俵入幕。それ以後は十両、幕下で過ごし、1919年1月に引退して待乳山を襲名、のち稲川に変更し、出羽海部屋で指導した。 日ノ出松→國岩→國ヶ岩
杉 栄三郎(すぎ えいざぶろう、1873年(明治6年)1月4… 杉 栄三郎(すぎ えいざぶろう、1873年(明治6年)1月4日 - 1965年(昭和40年)6月7日)は、日本の宮内官僚。帝室博物館総長。法学博士。 岡山県哲多郡矢神村(現在の新見市)出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。会計検査院に入ったが、1902年(明治35年)より清国の招聘で京師大学堂(北京大学の前身)教授となった。10年間在職したが、辛亥革命により帰国した。帰国後は会計検査院に戻り、検査官、第一部第三課長を務めた。その後、宮内省に移り、書記官、参事官、帝室林野局主事、図書頭、諸陵頭を歴任した。1932年(昭和7年)より帝室博物館総長を務めた。1938年(昭和13年)6月16日、大正天皇実録及び明治以前の天皇皇族実録編集関係者への行賞が行われる中、前図書頭であった渡部に賜金、賜品が授けられた。
森 広三郎(旧字体: 森 廣三郞、もり ひろさぶろう、187… 森 広三郎(旧字体: 森 廣三郞、もり ひろさぶろう、1871年1月4日(明治3年11月14日)- 1939年(昭和14年)7月13日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・広輔。 越前国今立郡稲寄村(福井県今立郡稲寄村、国高村稲寄、武生市を経て現越前市)で、豪農、先代・森広三郎の長男として生まれた。1901年(明治34年)8月、家督を相続し広三郎を襲名した。父の反対を受けながらも上京して英吉利法律学校(現中央大学)で学んだが、ついに父の意思に従い中退して帰郷した。 今立郡会議員に就任。1903年(明治36年)9月、福井県会議員に選出され、1905年(明治38年)5月まで在任し、同参事会員も務めた。
伊藤 広幾(いとう ひろちか / ひろき、1870年1月4日… 伊藤 広幾(いとう ひろちか / ひろき、1870年1月4日(明治2年12月3日) - 1923年(大正12年)4月4日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員。 陸中国稗貫郡、のちの岩手県稗貫郡根子村(花巻川口町、花巻町を経て現花巻市)で、伊藤弓太の長男として生まれる。1893年、札幌農学校農学科を卒業した。その後、北海道空知郡奈江村(現奈井江町)の土地50万坪を借りて開墾に従事。1895年、夕張郡角田村(現栗山町)に移り、水田の開墾に尽力し、同村を北海道水田の模範地となした。角田村会議員、同村農会長、夕張郡農会長、北海道農会副会長を歴任。 1919年11月、資本金百万円で北海道殖産銀行を設立し頭取に就任。
三好 学(みよし まなぶ、1862年1月4日(文久元年12月… 三好 学(みよし まなぶ、1862年1月4日(文久元年12月5日) - 1939年(昭和14年)5月11日)は、明治・大正・昭和時代の植物学者。学位は、理学博士。日本の植物学の基礎を築いた人物の一人である。特に桜とハナショウブの研究に関しての第一人者として知られ、殊に桜博士とも呼ばれた。また、天然記念物の概念を日本に広めた先駆者であり、希少植物の保存活動に尽力した。 文久元年(1862年)、美濃国岩村藩士の次子として同藩江戸藩邸に生まれる。出生後は岩村で幼年期を過ごした。11歳の時に父が没したため、越前国坂井郡の浄土宗西光寺の住職の伯父に引き取られてそこで学んだ。明治9年(1876年)にのちの石川県第三師範学校に入学して、明治11年(1878年)に同校を卒業した。
小田 伴輔(おだ ばんすけ、1862年1月4日(文久元年12… 小田 伴輔(おだ ばんすけ、1862年1月4日(文久元年12月5日)- 1941年(昭和16年)12月12日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国玖珂郡柳井村(のち山口県玖珂郡柳井町を経て現柳井市)で、小田超祐の長男として生まれ、1880年(明治13年)1月、家督を相続した。柳井町長、周防銀行取締役となる。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙において山口5区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めたが、1895年(明治28年)8月27日に議員を辞職した。1941年に死去した。