牛山 清人(うしやま きよと、1899年10月8日 - 19… 牛山 清人(うしやま きよと、1899年10月8日 - 1991年9月2日)は、日本の実業家。美容室、化粧品、美容学校などで知られるハリウッド (企業)グループの創業者。 長野県諏訪市豊田小川の長野県士族牛山克躬・さわの夫婦の長男として生まれる。生まれてすぐ母親を亡くし、旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を卒業後、1917年(大正6年)に父をたよって単身渡米、ハリウッド・ハイスクール卒業。ハリウッドで早川雪洲の弟子として働くも俳優としては芽が出ず、メイキャップ担当に転身。 滞米中に初代メイ牛山(牛山春子)と結婚し、1924年に帰国し妻とともに神田三崎町に美容室を開店、宣教師ポール・ラッシュの支援で開いた軽井沢店の成功で軌道に乗り、夫婦で銀座にハリウッド美容室、京橋に美容学校のハリウッド美容研究室(ハリウッド美容講習所)を開設。
近藤 綸二(こんどう りんじ、1899年10月8日 - 19… 近藤 綸二(こんどう りんじ、1899年10月8日 - 1982年4月12日)は、日本の弁護士、裁判官。東京高等裁判所長官などを務めた。 東京市生まれ。父は駿河台病院の創立者として知られる近藤次繁であった。兄弟には作家の近藤経一や東京女子医科大学教授の近藤台五郎がいる。1923年に東京帝国大学法学部を卒業した。 1924年に弁護士登録をし、原嘉道の事務所に入った後にフランスへ2年ほど留学した。帰国後は、有馬忠三郎の事務所に入ったが、後に独立し、帝人事件の弁護なども担当した。この間、1947年に、第一東京弁護士会の副会長となり、司法修習制度と弁護士法制定をめぐってGHQと折衝を重ねた。同年には、海野普吉らとともに自由人権協会を創設し、以降、専務理事や副理事長などを務めた。
市村 今朝蔵(いちむら けさぞう、1898年10月8日 - … 市村 今朝蔵(いちむら けさぞう、1898年10月8日 - 1950年6月9日)は、日本の政治学者、地主。日本女子大学教授、早稲田大学教授を歴任。日本女子大学理事、森村学園理事、明星学園理事長等を歴任。 長野県北佐久郡東長倉村(現・軽井沢町)出身。雨宮敬次郎の妻の末弟・市村藤吉の子。旧制上田中学第15回卒業。早稲田大学政経学部卒。1923年4月、山岡製紙工場の娘・きよじと結婚。大山郁夫に師事、友人の我妻栄とシカゴ大学に学び、1925年帰国。次女信江は建築家・三輪正弘の妻、三女の令子は我妻洋の妻となる。軽井沢の大地主で、別荘地を開拓し、近衛文麿から雨宮荘を譲り受けた。 欧米遊学後、日本女子大学教授、早稲田大学講師を務める。
山本 茂一郎(やまもと もいちろう、1898年(明治31年)… 山本 茂一郎(やまもと もいちろう、1898年(明治31年)10月8日 - 1978年(昭和53年)5月13日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。 陸士31期、陸大38期(優等)。参議院議員(2期)。 和歌山県出身。農業・製糸業山本亀吉の四男として生まれる。五條中学校卒を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官され、歩兵第38連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を優等で卒業した。 1928年(昭和3年)3月、陸軍省整備局付勤務、整備局課員、イギリス駐在などを経て、1933年(昭和8年)3月、陸軍兵器本廠付に発令され、ジュネーブ軍縮会議日本全権団随員となる。
岡野 衛士(おかの もりと、1898年(明治31年)10月8… 岡野 衛士(おかの もりと、1898年(明治31年)10月8日 - 1976年(昭和51年)8月25日)は山口県山口市出身の実業家。大阪証券取引所理事長などを務めた。
岡本 素光(おかもと そこう、1898年10月8日 - 19… 岡本 素光(おかもと そこう、1898年10月8日 - 1978年8月22日)は、日本の宗教哲学者、仏教学者、博士(文学)。第6代駒澤大学総長。曹洞宗の僧侶。 鳥取県東伯郡出身。号は天室。1911年(明治44年)鳥取桂養寺の渡辺月俊について得度。1924年(大正14年)曹洞宗大学、1931年に駒澤大学仏教学科卒業。同年に駒澤大学の講師、1936年に新設の道憲寮寮監を兼務。1941年、駒澤大学教授に就任。1961年『大乗起信論における「存在」の研究』で博士号(文学、駒澤大学)を取得。 1964年駒澤大学北海道教養部初代部長・駒澤大学附属岩見沢高等学校初代校長。1965年岩見沢駒澤短期大学初代学長。
佐分 眞(さぶり まこと、1898年(明治31年)10月8日… 佐分 眞(さぶり まこと、1898年(明治31年)10月8日 - 1936年(昭和11年)4月23日)は、大正期昭和期に活躍した日本の洋画家。レンブラントの影響を受け写実主義に傾倒した堅実な画風を築いた。 愛知県名古屋市西区園井町(現・中区錦)に、資産家で第6代一宮町長の佐分慎一郎の庶子として生まれる。母・田中たまは元芸者で、佐分との結婚前に有栖川宮熾仁親王との間にイクという名の娘をもうけていた。叔父・田中徳次郎は中部電力の前身会社を興す。愛知県立第一中学校在学中の1914年、複雑な家庭事情に悩み、自殺しようと家出するも三浦三崎で見つかる。 1915年に上京して郁文館中学校に転校、また川端画学校夜間部でも学ぶ。
上阪 香苗(こうさか かなえ、1892年〈明治25年〉10月… 上阪 香苗(こうさか かなえ、1892年〈明治25年〉10月8日 - 1974年〈昭和49年〉12月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。滋賀県大津市出身。 旧制滋賀県立膳所中学校より海軍兵学校第43期入校。当時の海軍兵学校は受験を3度までしか認めておらず、上阪は兵学校の受験に2度失敗し、最後の受験で入校が認められた。海軍砲術学校高等科卒業後は砲術畑を歩んだが、大佐進級後は航空に移った点で、戸塚道太郎海軍中将や同期生の有馬正文海軍中将と似た経歴をたどる。太平洋戦争中は一時的に航空戦隊司令官を務めた以外は、一貫して航空本部補職が続いた。 練習航海で同じ艦に乗組んだ同期生の高木惣吉海軍少将は、死去するまで大親友だった。
山内 正文(やまうち まさふみ、1891年(明治24年)10… 山内 正文(やまうち まさふみ、1891年(明治24年)10月8日 - 1944年(昭和19年)8月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。旧姓・秋山。 滋賀県出身。裁判官・秋山正義の息子として生まれる。膳所中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同期に青木重誠、武藤章、富永恭次、佐藤幸徳、田中新一、山崎保代らがいる。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第60連隊付となる。 1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業。綾部橘樹、有末精三、斎藤義次、小畑信良らが同期。陸軍きっての逸材と評されたが、中学出身であるため傍流とみなされていた[要出典]。1925年(大正14年)3月、歩兵第39連隊中隊長に就任。
太田 宇之助(おおた うのすけ、1891年〈明治24年〉10… 太田 宇之助(おおた うのすけ、1891年〈明治24年〉10月8日 - 1986年〈昭和61年〉9月2日)は、大正から昭和にかけての新聞記者、評論家。 女性初のNHK解説委員である縫田曄子の父。 1891年(明治24年)10月8日に、兵庫県揖保郡網干町で生まれた。早稲田大学在学中の学生時代には国木田収二邸に同居していた。 王統との知遇を得て、1916年(大正5年)4月に王統からの要請で第三革命に孫文一派として参加した。後年、太田は当時の心境を「『中国の革命のため、死んでもよいではないか』と心に叫んだ」と振り返っている。この際に上海に渡った太田は、王統の秘書として活動し、同年5月に帰国して1917年(大正6年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。
小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1… 小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1929年4月1日)は、日本の医学者・随筆家・翻訳家・推理作家・犯罪研究家。別名は鳥井零水。 医学者としては生理学・血清学の研究で業績を上げた。また、1921年(大正10年)から8年間に渡って探偵小説などの文筆活動を行った。江戸川乱歩のデビュー作である『二銭銅貨』は、不木が推薦したことで世に出た作品である。医師で順天堂大学名誉教授の小酒井望は長男。 1890年(明治23年)10月8日、愛知県海東郡新蟹江村(現・海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家の長男として生まれた。本名は小酒井光次(こさかいみつじ)。父親は小酒井半兵衛であり、村長や郡会議員も務めた人物である。
東條 かつ子(とうじょう かつこ、1890年〈明治23年〉1… 東條 かつ子(とうじょう かつこ、1890年〈明治23年〉10月8日 - 1982年〈昭和57年〉5月29日)は、第40代内閣総理大臣・東條英機の妻。夫の英機との間に7人の子供を儲けた。 生涯に渡って本人が用いた署名は「かつ子」。戸籍名はカツ。通称は勝子。 国防婦人会副会長を務めた。 かつ子は福岡県田川郡安真木村(現在の川崎町)の出身で、地元の長者の伊藤万太郎の娘として生まれる。幼少時から向学心が強かった。小倉高等女学校(現:福岡県立小倉西高等学校)在学中は、小倉の萬徳寺(英機の母・千歳の実家。伊藤家の遠縁でもあった。)に下宿していた。小倉高女を卒業すると、明治時代の女性にとっての最高レベルの教育を受けるべく、1906年(明治39年)に、日本女子大学校(現:日本女子大学)国文科に入学のため上京。
菰田 康一(こもだ こういち、1888年(明治21年)10月… 菰田 康一(こもだ こういち、1888年(明治21年)10月8日 - 1974年(昭和49年)11月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍静岡県。熊本区(現熊本市)で陸軍砲兵中佐・菰田安節の長男として生まれる。金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を7番/418名の成績で卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第16連隊付となる。1912年(大正元年)11月、陸軍砲工学校高等科(18期)を卒業。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を優等で卒業した。 1919年(大正8年)4月、砲兵大尉に昇進し参謀本部付勤務となり、参謀本部員、フランス駐在(フランス陸軍大学校卒業)などを経て、1924年(大正13年)4月、砲兵少佐に進級。
松下 道蔵(まつした みちぞう、1888年〈明治21年〉10… 松下 道蔵(まつした みちぞう、1888年〈明治21年〉10月8日 - 1961年〈昭和36年〉10月25日)は、日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町長(第16代)。境町会議員。 鳥取県西伯郡境町栄町(現境港市)出身。中学校では学術優秀で、常に各級の首席を占める。石油、金物商を営む。また境港合同運送社長、岡田回漕店、境港合同運送各取締役、境實業新報監査役をつとめる。 1941年6月から同年8月まで境町長をつとめる。戦後、公職追放を受ける。 「境町の風習」、「八幡通りの変遷」を絵付きで書き残す。蔵書も多く、読書家であった。 父松下哲成(鉄、石油商)は、第8代境町長。妻は岡田汽船社長岡田庄作の二女、岡田商店社長岡田洲二の姉である。
大島 定吉(おおしま さだきち、1887年10月8日 - 1… 大島 定吉(おおしま さだきち、1887年10月8日 - 1977年10月28日)は、日本の政治家。位階は正五位。 衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。栃木市長。 栃木県下都賀郡栃木町(現:栃木市)出身。足利工業学校卒。家業の染色業に従事し、のち煙草小売業に転身する。県懐炉灰組合、栃木煙草協同組合各理事長を務める。栃木町議から栃木県議を経て、1945年7月栃木市長に就任する。翌1946年3月に退任。4月の第22回衆議院議員総選挙に日本進歩党公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた後1947年4月の第1回参議院議員通常選挙に民主党から立候補して当選した。1953年の第3回参議院議員通常選挙で自由党公認で立候補したが落選した。
吉井 勇(よしい いさむ、1886年(明治19年)10月8日… 吉井 勇(よしい いさむ、1886年(明治19年)10月8日 - 1960年(昭和35年)11月19日)は、明治末期から昭和中期の日本の歌人、劇作家、小説家である。元伯爵(華族)。宮中歌会始選者、日本芸術院会員。本名の読み仮名は「よしい いさみ」。 “いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)”の歌詞で知られる『ゴンドラの唄』の作詞者。北原白秋らと「パンの会」を結成。石川啄木らとは雑誌「スバル」を発行して耽美派の拠点とした。京都の祇園を愛し、「祇園歌人」の異名で呼ばれた。人生享楽の世界を歌った代表作『酒ほがひ』(明治43年)のほか、『祇園歌集』(大正4年)、『人間経』(昭和9年)、『天彦』(昭和14年)などがある。
周防 正季(すおう まさすえ、1885年10月8日 - 19… 周防 正季(すおう まさすえ、1885年10月8日 - 1942年6月20日)は、日本人医師、朝鮮総督府らい療養所小鹿島更生園園長。当時世界最大規模の療養所を作り上げたが、強制隔離政策、患者待遇悪化、植民地支配に対する反感などがあり、患者に刺殺された。 1885年10月8日に滋賀県栗太郡老上村字矢橋(現在の草津市矢橋町)に大神家の3男として出生。医家周防氏の養子となる。滋賀県立第一中学校(現在の滋賀県立彦根東高等学校)を経て愛知県立医学専門学校(現在の名古屋大学医学部)、1909年(明治42年)卒業。県立岡崎病院外科、内務省防疫官補、開業、1916年(大正5年)滋賀県技師衛生主事、1919年(大正8年)愛知県技師学校衛生主事。
殿岡 利助(とのおか りすけ、1883年〈明治16年〉10月… 殿岡 利助(とのおか りすけ、1883年〈明治16年〉10月8日 - 1952年〈昭和27年〉12月26日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員。幼名・福三。 栃木県足利郡足利町栄町(現足利市)で、織物製造業(元織)、先代・殿岡利助の長男として生まれる。父の死去に伴い1893年(明治26年)家督を相続した。1897年(明治30年)東京日本橋の織物問屋・安田源蔵商店に奉公し6年間勤めた。その後、3年間兵役に就いて帰郷した。 帰郷後、利助を襲名し、家業の復興に尽くし、殿利織物工場に成長して有限会社となる。「足利銘仙」の開発改良に尽力し、1934年(昭和9年)足利織物同業組合組長に就任。また、足利市会議員、同参事会員、同議長、足利市消防団組頭、同警防団長、大政翼賛会栃木県支部常務などを務めた。
水谷 竹紫(みずたに ちくし、1882年(明治15年)10月… 水谷 竹紫(みずたに ちくし、1882年(明治15年)10月8日 - 1935年(昭和10年)9月14日)は日本の劇作家、演出家、編集者。第2次芸術座の中心人物として活動した。 女優の水谷八重子は義妹。 長崎県長崎区(現・長崎市)出身。岡山尋常中学(現・岡山県立朝日高等学校)、県立大村中学(現・長崎県立大村高等学校)を経て、1901年(明治34年)、東京専門学校(現・早稲田大学)予科に入学。本科では早稲田大学文学部哲学科。同級に詩人の相馬御風が居た。 1906年(明治39年)、早稲田大学を卒業し、姫路連隊に一年志願兵として入隊。翌年には神楽坂の名妓と結婚するが、この夫人の妹が後の水谷八重子である。
田口 弼一(たぐち すけいち、1882年(明治15年)10月… 田口 弼一(たぐち すけいち、1882年(明治15年)10月8日 - 1953年(昭和28年)10月20日)は、日本の官僚、政治家。法学博士。 昭和前期に1930年から8年にわたり衆議院書記官長を務め、藤沢幾之輔、中村啓次郎、秋田清、浜田国松、冨田幸次郎、小山松寿の6代の議長を補佐し、議会振粛のために尽力した。この期間は、濱口内閣から第1次近衛内閣までに当たり、民政党・政友会の二大政党による政党内閣とその終焉(五・一五事件、1932年)、満洲事変・満州国建国(1931年~1933年)、二・二六事件(1936年)、斎藤隆夫の粛軍演説(1936年5月7日)、帝国議会議事堂の竣工(1936年11月7日)、日中戦争の勃発(1937年)があった時期である。
大曲 駒村(おおまがり くそん、1882年10月8日 - 1… 大曲 駒村(おおまがり くそん、1882年10月8日 - 1943年3月24日)は、日本の美術評論家、川柳研究家。本名・省三。 福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)に生まれる。1892年、小高小学校を卒業し、福島県尋常中学校(現福島県立安積高等学校)へ入学するも病気退学。 1900年、小高銀行に就職。1901年、友人の鈴木余生と俳句グループ「渋茶会」を結成し、俳句を始める。1906年、余生が死ぬと新たに「浮舟会」を結成し、明治20年から30年代に正岡子規と一門らが始めた俳句・短歌の一大革新運動にも参加。1911年、福島県に関連する句を選び出した『雙巌集』を刊行。小高俳壇草創期のリーダーであった。 1917年、小高銀行が倒産して失職する。
下村 忠助(しもむら ちゅうすけ、1881年〈明治14年〉1… 下村 忠助(しもむら ちゅうすけ、1881年〈明治14年〉10月8日 - 1916年〈大正5年〉5月31日)は、日本の海軍軍人。 第一次世界大戦で観戦武官として戦死した海軍中佐である。海大甲種10期首席。正六位勲四等功四級。 1881年(明治14年)10月8日、山形県米沢市に生まれた。下村正助海軍中将は実弟である。幼くして母と死別し、父と共に北海道根室に移住したが、中学進学のため帰郷し、米沢中学に進んだ。翌年父を失っている。1899年(明治32年)に海軍兵学校に入校し、1902年(明治35年)12月、187名中8番で卒業した(30期)。百武源吾、松山茂のほか、今村信次郎、松浦松見、池田宏平ら同郷の7名が同期生である。
伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 -… 伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 - 1952年4月3日)は、長野県飯田市出身の実業家・鉄道経営者。
太宰 孫九(だざい まごく、1879年10月8日 - 194… 太宰 孫九(だざい まごく、1879年10月8日 - 1942年11月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。伊予鉄道電気(現伊予鉄グループ)6代社長。 愛媛県北宇和郡二名村(三間町を経て現宇和島市)生まれ。第四高等学校で学ぶ。1905年1月に二名村会議員となる。以後、北宇和郡会議員(1911年9月から1915年9月まで)、二名村長(1912年11月から1913年7月まで)を歴任する。 1915年9月の愛媛県会議員選挙に北宇和郡選挙区から、立憲政友会所属で立候補したが次点で落選した。その後、1917年7月の補欠選挙に当選して、同月17日に県会議員となる。1919年の県会議員選挙で再選を果たした。
荒木 久九郎(あらき ひさくろう、1875年〈明治8年〉10… 荒木 久九郎(あらき ひさくろう、1875年〈明治8年〉10月8日 - 没年不明)は、日本の商人(呉服太物商)、政治家、実業家、荒木合名会社社員。合資会社荒木呉服店代表。境貿易監査役。境電気取締役。鳥取県西伯郡境町会議員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)出身。荒木重造の実兄である。境製糸社員だったが1902年にその出資額全部を社員の荒木徳三郎へ譲渡し退社する。国産古着、白木綿、呉服、反物、綛糸卸商を営む。 荒木呉服店は土地に於ける第一流の商店であったが、家族に不幸が続き、営業に全力を注ぐことができなかったので、1914年10月にやむなく整理を発表した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
島地 大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8… 島地 大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8日 - 1927年〈昭和2年〉7月4日)は、浄土真宗の僧侶。旧姓は姫宮、幼名は等。新潟県頸城郡三郷村(現・上越市)出身。4年間の上京を経て、1893年に西本願寺の文学寮(現龍谷大学)に入学した。1897年に大学林へ進学、1899年は大学林高等科へ進学。1902年に島地黙雷の養嗣子(法嗣)となり、黙雷亡き後は盛岡の願教寺住職となる。曹洞宗大学(現駒澤大学)、日蓮宗大学(現立正大学)、東洋大学などで教え、1923年から東京帝国大学でインド哲学を教えた。数え53歳で死去。子の島地黙猊が跡を継ぎ、『天台教学史』など多くの遺稿が刊行された。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。
赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治… 赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治5年9月6日) - 1942年(昭和17年)5月6日)は、明治から昭和前期の外交官、衆議院議員(立憲民政党→立憲政友会)。 鹿児島県姶良郡蒲生村(現在の姶良市)に旧薩摩藩士・赤塚源太郎の三男として生まれた。1892年(明治25年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。1898年(明治31年)外務省に入省し、廈門領事、釜山領事、マニラ領事、外務省通商局第一課長などを歴任し、1912年(明治45年)に広東総領事に就任した。
土方 久徴(ひじかた ひさあきら、明治3年9月14日(187… 土方 久徴(ひじかた ひさあきら、明治3年9月14日(1870年10月8日) - 昭和17年(1942年)8月25日)は、第12代日本銀行総裁。
原 富太郎(はら とみたろう、慶応4年8月23日(1868年… 原 富太郎(はら とみたろう、慶応4年8月23日(1868年10月8日) - 昭和14年(1939年)8月16日)は、日本の実業家、美術品収集家、茶人。号は三溪。美濃国厚見郡佐波村(現・岐阜県岐阜市柳津町佐波)出身。 青木久衛の長男として生まれる。小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学ぶ。その後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。1892年、横浜の豪商・原善三郎の孫であり、跡見女学校での教え子であった原屋寿(はら やす)と結婚して原家に入り、家業を発展させた。神奈川県久良岐郡六浦荘村を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。 また富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。
加治 寿衛吉(壽衞吉、かじ すえきち、1868年10月8日(… 加治 寿衛吉(壽衞吉、かじ すえきち、1868年10月8日(明治元年8月23日)- 1926年(大正15年)2月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 讃岐国那珂郡丸亀城下(香川県那珂郡丸亀町、仲多度郡丸亀町を経て現丸亀市)で、丸亀藩士・加治重国の二男として生まれる。郷校で学び、1883年(明治16年)に上京して法律学を研究した。 自由民権運動に加わり、1890年(明治23年)愛国公党に入党。その後大同団結運動に参加し、国民自由党に入党してその勢力の拡張に尽力した。 1897年(明治30年)頃から実業界に入り、鹿島鉄道発起人、皇国生命保険会社顧問に就任。1906年(明治39年)東京通信社に入社し、その後社長を務めた。
山田 斂(やまだ おさむ、1865年10月8日(慶応元年8月… 山田 斂(やまだ おさむ、1865年10月8日(慶応元年8月19日)- 1941年(昭和16年)12月20日)は、日本の地主、農政家、政治家。貴族院多額納税者議員。 越前国坂井郡一本田村(福井県坂井郡丸岡町を経て現坂井市)で、豪農・山田穣の長男として生まれた。1888年(明治21年)明治法律学校(現明治大学)卒業。父の死去に伴い1892年(明治25年)家督を相続した。 1892年、高椋村会議員に選出され、坂井郡会議員も務めた。1897年(明治30年)に福井県会議員に就任したが1期で引退した。1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任し、農政懇談会幹事として議員立法の農会法(大正11年4月12日法律第40号)の成立に尽力した。
池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年… 池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年9月8日) - 1936年(昭和11年)5月3日)は、日本の化学者。学位は、理学博士(1902年)。東京帝国大学理学部化学科教授。「日本の十大発明」の一つといわれるうま味成分、L-グルタミン酸ナトリウムの発見者として知られる。 現在、世界中で広く普及しているうま味調味料の発見者で、その成分がL-グルタミン酸ナトリウムであることを解明した。幼少期より昆布のだしに関心を持ち、湯豆腐のだし汁昆布の研究に着手。妻である貞を夜、昆布を乾物屋に買いに走らせ1907年(1908年)に約38 kgの昆布から煮汁をとり、うま味の素であるL-グルタミン酸ナトリウム約30 gを得ることに成功。
馬場 愿治(ばば げんじ、1860年10月8日(万延1年8月… 馬場 愿治(ばば げんじ、1860年10月8日(万延1年8月24日) - 1940年(昭和15年)11月13日)は、日本の裁判官。大審院部長で退官後、中央大学学長を務めた法学博士である。 会津藩に士籍を有し、のち福島県議を5期務めた馬場庄平の次男である。会津若松英語学校などで修学したのちに上京し、中村正直の私塾、東京英語学校(官立)を経て東京大学予備門に進む。 1885年(明治18年)7月、東京大学法学部を次席で卒業。 馬場は司法省御用掛となり、東京始審裁判所詰として裁判官のキャリアを開始する。横浜地裁、東京地裁、東京控訴院での勤務を経て1896年(明治29年)に浦和地裁裁判長、翌々年に大審院判事となる。
団野 記平治(團野、だんの きへいじ、1854年10月8日(… 団野 記平治(團野、だんの きへいじ、1854年10月8日(安政元年8月17日)- 1923年(大正12年)12月3日)は、明治期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、兵庫県多紀郡城南村長。 丹波国多紀郡八上内村(兵庫県多紀郡八上内村、八上村、篠山町、篠山市を経て現丹波篠山市八上内)で、中川儀十郎の二男として生まれた。漢学、数学を修めた。1879年(明治12年)同郡小枕村(城南村、丹南町、篠山市を経て現:丹波篠山市小枕)の素封家・団野仲右衛門の養子となり、農業・酒造業を営む。 酒造組合長、城南村農会長を務め、村落の共有林の松を杉檜に植替えるなど造林の振興に貢献した。 政界では学務委員、城南村会議員、学区組合会議員、郡組合会議員、多紀郡会議員、同副議長などを務めた。
鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4… 鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4年9月14日) - 1914年(大正3年)4月7日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍中将正四位勲二等功三級男爵。貴族院議員。 信濃国松代藩士鹿野外守泰敬の子。明治4年(1871年)9月、海軍兵学寮(5期)に入学。1879年(明治12年)9月、海軍少尉任官。1885年(明治18年)9月、「筑波」分隊長となり、海軍兵学校教授兼生徒分隊長、「扶桑」分隊長、海軍大学校副官、海軍参謀部第1課員などを経て、1890年(明治23年)10月、海軍少佐に昇進。 1891年(明治24年)4月、「松島」回航事務取扱委員、同副長、練習船「干珠」艦長、横須賀水雷隊攻撃部司令などを歴任し、日清戦争では「西京丸」艦長として出征した。
江原 芳平(えばら/えはら よしへい、嘉永元年9月12日〈1… 江原 芳平(えばら/えはら よしへい、嘉永元年9月12日〈1848年10月8日〉 - 1928年〈昭和3年〉2月19日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員、群馬県会議員、群馬銀行頭取。幼名は治三郎。 江原家は元々上野国勢多郡河原浜村(現・群馬県前橋市河原浜町)の出で、江戸時代の前半に前橋へ出て米穀商を営み、その2・3代後から醤油醸造業を始めたという。江原家が富豪となったのは芳平の父芳右衛門が横浜開港に伴い生糸業を始めたことによるという。 芳平は上野国群馬郡前橋新町(群馬県東群馬郡前橋町字新町を経て現前橋市)出身。「穀芳」として知られた江原芳右衛門の三男として生まれる。
古谷 新作(ふるや しんさく、1843年10月8日(天保14… 古谷 新作(ふるや しんさく、1843年10月8日(天保14年9月15日) - 1921年(大正10年)5月1日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(3期)。 周防国佐波郡植松村(のち華城村、現・防府市)に生まれる。漢籍を学ぶ。剣術と砲術を修め、さらに西洋兵学を学ぶ。1868年藩の砲兵隊長、花陽丸砲艦司令として乗り組み、蝦夷地に派遣される。1869年藩の砲兵塾舎長、兵学寮助教を命じられ、1871年山口県一番砲隊少尉となるが、翌年、解散となる。1974年陸軍武庫司十等出仕となり、翌年陸軍十等出仕となる。1876年陸軍上等監護となるが、病気のため辞職する。 陸軍を辞職した後は佐波郡大区代議人、山口県会議員、同副議長、同常置委員、同議長となる。
土岐 頼徳(とき よりのり、1843年10月8日 (天保14… 土岐 頼徳(とき よりのり、1843年10月8日 (天保14年9月15日) - 1911年(明治44年)5月12日)は、明治期の医師、日本陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医総監(少将相当官)。美濃国出身。従四位勲二等。 1843年10月8日((旧暦)天保14年9月15日) 美濃国山縣郡下伊自良村小倉(現・岐阜県山県市)の医師高井松亭の長子に生まれ、幼名を孝太郎と称した。長じて漢学を学び、名古屋の麻生頼三に西洋医学を学び、京都の出て巖垣六藏・廣瀬元恭に就いて漢方医学を修める。1862年(文久2年)伊勢の土井郁之助、1866年4月(慶応2年3月)幕府の西洋医学所教授坪井芳州の塾に入り医学所に入校した。 明治維新後、姓を高井氏から本家の土岐姓に復姓して頼徳と名を改めた。
福井 端隠(ふくい たんいん、男性、享和元年9月1日(180… 福井 端隠(ふくい たんいん、男性、享和元年9月1日(1801年10月8日) – 明治18年(1885年)8月22日)は、幕末から明治の日本の篆刻家である。 名ははじめ武煕、福井氏を継承してから末影と改名。字は孔影、端隠は号で他に凹隅・雨洗・緑雪書屋などがある。通称は帯刀。伊勢の人。 榎倉勘解由武繁の次男として伊勢上中ノ郷(現在三重県伊勢市)に生まれた。正四位外宮権禰宜に至った。下久保に住み、のちに為田に移った。小俣蠖庵に就いて書画・篆刻を学ぶ。印聖高芙蓉の古体派の篆刻を宗として一家を成し、大和古印体も得意とした。また、茶道にも詳しく千宗室に入門した後、藪内紹智について藪内流を究めた。 門弟に山田寒山・松木松年・山本釣青・上部紅於・田中成章・江川閑雲・田代閑松・桧垣梅坡・川崎渓雲・河村雨竹・北川橘園などがいる。
美星 帆那(みせい はんな、10月8日 - )は、宝塚歌劇団… 美星 帆那(みせい はんな、10月8日 - )は、宝塚歌劇団宙組に所属する娘役。 宮城県仙台市、仙台白百合学園中学校出身。身長158cm。愛称は「ちっち」、「あゆほ」。 2017年、宝塚音楽学校入学。 2019年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に105期生として入団。入団時の成績は24番。宙組公演「オーシャンズ11」で初舞台。その後、宙組に配属。 2023年、真風涼帆・潤花トップコンビ退団公演となる「カジノ・ロワイヤル」で、新人公演初ヒロイン。
礼華 はる(れいか はる、10月8日 - )は、宝塚歌劇団月… 礼華 はる(れいか はる、10月8日 - )は、宝塚歌劇団月組に所属する男役スター。 東京都文京区、日本女子大学附属高等学校出身。身長178cm。血液型AB型。愛称は「はる」、「ぱる」。 2013年、宝塚音楽学校入学。 2015年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に101期生として入団。入団時の成績は17番。月組公演「1789」で初舞台。その後、月組に配属。 長身の大型スター候補として注目を集め、2021年、珠城りょう・美園さくらトップコンビ退団公演となる「桜嵐記」で、新人公演初主演。当初は前年の「ピガール狂騒曲」で初主演予定であったが、新型コロナウイルスの影響により、新人公演が休止となる。 2022年、月城かなと・海乃美月トップコンビ大劇場お披露目となる「今夜、ロマンス劇場で」で、2度目の新人公演主演。
下野 紗弥(しもの さや、10月8日 - )は、大分朝日放送… 下野 紗弥(しもの さや、10月8日 - )は、大分朝日放送 (OAB) のアナウンサー兼記者。 大分県別府市出身。2018年に入社した。 大分県立大分上野丘高校、青山学院大学出身で、大学時代は神奈川県で過ごした。 青山学院の竹石尚人は大学の後輩であり、いとこでもあるという。
山下 恵理子(やました えりこ、10月8日 - )は、日本の… 山下 恵理子(やました えりこ、10月8日 - )は、日本のナレーター、女性声優。長崎県出身。青二プロダクション所属。 共立女子大学卒業。東京アナウンスアカデミー卒業。 以前は俳協、オフィスキューに所属していた。現在は青二プロダクション所属。 音域はメゾソプラノ - アルト。方言は長崎弁。 多数のテレビ、ラジオに出演の他CMナレーション、企業のVPナレーションも多数務めている。 趣味は音楽、・映画鑑賞、美術館めぐり、猫とのコミュニケーション。特技は日本舞踊、ピアノ弾き語り。 この項目は、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:アニメ/PJ:声優)。
大竹 伸朗(おおたけ しんろう、1955〈昭和30〉年10月… 大竹 伸朗(おおたけ しんろう、1955〈昭和30〉年10月8日 - )は、日本の現代美術家。 1955年10月8日、東京都目黒区に生まれる。1957年、大田区南六郷に転居。六郷水門、多摩川、巨人軍練習場、江崎グリコ工場などが、当時の思い出とともに東京の原風景となる。物心ついた頃には身近にテレビがあり、昭和30年代に吹き替えで放映されていた「名犬ラッシー」、「うちのママは世界一」、「ポパイ」、「ブロンコ・シャイアン」、「とつげき!マッキーバー」などのアメリカのテレビ番組を好んで視聴し、大きな影響を受ける。 1962年、大田区立六郷小学校入学。この頃、漫画家になることを決意。第1作目は野球漫画「がんばれ!三ちゃん」。
南風 舞(みなかぜ まい、10月8日 - )は、元宝塚歌劇団… 南風 舞(みなかぜ まい、10月8日 - )は、元宝塚歌劇団星組トップ娘役。 大阪市東住吉区出身、出身校・鷗友学園、公称身長160センチ。別名及び宝塚歌劇団時代の芸名は南風 まい(みなかぜ -)、愛称マイマイ。血液型A型。 義兄は、宝塚歌劇団演出家の谷正純。 1979年、宝塚音楽学校を首席で卒業。65期生として宝塚歌劇団に入団。『花影記/紅はこべ』で初舞台。翌年、星組に配属。 1981年、『小さな花がひらいた』の新人公演で初ヒロインに抜擢。同年、バウホール公演『暁のロンバルディア』では秋篠美帆とダブルヒロインを務める。 1983年、峰さを理の相手役として『祝いまんだら/プラスワン』より星組トップ娘役に就任。