佐伯 千秋(さえき ちあき、1925年12月6日 - 200… 佐伯 千秋(さえき ちあき、1925年12月6日 - 2009年1月3日)は、日本の少女小説家。児童文学作家。少女小説やジュニア小説で知られる。 広島市出身。本名、薦田千賀子(こもだ・ちかこ)。佐伯は旧姓である。 広島県立広島第一高等女学校から日本女子大学校に進学したが、広島市への原子爆弾投下で両親を失ったのち退学。 作家となってからは西東京市 (旧保谷市)に住んだという。原爆ドーム永久保存を決定した当時の広島市長・浜井信三は義兄に当たる。1955年当時から日本児童文芸家協会会員。 1954年ごろから小学館の雑誌『女学生の友』や『小学〇年生』などの学習雑誌に読み切りの短編小説や小学生向けの読み物を執筆し、1959年「燃えよ黄の花」(『女学生の友』1958年9月号掲載)で第8回小学館児童文化賞を受賞。
大庭 浩(おおば ひろし、1925年12月6日 - 2003… 大庭 浩(おおば ひろし、1925年12月6日 - 2003年12月24日)は、日本の実業家、工学博士。川崎重工業社長、会長を務めた。 静岡県掛川市出身。1948年に大阪大学工学部を卒業し、同年に川崎重工業に入社した。1980年6月に取締役に就任し、1983年6月に常務、1985年6月に専務を経て、1986年6月に副社長に就任し、1987年6月には社長に昇格した。在任中は、工場の統廃合や品質保証運動をなどを進めていくことで、経営基盤を再建し、創業100周年の年である1996年には売上高1兆円を達成した。1996年6月には会長も兼任し、1997年6月に会長に専任し、2000年6月に相談役名誉会長を経て、2001年6月には相談役に就任。
小林 正巳(こばやし まさみ、1925年12月6日 - 没年… 小林 正巳(こばやし まさみ、1925年12月6日 - 没年不明)は、日本の経営者。文化放送社長、会長を務めた。宮城県出身。 1948年に大東文化学院専門学校東洋文学科を卒業。 旺文社での勤務を経て、1982年6月に文化放送副社長に就任し、1987年6月には社長に昇格。1992年6月から1997年6月までに会長を務めた。
菊池 誠(きくち まこと、1925年12月6日 - 2012… 菊池 誠(きくち まこと、1925年12月6日 - 2012年11月6日)は、日本の物理学者。 東京出身。長年にわたって電気試験所を拠点に、トランジスタ、半導体など戦後日本のエレクトロニクスの基礎研究をリードした。本来の研究のほかにも多数のエッセイを著している。父の菊池豊三郎は文部次官や横浜市立大学学長を務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、物理学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:物理学/Portal:物理学)。
望月 芳郎(もちづき よしろう、1925年12月6日 - 2… 望月 芳郎(もちづき よしろう、1925年12月6日 - 2003年4月5日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。中央大学名誉教授。 東京府生まれ。松本高等学校文科甲類を経て、1950年9月東京大学仏文科卒。1956年ころから中央大学に勤務し、教授を1996年まで務めた。ル・クレジオの研究・翻訳で知られるが、ジャプリゾなどの推理小説も訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
野坂 恒如(のさか つねゆき、1925年〈大正14年〉12月… 野坂 恒如(のさか つねゆき、1925年〈大正14年〉12月6日 - 1989年〈平成元年〉3月6日)は、日本のジャズ評論家。レコードコレクター。新潟県職員として定年まで務めた。 東京府東京市麹町区で生まれる。弟は作家の野坂昭如。 父・相如の後妻・笑子は活動弁士西村楽天の長女。その影響で頻繁に寄席に通い、一時は落語家を目指す。 1945年〈昭和20年〉東京農業大学専門部緑地土木科卒業。新潟県緑地部に土木技師として務める。 昭和30年代からジャズ評論、新潟県へのアーティスト招聘活動をはじめる。毎月50〜70枚のレコードを買い続け、ジャズ同好会「ニイガタ・ジャズ・フレンズ・アソシエイション」を発足すると、会員に輸入レコードを市価の3割引価格で斡旋。
石川 誠(いしかわ まこと、1925年12月6日 - 199… 石川 誠(いしかわ まこと、1925年12月6日 - 1992年2月24日)は、日本の内科医。専門は消化器病学、特に消化吸収。医学博士。 東京出身。第一高等学校 (旧制)から、東北大学医学部卒業。1950年、同大医学部内科教室(教授 黒川利雄)に入局。1953-1958年、フルブライト留学生として米国留学。1970年、東北大学医学部助教授。1974年、山形大学医学部教授(内科学第二講座初代教授)。1980年、同大大学病院院長。退官後、寒河江市立病院院長を務めた。1992年2月24日、腹部大動脈瘤破裂のため死去。66歳没。 日本消化器病学会会長、日本胃集団検診学会会長、日本内科学会・日本消化器内視鏡学会・日本消化器集団検診学会・日本臨床栄養学会などの評議員、厚生省特定疾患「消化吸収障害調査研究班」班長などを歴任。
鶴田 浩二(、1924年〈大正13年〉12月6日 - 198… 鶴田 浩二(、1924年〈大正13年〉12月6日 - 1987年〈昭和62年〉6月16日)は、日本の俳優、歌手。 昭和を代表する映画俳優の一人として数多くの映画やドラマに主演。戦後派として登場し、甘さと翳りを兼ね備えた天賦の美貌で一躍トップスターに躍り出た。若いころは絶世の美男子としてアイドル的人気を博したが、中年期からは任侠映画や戦争もので見せた渋い魅力で、日本映画界を代表するスターとして長らく君臨した。また、歌手としても独特の哀愁を帯びた声と歌唱法で知られた。 兵庫県西宮市出生。戸籍上の出身地は、静岡県浜松市。本名は小野 榮一()。 西宮時代、父と母が結婚していなかったのは、鶴田の父である大鳥の家が鶴田の母との婚姻を許可しなかったためである。
藤井 佐知(ふじい さち、出生名:山口 幸子(やまぐち さち… 藤井 佐知(ふじい さち、出生名:山口 幸子(やまぐち さちこ)、本名:藤井 幸子(ふじい さちこ)、1924年(大正13年)12月6日 - 2015年(平成27年)10月21日)は、日本の淡路島にあった兵庫県三原郡阿那賀村(現在の南あわじ市)の陶芸家である。 栃木県益子町の益子焼の「中興の祖」である濱田庄司の「唯一の女性の弟子」であり、濱田庄司の教えを受けて、淡路島の土を用いて低火度釉薬であるガレナ釉:鉛釉を用いたスリップウェアを作陶し続け、濱田庄司からは「私にも出来ない、大らかな仕事をする人です」と評されていた。 寡作の陶芸家であったため、藤井が作陶し、世に出た作品の数は決して多く無かったが、その作品は現在もスリップウェア愛好家の中で高く評価されている。
大須賀 二朗(おおすが じろう、1924年12月6日 - 2… 大須賀 二朗(おおすが じろう、1924年12月6日 - 2008年11月4日)は、日本の経営者。ダイハツ工業社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1937年に京都帝国大学工学部応用物理科を卒業し、同年にダイハツ工業に入社。 1971年12月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1986年9月に副社長を就任。1988年6月に社長に昇格し、1992年6月には会長に就任。 1989年4月に藍綬褒章を受章し、1995年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2008年11月4日心不全のために死去。83歳没。
外間 守善(ほかま しゅぜん、1924年(大正13年)12月… 外間 守善(ほかま しゅぜん、1924年(大正13年)12月6日 - 2012年(平成24年)11月20日)は、日本の言語学者・沖縄学研究者。沖縄学研究所所長、法政大学名誉教授。伊波普猷の後継者であり、琉球文学・文化研究の第一人者。 1924年(大正13)、沖縄県那覇市に生まれ。 1939年(昭和14)那覇尋常高等小学校高等科卒業後、同年沖縄県立水産学校入学。1940年(昭和15)沖縄県師範学校入学。 1944年(昭和19)8月、妹の静子は学童疎開で対馬丸の犠牲となった。1945年(昭和20)1月、守善は19歳の沖縄師範学校在学中に、沖縄戦で現地入隊となり、第24師団歩兵第32連隊第2大隊(志村大隊)に配属される。
柴田 喜代子(しばた きよこ、1924年12月6日 - 20… 柴田 喜代子(しばた きよこ、1924年12月6日 - 2005年9月9日)は、日本の声楽家。ソプラノ歌手。 1924年(大正13年)に大阪府で生まれる。1947年(昭和22年)に東京音楽学校 (旧制)声楽科を卒業。1952年(昭和27年)に結成された二期会に所属。同会の第1回オペラ公演、プッチーニの「ラ・ボエーム」でヒロインのミミ役を演じた。この際、ロドルフォ役を務めた柴田睦陸と後に結婚。その後も音楽活動を続け、1968年(昭和43年)に発売された音楽誌『音楽の友 26』の記事「現代日本の声楽家102人」の中でも取り上げられる存在であった。 後年、聖徳大学短期大学部教授を務めたほか、活水女子短期大学で後進指導にも当たった。
村上 兵衛(むらかみ ひょうえ、1923年(大正12年)12… 村上 兵衛(むらかみ ひょうえ、1923年(大正12年)12月6日 - 2003年(平成15年)1月6日)は日本の陸軍軍人、評論家、作家。本名は宏城(ひろき)。兄は武藤電機創業者の村上稔夫。
遠藤 政夫(えんどう まさお、1923年12月6日 - 19… 遠藤 政夫(えんどう まさお、1923年12月6日 - 1995年11月9日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。 福岡県甘木市生まれ。旧制福岡高校を経て、1944年、東京帝大法学部卒。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 1947年4月、高等試験行政科試験に合格し、内務省に入省したが、同省の廃止に伴い労働省に転じ、1972年職業訓練局長、1973年職業安定局長を歴任した。1976年12月24日から1977年1月1日まで、事務次官代理を務めた。
齊藤 美規(さいとう みき、1923年12月6日 - 201… 齊藤 美規(さいとう みき、1923年12月6日 - 2012年12月26日)は、昭和・平成期の俳人。本名・克忠(まさなお)。 新潟県西頸城郡下早川村(現・糸魚川市)生まれ。高岡高等商業学校(現・富山大学経済学部)卒。1941年、高岡高等商俳句会で山口花笠の指導を受け俳句を始める。翌年「寒雷」に入会。戦中戦後期の事情により1958年まで中断。1960年、中野弘一の「海峡」入会。1961年、和知喜八の「響焔」入会。1964年、「寒雷」同人。1970年、森澄雄の「杉」創刊同人。1981年、「麓」を創刊・主宰。これに先立ち「寒雷」以外の同人を辞退。同年、第28回現代俳句協会賞受賞。2006年、第6回現代俳句大賞受賞。
福の守 尚(ふくのもり ひさし、1922年12月6日 -19… 福の守 尚(ふくのもり ひさし、1922年12月6日 -1997年 )は、荒汐部屋、時津風部屋(当初は双葉山相撲道場)に所属した元力士。本名は福守 尚(ふくもり ひさし)。現在の神奈川県小田原市出身。179cm、98kg。最高位は東十両15枚目。得意技は右四つ、押し。 1940年5月場所に初土俵。1952年1月場所に十両昇進。連続4場所務めたのち、1954年5月場所に廃業した。
青沼 吉松(あおぬま よしまつ、1918年12月6日 - 1… 青沼 吉松(あおぬま よしまつ、1918年12月6日 - 1990年2月12日)は、日本の経営学者。慶應義塾大学名誉教授。 東京生まれ。1943年慶應義塾大学経済学部卒。同年、短期現役海軍主計科士官(10期)を志願。同年9月、海軍経理学校に入学。1944年3月に経理学校を卒業し海軍主計中尉に任官。1945年3月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 1949年慶大助教授、59年教授、60年「企業の社会的環境とその内的問題」で慶大経済学博士。84年定年、名誉教授、国際商科大学教授。
清水 大典(しみず だいすけ、1915年12月6日 - 19… 清水 大典(しみず だいすけ、1915年12月6日 - 1998年8月19日)は、日本の菌類学者である。「原色 冬虫夏草図鑑」(1994)を出版するなど、昆虫の成虫や蛹、幼虫に寄生する冬虫夏草などのノムシタケ属の研究で知られる。 埼玉県秩父市に生まれた。旧制秩父農林学校を卒業後、独学で植物学を学び、東京大学理学部小石川植物園などで働き、1940年には満州国大陸科学院植物研究室に奉職した。戦後は小石川植物園に復職した後、埼玉県下のシイタケ試験場、服部植物研究所などを経て、山形県米沢市立博物館で働き、米沢市営白布温泉熱帯植物園園長などを務めた。1968年、斎藤茂吉文化賞を受賞した。
杉原 荘介(すぎはら そうすけ、1913年12月6日 - 1… 杉原 荘介(すぎはら そうすけ、1913年12月6日 - 1983年9月1日)は、日本の考古学者。 1913年に東京市日本橋区小舟町に生まれた。府立三中(現都立両国高校)の時代に考古学を志すも、家業の和紙問屋を継ぐ。東京考古学会の同人として活躍。1935年東京外国語学校専修科(仏語)を卒業し、1937年上智大学外国語学校独語科卒業。1941年、27歳で明治大学専門部地歴科に入学し、1943年首席卒業。同年、卒業論文『原史学序論』を上梓。卒業とともに軍務に服し、1946年の春に復員する。同年4月から文部省嘱託教科書局に勤務し、国定歴史教科書『くにのあゆみ』の編輯などにあたった。1948年から明治大学専門部助教授、翌年に同大学文学部助教授、1953年には文学部教授となる。
岡嶋 清熊(おかじま きよくま 1913年(大正2年)12月… 岡嶋 清熊(おかじま きよくま 1913年(大正2年)12月6日 - 1995年(平成7年)2月24日)は日本の海軍軍人、海上自衛官。海軍兵学校(第63期)卒。最終階級は、海軍で海軍少佐、海自で海将補。 1913年(大正2年)12月6日、熊本県に生まれる。熊本中学を経て1932年(昭和7年)4月、海軍兵学校に第63期生として入校。1936年(昭和11年)3月19日に卒業し海軍少尉候補生としてアメリカ・ニューヨークまでの遠洋航海に出る。終了後、重巡洋艦「足柄」乗組。1937年(昭和12年)4月、海軍少尉任官。同年9月、海軍練習航空隊飛行学生を拝命。同課程終了後、延長教育を受け、以後戦闘機搭乗員としての道を歩む。
田中 謙二(たなか けんじ、1912年12月6日 - 200… 田中 謙二(たなか けんじ、1912年12月6日 - 2002年11月17日)は、日本の中国文学者。 1912年、滋賀県で生まれた。京都帝国大学文学部支那文学科で学び、1937年に卒業。1944年春、安田二郎と共に北京に留学した。 卒業後は、天理大学助教授に就いた。京都大学人文科学研究所助教授に転じ、後に教授昇格。1962年、学位論文『西廂記の研究』を京都大学に提出して文学博士の学位を取得。1977年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は関西大学教授として教鞭を執った。 専門は中国の古典文学。特に戯曲を研究対象とし、文化と言葉について研究を進めた。
渡邊 左武郎(わたなべ さぶろう、1911年〈明治44年〉1… 渡邊 左武郎(わたなべ さぶろう、1911年〈明治44年〉12月6日 - 1997年〈平成9年〉10月2日)は、日本の医学者、人類学者。医学博士(北海道帝国大学)。札幌医科大学第4代学長、北海道開拓記念館第3代館長。 北海道生まれ。1928年北海道庁札幌第一中学校卒業。1931年北海道帝国大学予科修了。1935年、北海道帝国大学医学部卒業、同医学部解剖学第2講座助手。1940年同臨時附属医学専門部教授。 1941年陸軍軍医に徴兵される。1945年、宮崎県にて終戦をむかえる。 1946年北海道庁立女子医学専門学校(後の札幌医科大学)教授。1950年札幌医科大学医学部解剖学教室初代教授。1956年札幌医科大学大学院医学研究科解剖学担当教授。
山中 要作(やまなか ようさく、1909年 <明治42年> … 山中 要作(やまなか ようさく、1909年 <明治42年> 12月6日 - 2003年 <平成15年> 12月13日)は、日本の地方公務員、経営者。埼玉県副知事、テレビ埼玉初代社長を歴任。埼玉県出身。 1943年に中央大学法学部を卒業。 山形県地方課長を経て、埼玉県庁で商工部長、企業部長、総務部長を歴任し、1969年には副知事に就任。1973年に埼玉県住宅供給公社理事長を経て、1978年から1983年までにテレビ埼玉初代社長を務めた。 1980年に勲三等旭日中綬章を受章。 2003年12月13日老衰のために死去。94歳没。
友永 英夫(ともなが ひでお、1908年(明治41年)12月… 友永 英夫(ともなが ひでお、1908年(明治41年)12月6日 - 1945年(昭和20年)5月14日)は、日本の海軍軍人。潜水艦を専門とする技術士官として、自動懸吊装置、重油漏洩防止装置を開発し、2度にわたり海軍技術有功章を受章した。第二次世界大戦中にドイツへ赴き、その帰途でドイツの降伏を迎え、乗艦していた「Uボート」艦内で庄司元三とともに自決。最終階級は海軍技術大佐。 現在の釜山広域市に土木技術者の父の三男として生まれた。本籍は山口県。日本に帰国後も父の仕事の関係で住居を転々とした。旧制鳥取県立鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、旧制第一高等学校理科を経て1929年(昭和4年)に東京帝国大学工学部船舶工学科に進んだ。
伊達 慎一郎(だて しんいちろう、1907年(明治40年)1… 伊達 慎一郎(だて しんいちろう、1907年(明治40年)12月6日 - 1994年(平成6年)10月11日)は、日本の政治家、地方公務員、弁護士。島根県知事(1期)。知事退任後、弁護士に登録。 島根県松江市生まれ。旧制松江高等学校を経て東京帝国大学法学部、大同学院を卒業。満洲国政府に勤務し、西安県副県長、鉄鋼司弁事などを歴任する。 終戦で引き揚げ、1947年(昭和22年)島根県職員となる。漁政、財政各課長、総務部長を経て、田部長右衛門知事の女房役として、1960年(昭和35年)から10年間副知事を務め、3期知事を務めた田部の後継者として選ばれ、1971年(昭和46年)4月の島根県知事選挙に立候補した。
安 益泰(アン・イクテ、1906年12月6日 - 1965年… 安 益泰(アン・イクテ、1906年12月6日 - 1965年9月16日)は、大韓帝国出身の作曲家、指揮者。本貫は順興安氏。 平壌出身。崇実中学校を修了後、1921年に渡日し正則中学校(現・正則高等学校)に入学、その後東京高等音楽学院でチェロを専攻した。 1930年渡米し、フィラデルフィアのカーティス音楽学校に入学、その後シンシナティー音楽学校でチェロと作曲を専攻した。1936年渡欧してウィーンへ留学し、アジア人で唯一リヒャルト・シュトラウスに学び、現在の大韓民国の国歌である愛国歌を作曲した。1939年、ブダペスト音楽学校に入学し、卒業後指揮者として各国を回り、ウィーン交響楽団、ベルリン交響楽団、ローマ交響楽団、ブダペスト交響楽団で指揮した。
岡村 俊彦(おかむら としひこ、1906年(明治39年)12… 岡村 俊彦(おかむら としひこ、1906年(明治39年)12月6日 - 1954年(昭和29年)11月23日)は、日本の物理学者である。 岡村輝彦の七男として東京に生まれる。1930年(昭和5年)に東北帝国大学(現在の東北大学)卒業後、同大学の金属材料研究所に勤務する。同研究所の所長だった本多光太郎に師事し、主に磁気研究に携わり1937年(昭和12年)に理学博士を取得した。1938年(昭和13年)には助教授となり同大学で教鞭を執り、5年後の1943年(昭和18年)には教授に昇格する。 1948年(昭和23年)から1954年に死去するまで東北大学の教授の傍ら同大学の科学計測研究所の所長を務め、磁気のよって熱による変化を主とした強磁性体を研究し「岡村・エルウーフ効果」と呼ばれる磁気効果を発見した。
山本 弘(やまもと ひろむ、1905年 <明治38年> 12… 山本 弘(やまもと ひろむ、1905年 <明治38年> 12月6日 - 1986年 <昭和61年> 5月4日)は、日本の経営者。元住友信託銀行社長。位階は従四位。 愛媛県出身。1926年に山口高等商業学校を卒業し、同年に住友信託銀行に入行。1947年5月に取締役に就任、1948年7月に常務、1960年5月に専務、1963年7月に副社長を経て、1969年5月には社長に就任。1972年5月に会長に就任、1976年9月に取締役相談役を経て、1984年1月には相談役名誉顧問に就任。 1982年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1986年5月4日に急性肺炎のために死去。80歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
古賀 忠雄(こが ただお、1903年〈明治36年〉12月6日… 古賀 忠雄(こが ただお、1903年〈明治36年〉12月6日 - 1979年〈昭和54年〉6月10日)は、日本の彫刻家。 1903年(明治36年)、佐賀市水ヶ江に生まれる。佐賀県師範学校附属小学校(現佐賀大学文化教育学部附属小学校)高等科を卒業後、県立有田工業学校(現県立有田工業高等学校)絵画科へ入学。同校在学中に日本画家・腹巻丹丘よりその手腕を認められ、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科塑像部本科へ入学。1929年に「仏心」で第10回帝展入選。 1939年に「岬の男」で第3回文展(現日展)特選を受賞。1943年4月、「建つ大東亜」で帝国芸術院賞受章。1945年、日展委員に就任。練馬にアトリエを構え彫刻を中心に陶器・絵画など様々な分野の作品を発表する。
松本 正雄(まつもと まさお、1902年12月6日 - 19… 松本 正雄(まつもと まさお、1902年12月6日 - 1996年1月4日)は、日本の弁護士、最高裁判所判事。第二東京弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長、最高裁判所判事、国家公安委員等を務め、1972年勲一等旭日大綬章受章。 愛媛県出身。1919年神奈川県立第一横浜中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒業。1926年に旧制東京商科大学(一橋大学の前身)卒業後、古河電気工業に入社するも、「自由を志し」同社を退社し、1929年東京府立第一商業学校(現東京都立第一商業高等学校)講師に着任。1930年に弁護士登録。弁護士としては、保全経済会事件で破産管財人を務めるなど、主に民商事事件を手がけた。法曹一元制論者としても知られる。
神戸 捨二(かんべ すてじ、1901年12月6日 - 197… 神戸 捨二(かんべ すてじ、1901年12月6日 - 1975年6月1日)は、日本の経営者。京都府京都市出身。 1925年に東京帝国大学法学部独法学科を卒業し、同年に安田銀行に入行。安田保善社、帝国ピストンリングでの勤務を経て、1945年に沖電気工業常務に就任し、1947年に専務を経て、1949年に社長に就任。1966年から1972年までに会長を務めた。 1962年に藍綬褒章を受章し、1972年5月に勲二等瑞宝章を受章。 1975年6月1日心不全のために死去。73歳没。
時枝 誠記(ときえだ もとき、1900年〈明治33年〉12月… 時枝 誠記(ときえだ もとき、1900年〈明治33年〉12月6日 - 1967年〈昭和42年〉10月27日)は、日本の国語学者。学位は、文学博士(東京帝国大学・論文博士・1943年)(学位論文「言語過程説の成立とその展開」)。東京大学名誉教授。 横浜正金銀行サンフランシスコ支店長を務めた時枝誠之の子として東京神田に生まれる。 暁星中学校、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1925年に東京帝国大学文学部国文科を卒業。卒業論文は『日本に於ける言語意識の發達及び言語研究の目的と其の方法』。1943年に学位論文「言語過程説の成立とその展開」で東京帝国大学より文学博士の学位を取得。 1925年に旧制第二東京市立中学校(現・東京都立上野高等学校)教諭。
脇村 義太郎(わきむら よしたろう、1900年12月6日 -… 脇村 義太郎(わきむら よしたろう、1900年12月6日 - 1997年4月17日)は、日本の経済学者。専攻は経営史。1964年から日本学士院会員、1988年から1994年まで第20代日本学士院院長を務める。1992年文化功労者。東京大学名誉教授。 父は実業家・脇村市太郎。甥に日本高等学校野球連盟会長を務めた脇村春夫がいる。 1900年、現在の和歌山県田辺市に生まれる。旧制和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺高等学校)を経て、1921年第三高等学校卒業。1924年、東京帝国大学経済学部商業学科卒業。 1924年東京帝大助手、1926年東京帝大助教授となる。1935年から37年にかけてヨーロッパへ留学するも、帰国後の1938年人民戦線事件で検挙され、退官。
中村 是好(なかむら ぜこう、1900年〈明治33年〉12月… 中村 是好(なかむら ぜこう、1900年〈明治33年〉12月6日 - 1989年〈平成元年〉12月6日)は、日本の俳優・盆栽家。本名は中村愚堂。愛称はゼコやん。 榎本健一のカジノ・フォーリーの旗揚げに参加し、エノケン一座の中堅として活躍。エノケン主演の映画でも三枚目を演じ、戦後は庶民的な演技で多くの作品に出演した。晩年は盆栽家として知られ、日本小品盆栽協会会長を務めた。 1900年(明治33年)12月6日、佐賀県杵島郡朝日村大字(現武雄市)に生まれる。11歳の時に嬉野市の瑞光寺で得度して、名を禅徳、号を愚堂と改め、のち愚堂を本名とする。1919年(大正8年)に京都市の大徳寺の般若林に入学する。 1921年(大正10年)、新派新声劇の伊東好郎の門下となり、以後、道頓堀の山長一座や神田劇場の中村歌扇一座、根岸大歌劇団、曾我廼家十吾一座、曾我廼家五九郎劇などで活動する。
堀田 清治(ほった せいじ、1899年(明治32年)12月6… 堀田 清治(ほった せいじ、1899年(明治32年)12月6日 - 1984年(昭和59年)2月17日)は、日本の洋画家。福井県福井市出身。福井県立福井中学(現・福井県立藤島高等学校)卒業。日本の洋画壇を代表するフォーブ(野獣派)の巨匠。日展文部大臣賞ほか受賞歴多数。日洋展委員・動く美術館運営委員もつとめ、積極的な美術活動を展開し多くの俊秀を育てた。芸術院会員に推挙されながらも終始一貫して断り続ける信念の人でもあった。 福井市の紡績原料問屋の長男として生まれる。福井中学入学後油絵を描き始め、1920年(大正9年)に上京、太平洋美術研究所に入所し高間惣七に師事する。同研究所や高間らが結成した新光洋画会で最高賞を受賞後、帰郷した際に同郷の土岡秀太郎らとともに北荘画会を創立、福井の文化的地盤の形成に尽力する。
江口 繁(えぐち しげる、1899年12月6日 - 1971… 江口 繁(えぐち しげる、1899年12月6日 - 1971年9月19日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 佐賀県出身。1920年中央大学法律科卒。弁護士と弁理士の業務に従事する。福岡精華女学校(現・精華女子高等学校)を経営し、福岡市議、同参事会員、福岡県議、福岡県弁護士会長、帝国弁護士会理事、大日本弁護士会常任理事、皇教塾、大憲塾塾頭、九州椎茸輸出協同組合理事長を務める。 1937年の第20回衆議院議員総選挙では福岡1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して落選。1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。
瀧 庸(たき いさお、1898年(明治31年)12月6日 -… 瀧 庸(たき いさお、1898年(明治31年)12月6日 - 1961年(昭和36年)5月18日)は、日本の軟体動物学者。理学博士。3歳下の弟に軟体動物学者の瀧巖をもち、共に多板類などの軟体動物の記載を行った分類学者である。甥に花井哲郎を持つ。 1898年(明治31年)12月6日、愛媛県松山市に瀧幾太郎の次男として生まれる。長男は幼くして亡くなったため、相続者となる。愛媛県師範学校附属尋常小学校・附属高等小学校を終え、1年後の1914年(大正3年)に師範学校に入学した。当時、子供たちに昆虫採集のような博物趣味がブームとなっており、彼はいつとはなしにそうした趣味を持つようになっていた。それが実家の近くに住んでいた小松崎三枝に知られたことが、入学の動機の一つであった。
高瀬 伝(高瀬 傳、たかせ でん、1898年12月6日 - … 高瀬 伝(高瀬 傳、たかせ でん、1898年12月6日 - 1969年4月27日)は、日本の鉄道官僚、政治家。位階は従三位。労働政務次官、衆議院議員(7期)などを歴任した。 栃木県大田原市生まれ。第五高等学校、1923年東京帝国大学法学部政治科卒業。 1924年、鉄道省入省。同期に佐藤栄作(元内閣総理大臣)、山本利三郎(鉄道技術者)、小野哲(元千葉県知事)。東鉄旅客課長、国際観光局ニューヨーク事務所長、タイ国大使館一等書記官、鉄道監、終戦連絡中央事務局参与などを務める。 1946年の第22回衆議院議員総選挙栃木選挙区に日本社会党から立候補し、初当選。 1955年、第2次鳩山一郎内閣労働政務次官。
晴ノ海 弥太郎(はれのうみ やたろう、1898年12月6日 … 晴ノ海 弥太郎(はれのうみ やたろう、1898年12月6日 - 1970年12月23日)は、現在の高知県土佐市出身で友綱部屋に所属した元大相撲力士。本名は中西 弥太郎(なかにし やたろう)。176cm、86kg。最高位は東前頭12枚目。得意技は突っ張り、右四つ、下手投げ。 祖父や父の影響を受けて子供の時から土地相撲で活躍した。1915年5月場所で初土俵を踏む。順調に番付を上げていき、1923年1月場所で十両昇進。7代友綱の部屋継承以降新しい力士が中々育たなかった友綱部屋からの待望の関取であった。十両昇進後は苦戦していたが、1928年5月場所に新入幕を果たした。しかし、幕内は2場所しか務められず、現役晩年は十両で相撲を取り続けた。
堀内 敬三(ほりうち けいぞう、1897年(明治30年)12… 堀内 敬三(ほりうち けいぞう、1897年(明治30年)12月6日 - 1983年(昭和58年)10月12日) は、日本の作曲家、作詞家、訳詞家、音楽評論家。「あやしいぞ」をもじった安谷 鎮雄という筆名もある。
森田 信義(もりた しんぎ、1897年12月6日 - 195… 森田 信義(もりた しんぎ、1897年12月6日 - 1951年7月15日)は、日本の映画プロデューサー、脚本家・劇作家、演出家である。山本 正夫(やまもと まさお)という筆名もある。 1897年(明治30年)12月6日、兵庫県神戸市に生まれる。 非常に裕福な商家の家庭に長男として生まれ、育てられた。父の金蔵の代から、大沢商会の大沢善夫(のちのゼーオー・スタヂオ社主)の祖父とも親交があった。長じて東京に移り、慶應義塾に進学する。1918年(大正7年)ころ岡本綺堂に師事、帝国劇場での上演台本等を書き、同人誌『群像』を主宰する。1920年(大正9年)、当時慶應義塾の学生でのちの映画監督・山本嘉次郎やのちの脚本家・小林正の「白夜会」と協力し、栗原トーマスの講演会等を行う。
坂西 志保(さかにし しほ、1896年(明治29年)12月6… 坂西 志保(さかにし しほ、1896年(明治29年)12月6日 - 1976年(昭和51年)1月14日)は、日本の学者、評論家。外務省や参議院の専門委員、選挙制度審議会委員、中央教育審議会委員、憲法調査会委員、日本ユネスコ国内委員、放送番組向上委員会委員長、立教大学講師、警察育英会理事長、国家公安委員会委員などを務め、立法・行政・教育と多岐にわたり活躍した。 なお、名についてしおとする資料もある。志保自身の英文署名や自身が米国で出版した書物には「Shio」が使用されており、日本語署名には「志保」を用いており「しほ」はその読みである。戸籍には「シホ」とある。「志保」は聖書の「地の塩」による。 神奈川県横浜から北海道後志国忍路郡塩谷村伍助沢(現:小樽市塩谷)に開拓民として1893年(明治26)に入植した坂西傳明夫妻の娘として1896年(明治29)に生まれる。
小宮 喬介(こみや きょうすけ、1896年(明治29年)12… 小宮 喬介(こみや きょうすけ、1896年(明治29年)12月6日 - 1951年(昭和26年)9月26日)は、日本の法学者、医学者である。 神奈川県に生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)医学部に入学する。1923年(大正12年)に卒業後は、法医学の研究に専念し1926年(大正15年)に愛知医科大学の助教授となり後に教授に昇格した。 その後は名古屋医科大学(現在の名古屋大学医学部)を経て、校名変更により1939年(昭和14年)から1948年(昭和23年)名古屋帝国大学にて教鞭を執る。勤務中に医学博士を取得し、第22代日本法医学会の会長に就任し、指紋の研究を主に鑑識科学の研究に専念した。この影響もあり、大学退職後の1949年(昭和24年)に発生した下山事件の衆議院法務委員会に参考人として招致され事件解決に導いた。
清水 荘平(しみず そうへい、1893年12月6日 - 19… 清水 荘平(しみず そうへい、1893年12月6日 - 1970年12月11日)は、大正・昭和期の実業家。かつての工業計器メーカー大手であった株式会社北辰電機製作所(現・横河電機株式会社)の創業者で、代表取締役社長、会長。北辰化学工業株式会社(現・シンジーテック株式会社)、北辰印刷株式会社(現・港北出版印刷株式会社)等、北辰グループの総帥であった。 静岡県に生まれ、1913年、東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業し、逓信省に入省。同省電気試験所に勤務する。翌年、文部省に移り、東京帝国大学理学部の助手となり、教授長岡半太郎に仕えた。 1918年、東京帝国大学を辞して、北辰電機製作所を創業(従業員4名)。
木村 昌福(きむら まさとみ、1891年〈明治24年〉12月… 木村 昌福(きむら まさとみ、1891年〈明治24年〉12月6日 - 1960年〈昭和35年〉2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。静岡県生まれ。 現場叩き上げの指揮官として太平洋戦争の海上戦闘で数々の武勲を立てたが、特に「奇跡の作戦」といわれた『キスカ島撤退作戦』を指揮し、5千名あまりの日本将兵の無血撤退を成功させた事績で名高い。 静岡県静岡市紺屋町で代言人(現在の弁護士に相当)の父・近藤壮吉と母・すずの次男として生まれる。生後すぐに木村家(母の実家、元鳥取藩士)の養子となり、木村家の籍に入ったが(このため本籍は鳥取県鳥取市)、引き続き静岡の近藤家で養育された。 父の壮吉は立憲改進党の党員で政治好きであり、1910年(明治43年)に選挙に失敗して財産を失い、各地を流浪して1916年(大正5年)に下関で客死した。
相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年(明治24年)12… 相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年(明治24年)12月6日 - 1973年(昭和48年)10月3日)は、日本の内務及び厚生官僚、政治家、弁護士。宮崎・広島・愛知・愛媛各県官選知事。大政翼賛会実践局長、小磯内閣厚生大臣(第10代)、衆議院議員(8期)。 佐賀県藤津郡嬉野村(現嬉野市)出身。農業・相川定蔵の二男として生まれた。1911年、佐賀県立鹿島中学校卒業。1912年、第二高等学校入学。1915年、第二高等学校卒業。1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独)卒業。 同年、内務省入省。千葉県属1926年、徳島県労務課長から警視庁刑事部長に就任。神奈川県警察部長などを歴任。1934年、内務省警保局保安課長となり第二次大本教弾圧などを指導。
奥中喜代一(おくなか きよいち、1891年(明治24年)12… 奥中喜代一(おくなか きよいち、1891年(明治24年)12月6日 - 1986年(昭和61年)4月5日)は、日本の都市計画家。 大阪府泉北郡西百舌村生まれ、1916(大正5)年、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、南満州鉄道勤務の後、1920(大正9)年に神戸市に土木技師として奉職したが、神戸市に勤務を始めた頃は大正8年の旧都市計画法の制定に伴って大正11年に初めて神戸市の都市計画区域が決定された他にこの頃から都市計画予算が初めて単独で計上され、神戸市の組織として都市計画部が新たに設けられる等、神戸市の都市計画の始まりであった。 神戸市では都市計画部調査課長、工務課長、土木部都市計画課長、山地課長等を歴任、神戸市理事を最後に昭和18年に退職したが、退職した1943(昭和18)年頃は戦時体制への移行が進み、都市計画の基本的な役割を果たす地域制度が停止される等、町づくりを目的とした本来の都市計画は事実上終わった時期、奥中の神戸市での在職期間は戦前の神戸市の都市計画の蒙明から終需迄の歴史そのもので、その間24年に亘って神戸市の都市計画や土木行政に大きな役割を果たし、現在の神戸の町の骨格形成と都市計画の基礎をつくり、また、都市計画課長時代の大正12年から一年有余外遊し諸外国の都市計画に関する資料の収集と知識の吸収に努め、神戸の都市計画に大きな影響を与えたという。
早坂 一郎(はやさか いちろう、1891年〈明治24年〉12… 早坂 一郎(はやさか いちろう、1891年〈明治24年〉12月6日 - 1977年〈昭和52年〉8月19日)は、日本の古生物学者・地質学者。島根大学学長、日本地質学会会長、日本学術会議会員。 宮城県仙台市に生まれる。東北帝国大学理科大学地質学教室の第一期生で、1915年に卒業、同大学講師となる。1918年に理学博士、助教授。1928年、新設の台北帝国大学理農学部教授に就任する。1940年、同大学理農学部部長に就任。戦後は金沢大学教授、北海道大学教授を経て、1958年島根大学学長に就任。 古生代の化石の研究で知られ、朝鮮、中国、台湾等の第3系化石を調査。1952年から1953年に日本地質学会会長を務めた。 1926年に『地学雑誌』444号に発表した論文「岩手県花巻町産化石胡桃について」には、「化石収集に便宜を与えて下さった」という謝辞の対象として「花巻の宮澤賢治氏」という記述がある。
仁科 芳雄(にしな よしお、1890年〈明治23年〉12月6… 仁科 芳雄(にしな よしお、1890年〈明治23年〉12月6日 - 1951年〈昭和26年〉1月10日)は、日本の物理学者。学位は理学博士(東京帝国大学・1930年)。日本現代物理学の父。 岡山県浅口郡里庄町浜中出身。東京帝国大学卒。日本に量子力学の研究拠点を作ることに尽力し、理化学研究所(理研)に在籍して宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。 死去から4年後の1955年、原子物理学とその応用分野の振興を目的として仁科記念財団が設立された。この財団では毎年、原子物理学とその応用に関して著しい業績を上げた研究者に仁科記念賞を授与している。また理研の仁科加速器科学研究センターにも名を残す。 ニールス・ボーアの下で身に着けたその自由な学風は、自由で活発な精神風土を日本にもたらし、日本の素粒子物理学を世界水準に引き上げた。
内海 清温(うつみ きよはる、1890年(明治23年)12月… 内海 清温(うつみ きよはる、1890年(明治23年)12月6日 - 1984年(昭和59年)3月9日)は、大正時代から昭和時代の土木工学者、内務官僚。 鳥取県久米郡倉吉町(現・倉吉市)に生まれる。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に入省する。江戸川改修事務所勤務として江戸川分流頭首工事を担当する。1919年(大正8年)9月に退官し、朝鮮に渡り電気化学工業(現・デンカ)の発電水力調査業務に従事。工務部土木課長として朝鮮での10万kW級の水力発電所の建設可能性を現地調査し、帰朝後は宮崎県の大淀川の水力発電所建設所長に転じ、1万5千kWと3万kWの2ヵ所の水力発電所を建設した。