渡里 杉一郎(わたり すぎいちろう、1925年3月28日 -… 渡里 杉一郎(わたり すぎいちろう、1925年3月28日 - 2017年4月12日)は、日本の経営者。東芝社長を務めた。 山形県山形市出身。1958年、東京大学経済学部経済学科を卒業し、同年、東京芝浦電気(現在の東芝)に入社。1978年6月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1984年6月に副社長に就任した。1986年4月に社長に昇格したが、1987年7月に東芝機械ココム事件における責任を取り、社長を辞任。1987年からは相談役を務めた。 1991年から1999年までに経団連副会長を務め、東京電力監査役、日中経済協会会長なども歴任した。 1992年4月に藍綬褒章を受章した。 2017年4月12日心不全のため死去。
北川 太一(きたがわ たいち、1925年3月28日 - 20… 北川 太一(きたがわ たいち、1925年3月28日 - 2020年1月12日)は、日本の文芸評論家。 東京生まれ。東京工業大学卒。向丘高等学校教諭。高村光太郎記念会事務局長、高村光太郎一筋に研究をつづけ、『高村光太郎全集』『選集』の編纂にあたった。吉本隆明の盟友。
鷺坂 修二(さぎさか しゅうじ、1925年3月28日 - 2… 鷺坂 修二(さぎさか しゅうじ、1925年3月28日 - 2015年10月14日)は、日本の物理学者。専門は、宇宙線物理学。信州大学名誉教授であった。 1925年鷺坂清信・操夫妻の次男として東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区赤城元町)に生まれた。 1931年東京府麴町区小学校に入学。1937年、第一東京市立中学校に入学。1942年、旧制第一高等学校理科に入学。 1945年、名古屋大学理学部物理教室に入学。旧制一高・名古屋大学理学部を通じての級友に物理学者の丹生潔がいる。 入学した年の7月に長野県神川村(現・長野県上田市)に疎開。 この頃、結核を発症し、上田で結核病院に入院療養する。 1945年にはやや快方に向かい、長野県松代町にあった松代地震研究所々長を務めていた父のもとで暮らした。
邱 永漢(きゅう えいかん、1924年3月28日 - 201… 邱 永漢(きゅう えいかん、1924年3月28日 - 2012年5月16日)は、日本および台湾の実業家、作家、経済評論家、経営コンサルタント。株式会社邱永漢事務所代表取締役。 旧本名は邱炳南、帰化後の本名は丘永漢。初期の筆名は邱炳南および丘青台。株の名人で「金儲けの神様」と呼ばれた。日本亡命後に筆名「邱永漢」を使うようになり、この筆名は戦前の台湾文学界で活躍した作家の西川満がつけたという説があるが、邱本人が否定している。 1924年3月、婚外子として日本統治時代の台湾台南市に生まれる。10人兄弟の長男。父邱清海は台湾人実業家。母堤八重は久留米生まれの日本人。 1937年、13歳のとき台北高校尋常科に入学。
上口 政(かみぐち まさ、1923年3月28日 - 没年不明… 上口 政(かみぐち まさ、1923年3月28日 - 没年不明)は、茨城県出身の元プロ野球選手。 下妻中学校を経て明治大学でプレー。1943年の学徒出陣により兵役に就くと、満州・北支・台湾を転戦し、1946年正月過ぎに帰還。 上口は日本コロムビアへの就職が内定していたが、明治大学の同期であった大下弘の誘いを受けて、1946年3月にセネタースに投手兼外野手として入団。 開幕戦となる4月27日の東京巨人軍戦では6番ライトで先発出場。5月30日の中部日本戦で初登板し、明治大学の同期であった貫井丞治とバッテリーを組むが、6回0/3を自責点8と打ち込まれた。 1947年シーズン終了後に退団した。 制球力があり、球にクセがなかったことから、主砲の大下弘から好んで打撃投手に指名されていた。
嶋崎 均(しまさき ひとし、1923年3月28日 - 199… 嶋崎 均(しまさき ひとし、1923年3月28日 - 1997年5月11日)は、日本の官僚、政治家。法務大臣(第43代)、参議院議員(5期)を務めた。 現在の石川県小松市出身。旧制小松中学校時代には体格のよさから相撲部に所属、角界から入門の話があったような強さだった。旧制第四高等学校を経て、1947年3月東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝大法学部卒業後、大蔵省入省。主税局配属。1948年8月 横浜税関監視部。1950年5月 津税務署長。1951年8月 大阪国税局総務部総務課長。1955年6月 東京国税局調査査察部次長。1960年7月 東京国税局間税部長。1961年7月 経済企画庁調整局政策課長。
芝 清之(しば きよし、1923年(大正12年)3月28日 … 芝 清之(しば きよし、1923年(大正12年)3月28日 - 1998年(平成10年)1月12日、本名: 柴 清(しば きよし))は、大衆芸能・浪曲研究家、浪曲作家。 木馬亭の実質的な支配人で、『月刊浪曲』の創刊や編集発行も務めた浪曲界の生き字引的存在であった。諸芸懇話会会員。 東京出身、東京高等工業学校(現・東京工業大学)卒業。当初は建築会社の社長で坂東玉三郎の後援者であったが、衰退期にあった浪曲の将来を案じて1970年(昭和45年)より浪曲の歴史調査や資料収集を始め、その後社長職を弟に譲り、以後浪曲の再興のために尽力した。浪曲の台本執筆や木馬亭の経営に加わり後継者育成に注力するほか、1982年(昭和57年)に『月刊浪曲』を創刊した。
武田 實(たけだ みのる、1922年3月28日 - 2009… 武田 實(たけだ みのる、1922年3月28日 - 2009年3月6日)は、日本の外交官。駐アイルランド特命全権大使等を経て、迎賓館長を務めた。 東京府立第一商業学校(現東京都立第一商業高等学校)を経て、1944年東京商科大学(現一橋大学)卒業。科学技術庁原子力局国際協力課長、在トルコ日本国大使館一等書記官、同参事官等を経て、1967年在オーストラリア日本国大使館参事官。1969年在ブルガリア日本国大使館参事官。1972年参議院参事、参議院事務局渉外部長兼列国議会同盟課長事務取扱。1976年シドニー総領事。1978年駐ラオス特命全権大使。1982年駐アイルランド特命全権大使。1985年迎賓館長。
佐藤 守良(さとう もりよし、1922年3月28日 ‐ 19… 佐藤 守良(さとう もりよし、1922年3月28日 ‐ 1996年3月7日)は、日本の政治家。衆議院議員・参議院議員を歴任した佐藤公治の父親。 衆議院議員(9期)、農林水産大臣(第8代)、国土庁長官(第20代)、北海道開発庁長官(第60代)、沖縄開発庁長官(第29代)を歴任。 広島県御調郡向島町(現尾道市)出身。尾道商業学校、1947年中央大学法学部英法科卒業。 運輸大臣を務めた永野護の秘書を長く務め、1960年の第29回衆議院議員総選挙に無所属で立候補するが落選。1969年の第32回衆議院議員総選挙で自由民主党公認を得て、再び広島3区から立候補し初当選(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。
原秀三(はら ひでぞう、1922年3月28日 - 没年不明)… 原秀三(はら ひでぞう、1922年3月28日 - 没年不明)は、日本の大蔵官僚。関東信越国税局長、外務省在英国大使館参事官、外務省在英国大使館公使、日本専売公社副総裁、住総社長、同社会長などを務めた。 東京帝国大学経済学部経済学科在学中の1943年12月に大竹海兵団として臨時召集される。1944年9月 東京帝大経済学部経済学科卒業。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、三重海軍航空隊高野山分遣隊付となる。同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進み予備役となる。 1945年10月、大蔵省に入省し主税局属に任官。
畠山 清二(はたけやま せいじ、1922年3月28日 - 1… 畠山 清二(はたけやま せいじ、1922年3月28日 - 1988年6月7日)は、日本の経営者。荏原製作所社長を務めた。東京都出身。 1942年に山梨高等工業学校工作機械科を卒業し、同年に荏原製作所に入社。1958年12月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1976年4月に副社長に就任し、同年12月には社長に昇格。 1988年6月7日心不全のために死去。66歳没。
小林 利雄(こばやし としお、1921年3月28日 - 20… 小林 利雄(こばやし としお、1921年3月28日 - 2007年4月29日)は、日本の広告プロデューサー・テレビ映画製作者。かつて存在した日本の広告代理店・宣弘社の元代表取締役社長・元取締役会長。静岡県出身。 戦後に大陸から復員し、父が創業した社を継いで2代目社長となり、宣弘社を屋外・交通広告主力の広告代理店に育て、「駅広告の小林」「ネオンの小林」「銀座のネオンを支配する男」と異名を取った。また国産初のテレビ映画『月光仮面』を企画制作したことで知られる。 父親は婿養子であり、「小林」は母方の姓である。父親の姓は「中村」であり、宣弘社の当初の名称「中村宣弘社」もこれに由来する。弟は宣弘社副社長の小林正尚。
虫明 康人(むしあけ やすと、1921年3月28日 - 20… 虫明 康人(むしあけ やすと、1921年3月28日 - 2020年10月6日) は、日本の工学者。東北大学名誉教授。元東北工業大学学長。 工学博士。専門は電気工学、通信工学で、周波数によらずインピーダンスが一定で、広帯域で利用可能な自己補対アンテナを発明した。 IEEEマイルストーン受賞。紫綬褒章受章。 長男は東北大学名誉教授で神経生理学者の虫明元。 岡山県浅口郡三和村(現浅口市金光町)に生まれる。1941年に広島高等工業学校電気工学科を卒業し、1942年に東北帝国大学工学部電気工学科に入学した。1944年に東北帝国大学工学部通信工学科を卒業すると、引き続き同大学大学院の第一期特別研究生となる。
筑紫 申真(つくし のぶざね、1920年(大正9年)3月28… 筑紫 申真(つくし のぶざね、1920年(大正9年)3月28日 - 1973年(昭和48年)1月9日)は、在野の神話学者、歴史学者、民俗学者。 1920年(大正9年)、広島県に生まれる。広島県三原市の沼田神社社家で沼田国造家を称する筑紫家に連なる家系であったため、筑紫家の養子となる。実父は侍従武官も務めた陸軍中将坪島文雄。國學院大學を卒業し、第59代沼田国造として沼田神社の神職を務めながら、郷里の中学校の教師ともなる。戦中は応召し、戦後は広島県内の中学・高校教師を歴任。1952年6月に転任した三重県立亀山高等学校を振り出しに、三重県立鳥羽高等学校・三重県立志摩高等学校・三重県立上野高等学校・鳥羽・三重県立四日市高等学校・三重県立明野高等学校の各高校へと転任した。
都竹 通年雄(つづく つねお、1920年3月28日 - 19… 都竹 通年雄(つづく つねお、1920年3月28日 - 1984年8月2日)は、日本の日本語学者。専門は方言学。岐阜県益田郡萩原町(現:下呂市)生まれ。 法政大学卒業。1974年旧東京都立大学大学院修士課程修了。武蔵大学講師を経て、 1980年富山大学教授に就任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、言語学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 言語学)。
高島 隆平(たかしま りゅうへい、1919年(大正8年)3月… 高島 隆平(たかしま りゅうへい、1919年(大正8年)3月28日 - 2014年(平成26年)12月3日)は日本の実業家、元朝日生命保険社長・会長。岐阜県出身。
寺山 義雄(てらやま よしお、1919年3月28日 - 20… 寺山 義雄(てらやま よしお、1919年3月28日 - 2002年10月26日)は、農政ジャーナリスト。 埼玉県大宮市(現さいたま市)出身。1943年早稲田大学政治経済学部卒、同盟通信社に入社、1945年共同通信社、1962年論説委員。79年退社。農政について多くの記事を書き、取材を行った。 2002年10月26日死去。83歳没。
村山 雅美(むらやま まさよし、1918年3月28日 - 2… 村山 雅美(むらやま まさよし、1918年3月28日 - 2006年11月5日)は、元南極観測隊隊長で国立極地研究所名誉教授。
田中 裕(たなか ゆたか、1918年3月28日-2017年1… 田中 裕(たなか ゆたか、1918年3月28日-2017年1月19日)は、日本の国文学者。文学博士(大阪大学・論文博士・1962年)(学位論文「中世文学論的研究」)。大阪大学名誉教授。中世文学が専門。 福岡県甘木市(現朝倉市)出身。第三高等学校を経て1942年1月京都帝国大学文学部を繰上げ卒業。のち京都一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)教諭、甲南高等学校(旧制)教授、1950年大阪大学文学部助教授、1962年「中世文学論的研究」で大阪大学より文学博士の学位を取得。1964年教授。1981年定年退官、名誉教授、南山大学教授、梅花女子大学教授。1989年退職。
安部 徹(あべ とおる、1917年3月28日 - 1993年… 安部 徹(あべ とおる、1917年3月28日 - 1993年7月18日)は、日本の俳優。本名:阿部 徹(読み同じ)。旧芸名:原 不二雄(はら ふじお)。 日活アクション映画や東映仁侠・ヤクザ映画など数多くの作品で悪役を演じ、戦後日本映画史に残る悪玉役者として知られる。戦前に新興キネマでデビューしており、若手時代は二枚目俳優として活躍した。妻は女優・声優の北原文枝だが入籍はしていない。 1917年(大正6年)3月28日、福岡県宗像郡東郷町(現在の宗像市)に、教師で糟屋郡志免町の青年学校長を務めていた父・大作と母・千代の4人兄弟の四男として生まれる。3人の兄はいずれも戦死している。 上京して府立四中(現在の都立戸山高校)を修了後、東京商科大学予科に進むが、酔っ払って西武線を止めて退学処分となる。
坂本 朝一(さかもと ともかず、1917年3月28日 - 2… 坂本 朝一(さかもと ともかず、1917年3月28日 - 2003年12月31日)は、日本の放送人。第12代日本放送協会(NHK)会長。「朝の連続テレビ小説」の生みの親として知られる。 東京都千代田区にある神田明神境内の割烹料理屋「開花楼」の主人・2代目坂本彦平(坂本猿冠者)の子として生まれる。旧制明治中学校から早稲田大学文学部英文学専攻科に進学し、同校を卒業。 1939年にNHKに入局。主にラジオドラマや演芸などの芸能番組を担当。1940年4月にはテレビ実験放送の公開番組として、日本初のテレビドラマである『夕餉前』を演出した。戦後には『二十の扉』『私は誰でしょう』『向う三軒両隣り』などを担当した。
井上薫(いのうえ かおる、1917年3月28日 - 2009… 井上薫(いのうえ かおる、1917年3月28日 - 2009年6月9日)は、日本の歴史学者、大阪大学名誉教授。文学博士(東京大学、1962年)。 大阪府北河内郡南郷村生まれ。浪速高等学校を経て、1940年東京帝国大学国史学科卒。1943年同大学院退学。1949年大阪大学教養部助教授、1962年「奈良朝仏教史の研究」で東京大学文学博士。1963年阪大教授。1980年定年退官、大阪大学名誉教授、奈良大学教授。1986年退職。1983年から1993年まで堺市博物館長を務めた。
渡辺 文夫(わたなべ ふみお、1917年3月28日 - 20… 渡辺 文夫(わたなべ ふみお、1917年3月28日 - 2012年2月10日)は、日本の経営者。東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)社長・会長、日本航空会長、日本棋院理事長。公益社団法人日本コントラクトブリッジ連盟創設者。 東京府出身。東京帝国大学卒。 1939年、東京海上火災保険に入社。 1939年、短期現役海軍主計科士官(2期)を志願し、同年5月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。赤城に配属。鈴谷庶務主任、漢口軍需部付、筑波海軍航空隊主計長兼副官を歴任。1941年5月、主計大尉に昇進し、1943年6月、予備役に編入。同年12月、召集され軍需省航空兵器総局付となり、1944年11月、主計少佐に進み終戦を迎えた。
竹内 春海 (たけうち はるみ、1917年3月28日 - 2… 竹内 春海 (たけうち はるみ、1917年3月28日 - 2005年8月20日)は、日本の外交官。外務省アメリカ局長や、儀典長、駐イタリア特命全権大使などを歴任した。 東京商科大学(現一橋大学)在学中、高等試験に合格し、1938年外務省に入省。米国留学、1940年アムハースト大学卒、1941年ハーバード大学大学院修了。 大日本帝国陸軍少尉、1947年内閣総理大臣秘書官、1949年調査局第二課長、米国在勤、1953年アジア第二課長、1954年欧米第一課長、1958年カルカッタ総領事、1959年在ドイツ連邦日本国大使館参事官、1961年アメリカ局外務参事官を経て、1963年アメリカ局長。1965年駐フィリピン特命全権大使。
田場 典正(たば てんせい、1917年 <大正6年> 3月2… 田場 典正(たば てんせい、1917年 <大正6年> 3月28日 - 2006年 <平成18年> 11月2日)は、日本の銀行家。琉球銀行頭取を務めた。位階は正五位。 沖縄県出身。1941年に早稲田大学商学部を卒業し、1942年に日本通運を経て、1948年6月に琉球銀行に入行。1972年1月に専務に就任し、1981年6月には頭取に昇格。1985年6月に会長に就任し、1994年6月には取締役相談役に退いた。 1987年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2006年11月2日に肺炎のために死去。89歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
石黒 孝次郎(いしぐろ こうじろう、1916年(大正5年)3… 石黒 孝次郎(いしぐろ こうじろう、1916年(大正5年)3月28日 - 1992年(平成4年)3月2日)は、日本の実業家、古美術商。レストランクレッセント創業者。栄典は紺綬褒章。祖父に石黒忠悳、父に石黒忠篤が居る。 1916年(大正5年)3月28日、東京府東京市牛込区揚場町17番地(現東京都新宿区揚場町)に石黒忠篤の次男として生まれる。父は農政の神様といわれた農林大臣の石黒忠篤。祖父は日本陸軍軍医で日本赤十字社第4代社長の石黒忠悳。 旧制成蹊高等学校を経て1941年(昭和16年)に京都帝国大学法学部を卒業し、翌年三井物産に入社。戦時中は物資補給を担った。このときの部下に楊馥成が居る。1946年(昭和21年)、三井物産退社。
山本 重信(やまもと しげのぶ、1916年3月28日 - 2… 山本 重信(やまもと しげのぶ、1916年3月28日 - 2008年7月3日)は、日本の商工・通産官僚、実業家。階級は海軍主計大尉。位階は正四位。勲等は勲二等。 通商産業省通商局局長、中小企業庁長官、通商産業事務次官、トヨタ自動車工業副社長、トヨタ自動車副会長、日野自動車工業会長などを歴任した。 長野県須坂市に生まれる。長野県旧制須坂中学、旧制松本高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、1939年4月、商工省入省。短期現役海軍主計科士官(2期)に志願して、同年5月5日、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年9月5日に卒業。霧島に配属。第三遣支艦隊・磐手乗組、佐世保鎮守府経理部付、呉建築部員を歴任。
岩谷 時子(いわたに ときこ、1916年(大正5年)3月28… 岩谷 時子(いわたに ときこ、1916年(大正5年)3月28日 - 2013年(平成25年)10月25日)は、日本の作詞家、詩人、翻訳家。本名:岩谷 トキ子(読み同じ)。歌手・越路吹雪のマネージャーを務めたことでも知られる。
柳 武彦(やなぎ たけひこ、1916年3月28日 - 生没不… 柳 武彦(やなぎ たけひこ、1916年3月28日 - 生没不明)は、日本のフィールドホッケー選手。 慶應義塾大学経済学部卒業。1936年ベルリンオリンピックでホッケー競技に出場した。 伊藤赳夫 | 伊藤通弘 | 上野安夫 | 大津敏雄 | 菊池信 | 倉内大次 | 酒井義雄 | 杉山益男 | 武知治 | 田中昇 | 浜田駿吉 | 村岡敏 | 柳武彦 | 脇坂貞夫 | 監督: 石川周策 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
小沢 政雄(おざわ まさお、1916年3月28日 - 199… 小沢 政雄(おざわ まさお、1916年3月28日 - 1996年10月4日)は、日本のロシア文学者。上智大学名誉教授。 神奈川県小田原市国府津(当時の同県足柄下郡国府津村)出身。1938年東京外国語学校ロシア語科卒業、陸軍士官学校教官、戦後拓殖大学講師、1955年『ロシア・リアリズムの系譜』で日本翻訳出版文化賞受賞、1957年上智大学外国語学部ロシア語科設置に際し教授、1986年定年退職、名誉教授。 1996年10月4日、腎不全のため死去。
宮坂 保清(みやさか やすきよ、1916年3月28日 - 1… 宮坂 保清(みやさか やすきよ、1916年3月28日 - 1981年5月22日)は、日本の公認会計士、会計学者。 長野県諏訪市出身。旧制成立商業学校を経て、1937年明治大学商学部卒業。1939年計理士開業。1949年公認会計士開業。同年から1972年まで母校講師。1971-1977年日本公認会計士協会会長、同相談役。第一監査事務所代表社員。
池田 義祐(いけだ よしすけ、1915年 <大正4年> 3月… 池田 義祐(いけだ よしすけ、1915年 <大正4年> 3月28日 - 1992年 <平成4年> 3月28日)は、日本の社会学者。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 福井県坂井郡雄島村出身。旧制福井県立三国中学校卒業。1931年、大谷大学文学部社会学科卒業。1962年、「支配関係の研究」により大谷大学文学博士。 1946年大谷大学文学部講師、49年助教授、1954年京都大学文学部助教授、64年教授、78年定年退官、名誉教授、大谷大学教授。1988年3月退職。同年春の叙勲で勲三等旭日中綬章を受章。1992年3月死去。死没日付をもって正四位に叙された。
西村 俊一(にしむら しゅんいち、1915年3月28日 - … 西村 俊一(にしむら しゅんいち、1915年3月28日 - 1982年8月29日)は、日本の経営者。サクラクレパス社長。西村治兵衛の孫。娘の結婚で皇室と縁続きとなった。 京都府京都市出身。祖父は西村治兵衛、父は1937年にサクラクレパス社長に就任した西村斎次郎。 1939年に神戸商業大学を卒業。大阪ガスでの勤務を経て、1940年8月にサクラクレパス社長に就任した。 1974年10月に藍綬褒章を受章した。 1982年8月29日、肝硬変のために死去。67歳没。
本居 貴美子(もとおり きみこ、 1914年(大正3年)3月… 本居 貴美子(もとおり きみこ、 1914年(大正3年)3月28日 - 1972年(昭和47年)12月15日)は、日本の歌手。父は作曲家の本居長世。童謡歌手の本居みどりは姉である。 本居長世の次女として生まれた。昔から父の影響で人の前で歌う機会が多かった。頌栄高等女学校を卒業した。 本居長世作曲の「赤い靴」、「青い眼の人形」などがある。
志賀 淑雄(しが よしお、1914年(大正3年)3月28日 … 志賀 淑雄(しが よしお、1914年(大正3年)3月28日 - 2005年(平成17年)11月25日)は、日本の海軍軍人。海兵62期。最終階級は海軍少佐。東京都出身。旧姓は四元。 大正3年、東京府(現・東京都)で四元賢助海軍少将の三男として生まれる。本籍は鹿児島。父の賢助は、海軍兵学校教官として山本五十六、豊田副武らを教えており、子供の教育にも厳格であった。山口中学を経て、1931年(昭和6年)4月海軍兵学校62期に入学。同期に伏見宮博英王がおり、伏見宮が掃除の時間に列に割り込んだ際、志賀はそれを注意してバケツを蹴飛ばした。その件が殴ったという噂に飛躍して多少の摩擦も生じたが、後に父の訃報を受けた志賀に帰宅許可が出たのは伏見宮の計らいであった。
扇谷 正造(おうぎや しょうぞう、1913年3月28日 - … 扇谷 正造(おうぎや しょうぞう、1913年3月28日 - 1992年4月10日)は日本の文筆家、編集者、ジャーナリスト。 "週刊誌の鬼"の綽名で知られた。 宮城県遠田郡涌谷町出身。旧制石巻中学、旧制二高を経て、1935年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、朝日新聞社に入社。青森支局、仙台支局を経て、1937年に社会部記者、1938年に従軍記者として第101師団に配属され、武漢作戦に参加。1941年12月、再度従軍記者となり、フィリピンのリンガエン湾に上陸。 1944年(昭和19年)3月に補充兵として召集され、歩兵第4連隊に入営。朝鮮の羅南で三カ月の訓練を受け、通信兵となる。湘桂作戦(ト号作戦)に参加。
篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子、1913年… 篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子、1913年〈大正2年〉3月28日 - 2021年〈令和3年〉3月1日)は、日本の美術家、版画家、エッセイスト。 映画監督の篠田正浩は従弟、建築家の若山滋は甥にあたる。 日本の租借地だった関東州大連に生まれる。父の篠田頼治郎は東亜煙草の大連支社長で、職場と自宅があったジョサイヤ・コンドル設計の元ロシア帝国の3階建洋館で三男四女の第五子として生まれ、満洲子と命名された。 2歳で東京に戻り、5歳頃から父に書の手ほどきを受ける。その後、女学校時代以外はほとんど独学で書を学ぶ。 1950年から数年、書道芸術院に所属して前衛書の作家たちと交流を持つが、1956年に渡米。
保田 克己(やすだ かつみ、1913年3月28日 - 201… 保田 克己(やすだ かつみ、1913年3月28日 - 2015年8月23日)は、日本の経営者。住友林業社長を務めた。 山口県出身。1936年に東京帝国大学林学科を卒業し、同年に住友本社に入社。 のちに住友林業に転じ、常務を経て、1966年6月に社長に就任し、1974年11月には会長に就任。1976年4月には取締役相談役に就任し、1978年12月からは相談役を務めた。 1981年11月に藍綬褒章を受章。 2015年8月23日、老衰のために死去。102歳没。
小原 勝郎(おはら かつろう、1912年3月28日 - 19… 小原 勝郎(おはら かつろう、1912年3月28日 - 1990年1月23日)は、日本の登山家。ヒマラヤのマナスル初登頂隊(第3次)で副隊長、先遣隊でリーダーを務めた。登山隊はマナスル初登頂とともに、日本人として最初の8000M峰の登頂に成功し、日本山岳史に残る快挙となっている。日本山岳会元理事。津村順天堂(現・ツムラ)で常務・静岡工場長を務めた。 日本学園高等学校卒業。1934年(昭和9年)、立教大学商学部卒業。大学では山岳部に所属し、1933年(昭和8年)3月には、同部員の湯浅巌とともに鹿島槍ヶ岳天狗尾根登攀で積雪期初登頂を果たした。その際の登山案内人は大町の櫻井一雄らが務めた。 日本山岳会が、1952年(昭和27年)4月16日、マナスル遠征を決定し、それ以来、登頂成功までの約5年間、幾多の苦労が重ねられることとなる。
畑中 健二(はたなか けんじ、1912年(明治45年)3月2… 畑中 健二(はたなか けんじ、1912年(明治45年)3月28日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 鈴木貫太郎内閣のポツダム宣言受諾決定(日本の降伏)に抗議する一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が企図したクーデター未遂事件(宮城事件)の首謀人物の一人である。決起は叶わず、玉音放送直前の8月15日午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で椎崎二郎とピストル自決した。 京都府船井郡高原村(現京丹波町)出身。地主・畑中鋭次郎の二男として生まれる。京都府立園部中学校を四年修了、三高文科を希望していたが、周囲の勧めで陸軍士官学校予科を経て、1934年(昭和9年)6月、陸軍士官学校(46期)を64番/338名の成績で卒業。
大岡 虎雄(おおおか とらお、1912年3月28日 - 19… 大岡 虎雄(おおおか とらお、1912年3月28日 - 1975年8月23日)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)。 豊国中学(現豊国学園高)を経て、社会人野球の強豪・八幡製鐵所で四番打者として、八幡の虎の異名をとる。1931年の日米野球で全米選抜チームと八幡製鐵との対戦が下関長府球場で行われた。この試合で大岡は、ラリー・フレンチ投手(ピッツバーグ・パイレーツ)から2本の本塁打を放ったが、大岡自身先発登板し、アル・シモンズやミッキー・カクレーンら4選手に計6本の本塁打を浴び8-17で敗れた。 1935年に東京巨人軍にスカウトされたが、八幡製鐵所に残留した。そのころは、若林忠志、湯浅禎夫、野口明らとともに投手としてリストアップされていたようだった(「巨人軍50年 写真でつづる栄光の記録」読売新聞社 155ページ)。
飯盛 武夫(いいもり たけお、1912年3月28日 - 19… 飯盛 武夫(いいもり たけお、1912年3月28日 - 1943年8月16日)は、日本の化学者、理学博士。飯盛里安の長男である。父・里安と同じように東京帝国大学理学部を卒業し、理化学研究所に入所して研究者の道を歩み始めたが31才で早世した。 1936年理化学研究所飯高研究室に研究生として入所し、翌年4月までの1年間、熱した鉄が空気に触れた時に生じる酸化鉄の膜の結晶構造を電子線回折法で調べる研究を行なった。1937年4月には父・里安が主宰する飯盛研究室に移籍し、飯盛研究室本来の希元素関連の研究に加えてサイクロトロンに関する研究も行なった。与えられた研究題目は次のとおり。 1937年、理化学研究所には仁科芳雄の主導で日本で最初の26インチサイクロトロンが完成した。
一ノ濵 枩雄(いちのはま まつお、1912年3月28日 - … 一ノ濵 枩雄(いちのはま まつお、1912年3月28日 - 没年不明)は、北海道函館市出身で井筒部屋に所属した元大相撲力士。本名は海老田 松夫。最高位は十両8枚目。 井筒部屋に入門し、1927年1月初土俵を踏む。1934年5月十両に昇進。翌1935年1月、東十両8枚目まで上がったが、4勝7敗と負け越し、この場所限りで24歳の若さで廃業した。 一ノ浪 枩夫→谷岩 枩夫(1933年1月場所-)→一ノ濵 枩雄(1934年5月場所-)
梶谷 善久(かじたに よしひさ、1911年3月28日 - 1… 梶谷 善久(かじたに よしひさ、1911年3月28日 - 1990年9月3日)は、日本のジャーナリスト。新聞記者、評論家。 大阪府出身。大阪商科大学(現大阪市立大学)卒。1937年(昭和12年)朝日新聞社入社、1942年(昭和17年)ジャワ島特派員。1949年(昭和24年)全朝日新聞労組委員長となり、1950年(昭和25年)レッドパージで解雇され裁判に訴え、勝訴・復職した。 朝日新聞では社会部、外報部、調査研究室、朝日ジャーナルなどに勤務。1966年(昭和41年)朝日新聞社を退職。 その後は文化学院、青山学院大学で講師を勤めたほか、アジア問題の評論などを書く。国際日本協会編集長、日朝文化交流協会理事長。
松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 198… 松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 1984年6月19日)は主に戦前期に活躍した女性流行歌歌手。戦前まではミス・コロムビアという名でも活躍した。1939年に歌手・霧島昇(本名:坂本栄吾)と結婚。 1911年(明治44年)3月28日、北海道小樽区(現・小樽市)生まれ。東京音楽学校(現:東京芸術大学)在学中、1933年(昭和8年)、コロムビアから「ミス・コロムビア」という覆面歌手として『浮草の唄』でデビューする。当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、後にヒット歌手となったことから、コロムビアも松原操を売り出すために宣伝の写真にも目隠しをして彼女をデビューさせた。
坊屋 三郎(ぼうや さぶろう、本名:柴田 俊英、1910年〈… 坊屋 三郎(ぼうや さぶろう、本名:柴田 俊英、1910年〈明治43年〉3月28日 - 2002年〈平成14年〉5月25日)は、日本の芸人、俳優。北海道夕張市出身。 出生時の氏名は石川博、生後数ヶ月で実相寺へ養子に出され、柴田俊英と改名。私立北海中学校に入学し、弓道部に所属した。日本大学専門部宗教科に進学するも、専門部芸術学科(現在の日本大学藝術学部の前身)に転科して声楽を学ぶ。 吉本興業(東京吉本)に入り、1937年に弟の芝利英・川田義雄(第二期は山茶花究)・益田喜頓(北海中学の同級生)とボーイズ演芸のあきれたぼういずを結成。1939年、新興キネマ演芸部に高額報酬を条件に引き抜かれ、吉本子飼いの芸人であった川田を除く3人で移籍した。
河本 春男(かわもと はるお、1910年3月28日 - 20… 河本 春男(かわもと はるお、1910年3月28日 - 2004年1月27日)は、愛知県出身の実業家、サッカー選手・指導者。 愛知県の出身。1923年に入学した愛知県立刈谷中学校(現・愛知県立刈谷高等学校)時代よりサッカーを始める。1928年に入学した東京高等師範学校(現・筑波大学)でも蹴球部(現在の筑波大学蹴球部)に所属した。1932年に同校を卒業後は兵庫県立第一神戸中学校の体育教諭となり、同校サッカー部の部長も務め、同年に開催された全国中等学校蹴球選手権大会で優勝に導いた。 1941年に第二次世界大戦に伴って従軍するが、1943年に除隊した。1947年より実業界に進んで、1958年に「アルプスバター神戸直売所」を創業。
北原 三男(きたはら かずお、1910年〈明治43年〉3月2… 北原 三男(きたはら かずお、1910年〈明治43年〉3月28日 - 1993年〈平成5年〉)は、台湾総督府官僚、鹿児島県職員、また夏目 漠(なつめ ばく)の筆名で日本の詩人、文筆家。鹿児島県職員としては、人事分野や社会福祉行政に携わった他、文化振興にも尽力し、鹿児島県文化センター初代館長を務めた。 鹿児島県鹿児島市に生まれる。旧制の鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1930年(昭和5年)第七高等学校造士館文科(甲類)を卒業。1933年(昭和8年)10月高等試験行政科に合格し、翌年3月に東京帝国大学法学部法律学科を卒業する。1936年(昭和11年)台湾拓殖に入社し、1939年(昭和14年)に台湾総督府属となる。
石野 径一郎(いしの けいいちろう、1909年(明治42年)… 石野 径一郎(いしの けいいちろう、1909年(明治42年)3月28日 - 1990年(平成2年)8月3日)は日本の作家。本名は石野 朝和。もとは高江洲朝和であったが、石野へ改姓し、筆名は径一郎とした。 代表作は沖縄戦を題材にした『ひめゆりの塔』で、戯曲化・映画化もされた。また、直木賞候補にもなった対馬丸事件を描いた『沖縄の民』や『残波岬の決闘』などもある。 沖縄県首里区寒川町(現那覇市)で首里士族の両親のもとに、高江洲家8代目として生まれる。9歳の時に母が亡くなり、祖父の住む真和志村古島に移る。1921年に旧制沖縄県立第一中学(現沖縄県立首里高等学校)入学。14歳の時に古島の中学生翁長助静(のち真和志市長)、内間安清、平良良松らと同人誌『はるがん(原神)』を発行。
相磯 貞三(あいそ ていぞう、1908年3月28日 - 19… 相磯 貞三(あいそ ていぞう、1908年3月28日 - 1960年4月13日)は、日本の国文学者。 静岡県出身。國學院大學文学部国文科卒。1960年「記紀歌謡論」で國學院大学文学博士。慶應義塾大学文学部教授。52歳で死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。