横地 光明(よこち みつあき、1927年(昭和2年)7月4日… 横地 光明(よこち みつあき、1927年(昭和2年)7月4日 - 2018年(平成30年)7月7日)は、元陸上自衛官。軍事評論家。 栃木県出身。陸軍航空士官学校第60期(同期に森繁弘 第16代統合幕僚会議議長、中村守雄 第19代陸上幕僚長)修業。戦後は東京理科大学を経て陸上自衛隊の前身である警察予備隊に入隊。 退官後は旭化成工業顧問、日本世界戦略フォーラム副理事長、全国防衛協会連合会常任理事、同相談役などを務める。 また、2011年11月から2013年4月まで月刊軍事誌『軍事研究』において「最後の士官候補生」と題した自身の回顧録を執筆。 『自衛隊創設の苦悩 その実相と宿痾 警察から生まれた軍隊でない武装集団 警察予備隊・保安隊・自衛隊』
若山 彰(わかやま あきら、1927年7月4日 - 1998… 若山 彰(わかやま あきら、1927年7月4日 - 1998年12月9日)は、日本の歌手。広島県三原市出身。武蔵野音楽大学卒業。元妻は「花の素顔」「マリモの唄」などで知られる歌手の安藤まり子。墓所は広島県三原市の香積寺にある。 広島県で繊維問屋を営む家に生まれ、不自由なく育つ。幼少の頃より歌好きであったが、旧・広島文理科大学在学中に出場した音楽コンクールで3位入賞を果たしたことで、本格的に歌の道を志し、武蔵野音楽学校へ入学し直す。 当初はオペラ歌手を目指していたが、在学中に伊藤久男の「イヨマンテの夜」のバックコーラスのアルバイトをしたことで流行歌の魅力にとりこになり、作曲家の米山正夫に師事。大学卒業後の1951年、24歳で日本コロムビアから「星空」でデビュー。
須磨 吉仲(すま よしつぎ、1927年7月4日 - 2016… 須磨 吉仲(すま よしつぎ、1927年7月4日 - 2016年6月10日)は、日本の経営者。NTN社長を務めた。 広島県出身。1945年に陸軍士官学校予科を経て、1949年に山口経済専門学校を卒業し、同年3月に三和銀行に入行。1973年8月にエヌ・テー・エヌ東洋ベアリング(のちのNTN)に転じ、1973年11月に取締役に就任し、1976年8月に常務、1978年10月に専務を経て、1982年6月に副社長に就任し、1987年1月には社長に昇格。1995年6月に会長を経て、1999年6月には相談役に就任。 1999年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2016年6月10日に脳梗塞のために死去。88歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
羽賀 孝(はが たかし、1927年7月4日 - 2011年1… 羽賀 孝(はが たかし、1927年7月4日 - 2011年10月4日)は、日本の経営者。丸大食品社長、会長を務めた。愛媛県出身。 1953年に立命館大学法学部を卒業。大阪国税局での勤務を経て、1962年7月に丸大食品に転じ、1970年4月に取締役に就任し、1980年5月に常務、1981年10月に専務を経て、同年11月には社長に就任。1988年5月に会長に就任し、2001年7月に相談役を経て、2002年6月に社友に退いた。 1993年4月に藍綬褒章を受章。 2011年10月4日肝不全のために死去。84歳没。
青木 彰(あおき あきら、1926年(大正15年)7月4日 … 青木 彰(あおき あきら、1926年(大正15年)7月4日 - 2003年(平成15年)12月16日)は、日本のジャーナリスト、コミュニケーション学者。メディア評論家。 筑波大学教授、東京情報大学教授、産業経済新聞社取締役編集局長。 東京生まれ。父は元海軍大佐青木泰二郎。東京府立六中から海軍兵学校に75期生として入学するが、敗戦により急遽卒業生となる。 1949年に東京大学文学部教育学科卒業後、産業経済新聞社に入社。1951年に女優佐々木すみ江と結婚する。社会部記者として活躍し、東京本社社会部長、大阪、東京編集局長を経て取締役に選任される。 編集局長時代、産経新聞社長に復帰した鹿内信隆は、息子春雄の「教育係」を頼んできたという。
吉田 敏男(よしだ としお、1926年7月4日 - 1997… 吉田 敏男(よしだ としお、1926年7月4日 - 1997年7月1日)は、日本の実業家。ティー・エックス・エヌ九州(現在のTVQ九州放送)初代社長を務めた。 京都府出身。1950年に立命館大学専門部法政科を卒業し、日本経済新聞社に入社。日経では事業本部長、取締役、監査役を歴任した。1981年からテレビ大阪常務と専務を歴任し、1986年からテレビ東京専務に就任し、1989年には副社長に昇格。1990年から1995年までにティー・エックス・エヌ九州社長を務め、1995年から1997年までに同社会長を務めた。 1997年7月1日、急性心不全のために死去。70歳没。
富田 重夫(とみた しげお、1925年7月4日 -2024年… 富田 重夫(とみた しげお、1925年7月4日 -2024年8月21日 )は、日本の経済学者。慶應義塾大学名誉教授。 岐阜県岐阜市生まれ。1948年慶應義塾大学経済学部卒業、同年助手、1957年専任講師、1966年「現代経済学の体系的理解 方法論的研究」で経済学博士。同年教授。1977年紺綬褒章受章。1991年定年、名誉教授。聖学院大学政治経済学部教授、浜松大学教授などを歴任した。2024年8月21日逝去、享年99歳。同年11月15日のゼミのOBOG会は、当初「富田先生の数え100歳をお祝いする会」の予定であったが、急遽「富田先生を偲ぶ会」に変更されて開催された。
沢崎 坦(澤崎 坦、さわざき ひろし、1925年7月4日 -… 沢崎 坦(澤崎 坦、さわざき ひろし、1925年7月4日 - 2003年10月22日)は、日本の畜産学者。 東京出身。東京大学農学部畜産学科卒、1959年「呼吸運動の機構に関する研究」で農学博士。東大農学部助教授、教授、同附属牧場長を経て、1986年定年退官、日本中央競馬会参与。1959年日本畜産学会賞受賞。
浅井 守(あさい まもる、1924年7月4日 - )は、岐阜… 浅井 守(あさい まもる、1924年7月4日 - )は、岐阜県関市出身の元プロ野球選手(投手)。
石井 信弘(いしい のぶひろ、1924年〈大正13年〉7月4… 石井 信弘(いしい のぶひろ、1924年〈大正13年〉7月4日 - 1987年〈昭和62年〉2月4日)は、昭和時代の政治家。愛知県尾西市長。 名古屋市出身。1942年(昭和17年)愛知工業学校卒業。 同校卒業後、名古屋鉄道管理局に入る。のち中島郡起町役場に転じ、市制施行で尾西市役所に移る。1977年(昭和52年)助役を経て、1981年(昭和56年)尾西市長に当選。同年7月に就任し、2期目在任中に死去した。
石田 徳(いしだ いさお、1923年(大正12年)7月4日 … 石田 徳(いしだ いさお、1923年(大正12年)7月4日 - 2009年(平成21年)6月3日)は、昭和から平成時代の政治家。大分県杵築市長。杵築市名誉市民。 大分県出身。1952年(昭和27年)東京大学法学部卒業。農林省に入り、食糧庁総務課長、経済企画庁総合計画局審議官、1978年(昭和53年)農林水産省九州農政局長などを歴任。 1982年(昭和57年)から5期20年にわたり杵築市長を務めた。2004年(平成16年)11月、杵築市名誉市民に推挙された。2009年(平成21年)6月3日死去、85歳。死没日をもって正四位に叙される。
遠山 一行(とおやま かずゆき、1922年(大正11年)7月… 遠山 一行(とおやま かずゆき、1922年(大正11年)7月4日 - 2014年(平成26年)12月10日)は、日本の音楽評論家・実業家。日興證券会長を務めた遠山元一の長男。 遠山元一の長男として東京市麻布区笄町(現在の港区西麻布)に生まれ育つ。クリスチャンの家庭であり、一行自身もプロテスタントの信仰で育った。 1929年(昭和4年)、成城学園小学校に入学。同級に加藤一郎がいた。1933年(昭和8年)、澤柳政太郎没後の学園経営をめぐるトラブル、いわゆる成城事件(成城騒動)により小学6年時に自主退学し、第2学期から麻布区立南山小学校に転校。1935年(昭和10年)、府立高等学校尋常科に入学。第1学年2学期からピアノを朴啓成(後の属啓成)に師事。
吉瀬 維哉(よしせ しげや、1922年7月4日 - 2003… 吉瀬 維哉(よしせ しげや、1922年7月4日 - 2003年12月22日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。 神奈川県横浜市生まれ。横浜第一中学校時代、「開校以来の秀才」と言われていた。第一高等学校を経て、1944年、東京帝国大学法学部を卒業。武山海兵団に入団後、短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、第31海軍航空廠付となる。同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年4月、東京監督官事務所横浜支部に転じ、造船関係を担当。同年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 1946年に大蔵省へ入省し大臣官房文書課に配属。
藤本 勝次(ふじもと かつじ、1921年7月4日 - 200… 藤本 勝次(ふじもと かつじ、1921年7月4日 - 2000年2月18日)は、日本の中東イスラーム学者、専攻は中世イスラム文化史。 大阪府大阪市生まれ。京都帝国大学東洋史学科でアラビア語を学ぶ。 関西大学文学部教授を兼ね、1975年4月から1982年9月までの間、関西大学東西学術研究所の所長をつとめた。 2000年2月18日、脳梗塞のため死去。
寺尾 五郎(てらお ごろう、1921年〈大正10年〉7月4日… 寺尾 五郎(てらお ごろう、1921年〈大正10年〉7月4日 - 1999年〈平成11年〉8月21日)は、日本の社会運動家。 北海道室蘭市出身。1938年、早稲田大学文学部哲学科に入学後、共産主義運動に参加。1940年に治安維持法違反で検挙。 1943年に召集されるが、1945年に満洲のチチハル航空部隊で反戦活動を行ったかどで憲兵隊に拘束され、東京憲兵隊総本部へ送還。8月15日の敗戦の2日後、警視庁特高課に身柄移管され、治安維持法最後の被告となる。10月10日に豊多摩刑務所から出所し、以後日本共産党本部の専従活動家となる。 1950年にコミンフォルムの『日本の情勢について』をめぐる対立に巻き込まれて「国際派」として除名されるが、「国際派」と「所感派」の統一(日本共産党第6回全国協議会を参照)により5年後に復帰。
長島 進(ながしま すすむ、1920年7月4日 - 2000… 長島 進(ながしま すすむ、1920年7月4日 - 2000年?)は、千葉県出身の元プロ野球選手(捕手)。 関東中学校、日本大学を経て、簡易保険局でプレー。1938年途中に名古屋金鯱軍に入団すると、1938年秋季シーズンはこれまでの正捕手であった松元三彦に代わって起用されるようになり、1939年と1940年は正捕手を務めた。 戦後は、1947年に国民野球連盟が設立されると大塚アスレチックスの選手として参加。のち、社会人野球の豊岡産業を経て、1950年のセ・パ両リーグ分立に伴って毎日オリオンズが結成されるとこれに入団し、10年ぶりにプロ野球界に復帰する。毎日では阪神タイガースから移籍してきた土井垣武がいたため出場機会に恵まれなかった。
坪野 米男(つぼの よねお、1920年(大正9年)7月4日 … 坪野 米男(つぼの よねお、1920年(大正9年)7月4日 – 2008年(平成20年)8月16日)は、昭和から平成期の弁護士、政治家。衆議院議員。 大阪府大阪市出身。第三高等学校を経て、1943年(昭和18年)東京帝国大学法学部を卒業。厚生省に入省し大臣官房属となる。同年7月、高等試験行政科試験に合格。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 1948年(昭和23)に退官して、弁護士、税理士を開業。京都市人権擁護委員、国民救援会京都府連副会長を務めた。
久保 虎二郎(くぼ とらじろう、1920年7月4日 - 20… 久保 虎二郎(くぼ とらじろう、1920年7月4日 - 2011年8月29日)は、日本の実業家、日動火災保険(現・東京海上日動火災保険)元代表取締役社長、元名誉相談役、学校法人立教学院元理事長。 1920年生まれ、東京都出身。1943年、立教大学商学部(現・経営学部)卒業。 日動火災保険株式会社(現・東京海上日動火災)常務取締役などを歴任したのち、代表取締役社長を務めた。社長退任後は、名誉相談役に就任。 1991年7月から1995年6月まで学校法人立教学院理事長を務めた。1981年6月から1983年6月まで立教経済人クラブの初代会長も務めた。 1980年に藍綬褒章、1990年に勲三等瑞宝章を受章。
林 貞子(はやし ていこ、1919年〈大正8年〉7月4日 -… 林 貞子(はやし ていこ、1919年〈大正8年〉7月4日 - 2006年〈平成18年〉8月13日)は、日本の幼児教育の専門家。松濤幼稚園の創設者で、東海大学名誉教授も務めた。人権擁護委員。勲等は勲四等瑞宝章。 父・牧野伸通は伯爵・牧野伸顕の長男で式部官、母・純子は男爵・鍋島直明の長女で上皇后美智子の元東宮女官長。伸通・純子夫妻の長女として生まれ、慶應義塾大学文学部哲学科を卒業後、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程を修了(専攻は社会学)。夫は学習院大学名誉教授の林友春(伯爵・林博太郎の三男)。 1947年、東京都の中でも屈指の高級住宅街、渋谷区松濤に松濤幼稚園を創設した。当幼稚園は政治家から財界人の重鎮、また皇族や著名人の子らが多く通うことで知られており、若葉会幼稚園、枝光会附属幼稚園などと共に「御三家幼稚園」と呼ばれるとともに日本で最も学費が高額な幼稚園として知られていた。
木野 晴夫(きの はるお、1919年(大正8年)7月4日 -… 木野 晴夫(きの はるお、1919年(大正8年)7月4日 - 1997年(平成9年)2月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。自由民主党所属の衆議院議員(当選6回)。 大阪府出身。大阪高等学校を経て、1942年(昭和17年)7月、高等試験行政科に合格。同年9月、大蔵省事務取扱嘱託となり理財局に配属。1943年(昭和18年)7月、高等試験司法科に合格し、同年8月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、大蔵属に任官し外資局に配属。同年9月、大蔵省を退職し短期現役士官として海軍に志願し、海軍法務見習尉官となる。1944年(昭和19年)3月、海軍法務中尉に進み、舞鶴鎮守府軍法会議法務官、呉鎮守府軍法会議法務官などを歴任し、1945年(昭和20年)3月、海軍法務大尉に昇進し、同年12月、予備役となる。
和田 英夫(わだ ひでお、1918年7月4日 - 2001年… 和田 英夫(わだ ひでお、1918年7月4日 - 2001年3月10日、82歳没)は、日本の法学者。専攻は、憲法・行政法。 第3代駿河台大学学長、明治大学名誉教授、駿河台大学名誉教授。 1918年に山形県西村山郡河北町で生まれる。旧制寒河江中学校(現:山形県立寒河江高等学校)を経て、東京帝国大学(現:東京大学)法学部政治学科を卒業。 1946年に北海道大学農学部副手、1948年講師、1950年北海道大学法文学部助教授、1954年から明治大学教授を務める。1989年に、設立準備委員として参画していた駿河台大学法学部教授となった。同大学では法学部長、1991年比較法研究所初代所長、法学研究科長を歴任した後、1994年に第3代学長となる(在任 : 1994年-1999年)。
八木 一夫(やぎ かずお、1918年(大正7年)7月4日 -… 八木 一夫(やぎ かずお、1918年(大正7年)7月4日 - 1979年(昭和54年)2月28日)は日本の陶芸家である。戦後復興期に前衛陶芸家集団「走泥社」を結成、器としての機能を持たない「オブジェ焼」と呼ばれる作品を発表し、現代陶芸に新分野を確立した。陶芸家八木一艸の長男。長男は陶芸家の八木明。 京都市五条坂に陶芸家八木一艸の長男として生まれる。1937年京都市立美術工芸学校彫刻科卒業の後、商工省設置の国立陶磁器試験所の伝習生となり、沼田一雅の「日本陶彫協会」に入会し陶彫を学んだ。1939年兵役で南支広東方面へ派遣されたが、病気のため翌年除隊。帰国後、日本画の前衛団体「歴程美術協会」などと関わりを持つなかでシュルレアリスムや抽象美術などの西洋の最先端美術への親しみを深めるが、戦時下の社会で前衛を否定して古典回帰を求める風潮が高まり、八木もまたしばらくは陶芸を中断して神戸や京都で教員として生活した。
浅井 淑子(あざい よしこ、1917年7月4日 - 1980… 浅井 淑子(あざい よしこ、1917年7月4日 - 1980年1月4日)は、教育者、服飾研究家、学校法人浅井学園元学園長、専門学校北海道ドレスメーカー学院初代院長、北翔大学の前身にあたる北海道女子短期大学創立者。 北海道札幌市生まれ。叔父を頼って上京し、1934年、東京国華高等女学校卒業。その後、東京女子医学専門学校に合格するも、両親に反対されて女医の道を断念。生家の家事を手伝いながら学費を貯め、1937年再上京して、1939年杉野ドレスメーカー女学院師範科卒業。同年9月、洋裁教育を通じて女子の教養を高め、専門的技術修得によって女子に経済的独立の能力を習得させることを目的として、各種学校「北海ドレスメーカ一女学園」を創設した。
吉野 俊彦(よしの としひこ、1915年7月4日 - 200… 吉野 俊彦(よしの としひこ、1915年7月4日 - 2005年8月12日)は、日本銀行理事。父は逓信官僚の吉野圭三。 千葉県生まれ。武蔵高等学校を経て、1938年に東京帝国大学法学部を卒業し、日本銀行に入行する。日銀では調査局に勤め、内国調査課長、局次長、局長を経て1970年に理事に就任した。 1974年に山一證券経済研究所理事長に転じ、1984年に会長、1985年に特別顧問となり1998年まで務めた。また1978年1月に前川春雄副総裁を委員長とする日本銀行百年史編纂委員会が発足すると、呉文二、西川元彦と共に日本銀行百年史編纂委員会の委嘱委員を務めた。 神武景気以降、岩戸景気前夜の1950年代後半から1960年代初頭にかけて、戦後復興が一段落し、多くのエコノミストが「復興の勢いは終わり、これからは安定成長に移行する」と見通していた時期に、日本経済は依然として高い成長を維持できるか、それとも成熟・安定化すべきか、高度経済成長の是非と、日本経済の潜在能力をどのように評価するかを巡り、高度成長論者である下村治と安定成長論者の吉野の間で論争をおこなった。
佐野 禮子(さの あやこ、1913年〈大正2年〉7月4日 -… 佐野 禮子(さの あやこ、1913年〈大正2年〉7月4日 - 2003年〈平成15年〉9月3日 )は日本の元皇族。旧名は、禮子女王。竹田宮恒久王と同妃昌子内親王の第1王女子。兄は、竹田宮恒徳王。佐野常光(佐野常羽の養子。一条実輝の次男)の妻。 1934年(昭和9年)3月、佐野常羽(佐野常民の子)伯爵の継嗣常光と結婚。その後は常行(1935年生)、明子(1936年生)、常武(1942年生) 常具(1946年生)の3男1女に恵まれた。青山霊園にある墓誌によると、洗礼名はマリヤ。
佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2… 佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2011年3月30日)は、日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。 生き生きとした女性像などをブロンズや木彫で表現した。本の装幀の仕事もこなし、福音館書店版の絵本『おおきなかぶ』の挿絵なども手がけた。出身地にある宮城県美術館には、「佐藤忠良記念館」が併設、日本で最も多い約600点の彫刻作品を収蔵。その他、滋賀県の佐川美術館の佐藤忠良記念館、札幌芸術の森「佐藤忠良記念子どもアトリエ」、国立近代美術館、国立国際美術館など、日本全国各地に佐藤忠良の作品が収蔵・展示されている。 女優の佐藤オリエは娘。作品のモデルを務めた彫刻家の笹戸千津子は弟子。
野口 冨士男(のぐち ふじお、1911年7月4日 - 199… 野口 冨士男(のぐち ふじお、1911年7月4日 - 1993年11月22日)は、日本の小説家。戸籍名は平井冨士男。日本文芸家協会理事長。 東京市麹町区生まれ。1913年に両親が離婚。慶應義塾幼稚舎では同級生に岡本太郎、藤山一郎がいた。慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学文学部予科に進むが留年、1930年に文化学院文学部へ転校する。1933年、文化学院卒業。 卒業後は紀伊国屋出版部で『行動』の編集に当たった。1935年、紀伊国屋出版部の倒産にともなって、都新聞社に入社。昭和10年代、『あらくれ』『現代文学』などの同人雑誌に執筆する。1936年から1937年まで河出書房に勤務。1938年、母方の籍に入って平井姓となる。
山本 義一(やまもと ぎいち、1909年7月4日 - 198… 山本 義一(やまもと ぎいち、1909年7月4日 - 1980年2月7日) は、日本の気象学者。東北大学名誉教授。元日本気象学会理事長。 石川県金沢市生まれ。第四高等学校を経て、1933年東北帝国大学理学部物理学科卒業、中央気象台入庁。1941年逓信省中央航空研究所研究官。1945年東北帝国大学理学部地球物理学科が新設されると同教授兼任。1946年東北帝国大学に学位論文を提出して理学博士を取得するとともに、専任の教授に異動。地球物理学第3講座を担任し、ここに東北帝国大における気象学講座発祥となった。1959年から国際放射委員会委員。1966年から1969年まで理学部長。1966年から68年まで国際科学会議大気科学委員会委員。
小沼 靖(おぬま せい、1909年(明治42年)7月4日 -… 小沼 靖(おぬま せい、1909年(明治42年)7月4日 - 1983年(昭和58年)2月14日)は、日本の実業家である。青森放送の代表取締役社長を務めた。 青森県青森市に生まれる。1927年(昭和2年)に青森師範学校(現在の弘前大学教育学部)卒業後、12年の空白を経て1939年(昭和14年)に同盟通信社の函館支局に勤めた。1943年(昭和18年)に東奥日報社に転勤し、論説委員等多くの職にあたる。 1953年(昭和28年)にラジオ青森(現在の青森放送)の開局と同時に入社し、1964年(昭和39年)には同局の専務取締役に就任した。1970年(昭和45年)には、民放初のローカル報道番組であった「RABニュースレーダー」の製作に携わり、翌1971年(昭和46年)より青森放送代表取締役を務める。
榎本 栄蔵(えのもと えいぞう、1909年〈明治42年〉7月… 榎本 栄蔵(えのもと えいぞう、1909年〈明治42年〉7月4日 - 1983年〈昭和58年〉10月21日)は、日本の政治家。東京都青梅市長(1期)。位階は正六位。勲四等瑞宝章。 東京府西多摩郡調布村(現在の東京都青梅市)生まれ。明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)卒。卒業後は薬剤師となり、青梅町(現・青梅市)で薬局を開業する。青梅町収入役、同助役、多摩証券社長、青梅公民館長、青梅商工会議所副会頭、青梅市議会議員、同議長、市助役などを歴任する。 1963年〈昭和38年〉青梅市長に当選。一年目は市役所経営会議発足させ、市上下水道事業に着手した。二年目は教育相談所を開設、福祉に力を入れ、市立総合病院に人間ドックを開設、老人家庭奉仕員制度をスタートさせた。
板倉 治作(いたくら じさく、1907年(明治40年)7月4… 板倉 治作(いたくら じさく、1907年(明治40年)7月4日 - 1964年(昭和39年)9月14日)は、日本の教員、実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県中頸城郡上杉村(現上越市)で生まれる。1927年、高田師範学校を卒業し、新潟市湊小学校、三島郡日越小学校の訓導を務めた。 その後上京して、日本橋で三京堂(カーボン卸製造業)を経営した。戦災を受けて帰郷し農業を経営した。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に新潟県第二区から日本自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
長谷川 濬(はせがわ しゅん、1906年7月4日 - 197… 長谷川 濬(はせがわ しゅん、1906年7月4日 - 1973年12月16日)は、日本の詩人・作家・ロシア文学者。 父・清(後に淑夫に改名)と母・ユキの三男として函館市元町に生まれる。1925年、函館中学を卒業すると、兄海太郎の勧めもあって4年の間漁船に乗った。1932年、大阪外国語学校露語科を卒業し、満州国の新政府資政局自治指導部訓練所(後の大同学院)に入る。大同学院を一期生として卒業し、満州国外交部を経て、満州映画協会に勤務する。1938年、北村謙次郎や仲賢礼らと雑誌『満州浪曼』を発刊する。1941年3月1日、満映の映画人養成所を開業し、同年11月には株式会社満州電影総社を設立する。この頃、ニコライ・バイコフの「偉大なる王」を文藝春秋から翻訳する。
岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> … 岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> 7月4日- 1981年 <昭和56年> 3月19日)は、日本の経営者。日産自動車社長。位階は正四位。 鳥取県出身。旧制仙台一中、旧制弘前高校を経て、1931年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。東京乗合自動車での勤務を経て、1937年に日産自動車に転じ、1952年11月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1973年11月から1977年6月までに社長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1981年3月19日、肝不全のために死去。74歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
藤井 貞文(ふじい さだふみ、1906年7月4日 - 199… 藤井 貞文(ふじい さだふみ、1906年7月4日 - 1994年6月12日)は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。専門は、近世から近代に至る日本思想史。 山口県下関市の神職の家に生れた。1924年に旧制唐津中学校を卒業。國學院大學に進学し、折口信夫の門下で学んだ。1929年に国史学科卒業。 卒業後は維新史料編纂事務局編纂事務嘱託に採用された。維新史料編纂官補として勤務し、1938年から維新史料編纂官。しかし、1942年の官制廃止にともない退職。1943年からジャカルタ医科大学教授となるが、敗戦により帰国。 復員後は、1946年から帝国図書館・国立国会図書館に勤務。1951年、学位論文『明治初世に於ける国学の展開』を國學院大學に提出して文学博士号を取得。
今泉 貞雄(いまいずみ さだお、1906年(明治39年)7月… 今泉 貞雄(いまいずみ さだお、1906年(明治39年)7月4日 - 1995年(平成7年)1月28日)は、日本の技術者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福島県安積郡桑野村(現郡山市)で、農家の7人兄弟の末子として生まれた。小学校卒業後、進学を希望していたが家庭の経済状況が許さず、上京して丁稚奉公を行う。奉公先の好意で夜間学校に通学し、種々の職業を経ながら1929年(昭和4年)日本大学専門部工科機械科を卒業した。 三共に入社しオートバイ部門で勤務。その後、中島飛行機荻窪工場社員、新田 (株) 昭和内燃機製作所工場長を歴任。中野友禮の資金援助を受けて1938年(昭和13年)今泉精機を東京葛飾に設立し、白河分工場も設けたが終戦に伴い閉鎖して帰郷した。
岡本 不二(おかもと ふじ、1905年7月4日 - 1984… 岡本 不二(おかもと ふじ、1905年7月4日 - 1984年1月4日)は、愛知県名古屋市出身のボクサー。日本ボクシング草創期の強豪。のち不二拳を設立、ピストン堀口の師としても知られる。 東洋商業学校卒業後、渡辺勇次郎の日本拳闘倶楽部に入門、1924年には同倶楽部主催のフライ級タイトル決定戦に勝ち、フライ級チャンピオンとなる。1926年には靖国神社相撲場での第1回全日本アマチュアボクシング選手権大会フライ級制覇、1928年、アムステルダム五輪にはバンタム級として2回戦から出場したが、初戦で敗退した。 その後は日本拳闘倶楽部の師範としてピストン堀口らを育てたが、のちピストンと共に独立、不二拳(現不二ボクシングジム)を設立した。
飯島 連次郎(いいじま れんじろう、1905年〈明治38年〉… 飯島 連次郎(いいじま れんじろう、1905年〈明治38年〉7月4日 - 1992年〈平成4年〉10月15日)は、昭和期の農業技術者、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)、群馬県邑楽郡多々良村長。 群馬県邑楽郡多々良村(現・館林市木戸町)出身。1923年(大正12年)旧制栃木県立佐野中学校(現・栃木県立佐野高等学校)卒業。1932年(昭和7年)京都帝国大学農学部農学科を卒業した。同年、満州国に渡り満蒙開拓移民の指導、訓練、研究に従事し、満蒙開拓訓練所長などを務めた。 1946年(昭和21年)帰郷して多々良村長兼同村農業協同組合長に就任。その他、群馬県酪農業協同組合理事、同県生産農業協同組合連合会長、同信用農業協同組合連合会理事、同農林統計協会長、全国指導農業協同組合連合会専務理事、農業電化協会副会長、全国厚生文化農業協同組合連合会理事、全国新聞情報農業協同組合連合会長などを務めた。
金子 吉衛(かねこ きちえ、1904年(明治37年)7月4日… 金子 吉衛(かねこ きちえ、1904年(明治37年)7月4日 - 1990年(平成2年)12月19日)は、埼玉県蕨市の第四代目市長(1967年~1975年)。 1904年、北足立郡蕨町に生まれる。1930年、蕨第一小学校(現:北小学校)、旧制浦和中学、旧制松本高校を経て東京帝国大学経済学部卒[要出典]。1931年、東京市に奉職し、麻布区長(現在の港区)、文京区助役、東京都立養育院院長、監査事務局長を歴任。1961年、東京都住宅公団理事を務め、1966年退職。1967年、蕨市長に就任し、2期8年務める。1971年から郷土史研究会会長として活動した。多数の郷土資料を収集しており、東京市の戦前戦後の文献資料は東京都公文書館に、蕨の郷土史に関する資料・著作は蕨市立図書館・歴史民俗資料館別館に保管されている。
藤本 亀(ふじもと ひさし、1904年7月4日 - 1989… 藤本 亀(ふじもと ひさし、1904年7月4日 - 1989年2月14日)は、日本の経営者。山陽放送社長を務めた。 岡山県出身。1925年に関西大学法学部法科を卒業し、1927年に朝日新聞社に入社。1945年に合同新聞(のちの山陽新聞社)に転じ、1947年に取締役に就任し、1958年には山陽放送常務に就任し、1964年に専務を経て、1974年5月には社長に就任した。1981年6月に会長に就任し、1983年に取締役相談役を経て、1984年6月に相談役に退いた。 1979年5月に勲三等瑞宝章を受章。 1989年2月14日、呼吸不全のために死去。84歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
槇田 献太郎(まきた けんたろう、1902年(明治35年)7… 槇田 献太郎(まきた けんたろう、1902年(明治35年)7月4日 - 1964年(昭和39年)10月)は、日本の政治家。鳴門市長。九州帝国大学法文学部卒業。 1928年(昭和3年)、九州帝国大学法文学部法科を卒業後、南満州鉄道へ入社。 1932年(昭和7年)、満州国国務院総務庁法制局統計処資料課長に起用され、その後、同国官吏として新京特別市財務処長、ハルピン郵政管理局長、国務院総務庁参事兼厚生参事官などを歴任。 戦後は愛媛県松山市共催の愛媛県産業大博覧会事務局長として腕を振るい、1951年(昭和26年)4月26日に徳島県の鳴門市長に就任。 市長退任後は松山市に住み、日刊工業新聞松山市局長を勤めたが、1964年(昭和39年)10月、同地で死去。
岡村 二一(おかむら にいち、1901年(明治34年)7月4… 岡村 二一(おかむら にいち、1901年(明治34年)7月4日 - 1978年(昭和53年)7月9日)は、日本のジャーナリスト、実業家。東京タイムズ社初代社長。財団法人新聞通信調査会理事長。 長野県下伊那郡竜丘村(現:飯田市)生まれ。下伊那教員養成所を修了し飯田小学校の教員となる。 1923年(大正12年)に上京し、東洋大学専門部文科を卒業。1926年萬朝報、1927年新聞連合社勤務を経て、1935年同盟通信社に入社。社会部長、編集局次長を歴任し、1941年には松岡洋右外務大臣のドイツ・イタリア・ソビエト連邦訪問に随行した。 1942年(昭和17年)、特殊法人「日本新聞會」が設立されると専務理事となり、1945年3月、持分合同にあたった日本新聞公社の専任理事に就任した。
中谷 宇吉郎(なかや うきちろう、1900年(明治33年)7… 中谷 宇吉郎(なかや うきちろう、1900年(明治33年)7月4日 - 1962年(昭和37年)4月11日)は、日本の物理学者、随筆家。位階は正三位。勲等は勲一等。学位は理学博士(京都帝国大学・1931年)。 北海道大学理学部教授を北海道帝国大学時代から務め、世界で初となる人工雪の製作に成功した。考古学者・中谷治宇二郎は弟。 1900年、温泉地の石川県江沼郡片山津町(現・加賀市)で生まれる。学齢期になると母方の親族に預けられ、大聖寺町(現・加賀市)に転居。 1913年、大聖寺町立錦城尋常高等小学校卒業後、間もなく父を失う。同年、旧制小松中学(現・石川県立小松高等学校)に入学、その後5年間の寄宿舎生活を送った。
上田 常隆(うえだ つねたか、1900年〈明治33年〉7月4… 上田 常隆(うえだ つねたか、1900年〈明治33年〉7月4日 - 1980年〈昭和55年〉10月14日)は、日本の新聞社経営者。毎日新聞社社長(1961年1月 - 1968年1月)。 大阪府大阪市出身。祖父は盛岡藩士で、母は原敬の姪に当たる。天王寺中学校(旧制)、佐賀高等学校を経て、1926年に京都帝国大学法学部を卒業、大阪毎日新聞社(後の毎日新聞大阪本社)に入社。販売一筋でキャリアを築き、1951年大阪本社営業局長、監査役、取締役(経理担当)、常務などを経て、1961年代表取締役社長に就任。在任中はアジア調査会の設立などに関わった。またこの間、日本新聞協会の会長も務めた。1968年退任し、最高顧問になる。
鈴木 秀夫(すずき ひでお、1898年(明治31年)7月4日… 鈴木 秀夫(すずき ひでお、1898年(明治31年)7月4日 - 1986年(昭和61年)9月17日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。弁護士。 愛知県蒲郡市出身(北海道生まれ)。鈴木又治郎の長男。1912年(明治44)4月愛知県立第四中学校(現愛知県立時習館高等学校)入学。1913年(大正2年)鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)へ転校し、1917年(大正6年)3月卒業。1917年(大正6年)9月第一高等学校入学、1920年(大正9年)6月卒業。1920年(大正9年)9月東京帝国大学法学部英法科に入学し、在学中の1922年(大正11年)11月高等試験行政科に合格。1923年(大正12年)3月に東京帝国大学法学部を卒業し、4月5日に台湾総督府属に任ぜられ財務局勤務となる。
生島 広治郎(生島 廣治郎、いくしま ひろじろう、1897年… 生島 広治郎(生島 廣治郎、いくしま ひろじろう、1897年(明治30年)7月4日 - 1983年(昭和58年)10月2日)は、日本の経済学者。経済学博士。近畿大学名誉教授。 兵庫県神戸市元町通1丁目、生島藤吉の二男。1920年、神戸高等商業学校卒業。1922年、東京商科大学専攻部卒業(商学士)、同年に神戸高等商業学校商業研究所調査員。1923年、神戸高等商業学校講師。1926年、神戸高等商業学校教授。 1930年、神戸商業大学助教授。1933年、神戸商業大学教授。1944年、神戸経済大学教授となる。1945年、神戸経済大学より「世界経済学ノ根本問題」で経済学博士の学位を授与され、同大学を退官する。
新納 克己(にいろ かつみ、1895年〈明治28年〉7月4日… 新納 克己(にいろ かつみ、1895年〈明治28年〉7月4日 - 1971年〈昭和46年〉3月14日)は、昭和時代の日本の外交官、弁理士。第二次世界大戦中に、マニラ総領事や外務省通商局長を務めた。新納 克巳とも。 鹿児島県鹿児島市出身。谷村敏成の三男に生まれ、新納家の養子になる。旧制京都一中(現京都府立洛北高等学校)を経て、1916年(大正5年)第三高等学校二甲卒業。1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部土木工学科卒業。1921年(大正10年)4月、鉄道省雇となり、同年11月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、外務省嘱託となり臨時平和条約事務局に勤務。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務事務官に任官。
2代 二田 是儀(ふただ これのり、1895年7月4日 - … 2代 二田 是儀(ふただ これのり、1895年7月4日 - 1979年1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員、秋田県天王町長。工藤八之助の子、二田是儀 (初代)の娘婿。 山形県西村山郡高松村(現・寒河江市)で、工藤八之助の三男として生まれる。旧名・工藤亮吉。1921年東京帝国大学文学部印度哲学科卒。翌年二田家に入籍する。天王村(現・潟上市)長、秋田県議を経て、1942年の翼賛選挙では秋田1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した。 戦後、推薦議員のため、公職追放となる。1951年に追放解除。追放解除後は再び天王村長となり、同村は在任中の1961年に町制施行。1965年まで務めた。
福本 和夫(ふくもと かずお、1894年(明治27年)7月4… 福本 和夫(ふくもと かずお、1894年(明治27年)7月4日 - 1983年(昭和58年)11月16日)は、日本の経済学者。科学技術史家・思想史家・文化史家でもあり、福本イズムを打ち立てた。長男は福本邦雄。 戦前期の日本共産党(第二次共産党)の幹部となり、その理論的指導者として活躍した。また、フランクフルト留学中、文化史という研究方法を学び、日本における文化史研究の先駆者の一人とされる。 福本は生前、自分の名前である「和夫」について、両親が「明治日本の出世頭」鳩山和夫にあやかったものと語っている。当時の筆名は、出身地にちなんで「北条一雄」としていた。 鳥取県久米郡下北条村(現・東伯郡北栄町)に福本信蔵の三男として生まれる。
井上 硬(いのうえ かたし、1894年(明治27年)7月4日… 井上 硬(いのうえ かたし、1894年(明治27年)7月4日 - 1969年(昭和44年)10月4日 )は、岡山県出身の医学者。京都大学名誉教授。京都帝国大学医学部教授、新制京大医学部教授を経て、同大学ウィルス研究所長、第16代京都大学医学部附属病院長兼評議員。 1894年(明治27年)に岡山県児島郡宇野町(現:玉野市)で生まれる。その後、旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)を1912年(明治45年)に卒業し、第六高等学校第三部(医科)へ入学する。1915年(大正4年)に同高校を卒業し、京都帝国大学医学部へ入学する。医学部では第二内科に所属し、1924年(大正13年)「胆汁排泄に関する臨床的研究」で博士号を取得した。
飯塚 茂(いいづか しげる、1889年(明治22年)7月4日… 飯塚 茂(いいづか しげる、1889年(明治22年)7月4日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 栃木県下都賀郡三鴨村大字都賀(現:栃木市藤岡町都賀)で、飯塚茂十郎の長男として生まれる。叔父・飯塚国三郎(講道館幹部、慶應義塾柔道師範)の導きで講道館・嘉納塾に入塾し、最終的に段位は講道館柔道七段となる。 1915年、慶應義塾大学部法律学科を卒業し、同年4月、英国領シンガポールに渡り、英国領マレー半島ジョホール州でゴム栽培事業を経営。1918年、南進公司を設立して社長となり、南和公司常務、大倉スマトラ農場常務なども務めた。1927年12月、財団法人暹羅協会(現:日本タイ協会)の設立時に創立委員、その後、1935年3月まで理事を務めた。