内垣 啓一(うちがき けいいち、1925年(大正14年)12… 内垣 啓一(うちがき けいいち、1925年(大正14年)12月20日 - 1989年(平成元年)8月17日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家、演劇・音楽評論家、舞台演出家、オペラ演出家。東京大学名誉教授。 京都府京都市に生まれる。京都第一中学校(旧制)、第一高等学校(旧制)を経て、1950年(昭和25年)京都大学文学部ドイツ文学科卒。1951年(昭和26年)に東京大学教養学部助手となり、1953年(昭和28年)戦後初めてのドイツ学術交流会招聘留学生としてハンブルクにおいて研究を続け、以後ドイツ文学、ドイツ演劇、比較文学、比較演劇の講師、助教授、教授を務め、1986年定年退官。 ドイツ文学のエキスパートとして古典から現代までの数多くの文学作品や戯曲を翻訳し出版しているのみならず、研究領域はドイツ演劇に加え、ドイツオペラから新劇や伝統芸能に至るまで舞台芸術全般に及んだ。
柴田 高好(しばた たかよし、1925年12月20日 - )… 柴田 高好(しばた たかよし、1925年12月20日 - )は、日本の政治学者。東京経済大学名誉教授。 北海道苫小牧市生まれ。1943年北海道庁立釧路中学校卒業。1945年官立静岡高等学校文科卒業。1946年九州大学法学部入学、具島兼三郎教授に師事。1949年九州大学法学部政治学科卒業。1952年同大学法学部大学院特別研究生修了、県立静岡法経短期大学助手。静岡大学の鈴木安蔵教授と交流する。1957年春から1960年頃まで黒田寛一と交流し、黒田から方法論として武谷三男の三段階論・技術論についての示唆を受ける。1964年静岡大学法経短大部教授。1972年東京経済大学教授。1996年定年退職、名誉教授。
小倉 学(おぐら まなぶ、1924年12月20日- 1990… 小倉 学(おぐら まなぶ、1924年12月20日- 1990年5月19日)は、日本の医学博士。 研究分野は学校保健、保健教育、養護教諭の専門性、養護教諭養成制度の確立に尽力した。茨城大学名誉教授。 1942年3月、鹿児島県立種子島中学校(現・鹿児島県立種子島高等学校)卒業、1945年6月陸軍経理学校卒業、1950年3月、熊本医科大学卒業し、1951年8月第10回医師国家試験合格、同時に熊本大学医学部助手(衛生学)となった。1953年6月東京大学教育学部助手(健康教育学)及び同年10月東京大学伝染病研究所研究員を併任した。1960年3月医学博士(東京大学)、同年8月東京大学教育学部講師(健康教育学)となった。
井沢 義雄(いざわ よしお、1923年12月20日 - 19… 井沢 義雄(いざわ よしお、1923年12月20日 - 1996年12月14日)は、フランス文学者、神戸大学名誉教授。 兵庫県生まれ。東京帝国大学仏文科卒。文芸評論を書いたのち、1954年神戸大助教授、教授。1987年定年退官、名誉教授。ヴァレリーと石川淳を論じた。1996年12月14日、肺癌のため死去。
伊藤 潔(いとう きよし、1923年12月20日 - 199… 伊藤 潔(いとう きよし、1923年12月20日 - 1993年6月22日)は、日本の経営者。川崎汽船社長、会長を務めた。兵庫県出身。 1951年に東京大学法学部法律学科を卒業し、同年に川崎汽船に入社。 1975年5月に取締役に就任し、1978年6月に常務、1981年6月に専務を経て、1983年6月に副社長に就任し、1985年6月には社長に昇格。1988年6月に会長に就任。 1987年4月に藍綬褒章を受章。 1993年6月22日膵臓癌のために死去。69歳没。
田口 貞夫(たぐち さだお、1922年12月20日 - 2… 田口 貞夫(たぐち さだお、1922年12月20日 - 2020年)は、日本の宗教学者、思想家。 1922年に東京の下町亀戸で生まれた。父は結婚前浅草寺の食客で、母は浅草寺病院の医師だった。二人は結婚後亀戸で診療所を開業した。貞夫は東京大学に入学後、第1回の学徒出陣で徴兵された。1943年10月21日に出陣学徒壮行会が明治神宮外苑競技場で開かれた。貞夫は航空隊の兵士としてカンボジアなどで従軍したが、生来の不器用のために一度も飛行機に乗らず、無事日本に戻った。東京大学文学部宗教学科で主任教授岸本英夫の指導を受け、ロシア思想史をライフワークとすべく勉強し、1950年に卒業した。東京大学図書館で勤務するかたわら、上智大学の神父ペトロ・ネメシェギ(ハンガリー語版)を知り、上智大学外国語学部ロシア学科で講師を務めた。
五味 康祐(ごみ やすすけ、1921年12月20日 - 19… 五味 康祐(ごみ やすすけ、1921年12月20日 - 1980年4月1日)は、日本の小説家。 五味の本名は「康祐」であり、ヨミは「やすすけ」であるとされてきた。なお、(公財)練馬区文化振興協会が所蔵する五味自筆の年譜では、本名についての記述はない。一方で、『五味康祐の世界展』図録の添付年譜には、「幼少時は『欣一』または『欣吾』と呼ばれていた」と記載されている。 五味が在学した明治大学に残る史料によると、五味の本名は五味 欣一である。 剣豪を扱った歴史・時代小説を始め数々の作品を発表。特に柳生十兵衛など柳生一族を扱った作品で知られており「五味の柳生か、柳生の五味か」と評された。『週刊新潮』をはじめとする出版社系週刊誌の爆発的流行と軌を一にする、昭和30年代から40年代(1950年代後半から1970年代前半)の流行作家であった。
安田 久雄(やすだ ひさお、Paul Hisao Yasud… 安田 久雄(やすだ ひさお、Paul Hisao Yasuda, 1921年12月20日 - 2016年4月23日)は、日本のカトリック教会聖職者。カトリック大阪大司教区第2代司教。洗礼名は「パウロ」。 福岡県久留米市生まれ。1943年に東京帝国大学農学部水産学科を卒業後、同年から中央気象台化学科生物係、1945年10月から1947年2月まで神戸海洋気象台海洋課化学生物係で働いた。 1951年に東京の上智大学文学部哲学科を卒業し、同年7月から1955年6月までアメリカ合衆国に留学。ボルティモアの聖マリア大学で学び、1955年5月21日に司祭に叙階。同年10月から1957年10月までローマに留学し、教皇庁立ウルバノ大学大学院博士課程を卒業した。
市村 俊幸(いちむら としゆき、本名:石川 清之助、1920… 市村 俊幸(いちむら としゆき、本名:石川 清之助、1920年12月20日 - 1983年8月9日)は、昭和期の俳優。旧東京市(東京都)出身。「ブーちゃん」の愛称で親しまれた。クレイジーキャッツのリーダーであるハナ肇の名付け親としても知られる。 東京府立第五中学校卒。日本医師会勤務を経て1938年、日劇ダンシングチームに入団。戦後の1946年、南里文雄らの「南里文雄とホットペッパーズ」でピアニストを務める。 1951年9月21日に上映された映画『花嫁蚤と戯むる』(製作:ラジオ映画、配給:東映)で俳優デビュー、翌年の黒澤明監督作品『生きる』で脚光を浴びる。映画ではフランキー堺主演の作品に多数出演した。
大崎 憲司(おおさき けんじ、1920年12月20日 - )… 大崎 憲司(おおさき けんじ、1920年12月20日 - )は、福岡県出身のプロ野球選手(投手)。
関口 晃一(せきぐち こういち、1919年12月20日 - … 関口 晃一(せきぐち こういち、1919年12月20日 - 2012年2月1日)は、日本の動物学者。 埼玉県北埼玉郡騎西町(現・加須市)出身。東京高等師範学校、1943年東京文理科大学理科卒。1945年同副手、1947年助手、1957年「遠心処理によつてつくられたクモ重複畸形」で東京教育大学理学博士。1962年東京教育大学助教授、1973年教授。移転で筑波大学教授、1983年定年退官、名誉教授、上武大学教授。1991年退職。1979年日本動物学会賞受賞。1988-1993年日本蜘蛛学会会長を務めた。カブトガニの研究で知られる。
五十嵐 顕(いがらし あきら、1916年12月20日-199… 五十嵐 顕(いがらし あきら、1916年12月20日-1995年9月17日)は、日本の教育学者、東京大学名誉教授。教育財政学、マルクス主義教育学、ソビエト教育学を研究した。 福井県出身。東京帝国大学卒。文部省教育研修所(現国立教育研究所)所員、東京大学教育学部助教授、1968年東大教授。1977年定年退官、名誉教授、中京大学教授。 「わだつみ会」の会員として不戦運動に取り組んだ。
建内 保興(たけうち やすおき、1915年(大正4年)12月… 建内 保興(たけうち やすおき、1915年(大正4年)12月20日 - 2011年(平成23年)1月7日)は、日本の石油実業家。日本石油社長及び会長を16年、石油連盟会長を11年務めた。 オイルショック後の時期に、日本石油社長及び会長を16年、石油連盟会長を11年務め、中東産油国との連携、石油業界の是正、石油エネルギーの安定供給に貢献した。この功績が認められ、1988年に瑞宝大綬章を授与された。日本石油「中興の祖」、「天皇」などと評される。 戦前の甲陽中学で野球が盛んだったこともあり、野球愛好家であった。1956年から1973年まで日本石油野球部長を務めた。その間、都市対抗野球大会では、初優勝を含めて5回の優勝を果たした。
神田 秀夫(かんだ ひでお、1913年12月20日 - 19… 神田 秀夫(かんだ ひでお、1913年12月20日 - 1993年9月18日)は、日本の国文学者、俳句評論家。古代から近世の国文学を研究領域とした。戦後、国会図書館司書、共立女子大学教授、成蹊大学教授、武蔵大学教授をつとめた。 1913年、東京府荏原郡入新井村山王(現・東京都大田区山王)生まれ。1936年、東京帝国大学文学部国文科を卒業。同大学院に進むも、応召により1937年に大学院を中退。 復員後は目黒書店に入社し、総合誌『俳句研究』の編集に携わりながら俳句評論を執筆。昭和22年から昭和30年前半にかけて評論を執筆しており、その際に「中世と俳句」から「イロニイ叙説」にいたるまでの一連の俳句イロニー説を出している。
飯田 三郎(いいだ さぶろう、1912年(大正元年)12月2… 飯田 三郎(いいだ さぶろう、1912年(大正元年)12月20日 - 2003年(平成15年)4月24日)は、昭和期の作曲家。北海道根室市出身。 初め、独学で作曲を学ぶ。根室商業学校卒業後上京し、作曲を池内友次郎、指揮を山田和男に師事する。 同じ根室出身で、根室商業学校の先輩でもある作詞家・高橋掬太郎と組み、「啼くな小鳩よ」「ここに幸あり」などの楽曲を作った。故郷を愛し、交響組曲「北国讃歌」等の根室に関連する曲を数多く作った。 1973年、ミサ曲が認められ、ローマ法王庁より褒状を授与される。 根室市総合文化会館1階には飯田三郎資料展示室がある(2022年11月26日に根室市図書館から移転)。
武田 邦太郎(たけだ くにたろう、1912年(大正元年)12… 武田 邦太郎(たけだ くにたろう、1912年(大正元年)12月20日 - 2012年(平成24年)11月15日)は、日本の政治家。元参議院議員(1期)。日本新党副代表。1998年勲三等旭日中綬章を受章。 広島県福山市生まれ。福岡高等学校を経て、東京帝国大学文学部卒業後、鐘紡に入社。同社農林部に所属し、満洲において農業事業に取り組んでいるとき、職業軍人・石原莞爾と知り合う。これは、武田の従兄に当たる池本喜三夫が石原のブレインであったことも大きいという。 終戦を迎え、石原は生まれ故郷である山形県・鶴岡に戻り、遊佐の鳥海山麓に自給自足の農村共同体である「西山農場」を創設し、理想郷づくりをはじめる。石原が目指した「小さな満洲」建設には、武田や石原の一番弟子で、武田の良きパートナーであった曹寧柱をはじめ全国から「東亜連盟」の理想に共鳴するものが参加。
平賀 健太(ひらが けんた、1912年12月20日 - 20… 平賀 健太(ひらが けんた、1912年12月20日 - 2004年2月18日)は、日本の裁判官、弁護士、行政官。 1969年、北海道長沼町の保安林解除処分の執行停止申し立て事件(いわゆる長沼ナイキ基地訴訟)は、保安林への自衛隊基地の建設をめぐり自衛隊の合憲性を争点とするものとなった。 札幌地方裁判所所長であった平賀は、裁判の長沼ナイキ事件の裁判長であった福島重雄に対し、数度にわたり口頭で保安林解除を認める国側の主張に沿った判断を下すよう指導、福島が指導を聞き入れないとみると「一先輩のアドバイスとして、参考になるようなら判断の一助にしてください」とする書き出しで改めて判断を翻すことを促す書簡を送った。
佐々木 慶市(ささき けいいち、1912年12月20日 – … 佐々木 慶市(ささき けいいち、1912年12月20日 – 2002年 8月21日)は、日本の歴史家。 宮城県大崎市生まれ、1930年に第二高等学校に入学。柔道部の選手でもあった。3年生のときに日本史の本を読むようになり、特に三浦周行『国史上の社会問題』を読んだことが室町期の社会に興味を持つきっかけとなった。また、在学中に 武内義範らと歴史同好会の活動をし、そこで伊東信雄と知り合い、東北帝国大学への進学を勧められた。1933年に二高を卒業する。同年、東北帝国大学法文学部に入学。古田良一に師事するとともに、中村吉治の指導も受けた。また、伊木寿一から古文書学を学び、実習で飯野八幡宮文書の調査を行ったことが、のちの好嶋荘や岩城氏の研究につながった。
栗田 英男(くりた ひでお、1912年(大正元年)12月20… 栗田 英男(くりた ひでお、1912年(大正元年)12月20日 - 1996年(平成8年)10月4日)は、日本の商人(肥料商)、実業家(東京毎夕新聞社主、鉱山経営者)、総会屋、衆議院議員、美術評論家(栗田美術館創設者)。中央大学法学部中退。 栃木県足利市の豪商出身。復員後の1946年第22回衆議院議員総選挙に、栃木県全県区から諸派扱いで初出馬したが落選。 翌1947年の第23回衆議院議員総選挙では、新設の旧栃木県第2区から民主党公認で立候補し、初当選。政界進出と同時に栗田政治経済研究所を設立した。 在職中、栗田の拠出した金が汚職に用いられた疑惑が持ち上がり、1948年の衆議院不当財産取引調査特別委員会で証人喚問された。
吹田 徳雄(すいた とくお、1911年12月20日 - 19… 吹田 徳雄(すいた とくお、1911年12月20日 - 1981年12月18日)は日本の工学者。大阪大学名誉教授。原子力安全委員会初代委員長。理学博士(大阪帝国大学、1947年)。徳島県海部郡美波町(旧日和佐町)出身。 大阪市立都島工業学校、神戸高等工業学校電気科を経て、1937年に大阪帝国大学工学部電気工学科卒業。学生時代はテニス部のキャプテンであった。1949年、大阪大学工学部電気工学科の教授(電気材料学講座)となる。1957年、原子核工学専攻原子炉工学講座教授(電気工学兼務)。1963年には京都大学教授となり、1969年から1970年まで大阪大学工学部長事務取扱を勤めた。 1975年に大阪大学を退官し、近畿大学教授となる。
大泉 源郎(おおいずみ げんろう、1910年(明治43年)1… 大泉 源郎(おおいずみ げんろう、1910年(明治43年)12月20日 - 2005年(平成17年)12月28日)は、日本の政治家。北海道苫小牧市2代目市長(1963年5月~1983年4月)。苫小牧市名誉市民。 勇払郡苫小牧村(現・苫小牧市)に質屋の三男として生まれる。室蘭商業学校に進学して程無く旧制北海中学校に編入し(同級生として坊屋三郎がいる)、同校卒業後に苫小牧へ戻るが職が見つからず、当時の苫小牧町役場に臨時職員として入庁し徴税課員を経て常勤に。1947年(昭和22年)町長の田中正太郎に36歳で助役に抜擢され、1948年(昭和23年)の市制を迎える。 1963年(昭和38年)に引退する田中市長の後継を決める市長選で、北海道衛生部長を務めた稲垣是成らを破って初当選。
奥平 泉一(おくひら せんいち、1910年 <明治43年> … 奥平 泉一(おくひら せんいち、1910年 <明治43年> 12月20日 - 1978年 <昭和53年> 3月26日)は、日本の経営者。住友信託銀行社長を務めた。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 大分県出身。1934年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友信託銀行に入行。1957年5月に取締役に就任し、1962年11月に常務、1963年7月に専務、1969年5月に副社長を経て、1972年5月から1976年9月までに社長を務めた。 1978年3月26日に腎不全のために死去。67歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲二等瑞宝章を追贈された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
清水 三男(しみず みつお、1909年12月20日 - 19… 清水 三男(しみず みつお、1909年12月20日 - 1947年1月27日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。山部好吉のペンネームによる論文もある。 京都市下京区生まれ。京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、1928年第三高等学校を卒業し、京都帝国大学に入学。同期に赤松俊秀らがいる。義兄でもあった中村直勝の影響と、指導教官三浦周行の指導で荘園研究を行った。卒業論文「封建制度の成立に関する一考察」をまとめ、1931年京都帝国大学文学部を卒業する。同年、大学院に進学し、西田直二郎の指導を受ける。唯物史観の立場に立って中世封建社会成立についての研究を進めた。 1931年10月から1934年3月まで、叡山学院で神道史の講師を務めた後、1935年、和歌山県立和歌山商業学校教員となる。
田中 寿美子(たなか すみこ、1909年(明治42年)12月… 田中 寿美子(たなか すみこ、1909年(明治42年)12月20日 - 1995年(平成7年)3月15日)は、日本の政治家、婦人問題評論家、翻訳家。日本社会党中央執行副委員長、日本婦人会議(現・I女性会議)議長、婦人問題懇話会代表などを歴任。 夫は社会党衆議院議員の田中稔男。次女はメキシコ大学院大学アジア・アフリカ研究センター教授の田中道子。 兵庫県神戸市生まれ。高等女学校教師などを経て、1948年、労働省婦人少年局に入省。同僚には森山真弓、赤松良子らがいた。1950年、婦人課長に就任。1955年に退職し、日本社会党に入党した。婦人問題の評論家として活動。 1960年11月の衆院選で夫の田中稔男が次点で落選。
湯浅 光朝(ゆあさ みつとも、1909年12月20日-200… 湯浅 光朝(ゆあさ みつとも、1909年12月20日-2005年1月26日)は、日本の科学史学者。 福井県出身。1932年東京帝国大学理学部物理学科卒。1963年「科学における創造的活動の中心地の移動 十六世紀より二十世紀にいたる」で名古屋大学理学博士。 1936年陸軍士官学校教授、1938年陸軍気象部技師を兼任。1941年菅井準一と岩波物理学講座の歴史年表をまとめた。戦後は中央気象台に入り測器課長。 1954年神戸大学教授、1973年定年退官、名誉教授、専修大学教授。80年退職。 この間、日本科学史学会創立20周年記念事業実行委員長、学会会長を務め、「日本科学技術史大系」(全25巻,別巻1)の記念出版を成功させた。
石川 度治(いしかわ たくじ、1909年12月20日 - 1… 石川 度治(いしかわ たくじ、1909年12月20日 - 1993年5月8日)は、日本の企業経営者、出版人。愛知県出身。 元東京出版販売株式会社(現・株式会社トーハン)社長、会長。元日本出版取次協会会長、元全国出版協会理事長。 1936年、日本大学法学部卒業。 16歳の時、出版取次店の東京堂に入社。 1949年に東京出版販売(1992年にトーハンに社名変更)設立と同時に入社、1952年取締役。常務、専務、副社長を経て、1977年代表取締役社長。1984年から会長。のち顧問。その間、一般社団法人日本出版取次協会会長、公益社団法人全国出版協会理事長(1982年 - 1988年)も歴任した。 親族に元朝日新聞出版社長、会長、元週刊朝日編集長の青木康晋がいる。
山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年12月20日 - 19… 山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年12月20日 - 1987年6月3日)は、日本の哲学者。 長野県諏訪郡豊田村(現・諏訪市)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1929年東京帝国大学文学部哲学科卒業、報知新聞社入社。プロレタリア科学研究所、唯物論研究会に所属し、「哲学のレーニン的段階」に関する論争に参加、山岸辰蔵・薬袋俊二・鵜飼隆夫などの筆名で機関誌『唯物論研究』などを執筆。1937年東京府立第九中学校(現・東京都立北園高等学校)英語教師。1940年読売新聞社外報部嘱託。1943年北隆館出版部長。1946年千葉工業大学予科教授。1957年明治大学経営学部教授。
長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12… 長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12月20日 - 1995年7月16日)は、日本の編集者、文筆家。 岐阜県出身、名古屋市生まれ。1924年、私立目白中学校3年編入学、埴谷雄高が同期。1926年、目白中学校4年修了で第一高等学校 (旧制)に入ったが1928年に病気のため退学。1929年、法政大学予科第二部入学。法政大学文学部哲学科卒。岩波書店、1946年中央公論社勤務、『思想の科学』などの編集に当たる。63年中央公論社を定年退職。本州大学教授、改称で長野大学教授、1984年退職。文学、哲学などについて執筆した。
田村 しげる(たむら しげる、本名:田村 茂、1908年(明… 田村 しげる(たむら しげる、本名:田村 茂、1908年(明治41年)12月20日 - 1980年(昭和55年)10月14日)は、昭和期の作曲家。妻は作詞家の寺尾智沙、娘は女優の田村奈巳。 京都府中郡峰山町(現京丹後市)出身。家は、現在の田村写真館(京丹後市峰山町白銀)1925年(大正14年)地元の宮津中学校を卒業し上京。武蔵野音楽学校に入学。1927年(昭和2年)3月7日に発生した北丹後地震で故郷の家が被災し、財産を喪失。苦学する。 1931年(昭和6年)武蔵野音楽大学を卒業。ビクターレコードから「酔って笑って」を作曲し作曲家デビュー。翌年キングレコードの専属となって松島詩子らの曲を作曲し、さらにポリドールレコードの東海林太郎などにも曲を提供した。
横山 林二(よこやま りんじ、1908年(明治41年)12月… 横山 林二(よこやま りんじ、1908年(明治41年)12月20日-1973年(昭和48年)2月25日)は、日本の自由律俳句の俳人。層雲の荻原井泉水に師事、のちプロレタリア俳句運動に転じ、新興俳句弾圧事件により投獄された。戦後は新俳句人連盟常任委員、現代俳句協会会員。東京都生まれ、本名は吉太郎。 東京都港区に生まれ、芝新網町に育つ。父は露天商、母は日雇労働者、二人の姉は芸者と女工という貧しい家庭だった。新網の特殊小学校、専修商業学校を経て早稲田大学政経学部を卒業。14歳の時に関東大震災を経験。関東大震災朝鮮人虐殺事件や甘粕事件を契機に社会性俳句に目覚め、その年の1923年、荻原井泉水が選者をしていた朝日新聞の自由律俳句欄に投句、翌年にはその井泉水が主宰する層雲に入会、同じ層雲の栗林一石路や橋本夢道らとプロレタリア俳句運動を展開する。
藤枝 静男(ふじえだ しずお、1907年12月20日 - 1… 藤枝 静男(ふじえだ しずお、1907年12月20日 - 1993年4月16日)は、日本の作家、眼科医。本名勝見次郎。静岡県志太郡藤枝町(現・藤枝市)出身。 藤枝町市部(現在の藤枝市本町)の勝見薬局の次男として生まれ、成蹊学園から名古屋の旧制第八高等学校を経て1936年に千葉医科大学(現・千葉大学医学部)を卒業。眼科教授の伊東弥恵治(1891-1958)に師事した。勤務医生活ののち独立、1950年から浜松市で眼科医院を営む傍ら、小説を書き続けた。1968年『空気頭』で芸術選奨文部大臣賞、1974年『愛国者たち』で平林たい子文学賞、1976年『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞、1979年には『悲しいだけ』で野間文芸賞を受賞。
竹内 理三(たけうち りぞう、1907年(明治40年)12月… 竹内 理三(たけうち りぞう、1907年(明治40年)12月20日 - 1997年(平成9年)3月2日)は、日本の歴史学者。専門は日本古代史・中世史。号は竹犂(ちくり)。文学博士。東京大学名誉教授。東京大学史料編纂所所長を務めた。 1907年(明治40年)12月20日、愛知県知多郡岡田町(現・知多市)にて、機織工場の共同経営者である父・竹内仁重と母・志んの三男として生まれた。 岡田尋常小学校を経て、1920年、愛知県立半田中学校(現・愛知県立半田高等学校)に入学。背が低く猛勉強をする竹内は、彼を気に入らない連中からいじめを受けたという。1924年、第八高等学校文科甲類に入学。在学中に同級生と史学研究会を結成し、その会報誌『瑞陵史叢』の創刊号に竹内の処女論文「有史以前の日本」を寄せている。
宮腰 喜助(みやこし きすけ、1905年(明治38年)12月… 宮腰 喜助(みやこし きすけ、1905年(明治38年)12月20日 - 1966年(昭和41年)11月30日)は、昭和期の計理士、税務代理士(税理士)、政治家。衆議院議員。 秋田県山本郡能代港町下川反町(現能代市下川反町)で生まれる。1932年(昭和7年)日本大学経済学部を卒業。計理士、税務代理士の業務に従事した。 東京産業社長、協商社社長、中央観光開発社長などを務めた。 1945年(昭和20年)日本協同党・山本実彦創立委員長秘書、同党中央常任委員に就任。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で秋田県第1区から民主党公認で出馬して当選し、その後改進党に所属して衆議院議員に1期在任した。
正岡 容(まさおか いるる、1904年(明治37年)12月2… 正岡 容(まさおか いるる、1904年(明治37年)12月20日 - 1958年(昭和33年)12月7日)は、日本の作家、落語・寄席研究家。歌舞伎役者の6代目尾上菊五郎の座付作者ともいわれた。前名は平井 蓉(ひらい いるる)。芥川龍之介に褒められ、永井荷風を激怒させ、安藤鶴夫を妬み、稲垣足穂、金子光晴を友とした大衆芸能研究者。 詩人の平井功(1907〜32)は実弟。翻訳家の平井イサクはその子で、正岡にとっては甥にあたる。 東京市神田区生まれ[要出典]、医師平井成の長男。3歳の時、浅草花川戸に住む母方の大叔父・正岡藤蔵家にあずけられると乳母の手で育てられ、1910年(明治43年)12月27日、正岡家の養子に入る。
藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - … 藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - 1981年2月18日)は、愛媛県松山市生まれのプロ野球監督。東京巨人軍初代監督。
今村嘉雄(いまむら よしお、1903年12月20日 - 19… 今村嘉雄(いまむら よしお、1903年12月20日 - 1997年11月19日)は、日本の体育史・剣術研究家。 高知県出身。号は雨嶽、抱川。1932年東京文理科大学教育学科卒、1961年「十九世紀における日本体育の研究」で東京教育大学文学博士。1942年東京高等師範学校教授、1949年東京教育大学教授、のち体育学部長、63年名誉教授。専修大学教授、日本体育指導者連盟理事長、日本武道学会会長、日本学校体育研究連合会会長などを務めた。この間、東京体育専門学校長を兼任。1974年勲三等旭日中綬章受勲。 柳生家の剣術についても研究した。
出羽ヶ嶽 文治郎(でわがたけ ぶんじろう、1902年12月2… 出羽ヶ嶽 文治郎(でわがたけ ぶんじろう、1902年12月20日 - 1950年6月9日)は、山形県南村山郡(現:山形県上山市)出身の元大相撲力士。本名は斎藤 文次郎(さいとう ぶんじろう)(旧姓:佐藤)。
山田 雄三(やまだ ゆうぞう、1902年12月20日 - 1… 山田 雄三(やまだ ゆうぞう、1902年12月20日 - 1996年5月25日)は、日本の経済学者(理論経済学)、一橋大学名誉教授。社会保障研究所長、国民年金審議会会長等を歴任。池田内閣の所得倍増計画に参画した。 山梨県出身。1927年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。福田徳三門下。1929年同助手、1934年同予科教授、1935年助教授、1941年教授。1944年東京商科大学附属図書館長。1949年から1963年までは東京経済大学教授を兼任。一橋大学教授、1955年一橋大学経済学部長。66年定年退官。社会保障研究所(現国立社会保障・人口問題研究所)初代所長。96年従三位。 1951年「日本国民所得推計資料」は国民所得分析の先駆的業績。
西枝 一江(にしえだ いちえ、1901年〈明治34年〉12月… 西枝 一江(にしえだ いちえ、1901年〈明治34年〉12月20日 - 1973年〈昭和48年〉3月15日)は、日本の弁理士、実業家。宮木電機製作所第2代社長、元京セラ取締役。 新潟県西蒲原郡味方村大字西白根(現 新潟市南区西白根)の浄土真宗大谷派・願信寺の西枝正観の四男として出生。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1923年(大正12年)3月に新潟高等学校を卒業、1927年(昭和2年)3月に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。 1927年(昭和2年)に京都府京都市下京区福稲岸ノ上町(現 京都市東山区)の碍子製造会社・松風工業に入社したが、社長と何度も衝突し、昭和恐慌の影響で人員整理の対象となり、1930年(昭和5年)に退社。
保利 茂(ほり しげる、1901年〈明治34年〉12月20日… 保利 茂(ほり しげる、1901年〈明治34年〉12月20日 - 1979年〈昭和54年〉3月4日)は、日本の政治家、元ジャーナリスト。位階は従二位。 衆議院議員(12期)、内閣官房長官(第8代・第33・34代)、衆議院議長(第59代)、労働大臣(第45・46代)、農林大臣(第19代)、自由民主党幹事長(第12代)、自由民主党総務会長(第7代)などを歴任した。 佐賀県東松浦郡鬼塚村(現・唐津市)の零細農家に生まれる。生家は貧しく、父親は車夫、母親や兄弟姉妹は野良仕事や養蚕、行商などで生計を立てていた。保利は家の仕事を手伝いながら小学校に通った。高等小学校を優等の成績で卒業したが、経済的な理由で中学への進学はかなわず、地元の唐津鉄工所の見習工になった。
城戸 芳彦(きど よしひこ、1900年12月20日 - 19… 城戸 芳彦(きど よしひこ、1900年12月20日 - 1973年6月18日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。福岡県出身。 1924年(大正13年)に日本大学商科を卒業。法律評論社に入社したが、サラリーマン生活が嫌で同年12月に高等文官試験司法科を受験して合格し、1925年(大正14年)5月に弁護士になり、同時に同社を退社した。 著作権に興味を持ち、弁護士になって間もなく大日本作曲家協会の法律顧問となり、戦後の1947年(昭和22年)3月から1963年(昭和38年)まで日本音楽著作権協会法律顧問を務めた。1950年(昭和25年)10月に著作権法の改訂の際に、城戸試案をまとめた。1951年(昭和26年)12月に「著作権法研究と音楽著作権」の学位論文で法学博士。
静田 錦波(しずた きんぱ、本名:高岸 近治、1900年〈明… 静田 錦波(しずた きんぱ、本名:高岸 近治、1900年〈明治33年〉12月20日 - 1976年〈昭和51年〉8月10日)は、活動弁士。 群馬県佐波郡宮郷村(現・伊勢崎市)出身。大正時代に石井春波の弟子となり、弁士の技術を学ぶ。 デビュー後は、浅草の電気館や帝国館といった松竹系の直営館に出演。帝国館では現代劇の主席弁士を勤めている。主に松竹蒲田撮影所の作品を解説し、美声と名調子で観客(特に女性)を魅了した。 映画がトーキーの時代を迎えた1935年(昭和10年)には、弁士・楽士の全員解雇を通知する松竹側に対し、争議委員長として交渉するも決裂。3月19日から28日にかけてストライキを指揮した。その後は、主に歌謡曲のナレーションを務めた。
荒井 源次郎(あらい げんじろう、1900年12月20日 -… 荒井 源次郎(あらい げんじろう、1900年12月20日 - 1991年8月31日)は、昭和期の日本の社会運動家。アイヌとして近文アイヌ地返還運動に尽力した。 北海道士別市上士別にて、父ケトンチナイと母レタルオソラの長男として生まれる。1907年に上川第三尋常小学校に入学し、1913年に上川第五尋常小学校(アイヌ児童のみの学校)を卒業。1915年に上川第三尋常高等小学校を卒業し、その4月に旭川商工補習学校に入学し、1917年に卒業する。その年の12月には旭川区裁判所に採用される。源次郎の育った地元ではそれまで民間のサラリーマンや公務員は一人もおらず、アイヌ民族では初めてのことだった。1919年に第七師団司令部事務職に転じ、1924年に第七師団に入隊。
小泉 清(こいずみ きよし、1899年〈明治32年〉12月2… 小泉 清(こいずみ きよし、1899年〈明治32年〉12月20日 - 1962年〈昭和37年〉2月21日)は、日本の洋画家。 1899年、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とセツの三男として東京に生まれる。幼少からゴッホの画集を愛読するなど絵画に親しむ。 1912年、早稲田中学に進学。教師の會津八一(八雲の教え子でもある)に画才を見出され、安藤更生と友人になる。 1919年、東京美術学校西洋画科に進学。先輩の佐伯祐三・前田寛治・里見勝蔵から影響を受ける。1922年、肺病のため中退。ヴァイオリン弾きや、妻の経営するビリヤード場の手伝いで生計を立てる。1934年、母セツが亡くなると、遺産で東京にアトリエ兼新居を構える。
平岡 市三(ひらおか いちぞう、1898年(明治31年)12… 平岡 市三(ひらおか いちぞう、1898年(明治31年)12月20日 - 1952年(昭和27年)3月20日)は、昭和期の経済学者、教育者、政治家。参議院議員(2期)、経済学博士。 静岡県富士郡北山村(現・富士宮市)出身。1923年(大正12年)日本大学商学部法律学科を卒業した。アメリカに留学し、ワシントン大学、アリゾナ大学で学んだ。 米国カリフォルニア州カダループ日本人会書記長兼日本語学校長、日本大学専門部教授、同経済学部教授、同大監事、日本女子経済専門学校(現嘉悦大学)校長、日本女子経済短期大学(のち嘉悦大学短期大学部)学長、静岡県田子浦高等学校(現静岡県立吉原工業高等学校)校長、嘉悦学園理事長、平岡政治経済研究所長、公認会計士試験委員などを務めた。
広沢 吉平(ひろさわ きちへい、1898年12月20日 - … 広沢 吉平(ひろさわ きちへい、1898年12月20日 - 1989年1月4日)は、昭和時代の日本の農業経済学者。茨城県西茨城郡西那珂村(現在の桜川市)出身。専攻は農業史。旭川大学学長として、再建の立役者となった。 地主の末子に生まれ、当初は第二高等学校に入り医大を目指していたが、解剖学の授業に衝撃を受けて農学志望に転向する。1925年東京帝国大学農学部卒業後、更に法学部に転じて1929年卒業する。この間に吉野作造の新人会に所属していた。卒業後は恩師の佐藤寛次の勧めで農学部講師となる。1936年には東京農業大学農学部農業経済学科教授となった。 1941年、日本の支援で中華民国南京政府(汪兆銘政権)が設置した国立上海大学設置に際し、教授に招聘されて上海に渡るが、日本の第二次世界大戦敗北と同時に同大学も閉鎖される。
呉 茂一(くれ しげいち、1897年12月20日 - 197… 呉 茂一(くれ しげいち、1897年12月20日 - 1977年12月28日)は、日本の西洋古典学者で古代ギリシア・ラテン文学者。 1897年、東京帝国大学医科大学教授(精神病学講座)を務めた呉秀三・みな夫妻の長男として東京市本郷区に生まれた。第一高等学校医科をへて、1919年東京帝国大学医学部に入学したが、1922年に文学部英文科へ転じた。有島武郎を崇敬し、生前しばしば訪ねており、また父と同じく精神科医の歌人斎藤茂吉とも終生交流があった。 1925年に大学卒業した後、東京帝国大学文学部言語学科副手に採用された。1926年にヨーロッパ留学し、古代ギリシア文学・ラテン文学を修めた。1929年に帰国し、文学部講師に昇格。
神田 久太郎(かんだ きゅうたろう、1897年12月20日 … 神田 久太郎(かんだ きゅうたろう、1897年12月20日 - 1977年6月15日)は、日本の柔道家。講道館9段。 柔術を修行して肩車や双手刈といった技に長じ戦前の全日本選士権大会や明治神宮競技大会柔道競技で優勝、戦後も50歳で全日本選手権大会に出場するなど永く選手として活動した、昭和初期を代表する柔道家の1人である。警視庁柔道師範や福島県警柔道師範を務めたほか、1964年の東京五輪柔道競技での強化委員や福島県柔道連盟会長等も歴任した。 福島県出身で本籍地は福島市荒町。幼少時より宏道館道場の渡辺峰松の元で約3年、さらに大日本武徳会福島支部にて学んだ。 上京して日本大学中学校(現:日本大学第一中学校・高等学校)に進学するも中退し、時を前後し千葉の武徳殿で戸塚派揚心流山本欽作範士の門下となって1915年には武徳会の初段を取得。
福田 邦三(ふくだ くにぞう、1896年12月20日 - 1… 福田 邦三(ふくだ くにぞう、1896年12月20日 - 1988年10月17日)は日本の生理学者である。旧名川村邦三。東京大学名誉教授、山梨大学名誉教授でもあった。実兄は川村清一と川村多実二。 岡山県津山中学校(旧制)卒業。 東京帝国大学医学部卒、1932年医学博士。論文の題は「蛙の筋が全困憊に至るまでに遊離するエネルギーに就て(英文) 」。名古屋帝国大学教授、戦後東京大学医学部教授、57年定年退官、名誉教授、のち山梨大学教授・学長。
佐野 保(さの たもつ、1896年12月20日 - 1991… 佐野 保(さの たもつ、1896年12月20日 - 1991年1月23日)は、日本の医師。専門は小児科学。医学博士。主な業績に「栄養失調性くる病」「新生児肺炎ウイルス タイプ仙台」の研究報告がある。 香川県生まれ。 旧制第六高等学校を経て1923年に東京帝国大学医学部卒業。1926年、金沢医科大学(現金沢大学医学部)助教授に就任。1931年 - 1932年、ベルリン大学およびハイデルベルク大学へ留学。 1939年、東京大学医学部助教授。1944年、長崎医科大学(現長崎大学医学部)教授。1948年、東北大学医学部教授。1950年、東北大学医学部附属病院院長。1960年、同大学定年退官後、東北公済病院院長。