スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
町田 睿(まちだ さとる、1938年(昭和13年)2月17日… 町田 睿(まちだ さとる、1938年(昭和13年)2月17日 - 2018年(平成30年)1月30日 )は、日本の銀行家。北都銀行取締役会長。ノースアジア大学客員教授。2014年(平成26年)旭日小綬章受章。 富士銀行常務を経て荘内銀行頭取に就任。同行の経営改革を進めたほか、荘銀と北都銀行との経営統合による金融持株会社であるフィデアホールディングス設立を主導した。 両親とも教職に従事する家庭の4人兄弟の長男として、秋田県仙北郡千屋村(千畑町を経て、美郷町)に生まれ、後に秋田市に移住する。 秋田県立秋田高等学校に進学し、同校では生徒会長を務め、卒業後は東京大学法学部に進む。在学中のクラスメートには、堤富男元通産省事務次官、永島旭元中国銀行頭取らがいた。
佐藤 周子(さとう ちかこ、1938年2月13日 – 198… 佐藤 周子(さとう ちかこ、1938年2月13日 – 1988年6月23日)は、日本の放射線医学者。 1938年、秋田県大館市に生まれる。1946年、教師だった父の転勤に伴い、岩手県花巻市に移住した後、秋田県秋田市に移住。秋田県立秋田高等学校卒業。1962年、東北大学医学部卒業と同時に結婚。1963年、東北大学放射線基礎医学教室助手、1970年、愛知県がんセンター研究所放射線部研究員に勤務。1972年、スタンフォード大学留学を経て、愛知県がんセンター研究所研究室長に就任。1985年、同研究所放射線部長(同センター初の女性管理職)。1988年、猿橋賞を受賞するが、その1ヶ月後に死去。 佐藤周子 - KAKEN 科学研究費助成事業データベース
小西 秀朗(こにし ひでろう、1937年9月8日 - 202… 小西 秀朗(こにし ひでろう、1937年9月8日 - 2020年1月13日)は、秋田県出身のプロ野球選手(外野手)。左投左打。 秋田高校では1954年、2年生の時にエース青山伍(大映スターズ)を擁し、四番打者、右翼手として第36回全国高等学校野球選手権大会に出場。2回戦(初戦)で恵川康太郎のいた三原高に敗退。青山以外のチームメートに高橋捷郎(慶大-東洋レーヨン)がいた。同年の秋季奥羽大会県予選も決勝に進むが、エース嵯峨健四郎を擁する秋田商に惜敗。翌1955年夏は奥羽大会1回戦で岩手高に敗れ、甲子園には出場できなかった。 高校卒業後は立教大学に進む。東京六大学野球リーグでは5度の優勝を経験。4年時の1959年秋季リーグで優勝に貢献し、自身もベストナイン(外野手)に選ばれている。
小林 宏晨(こばやし ひろあき、1937年7月11日 - 2… 小林 宏晨(こばやし ひろあき、1937年7月11日 - 2025年8月24日)は、日本の法学者。専門は、ドイツ基本法(憲法)・国際法・安全保障関係法・比較憲法・EU法。法学博士(ヴュルツブルク大学・論文博士)。日本大学名誉教授。防衛法学会顧問。比較憲法学会名誉理事。オーストリア一等学術栄誉賞受賞、瑞宝中綬章受章。元秋田県上小阿仁村村長。 秋田県上小阿仁村出身で、秋田県立秋田高等学校を歴て上智大学を中退し、ヴュルツブルク大学、ジュネーヴ大学、パリ大学法学部博士課程でドイツ語、政治学、法学を学び、ヴュルツブルク大学でアウグスト・フォン・デア・ハイテ教授に師事して法学博士を授かる。帰国して上智大学で法学部助手、外国語学部教授を経て、日本大学法学部教授、慶應義塾大学大学院法学研究科などで教鞭をとった。
小池 一夫(こいけ かずお、本名及び僧号: 俵谷 星舟〈たわ… 小池 一夫(こいけ かずお、本名及び僧号: 俵谷 星舟〈たわらや せいしゅう〉、旧名: 譲〈たわらや ゆずる〉、作詞家としての別名: 東 文彦〈あずま ふみひこ〉、1936年5月8日 - 2019年4月17日)は、日本の漫画原作者、小説家、脚本家、作詞家、作家。男性、身長183cm、血液型はB型。1976年までの筆名は小池 一雄。別筆名に小池一雄、緒塚敬吾、イゴル・キニスキー等がある。 秋田県大仙市出身。中央大学法学部卒。大阪芸術大学キャラクター造形学科教授(学科長)、神奈川工科大学情報学部情報メディア学科教授、大阪エンタテインメントデザイン専門学校教授を歴任した。出版社の小池書院元編集長。 漫画原作作品に『子連れ狼』(画: 小島剛夕)、『御用牙』(画: 神田たけ志)、『高校生無頼控』(画: 芳谷圭児)、『修羅雪姫』(画: 上村一夫)、『クライング フリーマン』(画: 池上遼一)、『オークション・ハウス』(画: 叶精作)、小説に『乾いて候』、『夢源氏剣祭文』がある。
丸山 博一(まるやま ひろかず、1934年11月20日 - … 丸山 博一(まるやま ひろかず、1934年11月20日 - 2023年9月29日)は、日本の俳優、演出家。東宝専属で劇団「東宝現代劇75人の会」メンバー。舞台演劇を中心に活動していた。秋田県出身。身長167センチメートル、血液型O型。 1934年(昭和9年)、秋田県秋田市土崎港新柳町生まれ。1953年(昭和28年)秋田県立秋田高等学校を卒業。大学受験に失敗した浪人中にルネ・クレマン監督のフランス映画『禁じられた遊び』に強く感銘を受けて映画監督に憧れるようになる。志望先を変更して1954年(昭和29年)、早稲田大学第一文学部文学科演劇専攻を受験、合格して同年、入学する。大学の入学式当日に早大演劇研究会に入会した。
鈴木 重晴(すずき しげはる、1934年4月5日 – 201… 鈴木 重晴(すずき しげはる、1934年4月5日 – 2012年2月27日)は、日本の陸上競技選手、指導者。 1946年、学制改革期の旧制秋田中学校(在学中の1948年に秋田南高等学校と改称。現在の秋田県立秋田高等学校)に入学。楢山の歯医者であった叔父宅から通学しており、鈴木自身も歯医者を目指していたという。1年生より陸上競技を始め、3年生の折に400mと800mで全県大会・東北大会に優勝して駒を進め、インターハイで両種目3位。東西対抗400mで全国優勝を果たした。 早稲田大学に進学し競走部に入部。大学在学中に中距離4種目(400m、800m、1000m、1600mリレー)で日本新記録を立てた。
日野 幹雄(ひの みきお、1932年 (昭和7年) 12月2… 日野 幹雄(ひの みきお、1932年 (昭和7年) 12月24日 - )は、日本の工学者。東京工業大学名誉教授。 専門は、流体力学・水理学・水工学・水文学・海岸工学・風工学・可視化情報学など。 水工学および流体力学の分野で広範な基礎研究を行い、水理工学・流体力学の新分野(Kalman filterの環境問題への応用、Ecohydraulics、植生水文学など)を拓いた。また、研究室からは多くの後継研究者・技術者が輩出した。流体力学・水理学(水工学基礎)に関する多くの著書および評論・解説を行った。また、環境(原子力安全、火力発電所環境審査)に関する政府委員会で長期に亘って貢献した。(注:本記事に記載された全ての事実は、当人が過去に作成された一次情報から抽出したものである。
明石 康(あかし やすし、1931年〈昭和6年〉1月19日 … 明石 康(あかし やすし、1931年〈昭和6年〉1月19日 - )は、日本の外交官、国際公務員、政治家。特定非営利活動法人 Reach Alternatives(REALs)顧問、国際教養大学名誉教授、同大学トップ諮問会議委員、名城大学アジア研究所名誉所長、群馬県立女子大学外国語教育研究所所長、京都文教学園学術顧問、神戸大学特別顧問・特別教授。国際連合事務次長や国際連合事務総長特別代表を歴任。 戦国時代のキリシタン武将の明石全登の子孫であるといわれている。母親の実家は、忠犬ハチ公の生家であった。 秋田県北秋田郡扇田町(現在の大館市比内町扇田)出身。築山小学校在学時に秋田市に移住。県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)から旧制山形高校(現在の山形大学人文学部および理学部)を経て、東京大学に進学。
井上 隆明(いのうえ たかあき、1930年12月6日 - 2… 井上 隆明(いのうえ たかあき、1930年12月6日 - 2021年1月9日)は、日本近世文学研究者、秋田経済法科大学元学長、同大名誉教授、ノースアジア大学名誉学長。秋田県鹿角市毛馬内生まれ。本籍は群馬県 父の転勤に従い、秋田や山形へ赴く。1950年(昭和25年)秋田中学校を卒業し、早稲田大学第一文学部卒業。傍ら金子光晴、八木義徳らに師事し、小説方法史を専攻した。卒業後は秋田魁新報記者となる。1987年「江戸戯作の研究: 黄表紙を主として」で早稲田大学より文学博士の学位を取得。 秋田経済大学・秋田短期大学助教授、教授を経て、秋田経済法科大学教授。1995年から2001年まで同大学長(在任期間のうち、1997年までは秋田短期大学の学長、のち秋田経済法科大学短期大学部の学長を兼任)、同大名誉教授。
荒井 献(あらい ささぐ、1930年5月6日 - 2024年… 荒井 献(あらい ささぐ、1930年5月6日 - 2024年8月16日)は、日本の新約聖書学者・グノーシス主義研究者。学位は、神学博士(ドイツ・エアランゲン=ニュルンベルク大学)。東京大学名誉教授、恵泉女学園大学名誉教授。日本学士院会員。 1930年(昭和5年)、秋田県大曲市(現大仙市)で生まれた。秋田県立秋田高等学校より東京大学へ進み、1954年、東京大学教養学部を卒業。東京大学大学院人文科学研究科に進み、西洋古典学を専攻した。1959年に博士課程を単位取得満期退学。その後はドイツ・フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルクに留学し、『ナグ・ハマディ写本』中の『真理の福音』のキリスト論に関する学位論文を提出して神学博士の学位を得た。
佐藤 菊夫(さとう きくお、1929年 11月4日- )は、… 佐藤 菊夫(さとう きくお、1929年 11月4日- )は、日本の指揮者。東京管弦楽団音楽監督。東京合奏団主宰・音楽監督。世田谷区民吹奏楽団音楽監督。 国立音楽大学卒業。ウィーン国立音楽大学修了。秋田県秋田市土崎港の生まれ。妻は西川清子(チェンバロ奏者)。 1954年、国立音楽大学卒業。1956年、ウィーン国立音楽大学(オーストリア)に留学し、1960年、同大学の指揮・作曲科を修了。なお、妻の西川清子(挙式は1957年5月)も一緒に留学していた。ウィーン・アカデミー管弦楽団、ウィーン古典合奏団に入団して活動。 その一方、ウィーン少年合唱団の日本招へいなど、オーストリアと日本の音楽交流で尽力。 1961年の日本帰国後、1962年から指揮者として東京交響楽団などを担当。
加藤 日出男(かとう ひでお、1929年8月31日 - 20… 加藤 日出男(かとう ひでお、1929年8月31日 - 2019年12月22日)は、日本の社会運動家、随筆家。 日本の高度経済成長期、地方から集団就職した勤労青年たちの交流サークル「若い根っこの会」を創設し、亡くなるまで会長を務めた。 秋田県秋田市出身。秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)を経て、1946年に秋田鉱山専門学校(現・秋田大学)に入学するが翌年中退、しばらく住み込みで農業に従事。1953年、東京農業大学農学部農業経済学科卒業。在学中、青山ほとりに合わせ大根を持って応援を行う「大根踊り」を考案したという説がある(異説あり。詳細は青山ほとり#大根踊りを参照)。 1952年から1958年にかけ、東農大在学生のサークル「あすなろ会」、および若者の交流サークル「経堂青年会」「雑草の会」「東京青年の会」を立ち上げる。
宮越 郷平(みやこし きょうへい、1928年4月25日 - … 宮越 郷平(みやこし きょうへい、1928年4月25日 - 2013年6月23日)は、日本の作家。秋田県出身。本名、道晃(どうこう)。 1928年(昭和3年)、西仙北町刈和野(現:大仙市)生まれ。秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)、1948年(昭和23年)駒澤大学予科卒業。同年駒澤大学国文科中退。舞台芸術学院修了後、舞台座に入団。その後、小学校教員を経て角館南高校教諭、県教育庁社会教育課長、県生涯学習センター所長。秋田県コミュニティ・カレッジ学長を経て、秋田県社会教育委員連絡協議会長を歴任。 1955年(昭和30年)から1966年まで魁新年文芸に「ある挿話」など入選8回。その間、中編小説に「夜ぶりの頃」が第一席、「河岸段丘」が『家の光』連載小説で佳作。
滝田 政治(たきた まさはる、1926年10月26日 - 没… 滝田 政治(たきた まさはる、1926年10月26日 - 没年不明)は、秋田県秋田市出身のプロ野球選手(外野手、内野手)。左打者。 秋田県立秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)を卒業後、秋田鉱山専門学校(現:秋田大学)に入学。 卒業後はノンプロの中央工業に所属し、1948年、外野手として急映に入団。1949年からは大映に移籍、1950年には初めて規定打席(33位、打率.249)に達する。1952年6月22日にはサイクルヒットを達成し、同年は63試合に先発出場。翌1953年は一塁手に転向、開幕から三番打者として活躍しチームの3年ぶりの3位進出に貢献した。1954年は自己最高の打率.283(14位)を記録する。
岩崎 俊一(いわさき しゅんいち、1926年〈大正15年〉8… 岩崎 俊一(いわさき しゅんいち、1926年〈大正15年〉8月3日 - 2025年〈令和7年〉7月25日)は、日本の工学者。工学博士(東北大学・1959年)(学位論文「磁気録音に関する研究」)。東北大学名誉教授。東北工業大学名誉理事長。元電子情報通信学会副会長。文化勲章受章者。福島県福島市生まれ、同県郡山市出身。 専門は電気工学・磁気記録。記録密度を飛躍的に上げる手法として垂直磁気記録方式を提唱した。 1977年頃に、磁気記録の記録密度を飛躍的に上げる手法として垂直磁気記録方式を提唱した。同方式は基礎研究は進められたものの、いくつかの困難があり、物性的にそれに適した磁気テープなどは割と早くに実現したが、広く市販される商品となったものは光磁気ディスク等といった別方式との併用を除けば、主力機器では東芝による2005年のハードディスク商品化が初であった。
辻 兵吉(つじ ひょうきち、1926年(大正15年)5月26… 辻 兵吉(つじ ひょうきち、1926年(大正15年)5月26日 - 2008年(平成20年)7月5日)は、日本の実業家。辻兵グループ総帥。日本青年会議所、秋田商工会議所会頭、日本バスケットボール協会会長などを務めた。秋田県秋田市出身。 秋田県屈指の素封家である1856年(安政3年)創業の呉服店「辻兵」に生まれた。辻兵太郎の息子。秋田県立秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)、東京商科大学(現:一橋大学)を卒業後、高島屋飯田(現:丸紅)に入社。 1952年(昭和27年)、五代目兵吉を襲名。以後、辻兵・辻不動産・秋田いすゞ自動車などの辻兵グループ企業のトップを務め、同グループを秋田県下有数の企業グループまでに育てた。
分銅 惇作(ふんどう じゅんさく、1924年9月23日 - … 分銅 惇作(ふんどう じゅんさく、1924年9月23日 - 2009年1月29日)は、日本の近代日本文学研究者。東京教育大学教授・実践女子大学教授を経て、同大学長・名誉教授。1999年勲三等瑞宝章受章。 秋田県南秋田郡五城目町出身。旧制秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)等を経て東京文理科大学卒業。 その後、高校教諭、東京教育大学教授、実践女子大学教授、同大学長(1993年)。のち名誉教授。1999年秋、勲三等瑞宝章受勲。
永井 洋二郎(ながい ようじろう、1923年11月30日 -… 永井 洋二郎(ながい ようじろう、1923年11月30日 - 2018年4月25日)は、秋田県出身のプロ野球選手(捕手)。 秋田中学(現・秋田県立秋田高校)時代は、第27回全国中等学校優勝野球大会が日中戦争の激化により中止されるなど甲子園出場はなし。専修大学を経て1949年に読売ジャイアンツに入団。同年2試合に出場するも、翌1950年に引退。 2018年4月25日に老衰のため死去。
高橋宏幸(たかはし ひろゆき、1923年-2010年)は、児… 高橋宏幸(たかはし ひろゆき、1923年-2010年)は、児童文学者、挿絵画家。 秋田県由利本荘市東由利老方に生まれる。旧下郷村立老方小学校、旧制秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)卒業。在校中、全国中等柔道大会で準優勝。柔道は講道館五段。旧秋田鉱山学校(現秋田大学工学資源学部)卒業後、入隊。1943年から45年にかけ満州・千島に転戦。1946年小峰書店取締役初代編集長。退任後、日本初の出版プロダクションを設立。1972年「チロヌップのきつね」を機に作家となる。1990年の「オオカミ王ぎん星」で日本児童文芸家協会賞受賞。日本児童文芸家協会理事長、日本児童文芸家協会顧問、産経児童出版文化賞選考委員を務め、実作指導も行った。
佐藤 久(さとう ひさし、1920年4月1日 - 2020年… 佐藤 久(さとう ひさし、1920年4月1日 - 2020年3月23日)は、日本の地理学者、地形学者、東京大学名誉教授。 1938年に旧制・秋田県立秋田中学校(秋田県立秋田高等学校の前身)、1941年に旧制・水戸高等学校理科甲類を卒業し、東京帝国大学理学部地理学科に学ぶ。1943年9月に学部を卒業し、10月に大学院に進む。これは、第二次世界大戦戦時下での、繰り上げ卒業であり、また徴兵延期の扱いを受けた大学院特別研究生としての進学であった。戦時下では、田山利三郎が率いたニューギニア島調査に加わったり、陸地測量部嘱託となり、この頃から空中写真を利用して地形研究に取り組んだ。また、ニューギニアではマラリアに罹患し、その後の健康を損なったとされる。
川口 大助(かわぐち だいすけ、1918年3月5日 - 19… 川口 大助(かわぐち だいすけ、1918年3月5日 - 1981年2月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)、秋田市長(3期)を務めた。 秋田県河辺郡新屋町(現在の秋田市新屋)出身。秋田県立秋田中学校(旧制、現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業後、国鉄に入り、国労秋田地方本部委員長を務める。その後秋田県議になり、日本社会党秋田県本部書記長、同顧問となり、1959年の秋田市長選では社会党公認で立候補して初当選した。以来3期。1971年の秋田市長選では保守系候補の荻原麟次郎に敗れて落選した。1976年の第34回衆議院議員総選挙で秋田1区から日本社会党公認で立候補して当選。1979年の秋田県知事選に立候補したが落選した。
梅崎 作太郎(うめさき さくたろう 1916年 - 1944… 梅崎 作太郎(うめさき さくたろう 1916年 - 1944年12月)は、日本の元アマチュア野球選手。秋田県出身。ポジションは投手。 1916年、秋田市に生まれた。秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)在学中は、甲子園に4回出場。夏のみ。4回(1931年~1934年まで4年連続)出場し、最後の出場となった1934年夏の大会ではベスト4に入る健闘を見せた(準決勝で、藤村富美男らを擁した優勝候補筆頭の呉港中学〈現・呉港高等学校〉と当たり0-9で大敗)。梅崎、赤根谷飛雄太郎(梅崎のライバルで、秋田商出身。後に急映・東急でプレー)、渡辺誠太郎(土崎商出身。後に阪神等でプレー)の三人を称して、「戦前秋田の三大投手」と呼ばれた。
加賀谷 力司(かがや りきじ、1916年〈大正5年〉– 20… 加賀谷 力司(かがや りきじ、1916年〈大正5年〉– 2002年〈平成14年〉)は、日本の政治家・実業家。 林業、建設業を営む企業の経営に携わるとともに、地元秋田県を中心に、戦後日本の地域社会や林業振興・緑化推進に長年にわたって継続的な影響を与えた人物として知られる。 1916年に秋田県五城目町に生まれる。父・加賀谷直治は秋田県議会副議長を務めた政治家であり、加賀谷家は地域において代々公職と産業に携わってきた。秋田県立秋田高等学校、そして早稲田大学で教育を受けたのち、地元に戻り、木材・造林・建設業を中心とする家業を継承。企業経営と地域の活性化を通じて、地域の復興と発展に尽力した。 1951年(昭和26年)に五城目町議会議員に初当選、1956年には町議会議長に就任し、翌1957年より町長を務めた。
谷藤 正三(たにふじ しょうぞう、1914年1月6日 - 2… 谷藤 正三(たにふじ しょうぞう、1914年1月6日 - 2004年6月3日)は、日本の建設官僚。元北海道開発事務次官。工学博士(京都大学、1949年)(学位論文「路盤に関する土質力学的研究」)。秋田県河辺郡浜田村(のちの秋田市)出身。
塩田 雄次(しおた ゆうじ、1913年(大正2年)1月19日… 塩田 雄次(しおた ゆうじ、1913年(大正2年)1月19日 - 1994年(平成6年)1月8日)は、日本の実業家。羽後銀行頭取、北都銀行初代会長。 塩田団平の次男として、秋田県平鹿郡雄物川町(現:横手市)に生まれる。 秋田県立秋田中学校、慶應義塾大学法学部卒業後、第百銀行(後に三菱銀行に吸収合併、現在の三菱UFJ銀行)に入行。21年あまり在籍し品川支店次長等を歴任する。 1958年には、羽後銀行に転じ、その後頭取に昇格する。頭取在任時には、本店の横手市から秋田市への移転や本店新館の建設、さらにはオンラインシステムの導入、店舗網の整備等、経営の近代化を推進した。1988年には代表取締役会長に退き、1993年に秋田あけぼの銀行との合併で誕生した北都銀行会長に就任した。
阿部 竹松(あべ たけまつ、1912年(明治45年)3月7日… 阿部 竹松(あべ たけまつ、1912年(明治45年)3月7日 - 1973年(昭和48年)4月13日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 秋田県雄勝郡で生まれる。北海道上川郡和寒村(現和寒町)に家族と共に移住。1923年(大正12年)和寒尋常高等小学校を卒業。その後、秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を中退した。 農民運動にかかわった後、1937年(昭和12年)三菱鉱業(現三菱マテリアル)に入社し大夕張砿業所(三菱大夕張炭鉱)保安係となる。1945年(昭和20年)大夕張炭鉱労働組合の結成に参画し副委員長となる。日本社会党北海道連の結成に加わる。1947年(昭和22年)大夕張炭鉱労組委員長に就任し、同年、夕張市議会議員となる。
佐々木 義武(ささき よしたけ、1909年4月3日 - 19… 佐々木 義武(ささき よしたけ、1909年4月3日 - 1986年12月13日)は、日本の政治家、官僚。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(9期)、科学技術庁長官・通商産業大臣を歴任した。 秋田県河辺郡河辺町(後の秋田市)生まれ。秋田中学(後の秋田県立秋田高等学校)時代は野球部員として甲子園出場の経験がある。1933年東京帝国大学経済学部を卒業後、南満州鉄道に入社し、調査部に配属される。その後興亜院に転じ、ここで大蔵省出身の大平正芳、農林省出身の伊東正義らと知り合い、第二次世界大戦後も「九賢会」と称する会合を持って交流を深めた。以後企画院、大東亜省、内閣調査局にて調査官を歴任した。 戦後の1947年、経済安定本部に転じ、初代経済復興計画室長として、傾斜生産方式による政策の遂行に辣腕を振るった。
伊藤 勝三(いとう かつぞう、1907年5月14日 - 19… 伊藤 勝三(いとう かつぞう、1907年5月14日 - 1982年2月10日)は、秋田県秋田市千秋矢留町(旧上中城町)出身のプロ野球選手(捕手、一塁手)、監督。 日本プロ野球における選手兼任監督第1号である。 秋田中学(現・秋田県立秋田高校)時代は、捕手として2度の全国中等学校優勝野球大会(第8回大会、第10回大会)に出場した。慶應義塾大学では控え捕手に甘んじたが、社会人野球の東京倶楽部では慶大時代のチームメイトである宮武三郎らと共に活躍し、1931年に開催された第5回全日本都市対抗野球大会で優勝した。 全日本職業野球連盟が発足した1936年、大東京軍に入団すると、永井武雄監督解任の後を受けて選手兼任監督に就任したが、2勝27敗3分、勝率.069という惨憺たる成績を受けシーズン途中で解任された。
深井 史郎(ふかい しろう、1907年4月4日 - 1959… 深井 史郎(ふかい しろう、1907年4月4日 - 1959年7月2日)は、日本のクラシック音楽の作曲家。 秋田県河辺郡新屋町(現在の秋田市新屋地区)に医者の三男として生まれる。秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を経て、1927年に旧制第七高等学校を卒業。中学校時代に、同校教諭の石田直太郎(同郷の音楽家、石田一郎の父)からレコードを聴かされたことが、西洋音楽と関わるきっかけとなり、主にストラヴィンスキー、ラヴェル、ファリャなどの影響を受ける。 当初は帝国大学理科を志すも、肺病を病んだため断念。療養後、東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)と帝国音楽学校に入学。学校に籍を置きながら菅原明朗に師事する。
小畑 勇二郎(おばた ゆうじろう、明治39年(1906年)9… 小畑 勇二郎(おばた ゆうじろう、明治39年(1906年)9月19日 - 昭和57年(1982年)10月5日)は日本の政治家。位階は従三位。勲等は勲一等。秋田県知事を連続6期24年務め、秋田県の発展に尽力した。 雑貨商の父勇吉、母シカの二男として秋田県北秋田郡早口村弥五郎沢(現・大館市)に生まれる。 大正13年(1924年)3月、旧制秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)を卒業。 大正14年(1925年)4月から小学校の代用教員を務め、昭和2年(1927年)10月から養父吉田季吉の世話で故郷の早口村役場の書記に7年間勤務する。この間、松尾好子と結婚する。 昭和14年(1939年)、秋田県庁に入庁。
山本 時男(やまもと ときお、1906年2月16日 - 19… 山本 時男(やまもと ときお、1906年2月16日 - 1977年8月5日)は、日本の生物学者。名古屋大学名誉教授。理学博士(東京帝国大学、1936年)(学位論文「目高早期胚の律動性運動に関する研究」)。秋田県出身。祖父は秋田における自由民権運動の中心人物であった山本庄司、叔父(父時宜の弟)は砂防・植林技師の山本徳三郎。 メダカを主要な研究材料として選び、受精生理学、発生学を中心に多くの業績をあげ、受精波説を提唱した。1945年5月14日、第二次世界大戦の名古屋大空襲によって教室は全焼し、ほとんどすべての研究資料を失った。しかし、敗戦後、屈することなくメダカを用いて性分化の研究に新たに取り組んだ。
伊賀山 正光(いがやま まさみつ、1905年8月25日 - … 伊賀山 正光(いがやま まさみつ、1905年8月25日 - 2001年10月29日)は、日本の映画監督である。本名・旧名伊賀山 正徳(いがやま まさのり)。 1905年(明治38年)8月25日、秋田県秋田市保戸野表鉄砲町 (現在の同市保戸野鉄砲町)に生まれる。 旧制・秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業、東京に移り、明治大学に入学する。日本大学法文学部美学科(現在の日本大学藝術学部)に移籍し、在学中の1925年(大正14年)、国際活映巣鴨撮影所が製作した内田吐夢監督の『義血』で助監督を務めている。同作の撮影技師は円谷英二であり、同作は同年2月6日に公開されている。1927年(昭和2年)、同学の卒業と同時に、タカマツ・アズマプロダクション吾嬬撮影所に助監督として入社したが、同社は同年後半に活動を停止しており、翌1928年(昭和3年)には、京都の勝見庸太郎プロダクションに移籍した。
青江 舜二郎(あおえ しゅんじろう、1904年11月26日 … 青江 舜二郎(あおえ しゅんじろう、1904年11月26日 - 1983年4月30日)は、日本の劇作家、評論家。本名は大嶋長三郎。秋田県秋田市生まれ。 1904年(明治37年)11月26日、薬卸小売商「衛生堂」の長男として茶町梅ノ丁(現在の大町四丁目)に誕生。衛一と命名されるが、1915年(大正4年)、父が逝去したため、その名前を継いで以後は長三郎を名乗る。旧制秋田中学(現在の秋田県立秋田高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1929年(昭和4年)東京帝国大学文学部印度哲学科卒業。 大学在学中、第九次「新思潮」同人となり、同誌に掲載された戯曲『火』『見物教育』が小山内薫に認められ、師事する。大学卒業後、香川県社会教育主事として高松に赴任するが、劇作に専念するため4年後に再度上京。
中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)… 中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)6月21日 - 1974年(昭和49年)1月13日)は、日本のジャーナリスト、劇作家。劇作家としての筆名は塩谷国四郎。 1904年(明治37年)秋田市本町(現在の秋田市大町)に生まれる。日本大学卒。 1927年(昭和2年)、毎日新聞社入社。日米開戦前後には、海軍徴用報道班員として鹿屋海軍航空隊に随行し、戦況などを日本に伝えた。この折の体験を基に実録「真珠湾奇襲」「不沈戦艦北へ」を執筆している(いずれも『大東亜戦史 1 太平洋編』所収)。戦後、西部本社社会部長兼地方部長、横浜支局長、東京本社連絡部長、東京本社社会部長、サンデー毎日編集長を歴任した。
築地 俊龍(つきじ しゅんりゅう、1904年3月7日 - 1… 築地 俊龍(つきじ しゅんりゅう、1904年3月7日 - 1972年11月13日)は、日本の野球選手である。 秋田県馬川村久保(後の秋田県五城目町久保)にある自性院(じしょういん)の住職であった父龍明、母ヨシの長男として生まれる。幼名は龍夫(たつお)といったが、寺を継がせたいという父親の意向で小学校卒業のころに俊龍と改名した。 子供のころは川原で石投げ遊びをしていると誰よりもと奥まで石を投げることができたという強肩の片鱗を見せていた。1918年に県立秋田中学校(後の秋田県立秋田高等学校)に入学。180センチ近い身長で頑健な体格から多くの運動部の勧誘を受ける中、遠投力を見込まれて野球部に入部。1922年に仙台市で行われた東北中学校野球大会では、秋田中学校のエースピッチャーとして決勝までの5試合を一人で投げ抜いて同校を優勝に導き、東北から唯一の全国大会への出場権を得た。
ジョー・オハラ(英語: Joe Ohara, 1903年12… ジョー・オハラ(英語: Joe Ohara, 1903年12月10日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は仁平 久(にへい ひさし)。別表記ジョウ・オハラ、ジョー・オ・ハラ、ジョー 大原(ジョー おおはら)。別芸名大原 仁美(おおはら ひとみ)、大原 譲および大原 穣(おおはら じょう)。新派俳優西田敏夫と共に小松商会の専属俳優から始まり、新興キネマ東京撮影所、大映東京撮影所などで長く活躍した名脇役として知られる。 1903年(明治36年)12月20日、秋田県秋田市に生まれる。 旧制・秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業し東京へ移転、旧制・専修商業学校(現在の専修大学)を卒業した後に映画会社小松商会に入社している。
菊池 栄一(きくち えいいち、1903年8月17日 - 19… 菊池 栄一(きくち えいいち、1903年8月17日 - 1986年8月25日)は、日本のドイツ文学者。東京大学名誉教授。 1903年、秋田県生まれ。秋田中学を経て、東京帝国大学ドイツ文学科を卒業。卒業後は第一高等学校教授となった。 太平洋戦争後の1949年、東京大学教養学部教授に着任。1955~57年ハンブルク大学客員教授。1962年、『イタリアに於けるゲーテの世界』を提出して文学博士号を取得。1963年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は日本大学教授として教鞭をとった。学界では、1980年より日本ゲーテ協会会長をつとめた。
八木 信雄(やぎ のぶお、1903年(明治36年)4月25日… 八木 信雄(やぎ のぶお、1903年(明治36年)4月25日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。黄海道知事。全羅南道知事。 鹿児島県鹿児島市生まれ。現在の鹿児島県奄美市名瀬出身。名瀬小学校2年の時の1910年(明治43年)8月に、八木彦助の養子となって上京。秋田県立秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て、1923年(大正12年)第七高等学校造士館文科卒業。1925年(大正14年)高等試験行政科に合格し、翌年東京帝国大学法学部政治科を卒業する。朝鮮総督府に奉職し、黄海道、慶尚北道各警務課長、警務局勤務、黄海道警務部長、警務局警務課長などを経て、1942年(昭和17年)11月、警務局保安課長に任じた。
辻 兵太郎(つじ ひょうたろう、1899年(明治32年)4月… 辻 兵太郎(つじ ひょうたろう、1899年(明治32年)4月18日 - 1954年(昭和29年)6月24日)は、日本の政治家(秋田市会議員、同副議長)、商人(呉服商、秋田県呉服太物商組合長)、実業家。秋田土地社長。辻代表。秋田商工会議所副会頭。 秋田県・辻兵吉の長男。辻吟次郎の甥。1917年、秋田中学卒業。1919年、志願兵として入営し、陸軍中尉に進級した。呉服商を営み傍ら会社の重役であった。秋田市会議員に推され、1942年7月13日、副議長(第18代)に就任し、1945年3月10日、退任した。 趣味は囲碁、運動。宗教は浄土真宗。秋田県在籍。住所は秋田市大町、東京市麹町区永田町。
東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12… 東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12月11日 - 1972年(昭和47年)10月4日)は、秋田県秋田市出身の流行歌手。位階は正五位。 戦前から戦後にかけて活躍し、ロイド眼鏡をかけて燕尾服を着用して直立不動の姿勢で歌う特徴があった。 東海林は1898年(明治31年)に秋田県秋田市台所町(現:千秋矢留町)で生まれた。保戸野尋常小学校を卒業後、1908年(明治41年)に父・大象が秋田県庁を退職して南満洲鉄道へ入社するのに伴い、両親が満洲へ向かう中、太郎は秋田に残って祖母・カツの下で生活する。 秋田県立秋田中学校在学時にヴァイオリンに魅せられ、満洲に滞在する父・大象に懇願するが逆鱗に触れてしまい、断念している[要検証 – ノート]。
人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12… 人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12日 - 1978年(昭和53年)1月16日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者。 1898年(明治31年)秋田市中亀ノ丁に生まれる。1915年(大正4年)に秋田中学校を卒業し、小学校代用教員などを務める。 1927年(昭和2年)、秋田魁新報社に入社。運動部記者、政経部記者を経て、計画部長兼地方部長、計画部長兼社会部長、業務局次長兼計画部長などを歴任し、1943年(昭和18年)取締役に就任する。以後、常務取締役業務局長、専務取締役を務め、1946年(昭和21年)11月代表取締役社長に就任、同社の経営に当たった。1953年(昭和28年)、ラジオ東北株式会社を設立(代表取締役社長)。
長崎 惣之助(ながさき そうのすけ、明治29年(1896年)… 長崎 惣之助(ながさき そうのすけ、明治29年(1896年)6月25日 - 昭和37年(1962年)11月7日)は、日本の鉄道官僚、実業家。第3代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1951年-1955年)。日本エアウェイ開発社長(在任1961年-1962年)。 秋田県南秋田郡川尻村(後の秋田市川尻上野町)で村長の長崎惣太郎の長男として生まれる。幼少の頃から成績優秀で長身でもあり、川尻小学校・牛島高等小学校を経て秋田中学校へと入る。中学校ではボート部に所属し、その後第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部独法科を卒業。 1920年鉄道省入省。1926年在外研究員として欧米に派遣され、その後1930年に設置された国際観光局の庶務課長に任命され、1932年経理局会計課長となる。
武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月… 武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月20日 - 1956年(昭和31年)8月30日)は、秋田県出身の日本の考古学者、民俗学者、スポーツ指導者。 秋田県河辺郡豊岩村(現・秋田市豊岩)に武藤喜市郎、シケの四男として生まれた。本名のテツジョウにはテツシロという四番目の意味が込められている。 秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)に入学し、中学5年生の時に新潟県高田市(現・上越市)で開催された第1回全国スキー大会において急斜面競技と長距離競技で4位と6位に入賞している。中学校を卒業した後、慶應義塾大学部に進み、理財科(経済学部)に籍を置いたが、在籍5年で退学し、1920年(大正9年)に帰郷して兄の一郎の四ツ小屋付近の発掘の助手をした。
大井 直之助(おおい なおのすけ、1895年(明治28年)8… 大井 直之助(おおい なおのすけ、1895年(明治28年)8月3日 - 1973年(昭和48年)11月29日)は、大正から昭和前期の農業指導者、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市)長。 秋田県由利郡矢島町で生まれる。1914年(大正3年)秋田県立秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を卒業した。 1921年(大正10年)矢島町会議員に選出され4期在任。1934年(昭和9年)から1943年(昭和18年)まで秋田県会議員、矢島町長に在任。その他、本荘税務署所得調査委員、矢島町産業組合長、秋田県農業会由利支部長・理事、同県森林組合連合会理事、帝国在郷軍人会由利郡連合会分会長などを務めた。
村上 清治(むらかみ せいじ、1895年(明治28年)3月1… 村上 清治(むらかみ せいじ、1895年(明治28年)3月19日 - 1955年(昭和30年)10月13日)は、大正から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡上郷村長。 秋田県由利郡上郷村横岡(象潟町を経て現にかほ市)で、素封家の家に生まれる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て、1916年(大正5年)東北帝国大学農科大学農学実科(現北海道大学農学部)を卒業。農業に従事した。 不動建物取締役社長、上郷村農業会長、同農会評議員、同信用組合理事、同森林組合長、上郷文化協会長、由利郡農業会長会副会長、象潟上郷上浜信用購買販売利用組合監事などを務めた。 政界では、上郷村会議員(3期)、秋田県会議員(1期)、上郷村長、由利郡仁賀保町村長会長、秋田県町村長会評議員などを務めた。
須磨 弥吉郎(すま やきちろう、1892年〈明治25年〉9月… 須磨 弥吉郎(すま やきちろう、1892年〈明治25年〉9月9日 - 1970年〈昭和45年〉4月30日)は、日本の外交官、政治家。スペイン特命全権公使・衆議院議員。 秋田県南秋田郡土崎新城町(現秋田市)生まれ。旧制秋田中学校卒業後広島師範学校に進学するも、一転して法律家を志し中央大学法学部に転学。卒業後、1919年に外務省入省。 外国語6カ国語に堪能でイギリス、ドイツ等の在外公館に勤務を経て、1927年、在中国大使館二等書記官として赴任。在広東領事館領事等を経て、1932年、在上海日本公使館情報部長となり、対蔣介石政権の情報収集に努める。その後、南京総領事に転じる。 この中国での諜報活動の経験から、情報の一元管理と総合判断の必要性を痛感、帰国後、同じ考えを抱いていた山本五十六海軍次官とともに奔走し、1937年、対外情報収集と対外広報を目的にした内閣情報部を設立する。
池田 徳治(いけだ とくじ、1891年8月20日 - 196… 池田 徳治(いけだ とくじ、1891年8月20日 - 1965年4月1日)は日本の政治家。 1891年(明治24年)秋田市保戸野本町に生まれる。秋田県立秋田中学校(旧制)、第二高等学校 (旧制)、東京帝国大学工科大学卒。内務省東北土木出張所長、秋田県土木部長を経て、秋田県初代公選知事蓮池公咲及び自由党・民主党の推薦を得て1951年(昭和26年)の県知事選挙に出馬、小畑勇二郎を破る。以後1期4年にわたり秋田県知事を務めた。在任中の1954年(昭和29年)、秋田県出身の衆議院議員石田博英同席のもと、当時の首相吉田茂と会談し、八郎潟干拓事業の早期着工を要請している。知事退職後は、秋島建設会長、全建興業社長などを務める。
多田 等観(ただ とうかん、1890年(明治23年)7月1日… 多田 等観(ただ とうかん、1890年(明治23年)7月1日 - 1967年(昭和42年)2月18日)は、日本の僧侶、仏教学者。明治末から大正にかけてチベットに入り、チベット仏教を修行。日本への帰国に際して多数の仏典、文献を持ち帰り、斯界の学識経験者として活躍した。 南秋田郡土崎港町旭町(現在の秋田市土崎港)の西船寺の住職の3男として生まれる。家庭が6男2女の子だくさんであまり豊かではなかったため、小学校卒業時から檀家回りをして家計を助ける。秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)卒業後、勉学のため京都にのぼり西本願寺に入籍、法要を手伝うようになる。第二十二世法主の大谷光瑞にその才覚を認められ、ダライ・ラマ13世が派遣したチベットの高僧ら留学生3人の世話役と日本語教師を任される。
西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11… 西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11月30日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵39期。最終階級は海軍中将。秋田県南秋田郡船越村(現:男鹿市)出身。 太平洋戦争(大東亜戦争)のレイテ沖海戦におけるスリガオ海峡夜戦を、第一遊撃部隊第三部隊指揮官(第二戦隊司令官)として戦い、旗艦・戦艦「山城」と共に壮烈な最期を遂げたことで知られる。 旧制秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)から旧制横手中学校(現:秋田県立横手高等学校)を経て、海軍兵学校に入校(兵39期)。 兵学校卒業席次は21番/148名と上位であったが、海大甲種学生を経ていず、進級は遅れがちであった。