山田 浅蔵(やまだ あさぞう、1919年12月19日 - 2… 山田 浅蔵(やまだ あさぞう、1919年12月19日 - 2008年8月21日)は、日本の音楽教育者・学者。 滋賀県出身。東京音楽学校卒。東京都立白鴎高等学校音楽教諭、武蔵野音楽大学教授。90年定年退職。
12月19日生まれ:311人
山田 浅蔵(やまだ あさぞう、1919年12月19日 - 2… 山田 浅蔵(やまだ あさぞう、1919年12月19日 - 2008年8月21日)は、日本の音楽教育者・学者。 滋賀県出身。東京音楽学校卒。東京都立白鴎高等学校音楽教諭、武蔵野音楽大学教授。90年定年退職。
池田 淳(いけだ あつし、1918年(大正7年)12月19日… 池田 淳(いけだ あつし、1918年(大正7年)12月19日 - 1989年(平成元年)6月16日)は、昭和期の地方公務員、政治家。衆議院議員(2期、自由民主党)。 千葉県君津郡竹岡村(現富津市)で、清酒「聖泉」醸造元・池田酒造の二男として生まれた。木更津中学校(現千葉県立木更津高等学校)を経て、1947年(昭和22年)日本大学法文学部卒。 1948年(昭和23年)千葉県庁に入り、地方課長、総務課長、農林部長などを歴任し、1975年(昭和50年)出納長に就任。その後、国民保険会千葉県連合会副会長を務めた。 水田三喜男の後継者として1979年(昭和54年)の第35回衆議院議員総選挙に無所属で千葉県第3区から立候補し当選する。
春日 學 (かすが まなぶ、1915年(大正4年)12月19… 春日 學 (かすが まなぶ、1915年(大正4年)12月19日 - 1993年(平成5年)2月5日)は、昭和期の音楽家であり、全日本吹奏楽連盟理事長、日本吹奏楽指導者協会会長を務めた。名が 学 と表記されることもある。 大正4年(1915年)、長野県伊那市に生まれる。 昭和7年(1932年)横須賀海兵団軍楽隊入隊。チューバを担当する。昭和12年(1937年)海軍省委託学生として東京音楽学校(現東京芸術大学)で学び、昭和14年(1939年)修了。その後も昭和18年(1943年)まで学び続ける。昭和20年(1945年)横須賀海兵団軍楽隊の教官(階級は海軍軍楽兵曹長)で終戦を迎える。 戦後、昭和28年(1953年)に大臣官房人事部の技術嘱託職員として郵政省に採用され、郵政中央吹奏楽団の指揮者に就任し、昭和38年(1963年)まで指導する。
楠本 保(くすもと たもつ、1914年(大正3年)12月19… 楠本 保(くすもと たもつ、1914年(大正3年)12月19日 - 1943年(昭和18年)7月23日)は、昭和初期の中等学校野球及び大学野球で活躍した野球選手(投手)。
時岡 隆(ときおか たかし、1913年12月19日- 200… 時岡 隆(ときおか たかし、1913年12月19日- 2001年9月30日)は日本の動物学者。京都大学名誉教授。 1913年、山口県生まれ。旧制山口高等学校を経て、1936年に京都帝国大学理学部動物学科を卒業した。 卒業後は母校である同大学の理学部助手に着任。1946年、京都大学に『日本動物分類』を提出して理学博士号を取得。農学部助教授、農学部教授、理学部附属瀬戸臨海実験所助教授を経て、同実験所教授に昇進。1975年から1977年には同実験所の所長を務めた。1977年、京都大学を停年退官し、京都大学名誉教授となった。 私人としてはピアノ演奏の技術に長けていた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
井上 清(いのうえ きよし、1913年12月19日 - 20… 井上 清(いのうえ きよし、1913年12月19日 - 2001年11月23日)は、日本の歴史学者。京都大学名誉教授。日本史専攻。明治維新や軍国主義、尖閣諸島、元号、部落問題に関する著作がある。 高知県出身。旧制高知高等学校を経て、1936年東京帝国大学文学部国史学科卒業。羽仁五郎の指導を受けた。戦時中は文部省の維新史や帝室学士院史の編集に嘱託として携わる。 戦後は在野で、歴史学研究会などで講座派マルクス主義の立場からの日本近代史研究の第一人者として活躍、『天皇制の歴史』で天皇制を批判した。貝塚茂樹の仲介で京都大学人文科学研究所に勤務。1954年に助教授、1961年に教授、1977年に退職。 部落解放運動と部落問題の研究に従事した。
高橋 定(たかはし さだむ、1912年(大正元年)12月19… 高橋 定(たかはし さだむ、1912年(大正元年)12月19日 - 2015年(平成27年)12月25日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。航空参謀、艦上爆撃機操縦士。全日空顧問。海兵61期。階級は海将(海上自衛隊)、海軍少佐(大日本帝国海軍)。 1912年(大正元年)12月19日、愛媛県松山市生まれ。6人兄弟の3男。旧制松山中では剣道は初段、サッカーでは主将を務め四国大会で優勝した。医者志望であったが、兄の勧めで1930年(昭和5年)4月、海軍兵学校入学(61期)。同期に野中五郎、板倉光馬、大野博、吉川猛夫など。1933年(昭和8年)11月、卒業。 「磐手」で遠洋航海を行った後、「加古」、「多摩」乗組みを経て、1935年(昭和10年)10月、飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊、1936年(昭和11年)12月には艦爆の延長教育課程を大村海軍航空隊で受け、1937年(昭和12年)4月、佐伯海軍航空隊に配属された。
埴谷 雄高(はにや ゆたか、1909年〈明治42年〉12月1… 埴谷 雄高(はにや ゆたか、1909年〈明治42年〉12月19日 - 1997年〈平成9年〉2月19日)は、日本の政治・思想評論家、小説家。本名は般若 豊()。 共産党に入党し、検挙された。カント、ドストエフスキーに影響され、意識と存在の追究が文学の基調となる。戦後、「近代文学」創刊に参加。作品に『死霊』(1946年 - 未完)、『虚空』(1960年)などがある。 台湾の新竹に生まれる。子供の頃から身体が弱く、常に死を身近に感じていたという。子供心に台湾において「支配者としての日本人」を強く意識し、罪悪感を覚えていた。 青年期に思想家マックス・シュティルナーの主著『唯一者とその所有』の影響を受け、個人主義的アナキズムに強いシンパシーを抱きつつ、ウラジーミル・レーニンの著作『国家と革命』に述べられた国家の消滅に一縷の望みを託し、マルクス主義に接近、日本共産党に入党し、もっぱら地下活動(農民団体「全農全会派」のオルグ活動)に従事し、思想犯取り締まりのため、1932年に逮捕された。
丸山 静雄(まるやま しずお、1909年12月19日 - 2… 丸山 静雄(まるやま しずお、1909年12月19日 - 2006年10月10日)は、日本のジャーナリスト、社会運動家。 神奈川県出身。東京外国語学校卒、朝日新聞記者となり、インパール作戦に従軍するなど、アジア諸国の特派員をへて論説委員。ベトナム戦争などを取材した。1974年退社、内部告発『論説委員』を著す。中野区教育委員、1978-1986年国際商科大学(東京国際大学)客員教授、ベトナム友好協会常任理事。全国革新懇(平和・民主・革新の日本をめざす全国の会)世話人。
大村 武彦(おおむら たけひこ、1908年12月19日 - … 大村 武彦(おおむら たけひこ、1908年12月19日 - 1994年8月23日)は、日本の銀行家。西日本相互銀行社長、会長を務めた。福岡県出身。位階は正五位。 1936年に九州帝国大学法科を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行。 1947年3月に福岡税務署で勤務し、1948年3月に熊本財務局理財局長を経て、1952年2月に西日本相互銀行に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務、1971年5月に専務を経て、1973年7月に社長に就任。1982年10月に会長に就任し、1984年6月に名誉会長を経て、1986年6月に常任相談役に就任。 1975年9月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等瑞宝章を受章。
三木 敏(みき さとし、1907年〈明治40年〉12月19日… 三木 敏(みき さとし、1907年〈明治40年〉12月19日 - 没年不明)は、日本の実業家。三木興業会長。三木商店合名会社代表社員。ナニワ電球工業監査役。 兵庫県姫路市・牛尾梅吉の二男。祖母・三木みなの養子となり1915年、家督を相続する。1932年、京都帝国大学法学部卒業。野村銀行本店に入り、1936年6月に退社し同年7月に三木商店を設立、代表社員に就任する。 三木政夫の養兄である。趣味は園芸、スポーツ、洋楽。宗教は仏教、真宗。住所は兵庫県武庫郡精道村東芦屋、打出字原田(現・芦屋市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
矢嶋 仁吉(やじま にきち、1907年12月19日 - 19… 矢嶋 仁吉(やじま にきち、1907年12月19日 - 1992年5月21日)は、日本の地理学者。理学博士(東京教育大学・論文博士・1953年)(学位論文「武蔵野台地の新田集落立地に関する地理学的研究」)。正四位。 東京府豊多摩郡井荻村(現在の東京都杉並区)に生まれる。荻窪に育つ。井伏鱒二の「荻窪風土記」の執筆に協力し、『荻窪の今昔と商店街之変遷』(1976年)、『荻窪の古老矢嶋又次が遺した「記憶画」 : 平成23年度杉並区立郷土博物館分館企画展 : 図版集』の作者である、荻窪の古老と呼ばれた矢嶋又次は実兄。荻窪駅北口前にかつて存在した矢嶋洋品店が実家。 1936年東京文理科大学地理学卒、1953年「武蔵野台地の新田集落立地に関する地理学的研究」で東京教育大学より理学博士の学位を取得。
赤須 文男(あかす ふみお、1905年12月19日 - 19… 赤須 文男(あかす ふみお、1905年12月19日 - 1991年5月22日)は、日本の医学者。専門は内分泌学。 長野県駒ヶ根市出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校理科を経て、昭和4年(1929年)東京帝国大学医学部卒業。同9年(1934年)医学博士。同10年(1935年)帝国女子医学専門学校(現東邦大学)教授、同33年(1968年)金沢大学医学部教授。同35年(1970年)金沢大学附属病院長、同46年(1971年)退官。私立金沢医科大学客員教授、国保松戸市立病院事業管理者を務めた。 また昭和35年(1970年)日本内分泌学会会長、同43年(1968年)日本産婦人科学会会長、同46年(1971年)日本輸血学会会長などを歴任した。
龍野 一雄(たつの かずお、1905年(明治38年)12月1… 龍野 一雄(たつの かずお、1905年(明治38年)12月19日 - 1976年)は医史学者、医学博士、漢方医学者。新字体表記は竜野一雄。 東京都千代田区出身。 独協中学校卒業後、1932年に慶應義塾大学医学部を卒業し、1935年に同大の医学部講師となる。東洋医学も積極的に研究し、1939年には拓殖大学の漢方講座講師、1951年には漢方研究会を発足させ、1952年にも漢方杏林会を発足させている。また、1950年設立の日本東洋医学会の初代会長(当時は理事長)に就任している。龍野は漢方の科学化を唱えたが、大塚敬節は漢方は学ではない、術だと主張し、龍野一雄を理事会から追放した。このことは山本巌が対談で明らかにしている。
木村 卜堂(きむら ぼくどう、1905年12月19日 - 1… 木村 卜堂(きむら ぼくどう、1905年12月19日 - 1975年8月9日)は、日本の書家。本名は信太郎、卜堂は号。木村東道は長男。栃木県足利市出身。 自ら日本書作家協会(1973年社団法人化)を興し、戦後書壇の隆盛の一翼を担いつつ、文人書家として多彩な創作活動を展開した。 戦前の旧東方書道会展で頭角を顕わし、戦後は新日本書道展、日本書作院、東方書道展などに創立から参画し、審査員を歴任、毎日書道展では初代グランプリ(準大賞)を受賞した。 1959年には同志を糾合、純正書道を標榜して日本書作家協会、新興書道展を創設し、書道の啓蒙と普及、後進作家の育成に尽力、会派を超えた指導力を発揮し、書芸術及び書壇の発展に寄与した。
矢田 一男(やだ かずお、1904年12月19日 - 196… 矢田 一男(やだ かずお、1904年12月19日 - 1966年4月23日)は、日本の法制史学者。新潟県佐渡郡金井町出身。 1921年高輪中学校卒。1924年中央大学法学部予科卒。1927年同法学部卒。中央大学附属図書館職員をしながら、東京帝国大学法科大学助手となり春木一郎にローマ法の薫陶を受けた。1934年中央大学専門部法学科専任講師。1941年同法学部専任講師。1946年同法学部教授。同通信教育部長を経て、1962年「ローマ刑事法の研究」にて中央大学で法学博士受く。1966年中央大学在職中に肝臓がんで逝去。同名誉教授。 門下生に眞田芳憲らがいる。中央大学で急逝した矢田担当する西洋法制史の後任も奇しくも同郷の眞田芳憲が担当した。
佐野 一彦(さの かずひこ、1903年12月19日 - 19… 佐野 一彦(さの かずひこ、1903年12月19日 - 1997年1月10日)は、日本の哲学者、民俗学者。旧制神戸商業大学(現神戸大学)元教授、愛知県立芸術大学元教授。ドイツ学士院フンボルト賞受賞。
最上 英子(もがみ ひでこ、1902年〈明治35年〉12月1… 最上 英子(もがみ ひでこ、1902年〈明治35年〉12月19日 - 1966年〈昭和41年〉10月16日)は、昭和時代の日本の政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。旧姓は石山。 1902年(明治35年)長野県更級郡稲荷山町(現・千曲市)に、石山紀久・春の長女として生まれる。1920年(大正9年)和洋女子学院(現・和洋女子大学)卒業。同年9月『萬朝報』記者だった最上政三と結婚。 政三は群馬県群馬郡室田町(現・高崎市)の出身で、1930年(昭和5年)に立憲民政党から衆議院議員に初当選した。英子は夫の応援演説に立ち、高崎市内の劇場の床が抜け落ちてしまうほどの人気を博した。夫は政界でのキャリアを積んでいったものの、戦後公職追放に遭う。
中西 利雄(なかにし としお、1900年〈明治33年〉12月… 中西 利雄(なかにし としお、1900年〈明治33年〉12月19日 - 1948年〈昭和23年〉10月6日)は、日本の洋画家。透明水彩絵具に不透明水彩絵具を併用する新たな水彩技法を編み出した。 東京府京橋区(現・東京都中央区)に生まれる。日本中学校、1927年東京美術学校西洋画科卒業。1920年代、日本水彩展、光風会展、帝展などに参加し、1928年(昭和3年)にフランスへ渡る。翌年、大学同期の小磯良平とともにヨーロッパをめぐり、サロン・ドートンヌに多数作品を出品して入選した。1931年(昭和6年)11月に日本へ帰国。帰国後の1934年(昭和9年)、第15回帝展に「優駿出場」を出品して特選。1935年(昭和10年)には第二部会展で「婦人帽子店」特選。
小沢 久太郎(小澤 久太郎、おざわ きゅうたろう、1900年… 小沢 久太郎(小澤 久太郎、おざわ きゅうたろう、1900年〈明治33年〉12月19日 - 1967年〈昭和42年〉9月18日)は、昭和期の日本の内務官僚、政治家。参議院議員(3期)、郵政大臣(第19代)。 千葉県市原郡加茂村(現在の市原市)出身(出生地は東京府東京市芝区愛宕下町)。第一高等学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業、内務省に入り、土木畑を歩む。特別調達庁促進局次長・近畿地方建設局長・経済安定本部建設交通局長、経済審議庁審議官などを歴任した。 1953年の第3回参議院議員通常選挙に於いて自由党公認候補として全国区に立候補して初当選、保守合同以後は自由民主党に属する。
田邊 憲治(たなべ けんじ、1899年12月19日 - 没年… 田邊 憲治(たなべ けんじ、1899年12月19日 - 没年不詳)は、日本の撮影技師、照明技師である。新漢字表記田辺 憲治、田邊 憲次(新漢字表記田辺 憲次)あるいは田邊 憲二(新漢字表記田辺 憲二)と表記されることがある。照明技師の時代に田辺 憲一あるいは田辺 謙一(たなべ けんいち)とも名乗っている。 1899年(明治32年)12月19日、京都府京都市に生まれる。 旧制・京都市立美術工芸学校図案科(現在の京都市立芸術大学美術学部デザイン科)を卒業し、1920年(大正9年)に松竹蒲田撮影所に入社する。満21歳のとき、1921年(大正10年)8月18日に公開された『更け行く夜』(監督賀古残夢)で技師に昇進した。
岩瀬 亮(いわせ あきら、1898年(明治31年)12月19… 岩瀬 亮(いわせ あきら、1898年(明治31年)12月19日 - 1944年(昭和19年)11月1日)は、昭和時代戦前の政治家。実業家。衆議院議員。旧姓は森。森矗昶の弟。 漁師・森為吉の三男として、千葉県夷隅郡清海村(興津町、勝浦町を経て現勝浦市)に生まれる。のち1927年(昭和2年)岩瀬定吉の婿養子となる。千葉県立大多喜中学校を経て、1919年(大正8年)東京植民貿易語学校高等科卒業後、マレー半島トレンガヌにて煉瓦製造業を営む。 日本澱粉、桜組工業、辰巳倉庫、樺太炭業、昭和航空計器各社長、昭和火薬取締役、日本澱粉工業組合連合会理事長、隣保教育財団、大日本映画協会各理事、日本輸出農産物参与、日本甘馬鈴薯会社社長、日本水飴統制協議会、日本葡萄糖統制協議会各委員長などを歴任した。
羽根 盛一(はね せいいち、1898年(明治31年)12月1… 羽根 盛一(はね せいいち、1898年(明治31年)12月19日 - 1974年(昭和49年))は、昭和期の内務官僚、政治家。官選第35代富山県知事、公選第3代(通算第39代)福井県知事(在任期間は1955年4月26日~1959年4月22日、1期4年)。 三重県多気郡出身。羽根貞助の長男として生まれ、幼少期に富山県上新川郡大沢野村(現富山市)へ移住した。立命館中学校、大阪市立高等商業学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、京都帝国大学経済学部を卒業。立命館大学助教授となる。 1929年、内務省に入省し岐阜県属となる。以後、高知県書記官・警察部長、栃木県部長・警察部長、新潟県警察部長、愛知県警察部長などを歴任。
岡村 丹二(おかむら たんじ、1895年12月19日 - 1… 岡村 丹二(おかむら たんじ、1895年12月19日 - 1954年12月8日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1921年に東京帝国大学経済科を卒業し、鉄道省、大阪鉄道での勤務を経て、1930年10月に宇治川電気(のちの山陽電気鉄道)に入社。 1940年10月に常務、1943年10月に専務を経て、1949年4月に社長に就任。 1954年12月8日、社長在任中に死去。58歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
森田 たま(もりた たま、1894年12月19日 - 197… 森田 たま(もりた たま、1894年12月19日 - 1970年10月30日)は、日本の小説家、随筆家、政治家。 元参議院議員(1期)。北海道出身者初の女性作家。位階は従四位。長女はデザイナーの森田麗子、息子に映画プロデューサー森田信。
加藤 顕清(かとう けんせい、1894年〈明治27年〉12月… 加藤 顕清(かとう けんせい、1894年〈明治27年〉12月19日 - 1966年〈昭和41年〉11月11日)は、岐阜県出身の彫刻家、洋画家。本名、加藤 鬼頭太。 長年に亘り日展審査員を務めたほか、後進の指導育成に尽くした。 1894年(明治27年)12月19日、岐阜県に生まれる。生後まもなく北海道深川市に転居し、上川中学校(現・北海道旭川東高等学校)卒業後、旭川市で代用教員を務めた後に上京して上智大学哲学科に入学。中原悌二郎の彫刻に出会ったことをきっかけに、1915年(大正4年)東京美術学校彫刻科入学、在学中は高村光雲、白井雨山に師事。 1923年(大正12年)同校研究科を卒業し西洋画科本科に再入学、藤島武二、長原孝太郎に師事し油絵を学んだ。
吉田 五十八(よしだ いそや、1894年(明治27年)12月… 吉田 五十八(よしだ いそや、1894年(明治27年)12月19日 - 1974年(昭和49年)3月24日)は昭和期に活躍し、和風の意匠である数寄屋建築を独自に近代化した建築家である。東京生まれ。東京美術学校(東京芸術大学)卒業。母校で教壇に立ち、多くの後進を育てる。死後、その功績を記念して、吉田五十八賞が設けられた。
纐纈 弥三(こうけつ やぞう、旧字体: 纐纈 彌三、明治26… 纐纈 弥三(こうけつ やぞう、旧字体: 纐纈 彌三、明治26年(1893年)12月19日 - 昭和53年(1978年)3月15日)は、日本の内務官僚・政治家。警視庁特別高等警察課長、大分県知事、衆議院議員(4期)、複数の政務次官等を歴任した。
三田 了一(みた りょういち、1892年12月19日 - 1… 三田 了一(みた りょういち、1892年12月19日 - 1983年5月29日)は、日本の昭和期に活動したムスリム(イスラム教徒)であり、指導者。宗教家。ムスリム名はウマル。山口県下関市の出身。イスラミックセンタージャパン元顧問。関西学院大学、北九州大学元中国語講師。 1972年に、ムスリムの手による初めてのコーランの日本語訳を出版(1982年改訂版出版)したことで知られる。この翻訳は、世界初の公認翻訳として承認されている。 1892年、山口県下関市に生まれ、1916年、山口高等商業学校(現・山口大学経済学部)を卒業。その後、南満州鉄道に就職して中国大陸に渡り、現地のムスリムとの交流を経てイスラム教へ改宗する。
後藤 鍬五郎(ごとう くわごろう、1892年12月19日 -… 後藤 鍬五郎(ごとう くわごろう、1892年12月19日 - 1976年2月27日)は、愛知県海東郡七宝村(現在のあま市)出身のコンクリート造形師。 最初に鉄筋で骨組みを製作し、隙間にコンクリートを流し込んだ後、表面に漆喰などを塗って仕上げる手法を取った。約40体のコンクリート像の製作に携わっており、聚楽園大仏などが代表作とされる。 1892年(明治25年)、愛知県海東郡七宝村(現在のあま市)に生まれた。両親はろうそくや線香などを製作しており、別院の御用商人だった。1900年(明治33年)に三蔵尋常小学校(名古屋市立栄小学校の前身のひとつ)に入学し、1904年(明治37年)に第六高等小学校(名古屋市立栄小学校の前身のひとつ)に入学し、1906年(明治39年)に第六高等小学校を卒業した。
谷崎 精二(たにざき せいじ、1890年12月19日 - 1… 谷崎 精二(たにざき せいじ、1890年12月19日 - 1971年12月14日)は、日本の英文学者、小説家。早稲田大学教授。小説家谷崎潤一郎の弟。 東京市日本橋区蛎殻町(現・東京都中央区日本橋人形町)出身。谷崎倉五郎の二男。生家は母方の祖父が事業に成功したため、当初は裕福だったが、父が事業に失敗し、次第に零落、兄潤一郎は家庭教師をして糊口を凌いだが、精二は阪本尋常小学校高等科を経て工手学校(現在の工学院大学)に通った。卒業後は通信技手をしていたが、しかし兄の影響もあって文学を志し、国民英学会、正則予備校に通い、1909年、早稲田大学高等予科英文科入学、同期に広津和郎があり、坪内逍遥、相馬御風、島村抱月らの指導を受けた。
内藤 秀因(ないとう しゅういん、1890年(明治23年)1… 内藤 秀因(ないとう しゅういん、1890年(明治23年)12月19日~1987年(昭和62年)4月10日)は、庄内町名誉町民、元日本水彩画会理事長の画家。 1890年(明治23年)12月19日、山形県東田川郡余目町大和村古関(現庄内町古関)の寺院・玄通寺の二男として生まれる。1913年(大正2年)山形県師範学校本科第一部卒業。22歳で小学校の教師となるも25歳で上京し、東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。しかし、生活苦により中退。東京で教師として務めるながら、画家の石井柏亭、石川寅治に師事する。 1927年(昭和2年)美術および美術教育を研究するためにヨーロッパへ留学。1928年(昭和3年)パリに渡り、画家のアマン・ジャンやオットン・フリエスに師事する。
松岡 弘(まつおか ひろむ、1890年12月19日 - 19… 松岡 弘(まつおか ひろむ、1890年12月19日 - 1983年3月8日)は、日本の教育者。第二次世界大戦後、長く信濃教育会会長を務め、また日本連合教育会会長も務めた。 長野県南安曇郡温村(現在の安曇野市三郷温下長尾)に生まれた。務台理作とは同郷で、南安曇郡温村立長尾尋常小学校以来の同級生であった。梓農業補習学校に学んだ後、1908年に長野県師範学校(信州大学教育学部の前身のひとつ)に入学し、1912年に卒業して教師となり、以降、訓導、校長、県視学官などを務めた。 松岡は師範学校在学中に手塚縫蔵と知り合い、キリスト教に入信し、松本市の聖公会で受洗した。松岡は、長野県師範出身者を中心として青年教師らが集まっていた東西南北会に参加しており、1912年に最初に着任した南安曇郡温明小学校で校長排斥運動に関与したが、岡村千馬太に諭され、同校を去った。
玉島 愛造(たましま あいぞう、1890年12月19日 - … 玉島 愛造(たましま あいぞう、1890年12月19日 - 没年不明)は、日本の俳優。本名は菊沢 敬之助(旧姓は山内)。 1890年(明治23年)12月19日、愛媛県宇和島市に生まれる。東京の私立商工中学を中退後、独学で教員免状を取り、小学校に8年間勤務した。また、その間に川端画学校で西洋画を学び、十数年の間絵画の製作を続けた。 1925年(大正14年)、東亜キネマ甲陽撮影所に開設された佐藤紅緑主宰の俳優養成所に年齢超過で資格がないのを無理に頼んで入所する。同年に『海国の母』で映画デビューし、脇役として細山喜代松監督『赤熱の力』等に出演。やがて等持院撮影所に移籍し、多くの作品で老け役、敵役を演じた。
速水 和彦(はやみ かずひこ、1889年(明治22年)12月… 速水 和彦(はやみ かずひこ、1889年(明治22年)12月19日 - 1949年(昭和24年)8月12日)は日本の機械工学者。日本統治時代の台湾で総督府の技師として、台北市七星郡松山庄(中国語版)(現:信義区)に新設された新台北鉄道工場(現:台北機廠)の設計を手がけた。台湾では「北廠之父」(台北機廠の父)と呼ばれている。位階は従三位。 北海道庁釧路郡(現:北海道釧路市)で出生。8歳時に台湾総督府民政部通信課の通信技師として赴任する父の経憲と共に台北に移住。 台湾総督府国語学校(現:国立台北教育大学)の付属初等部(現:台北市立士林国民小学(中国語版))を卒業、付属中等部(台北一中を経て現:台北市立建国高級中学)に在籍中、日本に戻り滋賀県立膳所中学校(現:滋賀県立膳所高等学校)へ転校し、旧制第三高等学校(京都大学の前身)へ進学。
大島 駿(おおしま はやし、1887年(明治20年)12月1… 大島 駿(おおしま はやし、1887年(明治20年)12月19日 - 1970年(昭和45年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。毒ガス兵器の研究者。 佐賀県出身。農業・大島幸三郎の三男として生まれる。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる。1913年(大正2年)11月、陸軍砲工学校高等科(19期)を優等で卒業した。陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学応用科学科で学び、1917年(大正6年)7月に卒業した。 1917年12月、近衛野砲兵連隊大隊副官に就任。
渋谷 雄太郎(澁谷、しぶや ゆうたろう、1887年(明治20… 渋谷 雄太郎(澁谷、しぶや ゆうたろう、1887年(明治20年)12月19日 - 1961年(昭和36年)12月11日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡寺島町長。 千葉県東葛飾郡、現在の市川市で、渋谷金蔵の長男として生まれる。1912年(明治45年)慶應義塾大学理財科を卒業した。 渋谷ゴム製作所を経営。その他、東京ゴム同業組合長、同ゴム製品工業組合理事長、日本再生ゴム材料卸商業組合連合会理事長、東京商工会議所議員、日本ゴム工業協同組合連合会副理事長、日本車輛ゴム社長、昭和実業社長、渋谷ゴム工業社長、渋谷商事社長、東部ゴム工業会理事長、日本ゴム工業会常任理事、市川商工会議所会頭などを務めた。
大橋 八郎(おおはし はちろう、1885年12月19日 - … 大橋 八郎(おおはし はちろう、1885年12月19日 - 1968年6月4日)は、日本の政治家、逓信官僚、俳人。岡田内閣の法制局長官、林内閣の内閣書記官長、社団法人日本放送協会第4代会長、日本電信電話公社第2代総裁。現在の富山県高岡市出身。 日本放送協会会長時、終戦時の玉音放送に携わった。戦後の通信事業近代化に貢献。おじは漢詩人の大橋十右衛門。 富山縣高岡中學校、石川縣尋常中學校を経て、1906年(明治39年)7月に第四高等學校を卒業。 1910年(明治43年)7月に東京帝国大学法科大学を卒業した後、逓信省に入省。同年11月、高等文官試験に合格する。1925年(大正14年)10月に郵務局長、1928年(昭和3年)7月に経理局長となる。
白上 佑吉(しらかみ ゆうきち、1884年(明治17年)12… 白上 佑吉(しらかみ ゆうきち、1884年(明治17年)12月19日 - 1965年(昭和40年)1月24日)は、日本の内務及び警察官僚。官選県知事。旧姓は林。陸軍大臣や首相を務めた林銑十郎は実兄。 石川県出身。父、石川県士族・林孜々郎が富山県礪波郡首席書記の時に、同郡出町(現砺波市)で三男として生まれる。その後、父の上司(郡長)で後に山口県警部長となった白上俊一の養子となる。第四高等学校を卒業。1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部・第一部警務課勤務となる。 1910年12月、警視総監官房文書課審査係長兼高等課外事係長に就任。
佐上 信一(さがみ しんいち、1882年(明治15年)12月… 佐上 信一(さがみ しんいち、1882年(明治15年)12月19日 - 1943年(昭和18年)11月29日)は、日本の内務官僚。岡山県知事、長崎県知事、京都府知事、北海道庁長官などの要職を歴任した。 広島県佐伯郡五日市村(現在の広島市佐伯区)出身。佐上兵次郎の長男として生まれる。父兵次郎は第4回内国勧業博覧会に灯油を出品した商人であった。広島県立一中(現在の広島県立広島国泰寺高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学(現・東京大学)卒業。 東京帝大卒業後、高等文官試験合格。内務畑を歩み1916年、内務省内務書記官・土木局道路課長。1922年内務省参事官兼内務大臣秘書官・大臣官房文書課長となり、道路課長を兼務。
八角 三郎(やすみ さぶろう、1880年〈明治13年〉12月… 八角 三郎(やすみ さぶろう、1880年〈明治13年〉12月19日 - 1965年〈昭和40年〉1月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将、衆議院議員。 岩手県盛岡市出身。栃内曽次郎海軍大将は叔父。八角が海軍兵学校を志願するきっかけは原敬の激励だったという。 岩手県立盛岡尋常中学校より海軍兵学校(29期)へ進んだ。席次は入校時137名中119番。卒業時は125名中75番。第一駆逐隊所属の駆逐艦「吹雪」乗組み中尉として日本海海戦に参戦。大尉時代に『敵艦進路及び速力の誤測に対する命中限界算法、魚雷動的発射に於ける誤差』と題する論文を発表 し、海軍水雷術の発展に貢献している。海軍水雷学校校長、第二水雷戦隊司令官を務めた水雷の権威である。
盛島 明長(もりしま めいちょう、1880年(明治13年)1… 盛島 明長(もりしま めいちょう、1880年(明治13年)12月19日 – 1941年(昭和16年)3月24日)は、衆議院議員(立憲政友会)、医師。 沖縄県宮古郡下地村(現在の宮古島市)出身。1902年(明治35年)に沖縄県師範学校を卒業し、小学校訓導を務めた。その後、長崎医学専門学校に入学し、1908年(明治41年)に卒業。翌年、郷里に医院を開業した。 医業のかたわら、1917年(大正6年)より県会議員となり、副議長、議長を歴任した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し当選。翌年の第20回衆議院議員総選挙でも再選されたが、1938年(昭和13年)4月7日、衆議院議員選挙法違反事件で大審院で上告棄却となり長崎控訴院判決が確定して退職した。
小原 光雲 (おはら こううん、1880年(明治13年)12… 小原 光雲 (おはら こううん、1880年(明治13年)12月19日 – 1938年(昭和13年)8月13日)は 大正-昭和時代前期の華道家。いけばな小原流二世家元。島根県松江市出身。本名は光一郎。 1880年(明治13年)、島根県松江市に生まれる。1890年(明治23年)、父(小原雲心)に呼ばれ大阪に転居する。父の勧めで商人を目指していたが、小原流興隆のため1904年(明治37年)、25歳で華道家に転身。1916年(大正5年)、父の死を受けて小原流家元を継承。以来、積極的に花展を開催し、ラジオや新聞・雑誌などで講座を受け持つなど、小原流いけばなの大衆化を図る。盛花に「型」を定め家元制度を確立させ、盛花をいける人を急増させる。
杉村 七太郎(すぎむら しちたろう、1879年(明治12年)… 杉村 七太郎(すぎむら しちたろう、1879年(明治12年)12月19日 - 1960年(昭和35年)11月25日)は、日本の医学者。専門は、外科学・泌尿器科学。東北帝国大学第一外科初代教授。東北帝国大学名誉教授。 1879年(明治12年)、静岡県磐田郡池田村に生まれる。同村尋常小学校、見附町高等小学校、静岡県立静岡中学校、第二高等学校第3部を経て、東京帝国大学医科大学、さらに同大学院に進学。佐藤三吉の下で外科学を専攻。当時新設予定の新潟医学専門学校の外科教授として外科総論及び泌尿器外科を担当することが内定したため、1908年(明治41年)、皮膚科泌尿器科、土肥慶蔵の指導も受けた。ドイツに留学し外科学を研鑽。
九条 恵子(くじょう やすこ、1876年(明治9年)12月1… 九条 恵子(くじょう やすこ、1876年(明治9年)12月19日 - 1956年(昭和31年)5月8日)は、公爵・九条道実(九条道孝の長男)の妻。大谷光瑩の次女。母は木下俊愿の三女・恒子。 跡見女学校(現跡見学園女子大学)卒業。名家の子女が学ぶ学校として著名だった跡見女学校の卒業生のなかでも、とくに才能が秀でており、「跡見三才媛」の一人と呼ばれた。道実との間に一男五女を儲けた。長男は道秀。長女・兼子は侯爵佐竹義春(佐竹義生の長男)、次女・豊子は中山輔親(中山孝麿の子)、四女・敏子は賀陽宮恒憲王に嫁いだ。恵子は大日本婦人教育会評議員、愛国婦人会本部評議員、婦人法話会幹事として活躍した。79歳で死去。
加護谷 祐太郎(かごたに すけたろう 1876年(明治9年)… 加護谷 祐太郎(かごたに すけたろう 1876年(明治9年)12月19日 - 1936年(昭和11年)6月7日)は、日本の建築家。 兵庫県明石生まれ。姫路中学、第三高等学校(京都)を経て東京帝国大学工科大学建築学科に進む。 1904年(明治37年)、東京帝国大学を卒業。同年、奈良県技師となり、東大寺大仏殿の修理に携わる。その後、山梨県(県立病院)、辰馬汽船、兵庫県(鶴林寺太子堂修理など)、大分県(県庁)などで業務に従事。1922年に東京市技師、建築課長。翌年関東大震災が起こり、1925年まで震災復興に当たる。東京市退職後は丹羽鋤彦、竹内季一と共同で建築事務所を開設。1931年より加護谷建築事務所を主宰。
須藤 吉之祐(すどう きちのすけ、1876年12月19日 -… 須藤 吉之祐(すどう きちのすけ、1876年12月19日 - 1956年10月2日)は、日本の経済学者、教育者。立教大学元学長、立教大学経済学部元教授。 1894年(明治27年)、立教学校(現・立教大学)卒業。同期には木村重治(立教大学元学長)がいる。 1897年(明治30年)にアメリカに留学し、ペンシルベニア大学に入学。1900年(明治33年)に同大学を卒業。 その後、母校である立教大学の教員となり、経済学部教授を務める。 1932年(昭和7年)9月に、杉浦貞二郎の後任として木村重治が立教大学学長に就任し、経済学部長を兼任すると、経済学科長に河西太一郎、商学科長に須藤吉之祐が着任した。 1936年(昭和11年)7月、立教大学学長(事務取扱)に就任し、翌年3月まで務めた。
大野 洒竹(おおの しゃちく、明治5年11月19日(1872… 大野 洒竹(おおの しゃちく、明治5年11月19日(1872年12月19日) - 大正2年(1913年)10月12日)は、俳人、医師。明治時代の大蒐書家として知られる。 弥富村 (熊本県)出身、本名は豊太。7歳より東京で育つ。一高を経て、東京帝国大学医学部で土肥慶蔵に師事。 一高時代に正岡子規に誘われ句会に入り、東大在学中の明治27年(1894年)、佐々醒雪、笹川臨風らと筑波会を結成。明治28年(1895年)には、尾崎紅葉、巖谷小波、森無黄、角田竹冷らとともに正岡子規と並ぶ新派の秋声会の創設に関わった。明治30年(1897年)、森鷗外に先駆けて『ファウスト』の部分訳を公表している。 大学卒業後に性病専門の大野病院を京橋にて開業し、患者が門前に群れを成すほど繁盛した。
大場 茂馬(おおば しげま、1869年12月19日(明治2年… 大場 茂馬(おおば しげま、1869年12月19日(明治2年11月17日) - 1920年(大正9年)12月30日)は、日本の刑法学者、弁護士、政治家。元公安審査委員会委員長の大場茂行は息子。 明治から大正の日本の刑法学は、富井政章、穂積陳重らがよってたつ主観主義を前提とする新派・近代学派と、客観主義を前提とする旧派・古典学派が対立しており、当時、旧派を代表する学者であり、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの弟子でもある宮城浩蔵は、犯罪を社会的害悪であると同時に道徳的悪であるとしてフランス新古典派がよってたつ折衷主義の立場をとっていた。 1871年のドイツ刑法典を参考にし、ドイツの近代学派が主張した新しい刑事政策的思想を取り入れた現行刑法が1907年に成立すると、新派の牧野英一は、独自の法律進化論の立場から、刑法は旧派刑法理論から新派刑法理論に進化していくものであると主張し、現行刑法の成立こそ新派の勝利の証であるとして凱歌をあげた。
安藤 林左衛門(あんどう りんざえもん、1867年12月19… 安藤 林左衛門(あんどう りんざえもん、1867年12月19日(文久2年10月28日) - 1932年(昭和7年)12月25日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(5期)。 陸奥国黒川郡明石村(のち陸前国黒川郡明石村→宮城県黒川郡明石村→富谷村→富谷町、現・富谷市)出身。黒川郡西成田村(のち黒川郡富谷村→富谷町、現・富谷市)の安藤家の養嗣子となる。地押総代を経て、1889年(明治22年)町村制が施行され、富谷村が発足すると村会議員に選ばれた。1898年(明治31年)富谷村長に就任した。一回目の村長は1914年(大正3年)まで務め、この間、黒川郡会議員、信用組合長、耕地整理組合長を務めた。村長退任後は再び郡会議員、同参事員、耕地整理組合長、学務委員、農会総代議員、同評議員を務めた。