大西 秀明(おおにし しゅうめい、1923年5月3日 - 没… 大西 秀明(おおにし しゅうめい、1923年5月3日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画製作者である。当初、本名の大西 三郎(おおにし さぶろう)で俳優として活動、戦後、上記の筆名で助監督から監督へ昇進、のちに大西 孝典(おおにし こうてん)、橋本 忠典(はしもと ちゅうてん)とも名乗る。 1923年(大正12年)5月3日、京都府南桑田郡亀岡町(現在の同府亀岡市)に生まれる。 1938年(昭和13年)3月、旧制・亀岡尋常高等小学校(現在の亀岡市立亀岡小学校)を卒業、その3年後の1941年(昭和16年)、京都・太秦の日活京都撮影所(のちの大映京都撮影所)に入社、俳優課に配属される。「持ち前の明るい人柄」を評価され、前年に自らのプロダクションを解散して日活に入社して当時同社の看板スターだった片岡千恵蔵の内弟子になる。
佐藤 由須計(さとう よしすけ、1922年〈大正11年〉5月… 佐藤 由須計(さとう よしすけ、1922年〈大正11年〉5月3日 - 2015年〈平成27年〉12月28日)は、日本の法学者。中央大学名誉教授。専門は国際法。 新潟県新潟市古町通2番町(現 新潟市中央区古町通2番町)の製綿・布団製造業者の佐藤由太郎の三男として出生。 新潟市白山尋常小学校、新潟中学校を経て、中央大学第一予科に入学、1943年(昭和18年)12月に海軍に入隊、1944年(昭和19年)9月に中央大学法学部法律学科を卒業。 1944年(昭和19年)12月に海軍予備少尉に任官、在ビルマ第17警備隊付、1945年(昭和20年)に海軍予備中尉に任官、1946年(昭和21年)に復員。 1947年(昭和22年)に中央大学大学院に入学、1948年(昭和23年)に中央大学大学院特選研究生となり、1953年(昭和28年)4月に中央大学法学部助教授に就任、1962年(昭和37年)4月に中央大学法学部教授に就任。
尾﨑 公子(おざき きみこ、1922年<大正11年>5月3日… 尾﨑 公子(おざき きみこ、1922年<大正11年>5月3日 - 2019年<平成31年>4月29日)は、日本の実業家。紙パルプ・フィルムなどの専門商社オザックスの取締役相談役。大阪・船場の紙問屋を年商1000億円に迫る素材商社に育て上げた。大阪商工会議所で初の女性の常議員で、同女性会連合会名誉会長。全国商工会議所女性会連合会特別顧問も務めた。2010年旭日双光章。 船場(長堀橋)の金属雑貨輸出商の家に生まれる。大阪府立清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)卒業後、日本女子大学に入学。太平洋戦争中の1943年(昭和18年)10月に繰り上げ卒業し、船場の老舗「尾﨑洋紙店」(後の尾﨑商産。現・オザックス)創業家に嫁ぐ。
資延 敏雄(すけのぶ びんゆう、1922年(大正11年)5月… 資延 敏雄(すけのぶ びんゆう、1922年(大正11年)5月3日 - 2014年(平成22年)3月12日)は、高野山真言宗の僧。管長。金剛峯寺411世座主。高野山大学卒業。北海道深川市出身。 1922年(大正11年)、北海道深川市の真言寺に生まれる。1935年(昭和10年)、同寺にて乃村龍澄師(第55世大覚寺門跡)に従い剃髪得度。1949年(昭和24年)に高野山大学卒業。 北海道旭川市の金峰寺住職を経て、2002年(平成14年)から2006年(平成18年)まで金剛峯寺第411世座主と高野山真言宗の管長を務めた。 2014年(平成22年)3月12日、心不全のため死去。享年91。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
吉田 善哉(よしだ ぜんや、1921年5月3日 - 1993… 吉田 善哉(よしだ ぜんや、1921年5月3日 - 1993年8月13日)は、競走馬の生産者。北海道札幌市出身。社台グループの創業者。 1921年、北海道月寒の畜産家・吉田善助(善助の父・善太郎の項を参照)の三男として生まれる。善助は酪農家として日本に初めてホルスタイン種の乳牛を導入した人物でもあり、1928年から白老町社台地区に2000haの土地を購入して社台牧場を開設し、サラブレッド生産に着手していた。善哉は1940年、空知農業学校畜産科を卒業後、社台牧場千葉富里分場の場長を任された。しかし同年より始まった太平洋戦争の戦況悪化と共に、従業員が次々と徴兵され、善哉はひとりで牧場を切り盛りすることを余儀なくされた。
朝香 千賀子(あさか ちかこ、1921年〈大正10年〉5月3… 朝香 千賀子(あさか ちかこ、1921年〈大正10年〉5月3日 - 1952年〈昭和27年〉12月6日)は、日本の旧皇族。元華族。朝香宮鳩彦王の第1王子・孚彦王の妃。旧名は、藤堂 千賀子(とうどう ちかこ)。父は、伯爵藤堂高紹。母は、真田幸民伯爵令嬢・信子。皇籍離脱前の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇族時代の名は、孚彦王妃 千賀子(たかひこおうひ ちかこ)であった。 1938年(昭和13年)12月16日、朝香宮鳩彦王の長男・孚彦王と結婚。その後、冨久子女王、誠彦王、美仍子女王の1男2女をもうける。1947年(昭和22年)10月14日、皇室典範第11条1項により夫・孚彦王や家族と共に皇籍を離脱し、以後は「朝香 千賀子(あさか ちかこ)」と名乗る。
角谷 三四郎(すみや さんしろう、1919年5月3日 - 没… 角谷 三四郎(すみや さんしろう、1919年5月3日 - 没年不明)は、日本の経営者。中山製鋼所社長を務めた。 大阪府出身。1940年に大阪商科大学を卒業し、同年に中山製鋼所に入社。1941年3月から1946年7月までに兵役に従事し、終戦時には関東軍中尉となり、後にシベリア収容所で収容された。1964年11月に取締役に就任し、1973年11月に常務、1977年6月に専務を経て、1983年3月には社長に就任。1991年6月に会長に就任し、1997年6月から相談役を務めた。 1990年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
李 相冕(イ・サンミョン、朝鮮語: 이상면、1919年5月3… 李 相冕(イ・サンミョン、朝鮮語: 이상면、1919年5月3日 - 2002年1月10日)は、大韓民国の政治家。第5代韓国国会議員。 号は松庵(ソンアム、송암)。 日本統治時代の慶尚北道迎日郡出身。立教大学文学部2年修了後に学徒兵として出陣した。1960年の第5代総選挙で国会議員に当選したが、大法院による選挙無効判決を受けて再選挙でまた当選したものの、5・16軍事クーデターにより辞退した。ほかには民主党浦項市党委員長・中央委員、国会商工委員を務めた。
三井 ふたばこ(みつい ふたばこ、1918年〈大正7年〉5月… 三井 ふたばこ(みつい ふたばこ、1918年〈大正7年〉5月3日 - 1990年〈平成2年〉10月29日)は、日本の童話作家、詩人、随筆家。本名・嫩子。 西条八十の長女として東京府に生まれる。弟に西條八束。 東京府立第五高等女学校(現東京都立富士高等学校)を経て、日本女子大学英文科中退。父とともに詩誌『ポエトロア』を発行、童話、詩集、翻訳、父の詩集の編纂などを行う。1970年に父が没した後は、父の思い出などを書いた。当初、三井嫩子、三井ふたばこ、三井ふたば子などの表記を用いたが、夫が亡くなったこともあり、父の没後は西條嫩子の名を用いた。
柏戸秀剛(かしわど ひでたけ、1918年5月3日-1982年… 柏戸秀剛(かしわど ひでたけ、1918年5月3日-1982年12月11日)は、春日山部屋に所属していた岩手県九戸郡種市町(現洋野町)出身の元大相撲力士である。本名は佐々木秀剛。最高位は東前頭筆頭(1947年6月場所)。現役時代の体格は186cm、96kg。得意手は右四つ、吊り、上手投げ。
閔 寛植(ミン・グァンシク、朝鮮語: 민관식、1918年5月… 閔 寛植(ミン・グァンシク、朝鮮語: 민관식、1918年5月3日 - 2006年1月16日)は、大韓民国の薬剤師、官僚、社会活動家、政治家。第3・4・5・6・10代韓国国会議員。第20代文教部長官。第10代国会副議長。 本貫は驪興閔氏。号は小崗(ソガン、소강)。京都大学法学博士。 日本統治時代の京畿道開城に生まれた。京城第1高等普通学校(現・京畿高等学校)、水原農林専門学校(現・ソウル大学校農科大学に併合)を卒業後、内地の京都帝国大学(現・京都大学)農学部農芸化学科を卒業。その後に薬剤師試験に合格し、薬剤師を免許取得した。 朝鮮戦争後は高麗時報社の社長を務め、1954年の第3代総選挙に無所属でソウル東大門選挙区から立候補して初当選した。
伊藤 毅(いとう たけし、1918年5月3日 - 1999年… 伊藤 毅(いとう たけし、1918年5月3日 - 1999年9月11日)は日本の音響工学者。 1964年東京オリンピックの開・閉会式の音響をまとめた功績等が評価され、NHK放送文化賞などを受賞した。
反町 誠一(そりまち せいいち、1917年5月3日 - 19… 反町 誠一(そりまち せいいち、1917年5月3日 - 1990年12月4日)は、日本の経営者。東京都出身。 1947年に京都大学経済学部を卒業し、同年に大東京火災海上保険に入社。1962年6月に取締役に就任し、1964年6月に常務、1966年4月に専務を経て、1970年6月に副社長に就任し、1976年7月には社長に昇格。1982年11月に会長に就任。 1979年11月に藍綬褒章を受章。 1990年12月4日急性心不全のために死去。73歳没。
北村 正哉(きたむら まさや、1916年 <大正5年> 5月… 北村 正哉(きたむら まさや、1916年 <大正5年> 5月3日 - 2004年 <平成16年> 1月26日)は、日本の政治家。青森県で県議会議員・副知事を各3期、その後知事を4期にわたって務めた。位階は正四位。 正哉の哉の文字は、本来は旁にノが付かないものだが、異体字でコンピュータ上で表現できないケースがあるため、「〓」として註釈するか、「哉」で代用するか、「まさや」とひらがなで表記されるケースがある。 上北郡三沢村(現・三沢市)で、牧場主の長男として生まれた。先祖の北村豊三は元会津藩士で、会津戦争敗北後に同藩が斗南藩として現在のむつ市へ転封された際に移住し、広沢安任と共に日本初の西洋式牧場である「開牧社」の経営に参加した。
川瀬 源太郎(かわせ げんたろう、1916年(大正5年)5月… 川瀬 源太郎(かわせ げんたろう、1916年(大正5年)5月3日 - 2003年(平成15年)1月24日)は、日本の実業家。日本生命名誉会長。 滋賀県出身。滋賀県立八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)を経て、1937年(昭和12年)に彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)を卒業。同年日本生命保険に入社し、取締役関連部長・財務部長、常務取締役、専務取締役、代表取締役副社長等を経て、1982年(昭和57年)に弘世現の後任として代表取締役社長に就任。初代の有価証券部長のとき証券不況に遭遇、徹底した防戦買いで注目された。社長在任中に「ザ・セイホ」の筆頭格に育て上げ、保有契約高などで世界一を達成する。
今井 正郎(いまい まさお、1916年(大正5年)5月3日 … 今井 正郎(いまい まさお、1916年(大正5年)5月3日 - 1995年(平成7年)7月19日)は、昭和から平成時代の政治家。三重県亀山市長。亀山市名誉市民。 亀山市出身。1941年(昭和16年)京都帝国大学法学部卒業。満州石油に入社し、三協油脂勤務、南国船舶人事庶務各課長を務める。 1956年(昭和31年)三重県中小企業団体中央会事務局長を経て、1959年(昭和34年)から11年間に渡り亀山市収入役を務める。1970年(昭和45年)同市長に当選し、6期務め1994年(平成6年)引退した。
川口 弘(かわぐち ひろし、1914年5月3日 - 1998… 川口 弘(かわぐち ひろし、1914年5月3日 - 1998年7月11日)は、日本の経済学者。中央大学名誉教授。中央大学元学長。専門はケインズ経済学、金融論。 ケインズ経済学とりわけ「一般理論」の解釈において評価が高い。当時有力なコンメンタールだった伊東光晴、宮崎義一著「コンメンタール一般理論」にも一般理論解釈を巡って批判を行った。(中央大学経済学会 経済学論纂 川口弘教授古希記念論文集参照)また、日本経済評論社から刊行されているポストケインジアン叢書第1期にも深く関与しており、自身も訳出していると同時に所属していた中央大学経済学部、商学部の教員が中心となって作業がなされた。 学説的にみてイギリス・ケインジアンに近い。
大堀 弘(おおほり ひろむ、1913年5月3日 - 1985… 大堀 弘(おおほり ひろむ、1913年5月3日 - 1985年5月12日)は、日本の商工官僚。電源開発総裁、共同石油社長。大堀孝の長男。 和歌山市出身。高輪尋常小学校、旧制武蔵高校を経て、1936年に東京帝国大学法学部卒業、同年、商工省入省。貿易局属。同期に小室恒夫(通商局長、新日鉄化学社長)、村田恒、皆川良三(札幌通産局長)、永野量、佐藤清一(共に東京通産局長)など。 戦後の1948年兵器処理委員会に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。のち商工省から新制通産省と改称の後もしばらくは、吉田茂や白洲次郎、初代通産省官房長の永山時雄らの「外交派」・「通商派」らが実権を握っていたが、その後の朝鮮特需によりジョゼフ・ドッジらの自由経済から方向転換、主流の「産業派」もしくは「統制派」の復権後は、永山が東京通産局に、大堀も中小企業庁長官ののち経済企画庁に出された。
高橋 浩一郎(たかはし こういちろう、1913年5月3日 -… 高橋 浩一郎(たかはし こういちろう、1913年5月3日 - 1991年8月21日)は、日本の気象学者。理学博士(東京帝国大学・論文博士・1948年)(学位論文「外插法に基く量的天気予報の研究」)。 東京市下谷区生まれ。父は医師で随筆家の高橋毅一郎。旧制東京高等学校を経て、1936年東京帝国大学理学部物理学科卒業、中央気象台に入る。1948年「外插法に基く量的天気予報の研究」で東京帝国大学より理学博士の学位を取得。気象研究所予報研究部長、札幌管区気象台長、気象庁予報部長、気象庁長官、筑波大学教授、1977年定年退官。日本気象協会副会長。1969年藤原賞受賞。
岡上 鈴江(おかのうえ すずえ、1913年5月3日 - 20… 岡上 鈴江(おかのうえ すずえ、1913年5月3日 - 2011年1月27日)は、日本の児童文学者・翻訳家。 小川未明の次女として東京に生まれる。日本女子大学英文学科卒。外務省勤務ののち、児童文学の再話・翻訳などの著述生活に入る。日本児童文芸家協会顧問。 「日本近代童話の父」と讃えられた未明の没後30周年を記念し、1991年に小川未明文学賞が創設された際には小川未明文学賞委員会会長に就任。以来、理想と現実の問題に真摯に取り組む児童文学作家を世に送り出してきた。未明の精神である「誠実な人間愛と強靭な正義感」を育むよう、その生涯を通して子供たちにエールを送り続けた。 2011年1月27日、心筋梗塞のため東京都杉並区の自宅で死去。
池田 恒雄(いけだ つねお、1911年〈明治44年〉5月3日… 池田 恒雄(いけだ つねお、1911年〈明治44年〉5月3日 - 2002年〈平成14年〉2月9日)は、日本のスポーツを中心としたジャーナリスト、出版社経営者。ベースボール・マガジン社(以下、BBM)の創立者。社長・会長を歴任。 相撲評論家の池田雅雄は弟。工藤写真館が実家の妻とは離婚。作家の工藤美代子、BBM2代目社長の池田郁雄、3代目社長の池田哲雄(三男)、翻訳家の池田晶子は実子。スキー選手の猪谷千春は元娘婿。元産経新聞記者でジャーナリストの猪谷千香は孫。英文学者の池田雅之は甥。 新潟県北魚沼郡小出町(現・魚沼市)出身。旧制・新潟県立小千谷中学校を経て、早稲田大学文学部を卒業。大学在学中の1931年に雑誌「野球界」の編集に携わり、雑誌編纂や野球の魅力にとりつかれていく。
赤羽 末吉(あかば すえきち 、1910年5月3日 - 19… 赤羽 末吉(あかば すえきち 、1910年5月3日 - 1990年6月8日 )は、日本の舞台美術作家、絵本画家、絵本作家。
川口 敏男(かわぐち としお、1910年(明治43年)5月3… 川口 敏男(かわぐち としお、1910年(明治43年)5月3日 - 1989年(平成元年)7月16日)は日本の詩人。 1910年(明治43年)5月3日に兵庫県で生まれる。1942年(昭和17年)に法政大学文学部英文学科を卒業する。 17歳ごろから詩作を始め、百田宗治に師事して『椎の木』の同人となる。1935年(昭和10年)に『木欒』を主宰し、1937年(昭和12年)に阪本越郎らと『純粋詩』を創刊する。 1989年(平成元年)7月16日に死去、79歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
中江 良夫(なかえ よしお、1910年5月3日 - 198… 中江 良夫(なかえ よしお、1910年5月3日 - 1986年1月8日)は、日本の劇作家、脚本家である。 1910年(明治43年)5月3日、北海道に中江吉雄として生まれる。弟に喜劇人の佐山俊二がいる。登別市の旧制・尋常小学校を卒業し、札幌郵便局(現在の札幌中央郵便局)に就職したが、その後上京した。 さまざまな職業を経て、1940年(昭和15年)東京・新宿のムーランルージュ新宿座文芸部に入る。おなじころにNHKでラジオドラマを手がけ、中江の『かし家』が1942年(昭和17年)に発行された『放送劇名作選』(日本放送協会編、日本放送出版協会)に収録された。 1945年(昭和20年)の第二次世界大戦後、ムーランルージュで社会風俗劇『生活の河』、『にしん場』などを発表した。
吉原 貞敏(よしはら さだとし、1909年5月3日 - 19… 吉原 貞敏(よしはら さだとし、1909年5月3日 - 1995年9月17日)は、日本の実業家、馬主。広島県向島(現・尾道市)出身。東京鐵鋼創業者である。東京鐵鋼現社長で、馬主の吉原毎文は長男。 祖父は広島県向島の八幡神社の神官で、祖父まで137代を数える家系。父・吉原敏(1885-1962)が明治大学在学中から清浦奎吾に私淑し卒業後、清浦の秘書として仕えたあと、日本兵器製造の東京支社長などを経て、長男にあたる貞敏とともに1940年に大和製鉄を買収して同社を名称変更したものが東京鐵鋼の創業となる。貞敏は明治大学商学部を1932年に中退し、飛島組に入社。1937年に有明鉄工所、1938年に高級鋳鉄研究所を設立した後、高級鋳鉄の生産を目指して父とともに東京鐵鋼を創業。
山内 逸三(やまうち いつぞう、1908年5月3日 - 19… 山内 逸三(やまうち いつぞう、1908年5月3日 - 1992年)は、岐阜県土岐郡笠原町(現多治見市)出身の窯業技術者。日本最大のモザイクタイル産地である笠原町におけるモザイクタイルの先駆者である。 1908年(明治41年)5月3日に岐阜県土岐郡笠原町(現多治見市)窯区に生まれ、笠原尋常高等小学校(現多治見市立笠原小学校)を卒業した。1924年(大正13年)3月に土岐窯業学校(現岐阜県立多治見工業高等学校)を卒業すると、15歳で京都市立陶磁器講習所(後の国立陶磁器試験所)に伝習生として入所し、近代窯業やタイルの製造技術を学んだ。京都市立陶磁器講習所では陶芸家の宇野仁松に注目され、試験所の試作品を焼成する工場に雇われた。
山城 章(やましろ あきら、1908年5月3日 - 1993… 山城 章(やましろ あきら、1908年5月3日 - 1993年2月3日)は、日本の経営学者。一橋大学・創価大学名誉教授。 鳥取県日野郡阿毘縁村(現・日南町)に生まれる。1927年島根県立商業学校(現・島根県立松江商業高等学校)卒、1930年高松高等商業学校(現・香川大学経済学部)卒、1933年東京商科大学(現・一橋大学)卒。増地庸治郎の指導を受けた。1961年「現代企業の経営学的研究」で一橋大学より商学博士の学位を取得。横浜市立横浜商業専門学校(現・横浜市立大学)教授、東京商科大学教授、1949年一橋大学助教授、1952年教授。1972年定年退官、名誉教授、東洋大学経済学部教授、1978年創価大学経営学部教授、のち名誉教授。
菊池 一雄(きくち かずお、1908年(明治41年)5月3日… 菊池 一雄(きくち かずお、1908年(明治41年)5月3日 - 1985年(昭和60年)4月30日)は、日本の彫刻家。第1回毎日芸術賞を受賞。 菊池契月の長男として、京都市に生まれる。1926年(大正15年)に上京し、第一高等学校で藤川勇造から彫刻を学んだ。卒業後、1929年(昭和4年)に創設されたばかりの二科会の彫刻科に早川巍一郎らと共に所属し、塑像を制作する。後の1932年(昭和7年)に東京帝国大学文学部に入学し、在学中に自身の作品が初めて入選された。 卒業後の、1936年(昭和11年)留学のためフランスに渡り、シャルル・デスピオに師事する。1939年(昭和14年)に帰国し、2年後の1941年(昭和16年)に新制作派協会員の一員となった。
南 政善(みなみ まさよし 1908年5月3日 - 1976… 南 政善(みなみ まさよし 1908年5月3日 - 1976年4月28日)は、日本の洋画家。人物画を得意とした。 1908年(明治41年)5月3日、石川県羽咋郡志加浦村川尻(現・志賀町川尻)に生まれる。1935年(昭和10年)、東京美術学校油画科卒業。在学中には藤島武二に師事し、卒業の年に第二部会に出品して以降、官展、光風会展などに出品。1939年(昭和14年)の文展では「赤いチョッキ」で特選を受賞する。 第二次世界大戦中は中国への取材旅行を通じて戦争画も手掛けるようになり、1942年(昭和17年)の第二回聖戦美術展では「砲列布置」で陸軍大臣賞、「輸送船団」で海軍大臣賞を受賞した。 戦後は光風会の同志で交流のあった朝井閑右衛門、井手宣通、伊藤悌三、大河内信敬、須田剋太らとともに新樹会を創立。
森 荘已池(もり そういち、1907年〈明治40年〉5月3日… 森 荘已池(もり そういち、1907年〈明治40年〉5月3日 - 1999年〈平成11年〉3月13日)は、日本の作家。 岩手県盛岡市出身。本名:森 佐一(もり さいち)。旧制盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)、東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語科中退。岩手日報記者をへて、文筆業へ。岩手県在住で最初の直木賞作家。宮沢賢治と深い親交があり、賢治作品や賢治に関する文章を多く残している。 妹の夫である大村次信(写真家大村次郷、考古学者大村幸弘の父)は、盛岡藩で火業師(砲術師)をつとめ、エトロフ島事件に遭遇しロシア人の捕虜となった大村治五平の子孫にあたる。その縁から、大村家で門外不出の書として伝えられていた治五平の手記『私残記』を託され、1943年6月に現代語訳と解説をつけて大和書店より翻刻出版した。
大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年〈明治40年〉5月3… 大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年〈明治40年〉5月3日 - 1996年〈平成8年〉7月9日)は、日本の経済史学者。東京大学名誉教授。専攻は英国経済史で、西洋諸国における近代資本主義、近代市民社会の研究で知られ、マックス・ウェーバーの社会学とカール・マルクスの唯物史観論の方法を用いて構築した大塚史学は国際的評価を受けた。 高柳暁と井手久登は娘婿。 1907年京都府生まれ。京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)卒業後、旧制第三高等学校入学。このとき、片足を負傷し、後に切断することになる。1930年、東京帝国大学経済学部卒業。大学時代は本位田祥男や内村鑑三に師事した。法政大学非常勤講師(1933年)、同大助教授(1935年)、同大教授(1938年)、東京帝大経済学部助教授(1939年)を経て、1947年同大学教授、1968年から同大学名誉教授。
藤木 邦彦(ふじき くにひこ、1907年5月3日- 1993… 藤木 邦彦(ふじき くにひこ、1907年5月3日- 1993年5月6日)は、日本の日本史学者。
野上 俊静(のがみ しゅんじょう、1907年5月3日 - 1… 野上 俊静(のがみ しゅんじょう、1907年5月3日 - 1994年10月7日)は、日本の仏教学者。大谷大学教授・同学長を歴任。勲三等瑞宝章受章。 1907年、福岡県生まれ。大谷大学文学部史学科を卒業。大谷大学教授を経て、1967年から1969年まで第18代大谷大学学長を務めた。 専門は中国仏教史(遼・金・元の征服王朝時代)。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
磐瀬 太郎(いわせ たろう、1906年5月3日 - 1970… 磐瀬 太郎(いわせ たろう、1906年5月3日 - 1970年2月28日)は、日本の蝶学の研究者・愛好者・アマチュア研究の指導者。 東京都文京区出身。日本鱗翅学会会長(1967-70年)。妻は浜口吉右衛門長女文子。従姉妹に童謡歌手の平山美代子。妻の従姉妹に嵯峨浩がいる。 1906年、文京区駒込西片町(現・文京区西片)に東京帝国大学名誉教授、宮内庁御用掛侍医、医学博士磐瀬雄一の長男として生まれる。1919年東京高等師範学校付属小学校を卒業。同付属中学を卒業。父雄一より標本、採取道具等を譲り受け、東京谷中墓地等で蝶の採取を経験する。 中学在学中の1921年、初めての論文「アゲハ蝶類の草食及び食物に就いて」を「昆虫世界」(第25号)に発表。
多屋 頼俊(たや らいしゅん、1902年5月3日 - 199… 多屋 頼俊(たや らいしゅん、1902年5月3日 - 1990年7月13日)は、日本の国文学者。仏教文学会主宰。大谷大学研究科修了、京都大学委託研究生。 仏教的な見地から『源氏物語』を研究し、「源氏物語の思想」として世に問う。和讃の定義を初めてした学者で、現在までこの定義は生きている[要出典]。真宗の僧として最高の学階講師に任じられた。 ※< >は研究誌・専門雑誌を示す 『源氏物語』の解釈として定説になっていた光源氏の須磨への引退は、《「朧月夜尚侍との関係の露見」と「藤壺中宮との密通による自責の念》であるということに対し、「宿世の因縁」と「もののけ」が主原因とした。テキストを正確に読むという手法を尊重し、現代の倫理観で全て処理するというのではなく、『源氏物語』制作時代の思想を先に解明するという多屋博士独特の研究法が高く評価された。
今井 はつ(いまい はつ、1901年(明治34年)5月3日 … 今井 はつ(いまい はつ、1901年(明治34年)5月3日 – 1971年(昭和46年)4月6日)は、日本初の女性国会議員の一人。 1901年、福井県大野郡勝山町(現在の勝山市)に出生。私立水田高等技芸学校卒。結婚後四国に渡り、高等小学校の代用教員や新聞記者をした。その後、上京し、裁縫塾を開き、戦災で故郷の福井に戻った。 男女普通選挙制度が採用されて初の選挙である1946年の第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から立候補し、日本初の女性国会議員の一人となった。しかし、当選後、大阪府立清水谷高女中退を卒業としていた学歴詐称が発覚、書類送検となった。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙で福井県(全県1区)から日本自由党で立候補したが落選した。
森 治樹(もり はるき、明治33年(1900年)5月3日 -… 森 治樹(もり はるき、明治33年(1900年)5月3日 - 平成6年(1994年)11月4日)は日本の実業家。元資生堂社長。幼名治。
加賀 二郎(かが じろう、1900年〈明治33年〉5月3日 … 加賀 二郎(かが じろう、1900年〈明治33年〉5月3日 - 1962年〈昭和37年〉4月24日)は、日本の実業家。松竹常務。歌舞伎座専務。衆議院議員加賀卯之吉の息子。陸上競技選手加賀一郎の弟。女優加賀まりこの伯父。テレビプロデューサー加賀義二の父。 大阪府大阪市生まれ。加賀卯之吉の二男。1926年、明治大学商科を卒業。ダイヤモンド記者となる。日活常務、大映監査役などを経て、松竹常務、監査役などを歴任。 1949年、ニューセンチュリー副社長、歌舞伎座専務となり翌年にニューセンチュリー取締役に就く。 趣味は野球、読書、運動、音楽。宗教は真宗。住所は東京都世田谷区若林町、港区赤坂新坂町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
徳川 達成(とくがわ さとなり、1899年(明治32年)5月… 徳川 達成(とくがわ さとなり、1899年(明治32年)5月3日 - 1961年(昭和36年)3月28日)は、田安徳川家の第10代当主。父は徳川達孝。母は徳川知子。妻は戸田氏秀の次女・元子。 子に宗英(第11代当主)、雅子(德川義恭夫人、後に渡邊正廣夫人)、宗賢(言語学者)、宗廣(元通産省官僚、元国土庁官房審議官)、文子(溝口道郎夫人)、松平宗紀(越前松平家当主)がいる。伯父の家達は徳川慶喜の養子になって徳川宗家を継いだ。 東京で生まれ、1920年(大正9年)3月、旧制学習院高等科を卒業。 1923年(大正12年)に東京帝国大学工学部造兵科を卒業して海軍に入り、造兵中尉となる。1927年(昭和2年)、欧米各国に留学。
安藤 孝三(あんどう こうぞう、1898年(明治31年)5月… 安藤 孝三(あんどう こうぞう、1898年(明治31年)5月3日 - 1985年(昭和60年)2月10日)は、日本の政治家、操縦士。衆議院議員(2期)。 愛知県知多郡岡田村(岡田町、知多町を経て現知多市)出身。1916年、名古屋港上空で米飛行士アート・スミスの曲芸飛行を見て航空界を志す。陸軍所沢飛行第四大隊に入り、一等飛行機操縦士となる。陸軍を除隊後、知多郡八幡村(現・知多市)に水上飛行場を開設する。その後、名古屋二見間の定期航空路や和歌山新宮間の航空路を開設する。その一方で1924年に安藤飛行機研究所を開き、所長となり、操縦士、機関士の育成などを行った。 1937年の第20回衆議院議員総選挙では旧愛知2区(戦前)から無所属で立候補して初当選。
大河内 了悟(おおこうち りょうご、1897年5月3日 - … 大河内 了悟(おおこうち りょうご、1897年5月3日 - 1976年10月13日)は、愛知県幡豆郡平坂村(現・西尾市)出身の浄土真宗僧侶・仏教学者。真宗大谷大学教授、岡崎女子短期大学教授。号は虚洞。 1897年(明治30年)5月3日、愛知県幡豆郡平坂村(現・西尾市)の無量寿寺に生まれた。父は無量寿寺第24世住職の了雲。 1926年(大正15年)3月、真宗大谷大学研究科を卒業し、擬講となった。その後無量寿寺の第25世住職となった。1927年(昭和2年)3月には真宗大谷大学の教授に就任した。 1957年(昭和32年)7月、真宗大谷派嗣講師の学階を受けた。1967年(昭和42年)7月、安居本講を命じられて「顕浄土真実行文類ニ」を講じた。
多 忠亮(おおの ただすけ、1895年(明治28年)5月3日… 多 忠亮(おおの ただすけ、1895年(明治28年)5月3日 - 1929年(昭和4年)12月3日)は、大正期のヴァイオリン奏者・作曲家。
林 恵海(はやし めぐみ、男性、1895年5月3日 - 19… 林 恵海(はやし めぐみ、男性、1895年5月3日 - 1985年1月22日)は、日本の社会学者。東京大学名誉教授。 1985年生まれ。第五高等学校卒業し、東京帝国大学文学部社会学科に進んだ。1921年、東京帝国大学文学部社会学科を卒業。 卒業後は母校である東京帝国大学文学部助手となる。1939年8月、東京帝国大学文学部助教授に就任し、社会学を講じた。戦後の1948年、東京大学文学部教授に昇進。戸田貞三退官後の東京大学文学部社会学科主任教授を務めた。1956年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は日本女子大学教授として教鞭をとった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
林要(はやし かなめ、1894年5月3日-1991年12月2… 林要(はやし かなめ、1894年5月3日-1991年12月26日)は、日本のマルクス経済学者。 山口県出身。1920年東京帝国大学法学部卒、大原社会問題研究所助手となり『日本労働年鑑』の編集にあたる。1923年同志社大学教授。東大新人会で活動以来のマルクス主義者で、そのため1936年、同僚の野村重臣から赤化教授と糾弾されて大学を追われ、38年には執筆も禁止される。 戦後は愛知大学教授、関東学院大学教授。1979年退職。妻は林てる。
池田 宇右衛門(いけだ うえもん、1894年〈明治27年〉5… 池田 宇右衛門(いけだ うえもん、1894年〈明治27年〉5月3日 - 1960年〈昭和35年〉1月5日)は、日本の政治家。参議院議員。 長野県上水内郡三輪村(現長野市)生まれ。同郡上松農業会評議員を経て、長野市農会総代、副会長から会長となった。1928年(昭和3年)長野市会議員、1939年(昭和14年)長野県会議員となる。農村青年教育に力を入れ、中年青年代表者の指導員設置を提唱し、女子専門学校や市道展望道路の開通に尽力した。その他、養蚕組合長、長野県農会常任理事、全国都市農会常任理事、同副会長、長野市、長野県各参事会員、都市計画地方委員、長野県蚕糸会、同園芸協会各副会長、長野県花卉組合連合会、長野市農業協同養蚕組合連合会各会長などを歴任した。
高山 喜六(たかやま きろく、1894年(明治27年)5月3… 高山 喜六(たかやま きろく、1894年(明治27年)5月3日 - 1938年(昭和13年)4月13日は、日本の杖術家。号は武勝。玄洋社の一員でもあった。 福岡県宗像郡勝浦村(現在の福津市)出身 。白石範次郎(重明)より神道夢想流杖術を学んだ。 1928年(昭和3年)大日本武徳会杖術錬士之部 (精)錬士 1929年(昭和4年)福岡市大学通3丁目5の自宅に「福岡道場」を開き、兄弟弟子の清水隆次(克泰)、乙藤市蔵(勝法)らと神道夢想流杖術を指導した。同年5月 「第三十三回武徳祭大演武会」において制剛心照流居合術を演武、同年7月 大日本武徳会捕縄術錬士之部 (精)錬士 1930年(昭和5年)11月 「明治神宮鎮座十周年祭奉納武道形大会」において、神道夢想流杖術五月雨、一達流捕縄術、中和流短剣術、大和流軍用抱火筒術を演武 1933年(昭和8年)5月 「第三十七回武徳祭大演武会」において神道流剣術を演武7月 武道総合雑誌『信義』創刊号に福岡道場師範高山喜六武勝として「一達流捕縄術及び一心流鎖鎌術」の解説を寄稿 1935年(昭和10年)5月 大日本武徳会杖術教士之部 教士 1936年(昭和11年)3月20日 福岡農士学校の卒業式に際し、研究科第三期生、本科第四期生に対し高山師範より武道証をそれぞれ授与される。
3代 諸橋 久太郎(もろはし きゅうたろう、1893年(明治… 3代 諸橋 久太郎(もろはし きゅうたろう、1893年(明治26年)5月3日 - 1973年(昭和48年)2月12日)は、昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。福島県平市長。旧名・守次。位階は正五位。勲三等旭日中綬章。 福島県磐前郡平町(石城郡平町、平市を経て現いわき市)の金物商、釜屋商店の2代諸橋久太郎の嗣子として生まれる。1916年(大正5年)早稲田大学政治経済科を卒業。1930年(昭和5年)3代久太郎を襲名した。1931年(昭和6年)石城郡農会長に就任したのを皮切りに、平市農会長、信用組合平庶民金庫理事長、諸橋合名会社代表、磐城水産工業、片倉磐城製糸、植田水力電気、福島県農工銀行、相馬塩業などの重役を歴任した。
呉 文炳(くれ ふみあき、1890年(明治23年)5月3日 … 呉 文炳(くれ ふみあき、1890年(明治23年)5月3日 - 1981年(昭和56年)11月18日)は、日本の経済学者、経済学博士(慶應義塾大学)。日本大学第4代総長、日本大学理事長、貴族院議員。広島県呉市名誉市民。 東京府東京市麹町区で、統計学者の呉文聰・やす夫妻の四男として生まれる。麹町尋常高等小学校(現・千代田区立麹町小学校)を卒業。1913年(大正2年)に慶應義塾大学部法律科を卒業すると母校の予科講師・三菱銀行勤務を経て、渡米してシカゴ大学とコロンビア大学へ留学。 帰国した後、立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)教授に就任し、信託業や信託法を講義したが、これは未だ信託業が日本において重要視されていない時代に先駆けて開設された講座であった。
中島 重(なかじま しげる、1888年(明治21年)5月3日… 中島 重(なかじま しげる、1888年(明治21年)5月3日 - 1946年(昭和21年)5月29日)は、日本の法学者、社会学者、キリスト教思想家。 法学上の専門は憲法学(美濃部達吉門下)で、社会学上の専門は国家論。元同志社大学および関西学院大学の教授。 日本の政治学及び社会学に多元的国家論をもたらし、また当時のキリスト教思想に対して賀川豊彦と共に社会的基督教の論を唱えた一人として知られる。 1888年、岡山県上房郡松山村広瀬(現在の高梁市松山字新田。備中広瀬駅付近)の、大高檀紙製造家を祖に持つ柳井重宜の三男として生まれる。 三男という立場から父の弟(叔父)の養子先にして獣医家であった中島家へと養子に出された。
加藤 武雄(かとう たけお、1888年〈明治21年〉5月3日… 加藤 武雄(かとう たけお、1888年〈明治21年〉5月3日 - 1956年〈昭和31年〉9月1日)は、大正・昭和期の小説家。号は冬海。建築家の丹下健三は三女の婿。門人に佐藤愛子がいる。 神奈川県津久井郡川尻村(現・相模原市緑区)生まれ。高等小学校卒。川尻尋常小学校(現・相模原市立川尻小学校)で訓導(準教員)を務める。親戚に八木重吉がおり、川尻尋常小学校では教え子でもあった。 『文章世界』・『中学世界』誌等への投書家として次第に名を知られ、明治時代末から佐藤義亮に接近。1911年、新潮社に入社し、編集者として『文章倶楽部』などを担当した。 1916年に加藤武雄名義の処女作「土を離れて」を『新潮』誌に発表。