井上 太郎(いのうえ たろう、1925年7月14日 − 20… 井上 太郎(いのうえ たろう、1925年7月14日 − 2022年3月18日[要出典])は、日本の作曲家、クラシック音楽評論家、作家である。湘南モーツァルト愛好会名誉会長。日本音楽療法学会元理事。 江戸時代から日本橋本石町に続く薬種問屋の江戸っ子7代目。生まれたのは1925年7月、東京都渋谷区桜丘。女中がいつも4人はいる環境で育つ。姉に妹2人の真ん中の男で、特別大事にされた。祖父と父は薬よりも化粧品の製造に力を入れ、その結果生まれたオシドリ銘柄のポマード、香水、椿香油は、大正、昭和前半の花形となった。 近所の大和田小学校に入学した頃、近くに住む高という英語の通訳に英会話の基礎を習った。この通訳の息子はチェリストの高勇吉で、娘はヴァイオリニストの高珠枝である。
福田 歓一(ふくだ かんいち、1923年7月14日 - 20… 福田 歓一(ふくだ かんいち、1923年7月14日 - 2007年1月7日)は、日本の政治学者。専門は、西欧政治思想史。東京大学名誉教授。
千住 鎮雄(せんじゅ しずお、1923年7月14日 - 20… 千住 鎮雄(せんじゅ しずお、1923年7月14日 - 2000年9月2日)は、日本の工学者。慶應義塾大学名誉教授、工学博士(慶應義塾大学、1960年)。
桝田 三郎(ますだ さぶろう、1923年 <大正12年> 7… 桝田 三郎(ますだ さぶろう、1923年 <大正12年> 7月14日 - 2018年 <平成30年> 1月18日)は、日本の経営者、銀行家。伊予銀行頭取を務めた。位階は正五位。 愛媛県出身。1948年に京都大学経済学部を卒業し、同年4月に伊予銀行に入行。1971年10月に取締役に就任し、1978年2月に常務、1979年12月に専務を経て、1983年6月には頭取に就任。1991年6月に会長に就任し、1996年6月には相談役に就任。 1988年11月に藍綬褒章を受章し、1995年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2018年1月18日急性心臓死のために死去。94歳没。死没日付をもって正八位から正五位に進階した。
中島 章(なかじま あきら、1923年7月14日 - 201… 中島 章(なかじま あきら、1923年7月14日 - 2017年)は、日本の眼科学者。 熊本県出身。父は熊本県立医学専門学校教授および同校附属病院眼科部長を務めた中島實で、父が1928年から1930年まで欧米に留学(その直前は金沢医科大学教授)した時期には母とともに再び熊本に戻って暮らしたという。 東京帝国大学で1945年に薬学博士号を、1953年に医学博士号をそれぞれ取得した。1945年から1949年まで、東京大学医学部附属病院の眼科に勤務した。1949年から1954年まで、秋田県の花岡鉱山病院の眼科科長を務める。順天堂大学で1954年から1960年まで助教授、1960年から1989年まで教授に就任し、1989年に定年となり名誉教授となった。
平山 美智子(ひらやま みちこ、1923年7月14日 - 2… 平山 美智子(ひらやま みちこ、1923年7月14日 - 2018年4月1日)は、日本の声楽家(ソプラノ歌手)。 ブーレーズ、ケージ、クセナキスが彼女の為に作品を多く作っている。 1923年7月14日、 東京府東京市出身。1944年に東京音楽学校(現・東京芸術大学)を卒業。 1953年にイタリアへ渡り、サンタ・チェチーリア国立アカデミア(ローマ)及びキジアーナ音楽院(シエーナ)にて声楽を学ぶ。1957年にはオーストリアへ行き、モーツァルテウム音楽院(ザルツブルク)でヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作品の研究を始めたのを皮切りに、フーゴー・ヴォルフ以後の後期ロマン派音楽に探求の幅を広げるなど意欲的な音楽活動を展開する。
川村 禎三(かわむら ていぞう、1922年7月14日 - 2… 川村 禎三(かわむら ていぞう、1922年7月14日 - 2003年1月16日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 岩手県矢巾町に生まれ、旧制盛岡中学校(のちの県立盛岡第一高校)へ進学。中学時代には、東北の団体戦柔道大会で圧倒的な体格と強さを発揮し、旧制盛岡中学を優勝に導いた。また中学5年次の1940年6月には、岩手県予選を勝ち抜き府県選士として紀元二千六百年奉祝天覧武道大会にも出場、予選リーグ戦を勝ち抜くには及ばなかったものの、20代・30代の精鋭が集う中にあって弱冠17歳(最年少)での川村の出場は快挙であった。 1941年に東京高等師範学校体育科二部(柔道専攻)に入学し、また同年5月に講道館へ入門して僅か2カ月後には4段位を許された。
小林 庄一郎(こばやし しょういちろう、1922年7月14日… 小林 庄一郎(こばやし しょういちろう、1922年7月14日 - 2020年2月4日)は、日本の経営者である。 中華民国奉天省(現中華人民共和国遼寧省)大連市生まれ。生まれた頃は父方の阿部姓だったが、帝大入学以降に母方の養子となり小林姓になる。旅順高等学校 (旧制) から東京帝国大学(現東京大学)経済学部に進学。1943年、大学2年で学徒出陣。海軍少尉となり、駆逐艦桐に砲術士として乗艦。山口県沖に停泊中の艦上で玉音放送を聞いた。 日本の敗戦後復学し、1947年1月関西配電(現関西電力)に入社。1977年関西電力社長、1985年会長。1987年、芦原義重名誉会長を解任した(関電二・二六事件)。1997年相談役、2002年-2015年6月顧問。
向江 久夫(むかえ ひさお、1922年7月14日 - 200… 向江 久夫(むかえ ひさお、1922年7月14日 - 2006年10月18日)は、日本の銀行家。足利銀行頭取、会長を務めた。 鹿児島県出身。1950年に東京大学法学部を卒業し、同年に足利銀行に入行。1965年に取締役に就任し、1968年5月に常務、1972年5月に専務、1974年7月に副頭取、1976年1月に代表取締役を経て、1978年6月には社長(のちの頭取)に就任。1992年6月から1997年11月までに会長を務めた。 1987年11月に藍綬褒章を受章。 2006年10月18日、多臓器不全のために死去。84歳没。
水原 泰介(みずはら たいすけ、1921年7月14日 - 1… 水原 泰介(みずはら たいすけ、1921年7月14日 - 1989年9月14日)は、日本の社会心理学者。 広島県生まれ。1944年9月東京帝国大学文学部心理学科卒。大学院に進み、1946年副手。1952年お茶の水女子大学助教授、1958年名古屋大学教育学部助教授、1964年9月東京大学教養学部助教授(心理学)、1974年東大文学部教授(社会心理学)、1982年定年退官、名誉教授、駒澤大学教授。没後、正四位勲三等旭日中綬章受勲。 1971年10月 東京大学 文学博士。論文の題は「態度の形成・変化と認知構造」。
髙村 健一郎(たかむら けんいちろう、1920年(大正9年)… 髙村 健一郎(たかむら けんいちろう、1920年(大正9年)7月14日 - 2006年(平成18年)2月14日)は、日本の財務官僚、日本専売公社職員。 福岡県大牟田市出身。1938年福岡県中学修猷館、1940年旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1942年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 1942年に高等試験行政科に合格し、9月に大蔵省に入省したが、短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に補修学生として海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業し、長崎監督官事務所に配属。1944年(昭和19年)3月、海軍省主計局契約部第6課に転じ原価計算を担当。
鈴木 泰治(すずき たいじ、1919年(大正8年)7月14日… 鈴木 泰治(すずき たいじ、1919年(大正8年)7月14日 - 2015年(平成27年)4月15日)は、昭和から平成時代の政治家。埼玉県八潮市長。位階は正五位。 埼玉県出身。1937年(昭和12年)、埼玉県立粕壁中学校(現在の埼玉県立春日部高等学校)を卒業する。1947年(昭和22年)南埼玉郡八条村収入役、1956年(昭和31年)合併により八潮村収入役となり、1964年(昭和39年)町制、1972年(昭和47年)市制施行後も連続7期務める。同年助役を経て、1973年(昭和48年)八潮市長に当選し、4期務めた。2015年死去。死没日付をもって正五位に叙された。
柴田 武(しばた たけし、1918年7月14日 - 2007… 柴田 武(しばた たけし、1918年7月14日 - 2007年7月12日)は、日本の言語学者、国語学者。東京大学名誉教授、埼玉大学名誉教授。 1918年、愛知県名古屋市で生まれた。東京帝国大学文学部言語学科で学び、1942年に卒業。 同1942年10月、東京帝国大学文学部副手に採用された。1943年7月、中華民国ならびに蒙疆地域に出張。2か月にわたって同地で蒙古語を教えると同時に、民俗学研究所から奨学金を受給して蒙古語、ウイグル語、キルギス語、サラール語、タングート語などを調査。1944年3月、陸軍臨時嘱託として参謀本部にも勤務することとなり、終戦までトルコ語の暗号解読に従事した。1945年4月、東京帝国大学講師助手に昇格。
平垣 美代司(ひらがき みよじ、1917年7月14日 - 1… 平垣 美代司(ひらがき みよじ、1917年7月14日 - 1984年6月26日)は、昭和時代の労働運動家。日本教職員組合(日教組)書記長。 大阪府池田市生まれ。1937年大阪府池田師範学校卒業。大阪市成小路小学校の教壇に立ったが、学問に興味を抱き関西大学に進学。1940年関西大学専門部法科卒業。学生時代、賀川豊彦等の指導により洗礼を受けた。戦後、大阪教職員組合(大阪教組)、日本教職員組合(日教組)、総評大阪地方評議会(大阪総評)の結成に参加。1947年大阪教組組織部長。1949年日本社会党に入党。日教組近畿地区協議会書記長を経て、1951年日教組組織部長、1953~1958年日教組書記長。 1951年に国労の岩井章、全逓の宝樹文彦らと「三角同盟」を結成。
山本 定子(やまもと さだこ、1915年7月14日 - 生没… 山本 定子(やまもと さだこ、1915年7月14日 - 生没不明)は、日本の陸上競技選手。 中京高等女学校家事体操専攻科(現・至学館大学)卒。 1936年ベルリンオリンピックで女子やり投げに出場し、5位入賞を果たした。この山本の5位入賞後、日本女子やり投は長らくオリンピックでの入賞者が出ていなかったが、2024年パリオリンピック女子やり投に於いて北口榛花が優勝(金メダル獲得)し、88年ぶりにオリンピック入賞者を出すこととなった。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
宮川 英二(みやがわ えいじ、1915年7月14日 - 19… 宮川 英二(みやがわ えいじ、1915年7月14日 - 1989年5月11日)は日本の建築家。日本大学名誉教授。 東京出身。日本大学旧工学部建築学科卒業。1988年勲四等旭日小綬章受章。1989年、急性白血病のため死去。 近江栄・宇野英隆編『建築への誘い先駆者10人の歩んだ道』朝倉書店、1982 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 200… 阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 2002年9月11日)は、日本の劇作家、脚本家。本名:安達鉄翁。息子は東宝プロデューサー。孫は笠井信輔(元フジテレビアナウンサー)。 脚本作品としては、1957年のNHKのラジオドラマ「花くれないに」、1964年のNET系のテレビドラマ「徳川家康」などが知られる。 長野県諏訪郡下諏訪町出身。旧制長野県立諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1930年、小説家を志し上京。 1932年東京プロレタリア演劇研究所を卒業、築地小劇場演劇研究所の研究生となり、1934年にはムーラン・ルージュ新宿座文芸部、新派文芸部に入って劇作家としての道を歩み始め、「女中あい史」の脚本で名を挙げる。
楫西 貞雄(かじにし さだお、1912年〈明治45年〉7月1… 楫西 貞雄(かじにし さだお、1912年〈明治45年〉7月14日 - 1996年頃)は、日本の造園系都市計画家。 本人の文章によると、東京帝国大学農学部において、菊竹倉二と同じ研究室に所属していたという。 建設省計画局都市計画課や施設課長、大阪府土木部計画課技師、千葉市建設局等を歴任した。1958年当時は「協和コンサルタンツ顧問」であった。その後、社団法人日本緑化センター常務理事を務める[要出典]。 1978年に第5回日本公園緑地協会北村賞を受賞。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小西 四郎(こにし しろう、1912年7月14日 - 199… 小西 四郎(こにし しろう、1912年7月14日 - 1996年2月5日)は、日本の歴史学者、東京大学名誉教授。幕末史が専門。 兵庫県生まれ。東京帝国大学国史学科卒。文部省維新史料編修官を経て東京大学史料編纂所教授、1973年定年退官。NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』の監修を務めた。 1996年、急性骨髄性白血病のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
湊 素堂(みなと そどう、1912年(明治45年)7月14日… 湊 素堂(みなと そどう、1912年(明治45年)7月14日 - 2006年(平成18年)7月24日)は、昭和から平成にかけて代表する臨済宗の禅僧。俗姓は湊。道号は葆州、法諱は素堂 (そどう)。室号は用いず。徳島県徳島市津田町出身。臨済宗建長寺派管長(1964年-1980年)、臨済宗建仁寺派管長(1989年-1999年)。湊 葆州(みなと ほしゅう) とも言う。世寿95。 1912年 (明治45年) 7月14日、徳島県徳島市津田に湊勝治郎・たねの四男として生まれ、恵人(よしひと)と名付けられた。 1926年(大正15年) 4月、徳島県立徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)に入学。1932年(昭和7年) 4月、旧制高知高等学校に入学。
柳 致環(りゅう ちかん、1908年陰暦7月14日‐1967… 柳 致環(りゅう ちかん、1908年陰暦7月14日‐1967年2月13日)は、朝鮮の詩人。号は青馬。柳は死と虚無を前にして人間の存在と意味を探し求めた。「詩人になった動機はなんだと問われたら、ためらうことなく恋愛であると答える」と述べた柳の詩は、恋愛の末に結婚した妻、権在順に宛てた恋文であった。 1908年陰暦7月14日、慶尚南道忠武市太平洞に生まれる。父は晋州柳氏の柳煖秀、母は密陽朴氏の朴又守。八人兄妹の次男。父の柳煖秀は巨済の屯徳面芳下里の儒学者であり、母の実家は裕福な密陽朴氏であったため、柳は幼い頃から私塾で漢学を学ぶことができた。1918年、柳が10歳のとき、統営普通学校に入学する。この頃、後に妻となる権在順と親しくなる。
岸 盛一(きし せいいち、1908年7月14日 - 1979… 岸 盛一(きし せいいち、1908年7月14日 - 1979年7月25日)は、最高裁判所裁判官。 東京出身。東京帝国大学を卒業して、裁判官に任官。東京控訴院判事などを経て、戦後に初代最高裁判所刑事局長。その後、東京地方裁判所の裁判現場に戻る。東京高等裁判所長官、最高裁判所事務総長を歴任した。 東京地裁判事として、1959年8月8日に東京都公安条例事件では東京都公安条例の違憲判決を下した。砂川事件では、最高裁判所大法廷の一審破棄・差し戻し判決を受けてのやり直し裁判を担当して、1961年3月27日に逆転有罪判決を下した。 1967年から1972年にかけての「司法の危機」について、当時最高裁判所事務総長だった岸は「裁判制度に関する調査特別委員会が裁判の独立を脅かすようなことがあれば、重大問題である」とする談話を発表した。
松尾 トシ子(まつお トシこ、1907年(明治40年)7月1… 松尾 トシ子(まつお トシこ、1907年(明治40年)7月14日 – 1993年(平成5年)6月3日)は、日本の政治家、衆議院議員(6期)。旧姓斎藤。 神奈川県横浜市出身。フェリス和英女学院から日本女子大学を経て、サンモール学院卒。横浜YMCAで英語教師を務め、横浜印書学校(のち日本女子英学院)を創立し、院長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で神奈川県(大選挙区制、全県一区)から立候補して初当選、以後6期当選した。在職中の1949年日本大学法文学部を卒業した。党内では中央執行委員や代議士会副会長などを歴任した。その後は民主社会党に移ったが、1960年の第29回衆議院議員総選挙で落選した。
小野卓爾(おの たくじ、1906年7月14日 - 1991年… 小野卓爾(おの たくじ、1906年7月14日 - 1991年2月20日)は、北海道白老郡白老町出身のサッカー選手、サッカー指導者。 北海道庁立札幌第一中学校(現:北海道札幌南高等学校)を経て、1927年に中央大学法学部英法科に入学。在学中に札幌一中時代のチームメイトと共にサッカー部を創部した。 1933年に大学を卒業し、1935年より日本蹴球協会(現:日本サッカー協会、JFA)代議員に就任し、同年の第1回日満親善蹴球大会では選手団団長。1936年のベルリンオリンピックでは日本代表に帯同し総務全般を担当した。 1951年、JFA常務理事に就任し総務・財務といった実務を担当。1974年からはJFAの財団法人化に伴い専務理事に就任した。
田中 二郎(たなか じろう、1906年(明治39年)7月14… 田中 二郎(たなか じろう、1906年(明治39年)7月14日 - 1982年(昭和57年)1月16日)は、日本の法学者。専門は行政法、租税法。東京大学名誉教授。兵庫県出身。1964年 - 1973年最高裁判所判事。1976年日本学士院会員、1980年文化功労者。位階は従二位。美濃部達吉門下。弟子に塩野宏、雄川一郎、藤田宙靖など。
佐久間 寿美(さくま すみ、1903年(明治36年)7月14… 佐久間 寿美(さくま すみ、1903年(明治36年)7月14日 - 1982年(昭和57年)2月1日)は、埼玉県川越の馬車旅館として創業された「佐久間旅館」の女将として勤め著名人との親交も多かった。川越の女傑とも呼ばれた。
富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月… 富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月14日 - 1962年(昭和37年)3月7日)は愛媛県出身の俳人。本名富澤正三(とみざわ しょうぞう)。新興俳句の担い手として、現代詩の一分野としてのモダニズム俳句を追求した。代表句に「蝶墜ちて大音響の結氷期」がある。 1902年、愛媛県西宇和郡川之石村(現八幡浜市保内町琴平)に開業医の長男として生まれる。 1920年宇和島中学校卒、1926年早稲田大学政経学部を卒業。在学中、松根東洋城の門人に勧められ松根の主宰誌「渋柿」に投句するも、熱心に打ち込むことはなかった。同4月、国際通運(現在の日本通運)東京本社に入社、1928年国際通運大阪支社に転勤。
木佐木 久(きさき ひさし、1899年〈明治32年〉7月14… 木佐木 久(きさき ひさし、1899年〈明治32年〉7月14日 - 1993年〈平成5年〉12月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。1932年(昭和7年)陸軍大学校第44期卒業。 台湾軍参謀を経て、1941年(昭和16年)7月、第13軍高級参謀に補され、支那事変に出動する。同年8月、陸軍大佐に進む。大東亜戦争が勃発すると1944年(昭和19年)5月、再び台湾軍参謀となり、第10方面軍参謀を経て、1945年(昭和20年)6月10日、陸軍少将に進み、同月27日、西部軍附となり終戦を迎える。
唐木田 藤五郎(からきだ とうごろう、1897年〈明治30年… 唐木田 藤五郎(からきだ とうごろう、1897年〈明治30年〉7月14日 - 1968年〈昭和43年〉3月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 長野県更級郡屋代町(現千曲市)生まれ、小県蚕業学校(長野県上田東高等学校)を経て、大正8年(1919年)上田蚕糸専門学校製糸科(現信州大学繊維学部)卒業。横浜の合名会社「茂木」に入社するが、経営難から退社し、翌年東華洋行を創業し、横浜港での国際貿易に当たったが、同12年(1923年)の関東大震災の打撃を受ける。同15年(1926年)日本蚕糸機械商会、昭和5年(1930年)日本ダイガスト、昭和8年(1933年)国光社出版部を創業するなど、京浜地方で多くの企業に関与した。
軽部 慈恩(かるべ じおん、1897年〈明治30年〉7月14… 軽部 慈恩(かるべ じおん、1897年〈明治30年〉7月14日 - 1970年〈昭和45年〉10月16日)は日本の考古学者。山形県寒河江市出身。太平洋戦争以前に朝鮮半島に住んで古代百済の遺跡を研究し、敗戦により日本に戻ったあとは、日本大学で教鞭をとりつつ静岡県三島市に住み、伊豆地方の遺跡研究を行った。 1897年(明治30年)に、現在の山形県寒河江市である旧西村山郡醍醐村慈恩寺に生まれる。現在の静岡県伊豆市である旧田方郡修善寺町の修禅寺に来て仏門の修行に入る。以後「慈恩」と名乗る。 1925年(大正14年)に早稲田大学を卒業し、百済研究のため、日本統治時代の朝鮮半島に渡って現地の学校教員をしつつ、公州の三国時代の遺跡を発掘した。
菊池 重作(きくち じゅうさく、1897年(明治30年)7月… 菊池 重作(きくち じゅうさく、1897年(明治30年)7月14日 - 1980年(昭和55年)12月9日)は、日本の社会運動家、実業家、政治家。衆議院議員。 群馬県佐波郡茂呂村(現伊勢崎市)で生まれる。織物製造業、養蚕販売業を営む。 1923年、群馬共産党事件を契機に社会運動に加わり、日本労農党に加入し小作争議の指導を行う。全国農民組合茨城県連合会書記長、同会長、日本農民組合茨城県連合会執行委員長、社会大衆党茨城県連合会書記長などを務め、1936年、水海道町会議員となるが、1938年、人民戦線事件で検挙され、懲役3年・執行猶予5年の判決を受けた。 戦後、日本社会党に入党し、1947年4月の総選挙に茨城県第三区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務める。
遠山 丙市(とうやま へいいち、1896年(明治29年)7月… 遠山 丙市(とうやま へいいち、1896年(明治29年)7月14日 - 1978年(昭和53年)8月14日)は、昭和期の弁護士、政治家。参議院議員(1期)。 岐阜県本巣郡、のちの鷺田村(現瑞穂市)で、遠山観治郎の長男として生まれる。1929年(昭和4年)中央大学法学部を卒業。 1930年(昭和5年)弁護士となる。東京弁護士会常議員(3期)、万国博覧会評議員、国際オリンピック東京委員などを務めた。 政界では、東京市会議員(4期)、同市参事会員、東京府会議員(2期)、同府参事会員、東京都議会議員を務めた。1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に東京都地方区から日本自由党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)し、参議院議員に1期在任した。
松ノ井 覚治(まつのい かくじ、1895年7月14日 - 1… 松ノ井 覚治(まつのい かくじ、1895年7月14日 - 1982年9月)は、日本の建築家。「日本にはスパニッシュ(アメリカン・スパニッシュ様式)で自分の右に出る者はいない」と自負していた。 1895年(明治28年)に山形県山形市に生まれた。 1918年(大正7年)に早稲田大学理工学部建築学科を卒業すると、1919年(大正8年)にアメリカ合衆国に渡ってコロンビア大学に入学し、3年間建築設計を学んだ。この間、ニューヨークのトロウブリッジ・アンド・リビングストン建築設計事務所、アンドリュー・ジェ・トマス建築設計事務所、エ・エフ・ギルバード建築設計事務所で設計実務に従事している。1923年(大正12年)からはニューヨークのアーキテクツビル内にあるモレス・スミス建築設計事務所に勤務した。
北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14… 北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14日 - 1986年(昭和61年)5月17日)は、日本の陸軍軍人、医師、細菌学者。陸軍軍医中将。勲三等。東京帝国大学医学博士。博士論文は「チフス及パラチフス菌属の血清耐性に関する実験的研究」。 兵庫県出身。旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業後、大日本帝国陸軍に入隊。第2代731部隊長を務め、人体実験や細菌攻撃を推進する立場であったとされている。 第二次世界大戦後は、文部省に奉職しながら日本ブラッドバンクの創業に関わり、顧問に就任。 凍結乾燥装置を用いた乾燥血漿製造の研究成果を応用し、血液製剤の製造、販売を行った。同社設立期においては、朝鮮戦争における米軍向けの輸血用血液製造を行った。
神林 浩(かんばやし ひろし、1890年(明治23年)7月1… 神林 浩(かんばやし ひろし、1890年(明治23年)7月14日 - 1966年(昭和41年)4月12日)は、日本の陸軍軍人、医師。最終階級は陸軍軍医中将。旧姓・小岩井。 長野県出身。小岩井永次郎の二男として生まれ、神林玄進の養子となる。松本中学校(現長野県松本深志高等学校)、第二高等学校を経て、1917年(大正6年)6月に東京帝国大学医科大学を卒業し、二等軍医に任官し歩兵第56連隊付となる。1918年(大正7年)6月、久留米衛戍病院付となる。1920年(大正9年)8月、陸軍軍医学校に専攻学生として入学。1921年(大正10年)4月、一等軍医に昇進。その後、東京陸軍幼年学校付、陸軍省医務局課員を務め、1925年(大正14年)3月、医学博士の学位を受けた。
加野 宗三郎(かの そうざぶろう、1889年7月14日 - … 加野 宗三郎(かの そうざぶろう、1889年7月14日 - 1946年1月23日)は、日本のパトロン、美術品収集家。 「金盛」という酒を醸造販売する、造り酒屋「萬屋」を営む加野熊次郎の長男として、福岡市中奥堂町(現・博多区)に生まれる。1908年福岡県立中学修猷館を経て、1911年大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)醸造科を卒業。 家業の酒造業を営む傍ら、美術や文芸に関心を向け、多くの美術家や詩人・俳人らと交友を持つ。所有する別邸「柳北亭」や「環水荘」は、来福の文人墨客のたまり場となった。交友のあった美術家には、青木繁、青山熊治(ドイツ語版)、津田青楓、森田恒友、正宗得三郎、村上華岳、榊原紫峰、冨田溪仙、小野竹喬、山崎朝雲、冨永朝堂、恩地孝四郎などがあり、文筆家では与謝野鉄幹・晶子夫妻、北原白秋、吉井勇、高浜虚子といった人たちがいた。
高橋 百千(たかはし ももち、1889年7月14日 - 19… 高橋 百千(たかはし ももち、1889年7月14日 - 1973年8月8日)は船舶交通に関する人物。 台湾総督府交通局技師として現地の方を尊重し、台湾と日本の関係良好の礎を築いた。戦後は日本モーターボート選手会が今の競艇に発展するための法整備などに尽力。[要出典] 広島県広島市東白鳥町で生まれる。1916年(大正5年)、官立商船学校機関科(現・東京海洋大学海洋工学部)卒業。日本郵船機関士を務めた後、1917年(大正6年)逓信省管船局に入り、名古屋逓信局海事部長を経て、1940年(昭和15年)日本船用品統制副社長、1949年(昭和24年)日本船燈監査役となる。 1956年(昭和31年)日本船舶機関士協会会長、1957年(昭和32年)全国モーターボート競走施行者協議会事務局長を務める。
平澤 計七(ひらさわ けいしち、1889年7月14日 - 1… 平澤 計七(ひらさわ けいしち、1889年7月14日 - 1923年9月3日)は、近代日本の劇作家・労働運動家である。日本のプロレタリア演劇の祖にして、生活協同組合及び労働金庫の設立の提言者でもある。関東大震災直後に、亀戸警察署に検束され労働運動家であったために他の活動家とともに虐殺された。妻の松は森竹次郎(森泰吉郎の父である磯次郎の義父)の次女。実子は、平澤綾子がいた。 若い頃、「潮態」あるいは「紫魂」の筆名を用いた。新潟県小千谷町(現・小千谷市)の出身。小学校を卒業すると、日本鉄道株式会社(現・JR東日本)大宮工場に就職した父に連れられて故郷を後にし、同工場付属職工養成所に入った。そこで3年間、近代的鍛冶工としての技術を身につけた。
里見 弴(さとみ とん、1888年(明治21年)7月14日 … 里見 弴(さとみ とん、1888年(明治21年)7月14日 - 1983年(昭和58年)1月21日)は、日本の小説家。本名:山内 英夫(やまのうち ひでお)。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 兄有島武郎・生馬の友人志賀直哉の強い影響を受け、『白樺』創刊に参加。人情の機微を描く心理描写と会話の巧妙を発揮して、高い評価を受け、晩年まで長く活躍した。 1888年(明治21年)、有島武と妻幸子の四男として神奈川県横浜市に生まれる。生まれる直前に母方の叔父の山内英郎が死去したため、出生直後にその養子となり山内英夫となったが、有島家の実父母の元で他の兄弟と同様に育てられた。 1900年(明治33年)に学習院中等科 (旧制) へと進み、この頃から泉鏡花の作品に慣れ親しむ。
玉手山 七郎(たまてやま しちろう、1887年7月14日 -… 玉手山 七郎(たまてやま しちろう、1887年7月14日 - 1941年9月13日)は、福井県大野郡(現大野市)出身で大嶽部屋から雷部屋を経て中村部屋に所属した大相撲力士。本名は縁本 七郎。身長171cm、体重90kg。最高位は関脇。 大嶽部屋に入門し、初め狼を名乗って1904年1月序ノ口となったが翌年脱走。その後小嵐の名で大坂相撲の雷部屋に加入し、1908年1月場所まで大坂相撲を務めて十両まで進む。その後東京相撲に戻ったが、同名力士がいたため改名を考え、イギリス製のラージ自転車にちなんで羅亜地山と改名届を出したが、広告的な四股名は受け入れられないとして協会から却下され、やむを得ず龍田川という四股名を付けた。
塚田 攻(つかだ おさむ、1886年7月14日 - 1942… 塚田 攻(つかだ おさむ、1886年7月14日 - 1942年12月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
田村 徳治(たむら とくじ、1886年7月14日 - 195… 田村 徳治(たむら とくじ、1886年7月14日 - 1958年11月25日)は、日本の行政学者・政治学者。蠟山政道と並ぶ日本の行政学創始者の一人。博士(法学)(京都帝国大学)。 秋田県鹿角郡花輪町(現在の鹿角市)生まれ。秋田師範学校では土田誠一・菊地寅七とともにクラスの三羽烏に数えられた。4年間級長を務め、1907年卒業。1913年、東京高等師範学校英語科卒業。1916年、京都帝国大学法科大学卒業、京都帝国大学大学院(旧制)特別研究生。 のちに、京都帝国大学法学部助手。1920年、京都帝国大学法学部助教授に就任。1922年、ドイツ・イギリス・フランス・アメリカに2年間留学。1924年、京都帝国大学法学部教授に就任。
福井 盛太(ふくい もりた、1885年〈明治18年〉7月14… 福井 盛太(ふくい もりた、1885年〈明治18年〉7月14日 - 1965年〈昭和40年〉12月27日)は、日本の弁護士(第一東京弁護士会会長)、検察官、政治家。検事総長、衆議院議員(3期)、日本弁護士連合会副会長、共立薬科大学理事長等を歴任。また、日本野球機構初代コミッショナーを務めた。従三位、勲二等旭日重光章、館林市名誉市民。囲碁5段、柔道3段。 1885年(明治18年)、群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)に、旧館林藩士・福井盛武の長男として生まれる。館林小学校尋常科・同高等科を経て、1900年(明治33年)群馬県立太田中学校を卒業し旧制第二高等学校に進む。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年弁護士開業。
松山 茂(まつやま しげる、明治14年〈1881年〉7月14… 松山 茂(まつやま しげる、明治14年〈1881年〉7月14日 - 昭和12年〈1937年〉12月29日)は、大正・昭和期の日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。長崎・平戸出身。 旧平戸藩士・松山雲八の五男。私立尋常中学猶興館より海軍兵学校に入学。海兵30期を187名中74位で卒業。30期の首席は百武源吾大将。同期8名の中将の中では156位の重岡信治郎中将、99位の湯地秀生中将に次ぐハンモックナンバー下位のスタート。「松島」での遠洋航海を終えて「磐手」乗組が初任地。日露戦争をそのまま「磐手」のクルーとして経験し、蔚山沖海戦・日本海海戦に参加。蔚山沖海戦後の明治38年(1905年)1月12日、中尉に進級している。
細田 忠治郎(ほそだ ちゅうじろう、1881年7月14日 -… 細田 忠治郎(ほそだ ちゅうじろう、1881年7月14日 - 1968年6月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県多可郡松井庄村(現・多可町)生まれ。1907年、早稲田大学商科卒。農業の傍ら、松井庄村議、多可郡議、同参事会員、兵庫県参事会員となる。また、松井庄商事(株)専務理事、多可郡工業会長、兵庫県播州織工業組合、工業組合中央会、商工組合中央会各理事、兵庫県織物組合連合会、同県織物統制組合各理事長を歴任した。 1923年9月25日の兵庫県会議員選挙に多可郡選挙区から立候補して、当選した。しかし、1924年4月11日に失職した。その後、1927年9月25日に返り咲いた。1931年、1935年、1939年の選挙にも当選した。
松岡 俊三(まつおか としぞう、1880年(明治13年)7月… 松岡 俊三(まつおか としぞう、1880年(明治13年)7月14日 – 1955年(昭和30年)2月16日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→自由党)、拓務政務次官。ジャーナリスト。 山形県北村山郡楯岡村(現在の村山市)出身。1899年(明治32年)に浄土宗大学を卒業した後、日本法律学校(現在の日本大学)で学んだ。日露戦争に従軍。都新聞社に入り、政治部記者、副社長、常任監査役、編集顧問を歴任した。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回に至るまで7回当選を果たし、1940年(昭和15年)に発足した米内内閣では拓務政務次官を務めた。この間、1927年(昭和2年)には、議会乱闘事件に関与したとして傷害の容疑で起訴。
神川 長久(かみかわ おさひさ、1870年7月14日(明治3… 神川 長久(かみかわ おさひさ、1870年7月14日(明治3年6月19日)- 1936年(昭和11年)11月11日)は、明治から昭和前期の日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 大隅国大隅郡大根占郷神川村鳥浜(鹿児島県南大隅郡神川村、大根占村、肝属郡大根占村、大根占町を経て現錦江町)出身。鹿児島造士館を経て、1891年(明治24年)に上京し、1893年(明治26年)慶應義塾卒。農業、木炭製造販売業を営み、1903年(明治36年)鹿児島県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務めた。 1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙(鹿児島県郡部、立憲政友会)で当選した。衆議院議員を1期務め、1920年(大正9年)の第14回総選挙には立候補しなかった。
3代目 牧野 文斎(さんだいめ まきの ぶんさい、1868年… 3代目 牧野 文斎(さんだいめ まきの ぶんさい、1868年7月14日(慶応4年5月25日) - 1933年(昭和8年)6月25日)は、三河南設楽郡東郷村八束穂(現・愛知県新城市八束穂)出身の医師・実業家・郷土史家。「牧野文斎」は襲名制であり、本稿では3代目について記述する。 牧野家は三河吉田藩の藩医だったが、祖父の牧野竜庵(初代牧野文斎)は幕末にその職を辞した。宝飯郡一宮村江島(現・豊川市一宮町)から南設楽郡東郷村八束穂(現・新城市八束穂、やつかほ)に移り住み、信玄病院を開設して初代院長となった。当初は主屋の一部を診療所として使用していたが、やがて2階建の建物を当地に移築して病院とした。父の牧野謙作(2代目牧野文斎)もこの地で医業に励み、信玄病院の2代目院長となった。
千葉 胤明(ちば たねあき、1864年7月14日(元治元年6… 千葉 胤明(ちば たねあき、1864年7月14日(元治元年6月11日) - 1953年(昭和28年)6月25日)は、東京府士族、歌人、書家、日本芸術院会員。親族:秋山虎六、天本浩義。 肥前佐賀出身。1881年佐賀中学校卒。1884年佐野常民に師事、竜地会事務職に就く。1885年高崎正風に師事、和歌を学ぶ。書を長三州に学ぶ。1888年農商務省博覧会勤務。1890年内国勧業博覧会、パリ万国博覧会事務。1892年宮内省御歌所勤務。1908年御歌所寄人。1916-1919年明治天皇御製編纂に従事。1936-1944年歌会始点者。1937年帝国芸術院会員。1946年従三位に叙せられた。墓所は青山霊園。 近衛公爵、徳川公爵、大山公爵、前田侯爵、蜂須賀侯爵、鍋島侯爵等へ伺う。
弘田 長(ひろた つかさ、1859年7月14日(安政6年6月… 弘田 長(ひろた つかさ、1859年7月14日(安政6年6月15日) - 1928年(昭和3年)11月27日)は、日本の医師。東京大学小児学教室の初代教授。幼少時の昭和天皇の侍医を務めた。国内で初めて小児科を作った人物であり、国産初のベビーパウダーとなるシッカロールを東京帝国大学薬学科の丹波敬三とともに作った人物でもある。また、日本で最初の小児科学の教科書『児科必携』を出版している。 1859年(安政6年)6月15日、土佐国幡多郡中村町にて、弘田親厚の長男として出生。1871年、13歳で土佐藩の貢進生に選ばれて上京。この貢進生の制度は終わったが、勉強を続け、1880年7月に東京大学医学部を卒業して医学士の学位を得、助手としてユリウス・スクリバ教授のもとで外科を修業した。