清水 博(しみず ひろし、1907年9月23日 - 1993… 清水 博(しみず ひろし、1907年9月23日 - 1993年8月10日)は、日本の歴史学者、立教大学名誉教授。専門はアメリカ史。 東京都出身。東京帝国大学卒。第四高等学校講師、1949年立教大学文学部史学科教授に就任。1972年~1974年、アメリカ学会第5代会長。立教大学での教え子に、カナダ史研究者の大原祐子がいる。1976年国際商科大学教授。1985年退職。 アメリカ学会は、1996年、清水を記念する「清水博賞」を創設した。
稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1… 稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1989年6月19日)は、日本の政治家・実業家・軍人。沖縄県国頭郡本部村出身。元沖縄県知事稲嶺惠一の父。
村田 正志(むらた まさし、1904年9月23日 - 200… 村田 正志(むらた まさし、1904年9月23日 - 2009年6月26日)は、日本の歴史学者。専門は、日本南北朝史。三重県出身。 1904年、父の任地茨城県下妻で生れた。三重県富田中学校(現・三重県立四日市高等学校)で学び、1924年3月に卒業。同年4月、國學院大學予科に入学した。 1929年3月に國學院大學史学科を卒業後、同年4月に東京帝国大学史料編纂所嘱託として入所。史料編纂所では『大日本史料』第6編・第7編の編纂に従事した。1942年に史料編纂官補に昇任。1951年、学位論文『南朝歴代天皇御事蹟の研究』を國學院大學に提出して文学博士の学位を取得。 1930年代に南北両朝の取扱について、史学界内外から圧力が起こり、『大日本史料』第6編29は、1939年以降から1951年まで刊行が中断された。
渋谷 昇(澁谷昇、しぶや のぼる、1904年〈明治37年〉9… 渋谷 昇(澁谷昇、しぶや のぼる、1904年〈明治37年〉9月23日 - 1994年〈平成6年〉6月6日)は、日本の実業家・政治家・慈善家。広島県福山市出身。福山市市議会議員。福山通運、ベッセルを創業し、しぶや美術館、福山通運渋谷長寿健康財団、財団法人渋谷育英会を創設した。1956年に紺綬褒章受章、以後、延べ15回受章。 広島県芦品郡有磨村下有地山村(現在の福山市芦田町下有地)に5人兄弟(2男3女)の男(4番目)として、かつて庄屋を務めた旧家に生まれる。父・新太郎は土建業を営み、比較的裕福な家であった。芦田川の治水事業を多く手がけ、地区の中心的な名家であったが、1919年(大正8年)7月に備後地方を襲った未曾有の大水害によって、手がけていた芦田川堤防工事、県道の補修工事、城山 の砂防工事のすべてが跡形も無く崩壊し、大損害をこうむった。
川島 金次(かわしま きんじ、1903年(明治36年)9月2… 川島 金次(かわしま きんじ、1903年(明治36年)9月23日 - 1956年(昭和31年)3月26日)は、日本の新聞記者、政治家。衆議院議員(6期)、大宮市名誉市民(さいたま市名誉市民)。 埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市、現:さいたま市)で生まれる。1918年、国鉄大宮機関区機関車乗務員となり1920年、上野機関区に移動。1925年、中央大学経済科を卒業。 1926年10月、京城府朝鮮醸造協会誌編集主任となった後、日本連合通信社政治部記者となる。1936年、夕刊大宮社を設立し主幹、社長に就任。埼玉新聞社の創設に参画し編集局長となる。1937年大宮町会議員、1940年埼玉県会議員当選。1944年、大宮第一冶金工業を設立し社長に就任。
蘇 歩青(そ ほせい、1902年9月23日 - 2003年3… 蘇 歩青(そ ほせい、1902年9月23日 - 2003年3月17日)は、中国の数学者。復旦大学名誉学長。中国数学会名誉理事長。元中国科学院院士。創価大学名誉博士。 浙江省温州市平陽の山間部の農家に生まれる。浙江省立第十中学校(のちの浙江省温州中学(英語版))に首席で合格して学費全額免除を得て卒業後、1919年から日本に留学した。 1920年に兄が通っていた東京高等工業学校(のちの東京科学大学)電気科に進学。在学中関東大震災で被災したものの生き残り、1924年に卒業し、東北帝国大学理学部数学科に進学した。 仙台では止宿先が同じ家だった茅誠司(のちに東京大学総長)と親しくなり、第二次世界大戦後も交友が続いた。
細川 一(ほそかわ はじめ、1901年9月23日 - 197… 細川 一(ほそかわ はじめ、1901年9月23日 - 1970年10月13日)は、日本の医師、医学者。新日本窒素肥料株式会社(後のチッソ株式会社)水俣工場附属病院長であり、水俣工場が引き起こした水俣病の症状を公式に発見した医師である。 愛媛県西宇和郡三瓶村(現・西予市)生まれ。岡金太郎の長男として生まれる。 旧制愛媛県立宇和島中学校、旧制佐賀高等学校を経て、1927年、東京帝国大学医学部を卒業。 1936年、日本窒素肥料株式会社に入社。朝鮮咸鏡北道慶興郡(現在の北朝鮮)にある阿吾地工場の附属病院長に就いた。1941年、水俣工場附属病院長に就任。その後軍医としてビルマに赴任した。1947年に復員し、水俣工場附属病院長の職に戻る。
伊藤 郷一(いとう ごういち、1900年(明治33年)9月2… 伊藤 郷一(いとう ごういち、1900年(明治33年)9月23日 - 1987年(昭和62年)9月8日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(7期)。 北海道白糠郡白糠村(現白糠町)で生まれる。1927年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。横浜市総持寺高等女学校教師、釧路市文化協会理事長、中華民国新民会河南省総会次長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に北海道第二区から日本自由党所属で出馬し当選。その後、北海道第5区で第27回総選挙まで連続6回当選し、その後第29回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算7期務めた。この間、衆議院図書館運営委員長、同文部委員長、第2次吉田内閣農林政務次官、北海道開発審議会委員、裁判官訴追委員長、自由党両院議員総会副会長、同党政調会文教部長、同党総務、自由民主党文教制度調査会副会長などを歴任した。
上山 珊瑚(かみやま さんご、1900年9月23日 - 19… 上山 珊瑚(かみやま さんご、1900年9月23日 - 1927年9月8日)は、日本の女優。本名は三田小枝子。山川浦路の実妹にして上山草人の義妹。 1900年、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、鉱物学者の守一の娘として生まれる。東京女学館へ通うが、父の事業不振のため、大阪のプール女学院に転校後、中退。姉・千枝子(山川浦路)が上山草人と結婚したつながりから、近代劇協会が上演した舞台『ヴェニスの商人』などに出演。草人の友人だった谷崎潤一郎の紹介で1920年大正活映に入社。葉山三千子主演の『アマチュア倶楽部』に出演。谷崎潤一郎脚本映画『月の囁き』に主演予定だったが企画が頓挫。代わりに、泉鏡花原作、谷崎脚色、トーマス栗原監督の『葛飾砂子』に主演。
中井川 浩(なかいがわ ひろし、1900年(明治33年)9月… 中井川 浩(なかいがわ ひろし、1900年(明治33年)9月23日 – 1949年(昭和24年)11月3日)は、衆議院議員(立憲民政党)。厚生政務次官、陸軍参与官。ジャーナリスト。 茨城県に警察官の息子として生まれる。父の配属の都合で東京・茨城を転々としながら、水戸中学校に入学するも教師を批判したことで放校処分となり、日本中学校を卒業。日本大学専門部を中退し、やまと新聞に入社し水戸支局に入り、1922年(大正11年)に報知新聞へ移って土浦支局長になった。のち茨城民報を創刊するが、茨城民報はいはらき新聞に吸収合併され、そのままいはらき新聞社の取締役を務めた。 土浦町会議員、茨城県会議員に当選する一方で、茨城県出身の民政党代議士原脩次郎が拓務大臣に就任すると拓務省嘱託となり、ついで原が鉄道大臣に就任すると鉄道省嘱託となった。
成重 光真(光眞、なりしげ みつま、1898年(明治31年)… 成重 光真(光眞、なりしげ みつま、1898年(明治31年)9月23日 - 1980年(昭和55年)10月4日)は、大正から昭和期の鉄道技術者、労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員、小倉市会議長。 大分県西国東郡、のちの真玉村(真玉町を経て現豊後高田市)で、代々庄屋を務めた成重家に生まれる。実家が破産し一家で小倉市に移った。1918年(大正7年)小倉工業学校(現福岡県立小倉工業高等学校)機械科を卒業した。 大連に渡り、大連機械、山東鉄道(膠済線)で勤務し、同鉄道従業員組合長を務め、1923年(大正12年)山東鉄道が中国に還付され帰国した。鉄道省門司鉄道局技手に任官し小倉工場に配属された。現業委員会小倉支部長に3期在任。
森 信三(もり のぶぞう、1896年(明治29年)9月23日… 森 信三(もり のぶぞう、1896年(明治29年)9月23日 - 1992年(平成4年)11月21日)は、日本の哲学者・教育者。通称、しんぞう。 愛知県知多郡武豊町で父・端山(はしやま)俊太郎、母・はつの三男として生まれる。2歳で半田町(現・半田市岩滑地区)の森家に養子に出され、以来森姓となる。 1907年(明治40年)、半田町立岩滑尋常小学校(現・半田市立岩滑小学校)卒業。1916年(大正5年)、愛知県第一師範学校(現・愛知教育大学)卒業。1920年(大正9年)、広島高等師範学校英語科に入学、福島政雄・西晋一郎に学ぶ。1923年(大正12年)、京都帝国大学文学部哲学科に入学し、主任教授西田幾多郎の教えを受ける。
野村 光一(のむら こういち、1895年9月23日 - 19… 野村 光一(のむら こういち、1895年9月23日 - 1988年5月22日)は、日本の音楽評論家。 娘の輝子は東京藝術大学ピアノ科を卒業し、谷崎潤一郎の娘にピアノを教えていたが、安田善次郎の曾孫で建築設計士の安田紫気郎と結婚した。遠縁に佐々木勇之助(佐々木の妻の兄の養子が光一の父)
村田 治郎(むらた じろう、1895年9月23日 - 198… 村田 治郎(むらた じろう、1895年9月23日 - 1985年9月22日) は、建築史家。京都大学名誉教授、明石工業高等専門学校名誉教授。 1895年、山口県大島郡で生まれた。幼少期は郷里である同地で過ごし、中学校校長の父の転勤に伴って中学校入学の際に兵庫に出て、1912年に兵庫県立第一神戸中学校に入学。1917年より第一高等学校第二部甲類で学び、1920年7月に卒業。同年、京都帝国大学工学部建築学科に入学。建築学科は同年に新設された学科であり、武田五一、日比忠彦、天沼俊一教授の教育体制で14名の学生が在籍した。1923年3月、京都帝国大学工学部建築学科を卒業し、1年間の兵役に就いた。卒業論文は『新羅瓦塼雑考』。
冨永 格五郎(とみなが かくごろう、1894年9月23日 -… 冨永 格五郎(とみなが かくごろう、1894年9月23日 - 1954年9月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 北海道出身。1915年旧制函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)卒。函館市議、北海道議を経て、北海商報社代表取締役、函館水産物、巴冷蔵各(株)社長などを務める。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で北海道1区(大選挙区制)から立候補するが落選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において北海道3区から立候補して初当選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では民主自由党公認で立候補して当選した。この間衆議院水産委員長や民主自由党総務を歴任した。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。
中越 義幸(なかごし / なかごえ よしゆき、1894年(明… 中越 義幸(なかごし / なかごえ よしゆき、1894年(明治27年)9月23日 - 1978年(昭和53年)3月1日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、高知県高岡郡檮原村長、同東津野村長。位階は従五位。 高知県高岡郡西津野村越知面(檮原村を経て現檮原町)で、中越義隆、光子の二男として生まれる。1915年(大正4年)高知県立農林学校(現高知県立高知農業高等学校)を卒業。1921年(大正10年)家督を相続した。農業を営む。 檮原村農会技手に就任。その後青年学校教員となる。檮原村産業組合理事、檮原村信用組合長、高岡郡畜産組合長、高岡郡教育会長、檮原村警防団長、高知県椎茸組合長、高知県森林組合連合会常務理事、同副会長、同県大政翼賛会組織部長、同会事務局長などを務めた。
西村 久之(にしむら ひさゆき、1893年(明治26年)9月… 西村 久之(にしむら ひさゆき、1893年(明治26年)9月23日 - 1964年(昭和39年)2月4日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・牟田。 長崎県南松浦郡岐宿町(現・五島市)出身。牟田久蔵の二男に生まれ、力之助の養子となる。早稲田大学商科で学び、1914年に中退した。漁業を営む。 南松浦郡岐宿町会議員となり、また長崎県会議員にも選出されて、同参事会員、同議長も務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に長崎県選挙区から日本自由党公認で立候補して初当選。以後、第24回総選挙まで長崎県第2区から立候補して再選された。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙では次点で落選したが、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙で再選され、衆議院議員に通算4期在任した。
中嶋 勝一(なかしま かついち、1892年(明治25年)9月… 中嶋 勝一(なかしま かついち、1892年(明治25年)9月23日 - 1965年(昭和40年)9月27日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。中島と表記する事例がある。 山口県玖珂郡川越村(周東町を経て現岩国市周東町)で、中嶋佐吉の長男として生まれる。小学校を卒業した。 下関唐戸乾物商業組合理事、日満大豆製粉工業取締役社長、中嶋重石鉱業取締役社長、日満食品工業取締役社長、仁田鉱山取締役などを務めた。 政界では、下関市会議員に選出され、同副議長も務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で山口県第2区から民主党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、民主党山口県支部長などを務めた。
玉田 美郎(たまだ よしお、1891年9月23日 - 198… 玉田 美郎(たまだ よしお、1891年9月23日 - 1989年8月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。新潟県糸魚川市出身。法学者の玉田弘毅は息子。 歩兵大隊長のときに短期の戦車補備教育をうけ、戦車第4大隊付として一年余勤務して歩兵にもどり、また昭和11年、陸軍戦車学校で師団軽装甲車要員の教官となって、以後戦車拡張期における部隊長たるべき人の標準的コースを歩んだ。 ノモンハン事件において独立混成第1旅団麾下の戦車第4連隊連隊長として戦史上初の装甲部隊による大規模な戦車夜襲を決行した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
宇賀 武(うが たけし、1891年(明治24年)9月23日 … 宇賀 武(うが たけし、1891年(明治24年)9月23日 - 1945年(昭和20年)3月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1891年(明治24年)9月、高知県幡多郡中村町(中村市を経て現四万十市)に生まれた。県立第三中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官。 1920年(大正9年)から1922年(大正11年)の間、シベリア出兵に従軍。1932年(昭和7年)、満州事変に出兵。1937年(昭和12年)には日中戦争(支那事変)に従軍し中南支各地を転戦。功により1940年(昭和15年)、旭三、功四級金鵄勲章を受ける。同年、山砲兵第55連隊長になる。
角田 覚治(かくた かくじ、1890年(明治23年)9月23… 角田 覚治(かくた かくじ、1890年(明治23年)9月23日 - 1944年(昭和19年)8月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。テニアン島で戦死。 1890年(明治23年)9月23日、新潟県南蒲原郡槻田村字諏訪新田(現・三条市諏訪)で農家の父角田利八と母角田ソメの七人兄弟(兄1人妹2人弟3人)の二男に生まれる。1908年3月、旧制三条中学校(現:新潟県立三条高校)卒業。在学中に新潟港遠足に行った折見た海軍士官に憧れて受験し、1908年(明治41年)9月14日、海軍兵学校第39期生として入校した。入校時の席次は150人中102番。1911年(明治44年)7月18日、148人中45番の成績で卒業。
河井 昇三郎(かわい しょうざぶろう、1890年9月23日 … 河井 昇三郎(かわい しょうざぶろう、1890年9月23日 - 1973年9月18日)は、日本の実業家。住友本社常務理事。大阪建物社長。 静岡県掛川市出身。東京帝国大学政治学科を1915年に卒業し、住友に入る。総本店、伸銅所尼崎工場、別子銅山を経て1925年欧米留学。1927年製鋼所、以降本社総務部部長、人事部部長、常務理事兼経理部長などを歴任。この間住友各社の役員を兼務。1946年辞任。1949年大阪建物社長、1960年辞任。 静岡県掛川市出身の政治家河井彌八の血縁者。 神宮寺(静岡県掛川市仁藤65)敷地内墓地にある墓所にて一族と共に眠る。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
伊藤 康安(いとう こうあん、1890年(明治23年)9月2… 伊藤 康安(いとう こうあん、1890年(明治23年)9月23日 - 1965年(昭和40年)12月10日)は、臨済宗僧侶・仏教学者。 東京・北品川の沢庵宗彭ゆかりの臨済宗春雨寺に生まれる。1912年早稲田大学文学部和漢文学科卒。早稲田第一高等学院教授、高等師範部教授、1942年早大教授。61年定年退任、名誉教授。1941-59年早稲田大学仏教青年会会長。中世文学、仏教文学を教えた。のち春雨寺主管。
抜山 平一(ぬきやま へいいち、1889年9月23日-196… 抜山 平一(ぬきやま へいいち、1889年9月23日-1965年8月18日)は、東京府東京市出身の電気工学者。
石川 善盛(いしかわ よしもり、1888年(明治21年)9月… 石川 善盛(いしかわ よしもり、1888年(明治21年)9月23日 - 1946年(昭和21年)1月18日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。弁護士。 沖縄県中頭郡美里村(現在の沖縄市)出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、弁護士を開業した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に沖縄産業株式会社取締役を務めた。
下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23… 下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23日 - 1968年(昭和43年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は正三位勲一等功三級。 陸軍大臣(第56・57代)、教育総監(第27代)、参議院議員(1期)などを歴任した。 本籍地は高知県。旧土佐藩士で、陸軍中佐・金沢聯隊区司令官の下村定辞の長男として石川県金沢市に生まれる。 金沢第一中学校、名古屋陸軍幼年学校を経て、1908年(明治41年)12月、陸軍士官学校第20期を皇族を除いた6番/273名の成績で卒業する。砲兵科では、橋本群(陸軍省軍務局軍事課長、参謀本部第1部長を歴任、のち中将)に次いで2番の成績であった。
二代目 市川 松蔦(いちかわ しょうちょう、1886年(明治… 二代目 市川 松蔦(いちかわ しょうちょう、1886年(明治19年)9月23日 - 1940年(昭和15年)8月19日)は歌舞伎役者。本名は鈴木 鐵彌(すずき てつや)。屋号は若松屋。 東京市四谷区(現在の東京都新宿区)出身。初代市川左團次の門人となり、1896年(明治29年) 9月東京歌舞伎座『鬼一法眼三略巻』で市川左喜松を名乗って初舞台。師の死後は子息の二代目市川左團次一座に加わり、若女形として腕を上げる。 1906年(明治39年)9月明治座の初代左團次追善興行『世響太鼓功』でお静実ハ梅が枝と巴御前の二役を勤め市川莚若と改名。1911年(明治44年) 正月明治座で二代目市川松蔦を襲名した。1913年(大正2年) には二代目左團次の妹で日本舞踊の高橋幸子と結婚。
寺島 健(てらしま けん、1882年(明治15年)9月23日… 寺島 健(てらしま けん、1882年(明治15年)9月23日 - 1972年(昭和47年)10月30日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍中将で予備役となったのち、東條内閣で逓信大臣、鉄道大臣を務めた。 戦国時代は武田信虎に仕え、江戸時代中期以降、紀州徳川家御付家老安藤家家中であった。父寺島良業は和歌山県庁に勤務し、寺島はその四男である。妻は尾本知道の四女悦子 。 和歌山中学に進んだ寺島は、中学の先輩で海軍兵学校に在籍していた岡本米次郎、野村吉三郎の生徒服姿に憧れ、海軍兵学校への進学を決めた。志願者1374名中合格者は200名で、中学四年修了で受験した寺島の席次は16番であった。寺島は学年が進むとともに席次を上げ、卒業席次は4番である。
三浦 碌郎(みうら ろくろう、1882年(明治15年)9月2… 三浦 碌郎(みうら ろくろう、1882年(明治15年)9月23日 - 1969年(昭和44年)12月16日)は、日本の内務・台湾総督府官僚、政治家。立川市長。 三浦覚の長男として京都府で生まれる。第三高等学校を経て、1908年10月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。1909年、内務省に入り警視庁警部となる。1911年11月、高等文官試験行政科試験に合格。 以後、永代橋警察署長、警視庁警視、深川警察署長、扇橋警察署長、四谷警察署長、熊本県宇土郡長などを歴任。 1919年6月、台湾総督府に転じ、同府警視兼同府警務官・監察官となる。同府事務官・警務局衛生課長、同府州事務官・新竹州内務部長などを経て、1924年12月、高雄州知事に就任。
田中 萬逸(田中 万逸、たなか まんいつ、1882年〈明治1… 田中 萬逸(田中 万逸、たなか まんいつ、1882年〈明治15年〉9月23日 - 1963年〈昭和38年〉12月5日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(14期)、国務大臣・衆議院副議長。 現在の大阪府富田林市に生まれる。早稲田大学を中退後、報知新聞記者を経て、1916年故郷の大阪府から衆議院補欠選挙に繰り上げ当選。以後当選14回。戦前は憲政会・立憲民政党に所属し、1939年阿部内閣において逓信政務次官を務める。 戦後は日本進歩党の結党に参加し幹事長を務める。1947年第1次吉田内閣が発足すると、党総裁幣原喜重郎の推挙により国務大臣(無任所)として入閣。同年新憲法下初の衆議院副議長となる。
花見 朔巳(はなみ さくみ、1881年9月23日 - 194… 花見 朔巳(はなみ さくみ、1881年9月23日 - 1946年4月27日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学史料編纂官、大学講師などを務める。主な研究対象は会津、名古屋、安土桃山時代の三分野で、安土桃山史の権威であった。歴史地理学会幹事。 海軍中佐(海兵57期)で天霧駆逐艦長としてJ.F.ケネディー海軍中尉指揮する魚雷艇を撃沈し、戦後に塩川町長を務めた花見弘平、陸軍少佐の花見侃(第36師団参謀、陸士47期、陸大57期)は甥である。 現在の福島県喜多方市に地主の次男として生まれる。会津中学に学び、植村恒三郎、陸軍少将佐藤美千代と同期であった。1903年に第二高等学校を卒業し、1906年に東京帝国大学文科大学を卒業。
横田 郷助(よこた ごうすけ、旧字体: 橫田鄕助、1880年… 横田 郷助(よこた ごうすけ、旧字体: 橫田鄕助、1880年(明治13年)9月23日 - 1931年(昭和6年)10月11日)は、内務官僚、南洋庁長官。 山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)に横田稲稔の長男として生まれる。旧制山口高等学校卒業を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、神奈川県属に任じられた。同年11月に高等文官試験に合格し、翌年から樺太民政署事務官を務めた。1909年(明治41年)に徳島県事務官となり、群馬県事務官を経て、1912年(大正元年)に群馬県内務部長に就任した。1915年(大正4年)からは三重県内務部長となり、1918年(大正7年)には賞勲局書記官に転じた。
青山 士(あおやま あきら、1878年9月23日 - 196… 青山 士(あおやま あきら、1878年9月23日 - 1963年3月21日)は、日本の土木技師、内務官僚。位階は従三位。勲等は勲三等。公益社団法人土木学会名誉会員。 ニューヨークセントラル・アンド・ハドソンリバー鉄道、パナマ運河工事委員会での勤務を経て内務技師となり、新潟土木出張所所長、内務技監、社団法人土木学会会長などを歴任した。 静岡県生まれの土木技術者である。内村鑑三の門下となり、東京帝国大学工科大学では広井勇の指導を受ける。パナマ運河建設に携わった唯一の日本人として知られる。帰国後は内務省に入省し、東京土木出張所においては荒川放水路の建設を指揮した。また、新潟土木出張所では所長として信濃川大河津分水路の改修工事を指揮した。
伍堂 卓雄(ごどう たくお、1877年(明治10年)9月23… 伍堂 卓雄(ごどう たくお、1877年(明治10年)9月23日 - 1956年(昭和31年)4月7日)は、日本の政治家、実業家、海軍造兵中将。東京府士族。正三位。工学博士。
木下 淑夫(きのした よしお、1874年9月23日 - 19… 木下 淑夫(きのした よしお、1874年9月23日 - 1923年9月6日)は、日本の鉄道官僚。鉄道事業を旅客サービス業としてとらえ、鉄道サービスの向上を旨として尽力したが、改主建従の考えで時の政権と対立して左遷された。 日本を観光による経済振興および観光による鉄道旅客収入増加の必要性を説き、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社)の生みの親となった。また東京ステーションホテル開設に尽力し、日本を欧米に紹介するために発行された旅行ガイドブックである『An Official Guide to Eastern Asia』(東アジア旅行案内)の発案者でもある。 1874年9月23日、京都府熊野郡神野村(現在の京丹後市久美浜町神野)の酒蔵の長男として生まれる(旧名梅蔵)。
西郷 孤月(さいごう こげつ、明治6年(1873年)9月23… 西郷 孤月(さいごう こげつ、明治6年(1873年)9月23日 - 大正元年(1912年)8月31日)は、明治期の日本画家、美術教育者である。本名は規(めぐる)。日本美術院の創設者のひとり。 筑摩県筑摩郡松本深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・西郷績(いさお)の長男として生まれる。祖先は松平康長に仕えた三河西郷氏。幼少時に東京神田に引っ越し、明治12年(1879年)6月、東京高等師範学校附属小学校、明治17年(1884年)7月、本郷新花町の私立独逸語学校、明治19年(1886年)、神田錦町私立東京英語学校で学ぶ。語学を学ぼうとしたのは明治時代の風潮の1つで、語学を身に付けておけばなんとか生計が立つとの考えからであった。
原口 聞一(はらぐち ぶんいち、1873年9月23日 - 1… 原口 聞一(はらぐち ぶんいち、1873年9月23日 - 1935年6月12日)は、おもに清末から満州国の時代の中国東北部で活動した、日本の実業家。初期の「満州浪人」(大陸浪人)の代表的人物とされた。 長崎県西彼杵郡瀬戸村に生まれる。 東京帝国大学に学ぶが、在学中から東亜同文会の設立などに関わり、1899年に大学を中退し、清末の中国へ渡った。 その後は、中国東北部における日系の様々な事業に関わり、1900年に日華合弁清和社長となったのをはじめ、数社の重役に名を連ねた。 1905年に大連で創刊された『満洲日日新聞』に立ち上げ段階から関わり、1909年に奉天支局長となった。 1911年の辛亥革命に際して、革命党を援助したとして退去を強いられ帰国したが、1913年に再び大陸へ渡り、1914年には奉天居留民会長となった。
岡松 参太郎(おかまつ さんたろう、1871年9月23日(明… 岡松 参太郎(おかまつ さんたろう、1871年9月23日(明治4年8月9日) - 1921年(大正10年)12月15日)は、日本の法学者。専門は民法学。学位は、法学博士(1901年)。京都帝国大学法科大学(現在の京都大学法学部)教授。儒学者の岡松甕谷の三男。弟子に末川博など。 宮崎県延岡市出身。東京府尋常中学(のちの東京府立第一中学校)、第一高等学校を経て、明治27年(1894年)に帝国大学法科大学英法科卒業。ただちに助教授に就任し、明治29年(1896年) - 32年(1899年)の間、民法研究のため欧州留学し、民族法学者ヨーゼフ・コーラーらと交流する機会を得た。 明治32年(1899年)、京都帝国大学法科大学教授に就任。
宮崎 友太郎(みやさき ともたろう、1868年9月23日(明… 宮崎 友太郎(みやさき ともたろう、1868年9月23日(明治元年8月8日) - 1929年(昭和4年)12月18日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(2期)。 駿河国有渡郡弥勒町(静岡県有渡郡大里村、安倍郡大里村、静岡市を経て現静岡市葵区)出身。宮崎安七郎の長男として生まれ、1898年(明治31年)3月、家督を相続する。静岡中学、専修学校に学び、大里村会議員、所得税調査委員、安倍川水害予防組合議員を務める。 財界では、静岡実業銀行常務取締役、静岡印刷取締役、静岡米穀株式取引所、東海瓦斯、静岡軽便鉄道監査役、富士電気工業、銅山川電力、東洋醸造各取締役、静岡瓦斯監査役、駿河銀行取締役、静岡漁業監査役、静岡貯蓄銀行、吉野水電興業、此花商事各取締役などを歴任した。
永井 一孝(ながい ひでのり、1868年9月23日(慶応4年… 永井 一孝(ながい ひでのり、1868年9月23日(慶応4年8月8日) - 1958年(昭和33年)12月16日)は、日本の国文学者。旧姓は池谷。号は空外。 信濃国筑摩郡福島(長野県木曽郡木曽町福島)出身。1893年東京専門学校文学科第1回卒業生。英文学・演劇学をめざすが、坪内逍遥の勧めで訓詁を関根正直に学ぶ。1895年東京専門学校講師、1907年早稲田大学教授、高等師範部、高等予科で国文学を担当。1943年定年退職して名誉教授。門下に山口剛、竹野長次、佐々木八郎らがいる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
粕谷 義三(かすや ぎぞう、1866年9月23日〈慶応2年8… 粕谷 義三(かすや ぎぞう、1866年9月23日〈慶応2年8月15日〉- 1930年〈昭和5年〉5月4日)は、明治から昭和期の政治家。号は竹堂。旧姓・橋本。 武蔵国入間郡上藤沢村(現在の埼玉県入間市)の地主・橋本要作の長男として生まれる。1879年(明治12年)に上京して漢学と洋学を修め、一時川越にあった郡役所の書記となるが、1886年(明治19年)にアメリカに留学、サンフランシスコで一時邦字新聞社に務めた後、ミシガン大学に入学、1890年(明治23年)に法学士を得て帰国して、自由新聞の主筆となる。翌年2月、同じ入間郡豊岡町の粕谷圭助の養子となり、翌月兄佳太郞の跡を相続。 1892年(明治25年)に埼玉県会議員に当選して県会副議長を務め、1898年(明治31年)の第5回衆議院議員総選挙に埼玉県第2区から自由党候補として出馬して初当選、以後憲政党・立憲政友会に移りながら通算10回当選を果たした。
大見嵜 八之助(おおみさき はちのすけ、1866年9月23日… 大見嵜 八之助(おおみさき はちのすけ、1866年9月23日(慶応2年8月15日) - 1939年10月9日)は、現在の千葉県大網白里市四天木出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は原 夘三郎(旧姓斎藤)。6代阿武松。174cm、83kg。最高位は東前頭2枚目。紫雲竜吉之助の伯父。 1887年1月序ノ口、1893年1月十両昇進。十両を1場所で通過し、1894年1月入幕を果たした。この時の四股名は玉竜。以来1903年1月の引退まで三役には昇進できなかったが幕内上位をキープした。1899年5月新進の関脇梅ノ谷、1901年5月にも大関梅ノ谷に勝利。引退後は阿武松を襲名し独立。甥の紫雲竜などを育成。勝負検査役を長年務め、1939年年寄として73歳で没。
田村 順之助(たむら じゅんのすけ、1858年9月23日(安… 田村 順之助(たむら じゅんのすけ、1858年9月23日(安政5年8月17日)- 1939年(昭和14年)1月19日)は、明治・大正期の政治家。衆議院議員。 下野国都賀郡、のちの栃木県下都賀郡水代村(大平村、大平町を経て現栃木市)で、農業・田村政七の長男として生まれる。松本暢に学んだ。1882年(明治15年)7月、家督を相続。自由民権運動に加わり、1883年(明治16年)自由党に入党した。1884年(明治17年)官吏侮辱被告事件に関与したが免訴となり、加波山事件に連座し投獄された。同年、栃木県会議員に選出され、1892年(明治25年)まで在任し、1890年(明治23年)副議長となった。 大同団結運動に加わり、下野有志懇親会の発起人に就任。
平賀 義美(ひらが よしみ、安政4年8月6日(1857年9月… 平賀 義美(ひらが よしみ、安政4年8月6日(1857年9月23日) - 昭和18年(1943年)3月2日)は、日本の応用化学者。初名は石松决(いしまつ さだむ)。 筑前国(現・福岡県)出身。福岡藩の貢進生として1870年に大学南校入学。ロバート・ウィリアム・アトキンソンに師事して理化学を学び、1878年東京大学化学科卒業。その後、イギリス・オーエンス大学に留学し、有機化学と染色を学んだほか、現地の縫製会社で働いて実地研修をした。 帰国後の1881年に東京職工学校教諭。1882年に親戚の判事・平賀義質の死去の際、その娘婿となり、名前を平賀義美に改名。1890年、農商務省技師となる。商工局第三課長時代に、新しく農商務大臣に就任した後藤象二郎が局長人事に不満をもったことから1893年に退職し無職となったが、1894年に大阪府立商品陳列所長となり、大阪府の工業顧問にも就任した。
浅見 又蔵(あさみ またぞう、天保10年8月16日〈1839… 浅見 又蔵(あさみ またぞう、天保10年8月16日〈1839年9月23日〉 - 明治33年〈1900年〉4月21日)は、滋賀県の実業家。太湖汽船会社社長、第21国立銀行頭取・第64国立銀行頭取等を歴任、篤志家として様々な支援活動を行い、晩年は日本赤十字社の活動に対しても積極的に関わった。 天保10年8月16日(1839年9月23日)、近江坂田郡長浜宮町(現滋賀県長浜市神戸町)の薬種問屋商若森彦右衛門と母田中氏との3男として生まれ、幼名得御寅吉と言う。数え12歳の時に親戚で京で呉服商を営む土田家に奉公に出、帰郷後播州明石に伊藤家に養子として入るが半年で破断となり、万延元年(1860年)12月長浜で縮緬製造を生業とする浅見又之助の養子となった。
原 忠順(はら ただゆき、1834年9月23日(天保5年8月… 原 忠順(はら ただゆき、1834年9月23日(天保5年8月21日) - 1894年(明治27年)10月28日)は、幕末から明治時代の政治家、武士。貴族院多額納税者議員。通称は弥太右衛門。 肥前鹿島藩士。藩命で江戸の昌平黌に学ぶ。藩主鍋島直彬の側近を務め藩論を尊王に纏めた。鹿島藩大参事を経て、東京府に出仕する。1872年(明治5年)には直彬と共にアメリカに留学し『米政撮要』を著した。1874年(明治7年)内務省補となり、1879年(明治12年)直彬が初代沖縄県令に就任した際に沖縄県少書記官、同大書記官を歴任し、1881年(明治14年)9月に辞任するまでの2年半、県令と共に県政運営にあたった。 1890年(明治23年)佐賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から務めたが、在任中に死去した。
佐倉 ユキ(さくら ユキ、9月23日 - )は、日本の女性歌… 佐倉 ユキ(さくら ユキ、9月23日 - )は、日本の女性歌手。血液型はA型。愛知県あま市出身、名古屋芸術大学音楽学部卒業。 愛称は「ユッキー」「ユキんこ」「ひめ」。アイドル・アニメソング系ソロ活動 / Pops系活動(ユニット・バンドコラボ)…2色のカラーをもつ。 「『ポップカルチャー』界をリードする新生歌姫」として東海地区を拠点にライブ、イベント出演。アニメやアニメソングが大好きで、自身の楽曲が「アニソン」になることを目標に活動。パーソナリティを担当する『FMトワイライト』では、アニソンを紹介する「O・S・S(音楽は世界を救う)」のコーナーを展開。(FMトワイライト公開放送SP時に水木一郎氏が「ちゃおっすゼーット!」と言い登場)小学生時代のあだ名とチャオから「ちゃおっす!」という挨拶用語を作る。
藤井 かほり(ふじい かおり、9月23日 - )は、日本の女… 藤井 かほり(ふじい かおり、9月23日 - )は、日本の女優、ファッションモデル、ソムリエ。多摩美術大学美術学部グラフィックデザイン学科卒業。所属事務所は(株)キャストパワー。
辰守 伶郎(たつもり れお、9月23日 - )は、日本の男性… 辰守 伶郎(たつもり れお、9月23日 - )は、日本の男性声優。アクロスエンタテインメント所属。大阪府出身。 旧芸名は中西 伶郎(なかにし れお)。 父親がアメリカンフットボール選手だったことから、自身も9歳の頃よりアメフトを始める。高校時代には全国高校アメリカンフットボール選手権大会決勝戦に出場し、高校生オールスター選手に選抜された経験がある。スポーツ推薦で立命館大学に入学し、実業団チームからもスカウトされる有望選手であったが、練習で怪我をしたことで現役を引退。2008年に大学が第63回甲子園ボウルに関西代表として進出した際には、怪我の影響からか選手登録はされていなかった。 アメフト引退後は一転して役者を目指しドラマや映画に出演していた。
阿部 真由美(あべ まゆみ、9月23日 - )は、福井県を拠… 阿部 真由美(あべ まゆみ、9月23日 - )は、福井県を拠点に活動する日本のフリーアナウンサー。 福井県福井市出身。福井県立高志高等学校、関西大学卒業。高校時代にはハンドボール部に所属していた。 ラジオでは、福井放送の番組を中心に活動。番組によっては、すべて平仮名表記のあべ まゆみ名義で担当することもある。 私生活では2002年に結婚。そして2007年3月に長女が誕生し、1児の母になる。 『午後はとことんワイド』出演当時の2009年には、サークルKサンクスのコラボレーション企画により、『おじゃまっテレ』出演者のゆのせ徹朗とともにFBCオリジナルのコンビニ弁当2品を考案した。これらは、同年6月30日から7月13日まで北陸3県のサークルKサンクス各店で販売された。