河合 義和(かわい よしかず、1927年7月6日 - )。日… 河合 義和(かわい よしかず、1927年7月6日 - )。日本の憲法学者、行政法学者。東京生まれ。 行政法においては、いわゆる通説行政法の、日本国憲法下における帝国憲法下の行政法理論の温存の事実がある、と批判している。(日本行政法理論の建前と本音、表と裏という言葉で指摘)それは、すなわち、主権在民と基本的人権の尊重を高らかに謳った日本国憲法と”通説行政法理論”の実態の矛盾を指摘している。つまり、伝統的なドイツ行政法の思考法の枠組みが継続しているのではないかという論点。(行政法の憲法史的課題より)また、一方において、80年代後半の中曽根康弘首相が日本国憲法に対しても、自由に議論すべきだと発言したことに対しては、重要な発言であったと評価している。
阿部 三郎(あべ さぶろう、1926年7月6日 - 2010… 阿部 三郎(あべ さぶろう、1926年7月6日 - 2010年9月8日)は、日本の弁護士。日本弁護士連合会会長や、中央大学理事長を歴任した。阿部法律事務所主宰。1996年より宗教団体オウム真理教の破産管財人。 1926年宮城県生まれ。宮城県石巻商業高等学校出身、中央大学法学部卒業。 司法修習第六期を経て1954年4月に弁護士登録、東京弁護士会入会。 1960年代には社会問題化した売血制度の廃止を働きかけ、弁護士会人権擁護委員会の建議書を通じ売血制度の廃止を実現。 1970年以降、東京弁護士会副会長、日本弁護士連合会事務総長、東京弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長、日本弁護士連合会会長を歴任。 1996年3月、宗教団体オウム真理教の破産宣告を受けて破産管財人に就任。
秋元 秀雄(あきもと ひでお、1926年7月6日 - 200… 秋元 秀雄(あきもと ひでお、1926年7月6日 - 2002年4月4日)は、日本のジャーナリスト、経営評論家。 明治大学商学部卒業。読売新聞経済部記者を経て評論活動を始める。 1977年4月から1979年2月まで放送された日本テレビの朝のニュース番組『NNNおはよう!ニュースワイド』ではメインキャスター、その後継番組『ズームイン!!朝!』のコメンテーターを経て、1983年10月から1989年9月まで放送されたTBSテレビの情報番組『情報デスクToday』ではコメンテーターをそれぞれ務めた。晩年はハワイで暮らしていた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
石川 要三(いしかわ ようぞう、1925年〈大正14年〉7月… 石川 要三(いしかわ ようぞう、1925年〈大正14年〉7月6日 - 2014年〈平成26年〉6月21日)は、日本の政治家。位階は従三位。勲等は勲一等。 防衛庁長官(第49代)、衆議院議員(8期)、衆議院内閣委員長、東京都青梅市長(2期)、青梅市議会議員を務めた。 東京府西多摩郡(現東京都青梅市)生まれ。旧制府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)を経て1951年早稲田大学政治経済学部卒業後、西東京バス株式会社取締役、青梅市議会議員などを経て、1967年に青梅市長選挙で初当選した。1975年まで市長を2期務め、1976年に第34回衆議院議員総選挙に旧東京11区から立候補し、当選した(当選同期に愛知和男・鳩山邦夫・中村喜四郎・中島衛・西田司・池田行彦・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正らがいる)。
逆井 孝仁(さかさい たかひと、1925年7月6日 - 20… 逆井 孝仁(さかさい たかひと、1925年7月6日 - 2013年3月14日)は、日本経済史家。 東京市神田区生まれ。1948年東京大学経済学部商業学科卒業。1949年東京大学経済学部大学院修了、東京大学経済学部助手。1954年同志社大学経済学部専任講師、1956年助教授。1958年立教大学経済学部助教授、1965年教授。この間、1969年から1971年まで経済学部経済学科長、1973年から1975年まで経済学部長兼大学院経済学研究科委員長、1975年から1991年まで立教学院評議員、1985年から1987年まで大学院経済学研究科博士課程後期課程主任などを歴任。1991年定年退職。 日本の近世経済史、近世経済思想史を研究し、石田梅岩の「石門心学」の研究に傾斜した。
八木 三日女(やぎ みかじょ、1924年7月6日 - 201… 八木 三日女(やぎ みかじょ、1924年7月6日 - 2014年2月19日)は、大阪府堺市出身の俳人、眼科医(医学博士)。本名・下山ミチ子。 大阪女子高等医学専門学校(現・関西医科大学)卒。在学中、澁谷道らと学生俳句会に参加し、同医専に教授として在任していた平畑静塔に師事し俳句をはじめる。「激浪」「雷光」「梟」「夜盗派」「縄」を経て「海程」同人。1964年、同人誌「花」を創刊・代表を務める。 「例ふれば恥の赤色雛の檀」(『紅茸』)「満開の森の陰部の鰭呼吸」(『赤い地図』)「赤い地図なお鮮血の絹を裂く」(同)など、鋭敏な感性で独自の抽象的・エロス的世界を展開。関西前衛俳句を代表する女性俳人として注目された。
塚本 相次良(つかもと あいじろう、1924年7月6日 - … 塚本 相次良(つかもと あいじろう、1924年7月6日 - 1988年3月7日)は、日本の経営者。鹿児島銀行頭取を務めた。 東京都出身。1947年9月に東京大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。1977年12月に鹿児島銀行副頭取に就任し、1979年12月には頭取に昇格。 1988年3月7日、結腸癌のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
亀井 文蔵(文藏、かめい ぶんぞう、1924年(大正13年)… 亀井 文蔵(文藏、かめい ぶんぞう、1924年(大正13年)7月6日 - 2011年(平成23年)6月20日)は、日本の経営者。カメイ社長、会長を務めた。位階は正五位。 宮城県塩釜市出身。1947年に東北大学工学部応用化学科を卒業。東北大学助手を経て、1952年に亀井商店 (のちのカメイ) に転じ、1955年に常務に就任し、1963年に副社長を経て、1979年に社長に就任。1993年に会長に就任し、2003年には名誉会長に就任。宮城テレビ放送社長、仙台トヨペット社長なども歴任。 1990年4月に藍綬褒章を受章し、1995年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2011年6月20日、腎不全のために死去。
佐藤 隆夫(さとう たかお、1924年7月6日 - 2007… 佐藤 隆夫(さとう たかお、1924年7月6日 - 2007年4月23日)は、日本の民法学者。國學院大學名誉教授。 仙台市生まれ。山形県鶴岡市出身。1952年東北大学法学部卒。國學院大學法学部助教授、教授。95年定年、名誉教授。弁護士、横浜家庭裁判所調停委員。
中村 正夫(なかむら まさお、1924年(大正13年)7月6… 中村 正夫(なかむら まさお、1924年(大正13年)7月6日 - 2014年(平成26年)3月2日)は、日本の実業家、元北陸電気工業社長。 京都府出身。趣味は、読書・謡曲。 1949年(昭和24年)、立命館大学専門部卒業。 1953年(昭和28年)、北陸電気工業入社。 1960年(昭和35年)、同社代表取締役就任。 1970年(昭和45年)、同社常務取締役就任。 1978年(昭和53年)、同社専務取締役就任。 1979年(昭和54年)、同社代表取締役副社長就任。 1981年(昭和56年)、同社代表取締役社長就任。 2014年3月2日、心不全で死去、89歳没。
庄司 永建(しょうじ えいけん、1923年(大正12年)7月… 庄司 永建(しょうじ えいけん、1923年(大正12年)7月6日 - 2015年〈平成27年〉9月15日)は、日本の俳優。本名:庄司 永建(しょうじ ながたけ)。娘はフリーアナウンサーの庄司麻由里。 山形県出身。上智大学卒業。 1948年(昭和23年)、民衆芸術劇場附属養成所を経て劇団民藝に入り、俳優デビュー。1970年(昭和45年)に民藝を退団してフリーとなる。プロダクションエムスリーを経て、希楽星に所属していた。 日活時代に3度共演した石原裕次郎の信任が厚く、『西部警察』での捜査係長・二宮武士警部補役が当たり役となる。 晩年は俳優業以外にも山形の民話の語り部として、故郷で毎年民話を伝承していた。
荒井 欣一(あらい きんいち、1923年7月6日 - 200… 荒井 欣一(あらい きんいち、1923年7月6日 - 2002年4月18日)は、日本のUFO研究者。 東京都生まれ。青山学院高等商学部卒業。 復員後、大蔵省勤務、書店経営を経て、不動産業の傍らUFOを研究していた。1955年に日本初の全国的UFO団体・日本空飛ぶ円盤研究会を結成する。2年後、各団体を結集して「日本空飛ぶ円盤研究連合」に発展させた。 ピー・プロダクションの庶務課長をつとめていたこともある。 1979年9月に日本のUFO研究活動の拠点として東京・品川にUFOライブラリーを開設した。 1995年4月に自宅兼貸ビルにUFO展示室をオープンした。著書に「UFO年鑑」「UFO遭遇事典」などがある。
柏農山 勝栄(はくのうざん しょうえい、1923年7月6日 … 柏農山 勝栄(はくのうざん しょうえい、1923年7月6日 - 1958年5月16日)は、青森県南津軽郡大光寺町(現役当時、現・同県平川市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は高木 勝栄(たかぎ しょうえい)。最高位は西前頭21枚目(1948年5月場所)。現役時代の体格は173cm、86kg。得意手は左四つ、寄り、吊り。 16歳の時上京し、元大関・朝潮が率いる高砂部屋へ入門。1940年1月場所で初土俵を踏んだ。因みに、当初より四股名は、「柏農山」であった(以後は「國錦」を名乗った事もあったが、すぐに元の「柏農山」へ再改名している)。 体重90kgに満たない小兵で、身長もあまり高くなかったが、そうした身体上のハンディを克服して順調に出世。
和田 静郎(わだ しずお、1922年7月6日 - 2006年… 和田 静郎(わだ しずお、1922年7月6日 - 2006年12月16日)は、「和田研究所」創設者。東京都足立区北千住出身。 1922年(大正11年)「和田牧場」経営の長男として東京都足立区北千住に生まれる。麻布獣医専門学校(現在の麻布大学獣医学部)へ進み生理学、生態学を専攻。 第二次世界大戦には比島戦線に高級獣医官として従軍。終戦から10年後、自らの肥満を克服した体験をもとに「和田式健康法(フィギュアリング)」を開発。日本ではじめて体系的な痩身法を確立させた。 1957年(昭和32年)、この和田式健康法(フィギュアリング)を紹介することを目的とした美容研究団体「和田研究所」を発足。 1959年(昭和34年)から2年間にわたり、大阪よみうりテレビ「テレビとともにやせましょう」が放送され一大ブームに。
斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 19… 斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、岡山県倉敷市出身の洋画家、作家。映画「吉原炎上」の原作者としても知られる。 斎藤真一は1922年(大正11年)、岡山県児島郡味野町(現・倉敷市児島味野)に父・斎藤藤太郎(都山流尺八大師範)、母・益の長男として生まれる。1935年(昭和10年)に岡山県立天城中学校に入学すると、味野から峠を越えて天城中学まで3里半の道のりを5年間、自転車で通学する。2年生で陸上部に入部、秋から県大会に出場し始めるとしばしば入賞し、3年生で県下の駅伝大会にアンカーとして出場し優勝、天城中学の名を高める。その実績を買われて4年次にマラソンに誘われるが、好きな絵を優先させて断念する。
佐藤 恕(さとう ひろし、1920年7月6日 - 2001年… 佐藤 恕(さとう ひろし、1920年7月6日 - 2001年2月26日)は、日本の実業家。東京近鉄百貨店社長、京都近鉄百貨店社長・取締役相談役などを歴任した。 兵庫県神戸市東灘区出身。 1943年(昭和18年)9月、東京帝国大学経済学部を卒業した後、兵役に出た。復員後、1945年(昭和20年)11月に近畿日本鉄道へ入社。同社百貨店部に勤め、1969年(昭和44年)5月に近鉄百貨店上本町店の店長になった。1972年(昭和47年)の百貨店部の分離独立に当たって取締役に就任し、2年後には常務取締役に就いた。1976年(昭和51年)、東京都武蔵野市吉祥寺に三越と共同出資で「東京近鉄百貨店」の出店が決まり、佐藤は社長として、店長の髙田多喜男と共に店の立ち上げに奔走した。
上坂 昇(こうさか のぼる、1918年〈大正7年〉7月6日 … 上坂 昇(こうさか のぼる、1918年〈大正7年〉7月6日 - 2013年〈平成25年〉7月2日)は、日本の政治家。 福島県いわき市出身。磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学部を卒業。日本水素(現・日本化成)に入社し、労働組合書記長、同委員長、平市議会議員、福島県議会議員等を経て、1972年(昭和47年)の第33回衆議院議員総選挙で、旧福島3区より日本社会党公認で初当選。連続6回当選し1990年(平成2年)の総選挙では立候補しなかった。その後、いわき市長選に立候補するが、岩城光英に敗北する。 1989年4月の春の叙勲で勲二等に叙され旭日重光章を受章する。 2013年7月2日、肺炎のため死去。
伴 吉夫(ばん よしお、1918年7月6日 - 没年不明)は… 伴 吉夫(ばん よしお、1918年7月6日 - 没年不明)は、愛知県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手)。
望月潤一(もちづき じゅんいち、1918年7月6日 - 19… 望月潤一(もちづき じゅんいち、1918年7月6日 - 1993年10月10日)は、東京府出身のプロ野球選手(投手)。
岡村 吉右衛門(おかむら きちえもん、1916年7月6日 -… 岡村 吉右衛門(おかむら きちえもん、1916年7月6日 - 2002年)は、染織家。民藝運動家。鳥取県鳥取市出身。 中国大陸、沖縄、戦後は北海道を中心に日本各地を歩き、民俗、工芸を調査。成果生かした創作活動で知られる。
松村 誠一(まつむら せいいち、1913年〈大正2年〉7月6… 松村 誠一(まつむら せいいち、1913年〈大正2年〉7月6日 - 2004年〈平成16年〉10月30日)は、国文学者。高知大学教授、成蹊大学教授を歴任。岡山県生まれ。池田亀鑑に師事。池田の『古典の批判的処置に関する研究』、『校異源氏物語』の作成に関与した。中古文学、特に源氏物語が専門。 近代文学研究者で東京女子大学名誉教授の松村綠(1909年(明治42年)1月4日~1978年(昭和53年)1月18日)は姉。
更田 正彦(ふけた まさひこ、1913年7月6日 - 200… 更田 正彦(ふけた まさひこ、1913年7月6日 - 2001年2月24日)は、日本光学工業(現ニコン)の技術者。日本における高級35mmカメラのパイオニアのひとり。 コストパフォーマンスではなく機能や性能が優れていると認められ、欧米でヒットした最初の一般市場向け日本製品となったニコンF(ならびにその前身ともいえるニコンSシリーズ)の設計を担当した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
福田 利光(ふくだ としみつ、1912年7月6日 - 200… 福田 利光(ふくだ としみつ、1912年7月6日 - 2001年11月29日 )は、日本の経営者。西日本新聞社社長を務めた。 福岡県三井郡北野町(現在の久留米市)出身。1934年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業し、1937年に福岡日日新聞社(のちの西日本新聞社)に入社。1963年に取締役に就任し、1969年に常務、1970年に専務を経て、同年10月には社長に就任した。1985年6月に会長に就任し、1991年6月に代表取締役相談役を経て、1993年6月に相談役に就任。 テレビ西日本会長、テレビ熊本・サガテレビ・テレビ長崎の取締役なども歴任。 1987年4月に勲一等瑞宝章を受章。 2001年11月29日に急性心不全のために死去。
岸 武雄(きし たけお、1912年7月6日 - 2002年1… 岸 武雄(きし たけお、1912年7月6日 - 2002年1月21日)は、日本の児童文学作家、教育者。 岐阜県出身。1932年岐阜師範学校卒業。小・中学校教諭を経て岐阜教育大学教授、1986年定年。 58歳から創作を始め、中部地方の歴史的事件をもとに底辺に生きる人びとを描き、1971年「千本松原」で野間児童文芸推奨作品賞。1979年「花ぶさとうげ」で小学館文学賞受賞。「千本松原」は1992年に「せんぼんまつばら 川と生きる少年たち」としてアニメ映画化された。 80歳を過ぎても旺盛な執筆活動を行い、2002年1月21日に死去。享年89。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
三輪 福松(みわ ふくまつ、1911年7月6日 - 1998… 三輪 福松(みわ ふくまつ、1911年7月6日 - 1998年10月10日)は、日本の西洋美術史学者。 静岡県生まれ。旧制静岡県立榛原中学校、旧制第二高等学校を経て、1938年に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。同大学附属図書館、同大学医学部図書室を経て、1949年東京大学助教授となる。1953年からイタリア政府給費留学生としてフィレンツェ大学文学部に学ぶ。1959年多摩美術大学教授、1963年慶應義塾大学講師、1972年東京学芸大学教授、1975年弘前大学教授、1980年群馬県立女子大学教授。1985年から1989年まで清春白樺美術館館長を務めた。
三嶋 栄(みしま さかえ、1910年(明治43年)7月6日-… 三嶋 栄(みしま さかえ、1910年(明治43年)7月6日-2008年(平成20年)8月4日)は日本の実業家。元王子製紙会長。 1910年(明治43年)7月6日、島根県に生まれる。1936年(昭和11年)に法政大学経済学部を卒業後、旧王子製紙に入社する。1946年(昭和21年)に日本パルプ工業に移り、資材部長に就任する。 1949年(昭和24年)に米子工場長、1960年(昭和35年)に取締役、1964年(昭和39年)に常務、1969年(昭和44年)に専務、1971年(昭和46年)に副社長、1973年(昭和48年)に社長に就任する。1979年(昭和54年)、旧王子製紙との合併により王子製紙会長に就任する。
細谷 恒夫(ほそや つねお、1904年7月6日 - 1970… 細谷 恒夫(ほそや つねお、1904年7月6日 - 1970年8月17日)は、日本の教育哲学者、東北大学名誉教授。ディルタイやフッサールを研究。 山形県出身。旧制山形高校を経て、東京帝国大学文学部卒。広島高等学校(旧制)教授、東北帝国大学助教授、1943年教授。東北大学教授、67年定年退官、名誉教授、山形大学長。
芳賀 檀(はが まゆみ、1903年7月6日 - 1991年8… 芳賀 檀(はが まゆみ、1903年7月6日 - 1991年8月15日)は、日本の評論家、ドイツ文学者。
渡辺 万寿太郎(わたなべ ますたろう、1903年〈明治36年… 渡辺 万寿太郎(わたなべ ますたろう、1903年〈明治36年〉7月6日 - 1966年〈昭和41年〉8月15日)は、日本の政治家、実業家、資産家。新潟県岩船郡関川村長。渡辺家11代。 新潟県岩船郡関谷村大字下関(現・関川村大字下関)出身。三左衛門の長男。1929年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。1933年、家督を相続する。司法省刑事局嘱託、東大文学部研究嘱託を経て1945年に関谷村長となる。 農業を営む。関谷村農業会長、新潟県農業会同県森林組連同県国民健康保険組連各理事、同県社会保険診療報酬算定協議会委員、同県農業実践大学協会理事同大学校長、同県国民健康保険委員、同県社会教育委員、同県地方森林会、同県医療機関整備審議会、同県公的医療機関運営審議会各委員、全国国民健康保険直営診療施設運営協議会理事に選ばれる。
冨吉 榮二(とみよし えいじ、1899年7月6日 - 195… 冨吉 榮二(とみよし えいじ、1899年7月6日 - 1954年9月26日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員(6期)、逓信大臣(芦田内閣)、日本社会党代議士会長、右派社会党顧問などを歴任した。位階は従三位。 鹿児島県姶良郡清水村郡田(現・霧島市国分郡田)にて、農家の次男として生まれる。生家の跡には「冨吉榮二生誕の地」と記された看板が掲げられている。 郡山尋常小学校、清水高等尋常小学校高等科を経て地元の私立精華学校を卒業した後に上京。遺族によると高等小学校の頃にリューマチに襲われ、その後も身長が伸びずいつも節々を痛がっていたらしい。また、成績が良く本人は旧制鹿児島県立加治木中学校への進学を希望していたが、経済的理由で父親に反対されため地元の学校で学んだ。
相馬 敏夫(そうま としお、1898年(明治31年)7月6日… 相馬 敏夫(そうま としお、1898年(明治31年)7月6日 - 1980年(昭和55年)2月24日)は、日本の大蔵官僚、実業家。官選栃木県知事、明治製糖社長。旧姓・上平。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)出身。上平猶一の三男として生まれる。旧制長野県飯田中学校(現・長野県飯田高等学校)から旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)へ転校し、旧制第八高等学校を経て東京帝国大学法学部に進学。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝大法学部法律学科(独法)を卒業。大蔵省に入省し理財局属となる。1923年、相馬半治の養子となる。 以後、大蔵省銀行局勤務、英仏駐在・財務書記、横須賀税務署長、永代橋税務署長、東京地方専売局事業課長、専売局販売部販売課長、大蔵書記官・上海財務官事務所勤務、専売局参事官・長官官房総務課長、大蔵書記官・河内総領事、専売局煙草事業部長、大蔵省監理局長、東京都参事官などを歴任。
鈴木 択郎(すずき たくろう、1898年7月6日-1981年… 鈴木 択郎(すずき たくろう、1898年7月6日-1981年1月6日 )は、日本の中国研究者。愛知大学名誉教授。 1898年7月6日、栃木県に生まれる。1915年9月、上海の東亜同文書院商務科入学(第15期生)、1918年6月同卒業、江商入社。1920年9月、東亜同文書院助教授。1921年9月、東亜同文書院派遣北京留学(1923年4月まで)。1924年5月、東亜同文書院教授。1939年4月、東亜同文書院大学予科教授。1946年12月、愛知大学(旧制)予科教授。1949年4月、愛知大学(新制)文学部教授。門下生には今泉潤太郎(愛知大学名誉教授)がいる。1955年4月、中日大辞典編纂委員長(1968年4月まで)。
田中 耕(たなか こう、1897年(明治30年)7月6日 -… 田中 耕(たなか こう、1897年(明治30年)7月6日 - 1969年(昭和44年)9月22日)は、日本の政治家・薬剤師。衆議院議員(2期)。右翼活動家。 長野県北安曇郡会染村(現・池田町)生まれ。長野県師範学校第三種講習を経て、1917年(大正6年)明治薬学校(現・明治薬科大学)卒。薬剤師を経て、長野県豊科町(現・安曇野市)で薬局を開設。また、長野県豊科町商工会議員も務め、1936年(昭和11年)第19回衆議院議員総選挙で立憲養正会の公認で出馬し、落選するも、その後繰り上げ当選。院内では興亜議員同盟に所属した。1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で再選。1940年(昭和15年)、大政翼賛会が結成されるも、立憲養正会はかねてより新体制運動を批判しており、大政翼賛会には合流しなかった。
内海 繁太郎(うつみ しげたろう、1896年7月6日 - 1… 内海 繁太郎(うつみ しげたろう、1896年7月6日 - 1966年9月22日)は、人形浄瑠璃研究者。 香川県綾歌郡山田村(現・綾川町)出身。幼少時、淡路人形浄瑠璃に接する。香川師範学校卒業。千疋村(現・綾川町千疋)の小学校で教師となるが、1920年小原国芳の勧めで上京、成城小学校で教員をしながら日本大学の美学科、国文学科に学び1929年国文科卒。1930年日本大学法文学部学生主事、教授、1948年芸術学部演劇科教授となる。1954年「人形浄瑠璃の研究」で日大文学博士。墓所は多磨霊園。
朝倉 豊次(あさくら ぶんじ、1894年(明治27年)7月6… 朝倉 豊次(あさくら ぶんじ、1894年(明治27年)7月6日 - 1966年(昭和41年)1月27日)は日本海軍の軍人、最終階級は海軍少将。 富山県下新川郡前沢村(現:黒部市前沢)出身。「朝倉豊次著作集」によると、魚津中学に5年間通い、海軍兵学校、陸軍士官学校(28期)ほか二校を受験し、全て合格する。陸士については官報にて確認できた。1916年(大正5年)11月、海軍兵学校(44期)を48番/95名で卒業し、翌年12月に少尉任官。海軍砲術学校高等科で学んだ。駆逐艦「羽風」、潜水母艦「迅鯨」の各砲術長、海兵教官兼監事などを経て、1930年(昭和5年)11月、海軍大学校(甲種28期)を卒業した。同年12月、第2水雷戦隊参謀となり、第2艦隊参謀、軍令部参謀(第1班第2課兼第1課)、軍令部部員(第1部第2課兼第2部第3課)を歴任。
斎藤 潔(さいとう きよし、1893年7月6日 - 1971… 斎藤 潔(さいとう きよし、1893年7月6日 - 1971年2月21日)は、日本の公衆衛生学者、小児科学者。 山梨県出身。1920年東京帝国大学医学部卒業、1927年ハーバード大学公衆衛生学部卒業、1930年医学博士。聖路加国際病院勤務を経て、1937年東京特別地区保健館館長。国立公衆衛生院の創設に参加し、1938年同教授、1956年院長となり、日本の公衆衛生事業を推進した。大気汚染研究協会賞(斎藤潔賞)が設定された。1966年に第18回保健文化賞受賞、勲二等旭日重光章受章。
8代式守与太夫(はちだい しきもり よだゆう、1892年7月… 8代式守与太夫(はちだい しきもり よだゆう、1892年7月6日 - ? )は、大相撲の元三役格行司。三役格としての在位期間は1939年1月~1959年11月。本名、伊藤喜三郎。 東京生まれで本所の銭湯要湯の三男。伊勢ノ海部屋→錦島部屋所属。式守要人で初土俵。1902年1月番付行司欄に載る。のち式守喜三郎と改める。1913年春場所から1915年春場所まで兵役のためか番付から消える。1915年時点では青白房(十両格)であった。1918年夏場所2日目に本足袋(幕内格)に昇格。1919年春場所、式守要人に改名。1929年春場所、式守喜三郎と改める。1936年5月式守与太夫を襲名。 1939年1月三役格に昇進。
児玉 政介(こだま まさすけ、1891年〈明治24年〉7月6… 児玉 政介(こだま まさすけ、1891年〈明治24年〉7月6日 - 1978年〈昭和53年〉4月14日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。位階は従三位。 秋田市長(第11代)、厚生次官(第3代)、軍事保護院副総裁、傷兵保護院副総裁、厚生省体力局長、石川県知事(官選第34代)、秋田県知事(官選第35代)、奈良県知事(官選第22代)などを歴任。旧姓・小幡。 東京府出身。小幡小二郎の長男として生まれ、児玉隼槌の養子となる。第三高等学校を卒業。1915年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。内務省に入省し岩手県属となる。 以後、三重県警視、新潟県警視、大阪府理事官、内務省社会局書記官、同省大臣官房文書課長、東京府書記官・内務部長などを歴任。
ダーン・ゴパル・ムカージー(Dhan Gopal Muker… ダーン・ゴパル・ムカージー(Dhan Gopal Mukerji, 1890年7月6日 - 1936年7月14日)は、インド出身の英語で書いた児童文学作家。 米国で初めて成功を収めたインド出身の作家。1928年にニューベリー賞を受賞している。カルカッタ大学、東京帝国大学、カリフォルニア大学バークレー校、スタンフォード大学で学んだ。 カルカッタ近郊の村に生まれた。父は弁護士だが音楽家を諦めていた。1910年にダーン・ゴパルは機械工学と織機を学ぶため東京へ留学に出されたが、東京で工場労働者の劣悪な環境にショックを受け、船でサンフランシスコへ渡った。アナキストとしての思想を持ち始めていたムカージーは1914年にスタンフォード大学で哲学の学士号をとる。
野田 清(のだ きよし、1887年(明治20年)7月6日 -… 野田 清(のだ きよし、1887年(明治20年)7月6日 - 1974年(昭和49年)3月29日)は、日本の海軍軍人。大本営海軍報道部長。階級は海軍中将。北海道出身。 北海道出身。旧制函館中学校卒業。海軍兵学校35期。席次は172人中40番。同期生に近藤信竹、高須四郎、野村直邦がいる。「浅間」分隊長として第一次世界大戦に出征した。野田は海軍大学校乙種、砲術学校高等科を修了した砲術専攻士官で、のちに戦艦「鹿島」砲術長を務めている。皇太子裕仁親王の欧州訪問の供奉艦「鹿島」の分隊長として渡欧した際は、海軍士官に芸術の素養が必要であるとの報告書を提出した。帰国後海大甲種17期を卒業。 佐官時代は艦隊では第三艦隊、第二艦隊の各参謀や軽巡洋艦「鬼怒」副長、軍政では軍務局局員兼教育本部員、海軍省副官兼大臣秘書官、臨時調査課長、軍令では海大戦略教官、軍令部第二課長(後任は南雲忠一)などを歴任した。
花井 又太郎(はない またたろう、1886年7月6日 - 1… 花井 又太郎(はない またたろう、1886年7月6日 - 1974年12月7日)は、日本の都市計画家。土木技術者。愛知県宝飯郡赤坂村生まれ。 1913年(大正2年)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。朝鮮総督府勤務の後、1920年から大阪市に転じ、都市計画部技術課長や大阪市地下鉄の初代建設事務所長を務める。 1931年(昭和6年)から懇願されて名古屋市土木部長に迎えられる。1939年には土木局長。1942年から終戦までは市助役を務めている(後任は田淵寿郎)。その間に名古屋駅前土地区画整理事業や東山公園開設、中川運河開削事業といった都市計画事業を推進するかたわら、都市計画地方委員会愛知委員会各種委員をつとめる。
綾浪 源鋭(あやなみ げんえい、1881年7月6日 - 19… 綾浪 源鋭(あやなみ げんえい、1881年7月6日 - 1927年10月27日)は、現在の青森県青森市出身で追手風部屋に所属した力士。本名は一戸 源逸。8代湊川。179cm、101kg。最高位は東関脇。 6代高砂の遺弟子。1900年5月序ノ口、1909年1月十両昇進、1910年1月新入幕。幕下時代に日露戦争に従軍し、金鵄勲章功六級と勲八等白色桐葉章を授与された。後に土俵入りで化粧廻しに勲章をつけて人気を博した。1911年2月に横綱梅ヶ谷と引き分け、1912年5月関脇昇進。1915年5月には新鋭栃木山を破っているが1916年1月引退し、8代湊川を襲名。湊川部屋を再興し、綾錦や楢錦を育てた。 二所ノ関部屋を率いた玉錦が若い頃に酒で暴れて立場を悪くした時、綾浪は親身になって玉錦を庇って救った。
塩谷 温(しおのや おん、1878年〈明治11年〉7月6日 … 塩谷 温(しおのや おん、1878年〈明治11年〉7月6日 - 1962年〈昭和37年〉6月3日)は、日本の漢学者。東京帝国大学名誉教授。70代で30代の元芸妓を妻にし、老いらくの恋と騒がれた。 東京市下谷区で漢学者塩谷青山の子として生まれる。号は節山。学習院、第一高等学校を経て、1902年東京帝国大学漢学科を卒業。優等賞を下賜された。一高時代は水泳部に属し、その当時、「デコンショ、デコンショ」と歌う丹波篠山の盆踊り歌をもとに、塩谷がデカルト、カント、ショーペンハウエルの頭文字をとって「デカンショ節」と名付けたとされる。 1905年学習院教授、1906年東京帝国大学助教授。同年からドイツのライプツィヒ大学、清国の北京および長沙に留学し、中国文学研究を行う。
世良 静一(せら せいいち、1877年(明治10年)7月6日… 世良 静一(せら せいいち、1877年(明治10年)7月6日 - 1950年(昭和25年)2月19日)は、日本の衆議院議員。検事。弁護士。 広島県比婆郡本村(現在の庄原市)出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補として浦和地方裁判所に勤務した。翌年3月、陸軍理事試補に転じ、7月に同理事・留守第1師団法官部員となり、9月に退官した。その後は弁護士を開業した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1917年(大正6年)からは検事となり、宇都宮地方裁判所検事、新潟地方裁判所検事、静岡区裁判所検事、山田区裁判所検事を歴任した。
椎尾 弁匡(しいお べんきょう、1876年7月6日 - 19… 椎尾 弁匡(しいお べんきょう、1876年7月6日 - 1971年4月7日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶・政治家。大正大学学長・大本山増上寺法主などを歴任。三康文化研究所の初代所長。 1878年、名古屋円福寺住職椎尾順位の五男として生まれ、13歳で得度。東京帝国大学文学部を恩賜の銀時計組で卒業後、宗教大学(後の大正大学)・日本大学・早稲田大学などで仏教学の講義を担当。1913年に東海中学校校長となり、1922年に仏教運動として共生(ともいき)運動を始める(英語の呼称は1923年に考案した。英: the Philosophy of Symbiosis)。1915年(大正4年)、東京帝国大学に学位論文を提出して文学博士号を取得 1926年に大正大学教授に就任、同学学長を3度経験する(第6代・第9代・第14代)。
青山 禄郎(あおやま ろくろう、1875年(明治8年)7月6… 青山 禄郎(あおやま ろくろう、1875年(明治8年)7月6日 - 1940年(昭和15年)1月6日)は、日本の技術者、実業家。日本信号創業者。電信・無線・信号・電気事業の分野で幾つもの国家的重責を担った。日産自動車のダットサン(DAT)のAは青山に由来する。 1875年(明治8年)7月6日に岡崎で父・鈴山巌と母・智恵の間に生まれる。愛知県額田郡高等小学校卒業。静岡中学校を中退し、1891年(明治24年)9月に上京して東京郵便電信学校に転校した。1892年(明治25年)に青山家に養嗣子として入籍した。1893年(明治26年)に東京郵便電信学校を首席で卒業し、逓信技手に任ぜられ逓信省電務局に勤務した。
戸部 良祐(とべ りょうすけ、1875年7月6日 - 193… 戸部 良祐(とべ りょうすけ、1875年7月6日 - 1934年12月19日)は、日本の実業家・政治家。衆議院議員(1期)。 石川県出身。1900年、陸軍教導団歩兵科卒。のちに明治法律学校で学ぶ。日露戦争に従軍し、帰国後は小学校訓導、石川県立第二中学校(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)助教諭心得、第四高等学校助教授となり、区長、七尾町助役、鹿島郡会議員、七尾町議、石川県議となる。また、能登部銀行監査役、七尾無尽(株)取締役社長、能登藁工品同業組合、鹿島郡蚕糸同業組合各組合長を務めた。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において石川2区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。
佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日… 佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日 - 1949年〈昭和24年〉6月3日)は、日本の劇作家・小説家・俳人。本名:洽六 1874年(明治7年)、現在の青森県弘前市親方町に、旧弘前藩士の父・弥六、母・支那(しな)の次男として出生。 父の佐藤弥六(1842年 - 1923年)は、幕末に福沢諭吉の塾(慶應義塾)で学び、帰郷して県会議員となり産業振興に尽力、また『林檎図解』『陸奥評話』『津軽のしるべ』などの著書も著し、森鷗外の作品「渋江抽斎」にも郷土史家として登場する、弘前を代表する人物だった。 1890年東奥義塾を中退、青森県尋常中学校(後の青森県立弘前中学校 現・弘前高校)に入学。
佐々木 駒之助(ささき こまのすけ、1873年(明治6年)7… 佐々木 駒之助(ささき こまのすけ、1873年(明治6年)7月6日 - 1954年(昭和29年)6月2日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。東洋拓殖総裁、貴族院勅選議員。 秋田県仙北郡花館村(大曲市花館を経て現大仙市)で、佐々木多右衛門の三男として生まれ、1885年(明治18年)6月、叔父・佐々木福蔵の養子となる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て、1899年(明治32年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 福澤諭吉の紹介で堺市の会社に就職。その後、1900年(明治33年)山口銀行に入行し、理事兼営業部長、常務取締役などを歴任。三和銀行の創設に尽力した。その他、山口合資会社理事長、日本生命保険会長、共同火災保険会長、トヨタ自動車工業監査役、財団法人東亜研究所評議員、南洋協会評議員などを務めた。
磯野 敬(いその けい、1868年7月6日(明治元年5月17… 磯野 敬(いその けい、1868年7月6日(明治元年5月17日)- 1925年(大正14年)10月25日)は、明治後期から大正期の林業家、実業家、政治家。衆議院議員。 上総国夷隅郡、のちの千葉県夷隅郡市野郷村(現:勝浦市市野郷)で、富豪・磯野市郎兵衛の長男として生まれる。1892年(明治25年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。1904年(明治37年)12月、家督を相続し、造林業を営む。 地方森林会議員、日新護謨取締役なども務める。 1912年(大正元年)、東京府東京市小石川区大塚窪町(現:東京都文京区小石川五丁目)に近代和風建築の粋を集めた自邸が竣工。同邸は2005年(平成17年)12月27日、「旧磯野家住宅」として国の重要文化財に指定される。