宮本 四郎(みやもと しろう、1923年5月16日 - 没年… 宮本 四郎(みやもと しろう、1923年5月16日 - 没年不明)は、日本の弁護士、官僚、経営者。商工組合中央金庫理事長を務めた。奈良県出身。 1943年12月から1946年7月までに陸軍歩兵少尉を務め、1948年に東京大学法学部政治学科を卒業し、高文行政科にも合格し、同年10月に商工省に入省。1980年10月に通商産業省産業政策局長に就任し、1981年4月に日本長期信用銀行顧問、1985年に世界経済情報サービス理事長を経て、1987年11月に商工組合中央金庫理事長に就任。1993年6月に顧問に就任し、2008年3月には弁護士に登録。 1999年4月に勲二等旭日重光章を受章。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
橋元 四郎平(はしもと しろうへい、1923年4月13日 -… 橋元 四郎平(はしもと しろうへい、1923年4月13日 - 2009年8月1日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。福島県田村郡三春町出身。 旧制田村中学、第二高等学校卒業後、戦時中に学徒動員で軍隊に行き、敗戦時は陸軍少尉。東京大学卒業後に故郷の福島県に戻り家業の薬品を手伝っていたが、上京して司法試験を受験し合格。司法修習を終え、1954年に弁護士登録。日弁連事務総長を務めた。 1990年1月に最高裁判事に就任。在任中、1990年衆院選の一票の格差訴訟や横田、厚木両騒音公害訴訟の判決などにかかわった。 1993年4月に定年退官。1995年春の叙勲で勲一等瑞宝章を受章。 1998年宮中歌会始召人。
土屋 公献(つちや こうけん、1923年4月3日 - 200… 土屋 公献(つちや こうけん、1923年4月3日 - 2009年9月25日)は、日本の弁護士。元日弁連会長。 旧日本軍による731部隊や重慶爆撃などの国家賠償事件で弁護団長を務めた。 在日コリアンの人権問題にも深く関わり、朝鮮総連の代理人を務め、朝鮮高級学校生徒の高校体育連盟加盟問題では日弁連に人権救済を申し立て、高校総体参加への道を開く一方、北朝鮮による日本人拉致事件では日本人拉致被害者の家族を非難したり、朝鮮総連中央本部をめぐる詐欺事件への関与などの問題も起こした。 慰安婦問題では国連において、慰安婦を「性的奴隷(Sex Slaves またはSexual Slavery)」 と定義して国連から日本政府に対し補償を実行することを働きかけるよう運動した。
坂上 壽夫(さかうえ としお、1923年 <大正12年> 4… 坂上 壽夫(さかうえ としお、1923年 <大正12年> 4月1日 - 2011年 <平成23年> 7月19日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。和歌山県出身。位階は正三位。 1944年(昭和19年)に東京帝国大学法科を卒業。海軍に応召となり、敗戦の時には法務大尉。1946年(昭和21年)に司法官試補となり、約1年判事補生活をした後で1949年(昭和24年)に弁護士に。海野晋吉弁護士事務所に入り、実務を学んだ。 企業側の立場に立ったことが多く、森永ヒ素ミルク事件や石油ヤミカルテル事件などでは会社側被告の代理人を務めた。ロッキード事件では若狭得治全日空社長の控訴審弁護人を務めた。司法研修所で刑事弁護の教官も務め、法制審議会民法部会の委員を2年務めた。
清水 英夫(しみず ひでお、1922年10月21日 - 20… 清水 英夫(しみず ひでお、1922年10月21日 - 2013年6月19日)は、日本の法学者、ジャーナリスト、弁護士。青山学院大学名誉教授。 東京府東京市本郷区出身。1942年9月東京高等学校 (旧制)卒業。1943年12月大日本帝国陸軍に召集。1945年復員。1947年3月東京帝国大学法学部政治学科卒業。 1947年4月中央公論社に入社、1949年10月同社を退社し、日本評論社に入社、その後、同社法学セミナー編集長、同社『法律時報』編集長、同社出版部長を経て、1966年4月青山学院女子短期大学助教授に就任。 1968年4月青山学院女子短期大学教授。1972年4月青山学院大学法学部教授、1983年青山学院大学法学部長。
堀田 勝二(ほった かつじ、1922年8月15日 - 200… 堀田 勝二(ほった かつじ、1922年8月15日 - 2001年11月13日)は、日本の弁護士。 1954年に東京大学法学部法律学科卒業。1956年に弁護士登録。 司法研修所教官、第一東京弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長を歴任した後、1992年に公安審査委員会委員長に就任。公安審査委員会委員長時代にオウム真理教事件が発覚し、オウム真理教破壊活動防止法問題に携わった。オウム問題対処後に公安審査委員会委員長を辞任した。 2001年11月12日に心不全で死去した。
倉田 卓次(くらた たくじ、1922年1月20日 - 201… 倉田 卓次(くらた たくじ、1922年1月20日 - 2011年1月30日)は、日本の裁判官、公証人、弁護士。 法学博士(大阪大学、1974年、学位論文「民事交通訴訟の研究」)。 昭和40年代から50年代前半にかけて、東京地方裁判所に創設された交通事故事件専門部の部総括代理と民事13部部総括を歴任し、いわゆる「倉田コート」を率いた。 法律書に加え、裁判官生活をめぐるエッセーや幅広い分野の読書をもとにしたエッセーの著者としても知られる。ハードSF研究所客員。その博識ぶりについて、ある裁判官は「彼は文学歴史から異常性愛の世界に至るまで、これ知らないというものはない、一番知らないのは法律だが、それでも俺たちよりは知っている」と評した。
稲田 陽一(いなだ よういち、1921年5月21日 - 20… 稲田 陽一(いなだ よういち、1921年5月21日 - 2006年5月20日)は、日本の法学者(憲法)・弁護士。岡山大学名誉教授。 香川県高松市出身。第六高等学校卒、1947年東京帝国大学法学部政治学科卒、香川大学経済学部助教授、岡山大学法学部助教授、教授を務め、1987年定年退官、名誉教授となり、高岡法科大学法学部教授を務めた。弁護士。
香川 保一(かがわ やすかず、1921年(大正10年)5月5… 香川 保一(かがわ やすかず、1921年(大正10年)5月5日 - 2014年(平成26年)6月13日)は、日本の裁判官、弁護士。位階は正三位。勲等は勲一等。社団法人民事法情報センター(解散済み)理事長。 札幌高等裁判所長官、名古屋高等裁判所長官、最高裁判所判事などを歴任した。 大阪府南河内郡三日市村(現在の河内長野市)の出身。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、1944年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 1947年に東京大学法学部を卒業するとともに、司法試験へ合格。
坪野 米男(つぼの よねお、1920年(大正9年)7月4日 … 坪野 米男(つぼの よねお、1920年(大正9年)7月4日 – 2008年(平成20年)8月16日)は、昭和から平成期の弁護士、政治家。衆議院議員。 大阪府大阪市出身。第三高等学校を経て、1943年(昭和18年)東京帝国大学法学部を卒業。厚生省に入省し大臣官房属となる。同年7月、高等試験行政科試験に合格。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 1948年(昭和23)に退官して、弁護士、税理士を開業。京都市人権擁護委員、国民救援会京都府連副会長を務めた。
安倍 治夫(あべ はるお、1920年4月2日 - 1999年… 安倍 治夫(あべ はるお、1920年4月2日 - 1999年8月16日)は、日本の弁護士、検察官。 1920年4月2日生まれ。北海道根室市出身。1943年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 1949年に東京大学法学部政治学科を卒業。 1951年に札幌地検検事となり、その後東京地方検察庁・法務省刑事局・福岡高等検察庁で検事職に従事した。この間に法務総合研究所教授・国連アジア極東犯罪防止研修所教授も務めた。ハーバード大学に留学して刑事学を専攻し、1953年に卒業。
島谷 六郎(しまたに ろくろう、1920年1月24日 - 2… 島谷 六郎(しまたに ろくろう、1920年1月24日 - 2006年11月21日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。富山県出身。 旧制富山高校から1942年(昭和17年)に東京帝国大学法学部を卒業。海軍法務官となり、中国の海南島で敗戦、そのまま中国に抑留され、2年間捕虜生活を送った。 在学中に高等文官試験司法科に合格したが、軍隊生活のため司法修習生になったのは1948年(昭和23年)で、1950年(昭和25年)に弁護士登録をした。藤林益三の事務所に籍を置き、初めは刑事を手がけたが、後に銀行などの顧問弁護士を務め、銀行取引や会社関係の訴訟にも詳しい。日弁連外国弁護士対策委員会初代委員長を務めたほか、司法研修所教官、東京地裁調停委員なども務めた。
佐藤 哲郎(さとう てつろう、1920年1月5日 - 200… 佐藤 哲郎(さとう てつろう、1920年1月5日 - 2004年1月23日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。福島県出身。 1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部を卒業。この時に高等試験司法科に合格していたが、いったん三菱信託に入社。その後に陸軍に召集され、4年間中国戦線で軍隊生活を送った。 復員した後は同社に戻り、宝くじの街頭販売を経験したこともある。しかし、国民主権の日本国憲法下で新しくスタートした司法制度に魅力を感じて司法研修所に入り、卒業は1949年(昭和24年)で司法修習生の第1期生となった。 修習を終えてすぐに弁護士登録をした。しばらくはイソ弁(居候弁護士)を経験した。その時に手がけた婦女暴行事件の弁護で一、二審は無期懲役判決が出ていたが、判決の事実認定を詳細に点検すると、伝聞証拠、しかもあやふやな内容が多いことを見つけ、そこをついた弁護を行った結果、最高裁で認められて差し戻しとなり、最終的に無罪となった。
川西 清(かわにし きよし、1918年(大正7年)8月25日… 川西 清(かわにし きよし、1918年(大正7年)8月25日 - 没年不明)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 兵庫県神戸市で生まれる。1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。弁護士となる。また東京朝日新聞政治部記者も務めた。 1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に兵庫県第1区から日本自由党公認で出馬して初当選。1947年(昭和22年)4月、第23回総選挙に兵庫県第3区から出馬して次点で落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に民主自由党から出馬して再選され、その後自由党に所属して衆議院議員に通算2期在任した。この間、商工大臣秘書官、日本自由党幹事などを務めた。
永野 嚴雄(ながの いづお、1918年3月20日 - 198… 永野 嚴雄(ながの いづお、1918年3月20日 - 1981年10月8日)は、日本の弁護士、政治家。広島県知事(5-7代)。参議院議員(2期) 父は、戦後揃って政経財界で活躍した「永野六兄弟」の長兄で戦中戦後に国会議員を務めた永野護であった。旧制広島高校を経て1941年東京帝国大学法学部を卒業し司法試験に合格。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年5月、経理学校を卒業。1943年(昭和18年)11月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 戦後は東京地方検察庁検察官、法務総裁秘書官を歴任。 弁護士や会社経営を経て、広島県知事の大原博夫がスキャンダルで任期途中で辞任したため、1962年に行われた県知事選挙で当選した。
植村 秀三(うえむら しゅうぞう、1918年 - 2005年… 植村 秀三(うえむら しゅうぞう、1918年 - 2005年)は、日本の裁判官、弁護士、翻訳者。 1918年生まれ。1941年、司法科試験合格。1948年、東京帝国大学法学部卒業後に裁判官となり、松山地方裁判所長、東京高等裁判所判事、公証人などを務める。 1960年頃から精神科医吉益脩夫の指導の下で、「日本犯罪誌」の編集委員となる。1962年にはオーストリアのナチス法制家のエルンスト・ゼーリッヒの著書を翻訳出版。1964年、第1回刑事政策審議会賞。1988年、第3回日本犯罪学会賞を受賞。弁護士に転身する。2005年に死去。同年日本司法精神医学会が設立され、刑事法学者で精神科医の山上皓が理事長に就任した。
林 博(はやし ひろし、1917年(大正6年)7月11日 -… 林 博(はやし ひろし、1917年(大正6年)7月11日 - 1994年(平成6年)5月4日)は、昭和期の検察官、弁護士、政治家。衆議院議員。 東京府出身。1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業した。 司法省に入省し、司法官試補に任官。横浜地方検察庁検事、東京地方検察庁検事、経済安定本部経済査察官を歴任した。その後、弁護士を開業した。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に東京都第6区から出馬したが落選。同補欠選挙、第25回、第26回総選挙でも落選したが、1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙に日本民主党公認で出馬して初当選。第28回総選挙では落選し、1960年(昭和35年)11月の第29回総選挙で再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
渡辺 弥栄司(わたなべ やえじ、1917年(大正6年)1月2… 渡辺 弥栄司(わたなべ やえじ、1917年(大正6年)1月20日 - 2011年(平成23年)は、通商産業省官僚、弁護士。退官後、日中経済協会、国際ビジネスコミュニケーション協会(IIBC)、ビューティフルエージング協会(BAA)の設立のほか、通産省に関係する多くの公益法人の理事などを務めたが、財団私物化疑惑が2009年に週刊誌に報じられ、92歳で理事長などの重職から退いた。 新潟県北蒲原郡中条町(現・胎内市)で10人兄弟姉妹の5番目として生まれる(実家は新潟県関川村の豪農・渡辺家の一族)。新発田の中学を卒業後、姫路高等学校 (旧制)へ進学。1939年に東京帝国大学法学部法律学科卒業後、商工省(現・経済産業省)入省。
和田 誠一(わだ せいいち、1916年11月5日 - 198… 和田 誠一(わだ せいいち、1916年11月5日 - 1986年4月23日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。大阪府出身。 大阪・船場のそろばん問屋の子として生まれる。1941年(昭和16年)3月に東京帝国大学法学部を卒業。東洋紡に入社した後で応召となるも、子供の頃に患った肋膜炎が再発し約1年で除隊となった。1945年(昭和20年)7月に高等文官試験司法科に合格。いったん司法官試補となり、1948年(昭和23年)6月に大阪地裁判事補となったが、すぐに退職して弁護士になる。専門は民事、商事。東洋紡のほか日本生命や三菱銀行の顧問弁護士をした。他に労働、公害事件なども経験した。 弁護士になって間もなく、「これからは国際感覚が必要」と1953年(昭和28年)にドルの持ち出しが制限されていた時代に東洋紡が持つ輸出代金の優先外貨の使用を認めてくれる形で、1年間アメリカへ私費留学した。
大橋 進(おおはし すすむ、1916年 <大正5年> 6月1… 大橋 進(おおはし すすむ、1916年 <大正5年> 6月13日 - 2003年 <平成15年> 12月10日)は、日本の弁護士、最高裁判所裁判官。位階は従三位。 東京都出身。1941年(昭和16年)に東京帝国大学法学部を卒業。1942年(昭和17年)に司法官試補となり、1944年(昭和19年)5月に大阪地裁を振り出しに裁判官生活に入ったが、間もなく海軍に召集されて海軍法務官となり、中尉で横須賀鎮守府軍法会議付きのとき終戦を迎えた。1946年(昭和21年)4月から東京地裁に勤務、ついで1949年(昭和24年)10月から法務府法制違憲第一局長補佐を2年余り勤め、再び東京地裁に戻った。 1954年(昭和29年)7月に弁護士に転じた。
森田 宗一(もりた そういち、1915年6月5日 - 200… 森田 宗一(もりた そういち、1915年6月5日 - 2007年2月7日)は、日本の裁判官、弁護士。 東京都出身。昌平中学校、東京帝国大学法学部卒。1942年司法官試補。1949年少年法施行と同時に最高裁判所家庭局付判事補。同局第三課長を経て、1959年東京家庭裁判所判事。1973年に弁護士となる。 青少年の健全育成を唱え、1970年には少年法適用年齢の上限引き下げ改正要綱に反対した。
宮崎 梧一(みやざき ごいち、1914年5月5日 - 200… 宮崎 梧一(みやざき ごいち、1914年5月5日 - 2003年3月5日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。千葉県出身。 旧制富山高校から1940年(昭和15年)に東京帝国大学法科を卒業。司法官試補、裁判官になり、札幌地裁、大阪地裁などに勤務。1944年(昭和19年)に陸軍に召集され中国に出征し、トップで見習士官となり、敗戦の時に法務中尉。終戦後はソ連にシベリア抑留され、モスクワ郊外で労働をさせられた。 復員後、「裁判官ではとても食えない」として1948年(昭和23年)に弁護士登録。目立つような事件が手掛けなかったが、離婚、遺産、借金などの市民のゴタゴタや刑事事件の国選弁護人などをしてきた。 1980年(昭和55年)2月5日に最高裁判所判事となる。
森川 金寿(森川 金壽、もりかわ きんじゅ、1913年4月1… 森川 金寿(森川 金壽、もりかわ きんじゅ、1913年4月19日 - 2006年10月16日)は、日本の弁護士。 高知県出身。東京帝国大学法学部卒。1936年弁護士開業。海野普吉を助け、1947年自由人権協会の事務局長となり、のち代表理事。1967年ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を裁く国際法廷(ラッセル法廷)の構成員となる。1972年7月8日には、福島要一(日本学術会議会員)、平野義太郎(日本平和委員会会長)らとともに「インドシナにおけるニクソンの戦争犯罪、日本政府・財界の共犯を告発する東京集会」を神田の学士会館で開催。当時、強化されつつあったベトナム北爆に抗議した。 家永教科書裁判、横田基地騒音訴訟、横浜事件再審訴訟の弁護団長を務めた。
平賀 健太(ひらが けんた、1912年12月20日 - 20… 平賀 健太(ひらが けんた、1912年12月20日 - 2004年2月18日)は、日本の裁判官、弁護士、行政官。 1969年、北海道長沼町の保安林解除処分の執行停止申し立て事件(いわゆる長沼ナイキ基地訴訟)は、保安林への自衛隊基地の建設をめぐり自衛隊の合憲性を争点とするものとなった。 札幌地方裁判所所長であった平賀は、裁判の長沼ナイキ事件の裁判長であった福島重雄に対し、数度にわたり口頭で保安林解除を認める国側の主張に沿った判断を下すよう指導、福島が指導を聞き入れないとみると「一先輩のアドバイスとして、参考になるようなら判断の一助にしてください」とする書き出しで改めて判断を翻すことを促す書簡を送った。
亀田 得治(かめだ とくじ、1912年〈大正元年〉8月14日… 亀田 得治(かめだ とくじ、1912年〈大正元年〉8月14日 - 1994年〈平成6年〉3月14日)は、日本の弁護士、政治家。北海道旭川市生まれ。日本社会党の参議院議員、日本社会党大阪府連合書記長、全国革新懇代表世話人を務めた。 生まれてすぐ、家族が石川県に引っ越したため、少年時代を金沢市で過ごす。金沢の第四高等学校に進学。後に日本社会党委員長となる成田知巳と同じクラスで、成績は1、2位を競い合った。2人とも東京帝国大学法学部に合格。社会運動を行っていた賀川豊彦と出会い、キリスト教の洗礼を受けた。賀川牧師のもとで、当時、治安維持法違反で保釈中だった岩本りえと出会い、結婚する。戦時中は弁護士として小作争議などを担当した。
細田 吉蔵(細田 吉藏、ほそだ きちぞう、1912年〈明治4… 細田 吉蔵(細田 吉藏、ほそだ きちぞう、1912年〈明治45年〉5月2日 - 2007年〈平成19年〉2月11日)は、日本の運輸官僚、政治家、弁護士。衆議院議員(10期)。正三位勲一等。松江市名誉市民。 長男は衆議院議長、自由民主党幹事長、内閣官房長官、衆議院議員(11期)を歴任した細田博之。 島根県松江市西茶町に細田義一郎、千代乃の間に6人兄弟の4番目として生まれる。生家は、屋号を丸吉印「細田本店」、「細田油店」と称する油卸問屋。実父義一郎の弟・六助、つやの夫妻に子供がいなかったため、生まれてすぐに養子にだされ、養父母に育てられる。養母が薬屋を開いており、両方の店を手伝いながら少年時代を過ごす。
環 昌一(たまき しょういち、1912年4月12日 - 19… 環 昌一(たまき しょういち、1912年4月12日 - 1993年3月8日)は、日本の裁判官、司法官僚、弁護士。最高裁判所判事。徳島県出身。 1936年に東京帝国大学法科卒業。司法官試補から1937年12月裁判官となり横浜地裁や甲府地裁、東京地裁などに勤務。1943年10月に司法省民事局へ、終戦の1945年8月に再び裁判官に返り咲き、高松控訴院判事、徳島地裁判事、最高裁調査官などを歴任した。 1948年1月に司法省調査課(のちに調査部、秘書課)に転じ、1949年1月に検事となり、法務庁調査意見第一局長補佐、行政訴訟局第一課長などを務めた。会社法の改正作業に携わったが、占領軍との折衝の仕事が多く「ばかばかしくなって」1950年7月に退職して弁護士に転身。
張 暻根(チャン・ギョングン、朝鮮語: 장경근、1911年5… 張 暻根(チャン・ギョングン、朝鮮語: 장경근、1911年5月18日 - 1978年7月5日または7月25日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の裁判官、弁護士、政治家。初代ソウル地方法院(現・ソウル中央地方法院)院長、内務部・国防部次官、内務部長官、第3・4代韓国国会議員を歴任した。 漢字表記は張璟根とも。 日本統治時代の平安北道龍川郡または京畿道富川郡または京城府(現・ソウル特別市)出身。1932年京都第三高等学校卒。1936年東京帝国大学(現・東京大学)法学部卒、在学中の1935年に高等文官試験司法科合格。1936年または1937年または1938年から京城地方法院判事、1941年から京城覆審法院判事を歴任し、解放後は京城地方裁判所首席判事(1945年)、ソウル地方法院長(1948年)、弁護士、内務部次官(1949年)、国防部次官(1950年5月14日~1951年6月22日)、韓日会談首席代表(1953年)、第14代内務部長官(1957年2月4日~9月25日)、自由党政務部長・政策委員会委員長・民法起草委員長、国連総会韓国代表を務めた。
古屋 亨(ふるや とおる、1909年1月6日 - 1991年… 古屋 亨(ふるや とおる、1909年1月6日 - 1991年6月20日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士、政治家。衆議院議員、自治大臣兼国家公安委員会委員長。正三位勲一等旭日大綬章。
青柳 盛雄(あおやぎ もりお、1908年11月11日 - 1… 青柳 盛雄(あおやぎ もりお、1908年11月11日 - 1993年1月22日)は、日本の弁護士、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、2期)。日本共産党中央委員会顧問、日本民主法律家協会理事、日本国際法律家協会顧問などを歴任した。 長野県東筑摩郡坂北村(現・筑北村)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校文科甲類、東京帝国大学法学部を経て、1931年弁護士登録すると共に布施辰治法律事務所入所。自由法曹団員として三・一五事件や四・一六事件など、治安維持法違反事件を弁護するも、1933年には布施と共に検挙され執行猶予判決を受ける。また、この件により同年弁護士資格が剥奪されたのみならず、終戦まで活動停止を余儀なくされる。
大脇 英夫(おおわき ひでお、1908年(明治41年)7月2… 大脇 英夫(おおわき ひでお、1908年(明治41年)7月22日 - 没年不明)は、日本の検事、弁護士。島根県弁護士会副会長。松江市公安委員会長。 鳥取県米子市西町出身。弁護士・大脇熊雄二男。 1933年3月東京帝国大学法学部卒業。1934年11月高等試験司法科合格。検事となり神戸、仙台、広島地検等に勤務し1945年退職。 趣味は読書。宗教は禅宗。住所は島根県松江市北田町。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
内藤 頼博(ないとう よりひろ、1908年3月12日 - 2… 内藤 頼博(ないとう よりひろ、1908年3月12日 - 2000年12月5日)は、東京府出身の裁判官、弁護士、教育家。子爵、正三位勲一等瑞宝章。 旧信州高遠藩主内藤子爵家の第15代当主として東京府豊多摩郡内藤新宿町に生まれる。内藤頼直、大河内輝声の孫、内藤頼輔の子。旧制学習院幼稚園・初等科・中等科・高等科を経て、1931年、東京帝国大学法学部卒業。東京家庭裁判所長、広島高等裁判所長官、名古屋高等裁判所長官を歴任。1973年に退官し、弁護士となる。 弁護士業の傍ら、1979年から1987年まで多摩美術大学学長、1975年から1991年まで多摩美術大学理事長、1987年から1993年まで第22代学習院院長を務めた。
伊達 慎一郎(だて しんいちろう、1907年(明治40年)1… 伊達 慎一郎(だて しんいちろう、1907年(明治40年)12月6日 - 1994年(平成6年)10月11日)は、日本の政治家、地方公務員、弁護士。島根県知事(1期)。知事退任後、弁護士に登録。 島根県松江市生まれ。旧制松江高等学校を経て東京帝国大学法学部、大同学院を卒業。満洲国政府に勤務し、西安県副県長、鉄鋼司弁事などを歴任する。 終戦で引き揚げ、1947年(昭和22年)島根県職員となる。漁政、財政各課長、総務部長を経て、田部長右衛門知事の女房役として、1960年(昭和35年)から10年間副知事を務め、3期知事を務めた田部の後継者として選ばれ、1971年(昭和46年)4月の島根県知事選挙に立候補した。
鈴木 才蔵(すずき さいぞう、1907年(明治40年)10月… 鈴木 才蔵(すずき さいぞう、1907年(明治40年)10月10日 - 1977年(昭和52年)11月)は、日本の弁護士、公証人(東京法務局所属)。元法務省人権擁護局局長。元静岡地方裁判所所長。義父は参議院議員や小野田市(現:山陽小野田市)市長を務めた姫井伊介。 山口県出身。神奈川県在籍。香川愷太郎の次男に生まれ、鈴木謹次郎の養子となる。第三高等学校時代では一年違いに第7代最高裁判所長官の藤林益三がいた。のちに藤林は鈴木の死去に際して弔辞を読んだ。 1933年(昭和8年)東京帝国大学法科卒業(病気のため2年遅れで卒業)。1937年(昭和12年)11月高等試験司法科に合格。1939年(昭和14年)6月弁護士登録し、第一東京弁護士会に所属。
藤林 益三(ふじばやし えきぞう、1907年〈明治40年〉8… 藤林 益三(ふじばやし えきぞう、1907年〈明治40年〉8月26日 - 2007年〈平成19年〉4月24日)は、日本の弁護士(第一東京弁護士会所属)、裁判官。第7代最高裁判所長官。夫人は明治の文豪、巖谷小波の末娘。 企業法務の弁護士として活躍した後に最高裁判事となり、その後最高裁長官となる。現在に至るも、唯一の「弁護士出身の最高裁長官」であり、68歳9ヶ月での最高裁長官就任は歴代最高齢である。熱心な「無教会主義キリスト教」の信徒であり、毎週日曜に聖書研究会を続けていた。その信仰は、いわゆる「津地鎮祭訴訟」判決における、異例の「長官の反対意見・補足反対意見」(津市による地鎮祭主催は政教分離を定める憲法違反との立場。
始関 伊平(しせき いへい、1907年4月7日 - 1991… 始関 伊平(しせき いへい、1907年4月7日 - 1991年11月26日)は、昭和期の商工官僚・政治家・弁護士。建設大臣などを歴任した。
守屋 典郎(もりや ふみお、1907年3月12日 - 199… 守屋 典郎(もりや ふみお、1907年3月12日 - 1996年7月17日)は、日本の弁護士、左翼活動家、経済学者。 東京出身。本籍・岡山県小田郡矢掛町。父は第11・12代岡山市長、衆議院議員の守屋松之助。妻としの兄は同志社大学名誉教授の和田洋一 (文学研究者)。1929年東京帝国大学法学部卒。在学中新人会に加入。1930年弁護士開業。1932年日本共産党に入る。野呂栄太郎、平野義太郎らの指導で経済学を研究、講座派の一員として野口八郎の筆名で活動。1933年検挙され投獄。1934年倉敷絹織に入り法律問題の仕事に従事。1938年人民戦線事件などで検挙、投獄される。1940年出獄して大日本紡績連合会に入り、綿スフ統制会から繊維統制会価格課長。
松井 道夫(まつい みちお、1906年(明治39年)11月1… 松井 道夫(まつい みちお、1906年(明治39年)11月1日 - 2014年(平成26年)9月19日)は、日本の弁護士、裁判官、政治家。緑風会所属参議院議員。都市計画家・早稲田大学教授の松井達夫は兄。 新潟県出身。1929年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業し、弁護士となる。 その後、判事に任官。長野地方裁判所、千葉地方裁判所、松山地方裁判所、甲府地方裁判所で判事を務めた。満洲国に転じ、ハルビン地方法院審判官、牡丹江高等法院審判官、チャムス地方法院次長を歴任。帰国後、甲府地方裁判所部長を務めた。 1947年4月、第1回参議院議員通常選挙において全国区に出馬し当選(任期3年)。1950年6月、第2回通常選挙で落選したため、参議院議員を一期のみ務めた。
土屋 香鹿(つちや こうろく / かろく、1906年〈明治3… 土屋 香鹿(つちや こうろく / かろく、1906年〈明治39年〉8月28日 - 2006年〈平成18年〉11月26日)は、日本の内務官僚、弁護士。福岡県知事。静岡県浜松市出身。 浜名郡白脇村出身の海軍大佐土屋芳樹の四男として生まれる。1926年(大正15年)3月、静岡高等学校文科乙類を卒業。1928年(昭和3年)高等試験行政科に合格。1929年(昭和4年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年内務省に入省し新潟県属となる。1930年(昭和5年)高等試験司法科に合格。新潟県知事官房文書課長、愛媛県地方課長、同農商課長、徳島県警察部特高課長、山形県警察部特高課長、埼玉県警察部特高課長、京都府商工課長、同庶務兼人事課長、岐阜県官房長、同経済部第二部長、山口県経済部第一部長、福岡県警察部長、同県内部部長などを歴任。
福島 正夫(ふくしま まさお、1906年7月11日-1989… 福島 正夫(ふくしま まさお、1906年7月11日-1989年12月14日)は、昭和・平成期の法制史学者・弁護士。社会主義法学・比較法学・日本近代法制史などの研究において業績を残した。 静岡県磐田郡見付町(現在の磐田市)出身。東京府立第五中学校・第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科に入る。穂積重遠・末弘厳太郎の指導を受け、1928年には在学のまま高等文官試験行政科に合格。 1929年(昭和4年)の卒業後は日本不動産に入社しながら学問を続け、1931年には高等文官試験司法科にも合格し、翌年には弁護士登録を行う。ところが、1934年(昭和9年)に日本共産党に資金提供をしていたとして治安維持法違反で摘発されたために会社を退社に追い込まれ、同年東京帝国大学大学院に再入学、我妻栄の下で土地法の研究を行う。
佐々木 哲蔵(ささき てつぞう、1906年5月15日 - 1… 佐々木 哲蔵(ささき てつぞう、1906年5月15日 - 1994年5月25日)は宮城県出身の裁判官、弁護士。裁判官時代は訴訟の進め方、公費出張に関するルーズな態度などが取り沙汰され、2度にわたり裁判官訴追委員会の調査を受け、「裁判官の中で”特異な存在”だった」と評されている。「実の姪を妻にした破廉恥判事」とも呼ばれた。 宮城県宮城郡塩竈町(現・塩竈市)生まれ。1930年、東京帝国大学法学部独法科卒。1931年に裁判官として任官。 1938年、奈良地裁から満州新京(現・長春市)の満州国司法部に移り、新京高等法院に赴任し、四平地方法院次長、ハルビン高等法院廷長を経て、1943年に退官し新京法政大学教授となったが、関東軍に召集されて軍務につき、敗戦後ソ連に抑留され、2年半を過ごす。
金山 国治(かなやま くにはる、1906年(明治39年)2月… 金山 国治(かなやま くにはる、1906年(明治39年)2月18日 - 1981年(昭和56年)4月14日)は、日本の内務・警察官僚、陸上自衛官、弁護士。最後の官選佐賀県知事、陸将。 島根県出身。第一高等学校を卒業。1930年10月、高等試験行政科試験に合格。1931年に同司法科試験にも合格し、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年、内務省に入省し、地方局属となる。 以後、鹿児島県学務部学務課長、同総務部議事課長、内務省衛生局事務官、警視庁経済警察第一課長、岩手県書記官・警察部長、岩手県部長・警察部長、厚生省衛生局医務課長、群馬県部長・警察部長、防空総本部救護課長、新潟県部長・警察部長、福岡県経済部長、栃木県内務部長などを歴任。
吉川 覚(よしかわ さとる、1906年2月7日 - 1978… 吉川 覚(よしかわ さとる、1906年2月7日 - 1978年1月26日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。福井県最後(第36代)の官選知事だが、現地には赴任しなかった。 1906年(明治39年)、徳島県海部郡の海産物商の家に生まれる。熊本時習中学、第七高等学校造士館を卒業。1929年(昭和3年)10月、文官高等試験行政科試験に合格。1930年(昭和5年)3月、東京帝国大学法学部英法科を卒業、内務省に入省し宮崎県内務部土木課兼地方課に勤務。12月、宮崎県知事官房文書課長。以後、島根県警察部警務課長、同特別高等警察課長、熊本県警察部特別高等警察課長、内務省警保局保安課勤務、北海道庁拓殖部長、愛媛県経済部長、軍事保護院援護局指導課長、防空総本部総務局疎開課長、同施設局人員疎開課長、島根県内政部長、兵庫県経済部長などを歴任する。
島野 武(しまの たけし、1905年(明治38年)9月20日… 島野 武(しまの たけし、1905年(明治38年)9月20日 - 1984年(昭和59年)11月6日)は、日本の政治家、弁護士。元・仙台市長。 島野翠・はる夫妻の子として福岡県福岡市荒戸町に生まれる。島野家は伊達政宗以来の仙台藩士の家柄で、家格は納戸奉行などを務める大番士であった。父翠は同じく大番士の小野家から島野家に養子に入った人物で、陸軍に入り陸軍大佐まで進み、退役後には仙台藩士会会長、仙台市会議員を務めていた。 1908年(明治41年)、父の退役に伴い仙台市に移る。1912年(明治45年)、宮城県立師範学校附属小学校(現在の宮城教育大学附属小学校)に入学し、1年から6年まで級長を務めた。1918年(大正7年)、旧制宮城県立第一中学校に一番で入学し、その後には父の薦めで陸軍幼年学校を受験したが、視力が足りずに身体検査で不合格となった。
小川 信雄(おがわ のぶお、1905年(明治38年)8月7日… 小川 信雄(おがわ のぶお、1905年(明治38年)8月7日 - 1993年(平成5年)11月19日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。山口県出身。 1929年(昭和4年)に東京帝国大学法学部を卒業。北海道電燈の旭川支社に入社したが、3ヶ月で退社。「文化が進むにつれて専門技術を身につけるのが大切」と考え、1932年(昭和7年)に弁護士登録をした。 企業の法律相談を手がけ、二十数社の顧問弁護士をした。刑事事件については鮎川金次郎派の選挙違反事件を扱った。 1946年(昭和21年)に村上義一運輸大臣の秘書官をしたことがある。 1970年(昭和45年)12月22日に最高裁判所判事に就任。就任時に「最高裁長官の意見に対しても、他の判事からどしどし意見が出され、実にいいと思った。
福田 喜東(ふくだ よしはる、1905年(明治38年)5月2… 福田 喜東(ふくだ よしはる、1905年(明治38年)5月26日 – 1983年(昭和58年)7月15日)は、昭和期の官僚、弁護士、政治家。衆議院議員。 母の生家の大分県宇佐郡四日市町(現宇佐市)で生まれる。第三高等学校を卒業。1927年(昭和2年)12月高等試験行政科試験に合格し、司法科試験にも合格した。1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年、内務省に入省し千葉県属に任官した。 以後、社会局属、国際労働機関在勤(ジュネーヴ)、社会局事務官、企画院調査官、東亜研究所参与、企画院書記官、商工省事務官兼書記官・振興部金融課長兼施設課長、総務課長兼工務課長、企業局工政課長、絹毛課長、商工組合中央金庫監理官、熊本営林局総務部長、千葉県教育民生部長、神奈川県労働部長、神奈川労働基準局(現神奈川労働局)長などを歴任し、1948年(昭和23年)に退官した。
林 大作(はやし だいさく、1905年〈明治38年〉1月2日… 林 大作(はやし だいさく、1905年〈明治38年〉1月2日 - 1985年〈昭和60年〉11月26日)は、昭和期の実業家、弁護士、政治家。衆議院議員。 愛知県八名郡賀茂村(双和村を経て現豊橋市)出身。1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 三井物産に入社し、ボンベイ(現ムンバイ)支店、ニューヨーク支店で勤務。その後、商工省嘱託、重要物資管理営団企画課長、交易営団上海連絡部次長、同営団総務部次長などを務めた。 戦後、弁護士となり片山哲の法律事務所で勤務。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で愛知県第5区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
小関 紹夫(おぜき つぐお、1905年 - 1987年5月4… 小関 紹夫(おぜき つぐお、1905年 - 1987年5月4日)は、日本の官僚・法学者・弁護士。 佐賀県生まれ。第五高等学校卒、1929年東京帝国大学法学部卒。高等文官試験行政科合格。彦根高等商業学校(現滋賀大学)教授、文部省、厚生省、興亜院に勤務、衆議院内閣委員会専門員、国立国会図書館調査員、1959年「イギリスにおける近代行政の展開」で関西学院大学法学博士。弁護士、専修大学法学部教授、理事、法学部長。1976年定年、名誉教授。
大橋 武夫(おおはし たけお、1904年〈明治37年〉11月… 大橋 武夫(おおはし たけお、1904年〈明治37年〉11月24日 - 1981年〈昭和56年〉10月3日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。位階は正三位。自由民主党所属の衆議院議員。運輸大臣、労働大臣、警察予備隊担当大臣、法務総裁を歴任。 島根県仁多郡三成町(現在の奥出雲町)出身。島根士族大橋只三郎の養子で陸軍少将常三郎の長男。母は代言人北田正董娘の酉。 内務省に入り岡山県警察部長のあと終戦直後の戦災復興院次長となる。1949年の衆議院選挙(島根県全県区)に初出馬当選、1976年の総選挙で落選、引退するまで連続10回当選。この間第3次吉田内閣で法務総裁、国務大臣(警察予備隊担当)、第2次及び第3次池田内閣で労働大臣、第1次及び第2次佐藤内閣で運輸大臣を歴任する。
為成 養之助(ためなり ようのすけ、1904年(明治37年)… 為成 養之助(ためなり ようのすけ、1904年(明治37年)4月16日 - 1995年(平成7年))は日本の裁判官、弁護士。 大分県西国東郡高田町(現豊後高田市)出身。1927年(昭和2年)3月東京帝国大学法学部法律学科卒業、同年12月高等試験司法科合格、1928年(昭和3年)4月司法官試験合格、司法官試補、1930年(昭和5年)12月予備判事、1932年(昭和7年)長崎地方裁判所転任で判事任官、1933年(昭和8年)2月まで同地裁民事部判事。 為成は任官後すぐに革新政党の集会に行き、それは警察官に中止だと叫ばれ散会させられたが、自らは警官に頭を殴られ警察署に留置された。1930年夏、試補だったときに同じく判事の尾崎陞や日本共産党党員と交流して赤化、滝内礼作と研究会を結成、毎月1円か2円から10円、7円から10円、10円から12円の資金提供をして完全に赤化、長崎に転任してからは日本労働組合全国協議会(全協)加入や地裁職員を中心とする全日本無産者芸術家連盟(ナップ)関係の文化グループを結成、『赤旗』を持ち込んだりして共産党の党勢拡大を図った。