西 律(にし りつ、1909年〈明治42年〉8月20日 - … 西 律(にし りつ、1909年〈明治42年〉8月20日 - 1983年〈昭和58年〉4月30日)は和歌山県の政治家・郷土史家。和歌山県東牟婁郡四村の村長、本宮町町議会議員をつとめた。政治家の職を退いた後、熊野九十九王子の調査に従事した。 西は1909年(明治42年)8月20日、和歌山県東牟婁郡四村(和歌山県田辺市本宮町)に生まれた。新宮中学校を中退した後、家業の林業に一時従事したが、陸軍に入隊し、郷里を出た。第二次大戦中は満州で軍役に就いたが、敗戦とともにソ連に抑留され、1949年(昭和24年)に帰国した。帰国後、1949年から四村の村長に就任し、水害にあった村の復旧など、政治家としての手腕を振るったが、1951年(昭和31年)に四村ほかいくつかの町村が合併して本宮町が成立する際の町長選で落選した。
三原 朝雄(みはら あさお、1909年8月20日 - 200… 三原 朝雄(みはら あさお、1909年8月20日 - 2001年3月7日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲一等旭日大綬章(1986年4月)。 衆議院議員(8期)、文部大臣、防衛庁長官、総理府総務長官を歴任した。福原学園元理事。長男は元北九州市議会議員の三原征彦、次男は元衆議院議員の三原朝彦。陸軍軍人の山縣初男は岳父にあたる。 福岡県にて三原幸太郎の次男として生まれる。生家は貧しい農家だった。1927年に旧制東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)卒業後、上京して明治大学専門部法科に入学する。明大在学中に愛国学生連盟を組織して学生運動を展開する傍ら、当時の著名人を訪問し教えを請うた。この頃から「貧乏からの解放」を終生の政治理念とし、この理念を共有する学生運動関係者、二・二六事件の青年将校、右翼関係者と最後まで付き合いがあった(三原は「右翼・保守思想とは、一言でいえば“優しさと度量”」と考えていた)。
市之瀬 廣太(いちのせ ひろた、1909年8月20日 - 1… 市之瀬 廣太(いちのせ ひろた、1909年8月20日 - 1995年2月23日)は日本の芸術家。 岐阜県土岐郡土岐村市原(現瑞浪市)の雛人形づくりの家に生まれる。 小学校5年生の時に、江戸川乱歩の小説のとある美しい彫刻のシーンが強烈に印象に残り、自分もいつしかあのような作品が作ってみたいと思う。 18歳から本格的に彫刻を習い始め、翌年、東京の雨宮治郎(日本芸術院会員)の門下生となる。 「ハンティングの自刻像」で構造社展初入選。 1933年(昭和8年)「キネ子の顔」で構造社展最高構造賞、1962年(昭和37年)「破る」で日展菊華賞。 1968(昭和43年)名古屋芸術大学教授となる。 その後、数々の賞を受賞。
加藤 栄三(かとう えいぞう、1906年(明治39年)8月2… 加藤 栄三(かとう えいぞう、1906年(明治39年)8月20日 - 1972年(昭和47年)5月24日)は日本画家。岐阜県岐阜市出身。弟は日本画家加藤東一。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
末松 保和(すえまつ やすかず、1904年(明治37年)8月… 末松 保和(すえまつ やすかず、1904年(明治37年)8月20日 - 1992年(平成4年)4月10日)は、日本の歴史学者。学習院大学名誉教授。文学博士。専門は朝鮮史。 1904年(明治37年)、福岡県田川郡弓削田村(のち田川市)生まれ。福岡県立小倉中学校・佐賀高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1927年に卒業した。 卒業後は朝鮮総督府朝鮮史編修会に修史官として勤務。『朝鮮史』などの編修事業に従事し、1933年から京城帝国大学法文学部助教授を経て、1939年に同教授に昇格した。 敗戦にともない引上げ帰国。1947年に学習院教授に招聘され、1949年学習院大学開学とともに文政学部教授に就いた。
澤田 敬之助(さわだ けいのすけ、1904年8月20日 - … 澤田 敬之助(さわだ けいのすけ、1904年8月20日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。新漢字表記沢田 敬之助。本名内山 守(うちやま まもる)。初期芸名小澤 茗一郎(おざわ みょういちろう、新漢字表記小沢 茗一郎)、澤田 敬之介(沢田 敬之介)、澤田 慶之助(沢田 慶之助)といった表記に揺れがある。日本映画データベースにおける「沢村敬之助」は誤りである。 1904年(明治37年)8月20日、鹿児島県鹿児島市に生まれる。 旧制・鹿児島商業学校(現在の鹿児島市立鹿児島商業高等学校)を卒業後、東京に移り、満19歳となる1923年(大正12年)8月、山田隆也、岡田嘉子らによる新劇の劇団である舞台協会に参加、舞台俳優としてデビューする。
矢田 不二郎(やだ ふじろう、1902年(明治35年)8月2… 矢田 不二郎(やだ ふじろう、1902年(明治35年)8月20日 - 1981年(昭和56年)1月29日)は、大和生命の5代目取締役社長。実妹は小説家の矢田津世子。妹の人生、文学に大きな影響を与えた。 秋田県南秋田郡五城目町出身。五城目町助役の父鉄三郎、母チヱ夫妻の次男として出生。秋田中学に進学したが父の退職と秋田市転居、1916年の上京にともなって明治中学(現・明治大学付属明治高等学校・中学校)に転校した。その後、第一高等学校から1923年には東京帝国大学法学部法律学科へ進学した。 大学卒業後、1926年大和生命の前身・日本徴兵保険株式会社に就職。翌年から1932年まで名古屋支店に勤務。名古屋の同人誌「第一文学」に妹津世子とともに加入。
平原 敬作(ひらはら けいさく、1902年8月20日 - 1… 平原 敬作(ひらはら けいさく、1902年8月20日 - 1947年4月28日)は日本の土木技師。 東京市職員として、同市公園課勤務時代、恩賜上野動物園の猿山や、伊豆大島の黒潮小屋(現・椿資料館)、1941年には西郷隆盛の甥、従徳の渋谷邸を設計。 新潟県西蒲原郡角田村大字四ツ郷屋で生まれる。 平原家は宝暦事件・明和事件で八丈島へ流罪(三宅島にて病死)となった竹内式部の子供の竹内主計が訴追を逃れ、平原家の人別に入り名前を変えたと伝えられているが、菩提寺の火事により資料が焼失してしまった為、詳細は不明。 早稲田大学理工学部建築科卒業。以後東京市公園課に勤務。戦時中は技師であったことにより徴兵は免除された。
高樋 竹次郎(たかひ たけじろう、1902年(明治35年)8… 高樋 竹次郎(たかひ たけじろう、1902年(明治35年)8月20日 - 1984年(昭和59年)4月27日)は、日本の政治家。青森県黒石市長(4期)。 青森県南津軽郡黒石町(現在の黒石市)出身。1919年(大正8年)陸軍歩兵第52連隊に入隊。1922年(大正11年)に除隊した。除隊後、土木建設業を始める。1927年(昭和2年)津軽実業新報社を開き、社長となる。 1929年(昭和4年)黒石町会議員に当選。1947年(昭和22年)青森県議会議員に当選し、2期務める。1958年(昭和33年)黒石市長に当選。市長を4期務めた。在職中は「交通安全都市」「無雑音都市」を宣言。市民相談室を開設。また、市内に県内初の国民宿舎が開業した。
北村 勝衛(きたむら かつえい、1901年8月20日 - 1… 北村 勝衛(きたむら かつえい、1901年8月20日 - 1987年10月27日)は、日本の歯科医師、歯科教育者。松本歯科大学の初代学長を務めた。日本の歯科医療と教育の発展に尽力した。 宮城県に生まれる。1921年(大正10年)に旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)を卒業後、日本歯科大学に進学し、歯科医学を修めた。大学卒業後、歯科医療に従事しながら教育者としての道を歩み、日本歯科大学で教授として教鞭を執る。特に歯科補綴学の分野で指導を行った。その後、松本歯科大学の初代学長に就任し、大学の発展に寄与した。松本歯科大学では、歯科補綴学第二講座を開設し、補綴治療(入れ歯や被せ物などの治療)の教育と研究に尽力した。
野田 孝(のだ こう、1901年 <明治34年> 8月20日… 野田 孝(のだ こう、1901年 <明治34年> 8月20日 - 1984年 <昭和59年> 9月23日)は、日本の経営者。阪急百貨店社長、会長を務めた。位階は従三位。 山梨県竜王町(現在の甲斐市)出身。1920年に甲府中学校を卒業後、旧制第一高等学校を目指して浪人していた。しかし、同年に同郷の小林一三に「(浪人してまで高校・大学に進学するより)早いとこ、実務についた方が良い」と勧められて、阪神急行電鉄に入社した。結婚まで小林一三の自宅に下宿し、結婚後も隣に自宅を構えていた。 1947年2月に京阪神急行電鉄(阪急電鉄)から分離した阪急百貨店の常務に就任し、専務を経て、1957年11月に社長に就任。
清水 亘(しみず わたる、1900年8月20日 - 1986… 清水 亘(しみず わたる、1900年8月20日 - 1986年9月20日)は、水産学者。愛媛県出身。 1927年京都帝国大学農学部卒。1947年より京都大学農学部教授。1963年の京大退官以降は日本大学農獣医学部教授となった。 魚肉ハムや魚肉ソーセージの考案者である。1960年には魚肉冷凍すり身を考案するなど水産加工品の発展に大きく寄与し、初代かまぼこ博士として知られた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
辛 鳳祚(シン・ボンジョ、신봉조、創氏名:辛島 純、1900… 辛 鳳祚(シン・ボンジョ、신봉조、創氏名:辛島 純、1900年8月20日 - 1992年12月27日)は、日本統治時代の朝鮮で活動した大韓民国の教育者。号は和巖(ファアム、화암)。 本貫は霊山辛氏で、江原道旌善郡に生まれた。1919年に培材高等普通学校(朝鮮語版)を卒業したが、在学中に起きた三・一運動に関わり、懲役6ヶ月を宣告された。1920年には、朝鮮エスペラント協会(朝鮮語版)の設立に参加した。1924年に延禧專門学校(朝鮮語版)文科を卒業した。後に日本に留学し、1927年に東北帝国大学法文学部に、特別入学扱いで入学し、1930年に卒業して文学士となった。 延禧專門学校を卒業した後、母校である培材高等普通学校に教師としてしばらく勤務した際に、女子教育に関心をもち、以後生涯を女性の中等教育に捧げた。
大日向 蔦次(おおひなた つたじ、1900年8月20日 - … 大日向 蔦次(おおひなた つたじ、1900年8月20日 - 1975年2月23日)は日本の政治家。東京都議(6期)、第21代都議会議長を歴任した。 1900年8月20日、千葉県に生まれる。1924年に日本大学商学部を卒業。1947年、東京都議会議員選挙に江戸川区選挙区から立候補し、初当選する。その後、総務委員会委員長(1952年から1953年)、厚生委員会委員長(1956年)、社会党都議団幹事長(1960年)を歴任した。1960年10月28日に衆議院選挙に立候補するため都議を辞職した。第29回衆議院議員選挙に旧東京6区から立候補したが、次点で落選した。その後は、東京都選挙管理委員会委員(1960年から1963年)を務めた。
清水 重美(しみず しげみ、1900年(明治33年)8月20… 清水 重美(しみず しげみ、1900年(明治33年)8月20日 - 1999年〈平成11年〉1月6日)は、昭和期の地方公務員、政治家。長野県飯田市長。男性。位階は従六位。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で、清水宗一、あき の長男として生まれた。1916年(大正5年)3月、長野県組合立竜東農学校卒業。1919年(大正8年)公立実業学校教師となる。1939年(昭和14年)長野県技師に転じ、県立農業講習副所長を務め、1952年(昭和27年)長野県経済部農業改良課長、1954年(昭和29年)南佐久地方事務所長を歴任。1955年(昭和30年)飯田市助役に就任し、13年間在任した。 松井卓治市長の後継者として1968年(昭和43年)10月、飯田市長選挙に当選し、1972年(昭和47年)10月まで1期務めた。
稲葉 通彦(いなば みちひこ、1899年(明治32年)8月2… 稲葉 通彦(いなば みちひこ、1899年(明治32年)8月20日 - 1970年(昭和45年)4月16日)は、日本の実業家。鉄道建設興業(現在の鉄建建設)元社長。 鉄道建設業協会(現在の日本建設業連合会)元会長。位階は正四位。勲四等旭日小綬章受章者。弾丸列車計画に主任技師として任命され、計画のまとめ役となった。 茨城県水戸市出身。茨城県士族、奈良女子高等師範学校名誉教授の稲葉彦六の長男として生まれる。旧制第八高等学校を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道省に入省した。 1925年(大正14年)鉄道技師となり、1931年(昭和6年)12月から1933年(昭和8年)8月まで欧米に留学した。
間 直之助(はざま なおのすけ、1899年(明治32年)8月… 間 直之助(はざま なおのすけ、1899年(明治32年)8月20日 - 1982年(昭和57年)1月20日)は、日本の動物学者、フィールドワーカー(動物生態学)、株式会社間組取締役。理学博士。 日本の霊長類学研究の黎明期より、京都大学理学部の研究員として活動し、その研究史上に大きな功績を残した。20年以上ニホンザルと生活を共にし、人間とサルとの共存の道を、生涯をかけて模索し続けた。遠藤周作の長編小説『彼の生きかた』(新潮社〈新潮文庫〉、1975年)の主人公・福本一平のモデルとして知られる。 1899年(明治32年)間組創業者・間猛馬の次男として熊本県に生まれた。 4歳のときに母が死去し、父も日露戦争後に流行した疫病を患い、事業を引退して本拠の下関から別府へ転地した。
小倉豊文(おぐら とよふみ、1899年8月20日 - 199… 小倉豊文(おぐら とよふみ、1899年8月20日 - 1996年6月10日)は、日本の日本史・日本文学研究者、広島大学名誉教授。 千葉県市川真間に生まれる。野田小学校から千葉師範学校を経て広島高等師範学校を卒業。奈良女子高等師範学校教官の後、広島文理科大学を卒業し、姫路高等学校教授を経て広島文理科大学助教授となる。1945年に広島市への原子爆弾投下により被爆、妻を失う。教授に昇任した後、学制改革に伴う大学の改組で広島大学教授に就任。1965年に定年退官し、名誉教授となる。広島大学を退いた後は親和女子大学教授を務めた。 被爆死した妻・文子への私信の形をとる被爆体験記『絶後の記録』を著したことで知られる。
富田 正文(とみた まさふみ、1898年(明治31年)8月2… 富田 正文(とみた まさふみ、1898年(明治31年)8月20日 - 1993年(平成5年)8月27日)は、日本の作家・編集者・福澤諭吉研究者。昭和期から平成期の慶應義塾大学職員・名誉博士。第55回日本学士院賞受章。 茨城県水戸市出身。水戸中学校、慶應義塾大学文学部卒業。水戸藩出身の『時事新報』主幹・石河幹明に認められて在学中からその助手を務めて『福澤諭吉伝』の編纂に参加、卒業後も職員としてその完成に尽力した。『福澤諭吉伝』完成以後も福澤諭吉の事績研究にあたり、それが評価されて1938年(昭和13年)から文学部講師を兼ねて明治文化について講義することになる。 当時の塾長小泉信三も富田に信任をおいて慶應義塾の新塾歌の作詞を担当させた。
森田 沙伊(もりた さい、1898年〈明治31年〉8月20日… 森田 沙伊(もりた さい、1898年〈明治31年〉8月20日 - 1993年〈平成5年〉10月12日)は、日本画家、日本芸術院会員。 北海道出身。本名・才一。旧制東海中学校卒。1923年東京美術学校日本画科卒、帝展、文展に出品、1939年文展特選、1940年より法隆寺壁画模写に従事。戦後は日展に出品、1958年同評議員、1959年日本芸術院賞受賞、1969年日展理事、1975年日本芸術院会員。1976年勲三等瑞宝章受章。
菊田 七平(きくた しちへい、1897年(明治30年)8月2… 菊田 七平(きくた しちへい、1897年(明治30年)8月20日 - 1976年(昭和51年)11月16日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、茨城県議会議長。 茨城県新治郡真鍋町殿里(現在の土浦市殿里)で、旧家・菊田広恵の長男として生まれる。1912年(大正元年)茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業した。 土浦商工会議所会頭、湖南通運社長、環産業社長、高津油機社長、霞ケ浦食品工業社長、日神酒造社長、丸果生果社長、関東銀行(現在の筑波銀行)取締役会長などを務めた。その他、茨城県農業会長、同県蚕種協同組合長、同県観光連盟会長、新治郡真壁町農会長、同町産業組合専務理事などに在任した。
三田 良蔵(みた りょうぞう、1897年 <明治30年> 8… 三田 良蔵(みた りょうぞう、1897年 <明治30年> 8月20日 - 1970年 <昭和45年> 6月2日)は、日本の経営者、医学博士。参天製薬社長を務めた。位階は正五位。 大阪府大阪市出身。1919年に千葉医学専門学校薬学科を卒業。島商店での勤務を経て、1936年には参天堂に転じ、1940年には社長に就任し、1952年には三田製薬社長も兼任。 1960年10月に藍綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。。 1970年6月2日脳血栓のために死去。72歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
西岡 斌(にしおか さかん、1896年(明治29年)8月20… 西岡 斌(にしおか さかん、1896年(明治29年)8月20日 - 1960年(昭和35年)9月26日)は、日本の政治家。北海道稚内市長(3期)。 北海道出身。1924年、中央大学法律専門部卒。卒業後はアメリカに留学し、オックス・フォード・ラスキンカレッジ経済学部で学んだ。帰国後は宗谷日日新聞を創刊、1932年に北海道会議員となり、稚内町長に就任するまで務めた。この間、調陽塾を開き、青少年の教育に力を注いだ。1947年、稚内町長に就任。2年後の1949年の市制施行に伴い、稚内市長に就任した。1951年の市長選挙で再選。1955年の市長選挙で三選。1959年に市長を退任した。同年、市の顧問となったが、翌1960年に死去した。
重森 三玲(しげもり みれい、1896年8月20日 - 19… 重森 三玲(しげもり みれい、1896年8月20日 - 1975年3月12日)は、昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家。出生名は重森 計夫(しげもり かずお)。 岡山県上房郡吉川村(現・加賀郡吉備中央町吉川)の生まれ。当地には豪渓(ごうけい)と呼ばれる水墨山水画の世界を思わせる渓谷地帯がある。日本美術学校で日本画を学び、華道と茶道を習い稽古に励む。日本美術学校卒業後には東洋大学文学部に学ぶ。 大正6年(1917年)に画家の道を志し上京するが、全国から集まる才能に意気消沈する。昭和4年(1929年)京都へ移り住むと、翌年には勅使河原蒼風らと「新興いけばな宣言」を起草(当時は未発表)、いけばなの革新を世に提唱した。
田中 徳次郎(たなか とくじろう、1894年〈明治27年〉8… 田中 徳次郎(たなか とくじろう、1894年〈明治27年〉8月20日 - 1992年〈平成4年〉7月9日)は、日本の実業家。東京海上火災保険社長、日本損害保険協会会長などを歴任した。 群馬県西群馬郡高崎町(現高崎市)出身。1913年群馬県高崎中学校(現群馬県立高崎高等学校)卒業。1917年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。一橋基督教青年会出身。同年三菱合資入社。1935年三菱海上火災保険大阪支店長。1944年東京海上火災保険取締役。1947年東京海上火災保険社長。1948年日本損害保険協会会長。1952年海運造船合理化審議会委員、国際電信電話設立委員。1953年三菱銀行取締役。1955年日本海外移住振興設立委員、自動車損害賠償責任保険審議会委員。
池田 徳治(いけだ とくじ、1891年8月20日 - 196… 池田 徳治(いけだ とくじ、1891年8月20日 - 1965年4月1日)は日本の政治家。 1891年(明治24年)秋田市保戸野本町に生まれる。秋田県立秋田中学校(旧制)、第二高等学校 (旧制)、東京帝国大学工科大学卒。内務省東北土木出張所長、秋田県土木部長を経て、秋田県初代公選知事蓮池公咲及び自由党・民主党の推薦を得て1951年(昭和26年)の県知事選挙に出馬、小畑勇二郎を破る。以後1期4年にわたり秋田県知事を務めた。在任中の1954年(昭和29年)、秋田県出身の衆議院議員石田博英同席のもと、当時の首相吉田茂と会談し、八郎潟干拓事業の早期着工を要請している。知事退職後は、秋島建設会長、全建興業社長などを務める。
金栗 四三(かなくり しそう〈読みについては後述〉、1891… 金栗 四三(かなくり しそう〈読みについては後述〉、1891年〈明治24年〉8月20日 - 1983年〈昭和58年〉11月13日)は、日本のマラソン選手、学校教員。位階は従五位。 青壮年期にオリンピックのマラソン競走に日本代表選手として参加した。また裏方としても各マラソン大会や東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力したり、日本に高地トレーニングを導入したりするなど、日本マラソン界の発展に大きく寄与したことから「日本マラソンの父」と称される。 名前の読みは文献により「かなぐり」「かなくり」、「しそう」「しぞう」と一致しない。これについて熊本県和水町社会教育課では「どれが正しく、どれが正しくないとは言えない。
堀越 儀郎(ほりこし ぎろう、1891年(明治24年)8月2… 堀越 儀郎(ほりこし ぎろう、1891年(明治24年)8月20日 - 1973年(昭和48年)6月2日)は、大正から昭和期の宗教家、教育者、政治家。天理大学学長、参議院議員(1期)。旧姓は村田。 奈良県添下郡郡山町(生駒郡郡山町を経て現大和郡山市)で村田忠三郎の三男として生まれ、堀越幸の養子となる。1917年(大正6年)東京帝国大学文科大学心理学科を卒業した。 1917年、天理中学校(現天理高等学校)教頭に就任。以後、天理外国語学校教授、天理教信徒部長、同文教部長、天理教総務、天理教いちれつ会理事長、天理大学理事長、天理短期大学学長、天理大学学長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
河田 槌太郎(かわだ つちたろう、1889年(明治22年)8… 河田 槌太郎(かわだ つちたろう、1889年(明治22年)8月20日 - 1964年(昭和39年)2月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道上川郡東旭川村(現旭川市東旭川町)出身。1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官。 1936年(昭和11年)5月、支那駐屯軍高級副官となり日中戦争に出征。1937年(昭和12年)8月、歩兵大佐に昇進し北支那方面軍高級副官に転じた。1938年(昭和13年)3月、歩兵第44連隊長に就任し満州に赴任。1940年(昭和15年)3月、陸軍少将に進級し独立混成第10旅団長となり、済南に駐屯し再び日中戦争に従軍した。
幡谷 仙次郎(はたや せんじろう、1889年8月20日 - … 幡谷 仙次郎(はたや せんじろう、1889年8月20日 - 1964年1月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 茨城県東茨城郡小川町(現小美玉市)で、豪商・幡谷仙之助の二男として生まれた。日本大学法律科に学ぶ。小川町長となる。小川繭糸市場社長、石岡地区通運(株)監査役、鹿島参宮通運(株)社長を務める。 1949年の第24回衆議院議員総選挙において茨城1区から民主自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員は1期務め、1952年の第25回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1964年死去。
片岡 華江(かたおか かこう、1889年(明治22年)8月2… 片岡 華江(かたおか かこう、1889年(明治22年)8月20日 - 1977年(昭和52年)10月22日)は、螺鈿師、蒔絵師。本名は照三郎。東京都出身。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8… 樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8月20日 - 1970年〈昭和45年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルビン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。 第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満洲国通過を認めたとされ、これは「ヒグチ・ルート」と呼ばれたと言われる。[ヒグチ・ルート]からはかつて「2万人を救出した」と喧伝されたこともあったが、実態は不明な部分も多い。 太平洋戦争中、アッツ島の戦いにおいて樋口の命によりアッツ島守備隊は玉砕、その後の南方諸島で続発する日本軍守備隊玉砕の引き金となった。
伊達 徳次郎(だて とくじろう、1887年〈明治20年〉8月… 伊達 徳次郎(だて とくじろう、1887年〈明治20年〉8月20日 - 1959年〈昭和34年〉1月9日)は、大正から昭和時代の政治家。警察官。埼玉県川越市長。 千葉県安房郡北条村(北条町、館山北条町を経て、現館山市北条)に生まれる。伊達博・せいの六男で生家は仙台藩伊達家の末裔。1907年(明治40年)明治大学法学科を卒業し、1921年(大正10年)埼玉県高等課長、浦和署長、茨城県特高課長、再び浦和署長を歴任した。 埼玉県の商工課長を経て、1933年(昭和8年)川口町助役となる。1935年(昭和10年)には川越市長の橋本定五郎に請われ同市助役に就任。下水道整備を進めた。1939年(昭和14年)同市長となり、田面沢村の合併、都市計画事業などに尽力した。
国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20… 国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20日 - 1960年(昭和35年)11月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
長谷川 零余子(はせがわ れいよし、1886年〈明治19年〉… 長谷川 零余子(はせがわ れいよし、1886年〈明治19年〉8月20日 - 1928年〈昭和3年〉7月27日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の俳人。本名:長谷川 諧三。旧姓:富田。別号に翠邨。妻は俳人の長谷川かな女。小説家の三田完は孫。 群馬県緑野郡鬼石町(現・藤岡市)出身。父・富田嘉十郎は伊勢崎警察署境派出所の巡査であった。1888年(明治21年)嘉十郎は大垣警察署に赴任することとなり、妻・うめと諧三・つるの2人の子どもとともに大垣に移り住んだ。1892年(明治25年)父の嫡出として入籍される。 零余子は1897年(明治30年)境小学校を卒業後、剛志村下武士の毛陽学校に入学し、1901年(明治34年)に卒業した。
中井金三(なかい きんぞう、1883年8月20日 - 196… 中井金三(なかい きんぞう、1883年8月20日 - 1969年2月9日)は、日本の洋画家。 前田寛治、河本緑石らとともに鳥取中部の芸術団体「砂丘社」を創設。倉吉中学(現・鳥取県立倉吉東高等学校)、倉吉高等女学校(現・鳥取県立倉吉西高等学校)で教員を務め、郷土の芸術文化の振興に貢献した。 1883年(明治26年)、鳥取県久米郡中河原村(現・倉吉市中河原)で、中井喜七郎の次男として生まれる。中井家は造り酒屋であった。1897年(明治30年)小鴨高等小学校を卒業し、上京。杉浦重剛の称好塾に門下生として入り、日本中学校(現・日本学園中学校・高等学校)を卒業。日本中学では真野紀太郞に教わる。白馬会研究所では和田英作、湯浅一郎から絵画の基礎を学ぶ。
常吉 徳寿(つねよし とくじゅ、1879年(明治12年)8月… 常吉 徳寿(つねよし とくじゅ、1879年(明治12年)8月20日 - 1934年(昭和8年)1月6日)は、日本の大蔵官僚。台湾総督府官僚。 佐賀県東松浦郡浜崎村(現唐津市)出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵省に入り、税務監督官を務めた後、中華民国財政部顧問となった。その後、台湾総督府に転じ、専売局参事、新竹州知事、台中州知事を歴任、1928年(昭和3年)7月に専売局長となった。 1928年8月に退官した後は、自治研究会理事兼主任を務めた。 心臓病で療養中であったところ1934年(昭和8年)1月6日、東京府滝野川区西ヶ原町(現東京都北区西ケ原)の自宅で死去、54歳。
戸田 虎雄(とだ とらお、1878年8月20日 - 1946… 戸田 虎雄(とだ とらお、1878年8月20日 - 1946年3月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山形県出身。1896年、山形県立興譲館中学校、1898年、山形県工業学校別科卒。米沢市議、同議長となる。米沢商栄銀行取締役頭取、山形電気(株)、両羽銀行、東北送電各(株)取締役、米沢織物信用組合長、山形県信用組合連合会会長、米沢信用組合理事長、産業組合中央金庫評議員を歴任する。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において山形1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。1936年の第19回衆議院議員総選挙で落選した。
萩原 頼平 (はぎわら らいへい、1878年(明治11年)8… 萩原 頼平 (はぎわら らいへい、1878年(明治11年)8月20日 - 1951年(昭和26年)1月22日)は、山梨県出身の郷土史家。号は頼哉。 山梨県東山梨郡平等村落合(現在の山梨市)に生まれる。訓導の資格を得て、日下部小学校、平等小学校(現在の山梨市立山梨小学校)、富士川小学校(現在の甲府市立善誘館小学校)に勤務した後、教職を辞して大正10年1920年に山梨県教育会附属図書館に勤務、昭和7年1932年に退職、その後は郷土史の研究に力を注いだ。 昭和7年3月に甲斐志料刊行会を発会し、容易に得られない古文書や未刊史料を中心に山梨県に関する史料、文献を総合集成した全十二巻の「甲斐志料集成」を昭和7年10月5日から昭和10年9月にかけて発刊した。
鳥潟 隆三(とりかた りゅうぞう、1877年明治10年)8月… 鳥潟 隆三(とりかた りゅうぞう、1877年明治10年)8月20日- 1952年(昭和27年)2月19日) 。医学博士。日本の生理学者。明治-昭和時代の外科医学者・免疫学者。 1877年、北海道函館市生まれ。幼名は隆一。その後、6歳まで父・鳥潟精一の故郷秋田県大館市花岡で過ごした。鳥潟家は慶長年間のころから続く旧家で、花岡村の肝煎を代々務める家柄であった。 6歳まで花岡で育ったのち、大分県で病院長だった叔父鳥潟恒吉・サイ夫妻の許で大分県立大分中学校を卒業。恒吉夫人が甥・息子らを引率して上京し、旧制第一高等学校に進学、卒業に当たり、狩野亨吉の勧めで京都帝国大学医科大学に入った。1904年、恩賜の銀時計を授与されて同大学医科大学を卒業した。
田中 不二(たなか ふじ、1877年(明治10年)8月20日… 田中 不二(たなか ふじ、1877年(明治10年)8月20日 - 1922年(大正11年)11月19日)は、日本の機械工学者。 東京出身。兄はカーバイド工業を開拓した藤山常一である。 1894年(明治27年)に田中林太郎の養子となった。正則尋常中学校、第一高等学校工科を経て、1901年(明治34年)に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業した。同年7月に同学科の講師となった。同年11月に田中林太郎の娘の芳子と結婚した。 1902年(明治35年)に助教授となった。1904年(明治37年)に機械工学第一講座分担を命じられ、1906年に初の日本語による機械設計の教科書『機械設計及製圖』を同僚の内丸最一郎と共著で出版した。
尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月2… 尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月20日 - 1957年(昭和32年)1月13日)は、日本の詩人・歌人・書家・国文学者。文学博士。帝国芸術院会員。勲二等瑞宝章受章者。旧名は北郷八郎。 岡山県苫田郡津山町(現・津山市)出身。本名は尾上八郎。元津山藩士・北郷直衛の三男として生まれ、同藩士・尾上動の養子となった。津山小学校高等科を卒業の後、父の転勤で兵庫県龍野(現・たつの市)に移住する。東京府尋常中学、一高を経て、東京帝国大学文科大学に進み1901年に卒業。哲学館(現・東洋大学)講師、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)講師・教授(1905年–)、高等官6等に叙せられて「第6臨時教員養成所」の教授を兼ねる(1906年–1907年度)。
蕨真一郎(わらび しんいちろう、1876年〈明治9年〉8月2… 蕨真一郎(わらび しんいちろう、1876年〈明治9年〉8月20日 - 1922年〈大正11年〉10月14日)は、日本の歌人・造林家。号は蕨真(けっしん)、礎山(そざん)。 上総国武射郡埴谷村(現在の千葉県山武市)出身。五代続く林業家で、県内有数の大山林地主であった。 東金の漢学者・吉井宗元の漢学塾「南総斯文学会」に学ぶ。1901年(明治34年)、同じ武射郡出身で友人であった伊藤左千夫の紹介により、正岡子規の門下生となる。子規没後の1903年(明治36年)、根岸短歌会の機関誌『馬酔木』の編集委員となる。真一郎は『馬酔木』創刊にあたっての有力な経済的支援者だった。1906年(明治42年)に埴岡短歌会を設立し、地元歌人の作品を『馬酔木』上で紹介するようになった。
山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日… 山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日 - 1958年〈昭和33年〉11月20日)は、日本の国語学者、国文学者、歴史学者。東北帝国大学教授を歴任。文化勲章受章。 独学の人として知られる。「契沖、真淵、宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者」とも評される。 1873年、富山県富山市総曲輪(そうがわ)に於保多神社宮司山田方雄の次男として生れる。父は前田利保に歌を学んだ連歌の宗匠でもあった。履新小学校卒業。富山県尋常中学校を中退後、独学で小、中学校教員検定試験(文検)に合格。富山県内の小学校や兵庫、奈良、高知などの中学校で教員を務める。 1907年(明治40年)文部省国語調査委員会補助委員、1920年(大正9年)日本大学講師、1921年(大正10年)日本大学文学部国語科主任、1925年(大正14年)東北帝国大学講師、1927年(昭和2年)同教授に昇格。
徳永 重康(とくなが しげやす、1874年(明治7年)8月2… 徳永 重康(とくなが しげやす、1874年(明治7年)8月20日 - 1940年(昭和15年)2月8日)は、日本の動物学者・地質学者・古生物学者。早稲田大学教授、早稲田高等工学校校長、東京帝国大学講師などを歴任。1933年(昭和8年)に実施された第一次満蒙学術調査研究団長として熱河地方に赴き、その調査報告で1937年(昭和12年)に朝日文化賞を受賞。日本古生物学会2代会長、日本地質学会会長 を務めた。 1874年(明治7年)8月20日、芝区愛宕町にて生まれる。父親は薩摩藩士の吉原重隆。第一高等学校を経て東京帝国大学に進学する。理学部動物学科に進むもその中で古生物学に興味を持ち、地質学科への転科を希望したものの、当時その制度がなかったため受け入れられず、動物学科に籍をおいたまま地質学科の講義・実習を受けた。
新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月… 新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月20日 - 1938年(昭和13年)8月1日)は、日本の天文学者・中国学者、理学博士、京都帝国大学第8代総長・名誉教授。専門は宇宙物理学および中国古代暦術。戦前の中国天文学研究の権威であった。 福島県会津若松の造り酒屋に六男として生まれる。若松中学校(現福島県立安積高等学校)、第二高等中学校を経て帝国大学理科大学物理学科を1895年に卒業。大学院に進学し、1897年陸軍砲工学校教授に就任。 1900年京都帝国大学理工科助教授となる。その後ドイツのゲッティンゲン大学に留学し天文学を学び、帰国後に教授となる。留学中の1906年(明治39年)9月、万国測地学協会総会中央局から案内を受け、ハンガリー国ブダペストにて開催された第15回万国測地学協会総会に陪席。
福島 文右衛門(ふくしま ぶんうえもん、1873年(明治6年… 福島 文右衛門(ふくしま ぶんうえもん、1873年(明治6年)8月20日 - 1937年(昭和12年)1月2日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 素封家・福島文衛の長男として敦賀県今立郡鯖江清水町(福井県今立郡鯖江町を経て現鯖江市)に生まれ、1905年(明治38年)3月、家督を相続し、前名文治を改める。生家は醤油醸造業を営んだ。1908年(明治41年)越前電気を設立し、同社長に就任。福井県農工銀行頭取を務めたのち、1911年(明治44年)福井県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。鯖浦電気鉄道や福井県鯖江女子師範学校の創設にも関与した。
津村 重舎(つむら じゅうしゃ、1871年8月20日〈明治4… 津村 重舎(つむら じゅうしゃ、1871年8月20日〈明治4年7月5日〉 - 1941年〈昭和16年〉4月28日)は日本の実業家。大和国宇陀郡池上村(後に奈良県宇陀郡榛原町、現在は宇陀市)出身。廃藩置県の9日前に出生。 1893年(明治26年)に津村順天堂(現・ツムラ及びバスクリンの前身)を創業した。1925年(大正14年)から1936年(昭和11年)まで貴族院議員を務めた。 出身の大和国(奈良県)から上京し、東京高等商業学校(現・一橋大学)中退。1893年(明治26年)津村順天堂を創業、日本橋に店を構えて婦人用煎じ薬中将湯の販売を始めた。郵便報知新聞に広告を出し、1895年(明治28年)には日本で初めてガスイルミネーションを用いた看板を掲げた。
岡 不崩(おか ふほう、明治2年7月13日(1869年8月2… 岡 不崩(おか ふほう、明治2年7月13日(1869年8月20日) - 昭和15年(1940年)7月29日)は、明治期から昭和期にかけて活動した日本画家。 明治2年(1869年)7月13日に福井県大野町に五人兄弟の四男として生まれる。本名は吉寿。幼名は又太郎といった。梅渓、不崩と号す。 明治13年(1880年)に上京し、麹町の番町小学校に入学する。明治17年(1884年)16歳の時に狩野友信に入門して洋画を学ぶ。当時は軍人志望であったが、鑑画会創立の頃から友信の紹介もあって狩野芳崖に師事し、本格的に日本画を習得している。有賀長雄宅での狩野永悳、芳崖、木村立嶽らの研究会に参加して学び、明治18年(1885年)の第1回鑑画会大会に岡梅渓の号で「山水」と「草花」を出品している。
中村 春堂(なかむら しゅんどう、慶応4年7月3日〈1868… 中村 春堂(なかむら しゅんどう、慶応4年7月3日〈1868年8月20日〉 - 1960年〈昭和35年〉3月14日)は、日本の能書家。漢学者中村芳平の子。豊前国仲津郡祓郷村大字田中(現在の福岡県京都郡みやこ町田中)出身。名は尚友、字は玄郷、通称を楳太郎(梅太郎)、雅号を春堂または耕心斉と称した。 旧制豊津中学校(豊津高校→現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を経て、大分県中津町の河野私塾に学んだ後、郷里で初等教育に従事していたが、1896年(明治29年)に上京。法制局長官・末松謙澄(現行橋市出身)の推薦により内閣法典調査会に奉職した。勤務のかたわら専修学校(現専修大学)に入学して、法律学・経済学を学んだ。