平田 博則(ひらた ひろのり、1926年(大正15年)6月2… 平田 博則(ひらた ひろのり、1926年(大正15年)6月20日 - 2024年(令和6年)2月11日)は、日本の数学者、昭和薬科大学名誉教授。囲碁のアマチュア強豪として知られる。アマ四強 (囲碁)と呼ばれる一人。福岡県出身、東京都福生市在住。 福岡県大刀洗生まれ。小学2年の時に一家で上京し、荒川区その後大田区蒲田に移って本屋を始め、囲碁好きの父の影響で碁を覚えた。大森の私立東京中学校に通ううちに囲碁に熱中し、増淵辰子門下の吉原一郎準棋士に指導を受けて二年ほどで二子に上達、15歳の時に増淵辰子の紹介で日本棋院院生となる。1942年の入段試験で岩田正男(岩田達明)らとともに初段を認められるが、戦争のために囲碁を打つ状況ではなかった。
浦田 勝(うらた まさる、1925年6月20日 - 2026… 浦田 勝(うらた まさる、1925年6月20日 - 2026年3月5日)は、日本の政治家。元参議院議員(2期)。元熊本県議会議員(6期)。田中派。
濱尾 実(はまお みのる、1925年6月20日 - 2006… 濱尾 実(はまお みのる、1925年6月20日 - 2006年10月25日)は、日本の侍従、皇室解説者、作家、教育者。子爵。東宮侍従や東宮傅育官を務めた。作家としては浜尾 実(読み同じ、新字体)の名義で著書を多く残した。 東京大学工学部応用化学科卒業。熱心なカトリック信者で、1946年(昭和21年)12月21日に東京の世田谷教会で受洗した。洗礼名はセバスチアノ。 1945年(昭和20年)に兄・誠が戦死すると、爵位を継いで子爵となった。1951年(昭和26年)に東宮傅育官として皇太子明仁親王に仕え、その後東宮侍従となってからは浩宮徳仁親王・礼宮文仁親王兄弟の幼少時の教育に当たった。多忙な皇太子夫妻に代わって、親王の学校行事・面談に出席することもあった。
青木 正夫(あおき まさお、1924年6月20日 - 200… 青木 正夫(あおき まさお、1924年6月20日 - 2007年8月7日)は、日本の建築学者、建築家。九州大学名誉教授。 1924年(大正13年)6月20日、山口県都濃郡富田町で生まれた。生家は裕福な地主であった。1932年に徳山中学を卒業し、同年4月に旧制広島高等学校へ入学。1934年9月、東京帝国大学第一工学部建築学科へ進学。大学では吉武泰水に師事。1948年3月に東京大学を卒業し、その際には辰野金吾賞を受賞。その後は同大学に進み、1953年3月に特別研究生前後期課程を満期退学。 1953年8月に、東北大学工学部助手に就任。翌1954年4月に講師昇格。九州大学に建築学科が新設されることとなり、1956年9月より九州大学工学部助教授となった。
大木 正興(おおき まさおき、1924年6月20日 - 19… 大木 正興(おおき まさおき、1924年6月20日 - 1983年6月10日)は、日本の音楽評論家。 東京府または千葉県出身。1947年、東京帝国大学文学部美学科卒業。1951年、来日したヴァイオリニスト・ユーディ・メニューインの批評でデビュー。『音楽芸術』「東京新聞」「毎日新聞」で演奏批評を担当し、ラジオ・テレビの音楽番組の解説を務めた。跡見学園女子大学教授。子も音楽批評家の大木正純(1945- )。
広島 清美(ひろしま きよみ、1923年6月20日 - 没年… 広島 清美(ひろしま きよみ、1923年6月20日 - 没年不明)は、青森県五所川原町(現:五所川原市)出身の元プロ野球選手(投手)。 青森県立五所川原農林高等学校から1942年に大和軍へ入団。8試合に登板し、完投を2度したものの0勝4敗に終わった。 翌1943年まで在籍し、この年は3試合の登板に留まった。5月23日の朝日軍戦では3回から4点ビハインドの場面で登板し5イニング2失点だったが、味方が7回に一挙7点を挙げ(広島自身も1打点をマーク)最後は片山栄次のリリーフを受けて唯一の勝利を記録した。 2025年時点において、五所川原出身で唯一のプロ野球選手である。
鈴木 清三(すずき せいぞう、1922年6月20日 - 20… 鈴木 清三(すずき せいぞう、1922年6月20日 - 2008年1月12日)は、日本のオーボエ奏者。 北海道札幌市出身。父親は清元高輪派の名匠:清元清美太夫。 1942年、東京音楽学校(現・東京藝術大学)在学中に、満州国建国10周年奉祝使節団として東京音楽学校によって組織されたオーケストラに参加し、首都・新京その他で演奏に加わった。1944年、東京音楽学校を学徒出陣で繰上げ卒業。海軍航空隊で終戦を迎えた。卒業演奏はグロヴレーズの「サラバンドとアレグロ」(1943年末の報国演奏会)で、ピアノ伴奏を中田一次が務めた。 復員後、研究科に復学、修了後は東京フィルハーモニー交響楽団、NHKサロン・アンサンブル、日本フィルハーモニー交響楽団(創立メンバー)を経て、1972年に新日本フィルハーモニー交響楽団の結成に参画し、首席奏者、運営委員長、楽団長、名誉首席奏者を歴任、1992年のリサイタルまで長く演奏活動を続けた。
内田 正泰(うちだ まさやす、1922年6月20日 - 20… 内田 正泰(うちだ まさやす、1922年6月20日 - 2019年9月12日)は、日本の貼り絵画家。神奈川県横須賀市出身。 洋紙の特性を最大限に活かし、100色以上もの色彩を駆使して、日本の四季折々の風景や郷愁を誘う情景を作り出す。スケッチをせず、心に刻み込まれた風景を直接キャンバスに表現するスタイルで貼り絵を作成した。 作品は永谷園の「あさげ」のパッケージや、「青雲(日本香堂)」のCM、そして坂本冬美『ふるさとの空へ』(2018年)や、南佳孝&杉山清貴『愛を歌おう』(2020年)のアルバムジャケットなどに採用されている。南は「たまたま見つけた夏の田舎の風景画の、はり絵とは思えない繊細さに心を奪われた」と作品から受けた印象を述べている。
三ヶ月 章(みかづき あきら、1921年〈大正10年〉6月2… 三ヶ月 章(みかづき あきら、1921年〈大正10年〉6月20日 - 2010年〈平成22年〉11月14日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は法学博士(東京大学・論文博士・1962年)(学位論文「強制執行と滞納処分の統一的理解」)。法務大臣(第56代)。東京大学名誉教授。1991年日本学士院会員、2005年文化功労者、2007年文化勲章受章。弁護士(大江忠・田中豊法律事務所)。菊井維大門下。弟子に青山善充、伊藤眞、上原敏夫など。 島根県浜田市出身。家計が貧しかったため中学進学は諦め洋服屋の小僧になるつもりでいたが、東京府立第五中学校(現東京都立小石川中等教育学校)に進み、第一高等学校を経て、1942年東京帝国大学入学。
有馬 輝武(ありま てるたけ、1920年(大正9年)6月20… 有馬 輝武(ありま てるたけ、1920年(大正9年)6月20日 - 2003年(平成15年)1月10日)は、昭和期の農林技官、労働運動家、政治家、俳人。衆議院議員(3期)。俳号・明彦(あきひこ)。 後の鹿児島県西之表市出身。海軍予備学生として出征し、海軍中尉で解員(復員)した。1946年(昭和21年)明治大学商学部を卒業した。 復員後は鹿児島食糧事務所勤務で組合運動に従事し、同所の労働組合委員長となる。全食糧労働組合の副委員長に就任するため1948年農林省食糧庁に転じ、農林技官兼農林事務官に任官。その後、全食糧労働組合中央執行副委員長、同中央執行委員長、全農林労働組合中央執行副委員長、同書記長、同中央執行委員長、鹿児島地方労働組合評議会事務局長などを務めた。
戸田 憲吾(とだ けんご、1919年 <大正8年> 6月20… 戸田 憲吾(とだ けんご、1919年 <大正8年> 6月20日 - 1995年 <平成7年> 2月7日)は、日本の経営者。日本電装(現在のデンソー)社長を務めた。 愛知県出身。1941年に浜松高等工業学校電気学科を卒業し、同年4月にトヨタ自動車工業に入社。1949年12月に日本電装に転じ、1969年2月に取締役に就任し、1974年2月に常務、1978年3月に専務を経て、1981年3月に副社長に就任し、1982年3月には社長に昇格。1987年3月から会長を務めた。 1983年11月に藍綬褒章を受章。 1995年2月7日腎不全のために死去。75歳没。
高橋 晄正(たかはし こうせい、1918年6月20日 - 2… 高橋 晄正(たかはし こうせい、1918年6月20日 - 2004年11月3日)は、日本の医師。 秋田県仙北郡西木村(現仙北市)生まれ。1936年(昭和11年)旧制秋田県立角舘中學校を卒業し1941年(昭和16年)東京帝國大學医学部を卒業する。その後物療内科に入局し増山元三郎に推計学を紹介される。 漢方医学(鍼、経絡など伝統中国医学全般)を研究し、1966年(昭和41年)『漢方の認識』(NHKブックス)を出版。その後 論文「西洋医学と東洋医学-科学論の立場から-」(『保健の科学』 37(1):4-、1995年(平成7年))や著作『漢方薬Q&A』(1990年、『漢方薬は危ない』、『漢方薬は効かない』などで伝統中国医学及び漢方薬(副作用)を批判した。
迫 幸一(さこ こういち、1918年6月20日 - 2010… 迫 幸一(さこ こういち、1918年6月20日 - 2010年10月29日)は、日本の写真家。 1918年(大正7年)、広島県呉市吉浦町に生まれる。1938年(昭和13年)、広島県立広島工業学校(現・広島県立広島工業高等学校)機械科を卒業した。1945年(昭和20年)、東洋工業勤務当時に広島市内で入市被爆する。 1952年(昭和27年)、『アサヒカメラ』に年間初入選する。1954年(昭和29年)には二科展に初めて入選し、以降も連続して入選した。1955年(昭和30年)、西ドイツの「国際主観写真展」に出品。 1957年(昭和32年)、オランダ美術館の「世界写真展」に出品する。1959年(昭和34年)にはニューヨーク近代美術館に出品後、5点が同館の永久保存対象となった。
奈良 友夫(なら ともお、1917年6月20日 - )は広島… 奈良 友夫(なら ともお、1917年6月20日 - )は広島県出身の元プロ野球選手、内野手。
武田 清子(たけだ きよこ、1917年〈大正6年〉6月20日… 武田 清子(たけだ きよこ、1917年〈大正6年〉6月20日 - 2018年〈平成30年〉4月12日)は、日本の思想史学者、国際基督教大学名誉教授。本名は長 清子()。夫の長幸男は経済学者。 兵庫県生まれ。1934年神戸女学院高等部を卒業し大学部英文科へ進む。1939年に日米交換留学生として神戸女学院大学の姉妹校、会衆派のオリヴェット大学で学び、卒業後、コロンビア大学に2年在籍、つづいてユニオン神学大学院修了。武田がミシガン州のオリヴェット大学からニューヨークへ移るきっかけは、大学で指導を受けた教員ホームズ・ハートショーン(M. Holmes Hartshorne)が恩師のラインホールド・ニーバーに紹介したことにある。
佐口 透(さぐち とおる、1916年6月20日 - 2006… 佐口 透(さぐち とおる、1916年6月20日 - 2006年11月13日)は、日本の歴史学者。金沢大学名誉教授。東トルキスタンの研究で知られる。 1916年(大正5年)、石川県金沢市で生まれた。東京帝国大学で学び、卒業。 戦時期には民族研究所所員として岩村忍とともに敗戦直前の内モンゴルの西北研究所に出向。中国ムスリムの現地調査に従事した。 太平洋戦争後は富山大学助教授に就いた。1964年、学位論文『十八~十九世紀東トルキスタン社会史研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。1971年に金沢大学教授。摂南大学教授を務めた。 専門は東洋史で、モンゴル帝国から19世紀までの中央アジア、東トルキスタン、新疆のムスリム、回民の研究で知られる。
馬淵 辰郎(まぶち たつお、1916年6月20日 - 199… 馬淵 辰郎(まぶち たつお、1916年6月20日 - 1995年9月28日)は、日本の実業家。三菱石油(のちのENEOS)の社長や会長、石油連盟副会長を務めた。勲二等瑞宝章受章。 岐阜県出身。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。大学では排球部に所属し、のちに東京商科大学排球部監督も務めた。部の後輩に村井勉(元アサヒビール社長)、米倉功(元伊藤忠商事社長)、荒川和夫(元サッポロビール社長)、川勝堅二(元三和銀行頭取)などがいる。 三菱石油では経理畑を歩む。常務を経て、1978年、水島製油所原油流出事故で辞任した渡辺武夫前社長の後任として三菱石油社長に就任。約190億円の累積赤字を一掃したが、健康問題もあり、1983年に社長を退任し会長に就任。
舘野 万吉(たての まんきち、1915年6月20日 - 20… 舘野 万吉(たての まんきち、1915年6月20日 - 2015年11月18日)は、日本の実業家。元日本製鋼所社長。 旧制栃木県立栃木中学校を経て、1933年に東京帝国大学工学部卒業。1940年、日本製鋼所入社、大日本帝國海軍呉工場(広島)で戦艦大和、戦艦武蔵等の建造に従事した。1979年同社社長就任(のち相談役)。横浜カントリークラブ名誉理事。 1977年に藍綬褒章、1987年に勲二等瑞宝章を受章。 2015年11月18日、老衰のため死去。100歳没。
深谷 義治(ふかたに よしはる、1915年6月20日 - 2… 深谷 義治(ふかたに よしはる、1915年6月20日 - 2015年4月21日)は、日本の陸軍軍人。 1915年6月20日、島根県大田市の農家に長男として生まれる。 1937年、浜田歩兵第21連隊に入隊。訓練後、中国の戦場で戦闘中に負傷。1939年に憲兵志願試験に合格。日本憲兵教習隊の第二中隊に配属され、中国の言語・歴史・地理などを学び、優秀な成績で卒業。1940年末、極秘の特殊任務を受けて中国人を装い、諜報員として活動を始める。敵国紙幣を偽造して貨幣市場を混乱させるなどの任務を成功させ、27歳で瑞宝章を受けた。終戦後も任務続行という命令を受け、中国に13年間潜伏。1958年にスパイ容疑で中国当局に逮捕され、上海市第一看守所(拘置所)と上海市監獄(刑務所)に合わせて20年4ヶ月収監。
谷口 陸男(たにぐち りくお、1914年6月20日 - 19… 谷口 陸男(たにぐち りくお、1914年6月20日 - 1988年10月21日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。 1914年、三重県生まれ。東京帝国大学文学部英文科を卒業。 神戸大学助教授ののち、東京大学教養学部教授を務めた。1975年に東京大学を定年退官し、その後は大谷女子大学、中京大学教授として教鞭をとった。1987年、東京大学名誉教授となった。 英米文学のうち、ロスト・ジェネレーションの米国作家たちを主な研究対象とした。ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーなどの翻訳を手掛けた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
島本 虎三(しまもと とらぞう、1914年6月20日 - 1… 島本 虎三(しまもと とらぞう、1914年6月20日 - 1989年11月10日)は、日本の政治家。 日本社会党に所属し中選挙区時代の衆議院北海道第1区で5度当選を果たしたほか、仁木町長を2期務めた。 船頭の長男として北海道高島郡高島町(現小樽市)に生まれた。高島小学校の高等科を卒業後、地元の水産試験場に勤めながら札幌逓信講習所の受験勉強を行い1928年に合格した。 札幌逓信講習所を卒業し1929年から札幌郵便局電信課、1934年から小樽郵便局電信課に勤務、その後札幌逓信講習所の高等科に入所、1942年には逓信官吏練習所に合格したが陸軍に尉官待遇で徴用されてフィリピンのマニラに派遣され、そこで1年半余り過ごした後、ネグロス島に送られ終戦を迎え、1945年12月に復員した。
竹内 啓治(たけうち けいじ、1913年〈大正2年〉6月20… 竹内 啓治(たけうち けいじ、1913年〈大正2年〉6月20日 - 1997年〈平成9年〉3月2日)は、日本の実業家。住金鋼材工業(株)(現・日鉄建材)社長、コスモ経済企画研究所会長、藤島町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。
布施 津三(ふせ しんぞう、1912年6月20日 - 200… 布施 津三(ふせ しんぞう、1912年6月20日 - 2004年12月8日)は、日本の経営者。北越製紙社長、会長を務めた。 新潟県出身。1933年に長岡高等工業学校機械工学科を卒業し、同年に北越製紙に入社。1963年12月に取締役に就任し、1971年12月に常務、1973年12月に専務を経て、1977年7月に社長に就任。1983年7月に会長に就任し、1984年5月には越智泰二郎社長の体調不良により、再び社長に就任。1987年7月に会長を経て、1989年6月には相談役に退いた。 1941年9月に勲五等瑞宝章を受章し、1975年10月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2004年12月8日急性呼吸不全のために死去。
野坂 一郎(のざか いちろう、明治45年(1912年)6月2… 野坂 一郎(のざか いちろう、明治45年(1912年)6月20日 - 没年不明)は、日本の無線技師、実業家、作家。元ラジオ山陰(現山陰放送)常務。 鳥取県米子市長・野坂康夫の伯父。洋食のレストランおよびレコード、楽器店を営んだ野坂康久(“十字屋”経営主)の長男。 鳥取県西伯郡米子町(現米子市)出身。康久の長男。 昭和7年(1932年)無線電信講習所本科卒業。大阪商船外国航路通信士。上海華中電気通信股份有限公司日立造船各勤務を経て、昭和29年(1954年)3月ラジオ山陰(現山陰放送)に弟陞三と勤める。 その間昭和13年(1938年)サンデー毎日大衆文芸第一席に当選。週刊朝日小説に三席入賞以後作品約十五発表。
鈴木 桂二(すずき けいじ、1911年6月20日 - 200… 鈴木 桂二(すずき けいじ、1911年6月20日 - 2003年2月2日)は、日本の研究者。工学博士(東京大学、1955年)。専門はテレビジョン工学。映画監督の木下惠介はおじの孫にあたる。 1911年、静岡県浜松市生まれ。1932年、浜松高等工業学校(現:静岡大学工学部)電気学科を卒業。同年4月、日本放送協会名古屋放送局に採用され、同局技術部に勤務する。1937年から1967年の停年まで、放送技術研究所に所属した。 1951年、東名阪マイクロTV中継回線建設プロジェクトを指導した。1960年、ローマオリンピックにおいて、初のTV国際中継を実現した。1964年、東京オリンピックに際し、同年打ち上げられたシンコム3号を利用したアメリカ本土へのTV中継を実現し、NHK会長賞、郵政大臣賞、テレビジョン学会丹羽高柳賞功績賞、IEEEツボリキン賞、紫綬褒章を受ける。
田杉 競(たすぎ きそう、1909年 <明治42年> 6月2… 田杉 競(たすぎ きそう、1909年 <明治42年> 6月20日 - 1989年 <平成元年> 11月13日)は、日本の経営学者。京都大学名誉教授。位階は従三位。勲二等瑞宝章。 長野県木曽郡楢川村(現塩尻市)出身。旧制京都府立第一中学、旧制第三高等学校を経て、1932年京都帝国大学経済学部卒業。1938年京都帝国大学助手、1939年講師、1946年助教授、1949年京都大学経済学部教授。1958年経済学部長、1972年定年退官、名誉教授。同年より京都学園大学教授を務め、1981年同大学学長に就任。1983年からは開学に尽力した京都文化短期大学学長も兼ねた。1987年「下請制工業論 經濟發展過程における中小工業」で、経済学博士(京都大学)。
水上 武(みなかみ たけし、1909年6月20日 - 198… 水上 武(みなかみ たけし、1909年6月20日 - 1985年9月8日)は、日本の火山学者。理学博士。東京大学名誉教授。 富山県高岡市出身。高岡信用金庫理事長を務めた水上良作の子として生まれる。東京帝国大学理学部地震学科を1934年に卒業。火山噴火予知研究等において世界的な業績を残した火山学者であり、火山物理学の権威である。中でも、東京大学地震研究所の浅間火山観測所に勤め始めて以来、浅間山の噴火予知の業績は世界的に知られる。1967年4月より東京大学地震研究所の所長を務めたが、東大紛争のため翌年に辞任。1981年日本学士院会員となった。
山口 末吉(やまぐち すえきち、1907年6月20日 - 2… 山口 末吉(やまぐち すえきち、1907年6月20日 - 2003年1月27日)は、日本の経営者。日本製粉社長を務めた。北海道出身。 1929年に北海道帝国大学農学部農業実科を卒業し、同年に日本製粉に入社した。1938年に取締役に就任し、1961年に常務、1970年に専務、1972年に副社長を経て、1974年から1979年までに社長を務めた。 2003年1月27日肺炎のために死去。95歳没。
實方 正雄(さねかた まさお、1905年6月20日 - 19… 實方 正雄(さねかた まさお、1905年6月20日 - 1986年10月10日)は、日本の法学者。専門は、商法・国際私法。学位は、法学博士(東北帝国大学)。大阪市立大学名誉教授、小樽商科大学名誉教授。千葉県生まれ。「実方正雄」とも表記される この他、関西学院大学法学部兼任講師(1946年 - 1966年)や北海学園大学法学部非常勤講師(1964年 - 1967年)、札幌商科大学商学部非常勤講師(1978年 - 1981年)も務めた。 子に北海道大学名誉教授の實方謙二がいる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
土川 元夫(つちかわ もとお、1903年〈明治36年〉6月2… 土川 元夫(つちかわ もとお、1903年〈明治36年〉6月20日 - 1974年〈昭和49年〉1月27日)は日本の実業家。名古屋鉄道社長など歴任。勲一等瑞宝章受章。 1903年6月、愛知県中島郡一宮町(現在の一宮市)に生まれる。旧制愛知県第一中学校(現在の愛知県立旭丘高等学校)・第四高等学校(現在の金沢大学)を経て、1928年京都帝国大学を卒業し、(旧)名古屋鉄道(後に名岐鉄道、愛知電気鉄道との合併を経て(現)名古屋鉄道となる)へ入社。1945年11月には運輸部長、同年12月に運輸部長の職責のまま名鉄労組の初代執行委員長に就任。 1946年5月同社取締役、1949年6月常務取締役、1953年2月専務取締役、1955年1月取締役副社長を経て、1961年12月2日取締役社長に就任。
伏見 朝子(ふしみ ときこ、1902年〈明治35年〉6月20… 伏見 朝子(ふしみ ときこ、1902年〈明治35年〉6月20日 - 1971年〈昭和46年〉4月3日)は、日本の旧皇族。元華族。博義王の妃。一条実輝公爵令嬢。母は、細川護久侯爵令嬢・悦子。旧名は、一条 朝子(いちじょう ときこ)。皇籍離脱前の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇族時代の名は、博義王妃 朝子(ひろよしおうひ ときこ)であった。 香淳皇后とは女子学習院の同級生で、梨本宮家の方子女王と並んで昭和天皇のお妃候補の一人であったとされる。後に学習院の同窓会組織「常磐会」の会長も務める。1919年(大正8年)12月23日に、博義王と結婚、翌年北海道を訪れている。1男3女をもうける。関東大震災時は皇族による被災者の慰問活動として、1923年(大正12年)9月23日に新宿区(当時の淀橋町)の被災児童避難所を慰問・視察した。
袖山 喜久雄(そでやま きくお、1902年6月20日 - 1… 袖山 喜久雄(そでやま きくお、1902年6月20日 - 1960年1月31日)は、日本の経営者。東洋レーヨン(現在の東レ)社長を務めた。 茨城県出身。1926年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に東洋レーヨンに入社。 1945年に取締役に就任し、1947年に常務を経て、1948年に社長に就任。 1960年1月31日、胃癌のために死去。57歳没。墓所は多磨霊園。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
岡田 美子(おかだ よしこ、1902年(明治35年)6月20… 岡田 美子(おかだ よしこ、1902年(明治35年)6月20日 - 1966年(昭和41年)4月18日)は小説家・劇作家。 国府町(現・鳥取市)に嫁いだ後、岸田國士に師事するなどしながら、戯曲や小説を発表した。 鳥取県西伯郡御来屋村(現在の大山町)に生まれる。1919年(大正8年)、姉清子が医師岡田道壽と結婚する。1922年(大正11年)、鳥取県立米子高等女子高卒業。庄内小学校の代用教員となる。姉、清子が死去。1923年(大正12年)、教員を退職する。義兄岡田道壽と結婚する。1929年(昭和4年)、姪の伊良子不二子が睡眠薬で自殺する。1932年(昭和7年)、私淑していた岸田國士の元に上京し、師事する。
鳥濱 トメ(とりはま トメ、1902年6月20日 - 199… 鳥濱 トメ(とりはま トメ、1902年6月20日 - 1992年4月22日)は、鹿児島県の食堂経営者。 川辺郡知覧町(現在の南九州市知覧町郡104)で「富屋食堂」を営み、多くの特攻隊員の面倒を見た。 名前の読みは戸籍上「トメ」であるが、相星雅子の聞き取りによるとこの「トメ」を嫌って人には「トミ」と呼ばせており、これが富屋食堂の名前の元になっている。また1945年に富屋食堂を取り上げた新聞記事にも「おとみさん」という名で掲載されている。 1902年(明治35年)、川辺郡西南方村坊下浜(現在の南さつま市坊津町坊)に生まれた。18歳で旧家出身の鳥濱義勇と結婚する。 1929年(昭和4年)にトメが27歳の時に富屋食堂を開業。
伊藤 顕道(伊藤 顯道、いとう あきみち / けんどう、19… 伊藤 顕道(伊藤 顯道、いとう あきみち / けんどう、1900年〈明治33年〉6月20日 - 1982年〈昭和57年〉4月26日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。柔道八段。 群馬県前橋市向町(現住吉町)で、食品製造業・伊藤勝次郎、かめの三男として生まれる。1915年(大正4年)前橋久留万高等小学校を卒業、同年関口孝五郎の弘道館に入門し柔道を習う。1920年(大正9年)群馬師範学校本科一部を卒業し、久留万高等小学校訓導に就任。その後、東京高等師範学校に入学し、1924年(大正13年)同校本科を卒業した。 1924年、神奈川県立湘南中学校(現神奈川県立湘南高等学校)教諭に就任し、横浜高等商業学校嘱託を務めた。
笹本 一雄(ささもと かずお、1898年〈明治31年〉6月2… 笹本 一雄(ささもと かずお、1898年〈明治31年〉6月20日 - 1964年〈昭和39年〉6月11日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 群馬県新田郡太田町(現・太田市)もしくは邑楽郡館林町(現・館林市)で、警視庁職員・笹本一郎、うらの四男として生まれる。群馬県立館林中学校(現・群馬県立館林高等学校)を経て明治大学法科で学び、卒業。 内閣調査事務嘱託、軍需省嘱託、商工省事務嘱託などを歴任。その後、朝鮮総督府顧問に就任。帰国して、商工省総務局嘱託、帝国新報社経済部記者となり、東洋電線取締役、東亜窯業取締役などを務めた。また、中小企業経営者を対象として大政翼賛会により組織された新産業連盟の会長に就任した。
山本 善雄(やまもと よしお、1898年(明治31年)6月2… 山本 善雄(やまもと よしお、1898年(明治31年)6月20日 - 1978年(昭和53年)11月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。山形県鶴岡市出身。 旧制山形県立荘内中学校より海軍兵学校第47期入校。山本は海軍大学校甲種課程卒業後は、海軍中央部に在職することが多かったいわゆる赤レンガ組士官であり、太平洋戦争中の軍政の中枢にあった人物である。最後の軍務局長を務めた後、公職追放を経て、海上自衛隊の前身、海上警備隊建設準備委員会(Y委員会)主宰を務めた。
井上 康文(いのうえ やすぶみ、1897年6月20日 - 1… 井上 康文(いのうえ やすぶみ、1897年6月20日 - 1973年4月18日)は、日本の詩人、作家、新聞記者。本名・康治。日高駿一の筆名も用いた。 生涯で3回結婚した。最後の妻、井上淑子(きよこ)もまた詩人であった。 神奈川県小田原市出身。東京薬学校(現東京薬科大学)を卒業後、東京市役所の技師や雑誌『新小説』の記者などを務めた。1918年、同郷の福田正夫や白鳥省吾らと共に雑誌『民衆』を創刊して注目を集める。大正デモクラシーの時流の中で、民衆の生活を口語体で平易に表現する「民衆詩派」の一翼を担った。『民衆』は毎回300部程度、17号まで発行された。 さらに井上は詩人団体「詩話会」に入会。詩壇での地位を確立する一方、北原白秋らは「詩ではなく散文的である」として民衆詩派に反発した。
水野 伊太郎(みずの いたろう、1896年(明治29年)6月… 水野 伊太郎(みずの いたろう、1896年(明治29年)6月20日 - 1964年(昭和39年)3月26日)は、日本の外交官。特命全権公使。 静岡県出身。1919年(大正8年)、高等試験外交科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部法律科を卒業した。外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として外務省に入省し、大使館三等書記官、外務事務官、公使館二等書記官、同一等書記官を歴任し、その間にベルギー、フランス、ルーマニア、ユーゴスラビアに勤務した。1935年(昭和10年)、外務書記官・調査部第二課長となり、通商局第一課長、同第三課長兼第四課長などを経て、1940年(昭和15年)に通商局長に就任した。
森下 國雄(もりした くにお、1896年6月20日 - 19… 森下 國雄(もりした くにお、1896年6月20日 - 1975年5月7日)は、日本の政治家。位階は正三位。衆議院議員(10期)。 栃木県塩谷郡阿久津村(現高根沢町)出身、早稲田大学政治経済学部卒業。コロンビア大学に留学する。外務参与官、外務次官、特派大使を歴任。1936年の総選挙で立憲民政党から立候補して初当選。終戦後公職追放された。1950年追放解除。追放解除後の1952年に自由党から政界復帰。その後、衆議院外務、建設各委員長、自民党代議士会長や道路調査会長、国土開発調査会長などを務めた。1972年の総選挙で落選した。 1975年5月7日、死去。78歳没。同月9日、特旨を以て位四級を追陞され、死没日付で正五位から正三位に叙され、銀杯一組を賜った。
菊地 幸作(きくち こうさく、1896年(明治29年)6月2… 菊地 幸作(きくち こうさく、1896年(明治29年)6月20日 - 1984年(昭和59年)1月2日)は、日本の政治家。栃木県真岡市長(2期)。 真岡市出身。1912年、芳賀農林学校卒業。1920年、栃木県庁に入る。県庁内では秘書、商工各課長、知事官房主事などを務め、東京都繊維配給に転じ、経理総務各部長を歴任し、その後は栃木県監査委員、県人事委員会委員長などを務めた。1954年、合併による真岡町の町長選挙に立候補し、当選する。真岡町は同年10月に市制施行し、真岡市長となった。市長を2期務め、1967年に市長を退任した。ほか、栃木県土地改良事業団体連合会会長、穴川土地改良区連合会理事長を歴任した。
菅野 和太郎(かんの わたろう、1895年6月20日 - 1… 菅野 和太郎(かんの わたろう、1895年6月20日 - 1976年7月6日)は、日本の政治家。大阪経済大学教授。
竹鶴 政孝(たけつる まさたか、1894年6月20日 - 1… 竹鶴 政孝(たけつる まさたか、1894年6月20日 - 1979年8月29日)は、広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)出身の日本の実業家。ウイスキー製造者、技術者。会社経営者。ニッカウヰスキーの創業者であり、サントリーウイスキーの直接的始祖、マルスウイスキーの間接的始祖でもある。これらの業績から「日本のウイスキーの父」と呼ばれる。 竹鶴という苗字は、家(現在の竹鶴酒造)の裏にあった竹林に鶴が巣を作ったことから由来している。ニッカウヰスキーが親会社(アサヒビール)に機能子会社化されるまで大株主であった元オーナー一族の竹鶴威は養子(実の甥)にあたる。 1923年、鳥井信治郎に招かれ寿屋(現在のサントリー)山崎工場(現 山崎蒸溜所)初代工場長として、日本初の本格スコッチ・ウイスキー製造を指揮。
岡部 弥太郎(岡部 彌太郎、おかべ やたろう、1894年6月… 岡部 弥太郎(岡部 彌太郎、おかべ やたろう、1894年6月20日 - 1967年3月14日)は、昭和期に活躍した日本の心理学者、教育者。東京大学教授、立教大学教授、国際基督教大学教養学部教授、上智大学文学部教授。幼少教育の先駆者であり、教育心理学の分野で多くの業績をあげた。 長野県北佐久郡春日村(現・佐久市)出身。1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。同年、同大学助手となり、女子英学塾(現・津田塾大学)、立教大学の各講師を兼務する。 1930年(昭和5年)、東京大学助手を辞め、立教大学教授に就任。教育学、教育史を講じ、心理学演習を担当した。1935年(昭和10年)からは、東京大学に戻り助教授となり、1948年(昭和23年)に東大教授となった。
関 義長(せき よしなが、1892年〈明治25年〉6月20日… 関 義長(せき よしなが、1892年〈明治25年〉6月20日 - 1970年〈昭和45年〉7月12日)は、日本の技術者、実業家。三菱電機会長を務めた。 徳島県知事、山形県知事等を務めた関義臣男爵の次男(庶子)として生まれる。貴族院議員関義寿男爵は異母兄。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
16代 式守 伊之助(じゅうろくだい しきもり いのすけ、1… 16代 式守 伊之助(じゅうろくだい しきもり いのすけ、1892年〈明治25年〉6月20日 - 1948年〈昭和23年〉12月3日)は、大相撲の立行司。本名は刀根亀吉、山形県山形市出身。 伊勢ノ海部屋所属、のち出羽海部屋。9代式守伊之助の弟子(のち養子)。わずか6歳で初土俵。松翁20代木村庄之助、21代木村庄之助の弟弟子。 出世は兄弟子の21代庄之助よりも早かったが、行司引退も45歳と早かった。その後、年寄・立田川を襲名して理事まで昇進した。1948年胃癌のため56歳で死去。 22代木村庄之助著『二十二代庄之助一代記』によれば、頭脳明晰で事務能力が素晴らしく、話のわかる人物だったが、太っていて行司にはやや不向きであったようである。
城島 高次(じょうじま たかつぐ、1890年(明治23年)6… 城島 高次(じょうじま たかつぐ、1890年(明治23年)6月20日 - 1967年(昭和42年)10月9日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 佐賀県出身。佐賀中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第24期)を受験し、双方に合格している。1912年(明治45年)7月、 海軍兵学校(40期)を卒業し、海軍大学校航海科で学んだ。 「満州」分隊長、運送艦「高崎」・敷設艦「勝力」・「若宮」・給油艦「尻矢」・「龍田」の各航海長、第1遣外艦隊付、「名取」「阿武隈」「羽黒」「加賀」の各航海長などを歴任。 さらに、「能登呂」「長良」「青葉」「霧島」の各副長、給油艦「鶴見」・「鳳翔」の各艦長、呉海軍航空隊司令、「翔鶴」艤装員長・初代艦長として真珠湾攻撃、ラバウル攻略、インド洋作戦、珊瑚海海戦に参加。
金子 彦二郎(かねこ ひこじろう、1889年6月20日 - … 金子 彦二郎(かねこ ひこじろう、1889年6月20日 - 1958年5月27日)は、日本の国文学者。 新潟県西蒲原郡岩室村(現在の新潟市西蒲区)出身。東京高等師範学校卒。帝国女子専門学校(のち相模女子大学)国文科主任、1945年「平安時代文学と白氏文集 句題和歌千載佳句研究篇」で帝国学士院賞受賞。1946年「平安時代文学と白氏文集」で慶應義塾大学文学博士。女子学習院教授、東洋大学教授。女子教育の実践者として研究されている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
河合 逸治(かわい いつじ、1886年〈明治19年〉6月20… 河合 逸治(かわい いつじ、1886年〈明治19年〉6月20日 - 1964年〈昭和39年〉3月13日)は、大正 - 昭和期の英語学者、教育者。三大予備校の一つ、河合塾の創始者として知られる。第五高等学校、名古屋高等商業学校および名城大学・名古屋商科大学教授。 静岡県引佐郡細江町(現・浜松市浜名区)出身。第七高等学校造士館、東京帝大英文科卒後、大正3年に第五高等学校の教授となる。欧米留学からの帰国後は、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)教授の職に就く。 1933年には名古屋市昭和区の名古屋市立名古屋商業学校(現在は向陽高等学校が立地)前にあった自宅に「河合英学塾」を開設。1937年になり、「河合塾」へと改称した。
舞 伝男(傳男、まい でんお、1885年(明治18年)6月2… 舞 伝男(傳男、まい でんお、1885年(明治18年)6月20日 - 1974年(昭和49年)10月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 大分県出身。農業・舞多十郎の息子として生まれる。竹田中学校(現大分県立竹田高等学校)を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第47連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業し歩兵第47連隊中隊長に就任。 以後、参謀本部付勤務、参謀本部員、陸大教官兼参謀本部員、イギリス出張などを経て、1931年(昭和6年)8月、歩兵大佐に昇進し陸大教官に就任。 1933年(昭和8年)3月、歩兵第9連隊長に就任し、第1師団参謀長を経て、1936年(昭和11年)3月、陸軍少将に進級し第1師団司令部付となる。