菊池 長右ェ門(きくち ちょううえもん、1934年4月7日 … 菊池 長右ェ門(きくち ちょううえもん、1934年4月7日 - 2020年7月26日)は、日本の政治家。 衆議院議員(1期)、岩手県議会議員、宮古市長を務めた。祖父は立憲政友会に所属した元衆議院議員の菊池長右衛門、父は初代宮古市長で日本自由党に所属した元衆議院議員の菊池長右衛門。叔父は元宮古市長の菊池良三。親子3代揃って同名な為、代々「菊長」と呼ばれる。 岩手県宮古市生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。1965年、株式会社菊長商店(燃料販売会社)社長に就任する。1983年に自由民主党公認で岩手県議会議員選挙に立候補し、初当選。以後2回当選するが、3期目の途中に県議を辞職。宮古市長選挙に立候補して当選する。
高橋 正(たかはし ただし、1933年4月7日 - 2015… 高橋 正(たかはし ただし、1933年4月7日 - 2015年8月7日)は、日本の国際政治学者。 東京生まれ。1956年早稲田大学政治経済学部卒業後、東京新聞入社。1970年北米移動特派員、1971年から1974年までモスクワ支局長、1974年外報部次長。1985年千葉商科大学助教授、1987年教授。2004年定年退任。「新しい歴史教科書をつくる会」運動にも賛同し会員になった。 1933年4月7日 東京府日本橋生まれ 1946年4月 東京高等学校(旧制)尋常科入学 1950年4月 東大教育学部付属高校2年編入 1952年4月 早稲田大学政治経済学部政治学科入学 1956年3月 同大学卒業 1956年4月 東京新聞入社外報部勤務 1957年10月 企業併合により中日新聞社外報部勤務 1971年6月 モスクワ支局長(1974年まで) 1974年7月 外報部次長 1980年 ソ連・東欧移動特派員 1985年3月 中日新聞社退社 1985年4月 千葉商科大学商経学部助教授 1987年4月 同教授 1987年4月 防衛大学校非常勤講師 1993年8月 第一回夏期語学研修学生引率(フロリダ大学) 1994年8月 経済研究所共同研究中国現地調査(第一回) 1996年8月 第二回現地調査 2004年3月 千葉商科大学定年退職 1988年10月22日 ソ連・東欧学会幹事を委託される 1988年3月6日 中国三3研究会上海総会に招請,参加 1988年10月1日 ソ連・東欧学会第17回大会で討論者をつとめる 1988年10月17日 第6回日ソ円卓会議(モスクワ)に招請,参加 1988年12月5日 関西経済倶楽部で「中ソ和解の内幕と波紋」につき講演 1989年10月13日 中日友好協会の招請で中国訪問 1990年1月11日 民主社会主義全国研究会議で報告「対外政策の課題」 1990年1月16日 総合研究所月例会議で講演「ポスト・ヤルタのゆくえ」 1990年5月21日 日本広告業協会で講演「欧州広告事情」 1990年5月24日 博報堂にて講演「ソ連‘東欧広告事情」 1990年9月29日 ソ連・東欧学会第19回大会を主催 1991年1月17日 市川ロータリークラブで「91年の国際情勢予測」につき講演 1991年8月3日 綾瀬市中央公民館で「最新ソ連事情」につき講演 1991年9月21日 ラスキン文庫定例講演会で「ラスキンの世紀末我等の世紀末」 につき講演
大星 公二(おおぼし こうじ、1932年4月7日 - )は日… 大星 公二(おおぼし こうじ、1932年4月7日 - )は日本の実業家。NTTドコモ社長、同社会長を歴任。北海道札幌市出身。 1945年北海道庁立札幌第一中学校入学、1951年北海道札幌北高等学校卒。1957年東京大学法学部卒業後、日本電信電話公社(現NTT)入社、1966年北海道石狩深川電報電話局長。電気通信総合研究所経営研究室長、データ通信本部営業部長などを経て、1988年NTT取締役経営企画本部長、1990年同常務企業通信システム本部長、1992年NTT移動通信網(NTTドコモ)社長、1998年同会長、現在に至る。社長時代にiモード開発を推進した。 多趣味で知られ、学生時代は全都道府県を旅行したように、今もぶらり出かける外出を好む。
平澤 貞昭(ひらさわ さだあき、1932年(昭和7年)4月7… 平澤 貞昭(ひらさわ さだあき、1932年(昭和7年)4月7日 - )は、日本の大蔵官僚。元大蔵事務次官。
菊地 弘(きくち ひろし、1932年4月7日 -2018年1… 菊地 弘(きくち ひろし、1932年4月7日 -2018年10月31日 )は、日本近代文学研究者。 東京生まれ。早稲田大学文学部国文科卒。跡見学園女子大学教授、2003年定年退任、名誉教授。
小西 昭之(こにし あきゆき、1931年4月7日 - 199… 小西 昭之(こにし あきゆき、1931年4月7日 - 1994年8月1日)は、日本のジャーナリスト。 長野県出身。長野県松本県ヶ丘高等学校、東京大学教養学部教養学科卒業後、1955年毎日新聞入社。イギリス留学(ロンドン大学政治経済大学院修了)、外信部記者、ロンドン特派員を経て、北米総局長、外信部部長を歴任。 縣陵新聞部時代(1949年~1951年)、小西が部長を務めた1950年の中日新聞社主催全国新聞コンクールで第2位、1951年の朝日新聞社主催全国新聞コンクールで第3位の成績を残している。
田中 茂樹(たなか しげき、1931年(昭和6年)4月7日 … 田中 茂樹(たなか しげき、1931年(昭和6年)4月7日 - 2022年(令和4年)10月4日)は、日本の元マラソン選手、日本人初のボストンマラソン優勝者。広島県比婆郡敷信村(現・庄原市)出身。身長162cm。庄原市民栄誉賞。 1931年(昭和6年)4月7日、中国山地山間の農村・広島県比婆郡敷信村(現・庄原市)に生まれる。 14歳の時、国民学校での朝礼中、130キロ離れた広島市に投下された原爆の閃光を見た。まもなく大やけどを負った被爆者が、田中の村にもたくさん運び込まれて寺で焼かれた。「アメリカは人殺しの国じゃ」と憎悪を募らせた。 14歳で父を亡くし、2人の兄は軍隊に召集された。そのため牛の手綱を取り田畑を耕作し、母の農作業を手伝いながら1年遅れで広島県比婆西高等学校(現・広島県立庄原実業高等学校、庄原格致高等学校)比婆西高校に進学。
寺尾 榮夫(てらお ひでお、1931年4月7日 - 没年不詳… 寺尾 榮夫(てらお ひでお、1931年4月7日 - 没年不詳)は、日本の医学者。専門は脳神経外科学。東邦大学医学部に脳神経外科教室を創設、初代教授を務めた。静岡市出身。「寺尾栄夫」表記も多用される。 1931年、男ばかりの3人兄弟の次男として静岡市に誕生。静岡市城内東小学校卒業。1948年、静岡県立静岡中学校4年終了で、静岡高等学校 (旧制)に入学したが、学制変更により1年で廃止。新制静岡大学文理学部プレメディカルコースに入学。2年後に東京大学医学部入学。1955年、東京大学医学部卒業。医師免許を取得、東京大学医学部附属病院第一外科・脳神経外科に入局と同時に大学院生となった。大学院在籍の間に教授の指示で、船医を経験した。
西村 暹(にしむら すすむ、1931年4月7日 - 2022… 西村 暹(にしむら すすむ、1931年4月7日 - 2022年9月5日)は日本の生化学者、分子生物学者。在米中ハー・ゴビンド・コラナの研究室において、遺伝暗号解読プロジェクトで中心的な役割を果たした。1968年コラナはこの仕事でノーベル生理学・医学賞を受賞した。帰国後はtRNAの研究に転じ世界的な研究拠点を形成した。アメリカ生化学・分子生物学会名誉会員。東京府東京市深川区(現東京都江東区)生まれ。 その後、癌研究会癌研究所、オークリッジ国立研究所(ロックフェラー財団給費研究員)、ウィスコンシン州立大学等を経て
瀬在 幸安(せざい ゆきやす、1930年〈昭和5年〉4月7日… 瀬在 幸安(せざい ゆきやす、1930年〈昭和5年〉4月7日 - 2025年〈令和7年〉2月15日)は、日本の医学者。位階勲等は従三位瑞宝大綬章。専門は心臓外科学。第10代日本大学総長。日本で初めて心筋梗塞の冠動脈バイパス手術を成功させ、その手術は人工心肺を用いないオフポンプで行われた。アジア初の冠動脈バイパス手術でもあり、心臓外科の国際的権威として知られる。また、補助人工心臓に関しても、日本初の臨床的応用・離脱に成功している。冠動脈バイパス術および補助人工心臓分野での離脱において、日本およびアジア・ヨーロッパ地域で最初に成功され、20世紀を代表する手術として『世界外科学史』に記載されている。医学界のみならず、教育界、外交・国際的権威との交流などさまざまな分野において活躍した。
竹村 健一(たけむら けんいち、1930年〈昭和5年〉4月7… 竹村 健一(たけむら けんいち、1930年〈昭和5年〉4月7日 - 2019年〈令和元年〉7月8日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家。1989年第5回『正論』大賞受賞。 大阪府大阪市東成区(現:生野区)生まれ。旧制大阪府立生野中学校の1年生の時に、父の実家のある兵庫県朝来郡和田山町(現:朝来市)に引っ越す。旧制兵庫県立生野中学校に転校。卒業後、旧制姫路高等学校文科甲類(現:神戸大学文学部)に入学するが、学制改革により翌年新制京都大学に編入。アメリカ・フルブライト財団主催のフルブライト奨学金制度の第1号として、アメリカ合衆国のシラキュース大学、イェール大学、ソルボンヌ大学(旧:パリ大学)で学ぶ。
喜里山 博之(きりやま ひろゆき、1930年4月7日 - 2… 喜里山 博之(きりやま ひろゆき、1930年4月7日 - 2005年)は、日本の経済学者。元四天王寺国際仏教大学教授。経済哲学専攻。行泉院住職。 滋賀県滋賀郡坂本村(現・大津市坂本)生まれ。生家は比叡山延暦寺の里坊・行泉院。1953年大谷大学文学部哲学科(西洋哲学)卒業、1959年立命館大学大学院経済学研究科修了。四天王寺学園女子短期大学教授、四天王寺国際仏教大学短期大学部教授を経て、四天王寺国際仏教大学教授。 2000年3月にドイツ人の仏教研究者ブルーノ・ペツォルトの著作『ゲーテと大乗仏教』の翻訳を叡山学院から刊行した。2004年11月の「ペッツォルト夫妻を記念する会」の発足を主導し、『ゲーテと大乗仏教』の共訳者小嶋昭道とともに同会の発起人となった。
後藤 信幸(ごとう のぶゆき、1930年4月7日 - 201… 後藤 信幸(ごとう のぶゆき、1930年4月7日 - 2017年8月)は、日本のフランス・ドイツ文学者、詩人、翻訳家。亜細亜大学教養部助教授、教授。 大分県竹田市(当時の住所は、大分県直入郡竹田町古町575番地)に生れる。 1936年熊本県玉名郡弥富村の尋常小学校、1942年竹田中学校、1944年学徒勤労動員(北九州の軍需工場)を経て、1947年広島高等師範学校文科に入学。10代後半はロシア文学、ドイツ文学に親しみ、18歳ころより短歌を創作、手書き歌集『昼の夢』(200首)を宮柊二に送る。19歳頃より詩作。1960年、慶應義塾大学の通信教育で学ぶ。1965年慶應義塾大学文学部仏文科卒、学部論文は「シュペルヴィエルにおける詩的体験 - 記憶と忘却 -」。
降幡 廣信(ふりはた ひろのぶ、1929年4月7日- )は、… 降幡 廣信(ふりはた ひろのぶ、1929年4月7日- )は、日本の建築家。降幡建築設計事務所代表取締役会長。信州大学工学部社会開発工学科建築学コース非常勤講師。全国各地で建築に関する賞を数多く受賞している。長野県南安曇郡温村(安曇野市)生まれ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
疋田 生次郎(ひきた せいじろう、1928年〈昭和3年〉4月… 疋田 生次郎(ひきた せいじろう、1928年〈昭和3年〉4月7日 - 2001年〈平成13年〉2月17日)は、日本の声楽家(バリトン)・音楽教育者。元・武蔵野音楽大学教授。 北海道出身。1957年(昭和32年)武蔵野音楽大学専攻科修了。 1969年(昭和44年) - 1972年(昭和47年)イタリアのローマ、ミラノに留学し、マリオ・サンマリーニ、デ・スカルツィ、レオニーダ・ベッロンらに師事。 音楽教育者として優れ、優秀な声楽家を数多く育てた。著名な門下生は、伊原直子、山路芳久、牧野正人、青山智英子、星洋二、高橋啓三、村田健司、笠井幹夫、田口興輔、塩田美奈子、丹藤亜希子、三縄みどり、大澤一彰、小貫岩夫、新垣勉、富浦元公など、錚々たる顔ぶれである。
江原 昭善(えはら あきよし、1927年4月7日 - 202… 江原 昭善(えはら あきよし、1927年4月7日 - 2021年11月30日)は、日本の人類学者。京都大学名誉教授、椙山女学園大学名誉教授、元椙山女学園大学学長。 1927年、岡山県生まれ。1954年に東京大学理学部人類学科を卒業し、1958年同大学院修了。1963年「日本石器時代より現代に到る下顎骨の形態学的変化 日本人下顎骨の人種学的研究」を東京大学に提出して理学博士号を取得。また1970年に「ヒトの頭蓋底におけるKyphoseの変異性とその形態学的分析」を順天堂大学に提出して医学博士号も取得した。 大学院終了後は、順天堂大学医学部解剖講師に就いた。1970年、京都大学霊長類研究所助教授となり、1974年に教授昇進。
橋本 恕(はしもと ひろし、1926年〈大正15年〉4月7日… 橋本 恕(はしもと ひろし、1926年〈大正15年〉4月7日 - 2014年〈平成26年〉4月6日)は、日本の外交官。駐中華人民共和国特命全権大使を歴任。徳島県鳴門市出身。位階は従三位。 駐中国特命全権大使であった1991年11月28日、外相兼副総理であった渡辺美智雄宛ての極秘電報「天皇御訪中(本使意見具申)」で、「中国は明年の国交正常化20周年に際し、官民あげて天皇訪中を切望し、これが実現すれば名実ともに日中間の戦後は終わり友好協力の新時代が確固不動になると強い期待を表明している」と天皇訪中の実現を強く訴えた。 また、天皇訪中の実現のため、政界工作やマスコミ工作を行った。橋本は1992年6月26日、共同通信社社長の犬養康彦と面会。
小口 武彦(おぐち たけひこ、1925年4月7日 - 200… 小口 武彦(おぐち たけひこ、1925年4月7日 - 2006年12月30日)は、日本の物理学者。元日本物理学会会長。長野県岡谷市出身。 この項目は、物理学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:物理学/Portal:物理学)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
團 伊玖磨(だん いくま、1924年4月7日 - 2001年… 團 伊玖磨(だん いくま、1924年4月7日 - 2001年5月17日)は、日本の作曲家、エッセイスト。日本を代表するクラシック音楽の作曲家の一人である。作曲家としてはオペラ、交響曲、歌曲などのいわゆるクラシック音楽のほか、童謡、映画音楽、放送音楽と幅広いジャンルを手がけた。「團伊玖麿」は誤表記。
藤島 宇内(ふじしま うだい、1924年4月7日 - 199… 藤島 宇内(ふじしま うだい、1924年4月7日 - 1997年12月2日)は、日本の詩人、評論家。 兵庫県出身。慶應義塾大学卒。在学中から「三田文学」「歴程」に参加。1951年詩集「谷間より」を発表。ルポライターとして沖縄、在日朝鮮人、被差別部落などを扱う。 藤岡信勝は、藤島が「朝鮮人強制連行」という造語の生みの親であると主張している。
近藤 摂南(こんどう せつなん、1922年4月7日 - 20… 近藤 摂南(こんどう せつなん、1922年4月7日 - 2009年5月20日)は、日本の書道家。本名は寿男。 大阪府大阪市生まれ。1945年、立命館大学卒業。炭山南木、津金隺仙(「隺」は鶴の文字から鳥を取った文字)に師事。池大雅に大きな影響を受けた。旧来の書壇のあり方に疑問を呈し、自ら新書派を旗揚げ。寺山修司の詩を作品に仕上げるなどした。 日展理事、四天王寺女子大学教授のほか、新書派協会の会長などを務める。 2009年5月20日、肺炎のため死去。
清水 正博(しみず まさひろ、1922年4月7日 - 200… 清水 正博(しみず まさひろ、1922年4月7日 - 2008年12月21日)は、日本の実業家。北辰電機製作所(現・横河電機)代表取締役社長、北辰工業(現・シンジーテック)代表取締役会長。 工業計器・プロセス制御システムメーカーの一つであった北辰電機製作所の創業者で初代社長であった清水荘平の長男として生まれる。1947年、早稲田大学商学部を卒業し、北辰電機製作所に入社。1951年に同社監査役、1956年に同社専務取締役、1964年に父・荘平の会長就任に伴い、同社代表取締役社長に就任した。北辰は、戦前・戦中と軍需への依存度が高かった上に、戦災の被害が甚大で、戦後の再建は苦難を極めた。正博は、父・荘平を援けて、会社再建に尽力した。
中村 伊一(なかむら いいち、1920年4月7日 - 200… 中村 伊一(なかむら いいち、1920年4月7日 - 2005年4月14日)は日本の実業家。ワコール創業メンバーで、同社副社長や、社団法人京都経済同友会代表幹事、京都証券取引所理事長を務めた。 滋賀県近江八幡市出身。八幡商業(現滋賀県立八幡商業高等学校)首席卒業を経て、横浜高等商業学校(現横浜国立大学)卒業、1944年東京商科大学(現一橋大学)卒業。 学徒出陣で満州に渡る。シベリア抑留を経て、母校八幡商業で教鞭をとっていたところ、八幡商業の同級生塚本幸一にさそわれ、相学の先生からの託宣もあり、1949年にワコールの前身である和江商事に入社。1963年から1984年まで副社長を務め、同年取締役相談役に退く。
市川 正巳(いちかわ まさみ、1917年4月7日 - 199… 市川 正巳(いちかわ まさみ、1917年4月7日 - 1999年2月1日)は、日本の地理学者、水文学研究者、筑波大学名誉教授、兵庫教育大学名誉教授。位階は従四位。 秋田県に生まれ、秋田県師範学校から東京高等師範学校文科第4部に進み、1941年に卒業して滋賀県師範学校教諭となった。 1942年に二等兵として陸軍に召集され、終戦時には陸軍中尉となっていた。 戦後ただちに東京文理科大学理学部地学科地理学専攻に進んで、石川与吉に師事して自然地理学を学び、1949年に卒業し、大学院特別研究生として4年間在籍した後、1953年に東京教育大学理学部助手となった。 1961年5月には、「山地斜面の形態とその発達に関する地形学的研究」により、東京教育大学から理学博士を取得した。
大西 鐵之祐(おおにし てつのすけ、1916年4月7日 - … 大西 鐵之祐(おおにし てつのすけ、1916年4月7日 - 1995年9月19日)は、元早稲田大学教授。大西鉄之祐とも。元ラグビー日本代表監督・早稲田大学ラグビー部監督。奈良・郡山中学、早稲田大学卒業。奈良県奈良市出身。 早大選手時代のポジションはフランカー。卒業後は東芝に就職するも兵役に就き終戦を迎える。戦後、早大職員から教授へ。後に早大ラグビー部監督に就任する。兄の栄造も早大の選手・監督だった。 1950年度シーズンより早大監督に就任。以後5シーズン監督を務め、1950年、1952年、1953年の各年度において東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦に勝利し、『全国制覇』をもたらした。また、この第1期監督時代に優勝時に「荒ぶる」を歌唱する伝統が始まった。
大西鐡之祐(おおにしてつのすけ、1916年4月7日 - 19… 大西鐡之祐(おおにしてつのすけ、1916年4月7日 - 1995年9月19日)は元早稲田大学教授。元ラグビー日本代表監督・早稲田大学ラグビー部監督。奈良・郡山中学、早稲田大学卒業。奈良県奈良市出身。
中村 彰(なかむら あきら、1916年4月7日 - 1969… 中村 彰(なかむら あきら、1916年4月7日 - 1969年12月9日)は、日本の俳優である。本名同じ。 1916年(大正5年)4月7日、東京府北多摩郡巣鴨村大字池袋(現在の東京都豊島区池袋)に、成蹊学園の創設者である中村春二の五男として生まれる。 1929年(昭和4年)、東京高師附属小学校(現在の筑波大附属小)、1934年(昭和9年)に東京高師附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。同級生には澄田智(第25代日本銀行総裁)がいた。旧制第一高等学校(1950年廃止)を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)文学部美学科へ進学し、父・春二とほぼ同じ学校歴をたどる。 東京帝国大学在学中から、後に映画監督となる家城巳代治や堀川弘通、同じく後に映画評論家として活躍する登川直樹や清水晶と交流し、1940年(昭和15年)、大学を卒業と同時に東宝に入社した。
坪内 道典(つぼうち みちのり、1914年4月7日 - 19… 坪内 道典(つぼうち みちのり、1914年4月7日 - 1997年9月16日)は、愛媛県伊予郡郡中町(現:伊予市)出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。
末広 義一(末廣、すえひろ よしかず、1912年 <明治45… 末広 義一(末廣、すえひろ よしかず、1912年 <明治45年> 4月7日 - 1999年 <平成11年> 11月7日)は日本の大蔵官僚。位階は正五位。 愛媛県三間町出身。若いころに大阪の税務署に入り、苦学して関西大学専門部法科を卒業。1951年4月 主計局大蔵第一係主査。1953年4月1日 主計局主計官(給与課)。1954年5月15日 主計局主計官(総務課(予算総括係担当))。1958年4月26日 主計局司計課長。1961年 東北財務局長。1963年5月 退官。同年 金属鉱物探鉱融資事業団監事。1964年 金属鉱物探鉱促進事業団理事。1971年 海外鉱物資源開発監査。1972年 同取締役。1974年 常務。
唐澤 富太郎(からさわ とみたろう、1911年4月7日 - … 唐澤 富太郎(からさわ とみたろう、1911年4月7日 - 2004年8月11日)は、日本の教育学者、東京教育大学名誉教授。日本教育史を研究。 新潟県出身。東京文理科大学卒。奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)教授、東京高等師範学校教授、1949年(昭和24年)に東京教育大学教授。1953年(昭和28年)「中世初期仏教々育思想の研究」で東京教育大文学博士。定年退職後、日本女子大学教授。1980年(昭和55年)に日本女子大退職。1993年(平成5年)、教育史の資料を展示した「唐澤博物館」を自宅敷地内(東京都練馬区豊玉北)に開設。 新潟県出雲崎で尋常小学校・尋常高等小学校時代を送る。成績は優秀で「操行並びに学業優秀に付きこれを賞す」の賞状が残されている。
北川 省一(きたがわ せいいち、1911年4月7日 - 19… 北川 省一(きたがわ せいいち、1911年4月7日 - 1993年1月5日)は、日本の詩人、良寛研究家。 新潟県刈羽郡柏崎町(現在の柏崎市)生まれ。塗師の父が出奔して母と兄との家庭に育つ。第一高等学校在学時代には絵画、詩を創作。東京帝国大学仏文科に入学するが左翼活動のため1年で中退。郷里で私塾経営などをしたのち再度上京、兵役で千島で特攻訓練をするうち敗戦を迎えた。戦後は郷里で貸本屋をし、たびたび日本共産党から衆議院に立候補するが、田中角栄に敗れ続ける。66歳以後良寛研究家として多くの著書を著す。椎名麟三とは鉄工場の同僚だった。1993年1月5日、胃癌のため死去。 息子は北川フラム。娘の原若菜は原広司夫人であり、その名付け親は中野重治である。
斯波 四郎(しば しろう、1910年4月7日 - 1989年… 斯波 四郎(しば しろう、1910年4月7日 - 1989年4月29日)は山口県阿東町(現:山口市)出身の作家で、本名は柴田 四郎である。
小林 甲子郎(こばやし こうしろう、1907年(明治40年)… 小林 甲子郎(こばやし こうしろう、1907年(明治40年)4月7日 - 1989年(平成元年)6月27日)は、昭和期の実業家。京王帝都電鉄(現・京王電鉄)代表取締役社長(第3代)。 山梨県初狩村(現大月市)において、酒造業を営む小林亀麿、ふくの二男として生まれる。二男であるが、兄が早逝したので実質的には長男として育つ。 父亀麿は、初狩村の村長や、北都留郡議会、山梨県議会で議員をつとめ、都留電燈会社(後に東京電力に統合)の社長をつとめた地元の実力者であった。 小林は、山梨県立都留中学校(現・山梨県立都留高等学校)を経て、1931年、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、甲州財閥の縁で、東武鉄道に入社した。
始関 伊平(しせき いへい、1907年4月7日 - 1991… 始関 伊平(しせき いへい、1907年4月7日 - 1991年11月26日)は、昭和期の商工官僚・政治家・弁護士。建設大臣などを歴任した。
酒井 三郎(さかい さぶろう、1907年4月7日 - 199… 酒井 三郎(さかい さぶろう、1907年4月7日 - 1993年1月23日)は、昭和時代の団体職員。昭和研究会、大政翼賛会、住友通信機、参議院緑風会を経て、日本民間放送連盟創立に参画。 静岡県に生まれる。1930年に青山学院英文科卒業後、大日本青年団本部編集部に入る。後に後藤隆之助と共に青年団を退団し、側近として昭和研究会に参加。のち大政翼賛会、住友通信機、参議院緑風会に所属。 1951年に日本民間放送連盟創立に参画し、事務局長、常務理事を経て、1963年に3月専務理事に就任。1972年12月より日本音楽著作権協会理事長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
下村 冨士男(しもむら ふじお、1907年4月7日 - 19… 下村 冨士男(しもむら ふじお、1907年4月7日 - 1970年10月4日)は、日本史学者、東京大学文学部名誉教授。 1932年東京帝国大学文学部国史学科卒、1937年外務省嘱託として『大日本外交文書』を編纂、旧制高知高校教授、名古屋大学文学部助教授を経て、1956年東大国史学科助教授、1959年米国ミシガン大学客員教授、1960年教授、1968年定年退官、愛知県立大学教授となるが、1970年死去。東大文学部最初の近代史専攻の教官で、外交史を専門とした。 下村冨士男は反共産主義として知られていたため、東大国史学科赴任には反対の声があったという。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
野沢 清人(旧字体: 野澤 淸人、のざわ きよんど、1907… 野沢 清人(旧字体: 野澤 淸人、のざわ きよんど、1907年(明治40年)4月7日 – 1959年(昭和34年)10月18日)は、昭和期の薬剤師、実業家、政治家。衆議院議員。 栃木県河内郡本郷村(現上三川町)で生まれる。1930年(昭和5年)東京薬学専門学校(現東京薬科大学)を卒業した。 薬科関係の経歴を歩み、1941年(昭和16年)薬剤官として応召し、終戦を薬剤大尉として迎え、3年間シベリア抑留となった。 復員後、第一化学工業所を設立し、のちに関東化学と改称して社長に就任。その他、社会保障制度審議会委員、日本薬剤師協会(現日本薬剤師会)副会長、同常任顧問、東京薬科大学理事長、試薬協会理事長などを務めた。
吉頂寺 晃(、1906年(明治39年)4月7日 - 不明)は… 吉頂寺 晃(、1906年(明治39年)4月7日 - 不明)は、日本の俳優。本名は岡崎 光彦(旧名・岡崎 光)、旧芸名に吉頂寺 光、吾妻 三郎。東京市神田区出身。 第一早稲田高等学院を中退した後、高松プロ吾妻撮影所の研究生となる。 1926年(大正15年)、タカマツ・アズマプロ製作の『男児一諾』でデビューする。翌1927年1月、松竹蒲田撮影所に移り、吾妻三郎に改名。小津安二郎監督のデビュー作『懺悔の刃』などに主演するが、松竹蒲田が時代劇の制作を停止したことから退社。1928年2月に河合プロダクションに入社するが、同年6月に東亜キネマに移籍し、芸名を吉頂寺 光に戻す。1930年1月、帝国キネマ長瀬撮影所に移籍し、新興キネマに組織変更された後も在籍。
ジョン・ムーア・アリソン(John Moore Alliso… ジョン・ムーア・アリソン(John Moore Allison, 1905年4月7日 - 1978年10月28日)は、アメリカ合衆国の外交官。駐日大使、駐インドネシア大使、駐チェコスロヴァキア大使を歴任した。
木村 毅一(きむら きいち、Kiichi Kimura、19… 木村 毅一(きむら きいち、Kiichi Kimura、1904年4月7日 - 1992年7月8日)は、日本の実験原子核物理学者。理学博士(京都帝国大学・論文博士・1940年)。京都大学教授、京都大学原子炉実験所(現・京都大学複合原子力科学研究所)長を経て、京都大学名誉教授。大阪府立放射線中央研究所長、福井工業高等専門学校長も務めた。勲二等旭日重光章受章。 台北帝国大学(現・国立台湾大学)の荒勝文策教授の下でアジアで最初の加速器(コッククロフト・ウォルトン型)の建設を行った(1934年完成)。敗戦直後の1945年11月に進駐軍によって廃棄された京都大学サイクロトロンをのちに再建し(1954年)、大阪府立放射線中央研究所(1959年発足)、京都大学原子炉実験所(1963年発足、現・京都大学複合原子力科学研究所)の建設を行うなど、日本の原子核・放射線研究の場を創ることに貢献した。
村上 勇(むらかみ いさむ、1902年4月7日 - 1991… 村上 勇(むらかみ いさむ、1902年4月7日 - 1991年1月28日)は、日本の政治家。位階は正三位。 自由民主党衆議院議員(14期)。郵政大臣(第8・35代)、建設大臣(第18代)などを歴任した。 元参議院議員の村上春蔵は実弟。長男の禎は豊和工業の会長、二男の宏はフジテレビスポーツ部長を務めた。 大分県南海部郡大入島村(現・佐伯市 大入島)に、土建業「村上組」を経営していた村上袈裟松の長男として生まれる。1918年早稲田工手学校(現・早稲田大学芸術学校)を卒業後、飛島組(現・飛島建設)を経て、1944年、村上組の後身「大和土建」社長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で日本自由党公認候補として旧大分1区から立候補し当選、以後当選14回(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・川崎秀二・井出一太郎・早川崇など)。
丸尾 長顕(まるお ちょうけん、1901年4月7日 - 19… 丸尾 長顕(まるお ちょうけん、1901年4月7日 - 1986年2月28日)は、作家、演出家。 大阪府生まれ。本名・一ノ木長顕(ながあき)。1918年(大正7年)、関西甲種商業学校(現・関西大学第一高等学校)を卒業後、1922年、旧制・関西学院高等部商科(現・関西学院大学)卒業。 1928年、「芦屋夫人」が「週刊朝日」の懸賞に入選、モダニスムの代表作といわれる。宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の文芸部に所属し、同歌劇団機関誌「歌劇」の編集長も務めた。1933年、新妻莞に誘われて宝塚から大毎に社員として入り学芸部に配属されたが城戸事件により短期間で退社。この年に上京し「婦人画報」編集長となる。戦時中、陸軍省情報部長嘱託となったため、戦後一時公職追放。
蒲生礼一(蒲生禮一、がもう れいいち、1901年4月7日 -… 蒲生礼一(蒲生禮一、がもう れいいち、1901年4月7日 - 1977年8月12日)は、日本のイスラム学者。東京外国語大学名誉教授。 1901年、島根県生まれ。東京外国語学校を卒業。1925年、東京外国語学校講師となった。その一方で、回教圏研究所でも研究活動を続けた。 太平洋戦争終結後の1950年、東京外国語大学教授に就任。1954年からは東京大学文学部講師を兼任した。1964年に東京外国語大学を定年退官し、名誉教授となった。
安田 幾久男(やすだ きくお、1900年 <明治33年> 4… 安田 幾久男(やすだ きくお、1900年 <明治33年> 4月7日 - 1978年 <昭和53年> 2月19日)は、日本の実業家。日本軽金属社長を務めた。位階は正四位。 石川県金沢市出身。1924年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に富士電機製造に入社。 1939年に日本軽金属に転じ、1946年5月に取締役に就任し、1953年には副社長に就任。1961年5月には社長に昇格した。1967年5月に会長を経て、1969年5月に相談役に就任。経済団体連合会理事、日本経営者団体連盟常任理事などを歴任。。 1957年に紺綬褒章を受章し、1958年に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等旭日重光章を受章した。
樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 195… 樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 1958年8月9日)は、放射線科医師。九州大学医学部講師。東京慈恵会医科大学教授。 日本で放射線が医療に利用されたはじめから、主としてエックス線の利用による診断、治療に関する研究に従事、その成果を数多くの論文に発表し、特に放射線障害の研究、放射線保護物質の研究を行い、1956年(昭和31年)文部省科学研究費による総合研究、特に「放射能の人体最大許容量の決定」については、研究班長としての取りまとめにあたるなど、多方面に大きな足跡を残した。 新潟県南魚沼郡湯沢町出身。新潟県立長岡中学校、第六高等学校卒業。1922年(大正11年)九州帝国大学医学部卒業。
鶴見 憲(つるみ けん、1895年〈明治28年〉4月7日 -… 鶴見 憲(つるみ けん、1895年〈明治28年〉4月7日 - 1984年〈昭和59年〉8月18日)は、日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦前の1940年11月から在シンガポール日本総領事を務め、宣伝工作・民族工作を積極的に推進したことで知られる。日本占領時期にはマラッカ州長官を務めた。熱海市長。 1895年4月7日、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)で、官営・新町紡績所の工場長をしていた父・良憲と、母・琴子の7男(10人きょうだいの末子)として生まれる。 一家は1895年9月に東京・赤坂、1896年1月に父の郷里・岡山、1899年夏に名古屋へ転居。1900年4月、鶴見が5歳のときに母・琴子が病死。
箱崎 文應(はこざき ぶんおう、1892年(明治25年)4月… 箱崎 文應(はこざき ぶんおう、1892年(明治25年)4月7日 - 1990年(平成2年)2月6日 )は、天台宗の僧侶。比叡山延暦寺の千日回峰行を戦前満行した行者として知られる。天台宗北嶺大行満大阿闍梨、大僧正、比叡山一山 飯室谷不動堂長寿院住職を務めた。 福島県石城郡小名浜町(現・いわき市)に生まれる。出生時の名は箱崎作。 1930年、海難事故に遭い遭難者の菩提を願い比叡山に入る。翌年、大乗院住職、小森文諦の門弟となり、文応を名乗る。 四度加行の満行(1932年)、入壇灌頂履修(1933年)を経て、1934年より回峰修行に入る。1938年10月25日より11月2日の間、断食・断水・不眠・不臥の堂入修行をおこなった。
平川 清風(ひらかわ せいふう、1891年4月7日 - 19… 平川 清風(ひらかわ せいふう、1891年4月7日 - 1940年2月2日)は、日本のジャーナリスト。父は漢学者の平川清音。 熊本県熊本市出身。1908年熊本県立熊本中学校卒業。1911年旧制第五高等学校卒業。1914年東京帝国大学法学部政治学科卒業。大阪毎日新聞社に入社し、上海特派員、整理部長、社会部長などを歴任する。1938年常務取締役、編集主幹となる。1940年2月2日死去。
大田 實(おおた みのる、1891年(明治24年)4月7日 … 大田 實(おおた みのる、1891年(明治24年)4月7日 - 1945年(昭和20年)6月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。千葉県長生郡長柄町出身。
菊池 知勇(きくち ちゆう・ともお、1889年〈明治22年〉… 菊池 知勇(きくち ちゆう・ともお、1889年〈明治22年〉4月7日 - 1972年〈昭和47年〉5月8日)は、日本の教育者、歌人。 岩手県東磐井郡渋民村(現・一関市大東町曾慶)出身。奥玉高等小学校に入学したのち下折壁高等小学校を卒業。岩手師範学校(現・岩手大学教育学部)卒業。上京し、慶応幼稚舎の教員となる。1910年若山牧水の『創作』の創刊に参加、1926年初めての綴方専門誌『綴方教育』を創刊。1927年口語短歌誌『ぬはり』を創刊した。幼稚舎での教え子に詩人の薩摩忠がいる。 『ぬはり』は戦時下の用紙統制で1944年、『真樹』(1930年、山本康夫創刊)などと合併し『直毘』(なおび)として刊行された時期もあったが、その後も刊行が続いている。