藤野 保(ふじの たもつ、1927年(昭和2年)9月5日 -… 藤野 保(ふじの たもつ、1927年(昭和2年)9月5日 - 2018年(平成30年)5月14日)は、日本の日本史学者。文学博士。専攻は日本近世史。 1927年、長崎県で生まれた。1951年、東京文理科大学史学科を卒業。1959年、東京教育大学大学院の博士課程を修了。 1962年、学位論文『幕藩体制史の研究』を東京文理科大学に提出して文学博士号を取得。同論文は、同時に東京文理科大学賞を受賞した。1965年、九州大学文学部附属九州文化史研究施設助教授となった。1972年に教授昇格。1975年から1983年には九州文化研究施設長を務めた。1986年、中央大学文学部教授に転じ、1998年に退職。 2018年5月14日、多臓器不全のため死去。
福田 儀(ふくだ ただし、1927年9月5日 - )は日本の… 福田 儀(ふくだ ただし、1927年9月5日 - )は日本の政治家。今市市長(1期)。 栃木県今市市(現・日光市)出身。栗山村教育長を経て、1974年5月の栃木県議会議員補欠選挙に今市市選挙区から自由民主党公認で立候補して、初当選を果たした。その後、1975年、1979年、1983年にも当選した。また、1985年3月から1986年3月まで第77代同副議長を務めた。同年4月6日に辞職した。 任期満了に伴う今市市長選挙に立候補して、4選を目指した斎藤昭男を破って初当選を果たした。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) しかし1987年2月25日、市長選に絡んでその前に東武建設社長らに学校建設受注を約束して見返りに2835万円の賄賂を受け取ったとして事前収賄罪容疑で逮捕された。
山岡 謙蔵(やまおか けんぞう、1926年9月5日 - 19… 山岡 謙蔵(やまおか けんぞう、1926年9月5日 - 1990年9月14日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(1期)。 高知県高知市出身。1943年高知県立農業学校(現在の高知県立高知農業高等学校)卒。高知県職員などを経て、1959年高知市議会議員に初当選。3期務め、1966年に副議長、1969年に議長を歴任した。1971年から高知県議会議員に転じ、3期務め、1982年に議長に就任した。1983年の第37回衆議院議員総選挙で高知全県区から自民党公認で立候補し当選する。自民党では中曽根派に所属した。1986年の第38回衆議院議員総選挙で落選。1990年の第39回衆議院議員総選挙に再び立候補したが落選した。
古瀬 卓男(ふるせ たくお、1926年(大正15年)9月5日… 古瀬 卓男(ふるせ たくお、1926年(大正15年)9月5日 - 2007年(平成19年)11月10日)は、日本の教育者・教育学者・教育法学者・元学校経営者。北海道女子短期大学元学長。北海道女子短期大学の草創期を教職員として支えた一人。 北海道生まれ。旧制中学校卒業後、戦時中は赤紙によって徴兵。復員後、旧制中学校の事務職員。中央大学校外生制度を経て、1948年中央大学法学部通信教育課程に入学。1948年札幌市立商業高等学校常勤講師(非常勤教員)。1952年(昭和27年)中央大学法学部卒業。1956年(昭和31年)北海道大学教育学部卒業。1956年札幌創成商業高等学校教諭。1960年北海道札幌旭丘高等学校社会科教諭。
加茂 秀男(かも ひでお、1926年(大正15年)9月5日 … 加茂 秀男(かも ひでお、1926年(大正15年)9月5日 - )は、日本の映画プロデューサー。千葉県市川市出身。明治大学卒業。 鉄道ドラマを得意とし、東映東京撮影所のプロデューサーとして『大いなる旅路』『大いなる驀進』(1960年)や、東映教育映画部製作の児童映画『なかよし特急』(1961年)、「東映列車シリーズ」(1967年 - 1968年)、東映動画製作の『きかんしゃやえもん D51の大冒険』(1974年)などの映画や、鉄道関係の多くのテレビドラマを企画した。 1974年の『きかんしゃやえもん D51の大冒険』以降は製作実績がなく、『キネマ旬報』1966年3月上旬号で「娯楽映画は大いに作りたいと思うが、社会悪、特に青少年に対する影響を考えて企画したい。
植之原 道行(うえのはら みちゆき、1925年9月5日 - … 植之原 道行(うえのはら みちゆき、1925年9月5日 - 2007年12月19日)は、日本の電子工学者(電気工学者)、技術経営者。Doctor of Philosophy、工学博士。日本電気(NEC)の中央研究所所長、各取締役、副社長・最高技術経営者、特別顧問、顧問を歴任し、半導体デバイス分野などで多くの実績をあげた。多摩大学名誉教授、IEEEフェロー。 鹿児島県生まれ。同県日置郡串木野村(後の日置郡串木野町、串木野市、いちき串木野市)出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1943年広島陸軍幼年学校卒業、1945年陸軍航空士官学校(59期)卒業。1949年日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)電気工学科卒業し、同学科の助手となる。
久保田 博(くぼた ひろし、1924年9月5日 - 2007… 久保田 博(くぼた ひろし、1924年9月5日 - 2007年1月18日)は、日本の鉄道技術者、鉄道研究家。 鉄道省の職員(機関士)の子として、長野県諏訪市上諏訪に生まれる。 1946年秋、大阪大学工学部を卒業し、運輸省に入省。1年間の鉄道現場研修の後、鷹取工場(兵庫県)に配属される。1949年に日本国有鉄道(国鉄)が運輸省から独立発足した際、国鉄に移籍。 以後、長野工場→本社勤務→仙台鉄道管理局・東北支社→中部支社(名古屋)と渡り歩き、小倉工場長を最後に国鉄を退職。その後、高砂熱学工業の技師長や東北大学の講師などを務めた。国鉄本社勤務時代には青梅鉄道公園の保存機関車の選定に携わったことがある。
窪田 隼人(くぼた はやと、1924年9月5日 - 2002… 窪田 隼人(くぼた はやと、1924年9月5日 - 2002年)は、日本の法学者。専門は労働法。立命館大学名誉教授。 山口県生まれ。旧制山口高等学校を経て、京都帝国大学法学部卒、同大学院修了。 大阪市立大学講師、助教授、立命館大学法学部教授、1988年定年、名誉教授、京都学園大学法学部学部長・教授。1998年退職。労働法が専門。
藤岡 喜愛(ふじおか よしなる、1924年9月5日-1991… 藤岡 喜愛(ふじおか よしなる、1924年9月5日-1991年12月22日)は、日本の人類学者。専攻は精神人類学。 大阪生まれ。1947年(昭和22年)京都大学理学部植物学科卒業。今西錦司に学ぶ。1949年(昭和24年)大阪市立大学助手、1951年(昭和26年)京大人文科学研究所助手、1957年(昭和32年)以降、タイ王国、トンガ、タンザニア、フランスなどで人類学的調査に従事する。 1963年(昭和38年)から1971年(昭和46年)まで京大付属病院精神神経科助手、1967年(昭和42年)「ロールシャッハ・テストにおける側頭葉てんかんの特徴」で京大医学博士。1968年(昭和43年)医学書院総合医学賞受賞、1972年(昭和47年)兵庫県立医科大学助教授。
鈴木 清(すずき きよし、1924年9月5日 - 1998年… 鈴木 清(すずき きよし、1924年9月5日 - 1998年8月12日)は、日本の調教助手(国営競馬)・調教師(国営競馬・中央競馬(中山競馬場→美浦トレーニングセンター))。調教師の鈴木信太郎は父。騎手・調教師の高橋英夫は義理の兄。千葉県立千葉中学校卒業、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。東京都出身。中央競馬初の大学卒業資格を持つ調教師として知られる。 1924年、目黒競馬場内にあった父・信太郎の厩舎で生まれた。1933年に目黒競馬場が閉鎖されたのに伴い父の厩舎が中山競馬場へ移転。一家は千葉県へ移住した。清が千葉県立千葉中学校を卒業した当時は太平洋戦争中に中止していた競馬が再開したばかりで、日本競馬界の前途は不明確であった。
畑田 重夫(はただ しげお、1923年〈大正12年〉9月5日… 畑田 重夫(はただ しげお、1923年〈大正12年〉9月5日 - 2022年〈令和4年〉11月22日)は、日本の国際政治学者、政治評論家、平和運動家。平和・民主・革新の日本をめざす全国の会代表世話人。1980年代から1990年代にかけて東京都知事選挙に出馬したことでも知られる。 京都府生まれ。東京帝国大学に入学し、在学中20歳で学徒出陣となるが、その際学友の乗っていた船が撃沈され全員が死亡した。1945年9月、東京大学法学部に復学し卒業。 内務省を経て1962年まで名古屋大学助教授を務め、以後は労働者教育協会会長や勤労者通信大学学長などを歴任。 1987年、1991年の各東京都知事選挙に無所属(日本共産党推薦)で出馬するも落選。
有賀 潤(あるが じゅん、1923年(大正12年)9月5日 … 有賀 潤(あるが じゅん、1923年(大正12年)9月5日 - 2013年(平成25年)1月2日)は日本の洋画家である。 風景、人物、静物など画材は広範。1970年頃から日本の伝統家屋(藁葺屋根)を取材した農村風景画の創作に力を注ぎ、日本列島全域を探訪した。現在では消失した伝統家屋を写実的手法で描かれた作品群は、日本人の心の故郷そのもであり、同時に民俗学史料としても国内外で高く評価されている。 長野県上田市出身。旧制小県蚕業学校(長野県上田東高等学校)卒業。太平洋戦争に従軍し、復員後の1945年から東京在住。1948年東京育英高等学校教諭、1950年東京美術学校卒業後、数年間、阿佐ヶ谷美術専門学校にて教師を務める。
松前 健(まつまえ たけし、1922年(大正11年)9月5日… 松前 健(まつまえ たけし、1922年(大正11年)9月5日 - 2002年(平成14年)3月24日)は、日本の宗教学者、神話学者。天理大学教授、立命館大学教授、大阪成蹊女子短期大学教授、奈良大学教授。 都立高教諭・大学非常勤講師だった1960年に『日本神話の新研究』を刊行し、翌年日本宗教学会の姉崎正治記念賞を受賞。こうした初期の成果が三品彰英らに高く評価され、のち関西に拠点を移した。『日本神話の形成』(1970年)で文学博士号を取得して以降、天理大学をはじめ関西の各大学でそれぞれ教授をつとめた。 1922年、日本統治時代の朝鮮全羅南道木浦の栄町(日本人街)で貿易を営んでいた商家に生まれた。原籍は山口県熊毛郡室津村。
中原 功(なかはら いさお、1922年9月5日 - 1996… 中原 功(なかはら いさお、1922年9月5日 - 1996年1月18日)は、日本の経営者。東急ストア社長を務めた。福岡県出身。 1944年に東京帝国大学文学部を経て、1946年に東京帝国大学大学院を修了し、1947年1月に毎日新聞社に入社。1957年3月に東急電鉄を経て、1966年3月に東急ストアに転じ、常務に就任し、1970年4月に専務、1978年5月に副社長を経て、1981年5月に社長に就任。1993年5月には会長に就任。 1984年5月から1986年5月までに日本チェーンストア協会会長を務め、東急百貨店取締役も務めた。 1986年5月に藍綬褒章を受章。 1996年1月18日心不全のために死去。
大塚 清次郎(おおつか せいじろう、1921年9月5日 - … 大塚 清次郎(おおつか せいじろう、1921年9月5日 - 1995年10月3日)は、日本の政治家。位階は従四位勲二等、勲章は瑞宝章。参議院議員(2期、自由民主党)。自由民主党参議院副幹事長。 1921年佐賀県鹿島市生まれ。1939年佐賀県立佐賀商業学校卒業。その後、南満洲鉄道入社。敗戦を満洲で迎える。 1946年引き揚げ、浜町農業協同組合に就職。その後、鹿島市農業協同組合長、佐賀県農業協同組合中央会会長、日本園芸農業協同組合連合会会長、日本果汁農業協同組合連合会会長を歴任。1955年鹿島市議会議員選挙当選。以後4期16年務める。1971年佐賀県議会議員当選、以後4期15年務め、副議長も経験。 1986年、第14回参議院議員通常選挙で佐賀県選挙区から自由民主党公認で立候補し、初当選。
三﨑 千恵子(みさき ちえこ、本名:宮阪 トシ、旧姓:榊原、… 三﨑 千恵子(みさき ちえこ、本名:宮阪 トシ、旧姓:榊原、1920年(大正9年)9月5日 ‐ 2012年(平成24年)2月13日)は、東京府北豊島郡西巣鴨町(現:東京都豊島区)出身の女優。東洋高等女学校卒業。夫は宮阪将嘉(1997年に死別)。 家業は青果問屋であった。 東洋高等女学校卒業後、白木屋(現在の東急百貨店)に入社。そこのコーラス部に入ったことがきっかけで、1939年に松竹演芸部に歌手として所属。 その後、ムーランルージュなどを経て、1954年に劇団民藝へ入団(新藤兼人監督の『どぶ』でスクリーンデビューも果たす)。 1967年に劇団を退団。 1969年から始まった『男はつらいよ』シリーズに車寅次郎のおばちゃん・車つね役として計49作で起用され、これが当たり役となる。
上村 占魚(うえむら せんぎょ、1920年9月5日 - 19… 上村 占魚(うえむら せんぎょ、1920年9月5日 - 1996年2月29日)は俳人、随筆家。熊本県人吉市生まれ。本名・武喜。東京美術学校卒。『ホトトギス』同人。松本たかしに師事。『みそさざい』主宰。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
丹羽 基二(にわ もとじ、1919年9月5日 - 2006年… 丹羽 基二(にわ もとじ、1919年9月5日 - 2006年8月7日)は、日本の民俗学者、苗字・家紋研究家。イタリアのオリエンタル大学名誉教授、文学博士。日本家系図学会会長、日本伝統美保存会、地名を守る会代表などを歴任した。 1919年、栃木県で生まれた。1944年、國學院大學国文科を卒業する。卒論のテーマは『源氏物語』。柳田國男、樋口清之、折口信夫、太田亮らに師事した。高校教師の傍ら苗字調査を続け、1980年の退職後に本格的な研究活動に入り、全国の100万基の墓を巡った。 2006年8月7日、肺炎のため逝去。 栃木県佐野市に住んでいた幼少時に、隣組の住人の苗字、四十八願(よいなら)に関心を抱き、師事した柳田國男にその苗字について質問をしたところ、柳田に勧められ苗字の研究を開始する。
久保 克彦(くぼ かつひこ、1918年9月5日 - 1944… 久保 克彦(くぼ かつひこ、1918年9月5日 - 1944年7月18日)は、日本の画家。東京美術学校工芸科図案部(現・東京芸術大学デザイン科)を首席で卒業した後、太平洋戦争の中国戦線に出征し、戦死した戦没画学生。東京美術学校卒業生の戦没者はわかっているだけで167名おり、久保はそのうちの1人である。卒業後直ちに応召した後、ほどなく戦死しているので目立った作品が多いわけではないが、1971年 (昭和46年) に東京芸術大学芸術資料館に展示された「図案対象」は、戦没画学生の作品発掘のきっかけの1つになった。 久保克彦は、1918年(大正7年)に山口県熊毛郡佐賀村佐合島(現平生町)の醤油醸造業を営む家で女4人男2人の6人兄弟の末っ子として生まれた。
小野 周(おの しゅう、1918年(大正7年)9月5日 - … 小野 周(おの しゅう、1918年(大正7年)9月5日 - 1995年(平成7年)4月24日)は、日本の物理学者。学位は、理学博士(九州大学、1951年)(学位論文「臨界現象及び表面現象の統計熱力学」)。東京大学名誉教授。元群馬大学学長。日本物理学会会長を3期3年間務めた。勲二等旭日重光章受章。福岡県福岡市生まれ。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
内田 芳郎(うちだ よしろう、1918年(大正7年)9月5日… 内田 芳郎(うちだ よしろう、1918年(大正7年)9月5日 - 2008年(平成20年)2月11日)は、日本の参議院議員。旧名・俊朗。 熊本県出身。1940年明治大学政治経済学部を卒業後、竹中工務店に勤務し、営業部長などを歴任。1965年に自由民主党から第7回参議院議員通常選挙に全国区から出馬し当選。第3次佐藤内閣で通商産業政務次官に就任。日中協会役員などを務めた他、小金井カントリー倶楽部の理事を務め、愛好家として知られる内閣総理大臣・田中角栄にゴルフの手ほどきをした。
金 濬泰(キム・ジュンテ、朝鮮語: 김준태、1915年9月5… 金 濬泰(キム・ジュンテ、朝鮮語: 김준태、1915年9月5日 - 1987年10月1日または10月4日)は、満洲国および大韓民国の検察官、官僚、弁護士、政治家。第2・5・6代韓国国会議員。 慶尚北道清道郡出身。大邱公立商業学校(現・大邱商苑高等学校)、満州新京大同学院卒。中央大学法律研究所修了。1939年朝鮮弁護士予備試験合格、1943年高等文官試験司法科合格、その後満洲国国務院事務局で勤務した。弁護士として23年活動したほか、1948年に大邱地方検察庁検事、1958年に民主党清道郡党委員長・監察部長、1960年に民主党院内副総務・監察委員長・院内対策委員会委員、1961年に張勉第2次改造内閣の復興部政務次官、1963年に自由民主党結党発起準備委員会メンバー・同党政策委員、同年末からは民主共和党党務委員・院内副総務・中央常任委員・絶糧危機克服委員長・党紀委員を務めた。
李 敏雨(イ・ミヌ、1915年9月5日 - 2004年12月… 李 敏雨(イ・ミヌ、1915年9月5日 - 2004年12月9日)は、大韓民国における政治家。1958年に行われた第4代総選挙で初当選(民主党)した後、国会議員を通算6期務めた。その間、国会副議長(1976年3月12日~79年3月11日)や第五共和国時代(1980年 - 1988年)における最大野党であった新韓民主党の総裁を務めるなど、権威主義時代の韓国における代表的な野党政治家として活躍した。 1915年9月15日、忠清南道論山で生まれる。本貫は慶州李氏。日本の明治大学法学部を中退後(1941年)、朝鮮に帰国。解放後の1946年に忠北新報の総務局長兼営業局長となり、48年に清州市議会副議長となった。
青木 茂男(あおき しげお、1915年9月5日 - 1987… 青木 茂男(あおき しげお、1915年9月5日 - 1987年7月22日)は、日本の会計学者。 1915年、神奈川県浦賀町(現横須賀市)生まれ。1938年に早稲田大学商学部を卒業し、卒業と同時に同大学助手となる。1941年より講師、1947年より助教授、1949年より教授。1960年には「近代内部監査の研究」で早稲田大学より商学博士の学位を取得。1966年から1968年には商学部学部長を務めた。1986年に定年退任し、名誉教授となる。その後も、亜細亜大学客員教授を務めるなど教鞭をとった。1987年に死去。
今井 秀喜(いまい ひでき、1914年9月5日 - 2014… 今井 秀喜(いまい ひでき、1914年9月5日 - 2014年5月17日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。 父、今井登志喜は東京帝国大学文学部の学部長を務めた歴史学者。 東京府立第五中学校(現:都立小石川高等学校)から(旧制)第一高等学校を経て,1939年東京帝国大学理学部地質学科を卒業、同工学部助手となる。1944年助教授、1958年教授に昇進し、鉱山学科応用地質学第一研究室を担当した。1958年東京大学より工学博士の学位取得。学位論文の表題は「本邦における銅・亜鉛・鉛鉱床の地質構造、共生関係並びに成因に関する研究」。1975年定年退官し、名誉教授となる。 1987年、勲三等旭日中綬章を受章。
八木 健三(やぎ けんぞう、1914年9月5日 - 2008… 八木 健三(やぎ けんぞう、1914年9月5日 - 2008年7月18日)は、日本の岩石学者。自然保護運動家。北海道大学、東北大学名誉教授。父は長野県地学会初代会長の八木貞助。 長野県長野市生まれ。旧制伊那中学、旧制八高を経て、1938年東北帝国大学理学部岩石鉱物学科卒業。同年母校助手、1951年同大学教授を経て、1962年-1978年北海道大学理学部地質学鉱物学科教授、1978年-1988年北星学園大学教授。 1949年に理学博士(東北大学)「樺太、北海道に於ける特殊なる岩漿分化現象の研究」。日本学術会議会員として発展途上国との学術交流に尽力した。
佐方 信博(さかた のぶひろ、1914年9月5日 - 200… 佐方 信博(さかた のぶひろ、1914年9月5日 - 2008年9月24日)は、熊本県出身の郵政官僚。元富士重工業副社長。 熊本逓信局業務部長、郵務局服務課長、経理局主計課長、大臣官房文書課長兼大臣官房調査課長、名古屋郵政局長などを歴任。
林 八郎(はやし はちろう、1914年(大正3年)9月5日 … 林 八郎(はやし はちろう、1914年(大正3年)9月5日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人、皇道派。最終階級は陸軍少尉。二・二六事件で反乱部隊の首相官邸襲撃指揮官。
松野 栄一郎(まつの えいいちろう、1914年9月5日 - … 松野 栄一郎(まつの えいいちろう、1914年9月5日 - 1948年8月1日)は、日本の陸上競技(投擲競技)選手。 1936年ベルリンオリンピックに、男子ハンマー投で出場した。 1934年、旧制甲南高等学校卒業。京都帝国大学に進む。日本陸上競技選手権大会では、1934年に円盤投で、1935年にハンマー投で優勝。 京都大学採鉱科3年の時、1936年ベルリンオリンピックで男子ハンマー投に出場した。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
押田 勇雄(おしだ いさお、1914年9月5日 - 1988… 押田 勇雄(おしだ いさお、1914年9月5日 - 1988年4月10日)は、日本の物理学者。上智大学名誉教授。理学博士(東京大学)。 神奈川県横浜市西戸部出身。母は日本画家押田翠雨。1939年、東京帝国大学理学部物理学科卒業。1951年、「液体の物性論的研究」で東京大学より理学博士の学位を取得。東京帝国大学助手を経て、1940年に名古屋帝国大学工学部助教授。1951年、小林理学研究所研究員となり、1953年に主任研究員兼学習院大学教授。1965年、上智大学教授へ転じ、1985年に定年を迎えて名誉教授となった。また、太陽エネルギー研究所所長を務めた。墓所は多磨霊園。
小嶌川 庄吉(こじまがわ しょうきち、1914年9月5日 -… 小嶌川 庄吉(こじまがわ しょうきち、1914年9月5日 - 1946年9月15日)は、現在の東京都江東区出身で立浪部屋に所属した力士。本名は米花 庄吉(こめばな しょうきち)。173cm、102kg。最高位は西前頭5枚目。引退後は4代八角を襲名したが、在職中に死去した。 1928年5月初土俵、1934年5月十両昇進。1938年1月新入幕。肋膜を患って1942年5月限り急遽引退し、7月の八角(大鳴門)の死去により八角を襲名した。素早い出足からの激しい突っ張り、押しを武器に人気を集めた江戸っ子力士であった。1946年巡業先で32歳で急死。 同部屋の羽黒山が横綱に昇進した際、土俵入りの露払いを務めた。
霜多 正次(しもた せいじ、1913年9月5日 - 2003… 霜多 正次(しもた せいじ、1913年9月5日 - 2003年4月16日)は、日本の小説家である。元日本共産党員。 沖縄県国頭郡今帰仁村に生まれた。沖縄県立第一中学校から旧制五高に進学。同級の梅崎春生と親交を結び、文学の道をめざす。東京帝国大学英文科卒業後、1940年に応召し、各地を転戦したあとブーゲンビル島に配属される。日本の敗色が濃厚となった1945年5月、オーストラリア軍に投降し、捕虜となる。 復員後、故郷には戻らず、東京で文学をめざし、新日本文学会の事務局に勤務しながら小説を書く。1950年、雑誌『新日本文学』に「木山一等兵と宣教師」を発表、作家として認められるようになる。 このころから、西野辰吉・窪田精・金達寿たちと交流を深めていく。
伊藤 逸平(いとう いっぺい、1912年9月5日 - 199… 伊藤 逸平(いとう いっぺい、1912年9月5日 - 1992年12月18日)は、日本の写真・漫画評論家。 愛知県出身。本名は武夫。1936年日本大学芸術学部卒。1941年玄光社に入社。1943年より「写真文化」(のち「写真科学」)編集長を務め、映像、絵画、漫画、グラフィックデザイン等の批評運動を行なう。「カメラ」の編集長となり写真評論に活躍。1946年イヴニングスター社の専務兼編集局長として漫画風刺雑誌「VAN」を創刊、編集長として谷内六郎らを発掘した。漫画評論家の草分け。
岡 一雄(おか かずお、1911年9月5日 - 1986年8… 岡 一雄(おか かずお、1911年9月5日 - 1986年8月28日)は、日本の経営者、銀行家。足利銀行社長を務めた。島根県平田市出身。 1933年に高等文官試験行政科に合格し、1934年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。 1958年に中小企業金融公庫理事を経て、1960年11月に足利銀行常務に就任し、1961年11月に専務、1972年5月に副頭取を経て、1974年4月には社長に就任。1978年6月から1982年6月までに特別顧問を務めた。 1981年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1986年8月28日脳梗塞のために死去。74歳没。
竹脇 昌作(たけわき しょうさく、1910年9月5日 - 1… 竹脇 昌作(たけわき しょうさく、1910年9月5日 - 1959年11月9日)は、日本のアナウンサー。 新潟県出身とされる一方、戸籍謄本には「富山県射水郡作道村大字殿村津幡江村(現在の射水市殿村)生まれ」と記載されている。 もし新潟県生まれだった場合、同県生まれ初のNHKアナウンサーである可能性が極めて高い。 青山学院大学英文科卒業。子供のころから美声として評判で、1934年にNHKが初めて行った全国規模のアナウンサー採用試験に合格し、同期25名の一員として4月に入局したが、わずか1か月後の養成期間中に退職した。退職理由はNHKが解雇したもので、竹脇のアナウンサーとしての能力を認める同期のアナウンサーたちは、解雇の話を聞いて抗議しようとしたが、竹脇が「解雇理由は分かっている。
中川 順夫(なかがわ のりお、1909年9月5日 - 200… 中川 順夫(なかがわ のりお、1909年9月5日 - 2004年)は、日本の映画監督、脚本家である。伊世 亜夫の筆名も持つ。 1909年(明治41年)9月5日、大阪府に生まれる。 1926年(大正15年)、旧制・大阪府立今宮職工学校(現在の大阪府立今宮工科高等学校)を卒業、1930年(昭和5年)、新興キネマ演出部に入社した。1934年(昭和9年)、田坂具隆監督の『月よりの使者』に助監督としてついた後に、脚本部に異動した。1939年(昭和14年)、須山真砂樹監督の『泣き笑ひの天国』で脚本家としてデビューした。 その後、読売新聞社映画部、日本映画社に移籍し、ドキュメンタリー映画の製作に携わる。1940年(昭和15年)、『オモチャの科学』で監督としてデビューした。
有坂 秀世(ありさか ひでよ、1908年(明治41年)9月5… 有坂 秀世(ありさか ひでよ、1908年(明治41年)9月5日 - 1952年(昭和27年)3月13日)は、日本の言語学者、日本語学者。日本語の音韻史や音韻論に関して業績を遺した。上代特殊仮名遣に関する有坂の法則で知られる。 大学卒業後、矢継ぎ早に論文を出し、当時の学界の第一線に立った。しかし、その活躍は卒業後のわずか10年間のみであり、その10年もほとんどの時間を病院・診療所で過ごしている。33歳以降は論文の数は激減し、闘病の末43歳で没した。橋本進吉から、東京帝大の国語学主任教授の後任と白羽の矢を立てられながら、辞退したのも病身の故であった。 有坂が昭和5年12月に東京帝国大学へ提出した卒業論文は、言語学科主任教授の藤岡勝二教授ひとりが目にしたと思われ、現存はしないようである。
平田 敬一郎(ひらた けいいちろう、1908年9月5日 - … 平田 敬一郎(ひらた けいいちろう、1908年9月5日 - 1992年5月22日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。 長崎県南高来郡瑞穂村(のち瑞穂町、現雲仙市)出身。実家には古部の佐嘉領境界石がある。島原中学校(長崎県立島原高等学校)、第五高等学校、東京帝国大学法学部法律学科(英法科)を経て、大蔵省入省(配属先は東京税務監督局兼主税局)。1932年(昭和7年)12月 和歌山税務署長。1934年(昭和9年)6月 淀川税務署長。1935年(昭和10年)6月 北税務署長。大臣官房戦後緊急対策企画室主幹、終戦連絡部主幹、物価部第一課長、物価庁第一部長、主税局長などを歴任。税のエキスパートとして知られた。
二代目 津村重舎(つむら じゅうしゃ、1908年(明治41年… 二代目 津村重舎(つむら じゅうしゃ、1908年(明治41年)9月5日 - 1997年(平成9年)7月12日)は、日本の実業家。東京都出身。株式会社津村順天堂(現 株式会社ツムラ)の二代目社長。漢方の復権に尽力した。幼名は基太郎。 1874年(明治7年)発布の「医制」以後、日本の医療は西洋医学中心となり漢方医学・東洋医学は凋落していたが、1957年(昭和32年)10月、二代目重舎は自社ビル(中将湯ビル)の一部を漢方診療所(現金匱会診療所)とし、大塚敬節を中心として小出弥生、藤平健、伊藤清夫、相見三郎、山田光胤、大塚恭男ら著名な漢方医を迎え入れる。翌年その診療所は医療法人としての認可を受け、二代目重舎が理事長となるが、日本で漢方診療施設が法人認可されるのは初であった。
毛利 元靖(もうり もとやす、1908年〈明治41年〉9月5… 毛利 元靖(もうり もとやす、1908年〈明治41年〉9月5日 - 1961年〈昭和36年〉9月18日)は、徳山毛利家第12代当主。 1908年(明治41年)9月5日、山口県都濃郡徳山町において、旧徳山藩毛利家第11代当主・毛利元秀の長男として生まれる。 東北大学経済科卒業後、南満洲鉄道に入社し、本社総裁室管理課長代理、新京支社殖産課長、総務局管理課長などを務める。 1942年(昭和17年)5月に父・元秀が死去し、同年7月に家督を継承した。 1945年(昭和20年)10月に妻の毛利行子が死去。 1948年(昭和23年)3月に山口県公安委員となり、5月からは旅館「岐山」を経営し、1954年(昭和29年)12月に徳山商工会議所会頭に選ばれた。
田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)… 田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)9月5日 - 2002年(平成14年)2月7日)は、日本の実業家。三菱商事社長・会長、日本商工会議所副会頭。 広島県広島市出身。名前は文一郎だが男女9人兄弟姉妹の四番目。一郎・二郎・三郎の繰り返しで文一郎となった。実家は中級の燃料商で、当時から広島ガスや三菱商事などとも石炭で取引があった。両親はサラリーマンが嫌いで息子はみな商売人となるよう教育した。父親はさほど仕事に熱心でなく、よく仕事を休んでいたという。広島市立本川小学校6年の頃から集金をやらされたが子供の集金に取引先はお金を払わず。子供ながら絶対商売人にはなりたくないと強く願い、他の男兄弟はみな商業学校に行った中で一人だけ広島県立一中(現・広島国泰寺高校)へ進学した。
大邱山 高祥(たいきゅうざん たかよし、1907年9月5日 … 大邱山 高祥(たいきゅうざん たかよし、1907年9月5日 - 1983年6月14日)は、岡山県児島郡粒江村(現:岡山県玉野市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は臼井 悧(うすい さとし)。最高位は東関脇。 1907年9月5日に岡山県児島郡で陸軍御用商人の家に生まれる。角界で活躍している同郷の常ノ花寛市に憧れて、1924年秋に出羽海部屋へ入門、1925年1月場所で初土俵を踏んだ。四股名の「大邱山」は現在の大韓民国・大邱市に由来しており、このことから朝鮮半島出身のようにも見えるが、陸軍の御用商人であった父親の仕事の関係で一家で同地に居住していたことに因んだものである。初土俵からは順調に出世していき、1932年に勃発した春秋園事件による繰り上げ措置で十両へ昇進、同年5月場所には新入幕を果たした。
靱 勉(うつぼ つとむ、1904年9月5日 - 1970年1… 靱 勉(うつぼ つとむ、1904年9月5日 - 1970年12月15日)は、日本の官僚、実業家。次女はバレリーナのゆうきみほ(本名:靭啓子)。 東京出身。1929年(昭和4年)、東京帝国大学卒業後、逓信省入省。電気通信省次官となり、1952年(昭和27年)8月から1958年(昭和33年)9月まで日本電信電話公社初代副総裁を務める。その後国際電信電話株式会社(KDDIの前身の1つ)代表取締役社長となり、電気通信の発展に貢献した。1965年(昭和40年)12月から1967年(昭和42年)6月まで、NHK経営委員長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
石塚 喜久三(いしづか きくぞう、1904年9月5日 - 1… 石塚 喜久三(いしづか きくぞう、1904年9月5日 - 1987年10月1日)は、日本の昭和期の小説家。 北海道小樽市花園出身。函館師範学校(現・北海道教育大学函館校)卒業。小樽市の国民学校の教員を務めた後中国大陸に渡り、華北交通張家口鉄路局に勤務した。蒙疆文芸懇話会幹事にも就任。 1943年、『蒙疆文學』1月号に寄せた「纏足の頃」で第17回芥川賞受賞。 1949年、後藤杜三らと「北海道文学者の会」結成。戦後は官能小説を書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
野原 四郎(のはら しろう、1903年9月5日 - 1981… 野原 四郎(のはら しろう、1903年9月5日 - 1981年1月3日)は、日本の東洋史学者。専攻は中国近現代史。 1903年、北海道札幌市で生まれた。生家は札幌市内で勧工場(現在の百貨店の前身)を営んでいた。高輪中学、浦和高校文科丙類を経て、東京帝国大学東洋史学科に進学。同級には、江上波夫、増井経夫がいた。1930年、卒業論文『高蝶(中国古代の結びの神)について』を提出して卒業した。これは、フランスの東洋学者・マルセル・グラネの説を参照しつつ論じたものであった。 卒業後は史学会委員(有給)となった(1932年まで)。1930年、『史学雑誌』に郭沫若著『中国古代社会研究』の書評を発表。史学会幹部からは良い評価が得られなかったものの、翌1931年に偶然亡命中の郭沫若に東洋文庫で会い、同書について意見交換。
棟方 志功(むなかた しこう、1903年〈明治36年〉9月5… 棟方 志功(むなかた しこう、1903年〈明治36年〉9月5日 - 1975年〈昭和50年〉9月13日)は、日本の板画家。従三位。最晩年には約半年間、棟方志昂と改名した。 青森県青森市出身。川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。1942年(昭和17年)以降、棟方は版画を「板画」と称し、一貫して木版の特性を生かした作品を作り続け、その偉業から板画家として世界的に知られる。墨書や「倭画」(やまとえ)と名付けた肉筆画も残している。 棟方は、昭和26(1951)年11月、疎開先の富山県福光町から鈴木信太郎の旧アトリエだった荻窪四丁目57番地(現・上荻一丁目)の家に移り、昭和50(1975)年9月13目、72歳で亡くなるまで杉並に住んでいた。
滿尾 君亮(みつお きみすけ、1901年(明治34年)9月5… 滿尾 君亮(みつお きみすけ、1901年(明治34年)9月5日 - 1994年(平成6年)8月3日)は、日本の政治家、衆議院議員、運輸官僚。 満尾彦吉の長男として、鹿児島県鹿児島市上之園町で生まれ。4年生まで中洲尋常小学校に通い、鹿児島県師範学校附属小学校に転校し卒業する。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て第七高等学校造士館 (旧制)文科甲類卒業する。旧制鹿児島二中では、のちの鹿児島市長平瀬實武と同級となる。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科に入学し。在学中の1925年(大正13年)11月高等文官試験外交科に合格する。1925年(大正14年)に卒業し。鉄道省に奉職する。その年の月に高等文官試験行政科にも合格する。
三宅 博(みやけ ひろし、1901年9月5日 - 1993年… 三宅 博(みやけ ひろし、1901年9月5日 - 1993年12月18日)は、日本の医学者。九州大学名誉教授。専門は消化器外科学。胆石症の権威。 九州帝国大学医学部第一外科初代教授を務めた三宅速の長男として徳島県に生まれる。福岡県立中学修猷館、旧制佐賀高等学校を経て、1927年九州帝国大学医学部を卒業。 大学卒業後、九大医学部の赤岩八郎教授の第一外科に入局。助手を経て、1933年1月講師となり、1934年3月助教授に就任。その後、1934年10月から1936年8月にかけて在外研究員としてドイツに留学し、キール大学のアンシュッツ(Wilhelm Anschütz)教授に師事する。 1938年7月長崎医科大学第一外科教授、1941年12月岡山医科大学第一外科教授を務めた後、1947年7月、父が初代教授を務めた九州大学医学部第一外科の第4代教授に就任。
望月 百合子(もちづき ゆりこ、1900年(明治33年)9月… 望月 百合子(もちづき ゆりこ、1900年(明治33年)9月5日 - 2001年(平成13年)6月9日)は、日本の評論家。
加藤 閲男(かとう えつお、1900年 <明治33年> 9月… 加藤 閲男(かとう えつお、1900年 <明治33年> 9月5日 - 1975年 <昭和50年> 12月5日)は、昭和時代の労働運動家。国鉄労働組合(国労)初代執行委員長。位階は正五位。 熊本県熊本市生まれ。石川県金沢市出身(本籍)。釜山中学校卒業。1920年から国鉄に勤務。敗戦直後は両国駅助役をしていたが、当局の推挙で組合活動に参加。国鉄千葉従組委員長を経て、1946年国鉄東京地方労組委員長に就任。同年7月に運輸省が国鉄7万5000人の整理を発表に対し、9月に国鉄総連合はスト決行の方針で大会を開催し、大阪など5地連はスト延期を主張して退場したが、東京など4地連はストの指令を発した。スト決行前に当局が7万5000人の整理を全面的に撤回したため、争議に勝利した国鉄総連合はスト中止を決定。