金内 吉男(かねうち よしお、1933年〈昭和8年〉7月17… 金内 吉男(かねうち よしお、1933年〈昭和8年〉7月17日 - 1992年〈平成4年〉8月7日)は、日本の男性俳優、声優、ナレーター。青二プロダクション所属。東京府東京市豊島区(現在の東京都豊島区)巣鴨出身。 1956年、明治大学文学部卒業後、1957年5月、劇団ぶどうの会に入団し、1965年2月からフリーランスで活動。 土の会、赤坂プロを経て、青二プロダクションに所属していた。 大河ドラマに多数出演したほか、アニメ・洋画の吹替を行うなど、幅広く活動。 1992年8月7日、収縮性心膜炎のため、東京都新宿区の病院で死去。59歳没。 声種は「甘く説得力のあるバリトン」。 趣味・特技はヨット、スキー、ゴルフ。
青島 幸男(あおしま ゆきお、1932年〈昭和7年〉7月17… 青島 幸男(あおしま ゆきお、1932年〈昭和7年〉7月17日 - 2006年〈平成18年〉12月20日)は、日本の政治家、小説家、作詞家、タレント、テレビ司会者、俳優、放送作家、映画監督、歌手。位階は正四位。 参議院議員(5期)、第二院クラブ代表(初代・第5代)、東京都知事(第13代)等を歴任した。 テレビ業界で当初は放送作家として成功し、高度成長期を歌った「スーダラ節」を作詞する。クレージーキャッツ主演の映画はもとより、『若大将シリーズ』などでも映画の主題歌を作詞した。主演したドラマ『いじわるばあさん』では国民的キャラクターとして定着し、小説を執筆すれば処女作『人間万事塞翁が丙午』が直木賞を受賞するなど、多才の人として知られ、「超マルチタレント」と呼ばれた。
中村 とうよう(なかむら とうよう、本名:中村 東洋、193… 中村 とうよう(なかむら とうよう、本名:中村 東洋、1932年〈昭和7年〉7月17日 - 2011年〈平成23年〉7月21日)は、日本の音楽評論家、編集者。 株式会社ミュージック・マガジンの元・取締役会長、代表取締役。「中村とうよう事務所」代表。武蔵野美術大学客員研究員。 ジャズ、ロック、フォークなどのポピュラー・ミュージックから、ワールド・ミュージック、国内・海外のルーツ・ミュージックまで、幅広く守備範囲とする評論家であり、また、多数のレコード、CDの企画・紹介を行っていた。 2005年、趣味である、音楽関係を中心としたさまざまなジャンルの骨董収集コレクションの内容を本にまとめ、『中村とうようの収集百珍』として刊行した。
石堂 淑朗(いしどう としろう、1932年7月17日 - 2… 石堂 淑朗(いしどう としろう、1932年7月17日 - 2011年11月1日)は、日本の脚本家、映画評論家。 広島県尾道市久保町出身。実家は『東京物語』の撮影が行われた浄土寺の近くで、田坂啓の家も近所にあった。 父は種子島出身で、足が悪く、苦学して33歳で京都大学法学部を卒業した弁護士だった。 旧制尾道中学校(現・広島県立尾道北高等学校)在学中に学制改革を経験するが、男女共学化に反対して岡山県立岡山朝日高等学校に転校。しかし翌年秋からここも共学化されるのを知り、同校を2年生の夏に中退。大学入学資格検定を受けて同級生よりも1年早く広島大学に入学したがまた中退して、東京大学文学部独文学科に入学した。
西内彬(にしうち あきら、1932年7月17日 - )は日本… 西内彬(にしうち あきら、1932年7月17日 - )は日本の大蔵官僚。広島国税局長、国税不服審判所次長などを務めてきた。 高知県高知市に生まれ育つ。高知市立城東中学校、高知県立高知小津高等学校、東京大学法学部第2類(公法コース)卒業。 1958年 大蔵省入省(理財局資金課)。同期入省者に尾崎護、角谷正彦、安原正、冨金原俊二、大野功統、柿澤弘治らがいた。1963年6月10日 高萩税務署長。 1980年6月17日 国税庁長官官房総務課長。1981年6月26日 広島国税局長。1982年6月1日 国税不服審判所次長。1983年6月7日 退官。 同年 日本下水道事業団理事。1988年から四国銀行代表取締役専務。
中川 浩一(なかがわ こういち、1931年7月17日 - 2… 中川 浩一(なかがわ こういち、1931年7月17日 - 2008年8月19日)は、日本の地理学者、茨城大学名誉教授。専門は交通地理学、産業考古学。夏目漱石や森鷗外の研究者でもある。鉄道ファンとしても知られ、鉄道ピクトリアルの編集委員を務めていた。東京市出身。中川元は父方祖父。 卒業論文・修士論文の指導は尾留川正平から受け、結婚式の仲人も尾留川が務めた。 もはゆには、東京鉄道同好会の会誌。第1号から第16号までは別冊。第17号以降はRomanceCarの一コーナーとして収録。 ClubCarは、関西鉄道同好会の会報。 RomanceCarは、東京鉄道同好会(1953年に鉄道友の会に吸収)の会誌。
山内 一也(やまのうち かずや、1931年7月17日 - )… 山内 一也(やまのうち かずや、1931年7月17日 - )は、日本のウイルス学者、獣医師。農学博士。東京大学 名誉教授。専門は人獣共通感染症学、ウイルス学。 北里研究所所員、国立予防衛生研究所室長、東京大学医科学研究所教授、日本生物科学研究所主任研究員などを歴任。日本ウイルス学会名誉会員、ベルギー・リエージュ大学名誉博士。 国立予防衛生研究所室長などを経て東京大学医科学研究所教授。天然痘と牛疫という二大感染症の根絶に貢献。牛疫根絶計画では、国際獣疫事務局(OIE)学術顧問、国連食糧農業機関(FAO)顧問を務めた。また、2000年初頭の牛海綿状脳症問題(BSE問題)にからみ、食品安全委員会プリオン専門調査会の委員を務めた。
木下 秀雄(きのした ひでお、1931年7月17日 - 20… 木下 秀雄(きのした ひでお、1931年7月17日 - 2014年3月8日)は、日本の男性俳優、声優。東京府(現:東京都)出身。 明治大学卒業。1953年、東京放送劇団入団。第5期生同期には、里見京子、黒柳徹子がいる。テレビ勃興時代から活動をはじめ、晩年までCMや舞台に出演。 以前はKプロダクション、プロダクション・タンクに所属していた。 声種はハイバリトン。 NPO法人の日本ネイリスト協会で副理事長も務めた。妻は株式会社ユミ・クリエイションの木下ユミ(木下由美)で、娘はネイリストの木下美穂里。 2014年3月8日死去。82歳没。 この項目は、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。
廣瀬 量平(ひろせ りょうへい、1930年(昭和5年)7月1… 廣瀬 量平(ひろせ りょうへい、1930年(昭和5年)7月17日 - 2008年(平成20年)11月24日)は、日本の作曲家。 北海道函館市で、日魯漁業(現・マルハニチロ)に勤める父・理喜男と、レストラン五島軒店主の若山徳次郎の長女・柳の長男として生まれる。1943年(昭和18年)市立函館中学校(現市立函館高等学校)に入学するが、翌年父の転勤に伴い樺太豊原市へ引越し、樺太庁立豊原中学校に転入。1945年(昭和20年)3月函館に戻る。終戦後、北海道立札幌第一高等学校(現北海道札幌南高等学校)へ転校。1948年(昭和23年)、北海道大学予科文類に入学、この頃から作曲を始める。教育学部へ進み、1953年(昭和28年)に卒業後、上京。
田中 利光(たなか としみつ、1930年7月17日 - 20… 田中 利光(たなか としみつ、1930年7月17日 - 2020年7月30日)は、日本の作曲家。 国立音楽大学名誉教授。キエフ・チャイコフスキー音楽大学名誉教授。青森県出身。 1930年(昭和5年)、青森市に生まれる。1956年(昭和31年)に国立音楽大学作曲科、翌1957年(昭和32年)に国立音楽大学専攻科を卒業。 1963年(昭和38年)に『ピアノ四重奏のための「アダージョとアレグロ」』で第32回日本音楽コンクール作曲部門の第1位となる。1965年(昭和40年)、中西音楽賞奨励賞を受賞。1967年(昭和42年)、混声合唱「四季」で芸術祭文部大臣賞を受賞。1988年(昭和63年)に第10回舞台芸術創作奨励賞、1993年(平成5年)に青森県褒章、2001年(平成13年)に青森県文化賞を受賞。
工藤 栄一(くどう えいいち、1929年7月17日 - 20… 工藤 栄一(くどう えいいち、1929年7月17日 - 2000年9月23日)は、日本の映画監督である。本名は同じ。北海道苫小牧市出身。 沼ノ端の商家に生まれ、8人兄弟の長男。弟にはニッセイバックステージ賞を受賞した舞台大道具背景制作者の工藤和夫、フィールドホッケーメキシコシティ五輪日本代表の工藤明朗、家業を継ぎ苫小牧で画家としても活動する工藤裕司がいる。 北海道庁立苫小牧中学校から慶應義塾大学予科を経て1952年、同大学法学部を卒業。同年4月、東映に入社。最初は本社の企画部を経て、1954年、京都撮影所に転属、同撮影所製作部助監督となる。 1959年9月、『富嶽秘帖』で監督に昇進。以後、時代劇黄金時代の東映で、数多くのチャンバラ活劇を手がけた。
上遠 恵子(かみとお けいこ、1929年7月17日 - )は… 上遠 恵子(かみとお けいこ、1929年7月17日 - )は、日本のエッセイスト、翻訳家。レイチェル・カーソン日本協会会長。 東京都出身。東京薬科大学卒業。1974年、ポール・ブルックス(英語版)『生命の棲家』(後に『レイチェル・カーソン』と改題)を訳出。研究室勤務、学会誌編集者を経て、現在エッセイスト。レイチェル・カーソン日本協会理事長を経て会長。 1929年:東京・田園調布にて誕生。父親は昆虫学者。東京帝国大学理学部を卒業後、農林省(現:農林水産省)に勤務する技官だった。両親がクリスチャンだったため、幼児洗礼を受ける。 1936年:小学校入学。 1941年:太平洋戦争勃発。田園調布のあたりもB29の空襲を受けるが、生家は被害を免れた。
森 浩一(もり こういち、1928年7月17日 - 2013… 森 浩一(もり こういち、1928年7月17日 - 2013年8月6日)は、日本の考古学者。同志社大学名誉教授。専門は、日本考古学・日本文化史学。 大阪府大阪市出身。少年時代は堺市近郊に住み、尋常小学校の国史の国定教科書における記紀神話と、堺市の百舌鳥古墳群を通じて、古墳及び陵墓への関心を抱く。大阪府立堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)卒業。1951年に同志社大学文学部英文学科卒業、1957年、同大学院文学研究科文化史学専攻修士課程修了。学生時代から古墳の発掘と報告書作成に取り組む(例:黄金塚古墳)。学生考古学研究会も創設(後に古代学研究会)。 卒業後は府立泉大津高校の教諭を務める傍ら、新沢千塚(奈良県橿原市)など古墳の発掘に従事。
藤平 進(ふじひら すすむ、1928年7月17日 - 20… 藤平 進(ふじひら すすむ、1928年7月17日 - 2017年4月15日)は、日本の経営者。広島銀行頭取を務めた。 広島県出身。1951年に東京大学法学部を卒業し、同年に広島銀行に入行した。1984年6月に取締役に就任し、1986年6月に常務、1988年3月に専務を経て、1990年6月に副頭取に就任し、1992年4月には頭取に昇格。1994年6月に取締役相談役に就任し、1995年6月には相談役に就任。 2017年4月15日、肺炎のために死去。88歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
伊津野 朋弘(いつの ともひろ、1928年7月17日- )は… 伊津野 朋弘(いつの ともひろ、1928年7月17日- )は、日本の教育行政学者。東京学芸大学名誉教授。 熊本県山鹿市出身。海軍兵学校、1953年東京文理科大学教育学科卒、千葉県教育研究所研究員、千葉県立千葉東高等学校教諭、北海道教育大学助教授、東京学芸大学助教授、教授、92年定年退官、名誉教授、日本女子大学教授、97年退任。
中川 俊一(なかがわ しゅんいち、1927年(昭和2年)7月… 中川 俊一(なかがわ しゅんいち、1927年(昭和2年)7月17日 - 2019年(平成31年)3月5日)は、日本の政治家。元宮城県古川市(現・大崎市)長(2期)。位階は正五位。 宮城県志田郡古川町(旧・古川市、現・大崎市古川)出身。小牛田農林高等学校、1948年、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)卒。1967年、古川市議会議員に当選し、議長も務める。1988年の古川市長選挙に立候補したが千坂侃雄に敗れ、落選した。1992年の市長選挙に再び立候補して現職の千坂侃雄を破って当選した。1996年の市長選挙でも再選。2000年の市長選挙では元市議会議長の佐々木謙次に敗れた。 2019年3月5日、老衰のため死去、91歳。
渡辺 祐介(わたなべ ゆうすけ、1927年7月17日 - 1… 渡辺 祐介(わたなべ ゆうすけ、1927年7月17日 - 1985年10月15日)は、日本の映画監督である。 1927年(昭和2年)7月17日、東京都蒲田に生まれる。東京都立第八中学校(現:東京都立小山台高等学校)を経て、静岡高等学校に入学。一級下の吉行淳之介らと同人雑誌『くたかけ』を発刊し、最初のシナリオを発表する。東京大学文学部美術科に進み、1951年卒業。在学中の1950年、新東宝助監督部に入社。助監督として中川信夫、佐伯幸三、斎藤寅次郎、市川崑、松林宗恵らにつく。1960年、『少女妻・恐るべき十六才』で監督デビュー。翌1961年、東映東京撮影所に移籍。『二匹の牝犬』『悪女』『牝』といった緑魔子主演の"悪女"シリーズを手掛ける。
桐山 輝彦(きりやま てるひこ、1927年7月17日 - 2… 桐山 輝彦(きりやま てるひこ、1927年7月17日 - 2017年5月7日)は、日本の経営者。神戸屋社長、会長を務めた。 大阪府出身。1950年に関西学院大学経済学部を卒業。三井銀行での勤務を経て、1954年に神戸屋に転じ、取締役、常務、専務を経て、1971年に社長に就任し、1991年には会長に就任。 1993年11月に藍綬褒章を受章し、2000年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 2017年5月7日、肺炎のために死去。89歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
馬場 当(ばば まさる、1926年7月17日 - 2011年… 馬場 当(ばば まさる、1926年7月17日 - 2011年6月29日)は、日本の映画脚本家。井上和男と共に「“松竹ヌーベルバーグ”の先駆け的映画人」と称される。 1926年、東京都に生まれる。 1948年、横浜専門学校(現・神奈川大学)法学科卒業後、後に映画監督への道を歩む井上和男と同期で松竹大船撮影所脚本部に入る。 1957年にはフリーとなった。 映画『復讐するは我にあり』(1979年、松竹)で第3回日本アカデミー賞最優秀脚本賞など各賞を受賞する。 2011年6月29日に悪性リンパ腫のため死去。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
久保 正大(くぼ まさたか、1926年7月17日 - 199… 久保 正大(くぼ まさたか、1926年7月17日 - 1993年4月17日)は、日本の経営者、造船実業家。住友重機械工業社長。 鹿児島県伊佐市旧菱刈町出身。旧制鹿児島県立大口中学校(現鹿児島県立大口高等学校)を経て、1943年海軍兵学校に75期生として入校。1945年に終戦により復員し、鹿児島県に帰郷(75期生は1945年10月に海軍兵学校卒業扱い)。翌1946年に旧制第五高等学校理科へ入学。1952年に東京大学工学部船舶工学科を卒業し、同年に浦賀船渠に入社。 会社の合併により1969年6月に住友重機械工業の社員となり、1980年6月に取締役に就任し、1984年6月に常務、1986年6月に専務を経て、1987年11月に副社長に就任し、1989年6月には社長に昇格し、1993年4月までに務めた。
渡辺 浩之(わたなべ ひろゆき、1925年(大正14年)7月… 渡辺 浩之(わたなべ ひろゆき、1925年(大正14年)7月17日 - 2003年(平成15年)10月14日)は、日本の政治家。阿南市長。徳島県阿南市見能林町出身。 那賀郡見能林村(現在の阿南市見能林町)出身。徳島県立徳島第二中学校卒業。 1951年、見能林村収入役、1953年、同村助役、1955年、富岡町土木課長、1958年、阿南市土木課長、1962年、阿南市助役に就任。1970年に阿南市長に就任し1975年まで2期に渡り務めた。 その後、阿南信用金庫理事長を務めた。
金山 明(かなやま あきら、1924年7月17日 - 200… 金山 明(かなやま あきら、1924年7月17日 - 2006年9月2日)は、日本の画家・現代美術家。 1924年7月17日、兵庫県尼崎市に生まれる。 具体美術協会の初期メンバーであった。妻は同じく美術家の田中敦子。1947年に多摩美術大学を中退し、大阪市立美術研究所で学んだ。グタイミニピナコテカ、ギャラリーHAM等で作品を発表した。 2006年9月2日、肺癌のため死去。82歳没。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
鎌田 純一(かまた じゅんいち、1923年7月17日 - 2… 鎌田 純一(かまた じゅんいち、1923年7月17日 - 2014年7月15日)は、日本の神道学者・歴史学者。宮内庁侍従職御用掛。皇學館大学名誉教授。 1923年、大阪府大阪市に生まれる。父春雄が神宮皇學館教授として赴任したため、伊勢で幼少期を過ごす。 宇治山田中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)を経て、國學院大學予科、1946年同大学文学部史学科卒業。在学中に学徒出陣し、海軍中尉に至る。学部を卒業のあと、同大学院に進学、1955年より國學院大學日本文化研究所専任所員、また同大学講師として教壇に立つ。 1962年に再興された皇學館大學助教授として赴任、1965年には教授。1989年まで在職した(同名誉教授となる)。
丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 - 20… 丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 - 2006年9月24日)は、日本の俳優・芸能プロモーター・心霊研究家。東京府豊多摩郡大久保町(現:東京都新宿区)出身。身長175cm。血液型はO型。
山下 昇(やました のぼる、1922年(大正11年)7月17… 山下 昇(やました のぼる、1922年(大正11年)7月17日 - 1996年(平成8年)5月15日)は、日本の地質学者。信州大学名誉教授。 フォッサマグナ東縁は柏崎と銚子を結んだ線とする、柏崎-銚子線説を提唱した。 福岡県八女市生まれ。 1945年、東京帝国大学理学部地質学科を卒業。 東京大学理学部助手を経て、1968年に信州大学教授に就任する。1986年に定年退官し、名誉教授となる。 退官後、新潟県糸魚川市のフォッサマグナミュージアム館長を務めた。 1996年5月15日、呼吸不全のため死去。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
竹山 太郎(たけやま たろう、1921年7月17日 - 20… 竹山 太郎(たけやま たろう、1921年7月17日 - 2016年12月18日)は、日本の材料工学者。北海道大学名誉教授。元日本電子顕微鏡学会会長。 横浜生まれ。1945年北海道帝国大学工学部生産冶金工学科卒業。北海道大学工学部助手、北海道大学工学部講師を経て、1959年北海道大学工学部助教授。1962年工学博士。1963年北海道大学工学部教授。1971年日本電子顕微鏡学会瀬深賞受賞。1983年日本金属学会谷川・ハリス賞受賞。1984年日本電子顕微鏡学会会長。1985年北海道大学名誉教授。北海道産業専門学校客員教授。1992年同退職。1996年勲三等旭日中綬章受章。日本金属学会北海道支部長、文部省学術審議会専門委員、日本原子力研究所核融合炉材料研究専門委員。
大河内 鷹(おおこうち たか、1921年(大正10年)7月1… 大河内 鷹(おおこうち たか、1921年(大正10年)7月17日 - 2009年(平成21年)4月9日)は、日本の政治家。福島県二本松市長(3期)。 福島県安達郡二本松町(現・二本松市)出身。1942年、陸軍士官学校(56期)卒。戦後、帰郷し、二本松市議会議員となり、7期務め、議長も2期務めた。1984年、二本松市長に当選し、3期務める。1996年に市長を退任した。2009年(平成21年)4月9日死去、87歳。死没日をもって正七位から従四位に叙される。
林 喜重(はやしよししげ、よししげ、1920年(大正9年)7… 林 喜重(はやしよししげ、よししげ、1920年(大正9年)7月17日 - 1945年(昭和20年)4月21日)は、日本の海軍軍人。海兵69期。大東亜戦争末期、戦闘機「紫電改」搭乗員として本土防空戦に参加。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1920年(大正9年)7月17日、神奈川県鎌倉町浄明寺に生まれた。鎌倉町立第二尋常高等小学校、神奈川県立湘南中学校を卒業。1938年(昭和13年)4月、海軍兵学校69期に入校。母親は林が軍に入ってからは毎日裏山のお宮に参拝して無事を祈っていた。1941年(昭和16年)3月に同校を卒業、少尉候補生として練習艦隊の重巡「那智」乗組、練習航海に出発。4月、重巡「摩耶」乗組。
岡崎 功(おかざき いさお、1920年7月17日 - 200… 岡崎 功(おかざき いさお、1920年7月17日 - 2006年)は、日本の右翼活動家・教育者。島根県出身。昭和戦前期から占領期にかけて活動し、1945年に松江騒擾事件を起こした。別名岡崎允佐夫(おかざき いさお)。 松江騒擾事件とは島根県庁の焼き討ち事件で、1945年8月24日、終戦に不満をもった岡崎らが「聖戦続行、昭和維新政府樹立」を要求して皇国義勇軍と名乗り、島根県知事公舎、発電所、新聞社等を襲撃した。襲撃後、皇国義勇軍は罪を不問とする条件で投降したが、岡崎は戦時騒擾罪等で無期懲役となって服役した。1952年、サンフランシスコ平和条約発効等による恩赦で出所。その後、1961年に学校法人淞南学園、現立正大学淞南高等学校を創立して理事長となり、長く学校の経営にあたった。
角戸 正夫(かくど まさお、1918年7月17日 - 200… 角戸 正夫(かくど まさお、1918年7月17日 - 2005年1月14日)は、日本の化学者。大阪大学蛋白質研究所所長、姫路工業大学学長を歴任。 兵庫県出身。甲陽中学校(15回卒)を経て、大阪帝国大学卒。大阪大学工学部教官などを任官したのち、1971年8月15日から1982年4月1日まで大阪大学蛋白質研究所所長を務めた。1982年10月に姫路工業大学学長に就任。 解析化学を専門とする。関西6GeV-SR計画世話人会代表などを務め、関西への科学研究施設誘致に活動していた。
西四辻 公敬(にしよつつじ きみよし、1916年〈大正5年〉… 西四辻 公敬(にしよつつじ きみよし、1916年〈大正5年〉7月17日 - 1991年〈平成3年〉1月9日、74歳没)は、滋賀プラスチックス創業者・代表取締役。スケベ椅子の開発者として知られる。 子爵・西四辻公堯(貴族院議員)の三男。次兄に冷泉為任がいる。学習院初等科を経て、1940年、立命館大学卒。 1964年から、ソープランド用バスタブで日本一のメーカーである滋賀プラスチックスを経営。雄琴のソープランド49軒のバスタブは全て滋賀プラスチックスの製品であり、日本全国では80パーセントのシェアを持つ。東京都のパレスホテル、ヒルトンホテル、ホテルニューオータニ、ホテルオークラ、リーガロイヤルホテルなど一流ホテルのスチームバスは全て同社の製品で占められている他、クレムリン宮殿のサウナやアメリカ海軍の第7艦隊の船内サウナも同社の製品である。
山田 禅二(やまだ ぜんじ、1914年7月17日 - 没年不… 山田 禅二(やまだ ぜんじ、1914年7月17日 - 没年不明)は、日本の俳優。本名は万田 正敏(まんだ まさとし)。北海道浦河郡浦河町出身。グループ71に所属していた。 1929年、北海道庁立室蘭商業学校中退後、王子製紙工業苫小牧工場に入社。 映画『大学は出たけれど』を鑑賞したことがきっかけで、1936年に日活多摩川撮影所の美術部に入社 。翌年、俳優に転向し、助演俳優として活動 。戦後は大映に入る 。戯曲座の舞台でも活動した 。1954年に映画製作を再開した日活に戻り、アクション映画の悪役として活躍。1966年にフリーに転向して以降はテレビドラマを中心に活動した 。
松澤 卓二(まつざわ たくじ、1913年(大正2年)7月17… 松澤 卓二(まつざわ たくじ、1913年(大正2年)7月17日 - 1997年(平成9年)9月8日)は、日本の銀行家。富士銀行頭取、会長のほか、全国銀行協会連合会会長、経済団体連合会、日本経営者団体連盟副会長等を歴任した。その風貌と行動力がフランスの英雄を彷彿させるとして金融界のナポレオンと呼ばれた。 東京・日本橋蛎殻町に生まれる。父は弁護士で裕福な家庭に育った。 東京府立第六中学校、旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。 安田財閥の持株会社である安田保善社の入社試験に合格し、富士銀行の前身となる安田銀行に入行。初任地として馬喰町支店に配属となる。その後、赤紙が来て満州に渡り、幹部候補生学校に入学し、少尉に任官となる。
村瀬 興雄(むらせ おきお、1913年7月17日 - 200… 村瀬 興雄(むらせ おきお、1913年7月17日 - 2000年3月2日)は、日本の歴史学者。ドイツ帝国およびナチズム、ナチス・ドイツを研究。成蹊大学名誉教授。 東京都出身。1938年東京帝国大学文学部西洋史学科卒。松山高等学校教授、愛媛大学助教授、1953年成蹊大学教授、1977年定年退任、名誉教授。立正大学教授、1984年退職。創価大学客員教授。1993年退職。 1987年秋、勲三等瑞宝章受勲。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
灰山 元治(はいやま もとはる、大正元年(1912年)7月1… 灰山 元治(はいやま もとはる、大正元年(1912年)7月17日 - 昭和62年(1987年)11月27日)は、昭和初期に中等野球他で活躍したアマチュア野球選手、プロ野球選手。投手・内野手。プロ入り後は灰山元章と改名した。広島県佐伯郡廿日市町桜尾(現:廿日市市)出身。
細川 護貞(ほそかわ もりさだ、1912年〈明治45年〉7月… 細川 護貞(ほそかわ もりさだ、1912年〈明治45年〉7月17日 - 2005年〈平成17年〉10月3日)は、旧肥後熊本藩細川家の第17代当主。第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。 1912年(明治45年)、細川侯爵家第16代当主・細川護立と博子(侯爵池田詮政の長女)の長男として生まれる。曾祖父に島津忠義と鍋島直正。旧制学習院高等科を経て京都帝国大学で狩野直喜博士の教えを受ける。京大法学部卒業後、企画院嘱託。 1940年(昭和15年)、第2次近衛内閣で首相秘書官に就任する。1943年(昭和18年)、昭和天皇の弟宮高松宮宣仁親王の御用掛となり宮中グループを中心に各方面の有識者から情報や意見を収集し、海軍グループで同郷出身の高木惣吉海軍少将に協力して東條英機暗殺未遂事件や終戦工作の一翼を担い、戦時中の動静を「細川日記」として戦後発表している。
中井 利之祐(なかい りのすけ、1911年〈明治44年〉7月… 中井 利之祐(なかい りのすけ、1911年〈明治44年〉7月17日 - 没年不明)は、日本の実業家。旧姓・中川。 奈良県・中川亀太郎の三男。1929年、郡山中学校を卒業。中井製膠所経営、康徳化学工業勤務を経て1948年に浪華化学工業を設立、社長に就任する。 浪華化学工業、朝日化学産業各社長、野洲化学工業取締役、大阪膠質ゼラチン工業協同組合、飛島会各理事長、日本にかわゼラチン工業組合副理事長、大阪同和事業協議会副会長などをつとめる。 また民生委員である。 趣味は読書。宗教は真宗。住所は大阪市東淀川区飛島町(現・東中島)。
大橋 棣(おおはし やすし、1910年7月17日 - 200… 大橋 棣(おおはし やすし、1910年7月17日 - 2004年9月9日)は大阪府出身のプロ野球選手、野球指導者(高校野球・社会人野球監督)。 旧制浪速中学校(現浪速高校)卒業後、関西大学に進学。強肩・好守の遊撃手として有名だった。その後、門司鉄道局に就職。門司鉄道局時代は、玉井栄など九州の選手の大阪タイガース・阪神軍入団に関わり、球団を側面からサポートした。 松木謙治郎が退団するときに阪神軍に助監督として入団するつもりだったが、阪神本社側の反対で選手として1942年10月登録された。翌1943年オフに退団。誰にでも食ってかかる事から「ケンカ大橋」の異名を持ち、ベンチではヤジ将軍として有名だった。
伊藤 武郎(いとう たけろう、1910年7月17日 - 20… 伊藤 武郎(いとう たけろう、1910年7月17日 - 2001年11月29日)は、日本の映画プロデューサー、労働運動家。日本映画演劇労働組合の初代委員長として、東宝争議を指揮した。本名伊藤 武男(いとう たけお)。 1910年(明治43年)7月17日、福井県に「伊藤武男」として生まれる。 東京に移り、早稲田大学に入学、同学を卒業後の1937年(昭和12年)、東宝映画(現在の東宝)に入社する。東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)で、1942年(昭和17年)、渡辺邦男監督の『武蔵坊弁慶』で伊藤基彦とともに初めて「製作」に名を連ね、映画プロデューサーとなる。 第二次世界大戦終結の翌年、1946年(昭和21年)2月に東宝撮影所で東宝争議が起きる。
葦津 珍彦(あしづ うずひこ、1909年〈明治42年〉7月1… 葦津 珍彦(あしづ うずひこ、1909年〈明治42年〉7月17日 - 1992年〈平成4年〉6月10日)は、日本の神道家。「神社新報」主筆。 葦津耕次郎の長男として福岡県筥崎(現・福岡市東区箱崎)に生れる。葦津家は筥崎宮の社家の一つである大神家の末裔であり、伯父である葦津洗造は同宮の宮司であった。1922年(大正11年)東京府立第五中学校に入学。この頃から社会主義に憧れ、社会科学研究会に参加し、関連する書物を読み漁ったという。周囲はこれを心配し、卒業後は國學院大學に進んだ[要出典]。別に東京外国語学校(現:東京外国語大学)にも入学するが、いずれも退学した[要出典]。1928年(昭和3年)には福島高等商業学校(現・福島大学)に入学するも、翌年退学。
李家 正文(りのいえ まさふみ、1909年7月17日- 19… 李家 正文(りのいえ まさふみ、1909年7月17日- 1998年7月4日)は、日本の歴史学者。朝日新聞社東京本社日本古典全書編集長。 1909年、山口県で少輔五郎の長男として生まれた。國學院大學国文科で学び、1933年に卒業。 卒業後は、広島女学院専門学校の講師を務めた後、朝日新聞社に入社して映画局長、出版局長、朝日学生新聞社社長などを歴任した。便所の歴史の研究で知られたがほかに広く日本・東アジア史に関する著書多数がある。宗教は曹洞宗。
吉本真二(よしもと しんじ、1909年7月17日 - 199… 吉本真二(よしもと しんじ、1909年7月17日 - 1996年2月26日)は日本の大蔵官僚。大臣官房調査企画課専門調査員、中小企業金融公庫監事、国立国会図書館専門調査員などを歴任した。 大阪府出身。1931年10月 高等試験行政科に合格。東京帝国大学経済学部経済学科卒業。1932年 大蔵省入省。理財局属。1934年2月 宇治山田税務署長。1948年7月5日 理財局調査部次長。1949年6月1日 大臣官房調査部専門調査員。1952年8月1日 大臣官房調査課専門調査員。1961年12月31日 退官、中小企業金融公庫監事。1972年4月 国立国会図書館専門調査員。1996年2月26日 心不全で死去。
赤沢 弘毅(あかざわ ひろたけ、明治42年〈1909年〉7月… 赤沢 弘毅(あかざわ ひろたけ、明治42年〈1909年〉7月17日 - 没年不詳)は、日本の医師、医学博士。赤沢医院院長。鳥取県医師会(昭和24年 - 昭和51年、理事・監事・代議員・議長等を歴任)。西部医師会顧問(副会長・会長を歴任)。米子ガス取締役。協同建設監査役。 兄は元自治大臣の赤沢正道。長女は鳥取大学名誉教授・宮川征男の妻。 鳥取県米子市西倉吉町出身。父・康平は、徳島県出身の土木建築業。 昭和10年(1935年)東北帝国大学医学部卒業。同年東北帝国大学附属病院第二内科勤務。 昭和16年(1941年)応召、第六三兵站病院勤務。 昭和21年(1946年)比島より帰還、赤沢医院を開業。 昭和51年(1976年)米子看護高等専修学校校長に就任。
高杉 一郎(たかすぎ いちろう、1908年7月17日 - 2… 高杉 一郎(たかすぎ いちろう、1908年7月17日 - 2008年1月9日)は、日本の評論家・小説家・翻訳家・エスペランティスト。和光大学名誉教授。本名は小川 五郎(おがわ ごろう)で、大学教授としてはこの名前で教えた。 静岡県田方郡中伊豆町(現・伊豆市)生まれ。東京文理科大学教育学科中退。1933年より改造社に勤務、雑誌『文藝』編集主任となり、1942年東京文理科大学英文科卒業。1944年徴兵され、ハルピンで敗戦を迎え、シベリア抑留を体験。1949年復員。帰国後書いた抑留体験記『極光のかげに』『人間』(1950年8月 - 12月)が第24回芥川龍之介賞候補にあがり、ベストセラーとなる。 1950年静岡大学教育学部講師、1957年同文理学部助教授、1965年教授、1967年 - 1972年評議員、1972年定年退官。
小西 喜蔵(こにし きぞう、1908年7月17日 - 198… 小西 喜蔵(こにし きぞう、1908年7月17日 - 1989年7月28日)は、日本の騎手(新潟競馬倶楽部、東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、調教師。(国営競馬、日本中央競馬会)。 岩手県岩手郡米内村上田(現在の盛岡市高松)出身。日本競馬史上初のクラシック三冠達成騎手。 仁王小学校卒業、盛岡高等小学校(現・下橋中学校)卒業。 子息は1男4女であり、帝京大学元教授の小西厚子は長女。元調教助手と厩務員であった小西聖一は長男(厚子の弟で5人兄妹の4番目)であり、1943年9月1日生まれである。 1908年7月17日、岩手県岩手郡米内村の農家に11人兄弟の次男として生まれた。1923年に高等小学校を卒業した後岩手種馬所の牧夫になった小西は、種馬所に近い小岩井農場に繋養されていたサラブレッドを目にするうちにその美しさに魅せられ、騎手を志すようになった。
内藤 政恒(ないとう まさつね、1907年〈明治40年〉7月… 内藤 政恒(ないとう まさつね、1907年〈明治40年〉7月17日 - 1970年〈昭和45年〉10月21日)は、昭和期の考古学者、日向延岡藩の元藩主内藤政挙の六男。旧三河挙母藩内藤家の14代当主で、13代当主内藤政光の養子。日本歴史考古学会会長、侍従兼常陸宮傳育官、皇后宮事務官、式部官、玉川大学文学部教授、東京薬科大学教授。正五位。 宮崎県東臼杵郡岡富村(現延岡市)本小路の内藤政挙、英子の自邸で六男として生まれた。1914年(大正3年)岡富尋常高等小学校(現延岡市立岡富小学校)に入学し、1920年(大正9年)に卒業。小学校3年の頃、内藤家の使用人が東臼杵郡南方村(現:延岡市)雨下(あもり)で考古資料を収集していた有馬七蔵の娘だったので、その地を訪れて考古資料を見学したり資料採集を経験した。
須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 -… 須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 - 1975年4月17日)は、漫画家、洋画家、美術評論家、漫画評論家、社会運動家。昭和初期のプロレタリア美術運動に参加。生前、日本における漫画評論の第一人者として知られた。生前は一水会、草炎会および日本美術会会員。別名義は宇野圭。 明治38年(1905年)、長野県下伊那郡鼎村(鼎町を経て、現・飯田市)に生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、昭和5年(1930年)、東京美術学校西洋画科卒業。『文章倶楽部』(新潮社)、『戦旗』(戦旗社)などに漫画を執筆。『無産者新聞』に漫画「アジ太プロ吉」を連載。 昭和6年、日本プロレタリア美術家同盟の中央委員および書記長に就任。
田中重久(たなか しげひさ、1905年7月17日 - 197… 田中重久(たなか しげひさ、1905年7月17日 - 1979年5月24日)は、日本の美術史家である。特に仏教美術に関して、多くの著作をのこしている。別名義としてたなか しげひさがある。 1905年(明治38年)7月17日、滋賀県甲賀郡水口町葛籠町に、父・豊吉郎、母・ゆりの五男として生まれる。豊吉郎は「小さい地方銀行家」であり、1928年(昭和3年)より栗太銀行の取締役をつとめた。京都市立中立小学校を経て滋賀県立膳所中学校に入学する。同校で日本史の教鞭をとっていた佐々木恒清に薫陶を受けるかたちで、14歳にして仏教美術を志すようになる。 大村西崖の東洋史の講義を受けるべく、1925年(大正14年)に東京美術学校に進学するも、彼の易簀を受けて翌年3月に中退、早稲田大学に転学する。
藤原 定(ふじわら さだむ、1905年7月17日 - 199… 藤原 定(ふじわら さだむ、1905年7月17日 - 1990年9月17日)は、日本の詩人、評論家、翻訳家。 福井県敦賀市に生まれる。法政大学文学部哲学科で三木清・谷川徹三に師事する。大学時代から「生活者」に小説・詩を投稿し、1936年(昭和11年)に草野心平に誘われ『歴程』の同人となる。その後、南満州鉄道調査部に勤務し、評論を上梓する。 1944年に第一詩集『天地の間』を刊行、戦後は法政大教授となる。1957年(昭和32年)に山室静らと詩雑誌『花粉』を発行する。1964年(昭和39年)には山梨県北巨摩郡大泉村西井出(現・北杜市大泉町西井出)に山荘を所有し、夏季の間は同地で詩作を行う。1979年(昭和54年)には第五詩集『環』を刊行し、『環』には「甲斐駒のうしろから」などの八ヶ岳山麓を題材とした詩も含まれている。
平井 太郎(ひらい たろう、1905年〈明治38年〉7月17… 平井 太郎(ひらい たろう、1905年〈明治38年〉7月17日 - 1973年〈昭和48年〉12月4日)は、日本の政治家、実業家。四国新聞社、西日本放送社長、参議院議員(4期連続当選)を務めた。 玉藻座社長を務めた平井実の長男として、香川県木田郡田中村(現・三木町)に生まれる。 1928年(昭和3年)明治大学専門部商科卒業後、高松市会議員に当選し玉藻組(のちの玉藻建設)の社長となる。 1937年(昭和12年)8月から約1年間、陸軍主計少尉として応召、除隊後、玉藻組など実業界で活躍しているうち、終戦を迎える。 1946年(昭和21年)高松商工会議所会頭、1948年香川県経営者協議会会長、1950年香川県商工会議所連合会会長、1951年四国電力監査役に選ばれる。