原口 幸隆(はらぐち ゆきたか、1917年12月7日 - 1… 原口 幸隆(はらぐち ゆきたか、1917年12月7日 - 1979年3月15日)は、昭和時代の労働運動家。日本労働組合総評議会(総評)議長。 福岡県生まれ。戸籍上は1918年1月7日生まれ。1941年九州帝国大学法文学部卒業、住友鉱業別子鉱業所に入社。エリートコースから労働運動に入り、1947年別子鉱業所職員組合委員長、全日本金属鉱山労働組合連合会(全鉱)副委員長。1948年から1979年2月(1953年を除く)まで全鉱委員長。1949年国際自由労連(ICFTU)結成大会に出席、1953年同東京事務所所長、1962年同加盟組合連絡会議議長。1956~1958年日本労働組合総評議会(総評)議長。1966~1971年総評民間単産会議議長。
大島 孝一(おおしま こういち、1916年12月7日 - 2… 大島 孝一(おおしま こういち、1916年12月7日 - 2012年8月27日)は、日本の教育者、物理学者、平和運動家。女子学院院長。 熊本市に生まれる。1935年福岡県中学修猷館、1937年旧制福岡高等学校理科乙類を経て、1940年、東北帝国大学理学部物理学科卒業。 1941年、福岡管区気象台に勤務中に応召し陸軍の気象班員となる。終戦後、1945年の暮れに九州に向かう途中で、原子爆弾で焼野原となった広島を見て衝撃を受け平和運動を志す。 その後、東北大学理学部地球物理学教室助手を経て、岩手大学学芸学部の物理学の助教授となり、岩手県農村文化懇談会の一員として『戦没農民兵士の手紙』(岩波新書、1961年)の編集に参加している。
堀 昌雄(ほり まさお、1916年12月7日 - 1997年… 堀 昌雄(ほり まさお、1916年12月7日 - 1997年8月29日)は、日本の政治家。元日本社会党衆議院議員。 京都府京都市出身。旧制高知高等学校を経て大阪帝国大学医学部を卒業し、太平洋戦争では海軍軍医として作戦に参加した。戦後に、1942年2月のシンガポール華僑粛清事件について国会で発言している。日本医師連盟公認での衆院選出馬、落選を経て、1958年、第28回衆議院議員総選挙に旧兵庫2区から出馬して初当選し、以後11回当選した。社会党内では右派の系譜に属し、武藤山治、佐藤観樹と「堀グループ」を形成した。 西欧の社会民主主義を手本に、教条的なマルクス・レーニン主義からの変節を求めた。また、衆議院大蔵委員会の委員を長く務め、社会党きっての財政通として知られた。
川合 辰雄(かわい たつお、1916年12月7日 - 201… 川合 辰雄(かわい たつお、1916年12月7日 - 2019年3月3日)は、日本の経営者。 山形県南陽市出身。1940年に早稲田大学理工学部電気工学科を卒業し、同年に九州水力電気に入社。 1942年4月に九州配電(のちの九州電力)に転じ、1971年5月に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1983年6月に社長に就任した。1987年6月に会長に就任し、1997年7月から相談役を務めた。 1981年4月に藍綬褒章を受章し、1991年11月に勲一等瑞宝章を受章。 2019年3月3日誤嚥性肺炎のために死去。102歳没。
中田 幸吉(なかだ こうきち、1915年〈大正4年〉12月7… 中田 幸吉(なかだ こうきち、1915年〈大正4年〉12月7日 - 1980年〈昭和55年〉9月18日)は、日本の農林技官、政治家。富山県知事(3期)。位階は正四位。勲二等瑞宝章綬章。 富山県富山市出身。薬種商・15代中田清兵衛の五男として生まれる。富山高等学校を経て、1940年(昭和15年)、東京帝国大学農学部林学科を卒業。農林省に入り山林局に勤務。 1952年(昭和27年)、沼田営林署長に就任。長野県林産課長、同林業課長、同林務部長を歴任。1963年(昭和38年)、林野庁林道課長となる。1966年(昭和41年)、富山県に派遣され農地林務部長を務める。 1969年(昭和44年)12月、吉田実の衆院選出馬による辞職に伴い行われた県知事選に自民党の公認を受けて富山県知事選に出馬。
三宅 芳夫(みやけ よしお、1913年(大正2年)12月7日… 三宅 芳夫(みやけ よしお、1913年(大正2年)12月7日 - 1983年(昭和58年)4月26日)は、元体操選手。 日本体育大学出身。1936年ベルリンオリンピックに出場した。引退後は、中京大学の教員となった。 この項目は、体操に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:スポーツ/Portal:スポーツ)。
舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2… 舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2002年2月5日)は、日本の彫刻家。佐藤忠良と共に戦後日本を代表する具象彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。東京藝術大学名誉教授。文化学院出身。直彫りによる石彫の第一人者とされ、日本でまだ石彫が珍しかった時代に、大理石や砂岩を使った作品に取り組み、独自のスタイルを築いた。 画家・俳人の妻道子との間に子供6人。次男の舟越桂や三男の舟越直木も彫刻家として活躍。長女の末盛千枝子(末盛憲彦の妻)は、児童文学編集者で「すえもりブックス」経営者。四女の舟越カンナはアーティスト・絵本作家。 1912年、岩手県二戸郡一戸町小鳥谷生まれ。父親が熱心なカトリック信者だった。
坪内 八郎(つぼうち はちろう、1912年〈大正元年〉12月… 坪内 八郎(つぼうち はちろう、1912年〈大正元年〉12月7日 - 1996年〈平成8年〉12月25日)は、昭和期の教育者、政治家。衆議院議員、剣道七段・達士。 長崎県出身。1940年(昭和15年)日本大学高等師範部修身公民科を卒業した。 帝京商業学校(現帝京大学中学校・高等学校)教諭、長崎逓信講習所教官、長崎市立商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)教諭、同第二商業学校(長崎市立長崎高等学校となり2000年閉校)教諭などを務めた。 政界では、長崎県議会議員、長崎市議会議員に選出された。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で長崎県全県区に無所属で出馬して落選。今村等の公職追放、本田英作の死去により1948年(昭和23年)11月に実施された第23回総選挙の長崎県第1区補欠選挙に民主自由党公認で出馬して初当選。
江上 茂(えがみ しげる、1912年12月7日 - 1981… 江上 茂(えがみ しげる、1912年12月7日 - 1981年1月8日)は、松濤館空手家の開拓者であり、松濤会の創始者。現代空手の創始者として広く知られる船越義珍の弟子。 江上は1912年12月7日、 福岡県大牟田市に生まれた。船越義珍の初期の弟子の一人で、江上は早稲田大学に進学して船越と出会った。江上は大学の空手部の設立につとめる。その前に彼はすでに柔道、剣道、合気道などを経験していた。 江上は船越義珍と息子の船越義豪 、下田猛とともに、空手を日本の武道として宣伝するために、展覧会のステージを回って日本中を旅した。最年少のインストラクターとして船越義珍から評価委員に選出され。以降は学習院、東邦、中央大学で空手を教えた。
深瀨 信千代(ふかせ のぶちよ、1911年12月7日 - 1… 深瀨 信千代(ふかせ のぶちよ、1911年12月7日 - 1985年9月25日)は、日本の実業家、元官僚、元俳優である。終戦後の一時期、牧 壮吉(まき そうきち)を名乗り、東宝の専属俳優として活動していた。 1911年(明治44年)12月7日、北海道函館市に生まれる。 函館市立弥生小学校、旧制奈良県立奈良中学校(現在の奈良県立奈良高等学校)、旧制第四高等学校文科(乙類)をそれぞれ卒業後、京都帝国大学法学部(現在の京都大学)に進学する。旧制高校時代は時習寮委員長を務め、また、大学時代まで陸上競技部の投擲選手としてもならした。 1934年(昭和9年)、京都帝国大学卒業と同時に満洲国へ渡り、南満州鉄道株式会社に入社。
池ノ上 容(いけのうえ ひろし、1910年(明治43年)12… 池ノ上 容(いけのうえ ひろし、1910年(明治43年)12月7日 - 2003年(平成15年)4月18日)は、日本の造園研究者。国立公園行政家。千葉大学園芸学部教授を歴任。国立公園創設期から国立公園行政に携わり終生自然公園と共に歩んだ先覚者。鹿児島県生まれ。台湾育ち。 旧制台北高等学校を経て1933年(昭和8年) 東京帝国大学農学部林学科を卒業。1933年(昭和8年) 内務省嘱託となり、衛生局保健課国立公園係に就任。当時内務省に入ったころはまだ国立公園の指定準備が進められている時期で、入省後間もなく中部山岳地域の現地調査に赴き何カ月も北アルプスの山々を歩き回り、5万分の1地形図に記載されている歩道は全て歩いたという。
山本 藤枝(やまもと ふじえ、1910年〈明治43年〉12月… 山本 藤枝(やまもと ふじえ、1910年〈明治43年〉12月7日 - 2003年〈平成15年〉7月7日)は、日本の児童文学作家、翻訳家、女性史研究家。 本名・フジヱ(旧姓・岡村)。筆名に露木 陽子(著書節、再話・翻訳節参照)。夫は児童文学作家、詩人の山本和夫。ロシア児童文学の翻訳・研究家の松谷さやかはその子にあたる。 和歌山県伊都郡笠田村(現・かつらぎ町)生まれ。高等女学校を経て東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業。卒業後は神奈川高等女学校(現・神奈川学園中学校・高等学校)の教諭を務め、のちに結婚退職した。 1977年『細川ガラシャ夫人』で産経児童出版文化賞受賞。 子ども向けの伝記、海外作品の再話・翻訳した著作を多く物するとともに、とりわけ日本史上の女性の生涯の執筆に意を注いだ。
別技 篤彦(べっき あつひこ、1908年12月7日 - 19… 別技 篤彦(べっき あつひこ、1908年12月7日 - 1997年4月17日)は、日本の地理学者。 陸軍少将・別技嘉助の長男として東京に生まれる。東京府立第五中学校(現東京都立小石川高等学校)卒。1928年静岡高等学校文科甲類卒業。1932年京都帝国大学文学部史学科卒。1938年大阪商科大学予科教授、戦時中地理調査のためジャワ派遣軍に所属、南方文化研究室長。1946年帰国。1949年大阪商科大学を退職し、福井大学教授となり、1952年からは神戸商科大学教授を兼任。1954年立教大学教授、74年定年退任、名誉教授。 1962年「東南アジア諸島の居住と開発史」により京都大学から文学博士の学位を授与される。
吉原 慎一郎(よしはら しんいちろう、1908年12月7日 … 吉原 慎一郎(よしはら しんいちろう、1908年12月7日 - 2009年8月2日)は、日本の建築家。株式会社創和建築設計事務所(現 株式会社創和三幸設計)創業者。 横浜市長であった飛鳥田一雄とは神奈川県立第一中学校(現 神奈川県立希望ヶ丘高等学校)の同窓であり、その縁で横浜市内を中心とした建築物の設計を数多く手がけたことで知られている。
廣 慶太郎(ひろ けいたろう、1908年12月7日 - 19… 廣 慶太郎(ひろ けいたろう、1908年12月7日 - 1998年10月20日 )は、日本の経済人・経営者。
金 省三(キム・ソンサム、朝鮮語: 김성삼、1906年12月… 金 省三(キム・ソンサム、朝鮮語: 김성삼、1906年12月7日または1907年 - 1960年7月30日)は、大韓民国の海軍軍人(海軍少将)、政治家、弁護士。大韓民国海軍創設の功労者で第3代韓国国会議員。キリスト教徒。 咸鏡北道明川郡出身、本籍は慶尚南道昌原郡。間島永信中学校を経て日本大学専門部法科卒、満州国司法要員養成所修了。弁護士試験合格。満州国法院書記官、高等保護審判官を経て、解放後は軍に投身し、軍法務官、海軍参謀長、鎮海特設基地司令官、海軍鎮海統制府司令官、海軍本部行政参謀副長を歴任した。海軍少将として予備役編入後、自由党所属の民議員、第3代国会国防委員会委員を務めた。 1960年7月30日に死去し、1984年6月27日に国立ソウル顕忠院へ改葬された(将軍第1墓域141号)。
坂根 田鶴子(さかね たづこ、1904年12月7日 - 19… 坂根 田鶴子(さかね たづこ、1904年12月7日 - 1975年9月2日)は、日本の映画監督、映画製作者。溝口健二の下でキャリアを積み、1936年に『初姿』を監督して、日本最初の女性映画監督となった。 1904年(明治37年)12月7日、京都市上京区で縮緬織りの織元だった父・坂根清一と母・志げの間に6人兄弟の長女として生まれる。母の生家佐久間家は丹後の旧家であったが、跡取りがいなかったため、田鶴子は2歳で佐久間家の当主として登録され、佐久間田鶴子となる。しかし、田鶴子は生涯父方の苗字「坂根」を使い続けた。 夫妻の6人の子供たちのうち、長生きしたのは長男の鋭郎と長女の田鶴子の2人だけであった。父が発明で財をなしたため家は裕福で、田鶴子は今出川幼稚園から中立売小学校、京都府立京都第一高等女学校(現在の京都府立鴨沂高等学校)へ進んだ。
瀧口 修造(たきぐち しゅうぞう、1903年(明治36年)1… 瀧口 修造(たきぐち しゅうぞう、1903年(明治36年)12月7日 - 1979年(昭和54年)7月1日)は、近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱であり、近代詩の詩人とは一線を画す存在。 1903年、富山県婦負郡寒江村(のち呉羽町、現:富山市)大塚に3人姉弟の長男として生まれる。家は祖父の代から医者であり、長男の修造は当然家業を継ぐものとして期待されていた。だが、それに反するかのように本人は子供の頃から大の学校嫌いで、よく家の大黒柱につかまっていたという。小学5年生のある日、父の勤めている病院に連れて行ってもらい、実際の手術の現場を見せてもらったところ、あやうく卒倒しかける。
光田 顕司(みつだ けんじ、1903年12月7日 - 198… 光田 顕司(みつだ けんじ、1903年12月7日 - 1988年8月21日)は、日本の経営者。神戸新聞社、サンテレビジョンなどの社長を務めた。広島県因島市(現在の尾道市)出身。 1929年に関西学院大学社会学科を卒業し、1942年に神戸新聞社へ入社した。1963年から1982年までにデイリースポーツ社社長を務め、1972年8月から1982年7月までに神戸新聞社社長を務めた。1972年9月から1982年6月までサンテレビジョン社長を務めた。 1988年8月21日、脳梗塞のために死去。84歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中尾 荘兵衛(なかお そうべえ、1902年(明治35年)12… 中尾 荘兵衛(なかお そうべえ、1902年(明治35年)12月7日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 福岡県糟屋郡に生まれる。1921年福岡県立中学修猷館、1925年旧制福岡高等学校文科丙類を経て、1927年(昭和2年)12月、高等試験行政科に合格し、1928年(昭和3年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業する。陸軍に入り陸軍工兵少尉に進む。同年7月、台湾総督府専売局書記を拝命し、1932年(昭和7年)3月、新竹州中壢郡守に就任した。1933年(昭和8年)10月、台中州内務部教育課長に転じ、内務部地方課長兼水利課長、交通局副参事兼府事務官道路港湾課兼財務局主計課勤務を歴任した。
高ノ花 武也(たかのはな たけや、1902年12月7日 - … 高ノ花 武也(たかのはな たけや、1902年12月7日 - 1960年5月25日)は、現在の新潟県上越市出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は倉田 武也(旧姓藤田)。183cm、120kg。最高位は西前頭8枚目(ただし、春秋園事件に加担した為に番付が削除され、番付上の最高位は東前頭14枚目) 1921年5月場所に「高田川」の四股名で初土俵を踏む。着実に番付を上げていき、1929年1月場所で十両昇進。1931年5月新入幕、恵まれた体格で常陸山に後継者として期待されるが、その後春秋園事件に加担したことで大成できず、1933年1月に幕内格別席で復帰した場所を全休し、そのまま廃業した。廃業後は新宿で相撲料理店「つたや」を経営した。
上野 直蔵(うえの なおぞう、1900年12月7日 - 19… 上野 直蔵(うえの なおぞう、1900年12月7日 - 1984年10月2日)は、日本の英文学者・英語学者。同志社大学名誉教授。専門は中世英文学・米文学。 京都府京都市生まれ。1927年、同志社大学文学部英文学科卒。1934年から1936年まで、シカゴ大学に留学。1936年、同志社大学文学部講師、のち1938年に助教授、1941年に教授。1949年から1950年まで文学部長。1952年、チョーサーに関する論文で同志社大学より文学博士の学位を取得。1954年から1956年まで再び文学部長。1960年から1965年まで学長。1968年から1970年までアメリカ学会会長。1970年、定年退職、名誉教授となる。
堀 健夫(ほり たけお、1899年12月7日 - 1994年… 堀 健夫(ほり たけお、1899年12月7日 - 1994年6月9日)は、日本の物理学者。 富山県生まれ。京都帝国大学理学部物理学科を1923年に卒業、旅順工科大学教授を経て、1935年(昭和10年)、北海道帝国大学理学部教授となる。分子が発する光のスペクトルを実験的に調べ、量子力学を使って解析するという、分光学の実験的研究を行い、この分野の後進の育成にもあたった。戦後は二度にわたって北海道大学低温科学研究所の所長を務め、霧についての「総合的研究」をリードする。北大を辞してからは、関西学院大学、京都産業大学で教壇に立った。 堀は25歳のとき京都の旧制第三高等学校で講師として力学の授業を担当する。
坂田 徳男(さかた とくお、1898年12月7日 - 198… 坂田 徳男(さかた とくお、1898年12月7日 - 1984年7月19日)は、日本の哲学研究者、大阪市立大学名誉教授。 1898年、兵庫県で生まれた。京都帝国大学文学部哲学科で学び、卒業。 修了後は、関西学院大学教授に就いた。戦後、大阪市立大学教授。1961年に大阪市立大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、帝塚山大学教授として教鞭を執った。1984年に死去。
滑川 忠夫(なめかわ ただお、1897年12月7日 - 19… 滑川 忠夫(なめかわ ただお、1897年12月7日 - 1975年3月5日)は、日本の地球物理学・気象学者。京都大学理学部名誉教授。理学博士(京都帝国大学)。日本気象学会関西支部創設者・元支部長。日本農業気象学会元近畿支部長。河川水温調査会熱収支部会元会長。微細気象学・工業気象学の第一人者の一人。 専門は、地球物理学・気象学/気候学(特に微細気象学・工業気象学)、大気科学・水理学・農業気象学。 1897年神戸市生まれ。第二神戸中学校を卒業後、中央気象台練習部を経て、1916年中央気象台臨時雇となり神戸測候所勤務。1924年京都帝国大学理学部地球物理学科卒業(指導教授:地球物理学のパイオニアで京都大学阿武山観測所初代所長の志田順)。
柳生 繁雄(やぎゅう しげお、1897年(明治30年)12月… 柳生 繁雄(やぎゅう しげお、1897年(明治30年)12月7日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。江原道知事、咸鏡南道知事。 柳生繁一の長男として愛知県に生まれ、1900年(明治33年)家督を相続する。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し翌年、高等試験に合格した。同年、朝鮮総督府に出仕し、平安南道属、平壌専売支局長、全羅南道警察部長などを経て、1940年(昭和15年)10月、京畿道内務部長に就任する。その後、府事務官総督官房会計課長を経て、1941年(昭和16年)11月、江原道知事に任じた。のち咸鏡南道知事となった。1945年(昭和20年)退官した。
石橋 雅義(いしばし まさよし、1896年(明治29年)12… 石橋 雅義(いしばし まさよし、1896年(明治29年)12月7日 - 1978年(昭和53年)9月18日)は、昭和時代の日本の化学者。専門は分析化学。 千葉県出身。1921年(大正10年)京都帝国大学理学部化学科卒業。京都帝国大学講師、理学部助教授、ドイツ留学を経て、1936年(昭和11年)同大教授となる。1959年(昭和34年)定年退官し、同大名誉教授。その後、近畿大学教授、1961年(昭和36年)から1967年(昭和42年)にかけて金沢大学長、1969年(昭和44年)から1976年(昭和51年)にかけて奈良大学長を歴任。のち奈良大学名誉学長。ほか、海洋化学研究所長、同理事長、日本分析化学会会長、日本学術会議会員を務めた。
郁達夫(いく たつふ/いく たっふ/いく たっぷ、拼音:Yù… 郁達夫(いく たつふ/いく たっふ/いく たっぷ、拼音:Yù Dá-fū、1896年12月7日 - 1945年9月17日)は、浙江省富陽県出身の中国の近代の小説家、文章家、詩人。達夫は字で、本名は郁文 (いく ぶん)。 郁達夫は本名を郁文といい、浙江省富陽県満洲街(現在の達夫街)のインテリ一家の三男(郁家19世)として生まれた。(長兄 郁華、次兄 郁浩) 3歳の時に父が亡くなり、家が貧しくなったが7歳の時に塾に入り、9歳の時には賦詩を作るようになった。また、富陽県立高等小学に学び、之江大学予科に進学し、杭府中学に入学した(徐志と同学年である)。1913年長兄の郁華に従って、日本に留学した。ここまでの郁達夫の生活は、自伝「わが夢わが青春」に詳しく描かれている 。
徐 成達(ソ・ソンダル、朝鮮語: 서성달、1892年12月7… 徐 成達(ソ・ソンダル、朝鮮語: 서성달、1892年12月7日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 ソウル出身。日本大学法科卒。三・一運動に参加したあと中国に亡命したが、帰国途中に逮捕・収監された。その後は青年党大会、新幹会などの幹部として活躍し、親日15団体による自治要求宣言運動や朴春琴を中心とした11同盟に参加した(その活動を破壊するために参加したとも言われる)。解放後は大韓独立促成国民会高陽郡支部長、国青ソウル市参謀、朝鮮国旗奉賛会長、民族代表者大会代議員、韓国民主党中央執行委員などを歴任した。
西宮 藤朝(にしのみや とうちょう、1891年12月7日 -… 西宮 藤朝(にしのみや とうちょう、1891年12月7日 - 1970年5月19日)は、文芸評論家・翻訳家・フランス哲学研究者、教育家。 秋田県生まれ。16歳の時一家で東京に移り、大成中学校をへて早稲田大学文学部英文科卒。1918年『早稲田文学』の編集に従事、評論、翻訳を行う。1924年、早大講師、立正大学教授、1942年豊南学園を設立し校長・理事長を務めた。トルストイ、ジャン=マリー・ギュイヨーの影響を受けた。
伊藤 清(いとう きよし、1890年(明治23年)12月7日… 伊藤 清(いとう きよし、1890年(明治23年)12月7日 - 1981年(昭和56年)6月12日)は、大正から昭和期の弁護士、裁判官、政治家。衆議院議員。 千葉県匝瑳郡福岡町(八日市場町、八日市場市を経て現匝瑳市)で、伊藤啓三郎の二男として生まれる。錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第三高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 1918年8月、司法官試補に任官し、東京地方裁判所予備判事、長崎地方裁判所判事を歴任し、1921年(大正10年)7月に退官した。留学してロンドン大学、ベルリン大学で学び、在学中に司法省から英独の労働法研究の委嘱を受けた。1925年(大正14年)に帰国し弁護士を開業した。
大西 英一(おおにし えいいち、1889年〈明治22年〉12… 大西 英一(おおにし えいいち、1889年〈明治22年〉12月7日 - 1955年〈昭和30年〉12月16日)は、日本の土木技術者、実業家。工学博士。第4代日本発送電総裁や初代電力中央研究所理事長、第39代土木学会会長を務めた。 福井県で鉄道官吏の子として生まれる。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)を経て、1912年(明治45年/大正元年)名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)土木科卒業。鉄道院を経て、1914年神通川電力入社。中学・高工の先輩石川栄次郎の誘いを受け矢作水力に移り、1940年(昭和15年)取締役に昇格。 1942年日本発送電入社。1945年日本発送電理事。1947年日本発送電総裁。
保高 徳蔵(やすたか とくぞう、1889年12月7日 - 1… 保高 徳蔵(やすたか とくぞう、1889年12月7日 - 1971年6月28日)は、日本の小説家。 大阪市生まれ、早稲田大学英文科卒業。読売新聞記者、博文館編集者などをへて、1921年「棄てられたお豊」を発表し、正宗白鳥に認められる。1928年、「泥濘」で『改造』第1回懸賞創作二等に入選する。1933年、同人誌『文藝首都』を創刊し、ここから半田義之、金史良、芝木好子、大原富枝、北杜夫、田辺聖子、佐藤愛子、なだいなだ、中上健次、勝目梓、林京子など数多くの作家を輩出した。1966年、脳血栓で倒れる。闘病生活ののち1971年6月28日に死去。妻の保高みさ子も作家。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
草鹿 任一(くさか じんいち、1888年(明治21年)12月… 草鹿 任一(くさか じんいち、1888年(明治21年)12月7日 - 1972年(昭和47年)8月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。勲等は勲一等。 石川県にて誕生。父は弁護士草鹿甲子太郎。草鹿家は大聖寺藩(加賀前田家の分家)に仕えた一族であった。叔父である実業家草鹿丁卯次郎の長男が草鹿龍之介(海軍中将、海兵41期)、三男が草鹿浅之介(最高裁判所判事、弁護士)である。 金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)に通学していた頃は、叔父宅(龍之介の家)に下宿をしていた。金沢一中(第13回)を経て、四高に進んだが退学し、海軍兵学校(37期)に入校。志望者3,7000名余りの中で3番で合格した。
佐々木 家寿治(ささき かずじ / かじゅじ、1886年12… 佐々木 家寿治(ささき かずじ / かじゅじ、1886年12月7日 - 1954年3月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、宮城県知事(1期)。「百姓知事」と呼ばれた。 宮城県大崎市古川(旧・古川市)出身。宮城県古川高等学校、盛岡高等農林学校農学科(現・岩手大学農学部)で学ぶ。 志田郡志田村(のち古川市、現大崎市)助役、同村長、同村会議員、宮城県会議員、同議長、同参事会員、志田村、志田郡、宮城県各農会長となる。 1930年、仙台市長選挙に立候補したが、市会(市議会)での得票数は4位に終わり、落選した。1932年2月の第18回衆議院議員総選挙に宮城県第1区から出馬して当選。1936年の第19回衆議院議員総選挙の再選時は投票のための買収があり、虚偽の約束手形を手に入れてそれに合わせた証言が行われた偽証証憑偽造偽造証憑使用教唆事件で1937年11月4日、大審院は上告棄却し佐々木は懲役4か月の実刑判決が確定。
金井 清(かない きよし、1884年〈明治17年〉12月7日… 金井 清(かない きよし、1884年〈明治17年〉12月7日 - 1966年〈昭和41年〉4月26日)は、日本の官僚、政治家。太平洋戦争前は鉄道官僚を歴任し、戦後に長野県諏訪市長を通算2期務めた。 長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市上諏訪)に生まれる。諏訪郡立実科中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)、東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1903年に第一高等学校に入学。3年次在学中の1905年、市河三喜に代わって動物学者のアンダーソンと行動をともにし、1906年にも協力する。1905年にアンダーソンに随行した際に、奈良県東吉野村鷲家口で、最後のものとされるニホンオオカミの捕獲個体(ただし猟師によりすでに殺されていた)に立ち会っている。
岡本 武三(おかもと たけぞう、1883年(明治16年)12… 岡本 武三(おかもと たけぞう、1883年(明治16年)12月7日 - 1943年(昭和18年)1月17日)は、日本の外交官。駐イラン公使。 京都府出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。同年、外交官及領事官試験合格し翌年に領事官補として上海に勤務した。以来、領事、外務事務官、同書記官、大使館二等書記官、同一等書記官、同参事官を歴任し、その間、中国、イギリス、イタリアに勤務。さらに天津総領事、イタリア大使館参事官を経て、1932年(昭和7年)から駐イラン公使を務めた。1938年(昭和13年)には、東亜研究所発足時の理事に就任している。 1943年(昭和18年)1月17日没、墓所は東京都文京区の護国寺。
大谷 一男(おおたに かずお、1879年(明治12年)12月… 大谷 一男(おおたに かずお、1879年(明治12年)12月7日 - 1949年(昭和24年)8月9日[要出典])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡五台山村(現在の高知市)に生まれた。1898年(明治31年)高知県尋常中学校卒を経て、1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業。 1922年(大正11年)11月、歩兵大佐に昇進し、陸士本科訓育部長に就任。近衛歩兵第2連隊長、第8師団参謀長を歴任。1927年(昭和2年)7月、陸軍少将に進級し歩兵第38旅団長となる。1930年(昭和5年)3月、近衛師団司令部付となり、1931年(昭和6年)10月、旅順要塞司令官に着任。
与謝野 晶子(よさの あきこ、正字:與謝野 晶子、1878年… 与謝野 晶子(よさの あきこ、正字:與謝野 晶子、1878年〈明治11年〉12月7日 - 1942年〈昭和17年〉5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。本名は与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓は鳳(ほうまたはおおとり)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名から取ったもの。夫は、同じく歌人の与謝野鉄幹。 雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。 鳳志やうは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東一丁・甲斐町西一丁)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から疎まれて育つ。
米田 實(米田 実、まいだ〈まいた〉 みのる、1878年12… 米田 實(米田 実、まいだ〈まいた〉 みのる、1878年12月7日 - 1948年1月9日)は、大正から昭和前期の日本の新聞記者、ジャーナリスト、外交評論家、国際法学者、外交史学者。東京朝日新聞社(現・朝日新聞社)論説委員長、同社編集顧問、同社初代外報部長。明治大学、立教大学で教授を務め、東京商科大学(現・一橋大学)、法政大学等でも講じた。専門は外交史。法学博士。別名(筆名)米田切水。20世紀前半の日本を代表する国際問題評論家である。 1878年(明治11年)12月7日、福岡県久留米に生まれる。 1893年(明治26年)、中学明善校を中退して上京する。立教学校(現・立教大学)、国民英学会で学ぶ。
船田 一雄(ふなだ かずお、1877年12月7日 - 195… 船田 一雄(ふなだ かずお、1877年12月7日 - 1950年4月18日)は大正、昭和期の日本の実業家。三菱合資会社理事長を務めた。 愛媛県上浮穴郡東明神(明神村→久万町を経て、現・久万高原町)出身。久万高等小学校卒業翌年の1892年(明治24年)、試験により愛媛県尋常中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)2年に編入学する。中学5年の1895年(明治28年)に夏目漱石が教員として赴任し、船田も漱石に食事などのもてなしを受けたという。 1896年(明治29年)、愛媛県尋常中学校卒業とともに第五高等学校文科に進学。1899年(明治32年)に第五高等学校を卒業して東京帝国大学法科大学独法科に進んだ。在学中に父が病死し、7年を要して1906年(明治39年)に卒業した。
杉本 弘蔭(すぎもと ひろかげ、1877年(明治10年)12… 杉本 弘蔭(すぎもと ひろかげ、1877年(明治10年)12月7日 - 1927年(昭和2年)10月4日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍砲兵大佐。従四位・勲三等。 岐阜県可児郡久々利村(現・可児市)に生まれる。成城学校に進学し、卒業した1895年(明治28年)に陸軍士官学校に入校。1897年(明治30年)に陸軍士官学校(9期)を卒業し、兵庫県淡路島の由良要塞副官などを歴任した。日露戦争には中隊長として従軍。1912年(大正元年)9月、朝鮮半島の永興湾要塞司令官に就任した。 1920年(大正9年)、宇都宮市の第14師団で兵器所長を務める。 軍務中は日曜日や深夜まで書類整理をおこない、参謀本部の検査官から「要塞で斯くまで確実に整理の行き届いた所は他に見ることはなかった」と言われたという。
石原 円吉(石原 圓吉、いしはら えんきち、1877年(明治… 石原 円吉(石原 圓吉、いしはら えんきち、1877年(明治10年)12月7日 - 1973年(昭和48年)2月2日)は、大正から昭和期の漁業関係者、政治家、実業家。衆議院議員(3期)、三重県志摩郡和具町長。初名は彦四郎。 三重県英虞郡和具村(現志摩市志摩町和具)で、先代・石原円吉の長男として生まれる。1919年(大正8年)家督を相続し円吉を襲名。 三重県会議員、同議長、和具町長を務め、水産振興、漁港整備などに尽力。また、三重県水産会長、三重沃土取締役社長、石原満俺取締役社長、三重県鮮魚運搬統制組合理事長、ラジオ三重監査役、三重交通取締役、志摩観光ホテル取締役、全国漁業協同組合連合会監事、三重県漁業協同組合連合会長、伊勢志摩国立公園協会長などを務めた。
錦織 幹(にしきおり かん、1874年(明治7年)12月7日… 錦織 幹(にしきおり かん、1874年(明治7年)12月7日 - 1955年(昭和30年)7月28日)は、内務官僚。長崎市長。 愛媛県出身。 父は判事を務めた錦織義弘・リウの子。1896年(明治29年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1899年(明治32年)に高等文官試験に合格した。内務属、秋田県参事官、鹿児島県参事官、山形県事務官、長崎県港務長、島根県事務官、山梨県内務部長、千葉県内務部長、新潟県内務部長などを歴任した。1917年(大正6年)に休職となった後は、日本スレートアスフハルト工業株式会社取締役、証券交換所株式会社取締役を務めた。 1922年(大正11年)、長崎市長に選出された。
木暮 理太郎(こぐれ りたろう、1873年(明治6年)12月… 木暮 理太郎(こぐれ りたろう、1873年(明治6年)12月7日 - 1944年(昭和19年)5月7日)は、日本の登山家。 1873年(明治6年)12月7日、群馬県新田郡寺井村(現・太田市寺井町)の農家の長男として生まれる。東京の私立郁文館中学校を卒業後仙台の旧制第二高等学校に進み1897年(明治30年)に卒業した。さらに東京帝国大学に進学しはじめ哲学科、ついで史学科で学んだが、中途退学した。その後は博文館の雑誌『ハガキ文学』の編集に従事し、『泰西名画鑑』を著した。1907年(明治40年)からは東京市史料編纂室嘱託となり、亡くなるまで東京市史稿編集に携わった。 若年時から登山を趣味としていたが、田部重治と知り合ったことをきっかけに1913年(大正2年)9月に日本山岳会に入会した。
中條 資俊(ちゅうじょう すけとし、なかじょう すけとし、明… 中條 資俊(ちゅうじょう すけとし、なかじょう すけとし、明治5年11月7日(1872年12月7日) - 昭和22年(1947年)3月1日)は、日本の医師・ハンセン病研究者。医学博士。北部保養院(国立療養所松丘保養園)院長、園長。 1872年11月7日 山形県南置賜郡塩井村(現・米沢市)に生まれる。幼名竹田留吉。1897年 第一高等学校医学部に入学。数え年26歳。1900年 中條家に養子となり、長女ハルと結婚。1901年 千葉医学専門学校卒業。1902年 医術開業免状下付。県立千葉病院医員。1903年 慰廃園嘱託医。1904年 伝染病研究所助手。1909年4月1日 青森県より北部保養院医長同月25日に院長を命じられる。
正木 義太(まさき よしもと、1871年12月7日(明治4年… 正木 義太(まさき よしもと、1871年12月7日(明治4年10月25日) - 1934年(昭和9年)10月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 広島県佐伯郡玖波村(現・大竹市玖波)の豪農正木富次と長谷川シモの次男として生まれる。正木家は伊予松前城発祥の家系で、関ヶ原の戦い後福島正則の家臣となったが、改易されたため帰農した。父の富次は、同町の正則後裔という福島家から正木庄蔵の養子となっている。 (明治27年)11月、海軍兵学校(21期)を卒業し、少尉候補生として「大和」に乗り組み日清戦争に出征。1895年(明治28年)12月に海軍少尉に任官し佐世保鎮守府海兵団分隊士となる。 1899年(明治32年)9月、「比叡」分隊長兼航海長(豪州回航)となり、「鳥海」分隊長、同航海長、呉水雷団第2水雷艇隊艇長、「橋立」分隊長、艦政本部副官などを歴任。
練木 市左衛門(ねりき いちざえもん、1864年12月7日〈… 練木 市左衛門(ねりき いちざえもん、1864年12月7日〈元治元年11月9日〉 - 没年不明)は、日本の商人(米穀商、伊勢屋)、実業家。練木合資会社社長。合資会社練木不動産商会の有限責任社員。 埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)の人。豪農で米問屋練木庄八の長子。年少にして経世の志を抱き、自由民権の説に心を傾け、板垣退助の自由党に身を投じ、進んで郷里に自助館を創設し推されてその館主となる。 実業界に入り、同志と共に粕壁銀行を創設し取締役兼支配人となり、郷党の財界に貢献する。1898年に居を東京に移して、実業のために尽瘁努力し、練木合資会社を創設し自ら社長となり企画経営の衡に当る。また同志会監査役、生秀館監査役・同取締役などをつとめる。
堀谷 左治郎(ほりや / ほりたに さじろう、1863年12… 堀谷 左治郎(ほりや / ほりたに さじろう、1863年12月7日(文久3年10月27日) - 1925年(大正14年)8月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・岸田。左次郎と表記される場合がある。 松代藩士・岸田鉄治の二男として生まれる。1876年(明治9年)に上京し、1879年(明治12年)同人社を卒業。さらに、商業学校、早稲田中学校で学んだ。1880年(明治13年)ころ横浜の叔父・堀谷真治の養子となる。 養家の質商・米穀仲買業に従事。日本絹綿紡績社長に就任し、1892年(明治25年)東京移民会社を創設して数千人の移民を送り出した。その他、横浜実業銀行重役、横浜実業貯蓄銀行重役、安全石油監査役、横浜商業会議所議員などを務めた。
石田 真二(いしだ しんじ、旧姓:椎野、1863年12月7日… 石田 真二(いしだ しんじ、旧姓:椎野、1863年12月7日(文久3年10月27日) - 1927年(昭和2年)9月10日)は、日本の政治家、新聞記者。徳島県徳島市出身。 椎野家の息子として名東郡上八万村(現在の徳島市上八万町)で生まれる。園坡漁夫、晴耕雨読楼主人、侃々子と号した。後に石田家を継いだ。 1881年(明治14年)、徳島県立徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)卒業。卒業後、普通新聞社(現在の徳島新聞社)の客員となった。後に名東郡会議員を経て徳島県会議員に当選した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選したが、間もなく同年内に解散となり、第6回総選挙に再出馬したが落選した。