城戸健一(きど けんいち、1926年(大正15年)4月15日… 城戸健一(きど けんいち、1926年(大正15年)4月15日 - 2015年(平成27年)10月7日)は、日本の学者。専門は建築音響工学・電気音響工学・音声情報処理・情報工学。 1926年4月15日生まれ。1948年3月、東北帝国大学工学部電気工学科卒業。同年4月、東北大学に奉職。1956年3月、同大学工学部助教授。1961年3月、工学博士(東北大学)。1962年4月、東北大学電気通信研究所教授。1976年4月、同大学応用情報科学研究センター長。1990年4月、同大学名誉教授、千葉工業大学教授・音響情報研究所所長。1994年5月、オンテックR&D代表取締役会長。2007年11月、瑞宝中綬章受章。
五井 孝蔵(ごい こうぞう、1925年4月15日 - 200… 五井 孝蔵(ごい こうぞう、1925年4月15日 - 2007年1月12日)は、秋田県出身のプロ野球選手(投手、内野手)。 旧制秋田県立角舘中學校から立教大学へ進学し、主将を務めた。リーグ通算13勝32敗。 1950年に創立された近鉄パールスへ入団。3月31日に対毎日オリオンズ戦でプロ入り初登板、5安打5与四球2奪三振の内容で完封勝利を挙げた。初登板完封勝利は日本プロ野球史上10人目、球団およびパ・リーグでは初めての記録となった。この年は37試合を投げて8勝15敗の成績だった。1951年9月16日の対阪急ブレーブス戦で、野口二郎からパ・リーグ史上初、日本プロ野球史上3人目の代打サヨナラ本塁打を放っている。
浦野 省吾(うらの せいご、1925年4月15日 - 202… 浦野 省吾(うらの せいご、1925年4月15日 - 2021年9月7日)は、日本の経営者。ニチロ社長を務めた。長野県出身。 1948年に東京大学法学部政治学科を卒業し、同年に農林中央金庫に入社。1975年8月に理事を経て、1984年5月から1985年9月までに副理事長を務めた。1989年6月に日魯漁業(のちのニチロ)に転じ、取締役顧問に就任し、1990年1月には社長に就任。1995年6月に取締役相談役を経て、1996年4月には顧問に就任。 1999年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2021年9月7日に老衰のために死去。96歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
佐藤 泰三(さとう たいぞう、1924年(大正13年)4月1… 佐藤 泰三(さとう たいぞう、1924年(大正13年)4月15日 - 2013年(平成25年)1月21日)は、日本の政治家。自由民主党元参議院議員(3期。津島派)。医師(産婦人科)。位階は正四位。
荒川 昇治(あらかわ しょうじ、1924年4月15日 - 1… 荒川 昇治(あらかわ しょうじ、1924年4月15日 - 1997年1月28日)は、滋賀県出身の元プロ野球選手。現役時代のポジションは捕手。
長谷川 薫(はせがわ かおる、1924年4月15日- 200… 長谷川 薫(はせがわ かおる、1924年4月15日- 2004年1月9日 )は、日本の経営者。レンゴー社長、会長を務めた。 愛知県名古屋市出身。1945年5月25日、長谷川薫大尉は特攻機に乗り沖縄で被弾する。米駆逐艦キャラハンに救助される。1952年に学習院大学政経学部を卒業し、同年に聯合紙器(のちのレンゴー)に入社した。1961年に監査役に就任し、1962年5月に常務、1970年5月に専務を経て、1973年2月に副社長に就任し、1984年6月には社長に昇格した。包装機械や紙器などの関連分野に進出し、業務内容を拡大し、東南アジアや中国にも事業を拡げた。コンピューターを使った管理システムを導入し、1999年にはセッツとの合併を主導した。
石原 舜介(いしはら しゅんすけ、1924年4月15日 - … 石原 舜介(いしはら しゅんすけ、1924年4月15日 - 1996年4月16日)は、日本の都市計画家、工学博士。 1949年、東京工業大学建築学科卒業。東京都建設局都市計画課に勤務後、東工大助教授を経て同教授。田辺平学の都市防災論に学び、都市経営の視点から都市計画・社会工学研究を発展させた。門下に熊田禎宣、深海隆恒、梶秀樹、中井検裕、石見利勝ら。国民生活審議会委員、国民生活向上対策審議会委員、国土利用計画審議会委員、中央公害対策審議会委員、資源調査会委員、国土利用計画審議会委員、国会等移転調査会委員、土地政策審議会委員、日本都市計画学会会長、日本不動産学会会長、東京理科大学教授、明海大学不動産学部長等を歴任。
染谷 恭次郎(そめや きょうじろう、1923年4月15日 -… 染谷 恭次郎(そめや きょうじろう、1923年4月15日 - 2000年1月3日)は、日本の会計学者。東京都出身。早稲田大学名誉教授。専門分野は財務会計であるが、管理会計・経営分析・原価計算・監査に関する書物や論文も多い。 早稲田大学商学部卒業。早稲田大学では佐藤孝一博士の下で会計学を学ぶ。1946年卒業後商学部助手に採用され、専任講師・助教授を経て1955年に教授。 1962年には商学博士の学位を授与される。早稲田大学教務部長・商学部長・早稲田大学大学院商学研究科委員長等を歴任。1984年に設立された国際会計研究学会では発起人を務め、初代会長となる。1985年から1988年にかけて日本会計研究学会の会長等を務めるなど、日本における会計学の発展に貢献した。
川副武胤(かわぞえ たけたね、1922年4月15日 - 19… 川副武胤(かわぞえ たけたね、1922年4月15日 - 1993年6月29日)は、日本の日本史学者。山形大学名誉教授。 日本史学者・川副博の子として東京に生まれる。第三高等学校卒、1951年東京大学文学部国史学科卒。同大学院、1954年鎌倉市史編纂員、1960年正倉院事務所技官、1967年山形大学人文学部講師、1968年助教授、1974年教授。1985年定年退官、名誉教授、就実女子大学教授、就実学園理事。 1969年「古事記の研究」で名古屋大学文学博士。
塩田 庄兵衛(しおた しょうべえ、1921年4月15日 - … 塩田 庄兵衛(しおた しょうべえ、1921年4月15日 - 2009年3月20日)は、日本のマルクス主義経済学者、社会運動史・労働運動史研究者。学位は経済学博士(立命館大学、1987年)。東京都立大学 (1949-2011)名誉教授、立命館大学名誉教授。 昭和34年労働運動史研究会を設立。40年日本科学者会議常任幹事。平和・大衆運動にも参加した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
今井 陽(いまい よう、1921年 <大正10年> 4月15… 今井 陽(いまい よう、1921年 <大正10年> 4月15日 - 1999年 <平成11年> 9月7日)は、日本の医学者。医学博士(北海道大学)。北海道大学名誉教授。専門は生化学・栄養学。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 北海道出身。1944年北海道帝國大學医学部卒業。赤紙により召集。1946年終戦により復員。 1946年北海道帝国大学医学部助手。1949年北海道大学で「微生物体脂質に関する研究」にて医学博士を受く。1950年北海道大学医学部助教授。その後、北海道大学医学部教授。同医学部長など歴任。1985年北海道大学停年退官。同名誉教授。1985年北海道栄養短期大学食物栄養学科教授。同食物栄養学科長。
窪田 精(くぼた せい、1921年4月15日 - 2004年… 窪田 精(くぼた せい、1921年4月15日 - 2004年2月29日)は、日本の小説家。 山梨県北巨摩郡高根町(現北杜市)に生まれた。高等小学校修了間際に上京し、夜学に通いながら、大衆演劇の世界にはいる。そのなかで、社会の矛盾にめざめ、傾向映画作品の舞台化をめざす劇団わかもの座に参加する。1940年、演劇活動のなかで右翼の襲撃をうけ、そのトラブルのなかで治安警察法違反に問われて、下獄した。戦時中は南洋群島のトラック島に送られ、流刑囚の生活を送った。 戦後出獄したあと文学の道を選ぶ。清瀬村にあった国立療養所に勤務するなかで、小沢清らと新日本文学会の下部のサークルをつくる。1949年、新日本文学会に入会する。
緒明 泰平(おあけ たいへい、1920年4月15日 - 19… 緒明 泰平(おあけ たいへい、1920年4月15日 - 1997年8月30日)は、日本の経営者。静岡銀行頭取を務めた。東京都出身。兄は三菱商事社長を務めた三村庸平。 1942年9月に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、海軍大尉を経て、1946年11月に千代田火災海上保険に入社。 1949年6月に静岡銀行に転じ、1968年10月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1973年11月に専務を経て、1975年5月に副頭取を就任し、1978年6月に頭取に昇格。1983年6月に取締役相談役を経て、1985年6月から相談役を務めた。 1983年11月に藍綬褒章を受章し、1990年11月に勲三等瑞宝章を受章。
鹿野 琢見(かの たくみ、1919年4月15日 - 2009… 鹿野 琢見(かの たくみ、1919年4月15日 - 2009年10月23日)は、日本の弁護士。1969年、東京第二弁護士会副会長。弥生美術館および竹久夢二美術館を創設し理事長を務めた。また立原道造記念館の創設にも関わり同館理事長を務めた。 1929年(昭和4年)発行の雑誌『日本少年』の巻頭口絵は高畠華宵の「さらば故郷!」であった。当時10歳であった鹿野は強烈に感動し、出征するまで勉強部屋に保管しておいたが、敗戦により復員したときには失われていた。 1965年(昭和40年)3月に華宵(当時77歳)が兵庫県の明石愛老園にいることを知り、「『さらば故郷!』のような絵を再び描いていただければ…」と手紙を送る。
24代 式守 伊之助(にじゅうよんだい しきもり いのすけ、… 24代 式守 伊之助(にじゅうよんだい しきもり いのすけ、1919年(大正8年)4月15日 - 2013年(平成25年)2月1日)は、大相撲の立行司。式守伊之助としての在位期間は1977年11月~1984年3月。朝日山部屋所属。香川県大川郡志度町(現さぬき市)出身。本名は尾崎信雄。 父親は高砂部屋の元三段目力士。 23代木村庄之助(2代木村正直)の弟子。1935年1月場所に初代木村正義の名で初土俵。兵役で一時相撲界を離れたが、1947年6月場所に十両格最下位で復帰した。その後、木村正信時代の1961年11月場所、三役格行司に昇進。翌1962年1月場所、3代木村正直を襲名。立行司24代式守伊之助を襲名するまで16年間(96場所)も三役格行司を務めた。
木山 弘(きやま ひろし、1918年〈大正7年〉4月15日 … 木山 弘(きやま ひろし、1918年〈大正7年〉4月15日 - 2009年〈平成21年〉2月26日)は、日本の政治家。元奈良県奈良市長(1期) 。位階は正六位。 三重県出身。1941年〈昭和16年〉昭和高等商業学校(現大阪経済大学)卒。1946年〈昭和21年〉奈良市役所に入る。市民、財政の各課長、総務部長、市長公室長、収入役、助役を経て、1980年〈昭和55年〉奈良市長に当選。市長を1期務め、1984年〈昭和59年〉の市長選挙には不出馬、市長を退任した。2009年〈平成21年〉死去。死没日付をもって正六位に叙された。
利根 一郎(とね いちろう、1918年〈大正7年〉4月15日… 利根 一郎(とね いちろう、1918年〈大正7年〉4月15日 - 1991年〈平成3年〉12月16日)は昭和期の作曲家。本名:恩田 良武。 朝鮮で生まれた。本籍は群馬県邑楽郡明和町で、同地に本家と先祖の墓がある。 早稲田大学政経学部中退。 1942年(昭和17年)ポリドール・レコードに入社。その後キングレコードを経てビクターに所属。1947年(昭和22年)、「星の流れに」が大ヒット。作曲家人生49年で1200余曲を作曲する。1966年(昭和41年)、「霧氷」にて第8回日本レコード大賞を獲得。 日本作曲家協会理事を務めた。1990年(平成2年)、勲四等瑞宝章受章。 1991年(平成3年)12月16日死去。
河邨 文一郎(かわむら ぶんいちろう、1917年〈大正6年〉… 河邨 文一郎(かわむら ぶんいちろう、1917年〈大正6年〉4月15日 - 2004年〈平成16年〉3月30日)は、日本の整形外科医、詩人。元札幌医科大学教授。 北海道小樽市出身。小樽中学、北海道帝国大学医学部を卒業。その後、東京帝国大学医学部を経て、札幌医科大学整形外科教授となる。医師から作家に転向した渡辺淳一は、教え子のひとりである。 1950年12月、東北大学より「項中隔石灰症の研究」で医学博士を取得した。 1952年には北海道整肢学院(現北海道立子ども総合医療・療育センター)の初代院長となり、北海道の「肢体不自由児の父」と呼ばれる。北海道内でのポリオ流行後、同疾患による下肢短縮に対する河邨式脚延長術式を開発した。
千明 武久(ちぎら たけひさ、1917年(大正6年)4月15… 千明 武久(ちぎら たけひさ、1917年(大正6年)4月15日 - 1944年(昭和19年)9月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。ペリリューの戦いにおける千明大隊の奮戦で知られる。 群馬県利根郡片品村鎌田に近衛騎兵少尉、千明林蔵の次男として生まれる。旧制沼田中学校を経て、1935年(昭和10年)4月、陸軍士官学校に第53期生として入校。剣道の達人であり、在学中天覧試合にも出場した。1940年(昭和15年)3月の士官学校卒業と同時に歩兵第15連隊付中隊長教育主任に任官。1944年(昭和19年)2月、満州国チチハルより南方へ出陣、同連隊第3大隊長としてペリリュー島の守備に就いていた歩兵第2連隊に分遣され同島南部「高崎湾」近くに布陣する。
若緑(わかみどり、1917年4月15日 - 1977年)は、… 若緑(わかみどり、1917年4月15日 - 1977年)は、日本の昭和初期に活躍した女相撲の力士。興行女相撲の最高位である大関を務めた。 大正6年(1917年)、山形県東置賜郡宮内町(山形県南陽市)で生まれた。本名は遠藤志げの。 昭和9年(1934年)、志げのが17歳のとき、石山兵四郎を荷主とする石山興行の女相撲の興行が菊祭りにあわせて宮内町に来た。志げのの実家は遠藤商店という食品や雑貨を扱う店を営んでおり、志げのが軽々と石山興行へ米俵を配達しているのを女力士が見てその力に驚いた。その後、玉椿と若桜の取り組みを見たことで感銘を受け、志げの自身も石山興行に入り、しこ名を若緑とした。 入門から3年で大関となり、東の大関玉椿と並び、西の大関として人気を誇った。
鈴木 博章(すずき ひろあき、1916年4月15日 - 19… 鈴木 博章(すずき ひろあき、1916年4月15日 - 1976年9月16日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長を務めた。 京都府京都市出身。1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、神戸製鋼所に入社した。総務部長、取締役、常務、専務を経て、1974年5月から副社長を務め、同年11月社長に就任した。 しかし、1976年9月16日在任中に急性心不全により死去。60歳没。
田代 由紀男 (たしろ ゆきお、1916年4月15日 - 1… 田代 由紀男 (たしろ ゆきお、1916年4月15日 - 1997年8月22日)は日本の政治家。参議院議員(3期)。熊本県天草郡河浦町(現天草市)出身。東亜同文書院大学卒業。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
上田 修一郎(うえだ しゅういちろう、1916年〈大正5年〉… 上田 修一郎(うえだ しゅういちろう、1916年〈大正5年〉4月15日 - 1973年〈昭和48年〉5月11日)は、日本の戦史研究家、軍人。防衛大学校教授を歴任。戦中に軍事史と出会って以来研究し、近世を中心とした体系的な軍事思想書を執筆した。 高知県吾川郡春野村(現・高知市)出身。1936年(昭和11年)、高知高等学校文科乙類卒業後、東京大学文学部西洋史科に入学し、林健太郎が研究室の副手をしていたため、上田と親交をそれ以来持つ。1939年(昭和14年)、東京大学大学院に進学し、参謀本部の委嘱により大場弥平少将(但し当時は予備役になっていた)の指導を受ける。この頃から軍事史を研究し始め、軍務に服して陸軍少尉になる。
品川 不二郎(しながわ ふじろう、1916年4月15日 - … 品川 不二郎(しながわ ふじろう、1916年4月15日 - 2012年3月28日)は、日本の教育心理学者。東京学芸大学名誉教授。 東京文理科大学卒、1962年「知能とpersonality traitsとの構造的関連に関する研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。東京学芸大学助教授、教授、1980年定年退官、名誉教授、洗足学園短期大学教授。1989年勲三等旭日中綬章叙勲。妻の品川孝子も教育学者で、共著も多い。 2012年3月28日に死去した事が親族からの死亡届により判明した。
二瀬川 政一(ふたせがわ まさいち、1916年4月15日 -… 二瀬川 政一(ふたせがわ まさいち、1916年4月15日 - 1959年8月22日)は、奈良県北葛城郡新庄町(現葛城市)出身で朝日山部屋に所属した大相撲力士。本名は井口 政一(旧姓安川)。最高位は東関脇。身長171cm、体重128kg。得意手は突っ張り、押し、右四つ、寄り。 1931年5月場所初土俵、その後ゆっくりではあったが着実に昇進し、1940年5月場所新入幕を果たした。二の腕から先の柔軟性を生かした突き押し、右四つからの腰の重い寄りを得意とした。ところがこの場所、横綱双葉山をはじめ上位陣に休場者が多く、相手方の横綱男女ノ川の対戦相手を番付の上から数えていくと、二瀬川にあたってしまったので、13日目、前日まで5勝7敗であったのに対戦が組まれ、敗れて負け越してしまった。
秦 正流(はた しょうりゅう/まさる、1915年4月15日 … 秦 正流(はた しょうりゅう/まさる、1915年4月15日 - 1994年7月9日)は、日本のジャーナリスト。滋賀県出身。朝日新聞社専務取締役、日本ジャーナリスト会議代表委員を務めた。 浄土真宗本派本願寺派至心山円徳寺住職の父諦観と母いくの次男として生まれる。1936年3月、大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)露語部を卒業する。 同1936年8月、大阪朝日新聞社に準試用社員として入社し、奈良通信部に配属される。1937年1月、兵役に召集され、金沢の騎兵第9連隊に入営のため朝日新聞社を休職。満州ハルビンに配属されて初年兵の教育を受け、幹部候補生に採用されて6月に一等兵として帰国。翌1938年1月千葉県習志野の陸軍騎兵学校に入校、7月少尉任官、騎兵第9連隊が駐屯中の中国・蘇州で原隊復帰。
藤岡 謙二郎(ふじおか けんじろう、1914年4月15日 -… 藤岡 謙二郎(ふじおか けんじろう、1914年4月15日 - 1985年4月14日)は、日本の地理学者。学位は、文学博士(京都大学・1961年)。京都大学名誉教授。 京都府出身。1935年高知高等学校卒業。京都帝国大学文学部史学科卒業。 1938年京都帝国大学文学部副手、1939年立命館大学講師、1945年立命館大学法文学部助教授、教授を経て、1949年京都大学教養部助教授、翌年教授。1978年定年退官。同年、奈良大学文学部教授となり、1985年定年退職。 1961年、「わが國律令時代における地方都市及び交通路の歴史地理学的研究」で京都大学より文学博士の学位を取得。逝去にあたり、正四位勲三等旭日中綬章。
水島 廣雄(みずしま ひろお、1912年4月15日 - 20… 水島 廣雄(みずしま ひろお、1912年4月15日 - 2014年7月28日)は、京都府舞鶴市出身の実業家、民法学者。日本興業銀行勤務を経て、そごうの会長、社長を務めた。東洋大学名誉教授、法学博士。担保法の権威としても知られた。
古谷 綱正(ふるや つなまさ、1912年〈明治45年〉4月1… 古谷 綱正(ふるや つなまさ、1912年〈明治45年〉4月15日 - 1989年〈平成元年〉5月11日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター。毎日新聞社論説委員、JNNニュースコープメインキャスター。 東京出身。旧制成城高等学校卒業。同校の尋常科(旧制成城第二中学校)時代から非行に走り、喫煙に始まり学校をサボって映画館に入り浸るなどの行為を繰り返し、尋常科4年の際には落第一歩手前の状況となるが、同校のダルトン・プランなどのシステムをフル活用してなんとか落第を免れた。高等科では左翼運動に走り警察に検挙され、事実上停学処分となり3年次の2学期と3学期は期末試験すら受けていない状態だったが、どういうわけか落第にもならず卒業できた。
薦田 国雄(こもだ くにお、1912年4月15日 - 19… 薦田 国雄(こもだ くにお、1912年4月15日 - 1997年10月2日)は、日本の経営者。 香川県三豊郡豊浜町出身。1936年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に東邦ガスに入社。1962年8月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1975年3月に社長に就任し、1984年6月には会長に就任。テレビ愛知監査役、中部日本放送取締役、東海旅客鉄道取締役なども歴任。 1973年10月に藍綬褒章を受章し、1986年5月に勲二等旭日重光章を受章。 1997年10月2日急性心不全のために死去。85歳没。
戸川 幸夫(とがわ ゆきお、1912年〈明治41年〉4月15… 戸川 幸夫(とがわ ゆきお、1912年〈明治41年〉4月15日 - 2004年〈平成16年〉5月1日)は、日本の小説家、児童文学作家。動物に関する正しい観察・知識を元にして動物文学を確立させ、日本においては椋鳩十と並ぶ第一人者(特に闘犬に関する作品が多い)。 それまでは噂のみの存在だったイリオモテヤマネコの標本を今泉吉典にもたらし、新種発見に大きく貢献したことでも知られる。ルポルタージュ、戦記物語などの作品もあり、漫画原作も手がけた。 佐賀市に生まれ、1歳の時に、医師で、またハンターでもあった戸川益勇の養子となる。10歳までは福岡県若松市及び八幡市(いずれも現・北九州市)で育つ。幼少から動物好きで、動物学者になることを志し、動物に関する本を耽読した。
吉井 信康(よしい のぶやす、1911年(明治44年)4月1… 吉井 信康(よしい のぶやす、1911年(明治44年)4月15日 - 没年不明)は、旧華族吉井家(旧吉井藩主鷹司松平家)14代当主。1924年(大正12年)から1946年(昭和21年)まで子爵(1947年の日本国憲法施行により華族制度廃止)。父は子爵吉井信宝。妻は宮地栄治郎の次女。 1936年京都大学経済学部卒業。1939年、宮地鉄工所(現・宮地エンジニアリンググループ)に入社し、1953年に経理課長代理、1959年に監査役となった。 頼宣1619-1667 | 光貞1667-1698 | 綱教1698-1705 | 頼職1705 | 吉宗1705-1716 | 宗直1716-1757 | 宗将1757-1765 | 重倫1765-1775 | 治貞1775-1789 | 治宝1789-1824 | 斉順1824-1846 | 斉彊1846-1849 | 慶福1849-1858 | 茂承1858-1906 | 頼倫1906-1925 | 頼貞1925-1954 | 頼韶1954-1958 | 剛1958-1965 | 宜子1965-現在 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
水野 稔(みずの みのる、1911年4月15日 - 1997… 水野 稔(みずの みのる、1911年4月15日 - 1997年8月19日)は、日本の国文学者。専門は日本近世文学、特に山東京伝。 兵庫県姫路市生まれ。1920年に急逝した兄の影響を受けて、近世文学研究を志す。姫路高等学校文科甲類を経て、1933年東京大学文学部国文学科を卒業。1935年、同大学大学院を修了。1939年仙台陸軍幼年学校教授。1940年姫路高校時代の恩師だった原田虎男の長女と結婚。1942年陸軍予科士官学校教授。1946年兵庫県立姫路商業学校教諭、1949年兵庫県立姫路工業大学付属高等学校教諭と兵庫県立姫路工業大学講師を兼任。1955年、明治大学文学部助教授、1960年同教授。1982年同大学を定年退職。
保田 與重郎(保田 与重郎、やすだ よじゅうろう、1910年… 保田 與重郎(保田 与重郎、やすだ よじゅうろう、1910年〈明治43年〉4月15日 - 1981年〈昭和56年〉10月4日)は、日本の文芸評論家。多数の著作を刊行した。湯原冬美の筆名も用いた。 奈良県十市郡桜井町(現桜井市)生まれ。旧制奈良県立畝傍中学校を経て、大阪市阿倍野区にあった旧制大阪高等学校から東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。大阪高校時代にはマルクス主義にも触れ、蔵原惟人や中条百合子の作品を評価していた。また、高校時代の同級に竹内好がおり、後に保田が中国を訪れた際には竹内が案内役となった。 東京帝大在学中から大阪高時代の同窓生と共に『コギト』を主宰。高校時代のマルクス主義からヘルダーリンやシュレーゲルを軸としたドイツロマン派に傾倒し、近代文明批判と日本古典主義を展開した。
篠原 梵(しのはら ぼん、1910年4月15日 - 1975… 篠原 梵(しのはら ぼん、1910年4月15日 - 1975年10月17日)は、愛媛県出身の俳人、編集者・出版者。伊予郡南伊予村(現・伊予市)生。本名・敏之(としゆき)。俳号「梵」は郷里の松山で男の子のことを「ボン」と呼んだことによるという。 旧制松山高等学校を経て、1934年、東京大学文学部国文学科を卒業。1938年、中央公論社に入社。戦中の1944年、退職して郷里の愛媛青年師範学校で教師をしていたが、1948年に中央公論社に復職、「中央公論」編集長、同社出版部長、取締役を経て中央公論事業出版専務に就任。その後同社の社長に就任し、丸の内出版社の社長も兼任した。出版人として毎日出版文化賞、広告電通賞などを受賞している。
千葉 皓(ちば こう、1909年4月15日 - 1984年1… 千葉 皓(ちば こう、1909年4月15日 - 1984年1月20日)は、昭和時代(戦前から戦後)の日本の外交官。位階は正三位。 米国サンフランシスコに生まれ、1922年に帰国する。第二高等学校文科甲類を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業後、外交官試験に合格し、同年11月に外務省へ入省する。英国勤務を経て、東亞局に勤務する。1942年中国在勤。戦後、一時大蔵省に勤務するが、1947年終戦連絡中央事務局連絡官、1948年会計課長に復帰した。1952年メキシコ在外事務所所長、同年4月同国大使館参事官。1954年2月サンパウロ総領事。 1955年4月欧米局長、1957年4月欧米局長を経て、同年12月メキシコ大使に任ぜられる。
杉田屋 守(すぎたや まもる、1908年4月15日 - 19… 杉田屋 守(すぎたや まもる、1908年4月15日 - 1972年5月11日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)生まれのプロ野球選手(外野手)・監督。ハワイ移民の日系2世。
松本重雄(まつもと しげお 1908年4月15日 - 199… 松本重雄(まつもと しげお 1908年4月15日 - 1992年11月14日)は、日本銀行の理事。
渡辺 三男(わたなべ みつお、1908年4月15日 - 20… 渡辺 三男(わたなべ みつお、1908年4月15日 - 2000年2月1日)は、国文学者、博士。駒澤大学教授。専門は中古文学。 1961年3月『中国の文献に見える日本語文資料の研究』で博士号(国文学、駒澤大学)取得。駒澤大学文学部国文学科助教授を経て、教授に就任。同大学文学部国文学研究室の代表などを務める。 著書に「紫式部日記要解」「大鏡要解」など。 渡邊 梢(わたなべ しょう)の別名もあり、その名義では1冊のみ著書がある。 2000年2月1日、肺炎のため死去。 「国立国会図書館サーチ」を参照 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
有光 茂夫(ありみつ しげお、1907年4月15日 - 19… 有光 茂夫(ありみつ しげお、1907年4月15日 - 1994年11月16日)は、日本の経営者。東洋信託銀行社長を務めた。高知県出身。 1930年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に三和信託に入行し、1945年に三和銀行に移る。1956年に取締役に就任し、1959年に常務に就任し、東洋信託銀行常務も就任。専務、副社長を経て、1969年11月に社長に就任。1974年11月に取締役相談役に就任し、1979年12月には相談役に就任。 1978年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1994年11月16日に心不全のために死去。87歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
宮 操子 (みや みさこ、1907年 (明治40) 4月15… 宮 操子 (みや みさこ、1907年 (明治40) 4月15日 - 2009年 (平成21) 5月7日) は、岩手県出身のダンサー。本名ミサオ。 江口隆哉と共にドイツ留学し、ドイツ表現主義舞踊「ノイエタンツ」創始者として知られるマリー・ヴィグマン (1886-1973) に師事、帰国後モダン・ダンスの先駆者として活躍した。 1907年岩手県黒沢尻 (現在の北上市) に生まれる。10歳前後の頃に、鉱山採掘の仕事をやめた両親と姉と共に東京に移住。高等女学校に進学し、ピアノやヴァイオリンのレッスンに通い、演劇の勉強もした。関東大震災後の新しい時代風潮の中で、乗馬や射撃にも挑戦し、夢中になって打ち込めるものを探していた。
黒田 秀俊(くろだ ひでとし、1905年4月15日-1989… 黒田 秀俊(くろだ ひでとし、1905年4月15日-1989年6月14日)は、日本のジャーナリスト、社会運動家。 静岡県下田市出身。明治大学政治経済学科中退、明治大学新聞高等研究科修了。 1938年中央公論社入社、42年南方派遣、のち「中央公論」編集長となり、44年横浜事件及び改造社、中央公論社解散に遭遇。 戦後は原水協事務局長、基地問題文化人懇談会事務局長、日本平和委員会常任理事などを務め、晩年は東京都中野区の教育委員準公選運動などに関わった。
関牧翁(せき ぼくおう、1903年〈明治36年〉4月15日 … 関牧翁(せき ぼくおう、1903年〈明治36年〉4月15日 - 1991年〈平成3年〉2月13日)は、日本臨済宗の僧侶。 臨済宗天龍寺派管長。天龍寺二百四十一世。俗姓は岩井のち関。諱は巍宗。号は叱咤室また集瑞軒。天龍寺規則・宗制の改正を断行し、自由奔放な禅者として知られた。主な弟子には大森曹玄、加藤隆芳、平田精耕、荒金天倫がいる。 群馬県甘楽郡下仁田町に生まれる。初名は岩井 敏夫。旧制富岡中学校を卒業し、慶応義塾大学医学部予科に進学するが、中退。武者小路実篤の提唱した「新しき村」の思想に感化され、伊吹山麗の「愛の村」で青年を指導。 1928年(昭和3年)岐阜県揖斐郡揖斐川町の瑞巌寺の岡部洪宗和尚について得度。
諸田 幸一(もろだ/もろた こういち、1903年〈明治36年… 諸田 幸一(もろだ/もろた こういち、1903年〈明治36年〉4月15日 - 1986年〈昭和61年〉7月30日 )は、日本の経営者。群馬銀行頭取、群馬テレビ社長を務めた。位階は従四位。 群馬県勢多郡横野村(現・渋川市)出身。1923年に刀川実業補習学校を卒業し、1929年に上毛銀行(現・群馬銀行)に入行した。1953年10月に取締役に就任し、1959年に常務、1968年10月に専務を経て、1970年11月に副頭取に就任し、1971年5月には頭取に昇格した。1977年に会長、1981年5月に取締役相談役を経て、1984年5月には相談役に就任。群馬テレビ社長、全国地方銀行協会会長なども歴任。全国銀行協会連合会理事、日本経済団体連合会常任理事。
岩木 哲夫(いわき てつお、1901年(明治34年)4月15… 岩木 哲夫(いわき てつお、1901年(明治34年)4月15日 - 1980年(昭和55年)2月2日)は、日本の実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員(1期)。旧姓は三宅川。 愛媛県越智郡富田村(現今治市)で、三宅川秀逸の長男として生まれ岩木六兵衛の養子となる。大阪大倉商業学校(現関西大倉中学校・高等学校)を卒業した。 藤本合資に入り、同社代表、大阪穀物商同業組合副組長、同組合長を経て、1937年(昭和12年)大阪府米穀商業組合理事長に就任。1942年(昭和17年)食糧営団の設立に伴い大阪府食糧営団専務理事となる。以後、中央食糧営団理事、大阪府食糧国防団団長、同物価協力会議食糧部長、同府経済警察協議員、大阪食糧科学学校講師、大阪地方検事局及び裁判所経済委員などを務めた。
毛利 与一(もうり よいち、1901年4月15日 - 198… 毛利 与一(もうり よいち、1901年4月15日 - 1982年1月30日)は、日本の弁護士。 福岡県北九州市で生まれる。 1925年に京都帝国大学法学部を卒業。1928年には大阪で法律事務所を開く。その後は第2次大本教事件、人民戦線事件、天理本道事件などの弁護人を務める。戦後、東京裁判では平沼騏一郎の補佐弁護人を務め、鈴木大阪警視総監名誉毀損事件ではGHQの裁判干渉に抗議しながら弁護に当たった。その他にも松川事件、八海事件、破壊活動防止法京都事件、朝日訴訟、砂川事件などで弁護活動を行った。 1958年『自由心証論 : 有罪心証としての』で立命館大学法学博士を取得。1959年に大阪弁護士会会長を務めた。
安立 綱光(あだち つなみつ、1901年4月15日 – 19… 安立 綱光(あだち つなみつ、1901年4月15日 – 1981年11月2日) は、日本の昆虫学者。 1921-1922年兵役をへて、1925年に東京大学農学部に入学し卒業。1932年に助手となり、1948年に助教授。 1954年、東洋大学教授に就任。 彼は1976年に退官。 足立は主に昆虫学に関する75の科学論文を執筆しており、そのほとんどがハネカクシに関するものであった。 彼の発見した11の新種はすべて日本から。 リー・H・ハーマン(2001)。 Staphylinidae(昆虫綱:甲虫目)のカタログ。 1758年から第二千年紀の終わりまで。 I.はじめに、歴史、伝記のスケッチ、およびオマリーングループ 、アメリカ自然史博物館紀要、265 :i + vi + 649 p。
吉富 滋(よしとみ しげる、1901年〈明治34年〉4月15… 吉富 滋(よしとみ しげる、1901年〈明治34年〉4月15日 - 1946年〈昭和21年〉10月18日)は、日本の内務・厚生官僚。官選高知県知事。 山口県出身。吉富瀬兵衛の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1928年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1929年、東京帝国大学法学部英法科を卒業。内務省に入省し、神奈川県属となる。 以後、福島県教育課長、同地方課長、島根県警察部特別高等警察課長、兵庫県警察部外事課長、内務省社会局事務官、厚生事務官、軍事保護院書記官、同業務局業務課長、厚生省大臣官房会計課長などを歴任。 1946年1月、高知県知事に就任。県立学校の統合、四国配電株式会社重役陣の改組、県内の復興などに取り組んだ。
廿日出 厖(はつかで ひろし、1901年〈明治34年〉4月1… 廿日出 厖(はつかで ひろし、1901年〈明治34年〉4月15日 - 1947年〈昭和22年〉10月19日)は、日本の教育者、政治家。浜松学院興誠高校の創立者、衆議院議員。 1901年(明治34年)広島県呉市豊町大長出身。ミカン農家の五男に生まれる。長崎高等商業学校を卒業し、1929年(昭和4年)3月に東北帝国大学宗教哲学科を卒業する。 内務大臣望月圭介の秘書官を経て、遠江商業学校校長に就任する。しかし、学校の経営責任者と対立し生徒らと共に学校を去り新たに普済寺で授業を開始する。 1933年(昭和8年)11月、文部大臣から財団法人・興誠商業学校の設立指定を受ける。 1946年(昭和21年)4月に、戦後第1回の総選挙に諸派から静岡県全県区で衆議院議員に当選した。
山本 正一(やまもと しょういち、1901年(明治34年)4… 山本 正一(やまもと しょういち、1901年(明治34年)4月15日 - 1979年(昭和54年)9月17日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(5期)、鎌倉市長(3期)、鎌倉市会議員、神奈川県会議員(鎌倉市選挙区)。山梨県生まれ、東京都出身。位階は従四位。