小倉 義光(おぐら よしみつ、1922年5月11日 - 20… 小倉 義光(おぐら よしみつ、1922年5月11日 - 2022年5月29日)は、日本の気象学者、イリノイ大学名誉教授。 神奈川県出身。東京大学理学部卒。1953年、「大気乱流の研究」で、東京大学より理学博士の学位の取得。1964年東京大学海洋研究所教授となり、1965年所長。1971年米国・イリノイ大学教授、同気象研究所所長、名誉教授。大気の乱流の研究で知られる。1954年日本気象学会賞、1980年藤原賞受賞。
川喜田 二郎(かわきた じろう、1920年(大正9年)5月1… 川喜田 二郎(かわきた じろう、1920年(大正9年)5月11日 - 2009年(平成21年)7月8日)は、日本の地理学者、文化人類学者。東京工業大学名誉教授。 1920年(大正9年)、三重県津市で生まれた。京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)に入学し、山岳部に入る山岳部の先輩の今西錦司らと山歩きに没頭。1937年に卒業。第三高等学校理科に進学し、1941年に卒業。 京都帝国大学文学部に進学し、地理学を専攻した。京都帝大時代は山岳部に入部し、今西錦司、森下正明、梅棹忠夫、吉良竜夫らと共に探検隊を結成。カロリン諸島や大興安嶺山脈を探検した。1942年の北部大興安嶺探検隊では、今西錦司が隊長、川喜田が支隊長であった。
加倉井 駿一(かくらい しゅんいち、1920年5月11日 -… 加倉井 駿一(かくらい しゅんいち、1920年5月11日 - 1974年6月7日)は、日本の厚生官僚。公衆衛生局長などを務めた。 茨城県出身。慶応義塾大学医学部を1945年に卒業後、1946年より茨城県衛生課に勤務する。1950年に厚生省に入省した。 1962年に鳥取県厚生部長として出向。着任翌年の1963年、ハンセン病患者への偏見除去を持論としていた加倉井は、患者を国立ハンセン病療養所から一時帰省させる「里帰り事業」を着想し、らい予防法が存在する中、1964年に他の都道府県に先駆けて患者4人の帰省を実現させた。この事業は報道されて話題を呼び、他の都道府県でも追随する形で実施されるようになった。
伊藤 五百亀(いとう いおき、男性、1918年5月11日 -… 伊藤 五百亀(いとう いおき、男性、1918年5月11日 - 1992年3月4日)は、日本の彫刻家。1974年に『うたかたの譜』で文部大臣賞、1982年に『渚』で日本芸術院賞を受賞している。 1918年、愛媛県新居郡大保木村(現、西条市黒瀬)にて出生。17歳の時、雑誌に掲載されていた帝展(現、日展)作品の彫刻を見て感動、彫刻家を志し、上京して多摩帝国美術学校に入学。中途退学するも、その後も吉田三郎に師事し、本格的な創作活動を行った。 1942年、第5回文部省美術展覧会に出品した「立像」が入選、翌年の文部省美術展では「鍬の戦士」が特選となる。 終戦後、五百亀は帰郷し、彫刻活動を断念した。しかし、当時の大保木村村長・伊藤一らが後援会を組織し、五百亀を励ました。
本多 丕道(ほんだ ひろみち、1916年〈大正5年〉5月11… 本多 丕道(ほんだ ひろみち、1916年〈大正5年〉5月11日 - 1990年〈平成2年〉8月5日)は、日本の警察官僚。第68代警視総監。位階勲等は従三位勲二等。 東京府出身。第一高等学校を卒業。1940年(昭和15年)10月、高等試験行政科試験に合格。1941年(昭和16年)3月、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し神祇院属となる。 短期現役海軍主計科士官(6期)を志願し、1941年(昭和16年)4月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年8月に卒業し「霧島」乗組となる。以後、「知床」乗組、下関防備隊主計長、第104航空基地隊主計長、東印海軍航空隊主計長などを歴任しジャワ島で終戦を迎えた。
小川 利雄(おがわ としお、1915年5月11日 - 没年不… 小川 利雄(おがわ としお、1915年5月11日 - 没年不明)は、神奈川県出身のプロ野球選手。 浅野中学校から東京機器工業を経て、1950年に国鉄スワローズへ入団。
渡邊 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1914年5月11日 -… 渡邊 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1914年5月11日 - 1998年6月22日)は、日本の男性フィギュアスケート選手。1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック男子シングル日本代表。慶應義塾大学経済学部卒業。 この項目は、フィギュアスケート選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:フィギュアスケート/プロジェクト:フィギュアスケート)。
村形 繁明(むらかた しげあき、1913年5月11日 - 2… 村形 繁明(むらかた しげあき、1913年5月11日 - 2007年9月6日)は、東京都出身のサッカー選手、サッカー審判員。選手時代のポジションはGK。 東京府立第八中学校(現:東京都立小山台高等学校)時代にサッカーを始める。第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学理工学部に入学し、ア式蹴球部に入部した。4年次の1936年に後輩の佐野理平の台頭や、川本泰三の勧めもあってマネージャーへ転向した。 1937年に大学を卒業して三井物産に入社。同時に審判としての勉強も始め、同年7月に大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)審判研修会に参加した。 戦後、日本スポーツ界の国際大会への復帰が認められると、オリンピック招致と1958年のアジア大会が待ち構えていた。
林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 199… 林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 1995年9月29日)は、日本の歌手・作曲家。日本歌手協会4代目会長。 山口県厚狭郡王喜村(現下関市)生まれ。明治大学中退。1975年に紫綬褒章、1983年には勲四等旭日小綬章を受章。没後、功績により従五位を追贈されている。 父の林正二は王喜村長を務めた。旧制興風中学校時代には陸上400メートルと水泳自由形の選手。音楽も好きで、体育学校か音楽学校を志望していたが、母に反対され、明治大学商科に進む。しかし、大学への通学途中に東京高等音楽学院があることに気付き、四谷分教場ピアノ科に籍を置いて両方に通うようになり、やがて大学を中退。1934年、郷里に戻って徴兵検査を受けた後、再び上京。
矢野 伊吉(やの いきち、1911年5月11日 - 1983… 矢野 伊吉(やの いきち、1911年5月11日 - 1983年3月18日)は、日本の裁判官、弁護士。財田川事件弁護人。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、経理事務講習所(東京商科大学内に設置)卒業。 経理事務講習所を卒業後、広島高等工業学校に就職。昼間は会計課職員として勤務しながら、夜は独学で法律の勉学に励み、1937年(昭和12年)高等文官試験司法科合格。1939年(昭和14年)朝鮮総督府平壌地方法院判事に任官。 1946年(昭和21年)釧路地方裁判所網走支部判事、1947年(昭和22年)松山地方裁判所西条支部判事、1953年(昭和28年)松山地方裁判所判事、1967年(昭和42年)高松地方裁判所丸亀支部長判事を務めた。
松本 栄蔵(まつもと えいぞう、1911年5月11日 - 1… 松本 栄蔵(まつもと えいぞう、1911年5月11日 - 1988年12月8日)は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。福岡県出身。 1935年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1939年に日鉄鉱業に入社。1961年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1970年11月に副社長に就任し、1971年11月には社長に昇格。1979年6月には相談役に就任。 1988年12月8日肝不全のために死去。77歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鈴木 與平(すずき よへい、1910年(明治43年)5月11… 鈴木 與平(すずき よへい、1910年(明治43年)5月11日 - 1993年(平成5年)5月23日)は、日本の実業家。元鈴与会長。旧名 鈴木一郎。 静岡県出身。鈴与商店社長で貴族院議員、6代目鈴木與平の長男として生まれる。清水市立清水尋常高等小学校卒業。静岡県立静岡中学校から、旧制静岡高等学校へ進んだが、2年次から旧制成城高等学校に転学し、卒業した。1935年(昭和10年)、京都大学経済学部卒業。山下汽船入社。1937年(昭和12年)4月、鈴与商店に転じ、1940年(昭和15年)5月、鈴与商店並びに鈴与倉庫、清水食品各社長に就任。同年8月、静岡鉄道監査役に選ばれ、次いで取締役となる。1944年(昭和19年)、鈴与社長。
武藤 守一(むとう しゅいち、1910年5月11日 - 19… 武藤 守一(むとう しゅいち、1910年5月11日 - 1970年9月30日)は日本の経済学者。学校法人立命館総長。立命館大学学長。 岐阜県生まれ。1936年(昭和11年)3月、立命館大学法経学部経済学科を卒業後、研究生として立命館に残る。主として金融経済論、経済政策論、経済理論を中心に研究。1941年(昭和16年)に立命館大学講師、1942年(昭和17年)に同大学助教授、1943年(昭和18年)に同大学教授に就任した。その後、同大学院経済学研究科長、経済学部長、教学部長、図書館長などを歴任。1969年(昭和44年)には立命館総長事務取扱に就任。翌1970年(昭和45年)2月1日行われた総長選挙を経て戦後長らく総長の地位にいた末川博の後を受け立命館総長となった。
日野 開三郎(ひの かいざぶろう、1908年 <明治41年>… 日野 開三郎(ひの かいざぶろう、1908年 <明治41年> 5月11日 - 1989年 <平成元年> 9月29日)は、昭和期の東洋史学者。文学博士(学位論文『小高句麗国の研究』、1958年)。位階は正四位。 1909年、愛媛県伊予郡(現在の伊予市)で生まれた。愛媛県立松山中学校、官立松山高等学校を経て、1928年に東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。池内宏・和田清・加藤繁らのもとで学んだ。1931年に卒業。 その後は府立第九中学教諭を経て、1935年に九州帝国大学法文学部で勤務。昭和10年代より社会経済史的方法を東洋史分野に導入して、中世中国の社会史・経済史の研究で知られるようになった。 1946年に九州帝国大学(1947年九州大学に改称)教授に昇格。
萩原 尊礼(萩原 尊禮、はぎわら たかひろ、1908年 <明… 萩原 尊礼(萩原 尊禮、はぎわら たかひろ、1908年 <明治41年> 5月11日 - 1999年 <平成11年> 11月14日)は、日本の地震学者。理学博士(1942年、東京帝国大学・論文博士)。東京大学名誉教授。従三位。 イタリアやイラン大地震、福井地震や松代群発地震を調査し、萩原式電磁型地震計 (HES) を考案した[リンク切れ]。 東京府出身。開成中学、旧制松本高等学校理科甲類を経て、1932年に東京帝国大学理学部地震学科を卒業。1933年東京帝国大学地震研究所に所属し、助手から助教授・地震研究所員(1941年)を経て教授に就任(1944年)。戦後、1965年から1967年まで東京大学地震研究所所長を務め、1969年定年退官、名誉教授。
川津 尚彦(かわづ なおひこ、1907年5月11日 - 19… 川津 尚彦(かわづ なおひこ、1907年5月11日 - 1962年11月10日)は、日本のラグビー選手・功労者。福岡県のラグビー先駆者の一人。 東京都に生まれる。1925年福岡県中学修猷館、1927年旧制福岡高等学校文科甲類を経て、慶應義塾大学法学部へ進学し、ラグビー部において全日本東西対抗選手として活躍した。 1930年慶應義塾大学を卒業し、東邦電力福岡支店に入社。東邦電力ラグビーチームの主力として、福岡県ラグビーの普及とレベルアップに貢献した。 戦後は、山本太郎、松隈保、安武一道、速見伝吉らと共に、九州ラグビーフットボール協会設立に尽力し、九州ラグビーフットボール協会の理事長から会長、日本ラグビーフットボール協会専務理事を務めた。
野口 茂夫(のぐち しげお、1907年5月11日 - 199… 野口 茂夫(のぐち しげお、1907年5月11日 - 1993年)は、日本の児童詩人、教育者。 福島県小名浜(現いわき市)生まれ、茨城県平潟町育ち。1928年東京府立青山師範学校卒、29年同専攻科卒、詩人・大関五郎に師事。東京府北多摩郡砧小学校教師、滝野川小学校教諭。小砂丘忠義の『綴方生活』同人。1944年浅草区新堀国民学校教諭、集団疎開、敗戦ののち46年小島小学校教諭、日本作文の会創立に参加。中央区月島小学校長を最後に1968年定年退職。作文、児童詩の指導を行った。「のぐちしげお」とひらがなの筆名を用いた。
多武良 哲三(たむら てつぞう、1905年5月11日 - 1… 多武良 哲三(たむら てつぞう、1905年5月11日 - 1962年3月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1935年東京帝国大学商科卒。(株)明電舎平坂、名古屋各工場長、同名古屋製作所副所長、同監査役、取締役、三光商事(株)取締役社長となる。 1949年の第24回衆議院議員総選挙では愛知2区から民主自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。この間民主自由党政調会文部副部長を務めた。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。1953年の第26回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。 このほか西枇杷島町監査委員、愛知県卓球協会名誉会長、名古屋電気学園理事、愛知工業大学事務局長を歴任した。
相良 次郎(さがら じろう、1904年(明治37年)5月11… 相良 次郎(さがら じろう、1904年(明治37年)5月11日 - 1991年(平成3年)4月29日)は、日本の英文学者。元青山学院大学教授。 父は大日本帝国陸軍の高級指揮官で、昭和の学校教育にも影響を与えた相良広一。母とみは渋谷氏宗家渋谷家の長女。戦後の日本に数多くの洋書・外国雑誌を紹介した出版史研究者で紀伊国屋書店元重役取締役の相良広明は実弟。工学博士で第12代東京工業大学学長の松田武彦と九州学院初代院長の遠山参良は義弟。第二次世界大戦中の満州国の大使館区で通訳者として活躍した田口喜美子は実妹。 1904年(明治37年)、東京に生まれる。軍人だった父の仕事の関係で日本統治時代の朝鮮は京城府にて少年時代を過ごす。
佐藤 信彦(さとう のぶひこ、1902年5月11日 - 19… 佐藤 信彦(さとう のぶひこ、1902年5月11日 - 1977年2月3日)は、慶應義塾大学文学部教授などを務めた、日本の国文学者。 彦根藩出身の軍人であった父の任地だった島根県那賀郡浜田町(後の浜田市の中心部)で生まれ、宮城県立仙台第一中学校(宮城県仙台第一高等学校の前身)を経て、東京の私立日本中学校(日本学園中学校・高等学校の前身)に転じ、校長だった杉浦重剛の薫陶を受けた。1920年に卒業して、慶應義塾大学文学部予科に入学し、1924年には本科国文学科に進んで、折口信夫の指導を受け、川合貞一や田中豊蔵に学ぶ。1927年に大学を卒業して予科の国語教師に採用され、その後、1943年に藤山工業図書館の事務監督・主事、1945年から1947年にかけて工学部事務監督を兼任となり、戦中戦後の混乱期に、大学行政の一翼を担った。
荒谷 直之介(あらたに なおのすけ、明治35年(1902年)… 荒谷 直之介(あらたに なおのすけ、明治35年(1902年)5月11日 - 平成6年(1994年)2月18日)は、日本の水彩画家。本名、直之助。[要出典]日展評議員、参与を勤めた。 水彩では困難とされていた人物表現にこだわった昭和を代表する水彩画家。 明治35年(1902年)5月11日、富山県富山市南田町に父鶴次郎、母コトの次男として[要出典]生まれる。 早くから画家を志し、赤城泰舒に師事する。その後、葵橋洋画研究所で黒田清輝らに学ぶ。 昭和11年(1936年)に日本水彩画会の第一賞を受賞、昭和15年(1940年)には昭和洋画奨励賞を受賞し、水彩画家としての頭角を現す。1940年には小堀進や春日部たすくらとともに「水彩連盟」を結成する。
高橋 渡(たかはし わたる、1900年〈明治33年〉5月11… 高橋 渡(たかはし わたる、1900年〈明治33年〉5月11日 - 1944年〈昭和19年〉7月8日)は、日本戦前期の写真家。弁護士でもあった。 1900年 (明治33年) 5月11日、福岡県生まれ。1924年に慶応義塾大学経済学部理財科を卒業したが、その後九州帝国大学に入学、同大学法文学部法律科を1932年 (昭和7年) に卒業した。 1935年 (昭和10年) 頃に「福岡写友会」に入り、本格的に写真撮影を始めた。いくつかの写真クラブを経て[要出典]、1939年 (昭和14年) に「ソシエテ・イルフ」を結成、中心メンバーとして活躍した。「イルフ(IRF)」は「フルイ(古い)」の逆並びで、「新しい」を意図していた。
上田 桑鳩(うえだ そうきゅう、1899年〈明治32年〉5月… 上田 桑鳩(うえだ そうきゅう、1899年〈明治32年〉5月11日 - 1968年〈昭和43年〉9月4日)は、日本の書道家である。 前衛書道の分野でよく知られる。本名は上田順(旧姓:藤田)。 兵庫県三木市(旧美嚢郡吉川町)奥谷出身。二松學舍専門学校卒。 1899年5月11日に兵庫県美嚢郡吉川町(現三木市)に父・藤田石太郎、母・こうの三男として生まれ、吉川高等小学校・私立三田中学校(現三田学園中学校・高等学校)を1917年(大正6年)3月に卒業し、1919年(大正8年)に宝塚市にある上田亀蔵の養女・上田りんと結婚し、上田姓となった。 1926年に義父が友人の保証をしていたが、その破産が上田家に影響し、全財産を失い、翌1927年(昭和2年)に決断書専門に生きる志を抱いて、小寺氏に相談したところ、賛成されたので、家事を整理し、同年11月に上京した。
山口 喜久一郎(やまぐち きくいちろう、1897年 <明治3… 山口 喜久一郎(やまぐち きくいちろう、1897年 <明治30年> 5月11日 - 1981年 <昭和56年> 5月6日)は日本の政治家、第52代衆議院議長(在任期間・1965年12月20日 - 1966年12月3日)。長崎県佐世保市出身(選挙区は和歌山県)。栄典は勲一等旭日大綬章、正三位、佐世保市名誉市民。 1915年旧制鹿島中学(現佐賀県立鹿島高等学校)卒業。1920年早稲田大学専門部中退。株式ブローカー、岡崎邦輔秘書を経て、1930年和歌山県会議員に当選。1937年の第20回衆議院議員総選挙に当時の旧和歌山1区から立憲政友会公認で立候補するが落選。同年より県会議長を2期務めた後、1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)に前回と同じく旧和歌山1区から非推薦で立候補し衆議院議員に初当選。
福吉 勲二(ふくよし くんじ、1896年5月11日 - 没年… 福吉 勲二(ふくよし くんじ、1896年5月11日 - 没年不明)は、日本の内務官僚。桑名市長。 三重県出身。1921年京都帝国大学法学部卒。1924年高等文官試験に合格し、内務省に入る。復興局から岐阜、北海道、秋田、鳥取、岡山、富山、愛媛の各県に勤務し、1941年沖縄県内務部長となる。その後、香川県副知事となり、1945年7月に桑名市長に就任した。 市長就任直後に終戦を迎え、戦災復興に力を入れた。しかし、同年10月に市内の川の氾濫による水害が起き、大きな被害を受けた。福吉は戦災と水害によるダブルパンチを受けた市民を大いに励まし、復興に奔走した。翌1946年に城南干拓事業に着手、1947年には学校給食を実施した。
小牧 近江(こまき おうみ、1894年(明治27年)5月11… 小牧 近江(こまき おうみ、1894年(明治27年)5月11日 - 1978年(昭和53年)10月29日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、社会科学者・社会運動家。法政大学教授。本名、近江谷 駧(おうみや こまき)。 秋田県の土崎港(つちざきみなと、現在の秋田市土崎港)生まれ。 東京の暁星中学中退後、1910年、第1回万国議員会議に出席する父近江谷栄次に連れられてフランスに渡り、家産が傾きアンリ4世校を放校になったもののパリ大学法学部入学。苦学の末、1918年(大正7年)卒業。この間、ロマン・ロランに傾倒。同地で小説家アンリ・バルビュスの「クラルテ運動」に共鳴し、反戦運動に参加。また、日本大使館に勤務した。
元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月1… 元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月11日 - 1948年〈昭和23年〉7月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。変名・元金福。 愛媛県出身。小学校・元泉久吉の三男として生まれる。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1927年(昭和2年)3月、騎兵第11連隊中隊長に就任し、陸士教官を経て、1931年(昭和6年)8月、騎兵少佐に昇進し近衛師団参謀となる。1932年(昭和7年)12月、陸軍騎兵学校教官に転じ、1936年(昭和11年)3月、騎兵中佐に進む。
高田 富與(たかだ とみよ、1892年5月11日 - 197… 高田 富與(たかだ とみよ、1892年5月11日 - 1976年10月17日)は、日本の弁護士、政治家。札幌市議、第5代札幌市長(在任1947年 - 1959年。3期。初代公選市長)、自由民主党所属の衆議院議員(2期)。 福島県石城郡大野村(現・いわき市)生まれ。従兄の子に鯨岡兵輔がいる。11歳で渡道し、豊平村(現・札幌市豊平区)の知人宅に身を寄せる。100日余で野幌兵村(現・江別市野幌)の親戚を頼って転居。江西尋常高等小学校(現・江別第二小学校)高等科卒業までの3年半を過ごす。卒業後、札幌郵便局通信伝習生養成所で学び、電信の取り扱いを習得。修了後は郵便局職員として岩見沢に赴任。1908年7月から江別郵便局勤務。
野辺地 慶三(のべち けいぞう、1890年(明治23年)5月… 野辺地 慶三(のべち けいぞう、1890年(明治23年)5月11日 - 1978年(昭和53年)6月25日)は、昭和時代の細菌学者、公衆衛生学者。 岩手県盛岡市新築地(現・大通三丁目)にて野辺地慶治・せんの三男として生まれる。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学医学部を卒業した。卒業後、伝染病研究所に入り、血清学的にコレラ菌を3つに分類できることを提唱した。また、1923年(大正12年)から米国に留学し、ハーバード大学公衆衛生学部を首席で卒業し、公衆衛生学博士となり、1927年(昭和2年)に帰国した。帰国後は国立公衆衛生院の創設と運営に尽くし、日本の保健所制度の礎を築いた。
山中 喜一(やまなか きいち、1890年5月11日 - 没年… 山中 喜一(やまなか きいち、1890年5月11日 - 没年不詳)は、大正から昭和初期に活躍した日本の実業家。国策会社である東亜海運の代表取締役社長を始め、日清汽船常務取締役、副支配人など海運会社の経営に携わった。 茨城県豊田郡水海道町(現・常総市)出身。1913年(大正2年)立教大学卒業。その後、国策会社である日清汽船に入社。1925年(大正14年)には、同社副支配人を務めた。 日清汽船は上海航路を有し、現地に拠点を設けており、1924年(大正13年)12月から翌年1月まで母校である立教大学のバスケットボール部が上海遠征を行った際には、多大な支援を行った。 1939年(昭和14年)に、対中国海運強化を目的とする新たな国策会社として東亜海運が設立されると、同社の代表取締役社長に就任。
高柳 賢三(たかやなぎ けんぞう、1887年(明治20年)5… 高柳 賢三(たかやなぎ けんぞう、1887年(明治20年)5月11日 - 1967年(昭和42年)6月11日)は、日本の法学者。専門は英米法。位階は正三位。東京大学名誉教授。成蹊大学名誉教授。貴族院勅選議員。大正・昭和期の代表的英米法学者として知られる。弟子に末延三次、田中和夫、守屋善輝など。 埼玉県熊谷市に生まれる。正則英語学校、府立四中、一高を経て、1912年東京帝国大学法科大学卒業。 1913年東京帝国大学大学院(旧制)中退し、東京帝国大学法科大学助教授。1921年東京帝国大学法学部教授(後に附属図書館館長兼務)を歴任した。イギリス法研究が主流であった時代に、1915年~1920年ハーバード大学ロースクールなどに留学し、違憲立法審査権などアメリカ法研究に本格的に取組んだ。
長谷川 昇(はせがわ のぼる、1886年5月11日 - 19… 長谷川 昇(はせがわ のぼる、1886年5月11日 - 1973年8月26日)は、日本の洋画家、日本芸術院会員。 福島県会津若松市生まれ、両親と死別して北海道小樽市の祖父母に養育される。札幌中学校を経て、1905年、東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝に師事した。在学中の1908年、第2回文展に「海辺」が初入選した。1910年(明治43年)に東京美術学校を卒業、第4回文展に「白粉」が入選した。1911から渡欧し、ルノワールらに傾倒した。1915年(大正4年)、帰国して日本美術院洋画部同人となる。再度渡欧し、帰国後の1923年(大正12年)、同志と春陽会を設立した。1937年(昭和12年)、海洋美術会(後に大日本海洋美術協会)の設立メンバーとなる。
篠原 誠一郎(しのはら せいいちろう、1884年〈明治17年… 篠原 誠一郎(しのはら せいいちろう、1884年〈明治17年〉5月11日 - 1972年〈昭和47年〉7月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功二級。 1884年(明治17年)に群馬県碓氷郡松井田町松井田(現・安中市松井田町松井田)で生まれた。旧制高崎中学校、大阪陸軍地方幼年学校を経て、陸軍士官学校第17期卒業。 1931年(昭和6年)に陸軍歩兵大佐に進級。第16師団司令部附となり、大谷大学に配属された。1933年(昭和8年)に歩兵第40連隊長に就任し、満州事変に出動。討伐戦に当たった。 1936年(昭和11年)に陸軍少将に進級し、歩兵第15旅団長に転じる。1938年(昭和13年)に第1国境守備隊長を経て、1939年(昭和14年)3月に陸軍中将に進級し、関東軍司令部附となる。
鹿村 美久(しかむら よしひさ、1884年(明治17年)5月… 鹿村 美久(しかむら よしひさ、1884年(明治17年)5月11日 - 1939年(昭和14年)1月21日)は、日本の実業家。第2代富士瓦斯紡績社長。在任中死去した。 現在の愛媛県宇和島市に生まれる。1901年に東京府城北中学校(現・都立戸山高校)を卒業。1905年に東京高等商業学校(現・一橋大学)本科を首席総代で卒業し、岩崎久弥の知遇を得て三菱の海外研究生として、3年間欧米に遊学した。帰国後、三菱合資銀行部に入行した。豊川良平初代銀行部長の娘婿となった。 1909年に富士瓦斯紡績に入社。同社小山工場庶務主任、営業部次長を経て、1913年に川崎工場が設立されると、工場長に就任する。営業部長(1919年)。
前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11… 前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11日 - 1962年(昭和37年)6月4日)は、日本の政治家・実業家・文筆家。位階は正三位。 大阪府出身。喜兵衛の長男。立教中学、一高、東京帝国大学卒業後、内務省入省。1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった。後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田、第3助役は前田という後藤のいわゆる「畳」であり、後藤自身および電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。 1925年(大正14年)3月、外務省の守屋栄夫とともに第7回国際労働会議の政府代表に選出。
川村 清一 (かわむら せいいち、1881年5月11日 - … 川村 清一 (かわむら せいいち、1881年5月11日 - 1946年3月11日)は日本の菌類分類学者。実弟は生物学者の川村多実二と生理学者の福田邦三。義兄は出隆。孫は建築家の川村純一。 岡山県津山市出身。旧制津山中学校卒業。日本における菌類分類学研究の草分けで、東京帝国大学理学部植物学科を卒業し、帝室林野局を経て千葉高等園芸学校(現・千葉大学)教授に就任。松戸市辺りに分布する菌類相の調査・研究を行った。代表著作に「原色日本菌類図鑑」がある。「牧野日本植物図鑑」中の菌類各種を執筆したことでも知られる。 著作の一部はデジタル化され、国立国会図書館デジタルコレクションなどで公開されている。
村瀬 武男(むらせ たけお、1879年(明治12年)5月11… 村瀬 武男(むらせ たけお、1879年(明治12年)5月11日 - 1959年(昭和34年)2月3日)は、愛媛県出身の政治家。衆議院議員、愛媛県会議長などを務めた。
高光 大船(たかみつ だいせん、1879年5月11日 - 1… 高光 大船(たかみつ だいせん、1879年5月11日 - 1951年9月15日)は、浄土真宗の僧侶。 石川県石川郡北間(現金沢市)の富豪高木家に生まれ、檀那寺の真宗大谷派専称寺に養子として入りのち住職。1908年真宗大学卒。七尾市で刑務所の教戒師を務め、清沢満之に師事。1916年藤原鉄乗、暁烏敏と並んで「加賀の三羽烏」と呼ばれ、一緒に金沢に愚禿社を設立し、雑誌『氾濫』を刊行。1926年から自坊で講習会を定期的に開いた。
小松 武平(こまつ ぶへい、1877年(明治10年)5月11… 小松 武平(こまつ ぶへい、1877年(明治10年)5月11日 - 1930年(昭和5年)9月5日)は、長野県の教育者。長野県上田中学(現長野県上田高等学校)、長野県諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)、長野県松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)校長を務めた。 長野県諏訪郡米沢村(現在の茅野市大字米沢にあたる)の鋳物師屋に笹岡初右衛門、わかのの二男として生まれる。 武平は6尺の大男でどこでも大変目立った。彼の教え子の一人元東京地方裁判所判事の樋口和博はそのエッセイ『峠の落し文』の中で、「六尺豊かな体で、街を歩かれる姿は実に威風堂々、頼もしい限りであった」と評している。しかし、気持ちはたいへん細やかで、優しいひとでもあった。
森 総之助/森 總之助(もり そうのすけ、1876年5月11… 森 総之助/森 總之助(もり そうのすけ、1876年5月11日-1953年4月23日)は、明治-昭和期の物理学者・教育者。 高知県香美郡野市村(現在の香南市)出身。1892年高知尋常中学校を卒業後、第三高等学校・第二高等学校を経て1899年に東京帝国大学理科大学を卒業する。 卒業後、新潟県立長岡中学校教諭になるが、1901年に第三高等学校教授に迎えられる。 「森総」の愛称を持ち、多くの物理学の著書を著したことから、その著書は”森総の物理学"の異名を得た。また、教育者としても湯川秀樹や朝永振一郎などを物理を教えて彼らに大きな影響を与えたとされる。 1935年、同じ高知県出身でもある前任の校長・溝淵進馬の急逝を受けて第三高等学校校長に就任する。
下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日… 下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日 - 1957年〈昭和32年〉12月9日)は、明治・大正・昭和の法学博士、逓信官僚・台湾総督府官僚、実業家、朝日新聞社副社長、貴族院議員。拓殖大学第6代学長、NHK会長。歌人で号は海南(かいなん)。下村房次郎の子。 玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力した。「人種改良を国策に」と優生思想を強く推したことでも知られている。 和歌山県出身。父・房次郎(1856年5月7日 - 1913年2月21日)は「和歌山日日新聞」を創刊した後に逓信省に入り、退官後は実業家として活動する傍ら東京商業学校の創設に関わった。 和歌山中学、第一高等学校から東京帝国大学を卒業し、1898年(明治31年)に逓信省へ入省。
広部 周助(廣部 周助、ひろべ しゅうすけ、1875年(明治… 広部 周助(廣部 周助、ひろべ しゅうすけ、1875年(明治8年)5月11日 - 1907年(明治40年)8月1日)は、日本の経済学者。京都帝国大学法科大学助教授。 千葉県君津郡富岡村上根岸の人。千葉中学、第一高等学校を経て、1900年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。農商務省に入り、工場法案の調査を嘱託される。かたわら専修学校などの講師をしていたが、1902年、京都帝国大学法科大学助教授となる。1905年、政治経済学研究のため独・米・英の三国に留学を命ぜられる。ミュンヘン大学に入る。統計調査に従事する。 1907年8月1日、病を得てミュンヘンで亡くなる。葬儀が9月17日洛東智積院で行われ、井上学長と学生清瀬とが弔詞を読む。
塚口 慶三郎(つかぐち けいざぶろう、1874年〈明治7年〉… 塚口 慶三郎(つかぐち けいざぶろう、1874年〈明治7年〉5月11日 - 1925年〈大正14年〉10月30日)は、日本の実業家。北海道鉄道専務取締役、東亜紡織発起人、秩父セメント取締役、日本フエルト取締役などを歴任した。 和歌山県海草郡黒江町生まれ。旧制中学校卒業後、1896年高等商業学校(のちの一橋大学)卒業、日本鉄道入社。同社倉庫課で2年間勤務した。 川崎銀行庶務部長を経て、1918年に同行から鈴木商店(のちの味の素)に取締役として派遣されたが、1920年の戦後恐慌の際に経営危機に陥り引責辞任した。 同年東亜紡織発起人。1921年東京煉瓦監査役。1922年に中央毛糸紡績が設立されると同社取締役に就任。
青木 昌吉(あおき しょうきち、明治5年4月5日(1872年… 青木 昌吉(あおき しょうきち、明治5年4月5日(1872年5月11日) - 昭和14年(1939年)3月2日)は、日本のドイツ語学者。日本ゲーテ協会初代会長。 東京府南多摩郡鶴川村大蔵(現・東京都町田市)出身。旧姓は中溝。神奈川県議会議長の中溝昌弘(東京都知事の鈴木俊一の曾祖父)の長男にあたる。衆院議員で京浜電鉄社長の青木正太郎の娘婿。 小学校には行かず、寺小屋に学び、医者になるつもりで私塾で独語を一年半学んだのち、第一高等中学校で6年間学ぶ。東京帝国大学文科大学独逸文学科卒業後、大学院に進んだが翌年退学し、熊本の第五高等学校教授となる。当時の校長は中川元、教員仲間に夏目漱石、上田整次、児島献吉郎、小島伊佐美、田丸卓郎らがおり、多大な影響を受けた。
田口 米作(たぐち べいさく、元治元年4月6日 (1864年… 田口 米作(たぐち べいさく、元治元年4月6日 (1864年5月11日) - 明治36年(1903年)1月18日)は、明治時代の版画家、浮世絵師。 小林清親の門人。姓は田口、名は米作。桜川と号す。元治元年(1864年)4月6日、下野国(現・栃木県)都賀郡野田村(現・足利市)に生まれる。明治6年(1873年)上京し、初めは中村晩山に師事、後に明治14年(1881年)頃小林清親に入門する。父親は芝西久保で米屋を営んだ。明治24年(1891年)、清親が赤坂桧町に開設になった東京絵画学校の教授となって絵手本を提供した際、米作自身は井上委山とともに助教授を務めている。明治28年(1895年)に芝桜川町に移転している。
森本 確也(もりもと かくや、1862年5月11日(文久2年… 森本 確也(もりもと かくや、1862年5月11日(文久2年4月13日)- 1927年(昭和2年)2月10日)は、明治から大正期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。号・得堂。 志摩国英虞郡、のちの三重県志摩郡鵜方村(鵜方町、阿児町を経て現志摩市阿児町鵜方)で、大地主・森本佐左衛門、なつ の長男として生まれる。1877年(明治10年)三重県師範学校を卒業。さらに同人社英学科及び漢学科を卒業し、専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。帰郷して、しばらく著作業に従事した。 1891年(明治24年)3月、家督を相続して農業を営み、三重県会議員に選出され、同常置委員も務めた。また、三重県農工銀行取締役、同頭取、三重銀行取締役、津商業会議所特別議員などに在任した。
池上 四郎(いけがみ しろう、1857年5月11日〈安政4年… 池上 四郎(いけがみ しろう、1857年5月11日〈安政4年4月18日〉 - 1929年〈昭和4年〉4月4日)は、日本の警察官僚、政治家。第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監。族籍は大阪府平民。文仁親王妃紀子は曾孫に当たる 1857年、陸奥国耶麻郡(現・福島県会津若松市)で生まれた。会津藩士・池上武輔の二男、あるいは四男。池上三郎の実弟。11歳のときに戊辰戦争を経験する。兄の友次郎は、鳥羽・伏見の戦いの正月五日の戦で戦死。父・武輔は井深宅右衛門の第二遊撃隊の組頭として越後小千谷で新政府軍と戦い、負傷する(北越戦争)。会津戦争時に四郎は、兄の三郎と共に会津若松城に篭城した。白虎隊への入隊を強く希望したが、15歳以上の規約のため数えで12歳の四郎は除外された。
影山 秀樹(かげやま ひでき、1857年5月11日(安政4年… 影山 秀樹(かげやま ひでき、1857年5月11日(安政4年4月18日) - 1913年(大正2年)10月15日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。大地主。衆議院議員(3期)。 駿河国富士郡岩本村(静岡県富士郡岩松村岩本を経て現富士市)の農家に生まれる。1872年(明治5年)沼津兵学校附属小学校を卒業し、山梨県の近藤漢学塾で漢籍を修めたのち上京・遊学し、1877年(明治10年)帰郷し、岩松村および富士郡の地主惣代となった。1880年(明治13年)富士勧業を創立して社長となり養蚕、製糸、製茶などの事業に傾倒する。1883年(明治16年)には県庁に要請し、養蚕伝習所を設け静岡県内に蚕の温度飼育法を広めた。
川俣 英夫(かわまた ひでお、1856年5月11日〈安政3年… 川俣 英夫(かわまた ひでお、1856年5月11日〈安政3年4月8日〉 - 1924年〈大正13年〉1月23日)は、現在の栃木県那須烏山市出身の医師、教育者。 1856年4月下野国烏山藩に生まれる。14歳のとき、烏山藩学校に入門。横浜の高島学校、修文館を経て東京英語学校(後の東京大学予備門)に入学。帝国大学医学部別科、東亜医学校をへて1880年(明治13年)東京府医学開業試験に合格し、郷里にて開業する。烏山町町議会議員、烏山町長を歴任する。医師として万民公平の観点から、貧困者の積極的治療を行う傍ら、地域教育の重要性を真摯に考え、県立中学校の設立を栃木県に誓願するも、却下されてしまう。その後、私財を投じて私立烏山学館(後の私立烏山中学校をへて、栃木県立烏山中学校から、現在の栃木県立烏山高等学校の前身)を設立。
関田 可通(せきだ よしみち、1854年5月11日〈嘉永7年… 関田 可通(せきだ よしみち、1854年5月11日〈嘉永7年4月15日〉 - 1909年〈明治42年〉3月2日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。初名は満作。 土佐国長岡郡大埇村(現・南国市大そね)の素封家・関田伊三郎(関田猪三郎)の長男として生まれる。生家は代々農業を営む大地主で、上田100町歩を有した。戊辰戦争の際には少年鼓手として従軍。1870年(明治3年)城下の朝倉町(現・高知市南はりまや町)に移り、酒造業を始め、1876年(明治9年)陶冶学校に学んだ。以後小学校訓導、長岡郡書記、所得税調査委員を経て高知県会議員に当選した。 自由民権運動家として物部川堤防事件、三大事件建白運動、選挙干渉事件などで活躍した。