伊藤 敬一(いとう けいいち、1928年2月27日 - 19… 伊藤 敬一(いとう けいいち、1928年2月27日 - 1992年7月22日)は、囲碁ライター。兵庫県出身。筆名=うえだひろし。 1951年、中央大学法学部卒業。在学中に囲碁部に在籍し、日本棋院に出入りし、1953年に囲碁ライターとなる。 雑誌「棋道」「囲碁クラブ」等に連載し、また十段戦、新人王戦の担当で、「週刊碁」「レッツ碁」に観戦記を執筆。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
吉上 昭三(よしがみ しょうぞう、1928年2月27日 - … 吉上 昭三(よしがみ しょうぞう、1928年2月27日 - 1996年1月28日)は、日本のロシア・ポーランド文学者、翻訳家。東京大学名誉教授。 大阪市出身。1951年早稲田大学露文科卒業後、ラヂオプレス通信社入社。1964年より1年間ポーランドに留学。1973年、東京大学教養学部講師、1975年、助教授。1980年、教授。1988年定年退官後、創価大学教授となる。1990年、ポーランドに関する総合文化誌「ポロニカ」を創刊。1991年、ポーランド功労黄金勲章。自宅の火事により焼死。 妻は児童文学者・内田莉莎子(父は洋画家・内田巌。祖父は評論家・内田魯庵)。息子は翻訳家の吉上恭太。
堤 精二(つつみ せいじ、1927年2月27日 -2017年… 堤 精二(つつみ せいじ、1927年2月27日 -2017年11月7日)は、日本の国文学者。お茶の水女子大学名誉教授。専門は日本近世文学、特に井原西鶴。息子に堤玄太がいる。 東京市小石川区(現在の東京都文京区)に生まれる。1945年(昭和20年)3月、都立上野中学校(現在の東京都立上野高等学校)卒業。1948年(昭和23年)3月、松本高等学校(現在の信州大学)文科乙類卒業。松本高校在学時代は蹴球ばかりしていて1年留年した。松本高校の体育教師は彼に97点という成績をつけたが、これはこの教師が松本高校で教えていた期間中最高の点数だったという。 1952年(昭和27年)3月、東京大学文学部国語国文学科卒業、同大学文学部助手。
箕浦 宗吉(みのうら そうきち、1927年(昭和2年)2月2… 箕浦 宗吉(みのうら そうきち、1927年(昭和2年)2月27日 - 2016年5月18日)は、日本の経営者。元名古屋鉄道株式会社社長・会長。元名古屋商工会議所会頭。元日本銀行理事。岐阜県出身。
細川汀(ほそかわ みぎわ、1927年(昭和2年)2月27日-… 細川汀(ほそかわ みぎわ、1927年(昭和2年)2月27日-2020年(令和2年)1月21日)は、日本の医師、医学者。 岡山県高梁市生まれ。京都大学医学部卒、1961年三重県立大学医学博士。大阪市立衛生研究所、関西医科大学衛生学公衆衛生学教室講師、京都府立衛生公害研究所、京都府向陽保健所長、京都市衛生研究所、京都府立大学教授、90年定年、神戸健康共和会労働医学研究所。京都府交通・労働等災害救済事業団。働く人の生命と健康を守る全国センターなどの参与。専攻は労働医学、社会医学、地域保健医療福祉。「過労死」の語の名付け親の一人。
江口 秀人(えぐち ひでと、1927年2月27日 - 201… 江口 秀人(えぐち ひでと、1927年2月27日 - 2012年11月22日)は、日本の経営者。ヤマハ発動機社長、会長を務めた。長崎県長崎市出身。 1953年に東京大学経済学部を卒業し、同年に日本楽器製造(現在のヤマハ)に入社した。1968年に取締役に就任し、1969年に常務、1980年1月に取締役を経て、1983年8月に社長に就任した。1994年4月に会長に就任し、1997年6月には顧問に就任。1980年7月から1981年5月までにヤマハ副社長と1992年2月から1993年6月までにヤマハ会長も務め、1995年からはヤマハ音楽振興会理事長も務めた。 1998年にフランスからレジオン・ド・ヌール勲章を受章。
土居 養二(どい ようじ、1927年2月27日 - 2006… 土居 養二(どい ようじ、1927年2月27日 - 2006年8月22日 )は、日本の植物病理学者。東京大学名誉教授。東京都生まれ。 出生から戦中、戦後の混乱期を東京で過ごす。1951年3月、東京大学農学部農学科(植物病理学講座)を卒業。同年4月、農林省農業技術研究所病理昆虫部病理科に就職するが、1954年、家業(光学器機製造)を継ぐために株式会社ビューティカメラに転職する。その後は研究から離れていたものの、1964年、東京大学農学部植物病理学講座に研究生として戻り、以後1966年に助手、1971年に助教授、1981年には教授(農学部植物病理学講座担任)に任命され、研究・教育の道を一筋に進む。電子顕微鏡、ウイルスについて高い関心を有し、植物ウイルスの探索とウイルスの細胞内所見を広範に探究した。
宇野 誠一郎(うの せいいちろう、1927年2月27日 - … 宇野 誠一郎(うの せいいちろう、1927年2月27日 - 2011年4月26日)は、日本のソングライター、編曲家。 兵庫県武庫郡鍛冶町(現・神戸市兵庫区)出身。早稲田大学第一文学部仏文科卒業。妻は声優、女優の里見京子。 幼少のころから母親の影響でピアノを習う。小学3年の時にピアノを取り上げられ練習を禁じられたが、独自に勉強を積む。 音楽大学への進学を考えていたが、音大に通っていた親戚に紹介された音楽評論家の園部三郎に「作曲家志望だからといって音大に行くのは間違っている。それよりむしろ見聞を広めるために一般校に行くべきだ」と指導され、早稲田大学に入学。 在学中の1948年から池内友次郎・安部幸明に作曲を、齋藤秀雄に指揮を、平尾貴四男に管弦樂法などを学ぶ。
鎌田 昭二郎(かまだ しょうじろう、昭和2年(1927年)2… 鎌田 昭二郎(かまだ しょうじろう、昭和2年(1927年)2月27日 - 平成22年(2010年)2月3日)は、滋賀県厚生部長。公衆衛生医として滋賀県の健康福祉行政を推進し、福祉保健・医療行政において新たな展開を行った。 昭和2年(1927年)滋賀県大津市に生まれ、京都大学医学専門部に進学した。昭和21年(1946年)大学在学中に大津市出身医学生の相互協力と大津市への医療協力を目的にした大津医学生会を結成し、昭和24年(1949年)大学卒業後一時京大結核研究所に籍を置いた。 昭和25年5月大津市役所に就職し、市内の関係者と共に栄養指導や衛生管理に注力した。昭和40年(1965年)4月大津市から滋賀県に移り八幡保健所長に就任し、同保健所管内は滋賀県内でも乳幼児死亡率が高い事から原因究明と改善策実施に尽力した。
別府 隆彦(べっぷ たかひこ、1926年2月27日 - 20… 別府 隆彦(べっぷ たかひこ、1926年2月27日 - 2010年12月25日)は、北海道旭川市出身の元アマチュア野球選手・指導者である。ポジションは内野手。 旧制明治中学校では内野手としてプレーし、明治大学に進学。大学3年生の時にマネージャーをする傍らに、島岡吉郎監督の後を受けて母校の明治中学の野球部監督を務めた。大学卒業後は大和証券に入社し、同社の軟式野球部の監督も務め、硬式への切り替えに取り組んだ。 1988年から1995年までに島岡吉郎の後任として、明治大学の監督を務めた。監督在任時には、東京六大学野球リーグでは、4回優勝を果たし、1995年の明治神宮野球大会では、エースの川上憲伸を擁して、日本一を果たした。
塩田 晋(しおた すすむ、1926年(大正15年)2月27日… 塩田 晋(しおた すすむ、1926年(大正15年)2月27日 - 2005年(平成17年)12月11日)は、日本の政治家。元衆議院議員(通算5期)。労働問題をはじめ、残留孤児問題や北朝鮮による日本人拉致問題、また憲法調査会の設立や、国旗国歌法、昭和の日推進など党派を拘らず取り組んだ。衆議院災害対策特別委員長として阪神・淡路大震災の被災地復興にも力を尽くした。 兵庫県印南郡志方町(現・加古川市志方町)出身。1979年9月、衆議院議員初当選。以来、連続3選。1996年10月、衆議院議員に返り咲き、以来連続2選。2003年(平成15年)10月、衆議院解散に伴い、政界引退。 志方小学校、加古川中学(現在の兵庫県立加古川東高等学校)、高等商船学校(清水)、神戸高等商業学校を経て、京都大学経済学部を卒業。
国原 吉之助(國原 吉之助、くにはら きちのすけ、1926年… 国原 吉之助(國原 吉之助、くにはら きちのすけ、1926年2月27日 - 2017年4月25日)は、日本の言語学者・西洋古典学者。名古屋大学名誉教授。広島県生まれ。 専門はラテン語とラテン文学で、多数の原典史書を訳し専門辞書の編纂を行った。 1953年京都大学文学部卒業。京都学芸大学(現:京都教育大学)助教授を経て、名古屋大学文学部教授、1988年に定年退官し名誉教授、その後は椙山女学園大学教授も務めた。
鏑木 創(かぶらぎ はじめ、1926年〈大正15年〉2月27… 鏑木 創(かぶらぎ はじめ、1926年〈大正15年〉2月27日 - 2014年〈平成26年〉9月4日)は日本の作曲家、編曲家。日活ロマンポルノ作品では「月見里太一」名義を用いた。 神奈川県生まれ。1945年(昭和20年)東京高等商船学校航海科卒業。1952年(昭和27年)東京音楽学校本科作曲部卒業。作曲を池内友次郎、木下忠司に師事する。 1950年代から1990年代にかけて、アクション、スリラー、喜劇、ポルノといった大衆的な娯楽映画や2時間ドラマのサスペンス物などに音楽を数多く提供。耳に馴染みやすい明快なメロディを特徴とする作風で、多くの観客に親しまれた。石井輝男、井上梅次、加藤泰といった娯楽映画の職人監督への楽曲提供が特に有名である。
本田良寛(ほんだ よしひろ、1925年〈大正14年〉2月27… 本田良寛(ほんだ よしひろ、1925年〈大正14年〉2月27日 - 1985年〈昭和60年〉7月1日)は、昭和後期の医師。日雇い労働者への奉仕的な医療で「釜ヶ崎の赤ひげ」「西成の赤ひげ」と呼ばれた。 大阪府大阪市城東区鴫野西の開業医の家に生まれる。大阪偕行社附属小学校(現・追手門学院小学校)、大阪府立八尾中学校(修業5年間の旧制中学校、現・大阪府立八尾高等学校)を経て、徳島医学専門学校(旧制医学専門学校)に入学。太平洋戦争の戦災の設備不良で徳島医専が廃校となったため、大阪市立医学専門学校(現・大阪市立大学の医学部の源流)に編入し卒業。父の開業医を継ぐ。 1963年(昭和38年)大阪市西成区萩之茶屋の大阪府済生会今宮診療所の所長に就任。
豊田 章一郞(とよだ しょういちろう、1925年(大正14年… 豊田 章一郞(とよだ しょういちろう、1925年(大正14年)2月27日 - )は、日本の実業家、技術者。勲等は桐花大綬章。学位は工学博士(名古屋大学・1955年)。トヨタ自動車株式会社名誉会長、日本経済団体連合会名誉会長、株式会社デンソー取締役、東和不動産株式会社取締役会長、社会福祉法人恩賜財団済生会会長、学校法人海陽学園理事長(初代)、学校法人トヨタ学園理事。
佐々木 啓二(ささき けいじ、1924年(大正13年)2月2… 佐々木 啓二(ささき けいじ、1924年(大正13年)2月27日 - 2006年(平成18年)3月19日)は、日本の実業家、政治家。津軽鉄道社長、FM青森会長、青い森鉄道社長、青森県議会議員。 青森県北津軽郡五所川原町(現在の五所川原市)出身。1944年(昭和19年)麻布獣医専門学校(現在の麻布大学)卒。卒業後は厚生省の研究所に入る。 戦後、帰郷し、青森県農業会に勤務する。その後、1950年(昭和25年)五所川原運送社長、1955年(昭和30年)津軽鉄道常務、同専務、同社長、同会長となり、仙台地方鉄道協会会長、1983年(昭和58年)日本民営鉄道協会副会長に就任。ほか、1963年(昭和38年)津鉄観光社長、1971年(昭和46年)弘前運送社長、1987年(昭和62年)FM青森社長、のち同会長、2001年(平成13年)青い森鉄道社長に就任した。
小口 大八(おぐち だいはち、1924年(大正13年)2月2… 小口 大八(おぐち だいはち、1924年(大正13年)2月27日 - 2008年(平成20年)6月27日)は、日本の和太鼓奏者、御諏訪太鼓宗家。1950年代に複式複打法を確立し、和太鼓ブームの立役者として知られる。財団法人日本太鼓連盟副会長、長野県太鼓連盟会長、財団法人日本太鼓連盟認定の特別公認指導員を務めた。 長野県岡谷市小口生まれ。早稲田大学専門部卒。代々、打頭を務めてきたとされる小口家の分家筋に生まれ、学生時代にはジャズドラムを習い、戦争から復員したのち、大八パン創業の傍ら、燦星楽団を結成。1948年に小口家本家の味噌蔵から長野県諏訪地方の伝統芸能「御諏訪太鼓」の譜面(藤太郎覚書)が見つかり譜面の解読・復元に着手し、明治時代より途絶えていた御諏訪太鼓を1951年に復興、1953年に御諏訪太鼓保存会を結成し、以降御諏訪太鼓の宗匠・打頭として国内外で活動するほか、太鼓の作曲や指導も手掛けた。
河本 一郎(かわもと いちろう、1923年〈大正12年〉2月… 河本 一郎(かわもと いちろう、1923年〈大正12年〉2月27日 - 2017年〈平成29年〉4月18日)は、日本の法学者。専門は商法・証券取引法。学位は法学博士(神戸大学・論文博士・1975年)。神戸大学名誉教授、神戸学院大学名誉教授。日本学士院会員。弁護士(大阪弁護士会所属)。勲等は勲二等。 神戸大学法学部教授、神戸大学法学部学部長、神戸学院大学法学部教授などを歴任した。大隅健一郎門下。弟子に川口恭弘、森田章など。 商法などを専攻する大阪府出身の法学者である。1958年に『民商法雑誌』誌上で論文「手形法における悪意の抗弁」を発表した。そこで発表された理論は、後に商法の手形・小切手法の分野において、「河本フォーミュラ」と称されるようになった。
川島 廣守(かわしま ひろもり、1922年(大正11年)2月… 川島 廣守(かわしま ひろもり、1922年(大正11年)2月27日 - 2012年(平成24年)12月9日)は、日本の官僚。第10代プロ野球コミッショナー、第3代セントラル・リーグ会長、第2代本田財団理事長、内閣調査室長、内閣官房副長官、日本鉄道建設公団総裁などをつとめた。位階は従三位。 福島県湊村(現会津若松市)出身。会津中学校を経て、中央大学法学部専門部法科入学。在学中に高等試験に合格。中大卒業後、内務省入省。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入学し、1944年3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年3月、海軍主計大尉に昇進してインドネシア・サバン島で終戦を迎えた。
秋富 公正(あきとみ きみまさ、1921年〈大正10年〉2月… 秋富 公正(あきとみ きみまさ、1921年〈大正10年〉2月27日 - 2016年〈平成28年〉4月21日)は、日本の官僚、経営者。 山口県出身。秋田三一の次男として生まれ、秋富久太郎の養子となる。妻は阿南惟幾の長女・喜美子。 1944年に東京帝国大学経済学部を卒業。学徒出陣で大竹海兵団に入団し、短期現役海軍主計科士官(11期)を志願。同年2月、見習尉官となり海軍経理学校に入学。同年9月に卒業し、同年12月に海軍主計少尉に任官。第11海軍航空廠に配属され、1945年9月、主計中尉に進み終戦を迎えた。 1946年に運輸省に入省。1974年11月に総務府人事局長、1978年4月に総務府副長官を経て、1979年11月に日本鉄道建設公団副総裁に就任し、1983年5月には新東京国際空港公団総裁に就任し、1988年12月までに務めた。
栗栖 弘臣(くりす ひろおみ、1920年〈大正9年〉2月27… 栗栖 弘臣(くりす ひろおみ、1920年〈大正9年〉2月27日 - 2004年〈平成16年〉7月19日)は、日本の内務官僚、海軍軍人及び陸上自衛官。第13代陸上幕僚長、第10代統合幕僚会議議長。 呉第一中学校、第一高等学校を経て1943年(昭和18年)9月、東京帝国大学法学部卒業。高等文官試験(高文)行政科に首席で合格し内務省に入省するが、短期現役海軍法務科士官を志願し帝国海軍へ。南方戦線へ従軍し、海軍法務大尉として1945年(昭和20年)8月の終戦を迎える。終戦後も、現地で戦犯の特別弁護人を務め、復員が1948年(昭和23年)まで遅れた。 復員後は官僚に戻らず、弁護士となったが、1950年(昭和25年)に総理府事務官となり、1951年(昭和26年)9月、警察予備隊(保安隊を経て陸上自衛隊)に入隊し、警察士長(陸軍少佐・三等陸佐に相当)に任じられる。
大洞 國光(おおほら くにみつ、1920年2月27日 - 没… 大洞 國光(おおほら くにみつ、1920年2月27日 - 没年不明)は、日本の経営者。角川書店社長を務めた。愛媛県出身。 1941年に明治大学専門部貿易科を卒業し、1947年に角川書店に入社した。1979年に常務に就任し、1992年に専務を経て、1993年9月には社長に就任。大株主である角川家の意向でわずか1か月で退任。
山根 有三(やまね ゆうぞう、1919年2月27日 - 20… 山根 有三(やまね ゆうぞう、1919年2月27日 - 2001年5月22日)は、日本の美術史学者。東京大学名誉教授、群馬県立女子大学名誉教授。近世初期の長谷川等伯、俵屋宗達、尾形光琳など琳派の研究が専門。紫綬褒章受章、叙正四位、叙勲二等授瑞宝章。 大阪府出身。父は花道家の山根廣治(号翠道)。1940年第三高等学校卒業、1942年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、同大学大学院進学。1944年恩賜京都博物館館員、1951年神戸大学文理学部助教授を経て、1969年1955年東京大学文学部助教授、1969年同大学教授。1979年定年退官、名誉教授。1980年群馬県立女子大学教授。 画家の伝記的研究に努め、1990年から1999年まで美術誌「國華」の主幹を務めた(後に名誉主幹)。
神津 康雄(こうづ やすお、1919年2月27日 - 201… 神津 康雄(こうづ やすお、1919年2月27日 - 2013年4月16日)は、日本の内科医。医学博士。日本寮歌祭を主催する日本寮歌振興会の委員長を1964年から30年以上務めた。 長野県北佐久郡志賀村(現、佐久市)の豪農・神津「赤壁家」に生まれる。 旧制山形高等学校から、1944年東北帝国大学医学部卒業、同医学部内科教室(教授・黒川利雄)に入局。1951年、青森県浪岡町立病院(現・青森市立浪岡病院)院長。1954年東京都世田谷区若林に自宅開院。 日本寮歌祭には1962年に山形高校参加にあたって中心となって以来、1964年には日本寮歌振興会委員長、2002年には日本寮歌祭会長となった。 日本寮歌祭会長、日本寮歌振興会委員長、東京校歌祭会長、旧制高等学校懇話会代表、海軍櫻医会会長、日本臨床内科医会会長(1989年就任、のち名誉会長)、日本医師会常任理事(1982年 - 1984年)、東京都医師会理事、東京内科医会会長、東京都各科医会協議会会長、世田谷区医師会会長、日本の高等教育を考える会専務理事、日本病院管理教育協会理事長、東京尚仁会会長などを歴任。
望月 邦夫(もちづき くにお、1918年(大正7年)2月27… 望月 邦夫(もちづき くにお、1918年(大正7年)2月27日 - 1990年(平成2年)3月5日)は、昭和期の建設技官及び官僚、政治家。参議院議員(1期)、水資源開発公団(現水資源機構)総裁、工学博士。 滋賀県甲賀郡水口町(現甲賀市)で生まれる。1942年(昭和17年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業した。 戦後、建設省に入省し、河川局開発課長、同河川計画課長、国土総合開発審議会専門委員、建設省大臣官房技術参事官などを歴任し、1968年(昭和43年)近畿地方建設局長(現近畿地方整備局)に就任。退官後、水資源開発公団理事を務めた。 1974年(昭和49年)7月の第10回参議院議員通常選挙に滋賀県地方区から自由民主党公認で出馬して当選し、参議院議員を1期務めた。
和合 正冶(わごう しょうじ、1917年2月27日 - 20… 和合 正冶(わごう しょうじ、1917年2月27日 - 2004年3月7日)は、松本市長(11代:1976年3月 - 1992年3月)、全国市長会副会長、長野県市長会会長。
掛下 和男(かけした かずお、1917年(大正8年)2月27… 掛下 和男(かけした かずお、1917年(大正8年)2月27日 - 1975年(昭和50年)12月29日)は、日本の実業家。元東洋レーヨン(現東レ株式会社)取締役、同社監査役。 神奈川県で出生。旧制高千穂中学校(第23回)、1944年(昭和19年)9月 慶應義塾大学経済学部卒業。同年、東洋レーヨン入社。1963年(昭和38年)1月 企画部長を経て、1970年(昭和45年)11月 取締役に就任する。1972年(昭和47年)11月 監査役に選任され、1975年(昭和50年)12月29日まで務める。 1975年(昭和50年)12月29日 自宅にてガス自殺。満58歳没。
田中 良久(たなか よしひさ、1917年2月27日 - 19… 田中 良久(たなか よしひさ、1917年2月27日 - 1977年10月25日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。 福岡県企救郡(現・北九州市)生まれ。福岡高等学校を経て、1941年東京帝国大学心理学科卒業。1944年まで大学院在籍、1943年から1946年まで副手嘱託。戦後1947年北海道大学法文学部助教授、1953年東京大学文学部心理学科助教授、1967年教授、1977年定年退官、名誉教授、成城大学教授。日本心理学会理事。スウェーデンのウプサラ大学見学中に倒れ死去(『心理学研究』1978年2月「田中良久氏追悼記」)。1977年11月 勲三等瑞宝章を受章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
立花 留治(たちばな とめじ、1916年 <大正5年> 2月… 立花 留治(たちばな とめじ、1916年 <大正5年> 2月27日 - 1995年 <平成7年> 6月25日)は、日本の政治家。茨城県日立市長(4期) 。位階は従五位。 茨城県出身。1934年、茨城県立水戸農学校(現・茨城県立水戸農業高等学校)卒。卒業後は茨城県農事試験場に入る。その後、同県農産物検査所を経て、1940年、日立市役所に入る。市役所では秘書、経済、庶務の各課長、産業、総務、水道の各部長などを務めた。1970年に市の水道事業管理者となり、1975年に退職するまで務める。同年、日立市長選挙に立候補して当選、4期連続務める。1991年に引退、同年勲三等瑞宝章を受章する。1995年死去。死没日付をもって叙従五位。
立見辰雄(たつみ たつお、1916年2月27日 - 1997… 立見辰雄(たつみ たつお、1916年2月27日 - 1997年10月17日)は、日本の鉱床学者・地球化学者。学位は、理学博士(東京大学・論文博士・1954年)(学位論文「宮崎県槙峰鉱山含銅硫化鉄鉱々床の地質と成因」)。東京大学教授を歴任。 陸軍大将・立見尚文の孫として立見子爵家の三男として生まれる。旧制成蹊高等学校を経て、1939年東京帝国大学理学部地質学科で、加藤武夫教授の指導を受けて鉱床学を専攻して卒業。兵役についた後、1942年東京帝国大学理学部助手となり、資源科学研究所などを経て、1949年から東京大学教養学部助教授。1954年に宮崎県槇峰鉱山の地質・鉱床の研究で東京大学から理学博士の学位を取得。
中馬 辰猪(ちゅうまん たつい、1916年2月27日 - 2… 中馬 辰猪(ちゅうまん たつい、1916年2月27日 - 2010年4月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、建設大臣。 現在の鹿児島県霧島市国分に、参議院議員を務めた中馬猪之吉の二男として生まれる。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)、第七高等学校 (旧制)を経て、1941年京都帝国大学法学部を卒業。陸軍主計大尉としてインパール作戦に従事し、負傷するものの危機一髪で生還した経験を持つ。帰国後は水産会社役員、鹿児島県煙草耕作連嘱託等を経て、1949年第24回衆議院議員総選挙に吉田茂率いる民主自由党公認で旧鹿児島2区から立候補し当選(当選同期に池田勇人・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
鳥居 正博(とりい きみひろ、1916年〈大正5年〉2月27… 鳥居 正博(とりい きみひろ、1916年〈大正5年〉2月27日 - 1994年〈平成6年〉5月8日)は、日本の実業家。旺文社元副社長。日本英語検定協会元専務理事。國學院大學マスコミ院友会元副会長。鳥居耀蔵の養玄孫にあたる。鳥居支家十三代目。 東京府出身。杉並区堀ノ内在住。鎌田福寿の四男に生まれ、花園神社社司・鳥居成功の養子となる。養父・成功は鳥居耀蔵の曾孫にあたる。実妹は声優の鎌田弥恵。 1938年(昭和13年)國學院大學国文科を卒業後、旺文社に入社。1942年(昭和17年)国漢部次長となり、1946年(昭和21年)取締役書籍部長、1960年(昭和35年)専務を経て、1967年(昭和42年)副社長に就任。
山形 敞一(やまがた しょういち、1913年2月27日 - … 山形 敞一(やまがた しょういち、1913年2月27日 - 1998年9月14日)は、日本の内科医。専門は、消化器病学(特に膵臓疾患)。東北大学名誉教授。1986年勲二等瑞宝章受章。 宮城県石巻市生まれ。石巻中学校(旧制)、第二高等学校(旧制)、東北帝国大学医学部卒業。1936年、内科学第三講座(教授山川章太郎、助教授黒川利雄)に入局。1957年に黒川利雄の後任として東北大学医学部第三内科講座教授、尚仁会第二代会長に就任。 宮城県対がん協会会長、日本癌治療学会総会会長、日本内科学会総会会頭、日本医史学会会長などを歴任。日本対がん協会賞、石巻市民功労賞などを受賞。アララギ派歌人としても著名で、多くの歌集があるほか、医学史特に仙台藩の医学史を研究した。
河原 武雄(かわはら たけお、1913年2月27日 - 20… 河原 武雄(かわはら たけお、1913年2月27日 - 2012年1月20日)はNHKの元アナウンサー。 長野県出身。長野商業学校、旧制松本高等学校文科乙類を1933年に卒業。兄の広三が思想事件で連座したことより進学を断念し、1939年NHK入局。 スポーツアナウンサーとして活躍。ラジオを中心に、栃若時代の大相撲実況や箱根駅伝などの名調子で親しまれる。1952年ヘルシンキオリンピックなどオリンピック中継でも実況を務めた。 退職後は相撲雑誌『別冊グラフNHK大相撲特集』(『別冊NHKウィークリー・ステラ大相撲特集』)の編集長も務めた。 2012年1月20日、呼吸不全のため町田市の病院で死去。98歳没。
横山 正(よこやま ただし、1913年2月27日 - 198… 横山 正(よこやま ただし、1913年2月27日 - 1989年11月29日)は、日本の芸能・演劇史研究者。 広島県福山市生まれ。1938年九州帝国大学文学部国文科卒、1944年京都帝国大学大学院退学。大阪学芸大学助教授、大阪教育大学教授。1962年「近世的性格に焦点をおいた浄瑠璃の史的研究」で大阪大学文学博士。78年定年退官、名誉教授。
中村 誠太郎(なかむら せいたろう、1913年2月27日 -… 中村 誠太郎(なかむら せいたろう、1913年2月27日 - 2007年1月22日)は、日本の理論物理学者。東海大学名誉客員教授。 1913年、滋賀県彦根生まれ。1941年、京都帝国大学理学部を卒業した。 1943年に東京帝国大学理学部助手となる。1953年に学位論文「ベーター崩壊の中間子理論」を東京大学に提出して理学博士の学位を取得。東京大学理学部助教授、1971年に教授に昇進。1973年に東京大学を定年退官した。その後は日本大学教授、1978年より東海大学教授、1983年からは特任教授をつとめたが、1994年に退職。
田辺 秀雄(たなべ ひでお、1913年2月27日 - 201… 田辺 秀雄(たなべ ひでお、1913年2月27日 - 2010年9月15日)は、日本の音楽評論家。 音楽学者・田辺尚雄の長男として東京に生まれる。慶應義塾大学法学部卒。日本コロムビア・レコード勤務の後、東海大学教養学部教授となる。父同様に東洋音楽研究のほか、洋楽にも造詣が深く、義太夫協会、日本民謡文化協会会長を務めた。 2010年9月15日、肺炎のため東京都新宿区の自宅で死去。97歳没。 この項目は、音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 音楽/ウィキプロジェクト 音楽)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
内藤 子生(ないとう やすお、1912年2月27日 - 20… 内藤 子生(ないとう やすお、1912年2月27日 - 2003年9月2日)は、日本の航空技術者。中島飛行機の設計部員、富士重工業の取締役、東海大学の教授などを務めた。戦前は艦上偵察機「彩雲」、戦後は国産初の量産型ジェット機T-1の設計などを手掛けた。 第二高等学校、大阪帝国大学数学科を経て、飛行機の研究をするため、東京帝国大学工学部航空学科に入学。1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。同期は東條輝雄、高山捷一、渋谷巌などで「花の十二年組」と呼ばれた。卒業論文は「翼性能に及ぼす乱れ及び規模効果の影響」。中島飛行機社長の中島知久平から連絡を受け、同級生の渋谷巌と共に向かい会社訪問で入社が決まった。
田中 織之進(たなか おりのしん、1911年2月27日 - … 田中 織之進(たなか おりのしん、1911年2月27日 - 1978年3月2日)は、和歌山県の被差別部落出身の政治家、新聞記者、部落解放運動家。衆議院議員。 九州帝国大学法学部卒。読売新聞社政経部次長の時に日本の敗戦を迎え、1947年、第23回衆議院議員総選挙に日本社会党から出馬して当選。この選挙で当選した部落出身議員には、ほかに田中松月、松井豊吉、吉川兼光、加藤静雄、宮村又八がいた。以後、社会党左派の議員として8選を重ね、日米安保反対派として論陣を張る。 1966年、貿易商社の不正輸出事件に絡み東京地検に恐喝容疑で起訴され、7年後に無罪が確定。この事件を機に社会党を離れ、無所属となる。 かたわら、部落解放全国委員会常任中央委員、部落解放同盟和歌山県連委員長、部落解放同盟常任中央委員、同書記長を歴任。
久野 忠治(くの ちゅうじ、1910年2月27日 – 199… 久野 忠治(くの ちゅうじ、1910年2月27日 – 1998年10月25日)は、日本の政治家。郵政大臣。正三位勲一等旭日大綬章。衆議院議員を14期務めた。元衆議院議員の久野統一郎は長男。愛称はクノチュー。 愛知県知多郡知多町(現・知多市)に、石材商・久野金之助の二男として生まれる。1929年に東海中学校(現・東海高等学校)を卒業後、家業に従事する。後に父親が設立した土建業「久野組」を引き継ぎ社長に就任。 1947年の第23回衆議院議員総選挙に旧愛知2区から民主党公認で立候補するも、次点で落選。 1949年の第24回衆議院議員総選挙に再び民主党公認で立候補し初当選を果たす(当選同期に池田勇人・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
小口 偉一(おぐち いいち、1910年2月27日 - 198… 小口 偉一(おぐち いいち、1910年2月27日 - 1986年12月15日)は、日本の宗教学者。東京大学東洋文化研究所名誉教授。 1910年、東京で生まれた。東京帝国大学宗教学科で学び、1935年に卒業。同大学大学院に進学。文学部副手となり、1942年に東京大学東洋文化研究所嘱託となった。 戦後の1947年に助教授昇格。1962年、学位論文『宗教社会学序説』を國學院大學に提出して文学博士号を取得。1963年、東京大学東洋文化研究所教授に昇格。1965年から1966年、1968年から1970年の2期にわたって同東洋文化研究所所長を務めた。1970年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は愛知学院大学教授として教鞭をとった。
柴谷 要(しばや かなめ、1910年〈明治43年〉2月27日… 柴谷 要(しばや かなめ、1910年〈明治43年〉2月27日 - 1995年〈平成7年〉4月26日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 群馬県碓氷郡秋間村(現・安中市)で生まれた。秋間尋常小学校(現・安中市立秋間小学校)卒業。1925年(大正14年)鉄道省に入省。1932年(昭和7年)鉄道教習所専門部を卒業した。 鉄道現業員組合に加入し、1946年(昭和21年)国鉄労働組合の結成に加わり、同上野支部副委員長、同東京本部委員長、同中央執行委員長、全官公庁労働組合協議会議長、全日本交通運輸労働組合協議会議長などを務めた。 1956年(昭和31年)7月、第4回参議院議員通常選挙に全国区から日本社会党公認で出馬して当選(任期3年)。
土橋 寛(つちはし ゆたか、1909年2月27日 - 199… 土橋 寛(つちはし ゆたか、1909年2月27日 - 1998年6月11日)は、日本の国文学者、万葉学者、同志社大学名誉教授。『万葉集』や記紀歌謡など、古代和歌を専門とした。 長崎県生まれ。京都帝国大学文学部文学科国文学専攻卒業、立命館大学予科教授、立命館短期大学教授、奈良学芸大学教授を経て、1962年に同志社大学教授。1978年に『万葉開眼』で毎日出版文化賞受賞。1979年に定年退職、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
三島 重人(みしま しげと、1909年2月27日 - 20… 三島 重人(みしま しげと、1909年2月27日 - 2009年8月9日)は、日本の経営者、銀行家。筑邦銀行頭取を務めた。 福岡県出身。1932年に神戸商業大学を卒業し、1933年に日本勧業銀行に入行した。1962年5月に筑邦銀行頭取に就任。1981年6月に会長に就任し、1988年6月に取締役相談役を経て、1989年6月には取締役名誉会長に就任。 1981年4月に勲四等瑞宝章を受章し、1990年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 2009年8月9日、老衰のために死去。100歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
壇上 春清(だんじょう はるきよ、1909年(明治42年)2… 壇上 春清(だんじょう はるきよ、1909年(明治42年)2月27日 - 1979年(昭和54年)9月13日)は、和歌山県田辺市出身の童謡詩人。本名は春之助。別号を芳花、青華。 金子みすゞや島田忠夫の童謡集を出版したことでも知られる。 第16回久留島武彦賞を受賞。 1924年(大正13年)頃より童謡を書き始め、『赤い鳥』『童話』『金の船』(のち金の星と改題)などの雑誌に作品を発表する。 同志社高等商業学校を卒業後、1974年(昭和49年)まで外務省に勤務する。 その間、1970年(昭和45年)に季節の窓詩舎から『金子みすず童謡集 繭と墓』を発行した。同書のあとがきには「下関の商品館から投稿していた」という記述があり、これが後に金子みすゞが再発見される大きな手がかりとなった。
満留 正光(みつどめ まさみつ、1907年2月27日 - 1… 満留 正光(みつどめ まさみつ、1907年2月27日 - 1993年10月24日)は日本の政治家。鹿児島県串木野市長(3期)。串木野市名誉市民。 鹿児島県日置郡串木野村(串木野町、串木野市を経て現いちき串木野市)荒川に生まれる。1919年3月に荒川尋常小学校(現いちき串木野市立荒川小学校)を卒業し、三井鉱山の串木野鉱山西山坑勤務を経て、1920年10月串木野村役場職員に採用される。働きながら串木野村立公民学校で学び、1927年卒業。1932年9月鹿児島県庁職員に採用され転任。働きながら鹿児島法学院で学ぶ。戦後、鹿児島県の内務部、議会調査局、出納長室、教育委員会事務局(教育庁)の中の各課長などを経て、1955年12月24日串木野市助役に就任。
青木 精太郎(あおき せいたろう、1906年 <明治39年>… 青木 精太郎(あおき せいたろう、1906年 <明治39年> 2月27日 - 1991年 <平成3年> 7月13日)は日本の鉄道技術者、実業家。京阪電気鉄道社長、京福電気鉄道会長などを務めた。位階は正四位。 岡山県岡山市出身。旧制岡山中学校(在学中に第一岡山中学校に改称、現:岡山県立岡山朝日高等学校)、第六高等学校を経て、1928年(昭和3年)に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。当初、指導教官から日本電力への就職を紹介されたが、その年度の新卒採用がなかったため、代わりに紹介された京阪電気鉄道に入社した。当時京阪電気鉄道は、新京阪鉄道(現:阪急京都本線)の建設、名古屋急行電鉄の設立準備などをおこなっていた時期であったため、前例のない50余名もの大学・専門学校生を採用しており、のちに阪急電鉄社長を務めた森薫も同窓・同期で新京阪に入社している。
平山 行三(ひらやま こうぞう、1906年 2月27日– 1… 平山 行三(ひらやま こうぞう、1906年 2月27日– 1992年4月28日)は日本の法制史学者。 東京府東京市牛込区払方町の、海軍教授や海軍大学校教官を務めた平山順の三男として生まれる。父の弟である叔父に天文学者の平山信がいる。祖父の平山銓は旧幕臣であった。1924年に東京高等師範学校附属中学校を卒業。1928年に静岡高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1931年に卒業。卒業論文は「守護地頭制度の崩壊」。徳川林政史研究所研究員、和歌山県立日高高等女学校教諭、和歌山青年師範学校教諭を経て、1949年に和歌山大学助教授、1952年に同大学教授。1971年に退官し、同大学名誉教授。
藤田 武夫(ふじだ たけお、1905年2月27日 - 198… 藤田 武夫(ふじだ たけお、1905年2月27日 - 1988年10月6日)は、昭和期の経済学者、立教大学名誉教授。専門は財政学。財政学研究の第一人者として、地方財政論を開拓した権威。 1905年(明治38年)、京都府宮津市に生まれる。1930(昭和5年)九州帝国大学(現・九州大学)経済学部卒業。1934年(昭和9年)京都大学大学院修了。 立命館大学講師、財団法人東京市政調査会(現・後藤・安田記念東京都市研究所)調査課長、明治大学講師、中央大学講師を務めたのち、1946年(昭和21年)、立教大学教授に就任。 1952年(昭和27年)、立教大学経済学部経済学科長に就任。1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)まで経済学部長を務め、大学施設の増築にともない大学院読書室の開設を実現し、経営学科(現・経営学部)関連のスタッフの充実に尽力した。
鈴木 隆夫(すずき たかお、1904年2月27日 - 198… 鈴木 隆夫(すずき たかお、1904年2月27日 - 1980年12月16日)は、日本の官僚、国会職員。法学博士。第二次世界大戦後、55年体制の成立期において衆議院事務総長を務めた。その退職後は、第2代国立国会図書館長となり、また、味の素株式会社の経営に携わった。 宮城県伊具郡角田町(角田市の前身)の医師の家に生まれる。宮城県立白石中学校、旧制弘前高等学校を経て、東北帝国大学法文学部卒業。在学中、高等文官試験司法科(1929年)・行政科(1930年:首席と伝えられる)に合格した。1931年、内務省に入省して警視庁に配属されたが、同年、守衛副長として衆議院事務局に転じ、守衛(後の衛視)の教育に当たる。