融 道男(とおる みちお、1933年1月31日 - 2017… 融 道男(とおる みちお、1933年1月31日 - 2017年5月7日 は、日本の医学者・精神科医。専門は精神薬理学。東京医科歯科大学名誉教授。元東京医科歯科大学学生部長(副学長)。元日本精神神経学会会長。元信州大学医学部教授。学位は、医学博士(東京医科歯科大学・1969年)。
1月31日生まれ:276人
融 道男(とおる みちお、1933年1月31日 - 2017… 融 道男(とおる みちお、1933年1月31日 - 2017年5月7日 は、日本の医学者・精神科医。専門は精神薬理学。東京医科歯科大学名誉教授。元東京医科歯科大学学生部長(副学長)。元日本精神神経学会会長。元信州大学医学部教授。学位は、医学博士(東京医科歯科大学・1969年)。
紀伊國 献三(きいくに けんぞう、1933年1月31日 - … 紀伊國 献三(きいくに けんぞう、1933年1月31日 - 2020年5月15日)は、日本の医学者・病院管理学者。筑波大学医学専門学群、国際医療福祉大学などの立ち上げに携わり医学教育に注力するとともに、世界保健機関(WHO)公衆衛生専門委員など国際的にも活躍。晩年は笹川保健財団などを通し、ハンセン病制圧活動にも尽力した。筑波大学・国際医療福祉大学名誉教授。 1957年に国際基督教大学卒業(同大学の一期性である)するとともに聖路加国際病院に勤務。1961年には米国ノースウェスタン大学大学院病院管理研究科卒業。同年より厚生省病院管理研究所で研究員・主任研究官。1978年よりWHO公衆衛生専門委員。筑波大学医学専門学群、国際医療福祉大学などの立ち上げに携わるとともに教鞭をとる。
町田 三郎(まちだ さぶろう、1932年〈昭和7年〉1月31… 町田 三郎(まちだ さぶろう、1932年〈昭和7年〉1月31日 - 2018年〈平成30年〉3月18日)は、日本の中国哲学研究者。九州大学名誉教授。 1932年、群馬県前橋市若宮町に生まれる。1950年に群馬県立前橋高等学校を卒業。東北大学文学部に入学して中国哲学を専攻した。1954年に卒業し、同大学大学院に進んだ。1960年、博士課程を単位取得退学。 卒業後は、同1960年4月より東北大学川内分校助手に採用された。1962年に講師昇格。1963年より文学部助手、1964年より教養部講師、1966年に同助教授に昇格。1974年に九州大学文学部助教授となり、中国哲学講座を担当した。1981年に教授昇格。
大谷 泰司(おおたに たいじ、1932年(昭和7年)1月31… 大谷 泰司(おおたに たいじ、1932年(昭和7年)1月31日 - 2012年(平成24年)2月1日)は、日本のプロ野球セントラル・リーグ審判。神奈川県横浜市出身。プロ野球で没収試合(後述)を宣言した数少ない審判員でもある。 横浜市立横浜商業高等学校に進んだが、春の選抜・夏の選手権の全国大会へは進出できなかった(当時は浅野高等学校、湘南高等学校が夏の甲子園に出場していた時期である)。卒業後1961年にセントラル・リーグの審判部に入局。関東出身でありながら関西審判部所属を希望。受理され1984年1月の退局まで同部の所属となる。 若い頃から視力が落ちており、一時期は眼鏡をかけて審判していたが、1969年のとあるゲームで判定に激昂した当時の中日監督水原茂に眼鏡をむしり取られるという出来事に見舞われてからはコンタクトレンズをつけて審判するようになる。
鈴木 正裕(すずき まさひろ、1932年1月31日 - 20… 鈴木 正裕(すずき まさひろ、1932年1月31日 - 2019年3月6日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は、博士(法学)(京都大学・論文博士・2017年)(学位論文『近代民事訴訟法史・オーストリア』)。神戸大学名誉教授。第10代神戸大学学長。神戸大学退官後は弁護士登録(大阪弁護士会所属)。位階は従三位。2008年瑞宝重光章受章。 現在の大阪府東大阪市に生まれる。 大阪府立住吉高等学校から京都大学法学部に進学し、在学中の1954年に司法試験に合格した。1955年に卒業、同大学院法学研究科に進み、1957年修士課程を修了した。 1960年、京都大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学、神戸大学法学部講師、同助教授(1962年)を経て 1970年に神戸大学法学部教授、1986年同法学部学部長、1991年第10代神戸大学学長に就任。
立平 良三(たてひら りょうぞう、1932年1月31日- )… 立平 良三(たてひら りょうぞう、1932年1月31日- )は、日本の気象学者。理学博士(京都大学・論文博士・1967年)(学位論文「レーダーによる降雨帯の研究」)。気象庁長官。 福井県勝山市出身。1953年京都大学理学部地球物理学科卒業、気象庁に入る。富士山測候所レーダー係長、予報部予報官、主任予報官、1978年予報課長、1983年福岡管区気象台長、85年海洋気象部長、予報部長、1990年気象庁長官、1992年電気通信大学教授、(財)気象業務支援センター顧問。1967年「レーダーによる降雨帯の研究」で理学博士(京都大学)の学位を取得。専門はレーダー気象学、天気予報技術。
佐渡谷 重信(さどや しげのぶ、1932年1月31日 - 2… 佐渡谷 重信(さどや しげのぶ、1932年1月31日 - 2019年8月14日)は、日本のアメリカ文学者、比較文学者、翻訳家。西南学院大学名誉教授。 東京生まれ。1955年早稲田大学教育学部卒。1959年西ミシガン大学大学院留学。1969年イェール大学研究員。西南学院大学教授。2003年定年退職、名誉教授。2019年8月14日、心不全のため死去、87歳。 比較文学では明治期日本文学へのアメリカ文学の影響研究や美術研究、米国作家研究で著書を多数刊行した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
田村 多津夫(たむら たつお、本名:田村 稔(たむら みのる… 田村 多津夫(たむら たつお、本名:田村 稔(たむら みのる)、1932年1月31日 - 2019年11月13日)は、大阪府大阪市出身の日本の脚本家、構成作家。 早稲田大学卒業後大学院に進み、飯島正に師事。日本のテレビ放送黎明期に、外国テレビ映画の翻訳のアルバイトなどを務めたのち、脚本家デビュー。 1960年代半ばから特撮・テレビアニメ・テレビドラマ・時代劇など多くの作品を執筆し活躍する。またそれと共に戯曲も多く手掛けた。 脚本家の弟子に富田祐弘がいる。 2019年11月13日、肺がんにより東京都内の自邸にて死去。87歳没。 この項目は、アニメ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJアニメ)。
稲森 照男(いなもり てるお、1931年(昭和6年)1月31… 稲森 照男(いなもり てるお、1931年(昭和6年)1月31日 - 2020年(令和2年)7月12日)は、日本の実業家。稲森パーキング創業者。元静岡県ハンドボール協会会長。元日本体育協会理事。旭日小綬章受章。 1943年(昭和18年)、静岡県立静岡中学校入学、1948年(昭和23年)、静岡県立静岡第一高等学校卒業。同年、慶應義塾大学経済学部入学、ハンドボール部に所属。3,4年生時、関東学生選抜、4年生時、主将。この間、地元静岡県立静岡城北高等学校の技術指導を行い、同校が数年に亘り全日本高校選手権、国民体育大会で優勝する黄金時代の基礎づくりに貢献した。 大学卒業後は食品原料卸商、富士農商事に入社、1959年(昭和34年)、総理府より皇太子御成婚記念行事として実施された、日本青年海外派遣団員として米国に3ヶ月滞在。
中村 昌義(なかむら まさよし、1931年1月31日 - 1… 中村 昌義(なかむら まさよし、1931年1月31日 - 1985年1月13日)は、日本の小説家。 樺太・真岡町出身。本名・重敬。父中村鷹祐は福岡県太宰府市太宰府町出身、旧帝国大学(東京大学)法学部卒業後、官僚となり当時樺太庁真岡支庁長。1940年父がパラオ島へ単身赴任し、東京で育つ。1944年太宰府へ疎開。1945年父はB級戦犯となる。1949年筑紫丘高等学校卒、福岡県庁に勤務。1953年早稲田大学二部政治経済学部に入学、国会図書館に勤務。1954年父が巣鴨拘置所から仮出所。1955年東京藝術大学に勤務。間宮茂輔に師事。1956年早大中退。 1962年同人「碑の会」発足、同人となる。ほかに高木卓、永松定、橋爪健、藤井重夫、間宮ら。
田島 義博(たじま よしひろ、1931年1月31日 - 20… 田島 義博(たじま よしひろ、1931年1月31日 - 2006年3月28日 )は、日本の経済学者、経営学者。第24代学校法人学習院院長。中内㓛らスーパーマーケット創業者らの理論的支柱とされる。 日本商業学会会長、日本ダイレクトマーケティング学会会長、社団法人消費者関連専門家会議会長、通商産業省大規模小売店舗審議会会長、国税庁中央酒類審議会会長、国税庁国税審議会会長代理、農林水産省食品流通審議会会長を務めた。経済産業省産業構造審議会、国税庁国税審議会、農林水産省食料・農業・農村政策審議会等多くの政府委員も歴任した。 熊本県生まれ。幼少時に両親を失い、兄とともに祖父母に育てられるも、高校時代に祖父が死亡したため高校卒業後は三池炭鉱で働いた。
新飯田 宏(にいだ ひろし、1931年1月31日 - )は、… 新飯田 宏(にいだ ひろし、1931年1月31日 - )は、日本の経済学者。横浜国立大学名誉教授。 東京府生まれ。1955年横浜国立大学経済学部卒。1960年東京大学大学院経済学研究科社会科学研究科理論経済学専攻博士課程単位取得満期退学。1962年博士論文「市場の連関性と価格変動の研究 レオンティエフ型モデルの適用について」を東京大学に提出し経済学博士の学位を取得。 1960年埼玉大学文理学部専任講師、1962年埼玉大学助教授に昇格。1964年学習院大学経済学部助教授。同年、フルブライト奨学生としてハーバード大学へ留学。1969年横浜国大経済学部助教授、1973年横浜国立大学教授に昇格。1986年横浜国立大学経済学部長、1995年放送大学客員教授、1996年横浜国立大学定年退官し名誉教授の称号を得る。
小此木 啓吾(おこのぎ けいご、1930年1月31日 - 2… 小此木 啓吾(おこのぎ けいご、1930年1月31日 - 2003年9月21日)は、日本の医学者・精神科医、精神分析家。学位は、医学博士。慶應義塾大学環境情報学部教授、東京国際大学教授を歴任。 青年が大学を留年しつづけ、その後も定職につかない傾向の増加を分析し、彼らを人生の選択をさけていつまでも可能性を保ったまま、大人になることを拒否して猶予期間にとどまる「モラトリアム人間」と呼んだ。 1930年東京府生まれ。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1954年慶應義塾大学医学部卒業。1960年「自由連想法の研究」で医学博士の学位を取得。1972年慶應義塾大学医学部助教授。1990年慶應義塾大学環境情報学部教授。
河原 四郎(かわはら しろう、1930年1月31日 - 20… 河原 四郎(かわはら しろう、1930年1月31日 - 2017年5月6日)は、日本の実業家。元大同生命保険代表取締役社長。元立命館大学校友会会長。 大阪府出身。1956年立命館大学経済学部卒業、大同生命保険入社。1973年東京支社長。1982年常務取締役。1985年専務取締役。1988年代表取締役副社長。1990年代表取締役社長。1994年代表取締役会長。1995年藍綬褒章受章。1996年立命館大学校友会会長。1998年相談役。2001年勲三等瑞宝章受章。2017年肺炎のため死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山田 修(やまだ おさむ、1929年1月31日- )は、日本… 山田 修(やまだ おさむ、1929年1月31日- )は、日本の建築家、韓国古文化研究家。 兵庫県伊丹市出身。1950年神戸工業専門学校卒。大阪市立工芸高等学校教諭。韓国古文化研究会主宰。1979年日本建築士連合会長賞受賞。大阪市立大学生活科学部・大阪市立デザイン教育研究所講師。修(しゅう)建築事務所主宰。伊丹市図書館協議会委員、伊丹市美術館協議会委員。1987年韓国観光公社賞、1998年釜山広域市建築士会功労牌、2002年駐大阪大韓民国総領事感謝状。
中村 卓彦(なかむら たくひこ、1928年1月31日 - 1… 中村 卓彦(なかむら たくひこ、1928年1月31日 - 1995年3月10日)は、昭和から平成時代の労働運動家。日本鉄鋼産業労働組合連合会(鉄鋼労連)委員長。福岡県北九州市生まれ。 1945年4月陸軍幼年学校卒業、陸軍予科士官学校に入学、在学中に敗戦。1947年2月日本製鐵に入社、八幡製鐵所化工部に勤務。1951年3月明治工業専門学校二部卒業。1955年2月八幡製鉄労組専従執行委員。同年に八幡製鉄労組内のインフォーマルグループ・盟友会に入会。先輩の宮田義二が自宅で開いていた「宮田学校」の門下生にもなった。1960年8月同志会の蔀充にかわり八幡製鉄労組書記長に選出。1968年IMF-JC事務局次長。
筑井 甚吉(つくい じんきち、1926年1月31日 - 20… 筑井 甚吉(つくい じんきち、1926年1月31日 - 2010年3月5日)は、日本の経済学者。大阪大学名誉教授。東京経済大学助教授・成蹊大学教授・大阪大学教授を歴任。 東京吉祥寺生まれ。1942年東京都立第二商業学校卒業。1952年中央大学入学資格認定試験合格・入学。1956年中央大学経済学部を優等の成績で卒業。1958年一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。同年東京経済大学助手に着任。1961年一橋大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。指導教官は山田雄三。同年、一橋大学経済学博士。 1961年東京経済大学専任講師に昇格。ハーバード大学経済研究所研究員を経て、1964年東京経済大学助教授。
小木 新造(おぎ しんぞう、1924年1月31日 - 200… 小木 新造(おぎ しんぞう、1924年1月31日 - 2007年7月12日)は、日本の文化史学者。 1927年、東京で生まれた。東京教育大学日本史学科で学び、卒業。 卒業後は、桐朋学園大学教授に着任。上越教育大学教授を経て、1986年より国立歴史民俗博物館教授となった。1978年、東京教育大学に学位論文『東京庶民生活史研究』を提出して文学博士号を取得。1988年、江戸東京歴史財団理事に就任。1996年、第2代東京都江戸東京博物館館長に就任。1998年より同顧問。2007年に死去。 江戸および明治期東京の庶民生活史研究を牽引した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
作田 啓一(さくた けいいち、1922年1月31日 - 20… 作田 啓一(さくた けいいち、1922年1月31日 - 2016年3月15日)は、日本の社会学者。京都大学名誉教授。元日本社会学会会長。第31回(平成24年度)京都府文化賞特別功労賞。京都帝大教授・満州建国大学副総長だった経済学者の作田荘一の長男。妻は作家の折目博子。 山口県山口市に生まれる。関西学院大学卒、1948年(昭和23年)京都帝国大学文学部哲学科を卒業し、西京大学(現:京都府立大学)助教授を経て1959年(昭和34年)京都大学教養部助教授、1966年(昭和41年)教授。1985年定年退官、京都大学名誉教授となる。1985年から1995年まで甲南女子大学教授を務め、人間学としての社会学を追求した。
黒土 始(くろつち はじめ、1922年〈大正11年〉1月31… 黒土 始(くろつち はじめ、1922年〈大正11年〉1月31日 - 2023年 〈令和5年〉4月17日)は、日本の実業家。位階は正五位。第一交通産業創業者。 現在の大分県中津市出身。1941年12月に徴兵のため、大分高等商業学校(現:大分大学経済学部)を中退。 終戦後の1960年6月に前身となる、第一タクシー有限会社を創業し、代表取締役社長を務める。 1964年9月に第一通産株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。一地方のタクシー会社であった同社をM&Aなどにより拠点を全国に広げ、8000台を超える全国一のタクシー保有台数を誇る企業グループに成長させた。 1993年4月に現行の第一交通産業株式会社に社名を変更し、2001年6月には娘婿の田中亮一郎が社長に就任したのに伴い、同社の代表取締役会長に就任。
小林 傭佶(こばやし ようきち、1920年(大正9年)1月3… 小林 傭佶(こばやし ようきち、1920年(大正9年)1月31日 - 1993年(平成5年)4月19日)は、日本の実業家・学校経営者。北海道古宇郡神恵内村生まれ。1942年(昭和17年)東京商科大学卒。「小林傭吉」「小林用吉」とも表記される。 三菱重工業勤務を経て、1946年(昭和21年)札幌文科専門学院教授。1949年(昭和24年)明和学園理事( - 1954年(昭和29年))。1950年(昭和25年)札幌短期大学商業科客員教授( - 1967年) 1957年(昭和32年)札幌日交タクシー社長。1959年(昭和34年)小樽日興交通社長。1960年(昭和35年)釧路日興交通社長。1961年(昭和36年)日交興業開発(後の小林企業)社長。
奥山 治(おくやま おさむ、1918年(大正7年)1月31日… 奥山 治(おくやま おさむ、1918年(大正7年)1月31日 - 2000年(平成12年)3月18日)は東京都・青ヶ島村の村長を五期17年3か月間務めた人物。生涯において玄米自然食(マクロビオティック)の普及に努めた。東洋哲学の思想家。位階は正六位。 奥山治の出生地青ヶ島は、1785年(天明5年)天明の大噴火で全島民が避難し無人島になった。絶海の孤島の中で、その後五十年もの歳月をかけ、1835年(天保6年)避難先の八丈島から独力還住(全島民帰還)を果たす祖先達を指導したのが佐々木次郎太夫である。柳田國男は佐々木次郎太夫を「青ヶ島のモーゼ」と称えている。 奥山治は、島の名主となった佐々木次郎太夫の末裔である。
木暮 実千代(こぐれ みちよ、1918年1月31日 - 19… 木暮 実千代(こぐれ みちよ、1918年1月31日 - 1990年6月13日)は、日本の女優。身長159cm。本名:和田 つま(わだ つま)。 父が税関で山口県下関市彦島福浦町で生まれた。英文学者・随筆家の黒川鍾信は甥。梅光女学院を経て日本大学芸術学部に入学。日本大学芸術学部在学中に田中絹代に見出されて、1938年に松竹に入社。松竹入社当時は高峰三枝子、桑野通子、水戸光子らが幹部であったが1年余りで準幹部から幹部に昇進。 日本人離れしたルックスとスタイルに加え、悩殺的でコケティッシュな色気もあり、純情可憐型が主流の松竹では恋敵役が多かった。 1944年、20歳年上の従兄・和田日出吉と結婚。マスコミの仕事に従事する夫の仕事の関係で夫妻とも満洲に渡った。
五十嵐 富夫(いがらし とみお、1916年〈大正5年〉1月3… 五十嵐 富夫(いがらし とみお、1916年〈大正5年〉1月31日 - 1998年〈平成10年〉12月16日)は、日本の歴史家、郷土史家、教員。文学博士。 1916年(大正5年)群馬県伊勢崎市生まれ。旧制渋川中学校(現・群馬県立渋川高等学校)を経て、1940年(昭和15年)東京高等師範学校研究科歴史科を修了。群馬県内の高等学校の教諭を歴任し、群馬県立吾妻高等学校、群馬県立館林高等学校、群馬県立太田女子高等学校の各校長を勤めた。1976年(昭和51年)3月に退職。 1970年(昭和50年)群馬女子短期大学講師となり、のち教授。 関東近世史研究会、交通史研究会、地方史研究協議会員。群馬県を中心とした近世の街道、女性史で業績があった。
八木 徹雄(やぎ てつお、1916年(大正5年)1月31日 … 八木 徹雄(やぎ てつお、1916年(大正5年)1月31日 - 1971年(昭和46年)7月4日)は、自由民主党衆議院議員(5期)。 愛媛県越智郡乃万村延喜(現今治市延喜)生まれ。愛媛県立今治中学校卒業後上京し、砂田重政立憲政友会衆議院議員秘書。1937年、大倉高等商業学校卒業。1951年、保守党の最年少議員として、愛媛県議会議員に初当選。日本民主党愛媛県支部幹事長を経て、1958年2月、第27回衆議院議員総選挙愛媛2区補欠選挙に自由民主党で立候補するが、落選。同年5月の第28回衆議院議員総選挙愛媛県第2区に自由民主党から立候補し、初当選。以後、連続5期務める。1963年7月、第2次池田第3次改造内閣文部政務次官 。
西村 睦男(にしむら むつお、1915年1月31日 - 20… 西村 睦男(にしむら むつお、1915年1月31日 - 2006年3月9日)は、日本の地理学者。京都大学教授・奈良大学教授・奈良大学学長を歴任。 1915年、山口県厚狭郡楠町(現宇部市)で生まれた。幼少期に台湾へ移住。旧制台北一中、台北高等学校 (旧制)を経て、京都帝国大学文学部地理学科に進んだ。1938年に卒業。卒業論文は「台北市の地理学的研究」、自身も育った植民地都市の空間構造を考察したものであった。 卒業後は、京都・嵯峨野高等女学校など高等学校教員として13年間地理の中等教育に当たった。1951年、京都大学教養部助教授に着任。教養部人文地理学教室には藤岡謙二郎が在籍しており、共に教学にあたった。
荒谷 正雄(あらや まさお、1914年1月31日 - 199… 荒谷 正雄(あらや まさお、1914年1月31日 - 1996年3月1日)は、日本の指揮者、ヴァイオリニスト。北海道札幌市出身。 1935年帝国音楽学校卒業後、1936年ヨーロッパに留学、ウィーン、ベルリンなどで学び、ヴァイオリンをヨゼフ・シゲティらに師事、ベルリン室内楽協会の団員として演奏活動を行い、1945年7月に帰国。1948年に札幌音楽院を開設、弦楽器のほか、ピアノ、声楽、作曲、美学、音楽史の講義を組み、1949年札幌音楽院管弦楽団を結成。1950年北海道文化賞受賞。1961年札幌交響楽団設立に参画、1968年まで初代常任指揮者を務めた。1986年北海道開発功労賞受賞。1997年札幌交響楽団から名誉創立指揮者の称号を贈られる。
冨樫 総一(とがし そういち、1914年1月31日(戸籍上は… 冨樫 総一(とがし そういち、1914年1月31日(戸籍上は2月1日) - 1973年1月17日)は労働官僚。労働事務次官を務めたのち退官し、中小企業退職金共済事業団理事長等を歴任。 秋田県秋田市大町五丁目に富樫総太郎の長男として出生。旧制東京商科大学(一橋大学の前身)で、日本で初めて労働法講義を開講した労働法学者孫田秀春のゼミナールに所属し労働法を学ぶ。妻の杜美子は、孫田の長女。大平正芳元総理大臣は大学の同期で、大平らと憲法の田上穣治講師や国際法の大平善梧教授が中心となっていた研究会で勉強し、高等試験行政科に上位の席次で合格した。 大学卒業後、内務省社会局に入り、以来、奈良県警務課長、長崎県警務課長を務めたほかは、一貫して労働行政にたずさわり、戦後は労働三法である労働組合法や労働関係調整法といった重要法案の立案も担当、著書も多数執筆し、労働行政において重きをなした。
畑福 俊英(はたふく としひで、1913年1月31日 - 1… 畑福 俊英(はたふく としひで、1913年1月31日 - 1981年5月23日)は、秋田県出身のプロ野球選手(投手。右投右打)、野球指導者。 横手中学から専修大学を経て、1934年に大日本東京野球倶楽部(翌1935年より東京巨人軍)結成へ参加しプロ入り。日本プロ野球最初のリーグ戦(日本職業野球連盟)を開始した1936年7月3日の対大東京戦に先発登板し6イニングを1失点に押さえて巨人球団史上初の公式戦勝利投手となった。1937年以降は新設したイーグルス(1940年途中より黒鷲軍、1942年より大和軍)へ移籍。1937年に春季・秋季シーズン合わせて32敗を喫しているが、これはプロ野球記録とされている中山正嘉の29敗(1940年。
津島 美知子(つしま みちこ、1912年(明治45年)1月3… 津島 美知子(つしま みちこ、1912年(明治45年)1月31日 - 1997年(平成9年)2月1日)は、小説家・太宰治の妻。旧姓:石原。 太宰の作品に登場することも多い。「春の盗賊」「薄明」「親友交歓」「女神」「父」「美男子と煙草」「家庭の幸福」ほか、「十二月八日」では一人称で登場する。 石原初太郎・くらの四女として島根県那賀郡浜田町(現:浜田市)に生まれる。父の初太郎は山梨県中巨摩郡松島村大下条(現:甲斐市大下条)出身の地質学者で、当時島根県の中学校で校長を務めていた。 山形県の山形県立米沢中学校校長や広島県の広島高等師範学校地質学教室講師を務めた父の転勤に伴い、各地を転々と移り住んだが、1922年(大正11年)、父祖の地である山梨県甲府市水門町29番地(現・山梨県甲府市朝日一丁目)に戻る。
南 俊夫(みなみ としお、1912年〈明治45年〉1月31日… 南 俊夫(みなみ としお、1912年〈明治45年〉1月31日 - 没年不明)は、香川県綾歌郡出身の実業家、政治運動家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。
河合 恒治(かわい つねはる、1911年1月31日 - 20… 河合 恒治(かわい つねはる、1911年1月31日 - 2005年9月17日)は、日本の歌人。 愛知県豊橋市出身。海軍兵学校卒。1943年、徳島県那賀郡羽ノ浦町(現・阿南市羽ノ浦)に移り住む。海軍軍人としての戦争体験から、海を重要な題材として詠み続けた。第一歌集『艦砲射撃』の序文は平出英夫と井上司朗が寄せている。1964年に歌誌「四国水甕」を創刊。1994年に徳島ペンクラブ5代目会長に就任。2000年に第26回徳島県文化賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
猪原 淳三(いのはら じゅんぞう、1910年(明治43年)1… 猪原 淳三(いのはら じゅんぞう、1910年(明治43年)1月31日 - 没年不明)は、日本のフィールドホッケー選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。 広島県に生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現在の広島大学附属中学校・高等学校)を経て、早稲田大学に進む。大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックにフィールドホッケーで出場、フォワードとして2試合をプレイし、銀メダルを獲得した。 1934年(昭和9年)、早稲田大学を卒業。 浅川増幸 | 猪原淳三 | 宇佐美敏夫 | 小西健一 | 小林定義 | 今治彦 | 酒井義雄 | 柴田勝見 | 左右田秋雄 | 永田寛 | 中村英一 | 浜田駿吉 | 三浦四郎 | 監督: 広瀬藤四郎 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。
横田 郁(よこた たかし、1909年〈明治42年〉1月31日… 横田 郁(よこた たかし、1909年〈明治42年〉1月31日 - 1984年〈昭和59年〉6月9日)は、日本の銀行家。日本勧業銀行頭取、第一勧業銀行初代頭取、全国銀行協会連合会会長。 司法大臣・横田千之助の長男として、東京・麹町に生まれる。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1932年(昭和7年)に慶應義塾大学経済学部を卒業。翌年に日本勧業銀行に入行する。 築地支店長、大阪支店次長、審査第二部長、丸の内支店長を歴任。1955年(昭和33年)取締役に選任、丸の内支店長委嘱。常務、専務、副頭取を経て、1969年(昭和44年)2月、武田満作頭取の病気退任を受け、横田が後任として昇格した。 頭取に就任した当時、勧銀は都市銀行中位でもたついており、折からの国際化の進展で銀行が生き残るためには合併しかないと判断し、第一銀行の井上薫と共に、渋澤倉庫の八十島親義や日本経済新聞社の池内正人らの力を借りて、極秘裡に合併計画を進め、第一勧業銀行を発足させた。
海沼 實(かいぬま みのる、1909年1月31日 - 197… 海沼 實(かいぬま みのる、1909年1月31日 - 1971年6月13日)は、日本の童謡作曲家。 長野県埴科郡松代町(現長野市)で菓子舗を営む海沼万吉の長男として誕生。 1932年、資産家であった叔父の支援を受けて上京し、同郷の作曲家・草川信や、その音楽学校時代の同級生である成田為三らに師事。東洋音楽学校高等師範科(現・東京音楽大学)在学中の昭和8年(1933年)に音羽ゆりかご会を創設し、川田正子(後に継子となる)、川田孝子(後に継子となる)、川田美智子(実子)の川田三姉妹をはじめとする数多くの童謡歌手を育てた。 1938年に「お猿のかごや」で初めてのヒットを記録すると、以後「あの子はたあれ」、「ちんから峠」、「めだかの幼稚園」、「花やさん」、「つばめの旅」、「からすの赤ちゃん」、「やさしいおかあさま」など、数多くの国民的ヒット作品を生みだした。
前田 義徳(まえだ よしのり、1906年(明治39年)1月3… 前田 義徳(まえだ よしのり、1906年(明治39年)1月31日 - 1983年(昭和58年)12月17日)は、日本の放送経営者、ジャーナリスト。 第10代NHK会長。ワンマン会長として組織の拡大充実に努め、『NHK中興の祖』と仰がれた。 北海道旭川市出身。庁立旭川中学校を経て東京外語学校(現東京外国語大学)イタリア語科卒業後、ヨーロッパに留学、ローマ大学法科に学ぶ。 1936年朝日新聞ローマ支局に現地入社、記者としてイタリアのエチオピア侵入(第二次エチオピア戦争)などをスクープ。1947年大阪本社外報部長を最後に退社。 出版社経営を経て1950年、NHKに解説委員として入局。その後報道局長・編成局長・専務理事・副会長などを経て1964年、阿部眞之助会長が在職中に死去した事に伴い会長就任、1973年まで務めた。
林 寛(はやし ひろし、1905年1月31日 - 1971年… 林 寛(はやし ひろし、1905年1月31日 - 1971年12月22日)は、日本の俳優である。本名稲垣 三郎(いながき さぶろう)。音読みが同一の俳優林幹、極東映画の俳優、林寛(はやし かん)とは別人である。 1905年(明治38年)1月31日、京都府京都市に「稲垣三郎」として生まれる。 旧制・同志社中学校(現在の同志社高等学校)を中途退学し、東京に移る。「東京オペラ座」、石井漠主宰の「石井漠一座」、松旭斎天華主宰の「松旭斎天華一座」等、舞台の実演畑を渡り歩く。1926年(大正15年)ころに島幹雄が設立した「日本少女歌劇団」に参加し、地方巡業に関わる。 1940年(昭和15年)、竹田モト(1915年 - 2006年)と結婚、その後2児をもうける。
万城目 正(まんじょうめ ただし、1905年1月31日 - … 万城目 正(まんじょうめ ただし、1905年1月31日 - 1968年4月25日)は、日本の作曲家。本名は萬城目 侃(読みは同じ)。 北海道十勝支庁中川郡幕別村(現在の幕別町)出身。 旧制中学校を卒業後に上京し、武蔵野音楽学校で学ぶ。その後一時帰道するが再び上京して松竹楽団に入社し、多くの劇伴を作曲・指揮を担当。1938年の映画『愛染かつら』の主題歌「旅の夜風」など多くの映画音楽を手がけ、そのほとんどの作品はコロムビアレコードからレコードとして発売され、専属作曲家として長年に渡り活動した。 戦後は映画『そよかぜ』の音楽を担当し、主題歌の「リンゴの唄」は並木路子が歌い大ヒットした。 また歌謡曲では高峰三枝子、美空ひばり、島倉千代子の歌を多く作曲し、戦前から多くの歌手や俳優の歌唱指導を担当した経験を活かして1957年には松竹大船撮影所の近くに「万城目正歌謡音楽院」を開校した。
島本 融(しまもと とおる、1904年(明治37年)1月31… 島本 融(しまもと とおる、1904年(明治37年)1月31日 - 1976年(昭和51年)5月5日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。北海道銀行初代頭取のほか、公正取引委員会委員や日本銀行政策委員会委員等の要職を歴任。また公益財団法人札幌交響楽団の前身である札幌市民交響楽団の設立に尽力するなど北海道の芸術文化の向上にも貢献した。 京都府綴喜郡青谷村に生まれる。生家は酒造や宇治茶の販売を手掛ける素封家で、父は島本の生誕年に島本銀行を開業した。 三高を経て、京都帝国大学経済学部に入学する。在学中から将来は金融界に進もうと思い、また周囲からも島本銀行の跡取りとして期待されるも、金融恐慌の煽りを受け同行は経営破綻してしまう。
岩本 清(いわもと きよし、1904年1月31日 - 197… 岩本 清(いわもと きよし、1904年1月31日 - 1976年10月5日)は、日本の実業家。共同通信社元専務理事。東京都出身。 1926年に東京帝国大学法学部を卒業し、国際通信社に入社した。 共同通信社渉外部長、編成局長などを経て、1959年12月から1966年3月までに専務理事を務めた。 電通取締役なども歴任した。1976年に勲一等瑞宝章を受章した。 1976年10月6日急性心不全のために死去。72歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
伊藤 昇(いとう のぼる、1903年1月31日 - 1993… 伊藤 昇(いとう のぼる、1903年1月31日 - 1993年2月7日)は、日本の作曲家、トロンボーン奏者。伊藤能矛留のペンネームも用いた。次男はレーシングライダーとして知られ,ヤマハに初の世界GP優勝をもたらした伊藤 史朗。 長野県松本市出身。松本商業学校中退、各種学校アテネ・フランセ卒業。1919年から海軍軍楽隊でトロンボーン奏者として活動。除隊後は山田耕筰率いる日本交響楽協会に参加し、山田に作曲と対位法を師事した。その後、近衛秀麿率いる新交響楽団で首席トロンボーン奏者を務め、そのかたわら菅原明朗に作曲を学び、新興作曲家連盟に参加した。作風はダリウス・ミヨーの多調、アルノルト・シェーンベルクの無調、アロイス・ハーバの微分音、ジャズなどを取り入れた前衛的なものであった。
齋藤 朔郎(さいとう きたろう、1900年〈明治33年〉1月… 齋藤 朔郎(さいとう きたろう、1900年〈明治33年〉1月31日 - 1964年〈昭和39年〉8月9日)は、日本の裁判官、弁護士。最高裁判所判事。大阪府出身。 1923年(大正12年)12月東京帝国大学法学部在学中に高等文官試験行政科・司法科の双方に合格し、翌1924年(大正13年)に東京帝国大学を卒業。 戦前、大阪地方裁判所民事部に勤務した後に、司法省民事局に出向して会社更生法の基礎を作成。1941年(昭和16年)8月に司法大臣官房人事課長となり、1945年(昭和20年)5月に満州国にて最高法院次長、司法部次長を務めた。敗戦によりシベリア抑留となる。 帰国後は一旦は弁護士になるが、1949年(昭和24年)4月に再び裁判官となり、東京高裁刑事部に勤務した。
小日向 白朗(こひなた はくろう、1900年(明治33年)1… 小日向 白朗(こひなた はくろう、1900年(明治33年)1月31日 - 1982年(昭和57年)1月5日)とは、単身で中国大陸に渡り、捕虜から「中国全土の馬賊」の総頭目にまで上り詰めた日本人の馬賊である。新潟県三条市出身。本名は健松。中国名は尚旭東。民衆からは小白竜とも呼ばれた。 1900年(明治33年)年、新潟県・三条の機屋の次男に生まれた。16歳の春、東京に出て同郷出身の屑問屋に奉公。当時の第一次世界大戦の影響で好景気の中、屑鉄集めで一儲けした。シベリア単騎横断で有名な福島安正中佐にあこがれ、中国、チベットを調査しながら、ドイツを目指そうと17歳で中国に渡る。奉天(現瀋陽)駅の駅長に「中国語を学ぶには天津か北京に行くほうがいい」と勧められ、天津へ赴き、そこで駐屯軍司令部付の坂西利八郎大佐の知遇を得た。
山田 俊介(やまだ しゅんすけ、1899年1月31日 - 1… 山田 俊介(やまだ しゅんすけ、1899年1月31日 - 1969年7月1日)は、日本の政治家、内務官僚、従四位勲二等瑞宝章。 青森県知事(第42代)、満洲国警務総局長兼保安局長官、福岡県知事(第35代)、逗子町長(1期)、逗子市長(4期)を歴任した。 兵庫県明石市生まれ。父は逗子開成中学校の創設、経営に尽力した漢学者の山田武臣。代々三日月藩主に仕えた漢学者の家系であった。逗子開成中学校、東京陸軍幼年学校を経て、東京中学校、第七高等学校造士館、東京帝国大学経済学部を卒業。特に東京陸軍幼年学校時代に生徒監であった阿南惟幾に目をかけられ、後に同期に先んじて知事に抜擢されたのは阿南の推薦があったからだという。
和栗 明(わくり あきら、1899年1月31日 - 1986… 和栗 明(わくり あきら、1899年1月31日 - 1986年11月28日)は、日本の機械工学者。九州大学名誉教授。第2代久留米工業短期大学学長。初代久留米工業高等専門学校校長。日本学士院賞受賞。和栗雄太郎九州大学名誉教授は長男。 岡山県出身。1923年九州帝国大学工学部機械学科卒業。1936年九州帝国大学工学博士。九州帝国大学工学部講師、九州帝国帝国大学工学部助教授を経て、1938年九州帝国大学校工学部教授。1953年「歯車に関する研究」により成瀬政男東北大学教授、中田孝東京工業大学教授とともに日本学士院賞を受賞。1964年久留米工業高等専門学校校長、日本機械学会名誉員。1969年勲二等瑞宝章受章。
德川 喜翰(とくがわ のぶもと、1897年〈明治30年〉1月… 德川 喜翰(とくがわ のぶもと、1897年〈明治30年〉1月31日 - 1938年〈昭和13年〉5月10日)は、日本の政治家・華族(男爵)。貴族院男爵議員。新字体で徳川 喜翰とも表記される。 男爵・徳川厚の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1927年(昭和2年)10月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)京都帝国大学法学部を卒業し、さらに同大学院を修了した。1925年、宮内省図書寮嘱託となる。以後、貴族院嘱託、日本大学講師などを務めた。 1932年(昭和7年)1月22日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し死去するまで1期在任した。墓所は谷中霊園の寛永寺墓地。
田中 省吾(たなか しょうご、1896年(明治29年)1月3… 田中 省吾(たなか しょうご、1896年(明治29年)1月31日 - 1967年(昭和42年)10月9日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事。 岐阜県出身。田中梅之助の長男として生まれる。東京高等師範学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し土木局属となる。 以後、長野県警察部特別高等警察課長、同警務課長、大阪府警察部特別高等警察課長、内務事務官(欧州駐在)、千葉県書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長、内務省土木局道路課長、同河川課長などを歴任。 1942年5月、佐賀県知事に就任。戦時体制の整備に尽力。1944年8月、農商省生活物資局長に転じた。
加藤 猛夫(かとう たけお、1896年1月31日 - 197… 加藤 猛夫(かとう たけお、1896年1月31日 - 1976年1月21日)は、日本の英文学者。大阪大学名誉教授。 岡山県倉敷市出身。別名・東知。1922年東京帝国大学文学部英文科卒。1949年「十七世紀英国社会思想の史的考察」で法政大学文学博士。1924年日本大学教授、東洋大学教授、法政大学教授、1951年お茶の水女子大学教授、1955年大阪大学文学部教授、1959年定年退官、名誉教授、武庫川女子大学教授、南山大学教授。
小島 政二郎(こじま まさじろう、1894年(明治27年)1… 小島 政二郎(こじま まさじろう、1894年(明治27年)1月31日 - 1994年(平成6年)3月24日)は、日本の小説家、随筆家、俳人。俳号は燕子楼。 東京府東京市下谷区に生まれ育った。生家は呉服商「柳河屋」。 京華中学を経て、慶應義塾大学部文学科在学中に、『三田文学』主幹で西洋美術史家の澤木四方吉から教えを受け、『三田文学』で作品を発表し始める。1916年に先輩作家の文章について批評した『オオソグラフィ』は森鴎外から認められるなど、学生時代から慶應義塾関係者内において、その名は知れ渡る。卒業後は鈴木三重吉が主宰していた児童雑誌『赤い鳥』の編纂に携わる。1919年に慶應義塾大学部文学科講師となり、最終的には文学部教授へ昇格し、1931年まで勤め、また1920年には『三田文学』編集委員となった。
橋本 象造(はしもと しょうぞう、1894年〈明治27年〉1… 橋本 象造(はしもと しょうぞう、1894年〈明治27年〉1月31日 - 1973年〈昭和48年〉8月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 和歌山県和歌山市出身。和歌山県立和歌山中学校より海軍兵学校第43期へ進んだ。水雷畑を歩み、海軍大学校(甲種25期)卒業後は、海軍省、軍令部の課長を務めるなど、海軍中央の要職を歴任した。軍令部第2部第4課長在任中に、日独伊三國間同盟条約締結問題で、第3課長柳本柳作と共に強硬な反対意見を表明したため、右翼から名指しで狙われている。その後総力戦研究に没頭した。 太平洋戦争末期に、天号作戦により沖縄に突入する戦艦大和以下の第二艦隊の燃料が問題になった。この時、連合艦隊参謀小林儀作大佐の要請を受け、呉鎮守府軍需部が管理していた帳簿外の燃料を提供することを承認したのが、呉鎮守府参謀長兼補給長であった橋本である。