降旗 節雄(ふりはた せつお、1930年6月4日 - 200… 降旗 節雄(ふりはた せつお、1930年6月4日 - 2009年1月28日)は、日本の経済学者。筑波大学名誉教授、帝京大学名誉教授。経済学博士(北海道大学・1966年3月)。従四位瑞宝小綬章。 長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)出身。松本高等学校文科乙類1年次修了の後、学制改革により信州大学文理学部卒業。1960年、東京大学大学院社会科学研究科博士課程退学。その後、1961年、北海道大学助手、1962年同講師、1963年同助教授、1970年同教授、1974年筑波大学教授、1983年同社会学類長を経て、1984年に大島清に請われて帝京大学経済学部教授に就任。 帝京大学に移籍したのは、帝京大学で大学院経済学研究科博士課程を作る作業が進んでいたが、その際主要科目については大学院教員として適格な「マル合教員」を集めなければならなかった。
吉田 純(よしだ じゅん、1929年6月4日 - )は、日本… 吉田 純(よしだ じゅん、1929年6月4日 - )は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。 岐阜県出身。1953年に京都大学法学部を卒業し、同年4月に日鉄鉱業に入社。1983年6月に取締役に就任し、1987年6月に常務、1990年6月に専務、1992年6月に副社長を経て、1993年6月に社長に就任。1999年6月に会長に就任。
長尾 みのる(ながお みのる、本名:長尾 実、1929年6月… 長尾 みのる(ながお みのる、本名:長尾 実、1929年6月4日 - 2016年10月6日)は、イラストレーター、装丁家。 東京都中央区新富町生まれ。1950年、早稲田大学(旧)工芸美術研究所卒業。服飾専門校(西洋服装史)講師をしながら、舞台美術の勉強をする。1953年、無銭の世界一周旅行に出発(1956年帰国)。 1959年、小説挿画を描きだす。1961年、永六輔とのコンビの「アサヒグラフ」での連載が初の新語「イラスト」使用となり、日本初のイラストレーターを名乗る。1976年、講談社出版文化賞を受賞。 1997年~1998年週刊読売で「週読俳句会」企画と俳画を担当。レコード・CDジャケットのイメージ・イラストを1998年までに90点制作。
田中 健五(たなか けんご、1928年(昭和3年)6月4日 … 田中 健五(たなか けんご、1928年(昭和3年)6月4日 - 2022年(令和4年)5月7日)は、日本のジャーナリスト、編集者、実業家。『諸君!』、『文藝春秋』、『週刊文春』編集長を経て、文藝春秋社長(第7代)。 広島県広島市出身。海軍兵学校教授であり、高松宮宣仁親王に英語を指導したことでも知られる田中酉熊の五男として生まれる。 都立一中から1945年(昭和20年)4月、海軍兵学校に第77期生として入学するも敗戦により退校、旧制東京高校を経て、1953年東京大学文学部独文科を卒業。就職難の時代、たまたま文藝春秋新社(現・文藝春秋)の試験を受け入社。半藤一利は同期生。当時の文藝春秋は社員数100人にも満たない小さな会社だった。
香原 志勢(こうはら ゆきなり、1928年6月4日 - 20… 香原 志勢(こうはら ゆきなり、1928年6月4日 - 2014年11月16日)は、日本の人類学者。立教大学名誉教授。専攻は人類学、比較行動学。 1928年、東京生まれ。旧制麻布中学校を経て、1945年に旧制都立高等学校理科乙類に入学。戦時下の空襲で自宅や母と妹を失った。1948年に東京大学理学部人類学科に入学。人類学教室では、木村邦彦、寺田和夫、埴原和郎らがいた。1951年に卒業し、同大学大学院に進んだ。 1954年、信州大学医学部第二解剖教室助手に採用された。1956年に講師、1960年に助教授昇格。鈴木誠の下で解剖学実習などにあたるとともに、信州大学在職中には長野県南佐久郡北相木村の栃原岩陰遺跡の発掘に参加した。
室木 洋一(むろき よういち、1927年6月4日 - 200… 室木 洋一(むろき よういち、1927年6月4日 - 2003年12月8日)は日本の武道家であり、教育者。戦後、北海道に空手を普及した先駆者。 1980年(昭和55年)の和道流、和道会の分裂騒動においては全日本空手道連盟和道会へ所属。北海道大学退官後は、空手道関連の役職から退き、後任に道を譲る。生涯個人の道場を持たず、流派を問わずして空手振興に尽力した。晩年は、合気柔術の大東流合気柔術幸道会の顧問を務め、空手道では全日本清心会(清心流空手道)技術顧問も務めた。
大野 公男(おおの きみお、1926年(大正15年)6月4日… 大野 公男(おおの きみお、1926年(大正15年)6月4日‐ 2017年(平成29年)7月24日)は、日本の化学者。学位は、理学博士(東京大学)。北海道大学名誉教授・北海道情報大学名誉学長。2004年瑞宝中綬章受章。東京都出身。 父の大野龍太は元大蔵次官、弟の大野正男は弁護士で元最高裁判事、長男の大野英男は物理学者で東北大学総長。 専門は量子化学。原子分子の波動関数などの非経験的計算。 『北海道人物・人材リスト 2004 あ-お』(日外アソシエーツ編集・発行、2003年)p390を参照
吉川 経夫(きっかわ つねお、1924年6月4日 - 200… 吉川 経夫(きっかわ つねお、1924年6月4日 - 2006年8月31日)は、日本の法学者。法政大学名誉教授(刑法)。京都府京都市出身。長男の純は弁護士。弟の進三は同志社大学教授。 刑法学説の位置づけとしては、自由主義的でありながら、法律の権威を守ることも重視する、大場茂馬以来の後期旧派(後期古典派)の系譜に属する。 2006年8月31日19時、膵臓がんのため東京都内の自宅で死去。82歳没。
崇仁親王妃 百合子(たかひとしんのうひ ゆりこ、1923年〈… 崇仁親王妃 百合子(たかひとしんのうひ ゆりこ、1923年〈大正12年〉6月4日 - 2024年〈令和6年〉11月15日)は、日本の皇族、旧華族。大正天皇第4皇子で昭和天皇の弟宮の三笠宮崇仁親王の妃。身位は親王妃。敬称は殿下。勲等は勲一等。お印は桐(きり)。旧名は、高木 百合子(たかぎ ゆりこ)。2023年9月まで皇室会議予備議員。子爵・高木正得第2女子。 東京府東京市赤坂区赤坂青山高樹町(現:東京都港区南青山)の高木子爵邸に華族令嬢として誕生。華族・高木正得子爵の二女。母の邦子は入江為守子爵二女で夫の崇仁親王とは、はとこにあたる。姉に衣子、妹に桃子、小夜子がいる。 1928年(昭和3年)、女子学習院幼稚園に入園。
大山 倍達(おおやま ますたつ、1923年〈大正12年〉6月… 大山 倍達(おおやま ますたつ、1923年〈大正12年〉6月4日 - 1994年〈平成6年〉4月26日)韓国名は崔 倍達(チェ・ベダル、韓国語: 최배달)、民族名は崔 永宜(チェ・ヨンイ、チェ・ヨンウィ、韓国語: 최영의)は、空手家、極真会館創始者、国際空手道連盟総裁。段位は十段。別名はマス大山。 1970年代に『週刊少年マガジン』に連載された劇画『空手バカ一代』での主人公であり国内外に極真カラテの普及に努めた。 妻は大山智弥子、三女は大山喜久子。 父・崔承玄(チェ・スンヒョン、韓国語: 최승현)と母・金芙蓉(キム・ブヨン、韓国語: 김부용)との間に、6男1女の第4子として日本領朝鮮全羅北道金堤市で生まれた。
中嶋 貞雄(なかじま さだお、1923年6月4日 - 200… 中嶋 貞雄(なかじま さだお、1923年6月4日 - 2008年12月14日)は、日本の物理学者。 静岡県生まれ。旧制沼津中学校卒。東京大学理学部物理学科卒。 名古屋大学教授を経て、東京大学物性研究所所長となる。退官後、東海大学教授、東京大学名誉教授。 彼の研究が超伝導のBCS理論に引用されるなど、超伝導、液体ヘリウムなど低温物理学の権威である。また線形応答理論でも貢献した。 1987年には、高温超伝導が発見された直後、京都でのLT18低温物理学国際会議の委員長を務めた。 1953年、名古屋大学の助教授であった中嶋は、京都で開催された国際理論物理学会の超伝導分科会で、超伝導理論を発表した(中嶋本人が講演をしたわけではない。
北川 晃二(きたがわ こうじ、1920年6月4日 - 199… 北川 晃二(きたがわ こうじ、1920年6月4日 - 1994年2月27日)は、日本の編集者、ジャーナリスト、小説家。フクニチ新聞社社長。 福岡県添田町出身。 1938年福岡県中学修猷館を経て、1943年西南学院高等部英文科を卒業。 北京日本大使館調査課報道班に勤務。応召によって北支派遣軍第63師団から久留米師団に転属、同地で終戦を迎えた。 復員後、福岡市の図書出版惇信堂に入社し、南風書房を設立。1946年6月、真鍋呉夫らと文芸誌「午前」を創刊。創刊号に掲載された小説「逃亡」が火野葦平に賞賛され、第1回九州小説賞を受賞。編集者として檀一雄、三島由紀夫らの寄稿を得るなど手腕を発揮する一方、新鋭作家として注目され東京の文芸誌「群像」などに作品を発表した。
山根 実(やまね みのる、1919年6月4日 - )は、広島… 山根 実(やまね みのる、1919年6月4日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。
田中 太郎(たなか たろう、1919年(大正8年)6月4日 … 田中 太郎(たなか たろう、1919年(大正8年)6月4日 - 2001年(平成13年)10月9日)は、昭和戦後から平成前期の実業家、政治家。長野県須坂市長。 長野県上高井郡須坂町(現須坂市)で、田中新十郎、田鶴の長男として生まれた。生家は代々須坂藩の御用達を務めた豪商「田中家」。長野中学校(現長野県長野高等学校)を経て、1942年(昭和17年)9月、早稲田大学商学部卒業。翌月に召集され1946年(昭和21年)7月に復員した。 1947年(昭和22年)須坂町議会議員となる。1953年(昭和28年)田中殖産 (有) を設立し社長に就任した。1964年(昭和39年)11月、長野県議会議員となり5期在任し、土木住宅委員長、農政林務委員を務める。
田川 誠一(たがわ せいいち、1918年6月4日 - 200… 田川 誠一(たがわ せいいち、1918年6月4日 - 2009年8月7日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)。新自由クラブ代表(2代)、進歩党代表。元神奈川県議会議員田川誠治の長男。リベラル派、進歩主義派の代表的な政治家だった。 神奈川県横須賀市出身。田川家は大地主の家系。横浜商業学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)を経て、1941年12月慶應義塾大学法学部政治学科卒業。朝日新聞社に入社したが、翌年に陸軍・近衛歩兵第5連隊補充隊(東部第8連隊)に入営した。復員後は朝日新聞社に復職し、通信部及び政経部記者、同社労組委員長等を務める。退社後、松村謙三衆議院議員(元文部大臣)秘書を経て、1960年の第29回衆議院議員総選挙に初当選。
鈴木 秀雄(すずき ひでお、1917年6月4日 - 2015… 鈴木 秀雄(すずき ひでお、1917年6月4日 - 2015年8月21日)は、日本の大蔵官僚。 父・鈴木商店(味の素の前身)第2代社長鈴木忠治と母マスの七男として神奈川県三浦郡葉山村に生まれる。 大蔵入省後まもなく短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、1940年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。1942年3月、主計大尉に進む。1945年5月、海軍主計少佐に昇進して終戦を迎えた。戦後、B級戦犯容疑者として逮捕された。裁判では検事から死刑を求刑され、禁固15年の判決が下る。長い拘禁状態の後、サンフランシスコ講和条約の直前に仮釈放された。この間に公職追放も受けた。 釈放後は大蔵省に復職。
西村 公朝(にしむら こうちょう、1915年(大正4年)6月… 西村 公朝(にしむら こうちょう、1915年(大正4年)6月4日 - 2003年(平成15年)12月2日)は、日本の仏師・仏像修理技師・僧侶・東京芸術大学名誉教授。勲三等瑞宝章。前名:西村利作。位階は従四位。 大正4年(1915年)6月4日、大阪府三島郡富田村(現・高槻市富田町2丁目)に、父・利兵衛と母・ミツの長男として生まれた。 1935年、東京美術学校(現東京芸術大学)に入学。彫刻科木彫部で現代彫刻家を志す。4年生の時に同校の古美術研究旅行で京都・奈良をまわり、法隆寺・夢殿の救世観音に感激。1940年に卒業し、いったんは私立大阪工科学校(旧制)の図画教師となる。 1940年頃、学生時代の縁で法隆寺に通っていた際、偶然日本美術院(第二部)初代院長である新納忠之介も同寺を訪ねており、後進の明珍恒男が亡くなったばかりで、「美大出で誰か仏像の好きなやつはおらんか」と法隆寺の僧に尋ねると、「丁度相応しい者が金堂におります」と紹介され、新納から美術院への入所の誘いを受けた。
森本 薫(もりもと かおる、1912年(明治45年)6月4日… 森本 薫(もりもと かおる、1912年(明治45年)6月4日 - 1946年(昭和21年)10月6日)は、日本の劇作家、演出家、翻訳家。代表作として『女の一生』や『華々しき一族』などがある。 1912年(明治45年)、大阪府西成郡中津町下三番(現・大阪市北区)に生まれる。中津第二尋常小学校、旧制北野中学校を経て第三高等学校文科へと進んだ。三高在学中は、ノエル・カワードやサマセット・モームなどのヨーロッパ近代戯曲を読みふけて過ごし、1932年(昭和7年)には処女作となる一幕ものの戯曲『ダムにて』を発表している。三高卒業後、京都帝国大学文学部英文科に進んだ森本は、入学から時を経ずして胸部疾患のために療養生活を余儀なくされた。
白勢 正衛(しろせ まさえ、1912年〈明治45年〉6月4日… 白勢 正衛(しろせ まさえ、1912年〈明治45年〉6月4日 - 没年不明)は、日本の農民、資産家、大地主。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡金塚村(現・新発田市金塚)出身。白勢友彌の長男。白勢文三郎の甥。1915年、家督を相続した。農業を営み、新潟県下の大地主であった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
島岡 吉郎(しまおか きちろう、1911年6月4日 - 19… 島岡 吉郎(しまおか きちろう、1911年6月4日 - 1989年4月11日)は、明治大学硬式野球部監督。 ラグビー部の北島忠治監督と共に、明治大学の名物監督として知られた人物。愛称は御大(島岡御大)。東京六大学リーグ戦優勝15回は、監督として歴代1位。明大野球部員からは東京六大学野球の神様と称された。 長野県下伊那郡市田村(現・高森町)出身。4歳時に母の花江が結核にて死去。父の宮次郎は朝鮮鉄道の技師として国外で働いていたため、父方の祖母かね代に育てられた(両親不在による「肉親の情への飢え」「持って行き場のない寂しさと悲しさ」が島岡の人格を作ったと教え子の近藤唯之は見解を述べている。)。 松本商業(現松商学園)から捕手として誘いがあったが、朝鮮で働いていた鉄道技師の父から東京に出て大学に入学するよう勧められ、父から学資の仕送りを受け、12歳で単身上京。
大橋 和孝(おおはし かずたか、1910年(明治43年)6月… 大橋 和孝(おおはし かずたか、1910年(明治43年)6月4日 - 1986年(昭和61年)7月7日)は、昭和期の医師、政治家。参議院議員、京都大橋総合病院長、医学博士。 愛知県名古屋市で生まれる。1937年(昭和12年)京都府立医科大学を卒業した。同大副手、同助手を務め、その後に開業した。 京都府保険医協会理事、京都府医師会理事、同皮フ科医会理事、同結核医会理事、同労災医会理事、同公益法人医療機関協会理事、京都市会議員などを務めた。 1964年(昭和39年)6月、京都教育大学附属桃山小学校などに書架らを寄付により1966年(昭和41年)10月19日紺綬褒章受章。 1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙に京都府地方区から日本社会党公認で立候補して当選し、1971年(昭和46年)6月の第9回通常選挙でも再選され、参議院議員を連続2期務めた。
真木 小太郎(まき こたろう、1909年6月4日 - 198… 真木 小太郎(まき こたろう、1909年6月4日 - 1984年7月28日)は、日本の舞台美術家、衣裳デザイナーである。日本舞台テレビ美術家協会会長を歴任した。 1909年(明治42年)6月4日、茨城県に生まれる。1927年に水戸中学卒業。 東京に移り、旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学する。 1935年(昭和10年)、東京宝塚劇場(現在の東宝)に入社、1936年(昭和11年)に同社が合併した日本劇場では、衣裳も装置も手がけている。1944年に妻との間に息子・マイク真木をもうける。 第二次世界大戦後、東宝を退社してフリーランスとなった。1958年(昭和33年)、大映東京撮影所が製作した増村保造監督の『巨人と玩具』や、1959年(昭和34年)、東宝が製作・配給した山本嘉次郎監督の『孫悟空』等の衣裳をデザイン・構成を手がけた。
申 石艸(シン・ソクチョ、朝鮮語: 신석초、1909年6月4… 申 石艸(シン・ソクチョ、朝鮮語: 신석초、1909年6月4日 - 1975年3月8日)は、大韓民国の詩人、ジャーナリスト、ソラボル芸術大学校(現・中央大学校)の教授。 本名は申 応植(シン・ウンシク、신응식/申應植)。本貫は高霊申氏。 大韓帝国忠清南道舒川で下級郷班の家に1男3女の中の末子として生まれた。1929年に京城府で詩人として文壇に登場し、1931年には渡日し留学生として法政大学哲学科で学んだが、1935年に病気により中退し帰国した。鄭寅普の紹介で李陸史と知り合い、『翡翠断章』、『パラチュム序詞』、『ヘビ』、『剣舞娘』、『芭蕉』などの詩を李陸史を通して子午線、詩学、文章などに発表した。
小杉 一雄(こすぎ かずお、1908年6月4日 - 1998… 小杉 一雄(こすぎ かずお、1908年6月4日 - 1998年10月22日)は、日本の美術史学者。早稲田大学名誉教授。専門は中国美術史。 当時は洋画家で、後に日本画を多く描いた小杉放庵の長男として東京市本郷区千駄木町に生まれる。1927年に第一早稲田高等学院に入学した後は一貫して早稲田大学系列の学校に在籍し、1929年に早稲田大学文学部史学科東洋史学専攻に入学。大学院進学後は父とも親交があった会津八一の指導を受けた。1945年に早稲田大学講師、1949年には同大学文学部教授となり、美術史を担当。同年設立の美術史学会では10人が加わった発起人のうちの一人となった。1957年に「中国美術史に於ける伝統の研究」で文学博士号を取得。
渡辺 直己(わたなべ なおき、1908年(明治41年)6月4… 渡辺 直己(わたなべ なおき、1908年(明治41年)6月4日 - 1939年(昭和14年)8月21日)は、広島県呉市出身の歌人。 呉一中(現:広島県立呉三津田高等学校)、広島高等師範学校(現:広島大学)卒業。芥川龍之介に影響を受けた文学青年で、マルクス主義にも関心を持った。異父兄・高橋彰三の影響で短歌を始める。1935年(昭和10年)、伊藤左千夫を中心にして1908年(明治41年)に作られた短歌誌『アララギ』に入会し、土屋文明に師事した。しかし当初の渡辺の作品は牧歌的で、島木赤彦や文明の模倣でしかなかった。 呉市立高等女学校(現:呉三津田高等学校)の国語教師として奉職中だった1937年(昭和12年)、日中戦争に応召し、中国に第五師団歩兵第十一連隊陸軍少尉として送られる。
田淵 行男(たぶち ゆきお、1905年6月4日 - 1989… 田淵 行男(たぶち ゆきお、1905年6月4日 - 1989年5月30日)は、山岳写真家。高山蝶研究家。 「すべての昆虫少年にとってのヒーロー」。 鳥取県日野郡黒坂村(現日野町)に父吉弥、母阿又の次男(第四子)として誕生。 1909年 9月2日、母阿又、死去。1911年 3月、父吉弥、溝口町分署長になる。4月、行男、日野郡溝口尋常小学校入学。5月31日、父吉弥、足立よしと再婚。 1918年 3月、岩美郡岩美尋常小学校卒業。4月、境高等小学校入学。5月21日、父吉弥死去。その後、継母よしが実家に帰り、6月、台湾の台北市に住む実母の親戚一家に預けられる。 1919年 継母よし死去。叔母スイらと共に台湾から帰国し、東京滝野川に居住。
桜井 三男 (櫻井、さくらい みつお 1905年〈明治38年… 桜井 三男 (櫻井、さくらい みつお 1905年〈明治38年〉6月4日 - 1967年〈昭和42年〉7月17日)は、東京都立川市長(3期)。位階は正六位。勲五等双光旭日章。 1905年、東京府北多摩郡立川村(立川町を経て、現在の東京都立川市)生まれ。1933年慶應義塾高等部卒。翌年南満州鉄道に入り、撫順炭鉱総務部に配属され、文書課長となる。 その後、帰国し、東京復興産業総務部長を経て、桜井電機(株)社長、立川市議会議員になり、同議長になる。 1959年の立川市長選挙に立候補し、市長に就任する。在任中に砂川町を合併した。また、交通安全に力を入れ、交通安全都市を宣言し、交通安全日の制定、交通相談所の開設などをした。
佐多 忠隆(さた ただたか、1904年6月4日 - 1980… 佐多 忠隆(さた ただたか、1904年6月4日 - 1980年4月23日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 鹿児島県鹿児島市生まれ。同市下荒田町出身。佐多直正の次男として生まれる。後の鹿児島市長平瀬實武は、地元の小学校と学舎の2年先輩。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、1925年旧制第七高等学校造士館文科を卒業。七高時代は佐野博らとともにサークル「鶴鳴会」(かくめいかい)に参加。東大に進学し、新人会で活動。1928年東京帝国大学経済学部卒業。大学卒業後は「中央公論」などの雑誌に評論を書いていたが、1935年内閣調査局(内閣企画院の前身)に入り、次いで第2次近衛内閣のもとで企画院調査官に就任し勝間田清一、和田博雄とともに同政権の「経済新体制」の策定に関与するが、企画院事件により治安維持法違反の嫌疑で検挙、投獄された。
末広 恭雄(すえひろ やすお、1904年 6月4日 - 19… 末広 恭雄(すえひろ やすお、1904年 6月4日 - 1988年7月14日)は、日本の水産学者・随筆家・作曲家。
高桑 純夫(たかくわ すみお、1903年6月4日 - 197… 高桑 純夫(たかくわ すみお、1903年6月4日 - 1979年5月21日)は、日本の哲学者、思想評論家。 東京女子医科大学教授、愛知大学教授を歴任。 奈良県出身。上智大学文学部哲学科卒。1940年陸軍士官学校教授。中世スコラ哲学を研究するが、戦後唯物論哲学に転じ主体性論争で活躍。 1965年原水爆禁止国民会議事務局長。
北脇 昇(きたわき のぼる、1901年6月4日 - 1951… 北脇 昇(きたわき のぼる、1901年6月4日 - 1951年12月18日)は、日本のシュルレアリスムの画家。 愛知県名古屋市出身。父が単身朝鮮半島に渡ったことから、1910年、母親と京都に住む叔父の広瀬満正(元貴族院議員、実業家)の元へ移る。爾来、北脇は死亡するまで京都をほとんど離れなかった。1915年、京都市立銅駝尋常小学校卒業。同年、同志社中学校に入学。1917年、同校を中途退学。 1919年2月、鹿子木孟郎の画塾に入る。1930年4月、津田青楓の画塾に入る。1932年、第19回二科展に初入選。同年9月、京都洋画協会の結成に参加。1933年10月、独立美術京都研究所が開設され、その委員となる。
西村 関一(にしむら せきかづ、1900年6月4日-1979… 西村 関一(にしむら せきかづ、1900年6月4日-1979年8月15日)は、日本の牧師、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(2期)。アムネスティ・インターナショナル日本支部理事長。川北対合衆国事件の時には、減刑嘆願運動の中心的な人物として活動した。 新東京国際空港(現・成田国際空港)の一坪共有地の名義人の1人であった。
柴田 兵一郎(しばた ひょういちろう、1899年(明治32年… 柴田 兵一郎(しばた ひょういちろう、1899年(明治32年)6月4日 - 1976年(昭和51年)3月30日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員、岩手県岩手郡沼宮内町長。岩手町名誉町民。正四位勲二等。 岩手県岩手郡沼宮内町(現岩手町)で、柴田兵右衛門の孫として生まれた。1924年(大正13年)3月、慶應義塾大学経済学部を卒業。1925年(大正14年)に第一銀行に入り、東北銀行初代頭取、盛岡電燈取締役、沼宮内信用組合長、同農会長等のほか、沼宮内町長(1931年5月から3期在任)、盛岡地方裁判所人事調停委員などを務めた。 1939年(昭和14年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、同和会に所属して1946年(昭和21年)4月16日まで在任。
田中 萬一(たなか まんいち/まんいつ、1899年6月4日 … 田中 萬一(たなか まんいち/まんいつ、1899年6月4日 - 1973年6月18日)は、長崎県大村市出身の日本の検察官、弁護士。 1919年、徴兵により久留米師団入営。そのためもあって修学が同年齢より5年ばかり遅れて中央大学専門部法科に入学。1928年、中大専門部法科を卒業してすぐに高等文官試験司法科に合格し、司法省入省。検事任官。一期上の検事に「三羽ガラス」と称されていた、井本臺吉、柳川真文、馬場義続らがいたこともあって、傍流の会社関係の詐欺や横領事犯担当の「経済検事」として目立つことも無かった。 戦後の草創期、東京地検の初代隠退蔵事件捜査部長心得兼任渉外部長(当時 のち初代東京地検特捜部長 1947年11月10日-1948年1月5日)に就任。
坂田 重保(さかた しげやす、1898年(明治31年)6月4… 坂田 重保(さかた しげやす、1898年(明治31年)6月4日 - 1984年(昭和59年)1月6日)は、昭和時代中期~後期の日本の銀行家。親和銀行の頭取を長年務めた。 現在の佐賀県佐賀市諸富町出身。旧制唐津中学校を経てシンガポールにあったアングロ・チャイニーズスクールを卒業後、神戸の鈴木商店に入社。1923年(大正12年)に同社の先輩であった北村徳太郎から招かれ、佐世保商業銀行に移り、為替課長、副支配人を歴任。 1939年9月、佐世保銀行と佐世保商業銀行が合併して、親和銀行が誕生すると、1942年に取締役に選任。常務、専務、副頭取を経て、1960年4月に頭取に就任した。 銀行家には珍しい、豪放磊落で、親分肌の人物であり、北村が政界に転じてからは、46歳の若さで副頭取に就いた坂田が、親和銀行の経営を仕切った。
森村 義行(もりむら よしゆき、1896年(明治29年)6月… 森村 義行(もりむら よしゆき、1896年(明治29年)6月4日 - 1970年(昭和45年)11月3日)は、日本の実業家。学校法人森村学園理事長、財団法人森村豊明会第3代理事長、社団法人日本陶磁協会第2代理事長。 公爵:松方正義の十二男として生まれ、後に森村開作(7代目市左衛門)の婿養子となる。旧制兵庫県立第一神戸中学校を経て、1918年に旧制第七高等学校造士館を卒業。1921年京都帝国大学法学部卒業、同年に森村男爵家の婿養子となり一族の諸会社の重役を務める。 1951年、学校法人森村学園理事長・学園長就任。1961年、(財)森村豊明会第3代理事長就任。1970年3月、(社)日本陶磁協会第2代理事長就任。
山田 延男(やまだ のぶお、1896年〈明治29年〉6月4日… 山田 延男(やまだ のぶお、1896年〈明治29年〉6月4日 - 1927年〈昭和2年〉11月1日)は、日本の科学者。フランスのラジウム研究所(後のキュリー研究所)で物理学者であるマリ・キュリーに師事し、その長女の物理学者イレーヌ・ジョリオ=キュリーらと共に放射能の研究に貢献。研究に伴う放射線障害により死去した。ラジウム研究所に留学した最初の日本人であり、放射線化学研究の犠牲となって死去した最初の日本人とされる。 戦前の日本は放射能研究の範囲が狭かったため、日本国内ではマリ・キュリーの偉業とは対照的に、山田の留学や死についてほとんど知られていなかった。山田に関する資料の大部分が関東大震災や東京大空襲で焼失したことも、その一因である。
金 成淑(キム・ソンスク、朝鮮語: 김성숙、1896年6月4… 金 成淑(キム・ソンスク、朝鮮語: 김성숙、1896年6月4日または6月5日 - 1979年12月18日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、教育者、大韓民国の政治家。第5代韓国国会議員、韓国社会党党首を歴任した。 本貫は慶州金氏、号は悔乙(フェウル、悔乙/회을)、別名は金成璹(読み・ハングル同)。郷土史学者の金泰能は甥。 全羅南道済州島大静面(現・済州特別自治道西帰浦市大静邑)加波里(すなわち加波島)出身。漢学修学を経て、京城第1高等普通学校(現・京畿高等学校)4年在学中の1919年に三・一運動に参加し、出版法・保安法違反の疑いで裁判を受け、投獄されたことがある。出獄後の1920年に帰郷し、摹瑟浦で大静普通学校の附設学校を設置したのを経て、1921年に郷里の加波島で民族主義教育を行う辛酉義塾を開設し、5年間教師として在任した。
岡野 繁蔵(繁藏、おかの しげぞう、1894年(明治27年)… 岡野 繁蔵(繁藏、おかの しげぞう、1894年(明治27年)6月4日 - 1975年(昭和50年)7月16日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。「南洋の貿易王」と称された。 児童文学作家の岡野薫子の大伯父にあたる。 静岡県志太郡青島村南新屋(青島町を経て、現藤枝市)で、岡野和吉の二男として生まれる。高等小学校を経て私立育英学校中学科に進んだ。2年次に瀬戸川の氾濫で実家が被災したため学校を中退し、藤枝駅前の丸十運送で住み込みで働く。育英中学に教師として赴任してきた橋本清之助と知り合い、社会教育団体の修養団藤枝支部の結成に関わった。 1914年(大正3年)にスマトラの雑貨商・豊原辰熊から青年の紹介依頼を修養団の蓮沼門三を通して聞き、同年、東洋貿易に入社した。
長井 斉(ながい ひとし、1893年(明治26年)6月4日 … 長井 斉(ながい ひとし、1893年(明治26年)6月4日 - 1985年(昭和60年)12月1日)は、大正時代から昭和時代にかけての合唱指揮者。 兵庫県生まれ。1917年(大正6年)大阪音楽学校選科修了。戦前は大阪音楽学校教授を務めるかたわら関西合唱界の指導に努め、1930年(昭和5年)の関西学生合唱連盟の設立にも寄与した。 戦後の1946年(昭和21年)、関西合唱連盟の設立に尽力し、初代理事長に就任し、1969年(昭和44年)まで理事長を務めた。1948年(昭和23年)4月、学制改革により関西学院高等部音楽科教諭として着任、定年後も講師として残り1961年(昭和36年)まで勤めた。この間関西学院グリークラブをはじめとする合唱団の指導に広く携わり、第1回全日本合唱コンクール(1948年)をはじめコンクールの審査員等も務めた。
持永 義夫(もちなが よしお、1893年6月4日 - 197… 持永 義夫(もちなが よしお、1893年6月4日 - 1979年8月31日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。県知事、北海道庁長官、衆議院議員。旧姓・小牧。子に衆議院議員の持永和見、自治事務次官の持永堯民。 宮崎県北諸県郡庄内村、現在の都城市出身。持永善一の養子となる。宮崎県師範学校から広島高等師範学校を経て、1921年、京都帝国大学法学部英法科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格し、内務省に入り衛生局属となる。以後、和歌山県西牟婁郡長、同県海草郡長、広島県理事官、社会局事務官、社会局社会部の福利課長・保護課長・庶務課長、厚生大臣官房会計課長、傷兵保護院業務局長などを歴任。 1939年7月、愛媛県知事に就任。
宮前 進(みやまえ すすむ、1893年(明治26年)6月4日… 宮前 進(みやまえ すすむ、1893年(明治26年)6月4日 - 1972年(昭和47年)2月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、秩父市名誉市民。 埼玉県秩父郡大宮町(現:秩父市)で生まれる。1915年、東京高等商業学校を卒業。書籍雑貨商を営む。 秩父町会議員、所得税調査委員、金銭債務調停委員、商工経済会評議員を務める。 実業界では、埼玉県文具卸施設組合理事長、秩父生活必需品小売業統制組合理事長、秩父商工会議所副会頭、埼玉県信用金庫理事、埼玉県商店会連合会長、秩父市商店連盟連合会長、全日本商店会連合会理事、秩父合同運送取締役社長、宮前商店取締役社長、養成社取締役社長、秩父乳業取締役社長などを務めた。
増田 秀吉(ますだ ひできち、1887年(明治20年)6月4… 増田 秀吉(ますだ ひできち、1887年(明治20年)6月4日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。台湾総督府官僚。台北市尹、新竹州知事。埼玉県北足立郡桶川町長。 埼玉県出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。秋田県属、同警部・理事官、同警視、同雄勝郡長、台湾総督府警視、同事務官、台南州警務部長、台北州警務部長、内務局土木課勤務、警務局警務課勤務、台北市尹、殖産局農務課長、台湾総督府税関長、基隆税関長、新竹州知事を歴任した。 戦後は桶川町(現在の桶川市)の町長を務めた。
桑原 四郎(くわはら しろう、1887年(明治20年)6月4… 桑原 四郎(くわはら しろう、1887年(明治20年)6月4日 - 1966年(昭和41年)4月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 岐阜県出身。1907年(明治40年)5月31日に陸軍士官学校(19期)を卒業し、同年12月26日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第九大隊付となる。1910年(明治43年)11月30日に工兵中尉に昇進し、1911年(明治44年)11月27日に陸軍砲工学校(17期)高等科を優等で卒業。更に員外学生として在学し、1917年(大正6年)8月6日には工兵大尉に昇進。ヴェルサイユ条約の締結に軍関係者として携わり、1920年(大正9年)9月13日付で、国際連盟陸、海、空軍問題常設諮問委員会帝国空軍代表者随員を仰せつけられる。
蓬萊 宗兵衛(ほうらい そうべえ、1887年〈明治20年〉6… 蓬萊 宗兵衛(ほうらい そうべえ、1887年〈明治20年〉6月4日あるいは4月10日 - 没年不明)は日本の実業家、地主、兵庫県多額納税者。東播合同銀行頭取。前名は英男。 兵庫県加東郡福田村出身。先代・宗兵衛の二男。1896年、家督を相続し前名・英男を改め襲名する。閑谷中学校出身。1910年、早稲田大学大学部政治経済学科卒業。 醤油醸造業、農業の傍ら銀行の重役を兼ねた。東播銀行に入り、後取締役に推された。1926年、同行が他7銀行と合併して東播合同銀行と改称するに及んでその取締役に任じ1933年、同行頭取に就任した。借家借地調停委員、兵庫県下三郡醤油醸造組合長をつとめた。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。
高井 商二(たかい しょうじ、1886年(明治19年)6月4… 高井 商二(たかい しょうじ、1886年(明治19年)6月4日 - 1931年(昭和6年)3月14日)は、日本の醸造家、政治家。衆議院議員(滋賀県第四区選出、当選1回)。 滋賀県蒲生郡日野町出身。1909年、神戸高等商業学校卒業。陸軍に入り、三等主計となる。醤油醸造業を営み、日野町教育会理事、学務委員、日野実科高等女学校(現・滋賀県立日野高等学校)商議員、蒲生郡議、日野町主事となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において滋賀4区から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1931年死去。
厚東 常吉(ことう/こうとう つねきち、1884年(明治17… 厚東 常吉(ことう/こうとう つねきち、1884年(明治17年)6月4日 - 1968年(昭和43年)9月12日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。山口県会議長。旧姓は竹中。号は沐雨、暴雷。 竹中乕吉の三男として、山口県熊毛郡八代村(熊毛町を経て現周南市)に生まれる。幼くして阿武郡椿東村船津(現萩市椿東船津)の叔父厚東武勝の養子となる。萩中学校中退。 椿東村会議員、萩町会議員、阿武郡会議員、1939年(昭和14年)9月、山口県会議員、同参事会員、1941年(昭和16年)11月、同議長を歴任した。 ほか、財界では萩実業会会長、萩商工会、山口県商工経済会、同国民健康保険組合連合会各顧問、同司法保護委員会参与、萩竹材、萩土地建物、長門峡自動車、萩グランド、萩興業建物各取締役社長、常茂恵ホテル社長を務めた。
諸橋 轍次(もろはし てつじ、1883年〈明治16年〉6月4… 諸橋 轍次(もろはし てつじ、1883年〈明治16年〉6月4日 - 1982年〈昭和57年〉12月8日)は、日本の漢学者・漢字学者。号は止軒。学位は、文学博士。東京文理科大学名誉教授。都留短期大学学長・都留文科大学初代学長を歴任。大著『大漢和辞典』、『広漢和辞典』(各・大修館書店刊)の編者代表として知られる。直江兼続の子孫を称した。 新潟県南蒲原郡庭月村(後に四ツ沢村→森町村→下田村、現在の三条市庭月)の大庄屋の二男に生まれた。1908年に東京高等師範学校を卒業後、漢学の教員として同校に勤める。青年時代には中国に留学したが、このときに満足できる辞書がなかったことが、後の『大漢和辞典』の製作に繋がっていった。
小倉 進平(おぐら しんぺい、1882年〈明治15年〉6月4… 小倉 進平(おぐら しんぺい、1882年〈明治15年〉6月4日 - 1944年〈昭和19年〉2月8日)は、日本の言語学者。朝鮮語研究、日本語研究。日本語研究にも多くの業績があるが、特に朝鮮語研究においてその後の研究の礎を築いた。 1882年、宮城県仙台市生まれ。父は実業家・歌人の小倉茗園。1903年、東京帝国大学に入学し言語学を専攻、卒業論文は「平安朝の音韻」。その後上田萬年の下で国語学研究室助手。1911年朝鮮総督府勤務。1924~1926年にはヨーロッパおよびアメリカに留学。1926年、京城帝国大学教授。1933~1943年、東京帝国大学言語学科主任教授。 主要な業績として1920年『朝鮮語学史』(刀江書院)がある。
青木 保(あおき たもつ、1882年6月4日 - 1966年… 青木 保(あおき たもつ、1882年6月4日 - 1966年3月10日)は、機械工学者。大分県出身。旧姓は工藤。東京帝国大学工学部卒。1920年東京帝大教授。1943年定年退官、名誉教授。兵器の研究、精密機器の研究から、時計の研究に進んだ。1949年に日本時計学会初代会長に就任。