大崎 正二(おおさき しょうじ、1913年1月18日 - 2… 大崎 正二(おおさき しょうじ、1913年1月18日 - 2003年)は、日本の著述家、翻訳家。 旧制福岡県嘉穂中学校卒。1935年に東京外国語学校仏語科卒業、大倉商事に入社。1937年から1944年までパリ支店勤務、次いでベルリン支店に移り、敗戦直前にシベリア経由で帰国。戦後、ロンドン支店長、パリ支店長を経て退職。その間、東京外国語大学講師。フランス文学の翻訳を行った。
睦 一信(モク・イルシン、朝鮮語: 목일신、1913年1月1… 睦 一信(モク・イルシン、朝鮮語: 목일신、1913年1月18日 - 1986年10月12日)は、大韓民国の児童文学作家、詩人。 本貫は泗川睦氏。父は独立運動家の睦致淑。『누가 누가 잠자나』、『자전거』の作者。1938年3月、関西大学専門部法律学科を卒業。
市川 都志春(いちかわ としはる、1912年〈明治45年〉1… 市川 都志春(いちかわ としはる、1912年〈明治45年〉1月18日 - 1998年〈平成10年〉4月29日)は、日本の作曲家、音楽教育者。教育芸術社の創業者。静岡県浜松市出身。 音楽教育に力を入れ、多くの音楽教科書の著述、編集を務めたことで知られる。また、各地の学校で校歌の作曲を多く手がけている。 浜松市で生まれ、中学からは東京に移り住んだ。旧制市立ニ中(現・東京都立上野高等学校)では、福田恆存(英文学)、高橋義孝(独文学)と同期。作曲を志し、1935年に東京音楽学校の器楽部ヴァイオリン科に入り、安藤幸子、ウィリー・フライに師事した。また課外でクラウス・プリングスハイムに作曲を学び、1937年本科卒業後は研究科に進んで、信時潔に半年間作曲を学ぶ。
谷垣 専一(谷垣 專一、たにがき せんいち、1912年(明治… 谷垣 専一(谷垣 專一、たにがき せんいち、1912年(明治45年)1月18日 - 1983年(昭和58年)6月27日)は、日本の政治家。従三位勲一等。文部大臣。妻は陸軍中将影佐禎昭の長女安紀。第24代自由民主党総裁の谷垣禎一は長男。 京都府福知山市の造り酒屋・谷垣松次郎の五男として生まれた。旧制京都府立福知山中学校、旧制第三高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、1936年、農林省入省(農務局嘱託)。要員局運用課長、開拓局管理課長、長野県農地部長、総務局物資調整課長、農地局総務課長、農地局管理部長、農林経済局農業協同組合部長などを経て、1955年10月に大臣官房長、1956年6月に畜産局長となる。
鐘ケ江 信光(かねがえ のぶみつ、1912年(大正元年)1月… 鐘ケ江 信光(かねがえ のぶみつ、1912年(大正元年)1月18日 - 2012年(平成24年)12月5日)は、日本の中国語学者。東京外国語大学名誉教授、元同大学学長。 大阪市出身。東京外国語学校支那語科卒。東京外国語大学助教授、教授、1971年4月から1975年3月まで学長、1976年(昭和51年)定年退官、名誉教授。1965年(昭和40年)から1967年(昭和42年)まで、NHKの中国語入門を担当した。2012年(平成24年)12月5日、老衰のため100歳で死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大木 恒四郎(おおぎ つねしろう、1912年 <明治45年>… 大木 恒四郎(おおぎ つねしろう、1912年 <明治45年> 1月18日 - 1993年 <平成5年> 4月9日)は、日本の経営者。埼玉銀行頭取を務めた。位階は正四位。 埼玉県出身。1934年に福島高等商業学校を卒業し、同年に武州銀行に入行。1943年7月に埼玉銀行に転じ、1965年に取締役に就任し、1968年に常務、1971年に専務を経て、1975年に副頭取に就任し、1978年6月には頭取に昇格。1982年6月に会長、1987年6月から取締役相談役を務めた。 1982年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1993年4月9日心不全のために死去。81歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
湯山 勇(ゆやま いさむ、1912年1月18日 - 1984… 湯山 勇(ゆやま いさむ、1912年1月18日 - 1984年6月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)、参議院議員(1期)。 愛媛県宇摩郡別子山村出身。愛媛師範学校を首席で卒業後、愛媛県内の北予中学校、愛媛師範学校、松山高等女学校などで教師を務めた。戦後、愛媛県教職員組合が結成されるとこれに参加し1951年に委員長に就任、翌1952年には愛媛地方労働組合評議会議長にもなる。 1953年の参議院選挙に愛媛県選挙区から出馬(日本教職員政治連盟)し初当選する。勤評闘争では強硬姿勢を取った愛媛県知事久松定武を相手に激しく抵抗し、1958年には参議院文教委員長となったが1959年の参院選で落選する。
坂田 昌一(さかた しょういち、1911年(明治44年)1月… 坂田 昌一(さかた しょういち、1911年(明治44年)1月18日 - 1970年(昭和45年)10月16日)は、日本の物理学者。元名古屋大学教授。湯川秀樹、朝永振一郎とともに日本の素粒子物理学をリードした。弟は、物理学者の坂田民雄。 東京市麹町区(東京都千代田区)で生まれる。旧制甲南高等学校を経て、1933年に京都帝国大学理学部物理学科を卒業する。理化学研究所、大阪帝国大学講師、京都帝国大学講師を経て1942年、名古屋帝国大学教授となる。湯川の中間子論の第2から第4論文の共著者である。 1942年、井上健と共に核力の起源となる中間子と当時宇宙線中に発見された中間子との違いを説明するために、二中間子論を提唱した。
有島 通男(ありしま みちお、1911年〈明治44年〉1月1… 有島 通男(ありしま みちお、1911年〈明治44年〉1月18日 - 1955年〈昭和30年〉)は昭和期の歌手。本名赤尾松三。 石川県金沢市出身。金沢第二中学校を経て1934年(昭和9年)東洋音楽学校卒業。 1934年(昭和9年)9月テイチクレコードからデビュー。「春まだ浅く」、「酒の中から」などのヒットで知られる。1936年(昭和11年)10月にコロナレコードの創設に参加。レコーディング数は多かったものの、コロナの倒産により、翌1937年(昭和12年)7月親会社のポリドール・レコードに移籍。「蒙古旅愁」など数曲が発売されるが、1940年(昭和15年)2月にタイヘイレコードに移籍。1942年(昭和17年)にタイヘイがキングに買収された後は、古巣テイチクに戻り、終戦直前まで「子宝ぶし」などがリリースされている。
乾 恒雄(いぬい つねお、1910年1月18日 - 1998… 乾 恒雄(いぬい つねお、1910年1月18日 - 1998年10月21日)は、日本の実業家。オリックス元社長・会長。 大阪府出身。法曹一家の生まれ。1933年に慶應義塾大学経済学部卒業後、三和銀行(現・三菱UFJ銀行)へ入社。[要出典]1964年にオリエント・リース設立に参加し、副社長に就任する。1967年、福井慶三の後任として2代目社長に就任。社長時代は、自主独自路線を選択し、出向者をゼロにし、親会社からの紹介を受けずに自ら知恵を出して顧客を開拓した社風を築いたことで知られていた。[要出典]1980年に社長の座を当時45歳の宮内義彦に譲り、会長に就任して長年にわたり務めた。1998年10月21日死去。
小谷 心太郎(こたに しんたろう、1909年(明治42年)1… 小谷 心太郎(こたに しんたろう、1909年(明治42年)1月18日 - 1985年(昭和60年)6月18日)は、昭和期の歌人。 岡山県出身(大阪市北区出身とも)。福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)卒業後、東京帝国大学へ進み、東大在学中の1932年(昭和7年)に「アララギ」に入会、斎藤茂吉に師事。1936年、サイパンに赴任。戦時中は海軍に従軍し戦場詠を詠んだ。 終戦の後は「新泉」、「アザミ」に入り活動する。1958年、「童牛」創刊。1977年に「宝珠」で第4回日本歌人クラブ賞を受賞。1985年死去、享年76。
布井 良助(ぬのい りょうすけ, 1909年(明治42年)1… 布井 良助(ぬのい りょうすけ, 1909年(明治42年)1月18日 - 1945年(昭和20年)7月21日)は、兵庫県神戸市出身の男子テニス選手。神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。1933年(昭和8年)のウィンブルドン選手権男子ダブルス部門で佐藤次郎とペアを組んで準優勝し、日本人のテニス選手として初めて4大大会決勝に挑戦した選手である。 大阪、西道頓堀の米穀商で資産家の長男として生まれる。布井は1932年(昭和7年)の全日本テニス選手権男子シングルス決勝で佐藤次郎を 5-7, 6-2, 2-6, 6-4, 6-1 で破って優勝したことがあり、早くから佐藤にとって最大の親友であった。布井は同年の全豪選手権から1933年(昭和8年)の全米選手権まで、4大大会に1度ずつ出場した。
朝山 新一(あさやま しんいち、1908年(明治41年)1月… 朝山 新一(あさやま しんいち、1908年(明治41年)1月18日 - 1978年(昭和53年)11月7日)は、日本の性科学者、発生学者。戦前、労働者、学生の性行動を調べ、戦後「現代学生の性行動」を報告。日本のキンゼイ博士と言われた。 京都府生まれ。1934年(昭和9年)、京都帝国大学理学部動物学科卒業。大学院修了。1941年(昭和16年)、新京畜産獣医大学教授。1944年から1946年は応召され、満州時代は最も起伏の多い経験をしたと述べている。1947年(昭和22年)、神戸経済大学予科教授。1949年(昭和24年)、大阪市立大学理工学部教授(生物学教室動物発生形態学)、理学部長 (1967 - 1969) を経て、大阪市立大学名誉教授、1971年(昭和46年)3月定年退職。
数山 英一(かずやま えいいち、1908年〈明治41年〉1月… 数山 英一(かずやま えいいち、1908年〈明治41年〉1月18日 - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚。 数山定太郎の二男として山口県下関市に生まれる。広島高等学校を卒業。1930年(昭和5年)4月、東京帝国大学法学部法律科(英法)を卒業し、同年10月高等試験行政科および司法科に合格。同大大学院に進んだのち、1932年(昭和7年)6月に台湾総督府に奉職する。文教局学務課勤務を経て、1936年(昭和11年)10月、地方理事官に進み、台北州羅東郡守に就任した。 ついで支那に転じ、興亜院調査官廈門連絡部勤務を経て、1942年(昭和17年)11月、大使館三等書記官となった。 戦後、丸善化成監査役を務めた。
和田 耕作(わだ こうさく、1907年〈明治40年〉1月18… 和田 耕作(わだ こうさく、1907年〈明治40年〉1月18日 - 2006年〈平成18年〉7月4日)は、日本の政治家。元民社党衆議院議員。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。高知県出身。1984年勲二等旭日重光章受章。 旧制高知高等学校を経て、1930年に京都帝国大学経済学部を卒業。1934年南満州鉄道に入社、調査部に勤務する。1937年企画院調査官となる。1941年の「企画院事件」では和田博雄・勝間田清一らとともに検挙される。翌1942年応召。 戦後はソ連に5年間抑留され、その経験から反共産主義の立場を取るようになる。日本フェビアン協会事務局長を務め、1960年に民主社会主義研究会議を創設して事務局長に就任、同時に民主社会党の結成に参画、1967年の衆議院議員選挙に民社党公認で旧東京4区から出馬し初当選。
高木 卓(たかぎ たく、1907年〈明治40年〉1月18日 … 高木 卓(たかぎ たく、1907年〈明治40年〉1月18日 - 1974年〈昭和49年〉12月28日)は、日本の小説家、ドイツ文学者、音楽評論家。本名は安藤 煕(あんどう ひろし)。 ヴァイオリニストで、女性初の文化功労者に選ばれた安藤幸と、英文学者・安藤勝一郎の子として東京市本郷区西片町に生まれる。東京帝国大学独文科卒。 水戸高等学校や第一高等学校教授などをつとめながら、同人雑誌『作家精神』に小説を書いた。1936年「遣唐船」で芥川賞候補、1940年(昭和15年)、大伴家持を描いた歴史短篇「歌と門の盾」で芥川賞を授与されるが辞退する。菊池寛は「恥を掻かされた」と言って怒っている。高木は、自分が辞退すれば『作家精神』の桜田常久がくりあげ受賞すると誤認したという説もある(桜田は次回受賞)。
黒松巌(くろまついわお、1906年1月18日-1976年11… 黒松巌(くろまついわお、1906年1月18日-1976年11月8日)は、日本の経済学者。 鹿児島市生まれ。第七高等学校造士館卒、1931年京都帝国大学経済学部卒、1960年「日本工業の構造」で京都大学経済学博士。1938年建国大学助教授、1944年教授、1948年同志社大学経済学部教授。59-61年経済学部長、1976年定年、名誉教授となる。
高田 なほ子(たかだ なほこ、1905年(明治38年)1月1… 高田 なほ子(たかだ なほこ、1905年(明治38年)1月18日 - 1991年(平成3年)5月19日)は、日本の教育者、政治家、平和運動家。参議院議員(2期)。旧姓は渡辺。 福島県信夫郡福島町(現福島市)で、裁判官・渡辺晶、トヨ夫妻の三女として生まれる。福島県立福島高等女学校を経て、1922年、福島県女子師範学校を卒業。福島県伊達郡掛田尋常高等小学校訓導に就任。1924年に依願退職して勉学のため上京し、東京府(東京都)下の小学校で勤務した。 1945年11月、日本社会党創立に際し党員となる。同年12月、東京都教育労働組合の結成に参加。1947年4月、東京都品川区議会議員に当選し1950年まで在任。
大沢 衛(おおさわ まもる、旧字体:大澤衞。1904年1月1… 大沢 衛(おおさわ まもる、旧字体:大澤衞。1904年1月18日 - 1980年4月13日)は、日本の英文学者、翻訳家。金沢大学名誉教授。 石川県出身。1927年東京帝国大学文学部英文科卒。第四高等学校教授、戦後金沢大学教授、1969年定年、金沢美術工芸大学長。1975年退職。日本ハーディ協会会長。
朴 在洪(パク・チェホン、朝鮮語: 박재홍、1903年1月1… 朴 在洪(パク・チェホン、朝鮮語: 박재홍、1903年1月18日または1906年1月18日 - 1979年6月28日または6月29日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のアナキスト、独立有功者、実業家、政治家。第3代韓国国会議員。浄土宗の仏教徒。 慶尚南道金海郡(現・金海市)出身。大成中学校、長崎商高、山口高商を卒業後、早稲田大学政経科2年修了。日本社会党幹部を務めたが、朴烈らと無政府運動を行ったため、大阪刑務所で3年8か月間留置された。その他は日活キネマ脚本部勤務、釜山朝紡会社人事課勤務を経て、大邱府で映画館大鏡館を経営し、大分県別府市で日鮮貿易商会を経営した。その後は満洲へ渡り、満州事変の時は長春市居留民僑胞団副委員長を務めたが、1932年に満洲派遣関東軍に従軍して1等通訳官として奉天、熱河、吉林、黒龍江各省を転戦した。
吉岡 修一郎(よしおか しゅういちろう、1902年1月18日… 吉岡 修一郎(よしおか しゅういちろう、1902年1月18日 - 1998年)は、日本の科学評論家。 石川県生まれ。東北帝国大学理学部卒、1934年九州帝国大学法文学部卒。戦後久留米大学教授、1959年「人の性格に関する脳波学的研究」で久留米大学より医学博士の学位を取得。定年退官後、九州産業大学教授。 数学、医学、哲学などで多くの一般向け著作をなした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
深津 玉一郎(ふかつ たまいちろう、1902年(明治35年)… 深津 玉一郎(ふかつ たまいちろう、1902年(明治35年)1月18日 - 1976年(昭和51年)2月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、愛知県半田市長(5期)などを歴任。 愛知県出身。1925年、早稲田大学専門部法律科を卒業し、その後、コロンビア大学、ソルボンヌ大学大学院で学んた。 愛知県半田農業学校講師、文部省嘱託、満州国外交部嘱託、満州炭鉱社員、富士産業農場長を務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙おいて大選挙区の愛知県第一区で日本自由党から出馬して当選。第23回総選挙(旧愛知2区)でも当選し、衆議院議員を連続二期務めた。この間、日本自由党総務、同渉外部副部長、同政調会鉱工業委員長、民主自由党常任総務などを務めた。
村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月… 村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月22日)は、日本の小説家、画家、デザイナー、劇作家、演出家、舞台装置家、ダンサー、建築家。日本演出者協会初代理事長。
小竹 文夫(おだけ ふみお、1900年1月18日 - 196… 小竹 文夫(おだけ ふみお、1900年1月18日 - 1962年10月16日)は、日本の東洋史学者。 1900年、石川県で生まれた。上海の東亜同文書院で学び、1922年6月に卒業後(第19期生)。1928年。その後、京都帝国大学文学部東洋史学科を卒業。 修了後は、東亜同文書院大学教授となった。 戦後は金沢大学、東京教育大学で教授を務めた。1961年、学位論文『清代社会経済史の基礎研究:人口と耕地の問題』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。1962年に死去。 司馬遷『史記』の全訳を弟の小竹武夫と共に行った。
赤坂 武(あかさか たけし、1900年 <明治33年> 1月… 赤坂 武(あかさか たけし、1900年 <明治33年> 1月18日 - 1971年 <昭和46年> 6月6日)は、日本の経営者。日本鋼管社長を務めた。位階は従三位。 宮城県角田市出身。1925年に東北帝国大学法文学部経済学科を卒業。 日本生命保険での勤務を経て、1939年に日本鋼管に転じ、1949年2月に取締役、1959年5月に常務、1961年11月に副社長を経て、1963年11月に社長に就任。経済団体連合会、日本経営者団体連盟各常任理事も務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1971年6月6日、胃癌のために死去。71歳没。死没日付をもって従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。
岡井 正男(おかい まさお、1900年1月18日 - 没年不… 岡井 正男(おかい まさお、1900年1月18日 - 没年不明 )は農林技官。技官初の水産庁長官を務めた。退官後、極洋捕鯨副社長などに就任。 愛媛県出身。1922年、北海道帝国大学附属水産専門部(現北海道大学水産学部)卒業。水産庁次長を経て、1956年技官として初めて水産庁長官に昇格。1957年退任。1958年極洋捕鯨取締役。1959年極洋捕鯨専務取締役。1964年極洋捕鯨取締役副社長。日本鮭鱒資源保護協会会長なども務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 19… 高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 1996年5月20日)は、日本の医学者、精神科医。専門は、性格学、森田療法。鹿児島県出身。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1924年、九州帝国大学医学部卒業。同大学精神神経科講師を経て、1929年、東京慈恵会医科大学に転任する。同年より東京根岸病院に勤務し、森田正馬に師事して森田療法を継承する。1937年、森田の後を継いで東京慈恵会医科大学教授となる。1940年、入院森田療法の施設である高良興生院を設立し、森田療法による神経(質)症の治療を行う。1964年、東京慈恵会医科大学名誉教授。
福沢 一郎(ふくざわ いちろう、1898年(明治31年)1月… 福沢 一郎(ふくざわ いちろう、1898年(明治31年)1月18日 - 1992年(平成4年)10月16日)は、日本の洋画家。日本にシュルレアリスムを紹介した画家として知られる。文化功労者、文化勲章受章、群馬県名誉県民。 1898年(明治31年)1月18日、群馬県北甘楽郡富岡町(現富岡市)に生まれる。祖父・常五郎は繭商人として組合製糸・甘楽社を設立し成功を収めた人物で、富岡町長や県会議員を務めた。常五郎の長男・仁太郎は衆議院議員・宮口二郎の姪・ハツと結婚し、夫婦の最初の子として生まれたのが一郎である。仁太郎も後に富岡町長を務めた。 一郎は1910年に富岡尋常高等小学校を卒業後、旧制富岡中学校に入学し1915年に卒業。
谷中 安規(たになか やすのり、1897年(明治30年)1月… 谷中 安規(たになか やすのり、1897年(明治30年)1月18日 - 1946年(昭和21年)9月9日)は、昭和時代前期の日本の版画家・挿絵画家。通称〈アンキ〉とも言われる。 奈良県桜井市初瀬の生まれ。6歳で母と死別、1904年(明治37年)父と朝鮮の京城に渡る。単身帰国し、東京の豊山中学に通うが学資が続かず中退、以後放浪生活を続ける。1922年(大正11年)日本美術学院出版の永瀬義郎著『版画を作る人へ 』から影響を受け、その書籍をもとに独学で木版画製作を始める。その後、1924年(大正13年)第一書房に勤め、社主の長谷川巳之吉に画才を認めらるその頃長谷川から日夏耿之介、堀口大學、佐藤春夫、与謝野晶子らを紹介される。
安藤 豊禄(あんどう とよろく、1897年1月18日 - 1… 安藤 豊禄(あんどう とよろく、1897年1月18日 - 1990年2月26日)は、日本の経営者。小野田セメント社長を務めた。大分県出身。 1921年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、同年に小野田セメントに入社した。1944年に取締役に就任し、1947年に専務を経て、1948年から社長に就任。1966年に取締役相談役を経て、1975年に相談役に就任した。 1990年2月26日心不全のために死去。93歳没。
住谷 悌(すみや てい、1896年〈明治29年〉1月18日 … 住谷 悌(すみや てい、1896年〈明治29年〉1月18日 - 1959年〈昭和34年〉2月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 茨城県出身。水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍経理学校(11期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第16連隊付となる。1921年(大正10年)4月、二等主計に、1926年(大正15年)3月、一等主計にそれぞれ昇進。1927年(昭和2年)12月、第1師団経理部員(参謀本部付)に就任。1930年(昭和5年)8月、関東陸軍倉庫付に転じ、1932年(昭和7年)4月、関東軍司令部付(満州国軍軍事顧問)となる。
浜田 平(濱田、はまだ ひとし、1895年(明治28年)1月… 浜田 平(濱田、はまだ ひとし、1895年(明治28年)1月18日 - 1945年(昭和20年)9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡大篠村明見(現・南国市明見)出身。浜田正之・礼の四男として生まれた。高知第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校普通科を卒業し、1919年(大正8年)11月、同校高等科(25期)を卒業。陸軍工科学校教官などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1925年12月、野砲兵第4連隊中隊長に就任。
畠山 鶴吉(はたけやま つるきち、1895年(明治28年)1… 畠山 鶴吉(はたけやま つるきち、1895年(明治28年)1月18日 - 1973年(昭和48年)5月31日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県北都留郡梁川村(現大月市梁川町)で生まれる。尋常小学校卒業後、1906年(明治39年)に上京し、1912年(明治45年)神田工科学校を卒業した。 1914年(大正3年)神田今川橋で酒店を開業。1923年(大正12年)の関東大震災で財産の全てを失ったが、同年、土木建築請負業「畠山組」を設立して復興事業で事業を拡大した。1931年(昭和6年)「大森かに料理つるや」を開業。1934年(昭和9年)帝国無尽 (株) 社長に就任。同年11月、熱海温泉につるや旅館を開業し、のち(株) つるやホテルに改組して社長に就任した。
田 栄沢(チョン・ヨンテク、1894年1月18日 - 196… 田 栄沢(チョン・ヨンテク、1894年1月18日 - 1968年1月16日)は朝鮮の小説家、牧師、写実主義作家。本貫は潭陽、号は秋湖。田の精神は人道主義であり、善人に対する救いの思想がその底辺にある。一貫して人間を中心にした作品を世に出したヒューマニズムの作家である。 1894年1月18日、平壌城内の社倉洞に生まれる。父は田錫泳で農業経営者、母は康順愛。8人兄妹の三男。5歳から漢文を修め、父が設立した保東学校を13歳で卒業。17歳で京城の官立医学校に入学するも、退学して渡日し、東京の青山学院中学部4年に編入学する。さらに同学院の大学文学部を卒業し、神学部に再入学。この頃、金東仁、朱耀翰、呉天錫らと同人雑誌『創造』を発刊する。
林 虎雄(はやし とらお、1893年1月18日 - 1970… 林 虎雄(はやし とらお、1893年1月18日 - 1970年9月8日)は、日本の経営者。日本電装(現在のデンソー)社長を務めた。 愛知県出身。1917年に名古屋高等工業学校を卒業。三井物産、豊田自動織機での勤務を経て、1943年にトヨタ自動車工業取締役に就任し、1949年12月には日本電装社長に就任した。1967年3月には会長に就任。 1962年に藍綬褒章を受章し、1966年に勲三等瑞宝章を受章した。 1970年9月8日脳軟化症のために死去。77歳没。
五十嵐 勇(いがらし いさむ、1892年(明治25年)1月1… 五十嵐 勇(いがらし いさむ、1892年(明治25年)1月18日 - 1986年(昭和61年)3月7日)は、日本の金属工学者。 1892年(明治25年)に熊本県に生まれる。1909年(明治42年)に熊本県立玉名中学校を卒業後、広島高等師範学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業した。 住友金属工業伸銅所に勤務中の1938年(昭和13年)に航空機に使う超々ジュラルミンを開発した。戦後は1946年(昭和21年)から東北大学教授。その他、秋田大学や岩手大学の教授も務めた。退官後は熊本県熊本市に居住した。1986年(昭和61年)死去。
石田 乙五郎(いしだ おとごろう、1892年(明治25年)1… 石田 乙五郎(いしだ おとごろう、1892年(明治25年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。憲兵司令部本部長。戦後、A級戦犯として逮捕された。 広島県に生まれ、東京帝国大学政治学科を卒業。 1913年、陸軍士官学校(25期)を卒業して陸軍少尉となる。 1930年、牛込憲兵分隊長、1935年、羅南憲兵隊長 となる。 1938年、陸軍大佐となり、支那駐屯憲兵隊警務部長に就任。 1941年、台湾憲兵隊長、1942年、陸軍少将・台湾憲兵隊司令官となる。1944年、陸軍憲兵学校長、憲兵司令部本部長となる。1945年4月30日、陸軍中将となる。 1945年8月15日、終戦の日に大阪憲兵隊に留置されていた米軍捕虜搭乗員5人が真田山墓地で2人が斬首、3人が銃殺され、埋められる。
陳望道(ちん ぼうどう、1891年1月18日 - 1977年… 陳望道(ちん ぼうどう、1891年1月18日 - 1977年10月29日)は、中国の言語学者、修辞学者、教育者。早い時期からの中国共産党員であり、「共産党宣言」を中国語に翻訳した人として知られる。 陳望道は浙江省義烏に生まれ、16歳まで私塾で伝統的な教育を受けた後、近代的な小学校にはいり直し、キリスト教系の之江大学に学んだ。 1915年に日本に留学し、早稲田大学、東洋大学、中央大学で学んだ。中央大学の法学士の学位を得た。早稲田大学では五十嵐力に修辞学を学んだ。 1919年5月に帰国し、杭州の浙江第一師範学校で国文を教えた。この時代には句読点の改良を主張し、新式標点の採用を訴えた。 翌1920年5月には陳独秀の求めに応じて上海に移り、中国共産党の前身であるマルクス主義研究会と共産主義青年団の創立にかかわった。
古川 為三郎(ふるかわ ためさぶろう、旧字体: 古川 爲三郞… 古川 為三郎(ふるかわ ためさぶろう、旧字体: 古川 爲三郞、1890年(明治23年)1月18日 - 1993年(平成5年)5月19日)は、日本の実業家。愛知県中島郡萩原村(現・一宮市)出身。 約30社からなるヘラルドグループの創業者であり、一代で日本を代表する映画配給会社へと育て上げたほか、映画事業のほかにも手広く事業を行った。「古為」(ふるため)という愛称で親しまれた。 1890年(明治23年)1月18日、愛知県中島郡萩原村(現・一宮市萩原)に生まれた。父は中野清助、母はたきであり、為三郎は五男だった。1893年(明治26年)10月、名古屋市矢場町に住む遠縁の古川己之助の養子となった。 1896年(明治29年)4月には白川尋常高等小学校(現・名古屋市立栄小学校)に入学し、1899年(明治32年)4月には高等科に進んだ。
鈴木 康太郎(すずき やすたろう、1889年(明治22年)1… 鈴木 康太郎(すずき やすたろう、1889年(明治22年)1月18日 - 1964年(昭和39年)5月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県北足立郡大間木村(のち北足立郡尾間木村大間木、現:さいたま市緑区大間木)で、鈴木順太郎の長男として生まれる。1908年、埼玉県立浦和中学校を卒業。農業を営む。 卒業後、浦和商業銀行に入行。以後、同行取締役、第八十五銀行取締役、埼玉農工銀行取締役、尾間木村信用販売購買組合長などを務めた。 政界では、尾間木村会議員、埼玉県会議員、同参事会員、足立同志会会長、憲政会・立憲民政党埼玉県支部総務などを務めた。1936年2月、第19回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年〈明治22年〉1月1… 石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年〈明治22年〉1月18日〈戸籍の上では17日〉- 1949年〈昭和24年〉8月15日)は、日本の陸軍軍人、軍事思想家。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲一等功三級。 「帝国陸軍の異端児」と呼ばれたほど軍内では変わった性格をしており、アジア主義や日蓮主義の影響を受けた。『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満洲事変を起こした首謀者。二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献したが、宇垣内閣組閣は流産に追い込んだ。後に東條英機との対立から予備役に追いやられる。東京裁判では病気や反東條の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。 陸軍大学校教官、関東軍作戦主任参謀、同作戦課長、歩兵第4連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長、満洲国在勤帝国大使館附陸軍武官(兼任)、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、ドイツ駐在やジュネーヴ会議(英語版)随員も経験した。
遊佐 慶夫(ゆさ よしお、1889年(明治22年)1月18日… 遊佐 慶夫(ゆさ よしお、1889年(明治22年)1月18日 - 1944年(昭和19年)11月17日)は、日本の法学者。専門は、民法・信託法制。学位は、法学博士(早稲田大学・論文博士・1925年)(学位論文「信託法提要」)。早稲田大学初の法学博士。早稲田大学教授を歴任。 1889年1月18日、福島県安達郡油井村(現・二本松市)に生まれる。 1911年、早稲田大学専門部法律科を卒業する。1914年から1916年にかけてベルリン、ロンドン、ベルンへ留学し、帰朝後に早稲田大学助教授に就任する(後に教授となる)。1920年4月から1942年7月まで専門部法律科長となり、同年7月から1944年11月まで法学部長となる。
寺島 権蔵(てらしま ごんぞう、1888年(明治21年)1月… 寺島 権蔵(てらしま ごんぞう、1888年(明治21年)1月18日 - 1940年(昭和15年)4月9日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、富山県三日市町長。 富山県下新川郡三日市町(現黒部市)出身。早稲田大学政治科卒業。独立新聞記者、東京毎日新聞記者として活動するかたわら、合名会社横山鉱業部経済調査嘱託を兼ねた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は5回を数えた。さらに三日市町長も兼ね、5期在任した。また廣田内閣では商工参与官に任命された。 1937年(昭和12年)、洪水で流失した橋を再度建設し、権蔵橋と名付けられた。 その他、富山日報社取締役・富山海底遊覧船株式会社取締役・魚津製氷会社社長などを務めた。
掛谷 宗一(かけや そういち、1886年〈明治19年〉1月1… 掛谷 宗一(かけや そういち、1886年〈明治19年〉1月18日 - 1947年〈昭和22年〉1月9日)は、日本の数学者。東京文理科大学兼東京帝国大学教授。統計数理研究所初代所長。理学博士。 1886年(明治19年)、広島県深安郡坪生村生まれ(現・福山市坪生町)。広島県第二中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)を卒業後、第三高等学校を経て、1906年(明治39年)10月に東京帝国大学理科大学数学科に進んだ。2、3年生時は特待生に選定され、3年進級時にはモルレー博士記念数学賞を受賞。1909年(明治42年)7月卒業。 1911年(明治44年)第一高等学校教授、1912年(大正元年)に東北帝国大学助教授に就任。
吉田 浩(よしだ こう、1885年(明治18年)1月18日 … 吉田 浩(よしだ こう、1885年(明治18年)1月18日 - 1963年(昭和38年)4月7日)は、日本の鉄道官僚。朝鮮総督府官僚。 福島県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格。鉄道院書記、同副参事、同参事、鉄道局参事、鉄道書記官・運輸局貨物課長、門司鉄道局長、東京鉄道局長を歴任した。その後、朝鮮総督府鉄道局長を務めた。 1938年(昭和13年)に退官し、華北交通株式会社監事、北支那開発株式会社理事を経て、1942年(昭和17年)より鉄道軌道統制会理事長を務めた。戦後は、日本交通協会長、鉄道弘済会顧問を務めた。
安居 喜八(やすい きはち、1883年〈明治16年〉1月18… 安居 喜八(やすい きはち、1883年〈明治16年〉1月18日 - 没年不詳)は、日本の実業家。近江貯蓄銀行・百三十三銀行等、多くの会社の重役を務めた。資産家、滋賀県多額納税者。公選初代・彦根市長。家督相続前は、喜三郎を名乗る。 1883年(明治16年)1月、滋賀県犬上郡彦根町で、資産家の先代・安居喜八の長男として生まれる。安居家は滋賀県犬上郡彦根町における資産家として知られる。弟は大阪市東区瓦町1-20に居住した紙商・安居武藏(やすい むさし)。1887年(明治20年)家督を相續し、前名・喜三郞を改めた。 近江貯蓄銀行・百三十三銀行・川北電氣企業・黒部川電力ではそれぞれ取締役を務め、近江絹糸紡績では監査役を務めた。
星野 唯三(ほしの ゆいぞう、1882年〈明治15年〉1月1… 星野 唯三(ほしの ゆいぞう、1882年〈明治15年〉1月18日 - 1967年〈昭和42年〉1月3日)は、日本の経営者。第3代日清製粉代表取締役社長。 群馬県館林町の酒造家の次男として生まれる。学業優秀で、終始首席を占め、1904年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した。 同級生に佐藤尚武(元参議院議長)、向井忠晴(元三井物産会長)、梁瀬長太郎(ヤナセ創業者)、橋本万之介(元東北配電総裁)、前田幸太郎(元横浜市立大学学長)、斎藤浩介(元日立精機社長)、堀文平(元富士紡績社長)などがいた。 京都の大実業家の養子となることとなっていたが、兄が急逝したため生家を継ぎ、正田氏ほか館林の有力実業家の推挙を受け、日清製粉館林工場支配人や、小泉銀行監査役などを務めた。
猪飼 たね(いかい たね、1879年〈明治12年〉1月18日… 猪飼 たね(いかい たね、1879年〈明治12年〉1月18日 - 1995年〈平成7年〉7月12日)は、日本のスーパーセンテナリアン。かつて日本国内最高齢かつジャンヌ・カルマンに次ぐ世界で2番目の長寿であった愛知県名古屋市出身の女性。 愛知県愛知郡寛政村(現・名古屋市港区寛政町)の農家の三女として生まれ、結婚後三男一女をもうけたが、子四人全員に先立たれた。 100歳ころまでは、杖を使いながら老人ホームの外へ買い物へでかけたり、レクリエーションに参加するなど元気であり、趣味の縫い物を嗜んでいたという。108歳の時には「長生きのヒケツは、病気しないこと」と語っていた。その後、何度か脳卒中で入退院を繰り返し、113歳の時に発症してからは寝たきりであった。
鈴木 虎雄(すずき とらお、1878年〈明治11年〉1月18… 鈴木 虎雄(すずき とらお、1878年〈明治11年〉1月18日 - 1963年〈昭和38年〉1月20日)は、日本の古典中国文学者。新潟県西蒲原郡粟生津村(のち吉田町、現在は燕市に合併)出身。燕市名誉市民。 父鈴木惕軒は、長善館二代館主、その八男(戸籍上は五男)。一時大橋家の養子となり、大橋姓を称したが、後に鈴木姓に復した。甥には岩手県知事(官選)を務めた鈴木脩蔵がいる。妻鶴代は陸羯南の次女。 幼少時は長善館で父惕軒に師事する。上京後、東京英語学校、東京府尋常中学、第一高等中学校で学び、1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学漢学科卒業。同大学院中退後、日本新聞社、台湾日日新報社、東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)講師・教授などを経て、1908年(明治41年)に新設間もない京都帝国大学文科大学助教授に就任する。
佐野 正雄(さの まさお、1877年(明治10年)1月18日… 佐野 正雄(さの まさお、1877年(明治10年)1月18日 - 1933年(昭和8年)3月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)、弁護士。 松江市に佐野浩一の長男として生まれる。1898年(明治31年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。検事となるが、退官して弁護士を開業した。また松江市会議員に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 その他に山陰製鉄株式会社取締役を務めた。