加田 克司(かだ かつじ、1931年3月18日 - 1996… 加田 克司(かだ かつじ、1931年3月18日 - 1996年8月24日)は、日本の囲碁棋士。大分県別府市出身、日本棋院所属、木谷實九段門下、九段。加納嘉徳、大平修三とともに戦後新三羽烏と言われた。堅実な碁風で、特に序盤に時間をかける長考で有名。また現代における詰碁創作の第一人者と評されていた。 中華民国青島市に生まれる。1945年4月に一家で祖父のいる天津に疎開。1946年3月に帰国し別府に住む。この年8月、中学3年の時に、神戸から別府を周遊した木谷實と五子局を打って勝ち、三子で負けるが、入門を認められ、木谷門下の戦後第1号として11月から内弟子となる。1947年初段。1948年二段。1950年三段。
宮本 保孝(みやもと やすたか、1930年3月18日 - 2… 宮本 保孝(みやもと やすたか、1930年3月18日 - 2006年2月27日)は、東京府出身の大蔵官僚。 大蔵省では銀行局長、理財局長などを務めた。銀行局長に就任し、同期のなかで最も早く局長に就いた。時に国際化や自由化、金利一元化にみる郵貯問題で銀行局や業界事態が地盤沈下していた中での就任だったが、就任理由は、澄田智元銀行局長の下で金融効率化問題を手掛けるなど、課長補佐時代から将来の銀行局長候補といわれていたこと、直接的には、前任の米里恕局長が新銀行法制定作業を巡り銀行業界(全銀協)と対立。銀行界が造反し、時の渡辺美智雄蔵相に直訴したトラブルで、翌年夏に更迭されたため。 退官後は信金中央金庫(全信協ないし全信連)の初代理事長を務めた。
山田 精吾(やまだ せいご、1930年 <昭和5年> 3月1… 山田 精吾(やまだ せいご、1930年 <昭和5年> 3月18日 - 1996年 <平成8年> 2月10日)は、昭和から平成時代の労働運動家。日本労働組合総連合会(連合)初代事務局長。位階は従四位。 宮崎県延岡市生まれ。1946年旧制延岡中学校卒。1948年旭化成工業(現旭化成)ダイナマイト工場に入社、全旭化成労働組合連合会(全旭連)ダイナマイト労組書記長。同年の旭化成争議では青年行動隊長として活躍し、ダイナマイトを腹に括りつけて経営側と対峙したことから「ダイナマイト男」の愛称が生まれた。1950年全旭連ダイナマイト労組執行委員。1951年同労組書記長、副委員長に選出され、全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)化繊連合会に書記として出向。
高見 英一(たかみ えいいち、1930年3月18日 - )は… 高見 英一(たかみ えいいち、1930年3月18日 - )は、日本のスペイン文学者、翻訳家。法政大学名誉教授。 大阪市生まれ。1954年東京外国語大学スペイン語科卒。1957年同志社大学講師、1963年法政大学教養部講師、助教授、第一教養部教授。2001年定年退任、名誉教授。
山本 明夫(やまもと あきお、1930年3月18日 - 20… 山本 明夫(やまもと あきお、1930年3月18日 - 2017年7月9日)は、日本の化学者。専門は有機金属化学。学位は、工学博士(東京工業大学・1959年)。東京工業大学名誉教授、栄誉教授。文化功労者。勲等は勲三等。 カリフォルニア大学バークレー校博士研究員、マックス・プランク石炭研究所博士研究員、東京工業大学資源化学研究所教授、東京工業大学資源化学研究所所長、社団法人日本化学会会長、早稲田大学理工学総合研究センター顧問研究員などを歴任した。 東京府出身の有機金属化学者である。有機遷移金属錯体の合成反応についての研究で知られている。パラジウムなどの遷移金属を含む新しい金属錯体を合成し、その化学的性質を研究することでカルボニル化などの合成反応を開発してきた。
加藤 文三(かとう ぶんぞう、1930年3月18日- )は、… 加藤 文三(かとう ぶんぞう、1930年3月18日- )は、日本の教師、歴史家。 配偶者は、加藤好子。 東京生まれ。東京都立大学 (1949-2011)卒業。江東区立第二砂町中学校などで33年間社会科を教える。 埼玉大学などで講師として社会科教育法を担当。東京都歴史教育者協議会の一員として活動し、日教組の教育研究集会などで、教育実践の報告を重ねた。
桑名 義治(くわな よしはる、1930年3月18日 - 20… 桑名 義治(くわな よしはる、1930年3月18日 - 2021年1月2日)は、日本の元政治家。元公明党衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。 福岡県出身。1956年明治大学法学部卒。福岡県議を経て、1969年の第32回衆議院議員総選挙で福岡4区から公明党公認で立候補して当選。1972年の第33回衆議院議員総選挙で落選。1974年の第10回参議院議員通常選挙で福岡県選挙区から公明党公認で立候補して当選。2期務める。参議院運輸委員長、党中央委員などを歴任した。1986年の第14回参議院議員通常選挙で落選した。 2021年1月2日11時35分、誤嚥性肺炎のため、北九州市内の病院で死去。90歳没。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
笹田 泰敏(ささだ やすとし、1929年(昭和4年)3月18… 笹田 泰敏(ささだ やすとし、1929年(昭和4年)3月18日 - )は、日本の実業家であり、投資家でもある。大和証券の専務取締役を経て、日本インベストメント・ファイナンス(後の大和SMBCキャピタル)初代社長を務め、日本にベンチャーキャピタルを広めた。岡山県出身。 1929年(昭和4年)岡山県に生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、芸術家の大西茂や国立国際美術館館長となる小倉忠夫がいた。1946年(昭和21年)に同校を卒業する。この後、旧制高校を経て、1949年(昭和24年)京都大学法学部へ入学し、1952年(昭和27年)同校を卒業する。 京大卒業後、大和証券(現:大和証券グループ本社)へ入社する。
直野 敦(なおの あつし、1929年3月18日 - )は、日… 直野 敦(なおの あつし、1929年3月18日 - )は、日本の翻訳家・東欧・ロシア文学者。東京大学教養学部名誉教授。 大分県大分市生まれ。1954年東京大学文学部仏文科卒、1957年一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。金子幸彦ゼミ出身。1958年からルーマニア・ブカレスト大学に学び、1963年同文学部卒業。1965年同大学院修士課程修了、帰国。翻訳を幾つか出し、1969年東京大学教養学部専任講師、1971年11月助教授、1976年12月教授、1989年定年退官し名誉教授、文化女子大学教授、1990年文学部長。2004年退職。 主としてルーマニア語、ルーマニア文学の教育、翻訳を行なった。かつては社会主義思想を信奉していたが、後年は、宗教学者ミルチャ・エリアーデが、初期に書いた小説作品の翻訳で知られる。
光瀬 龍(、1928年〈昭和3年〉3月18日 - 1999年… 光瀬 龍(、1928年〈昭和3年〉3月18日 - 1999年〈平成11年〉7月7日)は、日本のSF作家。本名は飯塚 喜美雄。旧姓は千葉で、結婚する際に妻の姓に改めた。 東京府北豊島郡南千住大字千住南に生まれ、1933年から1945年3月まで板橋区練馬南町に育つ。東京市開進第三国民学校5年生のときに海野十三の短編集『十八時の音楽浴』を読み、強い感銘を受ける。 川村学院中学校在学中、1945年4月、岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)に疎開する。岩手育ちと自称していたが、実際に岩手ですごしたのは17歳から20歳までの3年間のみである。この間、光瀬は一関中学校(現・一関第一高等学校)に学び、1948年3月に同校を修了するまで青春期のひとときを謳歌している。
近藤 照久(こんどう てるひさ、1928年3月18日 - 2… 近藤 照久(こんどう てるひさ、1928年3月18日 - 2009年1月3日)は、東洋炭素創業者、元社長、会長。香川県出身。
明石 晃一(あかし こういち、1927年3月18日 - )は… 明石 晃一(あかし こういち、1927年3月18日 - )は、香川県高松市出身の元プロ野球選手(内野手、投手)。1947年から1950年までの登録名は明石 武(あかし たけし)。
小田嶋 成和(おだしま しげよし、1927年3月18日 - … 小田嶋 成和(おだしま しげよし、1927年3月18日 - 1980年2月7日)は、日本の病理学者、専門は実験腫瘍学、特に化学物質による発がん研究。宮城県仙台市出身。倫理学者・白井成允の三男。 日本癌学会理事、日本病理学会評議員、日本食品衛生学会評議員、厚生省中央薬事審議会委員、食品衛生調査会委員などを歴任。
國本 哲男(くにもと てつお、1925年3月18日 - 19… 國本 哲男(くにもと てつお、1925年3月18日 - 1996年3月10日)は、日本のロシア史学者。 兵庫県(現神戸市)生まれ。陸軍幼年学校ののち、大阪外事専門学校でロシア語を学び、1953年京都大学文学部史学科卒、同大学院経済学研究科修了。中学校教師ののち1960年大阪外国語大学助教授、大阪大学教養部助教授、言語文化部教授。1973年「ロシア国家の起源」で大阪大学文学博士。88年定年退官、名誉教授。87年『ロシア原初年代記』で日本翻訳出版文化賞受賞。
井澤 純(いざわ じゅん、1925年〈大正14年〉3月18日… 井澤 純(いざわ じゅん、1925年〈大正14年〉3月18日 - 1996年〈平成8年〉5月12日)は、日本の図書館司書・評論家・著作家・歌人。 国立科学博物館附属自然教育園園長等を歴任。 東京大学文学部卒業。1946年、愛知県公立高校の教諭となり、1958年専任司書教諭。1961年文部省初等中等教育局勤務、1977年国立淡路青年の家、1981年国立沖縄青年の家所長を務めた後、国立科学博物館附属自然教育園園長となる。道徳教育・図書館学についての著作のほか、小説・短歌をものした。 1995年、勲三等瑞宝章受章。1996年5月12日、心不全のため死去。
唄 孝一(ばい こういち、1924年3月18日 - 2011… 唄 孝一(ばい こういち、1924年3月18日 - 2011年1月11日)は、日本の民法学者。旧・東京都立大学名誉教授。文化功労者。大阪府出身。 東京大学では川島武宜に師事し、家族法を専攻する。川島の影響を受け、実態調査を積極的に行うなど、法規範の研究に新たな方法論を盛り込むことに尽力した。1960年の母親の突然死をきっかけに、医事法の研究も行うようになる。世界医事法学会副会長、日本医事法学会代表理事などを歴任。日本の医事法学分野における最高権威といえる存在。 2012年3月、唄孝一の研究資料を収集した『医療と法と倫理(ELM)専門総合資料館」(仮称)』が明治大学内に開設され、2015年に『ELM(法・医・倫理の資料館)』として本開館された。
田村 隆一(たむら りゅういち、1923年〈大正12年〉3月… 田村 隆一(たむら りゅういち、1923年〈大正12年〉3月18日 - 1998年〈平成10年〉8月26日)は、日本の詩人・随筆家・翻訳家。詩誌『荒地』の創設に参加し、戦後詩に大きな影響を与えた。府立三商業学校在学中から詩を書き始めた。明治大学文芸科卒。 鮎川信夫・中桐雅夫らを知り詩誌「LE・BAL」などに参加。戦後は、黒田三郎らも加わって、第2次「荒地」を創刊。現代文明への危機意識をこめ、叙情と理知とが絶妙のバランスをなす散文詩を生んだ。処女詩集は『四千の日と夜』(1956年)。『言葉のない世界』(1962年)で高村光太郎賞受賞。アガサ・クリスティーなどの推理小説の翻訳でも知られる。 東京府北豊島郡巣鴨村(現在の東京都豊島区南大塚)に生まれる。
乾 国雄(いぬい くにお、1923年3月18日 - 没年不明… 乾 国雄(いぬい くにお、1923年3月18日 - 没年不明)は兵庫県芦屋市生まれ大阪府大阪狭山市育ちの元プロ野球選手。 1942年に京阪商業学校(現:大阪府立芦間高等学校)から、阪神に入団。2年目の1943年には62試合に出場した。1944年から登録が無く、1946年に阪神に復帰するも翌1947年シーズン前に退団し、新たに創設された国民野球連盟の大塚アスレチックスに参加した。1950年には、古沢建設から栃木県代表として都市対抗野球に出場し、2年後には明利酒類から同県代表としてサンベツに出場した。 2024年のドラフト会議でオリックス・バファローズから育成6巡目指名を受けた乾健斗は孫にあたる。
多田 公煕(ただ こうき、1923年〈大正12年〉3月18日… 多田 公煕(ただ こうき、1923年〈大正12年〉3月18日 - 2019年〈平成31年〉3月13日)は、日本の実業家。元中国電力代表取締役社長、元中国経済連合会会長。位階は従三位。 山口県生まれ。旧制山口中学、旧制山口高等学校を経て、1947年(昭和22年)九州帝国大学法文学部卒業、同年中国配電入社。 1977年(昭和52年)中国電力株式会社取締役総合企画室第一企画室長、1979年(昭和54年)中国電力株式会社常務取締役、1981年(昭和56年)中国電力株式会社取締役副社長、1989年(平成元年)中国電力株式会社代表取締役社長、1995年(平成7年)中国電力株式会社代表取締役会長、同年中国経済連合会会長、2001年(平成13年)中国電力株式会社相談役。
千野 冝時(ちの よしとき、1923年(大正12年)3月18… 千野 冝時(ちの よしとき、1923年(大正12年)3月18日 - 2004年(平成16年)8月18日)は、日本の実業家である。大和証券および日本証券業協会の会長を務めた。 東京府(現在の東京都)の生まれ。慶應義塾大学卒業後、1946年(昭和21年)に大和証券に入社した。この頃に早くも国際業務に専念し、同社の理論家として有名となる。その後は副社長を務め1980年(昭和55年)には副会長となり、1982年(昭和57年)には会長職を務め以後1991年(平成3年)までその職にあたった。 会長に就任後は理論株価(PER(株価収益率)×予想EPS(1株あたり当期純利益))を日本で初導入する事業やユーロ円債の第1号の発行に携わる等、証券市場の国際化に貢献する。
佐藤 博(さとう ひろし、1923年3月18日 - 1991… 佐藤 博(さとう ひろし、1923年3月18日 - 1991年10月26日)は、日本の病理学者、専門は、実験腫瘍学、実験動物。 岡山県に生まれ、旧制松山高校から1947年東北大学医学部卒業、同大学病理学教室助手、薬理研究所所員を経て、1956年12月 東京大学 医学博士 論文の題は 「吉田肉腫の移植性に關する研究」。 1957年佐々木研究所研究員となり、吉田富三所長の下、制がん剤のスクリーニング試験に従事、のち同所病理・臨床病理部長。吉田肉腫、腹水肝癌などを用いた膨大な実験に基づき、癌に個性があることを強調した。平成3年、心筋梗塞のため急逝、享年68。
今野 国雄(こんの くにお、今野國雄、1923年3月18日 … 今野 国雄(こんの くにお、今野國雄、1923年3月18日 - 2001年5月23日)は、日本の歴史学者。西洋史専攻。 宮城県生まれ。1950年旧制東京商科大学(現一橋大学)で上原専禄に師事。同大を卒業後、関東学院大学経済学部助教授、教授を経て、1983年青山学院大学文学部史学科教授。1991年退任。 妻は歌人の今野さなへ(国語学者山田孝雄の子女)、子息に日本語学者の今野真二(清泉女子大学教授)がいる。
江田 孝(えだ たかし、1923年3月18日 - 1978年… 江田 孝(えだ たかし、1923年3月18日 - 1978年2月11日)は、山口県玖珂郡本郷村出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督。 1948年から1955年までの登録名は江田 貢一 (えだ こういち)。 旧制伊丹中学校卒業後、1941年に阪急軍へ入団。同年8月2日の名古屋軍戦(西宮)で先発し7回2/3を投げて降板し、江田の2番手で1回1/3を投げた森弘太郎との継投でのノーヒットノーランを記録。 1943年に応召され、1946年にゴールドスターでプロ球界に復帰し、1947年に初の2桁勝利となる11勝を挙げる。篠崎倉庫を経て1948年に大陽ロビンスへ移籍し、1950年にはオーバースローからシュートやシンカー、カーブ、ナックルを武器に23勝を挙げ、2リーグ分立後初のリーグ優勝に大きく貢献。
内藤 晋(ないとう すすむ、1922年〈大正11年〉3月18… 内藤 晋(ないとう すすむ、1922年〈大正11年〉3月18日 - 2007年〈平成19年〉8月11日)は、日本のスピードスケート選手。戦後のスピードスケート界を代表する人物の1人とされ、1951年(昭和26年)にスイスで開催された世界選手権で、日本新記録で優勝を飾った。その実績と将来性から、冬季オリンピックの代表選手に2度選ばれたが、戦争と自身の病気によりその2度とも出場の機会を失い、「不運のアスリート」とも呼ばれる。現役引退後はオリンピック日本代表選手のコーチとして、スケート界の発展に尽くした。 北海道札幌市出身。父の内藤芳雄は、幼少時、まだスケート靴が非常に高価だった時代より、我流でスケートを楽しんで技術を鍛え上げ、成人後は札幌スケート協会の幹事長を務めた。
田口 弘(たぐち ひろし、1922年3月18日 - 2017… 田口 弘(たぐち ひろし、1922年3月18日 - 2017年2月9日)は、日本の詩人。埼玉県東松山市の元教育委員会教育長。高村光太郎や高田博厚などの文化人と親交を持ち、東松山市の小中学校の校歌の作詞を多く手がけた。 「日本スリーデーマーチの育ての父」と言われ、また、東武東上線高坂駅前の高坂彫刻プロムナード(高田博厚彫刻群)建設のため尽力するなど、東松山市の教育と体育・文化・芸術に対する顕著な活動を行った。 1922年(大正11年)3月18日、埼玉県武州松山町(現:埼玉県東松山市松葉町)に生まれる。旧制松山中学校を経て、東京府大泉師範学校専攻科卒業。志村第三国民学校に赴任後、南西方面艦隊司令部付海軍教員として、フィリピンよりインドネシア・スラバヤ等に着任、終戦後プジョン、レンパン島収容所を経て復員。
野口 昇(のぐち のぼる、1922年(大正11年)3月18日… 野口 昇(のぐち のぼる、1922年(大正11年)3月18日 - 1945年(昭和20年))は、昭和前期に活躍した中等学校野球の選手、プロ野球選手。
谷岡 敏行(たにおか としゆき、1922年3月18日 - 1… 谷岡 敏行(たにおか としゆき、1922年3月18日 - 1953年12月13日)は日本の騎手。 1922年3月18日、競走馬の故郷、馬産地として名高い北海道日高郡新ひだか町静内神森(旧静内町)に、水田農業を営む父・谷岡倉太郎(一族は、1882年(明治15年)広島県大竹市より移住)と母・ナツ(一族は兵庫県淡路島より移住)の三男として生まれる。10人兄弟姉妹(兄2人、弟4人、姉1人、妹2人)の第4子である。 新ひだか町の有限会社谷岡牧場(1935年創業)、有限会社新和牧場(1994年創業)は本家にあたる。 静内尋常高等小学校を卒業時、静内町にある新冠御料牧場獣(現・家畜改良センター新冠牧場)吉住獣医師(稲葉幸夫の妹の夫)が、学校教室に来て騎手希望者を募ったところ、谷岡敏行が手を挙げ申し込んだ。
高橋 恭男(たかはし やすお、1921年(大正10年)3月1… 高橋 恭男(たかはし やすお、1921年(大正10年)3月18日 - 2019年(平成31年)2月3日)は、昭和後期から平成期の政治家。長野県大町市長。位階は従四位。 長野県北安曇郡社村(現大町市)で、高橋忠雄、まさと の二男として生まれた。1953年(昭和28年)3月、政治大学校政治学部を卒業。1955年(昭和30年)4月、大町市議会議員(1期)、1959年(昭和34年)4月、長野県議会議員に当選し5期在任。 1978年(昭和53年)7月、大町市長選挙に当選し、1990年(平成2年)7月まで3期務めた。在任中は市立大町総合病院の増築竣工、大町市社会会館や大町エネルギー博物館開設、衛生センター汚泥浄化施設の整備などに当たった。
保田 隆芳(やすだ たかよし、1920年3月18日 - 20… 保田 隆芳(やすだ たかよし、1920年3月18日 - 2009年7月1日)は、日本の騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、調教師(日本中央競馬会)。 1936年に騎手デビュー。10代の頃から名門・尾形藤吉厩舎の主戦騎手として頭角を現し、数々の大競走を制する。1958年、アメリカ遠征を機に、従来の日本では見られなかったアメリカ式のモンキー乗りを習得し、日本における騎手の騎乗フォームに大きな変革をもたらしたことから、モンキー乗りの先駆者とされている。1959~1961年、中央競馬全国リーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)。1963年、中央競馬史上初の通算1000勝を達成。
小坂 雄太郎(こさか ゆうたろう、1920年3月18日 - … 小坂 雄太郎(こさか ゆうたろう、1920年3月18日 - 1990年8月21日)は、日本の経営者。信越化学工業創業者小坂順造の甥で、信越化学工業社長を務めた。勲二等瑞宝章受章。 長野県上水内郡柳原村(現長野市)出身。地元の地方財閥の信越化学工業創業家小坂一族に生まれる。旧制長野中学・旧制松本高校を経て、1943年に京都帝国大学工学部機械工学科を卒業。海軍技術大尉を経て、1945年に信越化学工業に入社。 取締役、常務を経て、1975年8月に専務に就任し、1983年8月に社長に昇格。 1990年8月21日、肝不全のために死去。70歳没。同日勲二等瑞宝章受章。従兄に小坂善太郎、小坂徳三郎、従弟に小坂健介(信濃毎日新聞社社長)、岳父に舞出長五郎がいる。
内村 剛介(うちむら ごうすけ、1920年3月18日 - 2… 内村 剛介(うちむら ごうすけ、1920年3月18日 - 2009年1月30日)は、日本のロシア文学者、評論家。文芸誌『(第2次)同時代』同人。本名、内藤操。 栃木県那須郡境村大字大木須(烏山町を経て現・那須烏山市大木須)で零落した百姓の次男として生まれる。中学進学を断念させられて自らの意志で、1934年高等小学校卒業と同時に満州に渡る。満鉄育成学校に入学したのち、転校先の旧制大連第二中学校を経て、1940年ハルピン学院に入学してロシア語を学び、1943年同校を繰上卒業。同年、結婚するも束の間のうちに関東軍総司令部へ徴用される。 敗戦後の混乱の中でソ連のゲー・ペー・ウーにスパイ容疑で逮捕された後、イルクーツクやモスクワの監獄(ラーゲリ)につながれて11年余りの長きにわたって独房生活を送った。
本堂 保次(ほんどう やすじ、1918年3月18日 - 19… 本堂 保次(ほんどう やすじ、1918年3月18日 - 1997年6月8日)は、大阪府八尾市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。本名は安次。1952年から1957年は本堂 保弥(やすや)、1958年以降は本名(コーチ時代の1969年のみ本堂 安治)を登録名としていた。
岡村 總吾(おかむら そうご、1918年(大正7年)3月18… 岡村 總吾(おかむら そうご、1918年(大正7年)3月18日 - 2013年(平成25年)10月26日)は、日本の工学者(電子工学・通信工学)。階級は海軍技術大尉。位階は正四位。勲等は勲二等。学位は工学博士(東京大学・1951年)。東京大学名誉教授、東京電機大学名誉学長、文化功労者。名の「總」は「総」の旧字体のため、新字体で岡村 総吾(おかむら そうご)とも表記される。 東京帝国大学工学部助教授、東京大学工学部教授、東京大学工学部学部長、東京大学総長特別補佐、東京電機大学教授、日本学術振興会理事長、東京電機大学学長、学校法人国際大学理事長などを歴任した。 1918年(大正7年)3月18日、東京に生まれる。
本堂 保次(ほんどう やすじ、1918年3月18日 - 19… 本堂 保次(ほんどう やすじ、1918年3月18日 - 1997年6月8日)は、大阪府八尾市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 本名・本堂 安次(読みは同じ)。1952年から1962年は本堂 保弥(ほんどう やすや)、1963年の監督就任以降は本名(1969年のみ本堂 安治〈読みは本名と同じ〉)を登録名としていた。 幼少のときに兄の影響で野球を始める。「授業料だけでなく生活費の面倒も見てやる」という勧誘もあり、進学した日新商業学校では一塁手として活躍。春夏通じて5度の出場を果たしたが、いずれも初戦敗退に終わる。日新商の1年先輩だった山口政信の誘いで、高校卒業後の1937年に大阪タイガースに入団。
名尾 良孝(なお りょうこう、1917年(大正6年)3月18… 名尾 良孝(なお りょうこう、1917年(大正6年)3月18日 - 1991年(平成3年)5月6日)は、日本の弁護士、政治家。参議院議員(2期)。父は内務官僚で、秋田県知事(官選)を務めた名尾良辰。 青森県青森市生まれ。名尾良辰の四男。1921年に浦和に移り、浦和中学を経て、1921年に中央大学法学部卒業。 戦後に弁護士を開業する。1959年、埼玉県議会議員に当選。以来連続6期在任する。在職中には埼玉県議会議長を務めた。その後1980年の第12回参議院議員通常選挙に自民党公認で埼玉県地方区(1986年の参院選は埼玉県選挙区)から立候補し初当選。鈴木派→宮沢派に属した。法務政務次官、参議院内閣委員長、同商工委員長、自由民主党埼玉県支部連合会会長、埼玉菊花連盟顧問などを歴任した。
金 鎮元(キム・ジヌォン、朝鮮語: 김진원、1917年3月1… 金 鎮元(キム・ジヌォン、朝鮮語: 김진원、1917年3月18日 - 2001年3月26日)は、大韓民国の政治家。茂朱面(現・茂朱邑(朝鮮語版))副面長・面長、茂朱郡郡守、第4代韓国国会議員。 日本統治時代の全羅北道(現・全北特別自治道)茂朱郡出身。広島県立世羅中学校(現・広島県立世羅高等学校)、明治大学専門部・法科卒。朝鮮放送協会での3年間の勤務を経て、茂朱面(現・茂朱邑(朝鮮語版))副面長(1949年時点)・面長、第7代茂朱郡守(1954年5月18日~1957年11月25日)、茂朱水利組合長、国民会茂朱郡支部長、自由党茂朱郡党委員長・中央委員、第4代国会内務委員会委員を務めた。 2001年3月26日、富川の病院で持病により死去。
神代 錦(かみよ にしき、1917年3月18日 - 1989… 神代 錦(かみよ にしき、1917年3月18日 - 1989年2月23日)は、日本の舞台女優。元宝塚歌劇団男役で、元同劇団理事。本名は稲垣 静子(いながき しずこ)。 花組主演男役、花組・星組組長を務めた後、1989年(平成元年)在団のまま死去。 愛称イナちゃん、靜いちゃん、イナゴ、チャガちゃん。公称身長164センチ。 鳥取県倉吉市出身。出身校倉吉成徳学校。姉は高砂松子。 1929年「春の踊り」で初舞台、同期生に園井恵子、桜緋紗子、千村克子、藤花ひさみらがいる。宝塚歌劇団19期生。 芸名は小倉百人一首の第24番:菅原道真の に由来。なお戦時中に軍の要請で芸名表記を嘉美代 錦としていた時期があった。
三井 敏正(みつい としまさ、1916年 <大正5年> 3月… 三井 敏正(みつい としまさ、1916年 <大正5年> 3月18日 - 1989年 <平成元年> 12月14日)は、日本の経営者。キャタピラー三菱社長を務めた。位階は従四位。 山口県出身。1938年に東京帝国大学工学部船舶学科を卒業し、同年に三菱重工業に入社した。1973年5月に取締役に就任し、1975年5月に常務、1980年6月に副社長を経て、1983年6月にキャタピラー三菱社長に就任し、1987年7月までに務めた。 1983年4月に藍綬褒章を受章し、1989年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年12月14日、結腸癌のために死去。73歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
海藤 勇(かいとう いさむ、1916年(大正5年)3月18日… 海藤 勇(かいとう いさむ、1916年(大正5年)3月18日 - 1984年(昭和59年)2月17日は、日本の内科学者。専門は、消化器病学、特に肝臓疾患。医学博士。 長崎県長崎市生まれ。 1941年、東北帝国大学医学部卒業後、同医学部内科教室(教授 黒川利雄)に入局。1962年、東北大学医学部同内科助教授。1966年、岩手医科大学教授。1981年、同大学付属病院長・理事。がん予防対策に貢献した。医学博士(東北帝国大学)、論文「糖尿病に於ける肝臓機能について」。正五位、勲三等瑞宝章。1984年逝去、享年67。
中川 平太夫(なかがわ へいだゆう、1915年3月18日 -… 中川 平太夫(なかがわ へいだゆう、1915年3月18日 - 1987年6月14日)は、公選第4代福井県知事(任期は1967年4月23日 - 1987年4月22日、5期)。福井県遠敷郡野木村(のちの遠敷郡上中町、現在の三方上中郡若狭町)出身。若狭町名誉町民(1983年11月3日、当時の遠敷郡上中町より称号贈呈)。息子は元福井県議会議長の中川平一。
土方 武(ひじかた たけし、1915年(大正4年)3月18日… 土方 武(ひじかた たけし、1915年(大正4年)3月18日 - 2008年(平成20年)10月15日)は日本の実業家、元住友化学工業社長・会長。元日本たばこ産業会長。元経済団体連合会副会長。岐阜県岐阜市出身。
高橋 通敏(たかはし みちとし、1914年(大正3年)3月1… 高橋 通敏(たかはし みちとし、1914年(大正3年)3月18日 - 1989年(平成元年)4月6日)は、日本の外交官、国際政治学者、外交評論家。位階は正三位。 熊本県出身。熊本士族・高橋守雄の二男。1933年(昭和8年)旧制五高文科乙類を経て、東京帝国大学法学部、ミュンヘン大学を卒業し、その後外務省に入省する。 1957年(昭和32年)外務省条約局長。1960年(昭和35年)、参議院日米安全保障条約等特別委員会では政府委員として答弁に立ち、在日米軍に対して日米地位協定によって敢えて治外法権的立場を付与したと答弁した。1966年(昭和41年)スウェーデン駐箚特命全権大使。外務省研修所長を経て、1970年(昭和45年)エジプト駐箚特命全権大使などを歴任した。
石田 波郷(いしだ はきょう、1913年(大正2年)3月18… 石田 波郷(いしだ はきょう、1913年(大正2年)3月18日 - 1969年(昭和44年)11月21日)は、愛媛県出身の日本の俳人。本名は哲大(てつお)。水原秋桜子に師事、『馬酔木』に拠ったのち、『鶴』を創刊・主宰。初期の青春性のあふれる叙情句から始まり、自己の生活を見つめる、人間性に深く根ざした作風を追求。加藤楸邨、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。昭和の第二次世界大戦前に流行した新興俳句運動を批判し、韻文精神の尊重を説き、切れ字を重視。戦中には結核を発病し、戦後は病と対峙する自身の生活を題材とする境涯俳句を詠み続けた。 愛媛県温泉郡垣生村大字西垣生に、父惣五郎、母ユウの次男として生まれる。
江尻 勇(えじり いさむ、1913年(大正2年)3月18日 … 江尻 勇(えじり いさむ、1913年(大正2年)3月18日 - 1997年(平成9年)7月21日)は日本の政治家。新潟県西山町長(6期)。 二田尋常高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業後、上京して新聞配達や保険外交員として働く。 戦前は刈羽郡二田村役場で戦争事務を担当していたが戦後、それを理由に退職するしかなかった。1950年-1951年(昭和25-26年)頃まで日本社会党派だったが、離れて農業をしていたとき、田中土建社員の江尻の知り合いから田中角栄の秘書本間幸一を通じて、手が空いてるなら手伝って欲しいと言われた。だがその頃の江尻は三宅正一の応援を始めたばかりで社会党で特に小作人の代弁者だった三宅は農地改革の先頭にいた。
高城 重躬(たかじょう しげみ、1912年3月18日 - 1… 高城 重躬(たかじょう しげみ、1912年3月18日 - 1999年8月4日)は、日本のオーディオ評論家、音楽評論家。 ヴァイオリニストの父・高城重之(横浜翠嵐高校校歌作曲者)と、ピアニストの母・翠の長男として東京に生まれる。実妹に作曲家・音楽教育家の涌井曄子がいる。その三女の涌井純子(純の文字に草冠が付く)は作編曲を施すハープ奏者。 小学校入学前からピアノを弾いており、1929年、福岡県中学修猷館を卒業し、東京高等師範学校理科第1部(数学)に入学。同時に、東京音楽学校(現・東京芸術大学)選科のピアノ科、後に作曲科に通い、ピアノを榊原直と田中規矩士、作曲を橋本国彦に学ぶ。 その後、都立三田高校数学教諭、都立南高校校長、都立深沢高校校長などを歴任するが、その傍ら日本のオーディオ界の草分けとしても活躍。
金森 直一(かなもり なおかず、1912年3月18日 - 1… 金森 直一(かなもり なおかず、1912年3月18日 - 1998年6月30日)は、日本の経営者。長崎県出身。 1934年に慶應義塾高等部を卒業し、1937年に日産火災海上保険に入社。1959年に取締役に就任し、1963年に常務、1966年に専務を経て、1969年6月に副社長に就任し、1974年4月には社長に昇格し、1977年4月までに務めた。 1976年9月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1998年6月30日腎不全のために死去。86歳没。
不二 洋子(ふじ ようこ、1912年3月18日 - 1980… 不二 洋子(ふじ ようこ、1912年3月18日 - 1980年5月11日)は、日本の女優、女剣劇の開祖。1930年代以降、初代・二代目の大江美智子とともに女剣劇の全盛期を築きあげた舞台女優である。 戦前の女剣劇創成期から、卓越した立ち回り技術と、しばしば「男性的」とも評された中性的なイメージで人気を博した。 本名は迫 静子(さこ しずこ)。旧姓・大西。 1912年(明治45年)3月18日、広島県佐伯郡平良村上平良(現在の同県廿日市市上平良)に生まれる。香川県綾歌郡坂出町(現在の同県坂出市)に生まれる。 1916年(大正5年)、広島県佐伯郡平良村上平良(現在の同県廿日市市上平良)出身の旅役者・迫日出雄の養女になり、戸籍上の名が「迫静子」となる。
田中 昌司(たなか まさじ、1911年3月18日 - 200… 田中 昌司(たなか まさじ、1911年3月18日 - 2002年6月11日)は、日本の経営者。澁澤倉庫社長、会長を務めた。 埼玉県北葛飾郡鷲宮町出身。1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に澁澤倉庫に入社。1958年に取締役に就任し、1961年に常務、1964年に専務、1967年11月に副社長を経て、1973年5月には社長に就任。1985年6月に会長を経て、1991年6月には相談役に就任。 2002年6月11日くも膜下出血のために死去。91歳没。
佐々木 凛一(ささき りんいち、1911年3月18日 - 没… 佐々木 凛一(ささき りんいち、1911年3月18日 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者。 名古屋市熱田区に生まれる。1928年福岡県中学修猷館、1930年3月旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1933年3月東京帝国大学文学部英文学科を卒業。 電通に勤務後、1935年同盟通信社外信部に入り、上海、香港の各特派員、外信部次長を経て、1940年ローマ支局長となり、その後ベルリン、ストックホルム特派員を務める。 1946年世界日報(産経新聞の前身)外信部長となり、1948年世界日報が改題した世界経済新聞の編集局次長兼外信部長に就任、1950年3月産経新聞と改称。その間、1949年6月より日本放送協会(NHK)嘱託となり、ニュース解説などを担当している。
柴田 達夫(しばた たつお、1911年3月18日 - 199… 柴田 達夫(しばた たつお、1911年3月18日 - 1991年7月6日)は、昭和期の内務官僚。建設事務次官、水資源開発公団(現・水資源機構)総裁等を歴任。建設行政の基礎を築き、特に水資源開発に大きな功績を残した。 貴族院議員や内閣書記官長などを務めた柴田善三郎の次男として愛媛県松山市に生まれる。第三高等学校から東京帝国大学に進み、1935年の卒業とともに内務省に入る。 1939年内務事務官となり、太平洋戦争後の1950年に大阪府警察長に就任。1954年に初代警察庁長官官房長、警視監となる。 建設省大臣官房長(1955年)を経て、1958年12月16日に建設事務次官に就任した(1961年11月1日退任)。