上田 薫(うえだ かおる、UEDA, Kaoru、1928年… 上田 薫(うえだ かおる、UEDA, Kaoru、1928年〈昭和3年〉12月4日 - 2025年9月26日)は、洋画家。茨城大学名誉教授。 東京都渋谷区代々木出身。妻は上田葉子。日本のスーパーリアリズムの第一人者である。ただし、上田自身は自らの作風は抽象絵画であり、リアリズムとは大きく異なると語っている。代表作は、中学校や高等学校の美術の教科書にも掲載された割れた生玉子の殻から中身が落ちる瞬間を描いた作品である。ほかにもスプーンですくい取られたアイスクリーム、シャボン玉、ゼリー、水の流れといった作品も高く評価されている。 1928年(昭和3年)東京都出身。医学部受験に失敗した時期に富永惣一と出会い、東京藝術大学に進学する。
蒲生 芳郎(がもう よしろう、1928年12月4日 - 20… 蒲生 芳郎(がもう よしろう、1928年12月4日 - 2011年)は、日本近代文学研究者、宮城学院女子大学名誉教授。 山形師範学校で藤沢周平、松坂俊夫らと同人誌『砕氷船』に参加、東北大学仏文科を卒業後宮城県で高校教諭として教鞭を執る傍ら、森鷗外・夏目漱石など近代日本文学について論文を発表し、宮城学院女子大学教授となる。教授になってからは、山形師範同期の藤沢周平、東北大同期の山折哲雄とも親交を深めた。 「堺事件」論争では大岡昇平と駁論した。また、旧友藤沢周平についても著作を著したほか『カラマーゾフの兄弟』『戦争と平和』の縮訳まで出すなど異能の国文学者である。 晩年は、文学には必ずしも明るくない忙しい大人のため、大人が読むに堪える日本・世界文学の縮約本に情熱を燃やしたが、長年難病を患い、最終的には肺癌で没した。
杉本 茂雄(すぎもと しげお、1926年12月4日 - 20… 杉本 茂雄(すぎもと しげお、1926年12月4日 - 2002年4月2日)は兵庫県神戸市出身のサッカー選手、実業家。選手時代のポジションはHB、FB。 兵庫県立第一神戸中学校を経て関西学院大学法学部に入学。在学中はサッカー部に所属した。1948年3月に大学を卒業し、同年4月に京阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)に入社。 同社入社後もサッカーを続け、鴇田正憲らと共に「関学クラブ/全関学」(現役、OBで構成される混成チーム)の一員として1950年、1953年および1955年の全日本選手権大会 (現:天皇杯全日本サッカー選手権大会)の優勝に貢献した。 1951年2月11日の全関西戦で日本代表として初出場 し、1951年3月にインドで開催されたアジア競技大会、1954年3月の1954 FIFAワールドカップ・予選など国際Aマッチ3試合を6試合に出場した。
吉田 之久(よしだ ゆきひさ、1926年12月4日 - 20… 吉田 之久(よしだ ゆきひさ、1926年12月4日 - 2003年3月24日)は、日本の元軍人、政治家。海兵74期。最終階級は少尉。戦後、衆議院議員(通算7期)、参議院議員(連続2期)。奈良県磯城郡田原本町出身。位階は従三位。
上月重雄(こうづき しげお、1926年12月4日 - 200… 上月重雄(こうづき しげお、1926年12月4日 - 2002年6月10日)は日本の大蔵官僚。海外経済協力基金総務部長、印刷局長、石油資源開発副社長などを歴任。 兵庫県出身。東京大学経済学部経済学科卒業。1948年9月 大蔵省入省。主計局属。1952年9月 川内税務署長。1953年10月 杉並税務署長。1964年7月 総理府国防会議事務局参事官。1969年8月 関税局企画課長。1970年6月 北海道財務局長。1972年7月 海外経済協力基金総務部長。1973年6月29日 印刷局長。1974年7月10日 退官。退官後にむつ小川原開発常務。1977年6月 石油資源開発常務。その後は同社副社長。2002年6月10日に死去。
佐藤 武男(さとう たけお、1925年12月4日 - 201… 佐藤 武男(さとう たけお、1925年12月4日 - 2010年6月15日)は、日本の医師。 大阪府堺市生まれ。1951年大阪大学医学部卒、56年医学博士。大阪大学医学部耳鼻咽喉科講師、1975年熊本大学教授、1979年大阪府立成人病センターに移り、院長を務め、のち名誉総長。喉頭がんが専門で、近藤誠の「がんもどき」理論を批判した。
寺岡 真三(てらおか しんぞう、1925年(大正14年)12… 寺岡 真三(てらおか しんぞう、1925年(大正14年)12月4日 ‐ 2007年(平成19年)8月26日)は昭和期の作曲家、編曲家。本名寺田 常三郎。 京都府京都市出身。早稲田大学政治経済学部卒業。 1952年以後に、ビクターレコード専属作曲家となる。 1953年10月から59年4月まで文化放送で放送された『素人ジャズのど自慢』ではピアノを担当。 第2回日本レコード大賞大賞の「君恋し」(フランク永井)や、第6回日本レコード大賞編曲賞の「お座敷小唄」(松尾和子、和田弘とマヒナスターズ)、第11回日本レコード大賞編曲賞の「悲しみは駈け足でやってくる」(アン真理子)、ほか青江三奈の「恍惚のブルース」「長崎ブルース」「池袋の夜」など大ヒットの編曲を数々手掛けた。
10代 式守 与太夫(しきもり よだゆう、1925年12月4… 10代 式守 与太夫(しきもり よだゆう、1925年12月4日-1983年5月25日)は大相撲の元三役格行司。三役格としての在位期間は1977年11月〜1983年5月。立浪部屋所属。 長野県佐久市出身。本名は関口清三郎。 ヒゲの19代式守伊之助の弟子。27代木村庄之助は兄弟子、31代木村庄之助は弟弟子にあたる。1936年小学5年生の時に行司見習いとして春日山部屋に入門。 1937年夏場所に式守政吉の名で初土俵。のち政臣と改名し、1952年1月に十両格昇格、式守清三郎と改名。1958年7月に幕内格昇格。1969年3月に10代式守与太夫襲名。1974年1月に行司抜擢制度にて、序列1つ上の木村筆之助と序列が入れ替わり幕内格筆頭に昇進したが、同時に与太夫をも抜いて先に三役格に昇格したのは、与太夫より序列が2つ下だった8代式守錦太夫である。
うしお そうじ(牛尾 走児とも、1921年12月4日 - 2… うしお そうじ(牛尾 走児とも、1921年12月4日 - 2004年3月28日)は、日本の漫画家、アニメーター、特撮・映像作品プロデューサー、演出家である。映像製作会社「ピー・プロダクション」創業者。 本名は鷺巣 富雄(さぎす とみお)。別名:若林 藤吾、若林 不二吾(わかばやし ふじご)。 弟は、アニメ制作会社エイケンでプロデューサーを務めた鷺巣政安。長男は作曲家・現ピー・プロダクション社長の鷺巣詩郎。 1921年(大正10年)東京府東京市芝区(現・東京都港区)生まれ。実家は芝区の神明で、西洋家具の製造販売や、演劇関係の小道具を扱う「明光社」という大店だった。 1939年(昭和14年)、淀橋の工学院(現・工学院大学)を心臓脚気(脚気衝心)により中退。
角田 礼次郎(つのだ れいじろう、1920年12月4日-20… 角田 礼次郎(つのだ れいじろう、1920年12月4日-2020年11月17日 )は、日本の法律家。位階は正三位。 元最高裁判所判事、元内閣法制局長官。角田 禮次郎とも表記。 台湾総督府勤務の父親の任地である台湾の高雄で生まれ、1932年(昭和7年)まで同地に住んでいた。 第一高等学校を経て1944年(昭和19年)に東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入り、自治省から内閣法制局に。大平、鈴木、中曽根の三内閣にわたって内閣法制局長官を務めた。内閣法制局長官として憲法改正、閣僚靖国神社公式参拝、徴兵制違憲などについて政府統一見解を政府答弁書をまとめる中心的存在だった。 1975年3月18日、衆議院内閣委員会で内閣法制局第一部長として「昭和という元号は、法律上の基礎はなく、慣習として用いられている」「陛下に万一のことがあれば、昭和という元号がその瞬間に消え、空白の時代が始まる」と答弁した。
徳山 二郎(とくやま じろう、1919年12月4日 - 20… 徳山 二郎(とくやま じろう、1919年12月4日 - 2000年10月14日)は、日本の実業家、経済評論家。野村総合研究所取締役副社長。
鈴木 竹柏(すずき ちくはく、1918年12月4日 - 20… 鈴木 竹柏(すずき ちくはく、1918年12月4日 - 2020年2月7日)は、日本画家、日本芸術院会員。日展の事務局長や理事長、会長を歴任。神奈川県生まれ。
長谷川 信(はせがわ しん、1918年12月4日 - 199… 長谷川 信(はせがわ しん、1918年12月4日 - 1990年10月28日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。位階は従三位。勲等は勲一等。 新潟県長岡市で生まれ育つ。旧制新潟県立長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)卒業後、旧制第一早稲田高等学院(現在の早稲田大学の教養課程)入学している。その後は、父の死去に伴い旧制早稲田高等学院を中退し、17歳で長谷川酒造社長に就任する。 その後、戦時中は1942年5月、南西方面艦隊海軍民政府に志願し、インドネシアのセレベス島マカッサルに勤務したとされている。1944年12月、帰国した。 終戦後、青年団活動を経て、上組村議、宮内町議、長岡市議を2期、新潟県議会議員を4期を務めあげた。
成相 善十(なりあい ぜんじゅう、1915年(大正4年)12… 成相 善十(なりあい ぜんじゅう、1915年(大正4年)12月4日 - 1998年(平成10年)11月10日)は、日本の政治家、参議院議員を務める(2期)。柔道家。 島根県出雲市出身。慶應義塾大学法学部政治学科を1941年に卒業。島根県議会議員を経て、1977年の第11回参議院議員通常選挙に出馬し当選。同郷の櫻内義雄に近かったため中曽根派に所属し、参議院議院運営委員会筆頭理事、参議院農林水産委員長、自由民主党参院副幹事長などの要職を歴任した。1989年の第15回参議院議員通常選挙では自民党公認が得られず、無所属で出馬して落選、政界を引退した。 1998年11月10日、肺炎のため出雲市の島根医科大学医学部附属病院で死去、82歳。
今村 泰二(いまむら たいじ、1913年12月4日 - 20… 今村 泰二(いまむら たいじ、1913年12月4日 - 2004年12月28日)は、日本の動物学者で、ミズダニ研究の世界的権威。兵庫県出身。 1946年から1971年に国内外で収集されたミズダニ類の標本1,541点が、本人の生前からの希望もあり茨城大学理学部森野浩教授および茨城大学広域水圏科学教育研究センター菊地義昭教授ならびに日本大学大学院生物資源科学研究科安倍弘教授の尽力により、2005年に遺族からミュージアムパーク茨城県自然博物館(館長:菅谷博)へ寄贈された。 標本の中には、28科59属154種10亜種のホロタイプ(正基準標本)が含まれており、学術的に大変貴重なものである。寄贈された標本は、「今村泰二ミズダニ類コレクション」として同博物館で保管されている。
佐伯 幸三(さえき こうぞう、1912年(大正元年)12月4… 佐伯 幸三(さえき こうぞう、1912年(大正元年)12月4日 - 1972年(昭和47年)12月27日)は、日本の映画監督、脚本家である。サイレント映画の時代からキャリアを持つ。 1912年(大正元年)12月4日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に生まれる。 旧制・早稲田中学校(現在の早稲田高等学校)を中途退学した後に、内外通信社、博報堂に勤める。 映画界での最初のキャリアは東京・巣鴨に撮影所を持つ大都映画で、1934年(昭和9年)、同社のオーナーの河合徳三郎の原作を脚色し、中島宝三が監督したサイレント映画『名君道中記』で脚本家としてデビューした。1934年(昭和10年)、大都映画に助監督として入社。
大軒 順三(おおのき じゅんぞう、1911年(明治44年)1… 大軒 順三(おおのき じゅんぞう、1911年(明治44年)12月4日 - 1982年(昭和57年)1月28日)は、日本の実業家。日本経済新聞社元社長。静岡県出身。 1934年に早稲田大学政治経済学部卒業。同年に日本経済新聞社の前身である中外商業新報社に入社した。 シンガポール支局長、日本経済新聞大阪本社代表などを経て、1954年には取締役に就任し、常務、専務を経て、日本経済新聞の創刊100周年になる1976年3月からは社長に就任。積極的な営業展開により発行部数を着実に伸ばしていき、経営基盤をより強化していった。 テレビ東京、日経マグロウヒル社などの取締役にも兼任し、1979年からは日本新聞協会会長を務め、新聞業界の販売正常化と電算機による新聞製作の推進を務めた。
望月 衛(もちづき まもる、1910年12月4日 - 199… 望月 衛(もちづき まもる、1910年12月4日 - 1993年12月28日)は、日本の心理学者、千葉大学名誉教授。本名は「衞」だが、著書等では「衛」も使用した。 東京出身。1933年東京帝国大学文学部心理学科卒。陸軍航空本部に勤務。戦後は東宝に入社。思想の科学研究会に参加。東洋大学教授、1954年千葉大学教授。1976年定年退官、名誉教授、国際商科大学(現・東京国際大学)教授。1955年の『欲望』がベストセラーとなり、一般向け雑誌で盛んに発言した。1983年4月勲三等旭日中綬章を受章。 同性愛に関し、戦後初期の日本におけるパイオニア的オピニオンリーダーであり、三島由紀夫とも交流があり、論文「性的成熟と社会的成熟―三島由紀夫「仮面の告白」を検討しつゝ」(「思索」1949年11月)においては、自著『性と生活』で詳論した「仮性同性性愛(男性ジェンダーをもった男によるホモセクシュアリティ)」の生き生きとした例として『仮面の告白』の分析を行なっている。
木村 栄(きむら さかえ、1910年(明治43年)12月4日… 木村 栄(きむら さかえ、1910年(明治43年)12月4日 – 1991年(平成3年)12月31日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 島根県八束郡古江村(現松江市)で生まれた。松江中学校(現島根県立松江北高等学校)を3年で中退し、1929年(昭和4年)に文学を志して上京したが半年で帰郷。農民運動に加わり、全国農民組合島根県連青年部書記を務めた。1931年(昭和6年)治安維持法違反容疑で起訴された。また、若松汽船大阪出張所、山陰道産業にも勤め、のち陸上小運搬業も経営した。 戦後、日農島根県連の結成に参与し書記長に就任し、県農地委員となり農地改革を推進した。日本共産党に入党し、1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で島根県全県区から共産党公認で出馬して初当選。
原島 宏治(はらしま こうじ、1909年〈明治42年〉12月… 原島 宏治(はらしま こうじ、1909年〈明治42年〉12月4日 - 1964年〈昭和39年〉12月9日)は、日本の政治家、宗教家、小学校教員。 東京都大田区議会議員(1期)、参議院議員(1期)、創価学会理事長(第3代)、公明党中央執行委員会委員長(初代)などを歴任した。 東京都西多摩郡奥多摩町生まれ。幼名は鯉之助。 1929年(昭和4年)、東京府青山師範学校を卒業。以降26年間、東京各地の小学校教員に就いた。 1940年(昭和15年)、創価教育学会(現:創価学会)の設立と同時に入会する。 1943年(昭和18年)の創価学会弾圧により、治安維持法違反と不敬罪の容疑で牧口常三郎、戸田城聖らが逮捕・投獄された後、留守番役として苦闘した。
図司 安正(圖司 安正、ずし やすまさ、1905年(明治38… 図司 安正(圖司 安正、ずし やすまさ、1905年(明治38年)12月4日 - 1990年(平成2年)5月12日)は、日本の政治家。衆議院議員。 1976年(昭和51年)に勲二等瑞宝章を受章している。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
尾島 碩心(おじま せきしん、1904年12月4日 - 19… 尾島 碩心(おじま せきしん、1904年12月4日 - 1986年1月19日)は日本の心理学者、東京教育大学教授。専門は聴覚心理、ろう教育。1963年11月に榊原清、西谷三四郎らとともに一般社団法人日本特殊教育学会を創立した。聴覚障害児教育の分野に貢献した。勲三等旭日中綬章。 東京都生まれ。(旧制)東京高等学校を卒業。1931年東京帝国大学文学部心理学科を卒業、卒業論文の題名は「旋律的形態知覚の一条件」。同年、同大学大学院に進む。1932年東京帝国大学文学部副手を兼務。1937年(旧制)第六高等学校教授に就任。1942年陸軍予科士官学校教官兼教育総監部付に就任。1946年(旧制)松江高等学校教授に就任。
上田 仁(うえだ まさし、1904年12月4日 - 1966… 上田 仁(うえだ まさし、1904年12月4日 - 1966年12月26日)は、日本の指揮者・ファゴット奏者。
曽根 定丸(そね さだまる、1904年12月4日 - 没年不… 曽根 定丸(そね さだまる、1904年12月4日 - 没年不詳)は愛媛県出身の民間飛行家。1925年、愛媛県下初の認可飛行場を開設し、後に南米ペルーへ移民として渡った。 1904年(明治37年)12月4日、愛媛県喜多郡宇和川村で生まれる。1922年(大正11年)には東京蒲田駅前にある日本自動車学校航空科へ入学し、機体及び発動機に関して学ぶと同年卒業。続いて同年12月に千葉市寒川海岸で飛行練習場を開いていた白戸栄之助の門下となり、練習部及び研究科で研鑚を積む。1923年(大正12年)9月、関東大震災の影響で同所が閉鎖となると、定丸は白戸により同県津田沼の伊藤音次郎に委託された。同年11月に三等飛行機操縦士の試験を受け、12月付けで航空局より免状を得る。
山下 俊郎(やました としお、1903年12月4日 - 19… 山下 俊郎(やました としお、1903年12月4日 - 1982年3月19日)は、日本の教育心理学者。東京都立大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市下竜尾町出身。鹿児島一中 (旧制)、第一高等学校 (旧制)を経て、1928年東京帝国大学文学部心理学科卒。1962年「幼児における基本的習慣の研究」で東北大学より文学博士の学位を取得。大日本婦人連合会家庭教育相談所、愛育会・愛育研究所所員、同教養部長、愛育幼稚園長、東京家政大学教授をへて、旧・東京都立大学教授となる。1967年定年退官、名誉教授となり、再度東京家政大学教授、同付属みどりヶ丘幼稚園長、川村短期大学教授。日本保育学会会長を務めた。
古賀 忠道(こが ただみち、もしくは、こが ちゅうどう、19… 古賀 忠道(こが ただみち、もしくは、こが ちゅうどう、1903年12月4日 - 1986年4月25日)は佐賀県出身の上野動物園初代園長。 1903年12月4日、佐賀県生まれ。東京帝国大学農学部獣医学科卒。東京市公園局・上野恩賜公園動物園(上野動物園の前身)勤務。1937年、それまでなかった園長制度設立とともに「初代園長」就任(1937年までは黒川義太郎が第2代監督)。動物園においては、子ども動物園の開園、おサル電車の設置、インドのネルー首相より贈られたアジアゾウのインディラを目玉とした移動動物園など、動物と人間の係わり合いを高める様々な試みを展開する。1962年の動物園創立80年記念行事を最後に園長を引退。
関屋 五十二(せきや いそじ 1902年12月4日 - 19… 関屋 五十二(せきや いそじ 1902年12月4日 - 1984年10月15日)は、栃木県出身の童話作家、放送作家。 栃木県足利郡御厨町(現在の足利市)出身。青山学院大学卒。1925年、東京中央放送局(現・NHK放送センター)に入局し、児童向けの夕方のワイド番組「子供(少国民)の時間」のニュース解説のコーナー「コドモの新聞」を担当し「関屋おじさん」として知られ、「村岡おばさん」こと村岡花子(作家)とともに、番組をリードしていった。 戦後もバラエティー番組「二十の扉」、「話の泉」などを手掛け、自らも出演した。その後は民間放送に活躍の場を移し、プロテスタントの布教活動の番組「ルーテルアワー」を企画し、派生番組であった「ルーテルアワー・夜の名曲」などを含め、脚本・演出を務めた。
斎藤 武雄(さいとう たけお、1902年(明治35年)12月… 斎藤 武雄(さいとう たけお、1902年(明治35年)12月4日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚、実業家。官選福井県知事、兵庫県教育委員長。 広島県出身。斎藤元四郎の長男として生まれた。松山高等学校を卒業。1926年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、和歌山県社寺兵事課長、同秘書課長、同学務課長、同商工課長、同水産課長、岐阜県社会課長、同庶務課長、兵庫県都市計画課長、青森県書記官・警察部長、満州国奉天省警務庁長、満州国民政部労務司長、兵庫県第一部長、京都府内政部長などを歴任。 1946年1月25日、福井県知事に就任。
西浦 進(にしうら すすむ、1901年(明治34年)12月4… 西浦 進(にしうら すすむ、1901年(明治34年)12月4日 - 1970年(昭和45年)11月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大佐。 陸軍士官学校34期(秩父宮を除き3番、恩賜)、陸軍大学校42期(首席)。陸軍士官学校同期の服部卓四郎および堀場一雄と並び「34期三羽烏」と称された。主に陸軍省軍務局に属して軍政に従事、太平洋戦争開戦前後には東條英機首相兼陸軍大臣の大臣秘書官を務めた。戦後は太平洋戦争史の調査研究に注力し、防衛庁防衛研修所戦史室の初代室長として『戦史叢書』の編纂を進めた。 1901年(明治34年)に東京で、陸軍歩兵中尉西浦栄蔵の子として生まれる。旧制和歌山県立和歌山中学校から、1915年(大正4年)に大阪陸軍地方幼年学校へ進む。
大久保 傳藏(おおくぼ でんぞう、1901年12月4日 - … 大久保 傳藏(おおくぼ でんぞう、1901年12月4日 - 1986年9月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。山形市長(第13代、3期)。山形市名誉市民。勲四等旭日小綬章、紺綬褒章を受章。位階は従五位。 山形県山形市出身。1928年中央大学法学部卒。東洋モスリンに入り、東洋紡績労務課長を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では山形1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに立候補したため落選した。その後、恩賜財団戦災援護会啓発課長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において山形県から日本進歩党公認で立候補して当選する。進歩党内では遊説部長となったが、翌年、公職追放となった。
柴田 衛(しばた まもる、1900年12月4日 - 1977… 柴田 衛(しばた まもる、1900年12月4日 - 1977年12月29日)は、日本の鉄道・機械技術者。 日本の電車用連結器として21世紀初めまでもっとも広範に用いられている柴田式密着連結器の開発者として知られる。 同じく鉄道省に勤務した技術者で柴田式自動連結器開発者の柴田兵衛は実兄。 本籍地は東京府豊多摩郡杉並町。1916年(大正5年)岩倉鉄道学校卒業、鉄道院に入職。以後鉄道省改組後も勤務し、工作局車両課の技手として長く電車を担当した。業務と並行して日本大学高等工学校(現在:理工学部)に学び1923年(大正12年)卒業。1938年(昭和13年)3月に技師に昇格したが、1939年(昭和14年)12月退官。
井田 文夫(いだ ふみお、1900年12月4日 - 1975… 井田 文夫(いだ ふみお、1900年12月4日 - 1975年10月23日)は、日本の実業家。サンヨー食品の創業者。群馬県佐波郡玉村町出身。 1917年に群馬県立高崎中学校を卒業。 家業の井田酒造に参画し、1933年に泉屋酒店として独立し、前橋市に開業。1955年に富士製麺(現在のサンヨー食品)を創業し、社長に就任。 1975年4月に紺綬褒章を受章。 1975年10月23日福岡市で出張中に脳卒中のために死去。74歳没。
大平 秀雄(おおひら ひでお、1898年(明治31年)12月… 大平 秀雄(おおひら ひでお、1898年(明治31年)12月4日 - 1995年(平成7年)1月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 香川県出身。農業・大平万太良の二男として生まれる。旧制三豊中学校(現香川県立観音寺第一高等学校)卒業を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第22連隊付となる。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し歩兵第22連隊中隊長に就任。 1932年(昭和7年)12月、参謀本部付勤務となる。以後、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、中国駐在(南京、香港)を経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に進級。
岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12… 岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日)は神道家、宗教家、神典研究家。岡山県浅口郡玉島町出身。本名は信之。天明は「雅号」である。 信之は幼少の頃から、他人には見えないものが見えたり(霊視能力)、聞こえたり(霊聴能力)、霊能力を持っている子供だったという(岡本三典『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』)(参)。また、絵が得意で17歳の頃に神戸三宮で絵の個展を開き、新聞に「天才少年画家現る」と称賛されたという。その後、上京し明治大学に学ぶ。紆余曲折を経て大本に出会ったのは1920年(大正9年)、天明が22歳の時だった。 1944年(昭和19年)6月10日、千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)の麻賀多神社の末社である天日津久神社を参拝する。
福田 悌夫(ふくだ やすお、1895年(明治28年)12月4… 福田 悌夫(ふくだ やすお、1895年(明治28年)12月4日 - 1966年(昭和41年)8月28日)は、大正から昭和期の地主、農業経営者、著述家、教育者、実業家、政治家。衆議院議員、山口県都濃郡福川町長。 山口県都濃郡福川村(福川町(第1次)、徳山市、福川町(第2次)、南陽町、新南陽市を経て現周南市)で福田秀夫の五男として生まれ、素封家福田民平の養子となる。1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 農業を営む。著述業にも従事し、雑誌『新思潮』を経営。その後、徳山実業実践学校講師、徳山商業学校教諭を務めた。政治家道源権治の後継者と目され、都濃郡農会長、同教育会長の後任に推薦されて就任。
赤松 克麿(あかまつ かつまろ、1894年(明治27年)12… 赤松 克麿(あかまつ かつまろ、1894年(明治27年)12月4日 - 1955年(昭和30年)12月13日)は、大正・昭和時代の社会主義運動家で、その後左翼活動家・国家社会主義運動家に転じた。衆議院議員。
国生義夫(こくしょう よしお、1892年12月4日 – 19… 国生義夫(こくしょう よしお、1892年12月4日 – 1976年6月16日)は、鹿児島県出身の実業家。明治乳業の元社長・元会長。 鹿児島市の貧しい家庭に生まれる。鹿児島市立松原小学校、鹿児島県立第二鹿児島中学校、鹿児島高等農林学校農学科卒業。農林学校在学中より牛乳や乳製品について研究し、1917年には農商務省による海外実業練習生に選抜され渡米。現地で4年間、酪農について研修を受ける。 帰国後の1923年、東京菓子(現・明治製菓)に入社、1955年には明治乳業社長に就任し、以後会長まで務めた。 著書に「わが乳業記」(1969年、明治乳業刊)がある。 藍綬褒章及び勲三等旭日中綬章を受章。 1976年6月16日、心筋梗塞のため東京慈恵会医科大学附属病院で死去。
阿部 時一 (あべ ときいち、1892年(明治25年)12月… 阿部 時一 (あべ ときいち、1892年(明治25年)12月4日 -1957年(昭和32年)10月17日)は、日本の地方政治家。初代岩手県一関市長。 岩手県西磐井郡一関町(現・一関市)生まれ。1921年慶應義塾大学部理財科卒。卒業後は第三銀行に就職したが、間もなく退職した。帰郷し、1929年一関町会議員。その傍ら『磐井毎夕新聞』を発行。同紙は後に合併により『岩手日日新聞』となる。1938年保証責任西磐井郡北部販売組合連合会専務理事となるが、翌年退任。その後は一関町助役となる。 1947年一関町長に当選。翌1948年市制施行により一関市長に就任する。一関市は市制施行の年を挟みカスリン台風、アイオン台風の被害を大きく受け、多数の死者、行方不明者を出した。
荒川 伸也(あらかわ しんや、1891年(明治24年)12月… 荒川 伸也(あらかわ しんや、1891年(明治24年)12月4日 - 没年不明)は、日本の医師(内科医)、実業家、政治家。旭土地、耕地整理組合各顧問。愛知中央鉄道取締役。医学博士。名古屋市会議員。 愛知県人・荒川徳右衛門の三男。後に前名松次郎を改め、1922年に兄徳次郎方より分かれて一家を創立する。第八高等学校を経て1918年に東京帝国大学医科大学医学科を卒業し、杏雲堂医院に勤務し後に郷里に帰り医を開業する。傍ら会社の重役である。 名古屋市会議員、同市参事会員に選ばれる。趣味は観劇、謡曲、芝居。宗教は真宗大谷派。住所は愛知県名古屋市中区長良町、西日置町廻間口、中村区日置通。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
前之園 喜一郎(まえのその きいちろう、1890年12月4日… 前之園 喜一郎(まえのその きいちろう、1890年12月4日 - 1971年2月17日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。弁護士。 鹿児島県出身。指宿生まれ、鹿屋育ち。16歳のときに台湾鉄道教習所に入り、25歳の頃まで台湾総督府鉄道勤務。旧制中・高の検定試験と文官試験を受けて台湾鉄道学校の教官となるが、大卒でないと不利だと感じたため、東京へ出て日本大学に入学する。上京に際しては、台湾の産業交通に関する本を制作・販売して資金をつくった。日本大学法科及び明治大学高等研究科卒。 1922年に弁護士試験に合格。東京で開業した後、鹿児島に移って事務所を開設(1923年)。鹿児島弁護士会長、鹿児島市議、同議長を経て、1947年8月の参議院鹿児島地方区から立候補して当選、参議院議員を1期務め、決算委員長を歴任した。
岩満 重(いわみつ しげる、1889年(明治22年)12月4… 岩満 重(いわみつ しげる、1889年(明治22年)12月4日 - 1971年(昭和46)1月4日)は、台湾総督府官僚。鹿児島県川内市(現在の薩摩川内市)市長、川内市議会議長等を歴任。 鹿児島県薩摩郡平佐村(後の川内町、川内市、薩摩川内市)出身。旧制鹿児島県立川内中学校(現 鹿児島県立川内高等学校)を経て、1911年(明治44年)旧制第七高等学校造士館卒業。1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業して、高等文官試験に合格した。1916年(大正5年)、台湾総督府属となり、台北庁事務官、阿猴庁事務官、理事官・新竹州内務部地理課長・知事官房税務課長、台湾総督府中央研究所事務官、台中州内務部長を歴任した。
雀部 昌之介(ささべ まさのすけ、1887年12月4日 - … 雀部 昌之介(ささべ まさのすけ、1887年12月4日 - 1977年4月30日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1907年に神戸商業学校を卒業し、同年3月に阪東調帯護謨(現在のバンドー化学)に入社。1937年1月に取締役に就任し、1952年12月には社長に就任。1962年5月に会長を経て、1970年6月には相談役に就任。 1956年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲五等双光旭日章を受章。 1977年4月30日老衰のために死去。89歳没。
黒田 源次(くろだ げんじ、1886年12月4日 - 195… 黒田 源次(くろだ げんじ、1886年12月4日 - 1957年1月13日)は、熊本県出身の日本の心理学者・美術史家。号は「喪心亭」、「薼廬」。 1886年、熊本県熊本市で有馬源内の次男として生まれた。黒田家の養子となった。済々黌、第五高等学校を経て、京都帝国大学文科大学哲学科に進学。心理学専攻で学び、1911年に卒業。同大学大学院に進学した。 1914年、京都帝国大学医科大学の副手に採用され、生理学を修めた。1920年、医学部講師に昇格。1923年、学位論文『両眼視現象の研究に就て』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。1924年、日独文化協会日本研究所の初代所長として文部省海外研究生になってベルリンに駐在。
飛鳥井 雅四(あすかい まさし、1885年〈明治18年〉12… 飛鳥井 雅四(あすかい まさし、1885年〈明治18年〉12月4日 - 1974年〈昭和49年〉7月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1885年(明治18年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第18期、陸軍砲工学校高等科第16期(優等)卒業。1914年(大正3年)に、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 イギリス駐在を経て、1928年(昭和3年)8月に陸軍通信学校研究部主事に就任し、1930年(昭和5年)3月6日に陸軍工兵大佐に進級、8月1日に電信第2連隊長に転じた。1932年(昭和7年)4月に近衛師団司令部附となり、日本大学に配属された。 1933年(昭和8年)8月に陸軍砲工学校教官に転じ、1934年(昭和9年)8月1日に陸軍少将に進級と同時に津軽要塞司令官に着任。
宮原 清(みやはら きよし、1882年12月4日 - 196… 宮原 清(みやはら きよし、1882年12月4日 - 1963年10月16日)は、日本の実業家。日本社会人野球協会初代会長。
今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)… 今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)12月4日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 旧米沢藩江戸家老同心(下士階級)で農業を営む今村滝次郎の二男として生れる。米沢中学校を経て、1902年(明治35年)12月、海軍兵学校(30期)を次席で卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。この時席次は百武源吾と入れ替わり首席となった。日露戦争では「韓崎丸」乗組として、百武、溝部洋六らと海兵32期の指導にあたり、日本海海戦には「三笠」乗組で砲術長安保清種付として参戦した。「須磨」乗組、「鹿島」回航委員、同分隊長などを経て、海軍砲術学校特修科を首席で修了。
矢田 七太郎(やだ しちたろう、1879年〈明治12年〉12… 矢田 七太郎(やだ しちたろう、1879年〈明治12年〉12月4日 - 1957年〈昭和32年〉3月1日)は、日本の外交官。駐スイス公使。東亜同文書院大学学長。 静岡県出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。広州領事官補、漢口領事官補、天津領事官補、清国外交官補、イタリア大使館二等書記官、ロンドン総領事、サンフランシスコ総領事、上海総領事を歴任。1929年(昭和4年)、駐スイス公使に任命された。 退官後は満州国参議府参議を経て、1940年(昭和15年)より東亜同文書院院長・東亜同文書院大学学長を務めた。
辻本 満丸(つじもと みつまる、1877年(明治10年)12… 辻本 満丸(つじもと みつまる、1877年(明治10年)12月4日 - 1940年(昭和15年)4月24日)は、日本の応用化学者。スクアレンを発見した事で知られている。 翻訳者の辻本一貫の子として東京に生まれる。第一高等学校卒業後、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学し応用化学を学んだ。卒業後の1901年に農商務省附属の東京工業試験所に入り、主に生物に含まれる油脂成分専門の研究助手となる。1915年(大正4年)工学博士。後に技師に就任し1915年(大正4年)から1930年(昭和5年)の退官まで、同試験所の第二部長となり、多くの生物における油脂化学研究や調査を行った。 特にフジクジラ、カラスザメ、カスミザメ等サメを中心に油脂成分の研究に没頭し、クロコザメの肝油から初めて不飽和度の高い炭化水素スクアレンC30H50 を発見、命名したが、これは動物界における炭化水素の最初の発見である。
八並 武治(やつなみ たけじ、1877年(明治10年)12月… 八並 武治(やつなみ たけじ、1877年(明治10年)12月4日 - 1947年(昭和22年)7月10日)は、明治末から昭和前期の政治家、弁護士。憲政会、立憲民政党、日本進歩党に所属。衆議院議員を通算7期務めた。 大分県下毛郡、のちの鶴居村(現中津市)で、八並甚六の四男として生まれた。第二高等学校から東京帝国大学法科大学(独法)に進み、1909年(明治42年)に卒業。卒業後は八王子に弁護士事務所を開業し、1915年(大正4年)から翌年まで箕浦勝人逓信大臣の秘書官を務め、憲政会に入党した。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙で当選。以後、7回の当選回数を数えた。その間、加藤高明内閣・第1次若槻内閣で司法参与官、第2次若槻内閣・齋藤内閣で司法政務次官を歴任した。
瀬間 福一郎(せま ふくいちろう、1877年〈明治10年〉1… 瀬間 福一郎(せま ふくいちろう、1877年〈明治10年〉12月4日 - 1962年〈昭和37年〉10月)は、日本の盲目の盲学校教師で、鍼灸按摩の仕事もしながら群馬県における初期盲教育の実行に力を注いだ。 1877年(明治10年)、群馬県北甘楽郡馬山村(現・甘楽郡下仁田町)で生まれた。幼少期に角膜乾燥炎により失明する。下仁田の木暮城定について鍼を習った。1893年(明治26年)に、東京盲唖学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)へ入学する。当時の東京盲唖学校は、1890年に小石川区(現・文京区)指ヶ谷町に寄宿舎が新築され、翌年には新校舎もできて築地から移転した直後であり、また同校の石川倉次が1890年(明治23年)11月に校長の小西信八と相談して新しく日本点字を創案して日本でも点字が使われるようになったばかりであった。