佐竹 義栄(義榮、さたけ よしなが、1914年〈大正3年〉9… 佐竹 義栄(義榮、さたけ よしなが、1914年〈大正3年〉9月17日 - 1983年〈昭和58年〉12月6日)は、昭和期の華族。佐竹宗家35代当主。貴族院侯爵議員。位階は正五位。 華族・佐竹義春、兼子(九条道実長女)夫妻の長男として生まれる。1938年(昭和13年)、東北帝国大学法文学部(現・東北大学法学部、文学部、経済学部)を卒業。以後、保険院嘱託、企画院嘱託、技術院嘱託、技術院参技官を歴任。父の死去に伴い1944年(昭和19年)5月15日、侯爵を襲爵。同年9月17日、満30歳に達し貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 戦後は、子どもの家理事(埼玉県)、秋田県育英会理事長を務めた。
佐々木 秀一(ささき ひでいち、1913年(大正2年)9月1… 佐々木 秀一(ささき ひでいち、1913年(大正2年)9月17日 - 1996年(平成8年)12月19日)は、日本の実業家。佐々木硝子(現・東洋佐々木ガラス)社長、会長を務めた。 1937年(昭和12年)慶應義塾大学経済学部を卒業後、家業の佐々木硝子店に入社。1947年佐々木硝子に改組し、社長に就任。1957年(昭和32年)にはアジア初となるタンブラーグラス生産の自動化を行い、これにより佐々木硝子は成長した。1983年(昭和58年)に会長に就任。 社業以外では東京商工会議所副会頭を務めたほか、1968年(昭和43年)に藍綬褒章、1984年(昭和59年)に勲二等旭日重光章を受章している。
松下 正治(まつした まさはる、英語:Masaharu Ma… 松下 正治(まつした まさはる、英語:Masaharu Matsushita, 1912年9月17日 - 2012年7月16日)は、日本の実業家。パナソニック(旧・松下電器産業)の代表取締役社長、代表取締役会長、取締役相談役名誉会長を歴任した。位階は従三位。松下幸之助の娘婿。東京府出身。2018年現在、同社の歴代社長8人の中で唯一、関西以外の出身者(他は全て最終学歴まで関西育ち)である。
土井 英一(つちい(どい) えいいち、1909年(明治42年… 土井 英一(つちい(どい) えいいち、1909年(明治42年)9月17日 – 1933年(昭和8年)9月9日)は、戦前日本のエスペランティスト。詩人土井晩翠の長男。第二高等学校在学中からエスペラント運動に取り組み、特にドイツの小学校長ヨハネス・シュレーダーと親交した。東北帝国大学入学後、ハンセン病患者救済のため寄附金付切手の導入を働きかけたが、在学中に病没した。 1909年(明治42年)9月17日、土井晩翠・八枝夫妻の長男として生まれた。片平丁尋常小学校(現在の仙台市立片平丁小学校)在学中に教師に飛び級を勧められ、5年次修了後に宮城県立仙台第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)に入学した。1年生の夏期休暇には原釜海水浴場で鰹漁船まで泳いだり、蔵王に登山するなど健康だったが、4年生の秋に発火演習で無理をしてから体調を崩した。
原田 鋼(はらだ こう、1909年9月17日 - 1992年… 原田 鋼(はらだ こう、1909年9月17日 - 1992年7月17日)は、日本の政治学者。元中央大学学長。専門は、政治学。特に、政治思想史・政治哲学・政治権力。後年、法哲学も研究した。政治学分野から初めての文化功労者である。 中国大連生まれ。栃木県大田原市で育つ。1936年、早稲田大学政治経済学部卒業。1941年から1945年にかけて、早稲田大学政治経済学部非常勤講師。1942年11月、法学博士(東京帝國大學)(学位論文「法治国家論」)。 1948年、中央工学専門学校専任講師。1949年、中央大学法学部教授。政治学原論・政治史・法哲学を担当。1965年、中央大学評議員( - 1973年)。1969年、中央大学学長。
前田 俊彦(まえだ としひこ、1909年〈明治42年〉9月1… 前田 俊彦(まえだ としひこ、1909年〈明治42年〉9月17日 - 1993年〈平成5年〉4月16日)は、日本の社会運動家。市民運動関係者からは「前田のじいさん」と呼ばれた。 福岡県鞍手郡宮田村(現・宮若市)出身。1917年に父が他界したため、祖父が初代村長をつとめた京都郡延永村(現・行橋市延永)に移り、延永小学校に転校。1926年、福岡県立豊津中学校を卒業して、東京方面へ行く。 労働組合運動に関わり、1931年、日本共産党に入党する。関西地区のオルグを担当する。1932年、治安維持法・陸軍刑法違反で検挙される。懲役7年の実刑判決を受け、福岡刑務所に下獄。1940年に保安処分となり門司市に移り住むが、再度治安維持法違反で起訴され、禁固10ヶ月の判決を受ける。
東野 英治郎(とうの えいじろう、1907年(明治40年)9… 東野 英治郎(とうの えいじろう、1907年(明治40年)9月17日 - 1994年(平成6年)9月8日)は、日本の俳優、随筆家。戦前期の芸名は本庄 克二。身長159cm。 新築地劇団を経て小沢栄太郎、千田是也らと俳優座を創設し、その中心として活躍。戦中からは映画にも出演し、個性的な名脇役として330本以上の作品に出演した。主な出演映画に『東京物語』『用心棒』『秋刀魚の味』『白い巨塔』など。テレビドラマ『水戸黄門』の初代黄門役でも知られる。著書に『私の俳優修業』など。長男は俳優の東野英心。 1907年(明治40年)9月17日(火曜日)、群馬県富岡市七日市の造り酒屋の家に生まれる。父は江州の山村から単身で関東に移り、辛苦して酒造家となった人で、根っからの日野商人(近江商人)だった[要文献特定詳細情報]。
武田 満作(たけだ まんさく、1907年(明治40年)9月1… 武田 満作(たけだ まんさく、1907年(明治40年)9月17日 - 1991年(平成3年)12月22日)は、日本の経営者、銀行家。日本勧業銀行頭取を務めた。愛知県海部郡弥富町(現・弥富市)出身。 1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、1933年に日本勧業銀行に入行。 全国金融統制会出向。東海、北陸地方商工局事務官を経て勧銀に復帰。調査課長、調査部次長、業務部次長、審査室審議役、調査部長、人事部長を歴任。 1957年11月に取締役に選任。常務、副頭取を経て、1966年12月には頭取に昇格した。 1969年2月、4月末からの全国銀行協会連合会長の激職を控え、持病の糖尿病を心配して、横田郁副頭取に頭取の座を譲り会長に退いた。
鴨田 宗一(かもだ そういち、1906年(明治39年)9月1… 鴨田 宗一(かもだ そういち、1906年(明治39年)9月17日 - 1979年(昭和54年)2月8日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位勲一等。衆議院議員(7期)、熊谷市長(3期)。熊谷市名誉市民。1953年3月熊谷商工信用組合を設立し、初代理事長に就任。その後、自由民主党より国政へ進出し、商工部会長、中小企業調査会長、政調審議委員、副幹事長、池田内閣建設省政務次官、佐藤内閣経済企画政務次官、衆議院大蔵委員長などを歴任。専門は中小企業問題、経済企画。地元、熊谷駅への新幹線開通を実現した。衆議院議員の鴨田利太郎は息子。
井村 恒郎(いむら つねろう、1906年9月17日 - 19… 井村 恒郎(いむら つねろう、1906年9月17日 - 1981年8月22日)は、日本の精神医学者。国立精神衛生研究所心理学部長等を歴任。日本大学名誉教授。学位は、医学博士(東京大学・1941年)。 千葉県銚子市生まれ。水戸高等学校卒、1929年京都帝国大学文学部哲学科卒業。1934年東京帝国大学医学部卒業、東京帝国大学医学部附属病院精神科副手。35年同助手、1940年同外来診療所医長。41年「失語症に於ける失行性症状」で東京大学より医学博士の学位を取得。同年軍事保護院傷痍軍人下総療養所医官。44年日本精神学会学会賞(森村賞)受賞。1947年国立国府台病院副院長兼神経科医長。49年国立東京第一病院神経科医長。
山根 寛作(やまね かんさく、1905年9月17日 - 19… 山根 寛作(やまね かんさく、1905年9月17日 - 1988年9月9日)は、日本の経営者。中国電力社長、会長を務めた。山口県出身。 1927年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に山口電気局に入社し、1942年に中国配電(のちの中国電力)に転じた。1960年に取締役に就任し、1962年に常務、1967年に副社長を経て、1971年に社長に就任。1981年に会長に就任し、1985年には相談役に就任。社長在任時に島根原発1号機、2号機の建設を推進。日本経営者団体連盟常任理事、経済団体連合会常任理事、中国地方経済連合会会長、中国放送、広島ガス、西日本旅客鉄道などの取締役などを歴任。 1967年に藍綬褒章を受章。
有坂 愛彦(ありさか よしひこ、1905年(明治38年)9月… 有坂 愛彦(ありさか よしひこ、1905年(明治38年)9月17日 - 1986年(昭和61年)10月7日)は、音楽評論家。軍人・有坂鉊蔵の四男として生まれる。弟に有坂秀世。1930年東京帝国大学文学部美学美術史美学専攻卒。1946年(昭和21年)1月22日、第二次世界大戦後の混乱期に日本音楽連盟結成に参加し、理事長に就任した。 1970年代前半には、TBSテレビが制作放映していた日本レコード大賞の審査員を務めた。
三浦 芳聖(みうら よしまさ、1904年〈明治37年〉9月1… 三浦 芳聖(みうら よしまさ、1904年〈明治37年〉9月17日 - 1971年〈昭和46年〉3月30日)は、第二次世界大戦で日本が降伏した後に、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」の一人。三浦天皇、または芳聖天皇、号神龍。[要出典] 南朝には、1336年(延元元年)10月に後醍醐天皇から皇位を継承して北陸に落ちた内伝の皇統(北陸朝廷)と、後醍醐天皇が陽動作戦のために吉野に設けた偽装朝廷である副統の「正副二統」が存在した。擬天皇である後亀山天皇(熙成王)が、足利義満の謀略による南北一統で上洛後、最後の内伝の天皇(美良親王)は愛知県岡崎市牧平町大門に於て三種の神器を封印して地下深く埋蔵し、天之岩戸籠りとし、皇后三浦佐久姫の姓「三浦」を名乗って三浦藤太夫と称し農民となった。
美作 太郎(みまさか たろう、1903年9月17日 - 19… 美作 太郎(みまさか たろう、1903年9月17日 - 1989年7月3日)は、昭和期の編集者、出版会社経営者、出版学研究者。 熊本県熊本市生まれ。1927年東京帝国大学法学部卒業後、日本評論社に入社。東大で教わった師の河合栄治郎の著作『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』『ファッシズム批判』『学生に与う』『学生叢書』などの出版を担当する。 1938年、河合栄治郎事件が起こり、河合著の『ファッシズム批判』などが発禁となる。自身は1944年に横浜事件により逮捕される。両事件により、日本評論社は相当な被害を被る。戦後は同社に復帰し、編集局長、専務取締役になる。1951年退社し、1952年に新評論社(のち新評論)を創立し、社長、のち会長となる。
北沢 清(きたざわ きよし、1903年〈明治36年〉9月17… 北沢 清(きたざわ きよし、1903年〈明治36年〉9月17日 - 1980年〈昭和55年〉3月15日)は、日本オリンピック委員会 (JOC) 名誉委員、日本体育協会会賓、新聞記者。現在の東京都中央区[要出典]出身。 東京農業大学在学中は陸上部に所属し、1928年の日本学生陸上競技連合立ち上げに参加する。1929年に大学を卒業すると大阪毎日新聞社へ入社し運動部員として社が主催していた自転車ロードレースの運営に関わるようになり東京日日新聞へ移動すると日本自転車連盟の立ち上げにも参加し創設者の一人となる。その後1941年には当時の文部省体育局運動課長に就任し、第二次世界大戦後には全国中等学校野球大会再開に尽力するが、直後に公職追放となる。
男女ノ川 登三(みなのがわ とうぞう、1903年9月17日 … 男女ノ川 登三(みなのがわ とうぞう、1903年9月17日 - 1971年1月20日)は、茨城県筑波郡菅間村(現在のつくば市磯部)出身で佐渡ヶ嶽部屋(入門時は高砂部屋)に所属した大相撲力士。第34代横綱。本名は坂田 供次郎(さかた ともじろう(きょうじろう))。 1903年9月17日に茨城県筑波郡菅間村(現在のつくば市磯部)で農家を営む一家に三男として生まれる。元々は屋根の修理屋で働いていたが、ある時修理中の屋根を踏み抜いてしまい、その力の強さに驚いた周囲の勧めで地元の相撲大会に出場するといきなり優勝してしまった。そのまま筑波郡大会・茨城県大会でも優勝し、自信を持って力士を志すようになった。そんなある日、偶然茨城県へ巡業に来ていた阿久津川高一郎を訪ねて入門を志願するものの、最初は厳しい稽古の話に終始したため諦めて戻るが、力士を目指す気持ちが全く揺るがなかったために4度訪問して、ようやく入門を許可された。
宮森 和夫(みやもり かずお、1902年9月17日 - 19… 宮森 和夫(みやもり かずお、1902年9月17日 - 1988年1月9日)は、日本の実業家。元丸善石油(現コスモ石油)社長、会長。広島県三原市出身。1971年、藍綬褒章受章。
長島恭助(ながしま きょうすけ、1901年(明治34年)9月… 長島恭助(ながしま きょうすけ、1901年(明治34年)9月17日 - 1992年(平成4年)9月22日)は、日本の銀行家、社会福祉活動家、古美術品愛好家。さいたま市名誉市民。 埼玉県大里郡吉見村(のちの大里村、現・熊谷市)小八ッ林の豪農で、のちに吉見村長を務めた長島甚助、せい夫妻の長男として生まれる。 吉見尋常小学校(現・熊谷市立吉見小学校)、吹上尋常小学校高等科、旧制熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)、山口高等商業学校(現・山口大学)を経て、1923年(大正12年)に渋沢栄一が設立に深く関与し、その甥が頭取を務める武州銀行に入行。 1943年(昭和18年)7月の八十五銀行、忍商業銀行、飯能銀行との合併による埼玉銀行の発足と同時に本店営業部長に就任した。
松村 外次郎(まつむら そとじろう、1901年〈明治34年〉… 松村 外次郎(まつむら そとじろう、1901年〈明治34年〉9月17日 - 1990年〈平成2年〉6月20日)は、大正時代から平成時代にかけての彫刻家。元二紀会副理事長、同会名誉会員。 富山県東礪波郡青島村(現在の砺波市庄川町青島)に生まれる。富山県立工芸高校(現・富山県立高岡工芸高等学校)卒業後、上京して吉田白嶺の内弟子となる。1923年、第10回院展に「女」で初入選。翌年、東京美術学校彫刻科に入学。在学中から二科展に出品。1927年第14回二科展より1930年第17回二科展まで連続入選、東京美術学校卒業後は1931年より約2年間パリへ留学。帰国後1936年に二科会会員として迎えられるが1944年退会。
堀内 寿郎(ほりうち じゅろう、1901年9月17日 - 1… 堀内 寿郎(ほりうち じゅろう、1901年9月17日 - 1979年6月27日)は日本の理学博士である。化学反応速度論の研究では世界的な功績がある重要な科学者である。触媒研究の世界的な権威。
千原 繁子(ちはら しげこ、1898年〈明治31年〉9月17… 千原 繁子(ちはら しげこ、1898年〈明治31年〉9月17日 - 1990年〈平成2年〉5月25日)は、日本の医師。沖縄県出身者で初の女医。終戦後の沖縄の女性たちの生活苦による不条理妊娠など、悲惨な事態に立ち会い、また民法改正運動や母子保健など、広い範囲にわたって活動を行った。 沖縄県那覇区若狭町で誕生した。旧姓は渡嘉敷。幼少時に両親が離婚、母のもとで極貧の生活を送った。小学校の成績は常に総代であり、父から「女学校に出してやる」といわれて父のもとへ引き取られた。父は沖縄で初の学校長となった人物、沖縄初の視学であり、繁子は父から強い影響を受けた。父が沖縄人として本土の人間から見下されていたこと、父のもとでの生活も豊かではなかったことで、早くから自立心を培われて育った。
須藤しげる(すどう しげる、1898年(明治31年)9月17… 須藤しげる(すどう しげる、1898年(明治31年)9月17日 - 1946年(昭和21年)2月3日)は、日本のイラストレーター。愛知県豊田市(旧挙母町)出身。本名は須藤源重(げんじゅう)。本名でも作品を発表。大正時代から昭和時代にかけて多くの雑誌や絵本などに挿絵を描き、抒情画家として活躍した。 彼の生家は代々麩屋を営む商家だった。1904年(明治37年)4月、挙母町尋常小学校(現豊田市立挙母小学校)入学。大人しい少年で、友人と矢作川へ釣りに出かけたり、塩や酒を運ぶ帆船を見に行ったりしていた。こういった彼の少年時代の資料はほとんど残っておらず、彼を直接知る人も今ではほとんどいない。今も、挙母小学校には彼が20歳の時、挙母に戻った際に描いた油絵が掛けられている。
李 栄俊(イ・ヨンジュン、朝鮮語: 이영준/李榮俊、1896… 李 栄俊(イ・ヨンジュン、朝鮮語: 이영준/李榮俊、1896年9月17日 - 1968年8月18日)は、日本統治時代の朝鮮の医学者、医学教育者、大韓民国の政治家。第3代セブランス医学専門学校(現・延世大学校医療院)校長、制憲・第4・5・6代韓国国会議員、第5代民議院副議長を歴任した。 本貫は公州李氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 ソウル市南大門出身。大邱仁南学校、啓聖高等普通学校、京城養正高等普通学校を経て、1926年にセブランス医学専門学校(現・延世大学校医療院)卒。京畿道小学校教員試験合格。1931年、東京帝国大学(現・東京大学)にて医学博士取得。以後セブランス連合医学専門学校教授、東京帝国大学医学部にて皮膚泌尿器科学について研究した。
関根 秀雄、關根 秀雄(せきね ひでお、1895年(明治28… 関根 秀雄、關根 秀雄(せきね ひでお、1895年(明治28年)9月17日 - 1987年(昭和62年)7月27日)は、日本のフランス文学者。昭和期のモンテーニュ研究の第一人者。 国文学者関根正直の子として東京に生まれる。東京帝国大学選科修了。東京都立大学教授、青山学院大学教授を歴任。はじめフランス語学を研究、生涯を通じ『モンテーニュ随想録』などを研究翻訳した。 1936年5月26日、第2回文藝懇話会賞を受賞する。1980年、モンテーニュ出身地のフランスジロンド県・ボルドー市より、第1回モンテーニュ賞が贈られる。 1987年7月27日、肺炎により死去。享年91歳。墓所は染井霊園。 国文学者の関根慶子は妹、聖書学者の関根正雄は弟。
鈴木 栄太郎(すずき えいたろう、1894年9月17日 - … 鈴木 栄太郎(すずき えいたろう、1894年9月17日 - 1966年9月20日)は日本の社会学者。農村社会学・都市社会学の泰斗。自然村対行政村の概念を提示。
中 永太郎(なか えいたろう、1893年9月17日 - 19… 中 永太郎(なか えいたろう、1893年9月17日 - 1969年4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道旭川市出身。地主・中藤平の長男として生まれる。旭川中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第27連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し歩兵第27連隊中隊長となる。 1925年(大正14年)12月、陸士教官に就任し、参謀本部員に転じ、1929年(昭和4年)8月、歩兵少佐に昇進。1931年(昭和6年)8月、陸大教官となり、兼参謀本部員を経て、1933年(昭和8年)8月、歩兵中佐に進級し陸軍省人事局課員に就任。
石本 巳四雄(いしもと みしお、1893年(明治26年)9月… 石本 巳四雄(いしもと みしお、1893年(明治26年)9月17日 - 1940年(昭和15年)2月4日)は、日本の地震学者。シリカ傾斜計や加速度地震計を発明したことで知られる。 石本新六陸軍中将の四男として東京小石川で生れる。巳年生まれの四男であったことから巳四雄と命名された。東京高等師範学校付属中学校、第一高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学理科大学実験物理学科を卒業した。同工科大学造船学科に勤務、1919年(大正8年)三菱造船研究所勤務の後、1921年(大正10年)から1924年(大正13年)までフランスへ留学しポール・ランジュバンの指導を受ける。 帰国後の1925年(大正14年)11月東京帝国大学助教授(地震研究所)に赴任、土地の傾斜をはかるシリカ傾斜計や加速度地震計などを考案し地震の原因としてマグマ貫入説(岩漿貫入地震説)をとなえた。
渡辺 宗太郎(わたなべ そうたろう、1893年9月17日 -… 渡辺 宗太郎(わたなべ そうたろう、1893年9月17日 - 1983年9月4日)は、日本の法学者。専門は憲法学、行政法。法学博士(京都帝国大学)。帝塚山大学第2代学長。京都大学名誉教授。 愛媛県出身。1922年京都帝国大学法学部卒。佐々木惣一門下。24年同助教授、31年教授。33年には滝川事件に遭遇し辞表を提出するも慰留され大学に残留した。1935年「地方自治の本質」で京都帝国大学法学博士。同年の天皇機関説事件において同説の踏襲者として大学の憲法講義担当から外れることとなる。同様に高等文官試験司法科憲法担当試験委員からも除かれた。1943-45年法学部学部長。 戦後は1949年に新制大学として発足した岡山大学に招かれ法文学部教授、初代学部長、(第六高等学校校長を兼任、1949-50年)。
山本 喜誉司(やまもと きよし、1892年9月17日 - 1… 山本 喜誉司(やまもと きよし、1892年9月17日 - 1963年7月31日)は、日系ブラジル人社会で活躍した農業家。戦後混乱期のブラジル日系人社会/日系コロニアをまとめた人物。コロニア天皇とまで云われた実力者でブラジル日系人社会で知らない人はいない。コーヒー栽培の害虫駆除に有効なウガンダ蜂の研究で、母校東京大学から農学博士を授与をうけている。 芥川龍之介の妻文の母方の叔父で、芥川とは旧制東京府立第三中学校時代の親友であった。 東京生まれ。1905年、東京府立第三中学校に入学。1910年、旧制第一高等学校に不合格となり慶應義塾大学部理財科予科に進学したが、翌年再受験して二部乙類に合格する。その後東京帝国大学農学部に進学し、原煕に師事。
山名 義鶴(やまな よしつる、1891年(明治24年)9月1… 山名 義鶴(やまな よしつる、1891年(明治24年)9月17日 - 1967年(昭和42年)2月26日)は、大正・昭和の社会運動家。男爵。貴族院議員。正四位勲二等。 男爵山名義路の嫡男として青森県に生まれるが、後に京都府京都市に転居して同地で育つ。 京都府立第五中学校、第三高等学校を経て東京帝国大学法科大学を卒業。 三高時代、同級生の麻生久や棚橋小虎らとともに三高内に縦横会を組織、酒井校長弾劾運動など進歩的学生運動を起こす。東京帝国大学に進学し、新人会で活動。大学卒業後は大原社会問題研究所、等で活動。日本労働者教育協会主宰。財団法人中東調査会理事長、公安審査委員会委員等歴任。 男爵山名義路、母トヨの嫡男として青森県に生まれる。
滝沢 浜吉(たきざわ はまきち、1890年〈明治23年〉9月… 滝沢 浜吉(たきざわ はまきち、1890年〈明治23年〉9月17日 - 1960年〈昭和35年〉4月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、群馬県多野郡八幡村長。 群馬県多野郡八幡村阿久津(現・高崎市阿久津町)に生まれる。群馬県立高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)に学ぶが、郷里の水害により中退。村の田畑・家屋の復旧に尽力し、1925年(大正14年)八幡村長に選ばれ、1938年(昭和13年)まで在職した。多野郡畜産業組合長、多野郡養蚕業組合長、多野郡農会長、烏川沿岸漁業会長、群馬県馬匹組合連合会副会長、群馬県町村会副会長となる。戦後も1946年(昭和21年)群馬県農業会長となり、同年から1年間八幡村長を務めた。
清水 謙一郎(しみず けんいちろう、1890年(明治23年)… 清水 謙一郎(しみず けんいちろう、1890年(明治23年)9月17日 - 1981年(昭和56年)10月30日)は、日本の教育者、詩人である。 長野県上水内郡水内村字里穂刈(現在の長野市信州新町)の生まれ。清水勘兵衛・ちよの長男として出生。明治38年(1905年)、南佐久郡臼田教員養成所に入所。1911年(明治44年)に長野師範学校卒業。長野県の尋常高等小学校訓導に任ぜられる。その後、内地留学のため休職する。 1914年(大正3年)に早稲田大学専門部に入学するが、中途退学し、1915年(大正4年)に国学院大学師範部に入学する。学監であった杉浦重剛から教えを学ぶ。 国学院大学卒業後小学校訓導となる。
武井 群嗣(たけい ぐんじ、1889年〈明治22年〉9月17… 武井 群嗣(たけい ぐんじ、1889年〈明治22年〉9月17日 - 1965年〈昭和40年〉1月26日)は、群馬県出身の内務・厚生官僚、国会職員。官選山形・山口県知事、厚生次官。位階は従三位。サッカー日本代表でもあり、大日本蹴球協会初代理事の一人。 群馬県利根郡利南村(現・沼田市沼須町)に、武井捨五郎の二男として生まれる。実家の酒造業が不振だったため高等小学校卒業後代用教員となった。群馬師範学校を経て、東京高等師範学校に入学。在学時は蹴球部に所属し、1916年3月に[要出典]東京高師を卒業した。 1917年5月に開催された第3回極東選手権競技大会の日本代表に佐々木等や藤井春吉らと共に選出され、2試合に出場した(そのうちの1試合が、フィリピン代表に2-15で敗れた試合である)。
吉野 信次(よしの しんじ、1888年〈明治21年〉9月17… 吉野 信次(よしの しんじ、1888年〈明治21年〉9月17日 - 1971年〈昭和46年〉5月9日)は、日本の農商務・商工官僚、政治家。 商工大臣、運輸大臣、貴族院議員、参議院議員を歴任。大正デモクラシーを主導した政治学者吉野作造の弟。 宮城県志田郡大柿村(現大崎市古川)に綿屋を営む吉野年蔵、こう夫妻の三男として生まれた。吉野作造は長兄である。 旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、一高を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学独法科を首席卒業(銀時計受領)し、農商務省に入省する。農商務大臣秘書官、1925年に農商務省が農林省と商工省に分離し、以後は商工省文書課長、工務局長を経て、1931年(昭和6年)商工次官。
尚 昌(しょう しょう、1888年〈明治21年〉9月17日 … 尚 昌(しょう しょう、1888年〈明治21年〉9月17日 - 1923年〈大正12年〉6月19日)は、日本の華族、宮内官。爵位は侯爵。貴族院侯爵議員。第二尚氏第21代当主。 1888年(明治21年)9月11日、尚典の長男として首里で誕生。1896年(明治29年)に上京し、学習院初等科に入学する。1909年(明治42年)に旧制学習院高等科を中退し、1911年(明治44年)に父の薦めでオックスフォード大学に留学した。随行員として沖縄県出身の大蔵官僚である神山政良を伴う。 1915年(大正4年)に帰国し、宮内省式部官となる。1918年(大正7年)9月18日に長男誕生。東恩納寛惇に名前(尚裕)をつけてもらっている。
嶺田 丘造(みねた きゅうぞう、1887年(明治20年)9月… 嶺田 丘造(みねた きゅうぞう、1887年(明治20年)9月17日 - 没年不詳)は、日本の大蔵官僚。台湾総督府官僚。 愛知県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。税務監督局属、大蔵属、税務監督局事務官、大蔵事務官、税務監督官、税関事務官、神戸税関監視部長、長崎税関長、熊本税務監督局長、名古屋税務監督局長などを歴任。1936年(昭和11年)、台湾総督府財務局長に転じた。 1939年(昭和14年)に退官した後は、日本米穀株式会社理事を務めた。
佐藤 謙之輔(さとう けんのすけ、1886年(明治19年)9… 佐藤 謙之輔(さとう けんのすけ、1886年(明治19年)9月17日 - 1957年(昭和32年)11月15日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。謙之助と表記する場合がある。 新潟県南蒲原郡小栗山村(新潟村、見附町を経て現見附市)で、旧家・佐藤宗弥の二男として生まれる。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1914年(大正3年)家督を相続した。 大学卒業後、新潟自動車商会に入り、その後、同社長となる。その他、相互信用無尽会社社長、新潟土地取締役、新潟建物取締役、新潟硫酸監査役、新潟新聞監査役、新潟銀行(現第四銀行)取締役、新潟港湾倉庫取締役、日本海倉庫取締役などを務めた。
加藤 守道(かとう もりみち、1885年〈明治18年〉9月1… 加藤 守道(かとう もりみち、1885年〈明治18年〉9月17日 - 1960年〈昭和35年〉8月17日)は、愛知県豊川市長。東京市区長。基隆市尹。 新潟県新潟市出身。加藤久之助の二男。1906年(明治39年)、新潟県北辰館中学科を卒業し、1909年(明治42年)に文官普通試験に合格した。日本大学中退。新潟県中魚沼郡書記、同南蒲原郡書記、北海道庁長官官房勤務、岩手県九戸郡長、東磐井郡長、下閉伊支庁長を歴任。1928年(昭和3年)、基隆市尹に転じた。 退官後、東京市に入って中野区長、教育局庶務課長、神田区長、日本橋区長を歴任。退任後の1942年(昭和17年)から、川村女学院理事を務めた。1943年(昭和18年)、初代豊川市長に就任した。
久保 より江(くぼ よりえ、1884年(明治17年)9月17… 久保 より江(くぼ よりえ、1884年(明治17年)9月17日 - 1941年(昭和16年)5月11日)は、日本の俳人。 1884年(明治17年)、鉱山技師の父・宮本正良と母ヤスの長女として、愛媛県松山市に生まれる。1895年(明治28年)、松山時代の夏目漱石が下宿し、正岡子規が寄宿していた「愚陀仏庵」の持ち主がより江の母方の祖父・上野義方であったことから、当時12歳の少女であったより江は、若くして漱石や子規と面識を持ち、可愛がられたという。漱石の『吾輩は猫である』に登場する女学生・雪江は、より江をモデルにしたとされる。 1899年(明治32年)、上京。東京府立第二高等女学校を卒業後、医学博士の久保猪之吉と結婚し、福岡市に転居。
三代目 柳家つばめ(やなぎや つばめ、1884年〈明治17年… 三代目 柳家つばめ(やなぎや つばめ、1884年〈明治17年〉9月17日 - 1942年〈昭和17年〉2月15日)は落語家。本名∶宮尾 正造。息子は漫談家の宮尾たか志(宮尾すすむの師匠)。 生まれは群馬県伊勢崎の機織業「宮商」の若旦那。 30歳の時に一念発起で上京し、1913年1月に三代目柳家小さんに入門、前座名「小三太」。同年に人形町末広亭で初高座。さん三から1916年ころに歌太郎を名乗り旅回りに行く。1918年に「睦会」発足と共に帰京し五代目柳亭左楽門下に移籍。同年11月に東橋亭で柳家さくらで真打昇進披露を行った。 1928年7月に研成会で三代目柳家つばめ襲名。1940年に中風にかかり、2年後死去。
林 癸未夫(はやし きみお、1883年9月17日 - 194… 林 癸未夫(はやし きみお、1883年9月17日 - 1947年10月26日)は、経済学者であり、教育者でもある。早稲田大学大学部法学科卒業後、古河鉱業に入社し、欧米を視察。帰国後、早稲田大学政治経済学部教授、早稲田大学総長代理を勤めた。岡山県高梁市出身。 明治16年(1883年)、岡山県上房郡高梁町八幡(現・高梁市)にある藤井種次郎の二男として生れ、母の実家・林家を継ぐ。地元の旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)から大阪府立第一中学校(現・大阪府立北野高校)に転校、東京専門学校高等予科を経て、明治38年(1905年)早稲田大学大学部法学科を卒業、古河鉱業に入社、労働問題の調査研究にあたる。 入社後の大正9年(1920年)欧米を視察、翌年帰国し、母校の早稲田大学政治経済学部で、社会政策や工業経済の講義に当たる。
有田 邦敬(ありた くによし、くにゆき、1883年9月17日… 有田 邦敬(ありた くによし、くにゆき、1883年9月17日 - 1941年12月21日)は、日本の官僚、経営者。大阪市助役、京阪電気鉄道社長を務めた。兵庫県出身。 旧制兵庫県立柏原中学校、第三高等学校を経て、1908年に京都帝国大学法科を卒業。内務省、逓信省に奉職の後、1915年12月から大阪市長の池上四郎の下で第二助役を務め、1923年12月から1927年12月までは関一の下で助役を務める。両市長の下で迎えた大大阪時代を助役として支えた。1928年4月に太田光凞社長の要請により、京阪電気鉄道副社長に就任し、1936年10月には社長(第5代)に昇格。厳しい経営状況にあった同社の再建を太田とともに進め、現場経験者を抜擢して役員に就任させるなど、次代を支える人材の登用と育成をも周到に行った。
熊谷 巌(くまがい いわお、1883年〈明治16年〉9月17… 熊谷 巌(くまがい いわお、1883年〈明治16年〉9月17日 - 1933年〈昭和8年〉11月2日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。衆議院議員(4期)。疑獄事件で収監釈放されたのち、縊死した。 岩手県下閉伊郡宮古町(現在の宮古市)出身。旧制盛岡中学校、第五高等学校から東京帝国大学法科大学に進み、1909年7月卒業。在学中に文官高等試験司法科試験に合格し、1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 内務省に入り、東京府属、南葛飾、荏原両郡長、佐賀県警察部長、警視庁保安部長などを歴任した。1922年、東京市政疑獄(瓦斯疑獄)で東京地方裁判所より懲役4ヵ月の実刑判決、1923年に東京控訴院を経た後、同年大審院で確定した。
栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月… 栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月17日 - 1969年〈昭和44年〉6月17日)は、日本の英文学者・評論家・翻訳家。本名は、栗原 元吉(くりばら もときち)。 1882年、埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市)に生まれる。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)で平田禿木に学び、上田敏とも知遇を得た。第一高等学校在学中の1902年、『明星』12月号にイワン・ツルゲーネフの短編訳「世のをはり」を発表し、以後、同誌に翻訳の発表を続け、当時の日本では知られていなかったオスカー・ワイルドやウィリアム・バトラー・イェイツなどを紹介した。 1903年、東京帝国大学文科大学英文学科に入学し、夏目漱石と上田敏の教えを受ける。
篠田 次助 (1877年9月17日 - 没年不詳) は、日本… 篠田 次助 (1877年9月17日 - 没年不詳) は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 この項目は、軍事上の人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:軍事、プロジェクト:軍事史/Portal:軍事)。
赤司 繁太郎(あかし しげたろう/はんたろう、1873年9月… 赤司 繁太郎(あかし しげたろう/はんたろう、1873年9月17日-1965年1月9日)は、日本のキリスト教伝道者。 福岡県久留米出身。号は嚼花。1887年上京、東京英語学校入学。1889年東京専門学校に入り、ドイツ普及福音教会のスピンナー・シュミーデルに接し、宗教家を志す。1890年普及福音教会の神学校入学、翌年ユニバーサリストの神学校に入り1894年卒業。1906年成美英語女学校の校長となった。1908年木下尚江と雑誌「新天地」を発行。1909年ユニバーサリスト教会を離脱、自由キリスト教会として東京・東郷坂に普及福音教会を設立した。
遠藤 源六(えんどう げんろく、1872年9月17日(明治5… 遠藤 源六(えんどう げんろく、1872年9月17日(明治5年8月15日)- 1971年(昭和46年)5月13日)は、日本の海軍文官、法制官僚、法学者。行政裁判所長官、枢密顧問官、明治大学教授、法学博士。号・虚舟。 宮城県栗原郡、後の白幡村(現栗原市)で、遠藤佐源治の三男として生まれる。第一高等学校を経て、1900年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業し同大学院に進む。 1900年8月、海軍省に入省し主理試補・東京軍法会議附に就任。同年11月、文官高等試験に合格。以後、海軍省参事官、兼同司法局、兼海軍大学校教官、大本営附、佐世保捕獲審検所評定官、兼海軍経理学校教官などを歴任。この間、明治大学講師を務め、1908年1月15日に法学博士号を取得した。
横田 千之助(よこた せんのすけ、1870年9月17日〈明治… 横田 千之助(よこた せんのすけ、1870年9月17日〈明治3年8月22日〉- 1925年〈大正14年〉2月4日)は、日本の政治家。栃木県足利市出身。法制局長官や司法大臣を歴任し、普通選挙の実現や貴族院改革に取り組む。通称「横千」(よこせん)。立憲政友会のニューリーダーとして期待されたが急逝した。 下野国足利の織物商の次男として生まれる。実家が没落したため、織物商の丁稚奉公を経て上京し、東京法学院(現:中央大学)に通いながら新聞記者や星亨の書生を務める。1893年(明治26年)に代言人(今の弁護士)試験に合格して星の主宰する法律事務所に所属、1899年(明治32年)に独立した。翌年の立憲政友会の結党に星とともに参加、その頃より実業界にも進出して複数の企業の役員も務めた。
江見 水蔭(えみ すいいん、明治2年8月12日(1869年9… 江見 水蔭(えみ すいいん、明治2年8月12日(1869年9月17日) - 昭和9年(1934年)11月3日)は、岡山市生まれの小説家、翻訳家、編集者、冒険家。本名:忠功(ただかつ)。 文学作品を皮切りに、通俗小説、推理小説、冒険小説、探検記など多岐に渡る分野に作品を残し、硯友社、博文館など数々の出版社で雑誌の編集発行に関わった。代表作に小説『女房殺し』、『地底探検記』、随筆『自己中心明治文壇史』、翻案戯曲『正劇 室鷲郎』など。 江見忠功は岡山の一番町一番屋敷に生れた。父の鋭馬は水蔭が幼少の頃死去。1881年、叔父の水原久雄の勧めで軍人を志して上京したが、次第に文学に惹かれるようになり、15歳のときに軍人を諦める。
大和田 金之助(おおわだ きんのすけ、旧姓・大橋、1866年… 大和田 金之助(おおわだ きんのすけ、旧姓・大橋、1866年9月17日〈慶応2年8月9日〉 - 没年不明)は、日本の商人(雑貨商)、実業家。大和田銀行監査役。大和田貯蓄銀行取締役。族籍は福井県平民。 滋賀県東浅井郡大郷村字曽根(現・長浜市)出身。大橋嘉兵衛の二男。24歳の頃に大和田荘七の二女たかの入夫となり、1910年に分家して一家を創立した。大和田家は敦賀町(現・敦賀市)で船舶代弁、倉庫、貿易業を営んでいたため金之助も大和田家に入った当初これに携わっていたが、1892年10月より旭町に煙草小売業を開始した。 1905年4月に福井県煙草之売捌人13名と計り煙草元売捌組合を創立し組合長に推され、1906年10月に嶺南四郡煙草元売捌組合長となり1931年7月に煙草元売捌官営に至る迄煙草元売捌を経営し、傍ら洋品雑貨業を始めた。