道 志郎(みち しろう、本名:平岡 通博(ひらおか みちひろ… 道 志郎(みち しろう、本名:平岡 通博(ひらおか みちひろ)1924年12月18日 - 2016年11月11日)は日本のオルガン奏者。 兵庫県西宮市生まれ。学習院高等科を卒業し、東京大学に入学。大学卒業後に一時農林省(現・農林水産省)に在勤した。 電子オルガンを中心に、演奏、作編曲、指導面に活躍。 特に日本楽器(現・ヤマハ)製電子オルガン、エレクトーンの開発にあたっては、その初期段階から深く関わり、製品完成後はその普及に牽引役として国内外に活動を行った。 NHK、各民放で多くの番組にレギュラー出演し、ステージ活動では、全国的に多くのコンサート、また、サントリー大・小ホール等でリサイタルを数多く開催している。
石井 次郎(いしい じろう、1923年12月18日-1992… 石井 次郎(いしい じろう、1923年12月18日-1992年4月1日)は、日本の地質学者。理学博士(北海道大学)。 北海道出身。北海道札幌師範学校付属小学校卒業。北海道庁立札幌第二中学校卒業。1946年北海道帝国大学理学部卒業。1946年同応用電気研究所助手。1955年北海道大学大学院(旧制)理学研究科修了。同理学部助手。北海道札幌西高等学校定時制教諭や、北海道農業専門学校教師を経て、1961年に北海道大学にて「北海道第四紀火山噴出物の風化過程」で理学博士受く。1961年北海道大学水産学部助教授。1968年東海大学海洋学部札幌教養課程教授。1988年北海道東海大学工学部教授。1992年3月31日北海道東海大学定年退職。
浜川 祥枝(はまかわ さかえ、正式には、濱川祥枝、男性、19… 浜川 祥枝(はまかわ さかえ、正式には、濱川祥枝、男性、1923年12月18日 - 2006年9月25日 )は、ドイツ文学者。東京大学名誉教授。 東京府(現東京都)で、実業家・浜川友十郎(三菱倉庫社長)の長男として生まれた。旧制府立高等学校を卒業。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。1944年9月、海軍経理学校に入学し1945年に卒業。同年4月、佐世保施設部付となり、同年6月、海軍主計少尉に任官して第325設営隊付に転じ終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 1946年9月、東京帝国大学法学部政治学科卒業。南海電鉄勤務ののち、1952年東京大学文学部独文科卒業。ドイツ学術交流会の奨学金を受けて、西ドイツ・ミュンヘン大学へ留学ののち、1955年中央大学文学部助教授、1967年東京大学文学部助教授、1973年教授。
宇賀神 光利(うがじん みつとし、1923年12月18日 -… 宇賀神 光利(うがじん みつとし、1923年12月18日 - 1967年2月)は、日本の作曲家。本名は宇賀神 敏道(うがじん としみち)。戦後の日本における童謡運動「新しいこどもの歌」を推進した作曲家グループ「ろばの会」の結成メンバーの一人。父は作曲家・指揮者の宇賀神味津男。デブパレードのギタリストugazinは孫にあたる。 東京府出身。音楽家の家系に育ち、国立音楽学校(現:国立音楽大学)本科を卒業。作曲を尾高尚忠、諸井三郎に師事した。 1950年(昭和25年)、第19回 日本音楽コンクールの作曲部門(第2部・室内楽曲)において、第3位に入賞。この時の1位は一柳慧、2位は中田喜直であった。 1955年(昭和30年)、中田喜直、大中恩、磯部俶、中田一次と共に、子供の生活感覚に即した芸術性の高い童謡を創造することを目指し、作曲家グループ「ろばの会」を結成。
只野 通泰(ただの みちやす、1923年〈大正12年〉12月… 只野 通泰(ただの みちやす、1923年〈大正12年〉12月18日 - 2015年〈平成27年〉7月18日)は、宮城県白石市出身の作曲家、編曲家。 1944年、日本大学芸術学部音楽科作曲専攻卒業。終戦を清津で迎え、ソ連軍との交戦の後、捕虜としてシベリアに抑留される。抑留中に竹山逸郎が後に大ヒットさせることになる「異国の丘」(吉田正作曲)をアコーディオンで伴奏し、同胞に歌わせ元気づけていた。その様子は日本国内でも報道され、「異国の丘」の作曲者でもある吉田正も知っていたと言われる。 1949年10月に復員し、東京都文京区立第六中学校で音楽科教諭として教鞭をとる中、「異国の丘」の縁で吉田正と運命的に出会う。
大町 北一郎(おおまち ほくいちろう、1923年12月18日… 大町 北一郎(おおまち ほくいちろう、1923年12月18日 – 1987年8月27日)は、日本の地質学者、教育者。専門は鉱床学・資源学。 北海道大学時代(1949年~1955年)に指導教員の鈴木醇教授や同僚たちとともに、北海道を中心とした金属鉱山の記載を精力的に行った。その対象は多様で、テルル、マンガン、鉄、ビスマス、銀、銅、鉱床の記載など多岐にわたっている。これらのうち特に鉄に関連する研究は大町の大きな業績の一つであり、その後の地質調査所以降においても精力的に調査を続け論評を行った。 工業技術院地質調査所(1956年~ 現国立研究開発法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)に移ってからは、主に特別研究「低品位鉄鉱石調査研究」に従事し、さらに国内外の鉄を中心とした資源調査を行い、多くの報告書にまとめている。
鈴木 正三(すずき しょうぞう、1922年12月18日 - … 鈴木 正三(すずき しょうぞう、1922年12月18日 - 2011年11月12日)は、日本の経営者。日本写真印刷社長、会長を務めた。 大阪府出身。1947年に立命館大学法文学部を卒業し、1956年に日本写真印刷に入社し、監査役に就任。1957年に常務を経て、1959年に社長に就任。1992年3月に会長に就任し、2007年から相談役を務めた。 2011年11月12日、膵臓がんのために死去。88歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
柴田 吉太郎(しばた きちたろう、1922年12月18日 -… 柴田 吉太郎(しばた きちたろう、1922年12月18日 - 2004年8月7日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1922年(大正11年)12月18日、北海道に生まれる。 1942年(昭和17年)、早稲田大学専門部を卒業する。1944年(昭和19年)、東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)に入社、中川信夫らに師事した。 第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)、新東宝の設立に参加、引き続き中川や清水宏らの助監督を務めた。 1961年(昭和36年)、新東宝が倒産する。同社のプロデューサーだった佐川滉が設立した佐川プロダクションが製作し、新東宝の配給部門を分社化して設立された大宝が配給した映画『黒と赤の花びら』で、1962年(昭和37年)、40歳で監督としてデビューした。
李 林学(リー・リムハク、ハングル: 이임학; ハンチャ: … 李 林学(リー・リムハク、ハングル: 이임학; ハンチャ: 李林學、英: Rimhak Ree, Im-hak Ree、 (1922-12-18) 1922年12月18日 – 2005年1月9日(2005-01-09))は、韓国・カナダの数学者である。群論を研究した。李群(英語版)の概念で著名である (Ree 1960, 1961) 。 日本統治時代の朝鮮の咸興で初等教育を受けた。咸興第一公立普通学校に通い、1934年に咸興公立高等普通学校に入学した。京城帝国大学に進学し物理学を専攻した。1944年に大学を卒業し、満洲国奉天市(中華人民共和国遼寧省瀋陽市)にあった朴興植の朝鮮飛行機工業株式会社(朝鮮語版)で働いた。
工藤 巌(くどう いわお、1921年(大正10年)12月18… 工藤 巌(くどう いわお、1921年(大正10年)12月18日 - 1998年(平成10年)8月25日)は、日本の政治家。岩手県知事(1期)、衆議院議員(5期)、盛岡市長(3期)。 文教政策に精通。衆議院議員時代には文教委員長を務めたほか、知事在任中には岩手県立大学の総合大学としての設立を決めた。 盛岡中学校、第一高等学校、東京大学法学部卒業後、岩手県立盛岡高等学校に教師として赴任。その後岩手県庁に入庁。企画部長などを経て、1969年盛岡市長に立候補して当選。 3期目途中の1979年、政界を引退した野原正勝の後継者として旧岩手1区から衆議院議員選挙に立候補し初当選。以後5回連続当選。自由民主党の河本派に所属し、国土政務次官、文部政務次官、衆議院文教委員長、党人事局長、政務調査会副会長などを歴任。
山本 七平(やまもと しちへい、1921年(大正10年)12… 山本 七平(やまもと しちへい、1921年(大正10年)12月18日 - 1991年(平成3年)12月10日)は、山本書店店主。評論家として、主に戦後の保守系マスメディアで活動した。
木内 佳市(きうち かいち、1921年12月18日 - )は… 木内 佳市(きうち かいち、1921年12月18日 - )は、日本の会計学者。大阪大学名誉教授。 宮崎県生まれ。神戸商業大学卒。平井泰太郎門下。1959年「減価償却論」で、大阪大学より経済学博士の学位を取得。名古屋大学講師、大阪大学法経学部助教授、改組により大阪大学経済学部助教授、教授、1985年定年退官となり名誉教授、追手門学院大学教授を経て、1990年京都学園大学学長となった。
牧内 栄蔵(まきうち えいぞう、1920年12月18日 - … 牧内 栄蔵(まきうち えいぞう、1920年12月18日 - 1995年9月25日)は、日本の経営者。倉敷紡績社長、会長を務めた。 東京都出身。1941年に大阪商科大学高商部を卒業し、1942年に倉敷紡績に入社。1965年12月に取締役に就任し、1967年12月に常務、1974年12月に専務を経て、1976年7月に副社長に就任し、1979年7月に社長に昇格。1987年7月には会長に就任し、1993年6月から相談役を務めた。 1984年4月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1995年9月25日、肺炎のために死去。74歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大橋 健三郎(おおはし けんざぶろう、1919年12月18日… 大橋 健三郎(おおはし けんざぶろう、1919年12月18日 - 2014年4月22日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。東京大学名誉教授。 京都市中京の呉服卸商の家に生まれる。1937年(昭和12年)、京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業し、東京外国語学校英語科入学) 1941年、東北帝国大学英文科に入学。土居光知に師事し、阿部次郎、小宮豊隆の教えを受けて夏目漱石に傾倒するが、戦争のため二年で繰上げ卒業、海軍予備学生、予備士官として各地を転々とする。 戦後、仙台工業専門学校(現仙台高等工業学校)教授。1948年(昭和23年)、横浜市立経済専門学校教授、また横浜市立大学助教授。
小山田 隆(おやまだ たかし、1919年12月18日 - 2… 小山田 隆(おやまだ たかし、1919年12月18日 - 2009年11月20日)は、日本の外交官。初代バングラデシュ人民共和国駐箚日本国特命全権大使として知られる。
廣末 保(ひろすえ たもつ、1919年12月18日 - 19… 廣末 保(ひろすえ たもつ、1919年12月18日 - 1993年10月26日)は、日本の近世文学研究者、演劇評論家。法政大学教授。主に松尾芭蕉、近松門左衛門、井原西鶴、弘瀬金蔵(絵金)、鶴屋南北などを研究した。 高知市出身。旧制高知高等学校を経て、1941年東京帝国大学文学部国文学科卒。1948年、法政大学第一教養部教授。戦後、日本文学協会で活動し、1955年の最初の著書『元禄文学研究』で注目された。1967年、法政大学文学部教授。1976年に文学部教授を務めた。 柳田國男、折口信夫の民俗学的方法に学び、「悪場所」と呼ばれた芝居と遊廓を、民衆のエネルギーの源泉として近世文化を捉えなおした『悪場所の発想』は、その後の近世論に大きな影響を与えた。
小熊 孝次(こぐま こうじ、1918年12月18日 - 20… 小熊 孝次(こぐま こうじ、1918年12月18日 - 2015年7月6日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。神奈川銀行頭取、会長を務めた。北海道出身。 1939年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に大蔵省に入省。 東京税関長、会計検査院参事官などを経て、1970年2月に会計検査院事務総局次長に就任。1971年10月に住宅金融公庫理事に就任し、1972年8月から1977年11月までに副総裁を務めた。1977年12月に神奈川相互銀行社長に就任し、1989年4月には神奈川銀行頭取に就任。1989年6月から会長を務めた。 1990年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2015年7月6日病気のために死去。96歳没。
長岡 文雄(ながおか ふみお、1917年12月18日 - 2… 長岡 文雄(ながおか ふみお、1917年12月18日 - 2013年?)は、日本の教育者、教育学者。 福岡県八女市出身。書道の雅号 長岡 光邨(こうそん)。1937年福岡県小倉師範学校本科第一部卒。小倉師範附小に勤務時、24歳で文部省 師範学校中学校高等女学校教員検定試験「習字」に当時の最年少で合格した。書道家として東京の学校への就職を薦められたが、同時期に奈良女子高等師範学校附小からの招聘を受け、迷った末、教育者としての道を歩むことを決心する。1943年奈良女子高等師範学校附属小学校教諭となり、木下竹次の「学習法」を引き継ぎ、戦後は重松鷹泰と共に「奈良プラン」を樹立した。 長岡は、「教育は、ひとりひとりの子どもが、人間としての可能性をぎりぎりまで発現していくように手伝うことであり、個性的思考の深化を支援して、人間としての生き方を創造させることである。
稲庭 桂子(いなにわ けいこ、1916年(大正5年)12月1… 稲庭 桂子(いなにわ けいこ、1916年(大正5年)12月18日 - 1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の紙芝居作家で保育紙芝居の提唱者。童心社創業者。結婚後の本名は村松桂子。稲庭桂子の筆名で活動を続けた。 稲庭桂子は1916年(大正5年)12月18日に岩手県盛岡市で生まれた。1928年(昭和3年)、桂子が12歳の時に、朝日新聞の記者であった父稲庭謙治が東京本社詰になり東京府世田谷区に移る。1934年(昭和9年)、18歳で、青山女学院を卒業。劇作家を志し亀屋原徳に師事。稲庭桂子の筆名で紙芝居の脚本も手掛けた。1942年(昭和17年)、25歳で日本教育紙芝居協会に入社。当時は日中戦争から第二次大戦に至る時代で、稲庭も国策に沿う紙芝居を書くことが求められる時勢であった。
田中 信英(たなか のぶひで、1916年(大正5年)12月1… 田中 信英(たなか のぶひで、1916年(大正5年)12月18日 - 1995年(平成7年)2月5日)は、昭和から平成初期の警察官、政治家。大和高田市長(在職1991年10月5日~1995年2月5日)。位階は従五位。 市営温泉さくら荘、市民文化会館事業を立ち上げた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
岩合 徳光(いわごう とくみつ、1915年12月18日 - … 岩合 徳光(いわごう とくみつ、1915年12月18日 - 2007年2月12日)は、日本の写真家。写真家の岩合光昭は息子。 北海道釧路市生まれ。日本大学経済学部中退。戦中、戦後は満州(中国東北部)の大連日日新聞の写真部員として働く。帰国後、毎日新聞社などを経て、1961年フリーに。主に動物写真を専門に撮影し、その分野の草分け的存在である。2007年2月、低酸素脳症のため、東京都新宿区で死去。91歳没。
松村 達雄(、1914年〈大正3年〉12月18日 - 200… 松村 達雄(、1914年〈大正3年〉12月18日 - 2005年〈平成17年〉6月18日)は、日本の俳優。東京俳優生活協同組合所属。 大学時代はラグビー選手として活躍し、劇団を結成して舞台で活動するが、劇団の解散後は映画・テレビドラマに多く出演した。しやがれた声の独得な台詞まわしと、芝居臭さを感じさせないリアルで深味のある演技で個性的なバイプレイヤーとして活躍し、崩れたインテリ役に定評があった。映画『男はつらいよ』シリーズで2代目おいちゃん役を演じたことでも知られる。 神奈川県横浜市に父・武重と母・トエ(高橋榮太郎の長女)の3男2女の3男として生まれる。兄は錠司と重雄。父は大阪府の松村繁三郎の三男として1882年3月に生まれ、帝国蓄音機やスタンダード蓄音機、コロムビアレコードの取締役文芸部長となった。
髙田 三郎(たかた さぶろう、1913年〈大正2年〉12月1… 髙田 三郎(たかた さぶろう、1913年〈大正2年〉12月18日 - 2000年〈平成12年〉10月22日)は、日本の作曲家、指揮者。合唱曲を中心に作曲を行ったほか、自作を中心に指揮者としても活躍した。日本のカトリック教会で歌われる典礼聖歌を作曲したことでも知られる。 名字は「高田」ではなく「髙田」(いわゆるはしご髙)が正式な表記である。 愛知県名古屋市に生まれる。愛知県第一中学校(現:愛知県立旭丘高等学校)を経て、武蔵野音楽学校(現:武蔵野音楽大学)師範科で呉泰次郎に和声法を師事する。次いで東京音楽学校(現:東京藝術大学)の本科作曲部を1939年に卒業し、さらに同校研究科作曲部、同校聴講科指揮部で学んだ。
髙田 三郎(たかた さぶろう、1913年12月18日 - 2… 髙田 三郎(たかた さぶろう、1913年12月18日 - 2000年10月22日)は、日本の作曲家。自作を中心に指揮者としても活躍した。
小原 重徳(おばら しげのり、1912年12月18日 - 1… 小原 重徳(おばら しげのり、1912年12月18日 - 1993年11月28日)は、日本のジャズベーシスト。ブルーコーツのバンドリーダー。本名は小原(おはら)重徳。 東京府に生まれ、1936年に法政大学経済学部を卒業する、学生時代にはハワイアンを演奏する。1936年に松本伸のバンドに参加し、1946年にベース奏者としてブルーコーツに加入、長尾正士の後をうけてバンドリーダーを務める。同バンドを日本の3大バンドのひとつに育て上げた。その後、ホテルニューオータニ専属のジョイフル・オーケストラの指揮者やNHK総合テレビジョン「ザッツミュージック」の準レギュラー出演などで活躍した。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
金森 政雄(かなもり まさお、1911年(明治44年)12月… 金森 政雄(かなもり まさお、1911年(明治44年)12月18日 - 2001年(平成13年)8月15日)は、日本の技術者、実業家。三菱重工業取締役社長や、同社取締役会長、経団連副会長、日本プラントメンテナンス協会会長、日本造船工業会会長などを歴任した。勲一等瑞宝章受章。 山口県山口市野田生まれ。1932年(昭和7年)旧制福岡高等学校を卒業。1935年(昭和10年)九州帝国大学工学部冶金学科卒業し、三菱重工業に入社。1971年(昭和46年)三菱重工業技術本部長。 1977年(昭和52年)三菱重工業取締役社長。1981年(昭和56年)三菱重工業取締役会長。 1986年(昭和61年)日本プラントメンテナンス協会会長。
二宮 武夫(にのみや たけお、1911年(明治44年)12月… 二宮 武夫(にのみや たけお、1911年(明治44年)12月18日 – 1983年(昭和58年)1月20日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。旧姓・松田。位階は正五位。 大分県大分郡石城川村高崎(挾間村、挾間町を経て現由布市挾間町高崎)で、松田克馬の三男として生まれる。1932年(昭和7年)大分県師範学校専攻科を卒業。大分県下の小中学校教員を務めた。この間に二宮家の養子となる。 戦後、組合運動に加わり、1948年(昭和23年)大分県教職員組合書記長、1949年(昭和24年)同教組執行委員長に就任。その他、憲法擁護大分県会長、バレーボール大分県協会会長などを務め、1951年(昭和26年)大分県議会議員に当選して3期在任し、大分県地方労働委員にも就任した。
檜山 廣(ひやま ひろ、1909年(明治42年)12月18日… 檜山 廣(ひやま ひろ、1909年(明治42年)12月18日 - 2000年(平成12年)12月25日)は、日本の実業家である。丸紅の社長や会長を歴任し、同社中興の祖と言われる。国際派の論客でもあったが、ロッキード事件における中心人物のひとりとして有罪となった。 茨城県那珂郡那珂町(現在の那珂市)生まれ。旧制水戸中学校を経て、東京商科大学(現在の一橋大学)卒業。大学在学中は柔道部のエースであった。 大学を卒業した1932年(昭和7年)に大同貿易入社、1952年(昭和27年)に丸紅飯田(現在の丸紅)取締役、1957年(昭和32年)常務、専務、副社長を経て、1964年(昭和39年)に同社長、1975年(昭和50年)に丸紅会長、1976年(昭和51年)に同取締役相談役。
高部 義信(たかべ よしのぶ、1907年12月18日 - 1… 高部 義信(たかべ よしのぶ、1907年12月18日 - 1995年3月11日)は、日本の英語雑誌編集者、英語学者。 神戸市生まれ。1931年東京帝国大学法学部政治学科卒、機械輸入会社勤務、電気学校夜間部講師、1935年研究社に入り『英語研究』主筆となる。太平洋戦争では暁部隊に編入され沖縄から帰還。『英語研究』を改題した『時事英語研究』を創刊し初代編集長となる。73年退職、研究社顧問。叔父は囲碁棋士の高部道平。
木野 普見雄(きの ふみお、1907年12月18日 - 19… 木野 普見雄(きの ふみお、1907年12月18日 - 1970年9月27日)は、昭和時代前・中期に活動した日本の作曲家。 本名は木野 文男(読みは同じ)。大分県出身。 1907年(明治40年)、大分県速見郡杵築町(現在の杵築市)据場で木野政太の八男として生まれる。旧制中学校在学中から『大分詩人』誌へ詩を寄稿したのを始め文芸に造詣が深く、1934年(昭和9年)に大日本音楽協会が皇太子(明仁上皇)御降誕記念で作詞と作曲を懸賞募集した『吾等の日本』で作曲部門の二等に入賞する。この時に一等入選で採用されたのは広島高等師範学校教授で、戦後は木野と同じく原爆を題材とした楽曲を数多く手掛けた山本寿であった。
竹中英太郎(たけなか えいたろう 1906年(明治39年)1… 竹中英太郎(たけなか えいたろう 1906年(明治39年)12月18日 - 1988年4月8日)は、日本の挿絵画家、労働運動家、実業家。 長男は評論家の竹中労。『琉球共和国』、『仮面を剥ぐ』、『左右を斬る』、『浪人街 天明餓鬼草紙』などの労の著作や、労が制作したレコードのジャケットなどの装画を数多く手掛けた。次女の金子紫は「竹中英太郎記念館」館長。 福岡県福岡市上名島(現・福岡市中央区大名)の没落士族の家庭に生まれる。心臓逆位症で心臓が右、十二指腸が左にある珍しい体の持ち主であったと竹中労は伝えているが、金子紫はこの説を否定している。1歳で父を亡くし、極貧の中で育つ。11歳で熊本に移住。熊本中学夜間部に学びつつ警察で給仕として働いている時、押収された社会主義関係の文書を読んで社会主義者となる。
兼子 一(かねこ はじめ、1906年12月18日 - 197… 兼子 一(かねこ はじめ、1906年12月18日 - 1973年4月6日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。元東京大学教授。従三位勲一等瑞宝章。
高田 三九三(たかだ さくぞう、1906年12月18日 - … 高田 三九三(たかだ さくぞう、1906年12月18日 - 2001年1月29日)は、日本の作詞家である。 東京都出身。明治39年生まれの三男だから「三九三」と名付けられた。東京外国語学校(現東京外国語大学)仏文科卒業。マンドローネ奏者。大使館勤務の経験あり。戦後は日本交通公社に勤務。欧米の民謡の訳詞でも知られる。晩年には全日本児童音楽協会会長を務めた。2001年1月29日、心不全で94歳にて死去。 海沼實作曲の曲などでの作詞がある。 アメリカ、イギリス、フランスなどの民謡、クリスマス・キャロル等の訳詞を手がけている。
田中 久雄(たなか ひさお、1905年(明治38年)12月1… 田中 久雄(たなか ひさお、1905年(明治38年)12月18日 - 1981年(昭和56年)4月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 三重県出身。1928年、関西大学専門部商業科を卒業。 時事新報社横浜販売局長、鐘淵紡績東北販売店取締役店長、鐘淵盛岡産業監査役、仙台市繊維製品統制組合理事長、東海航空社長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に三重県から立候補し当選。その後、第23回、第25回から第27回総選挙まで4回当選し、衆議院議員を通算五期務めた。この間、第2次鳩山一郎内閣・防衛政務次官、改進党政策委員会文部々長、自由民主党青年局長などを歴任した。 1976年4月の春の叙勲で勲二等に叙され、瑞宝章を受章する。
内藤 亮一(ないとう りょういち、1905年12月18日 -… 内藤 亮一(ないとう りょういち、1905年12月18日 - 1983年3月28日)は、日本の建設官僚、建築学者。 東京帝国大学工学部建築学科卒業後、地方で住宅行政に携わった後、建設省住宅局の指導課長として建築士法制定のために活動した。晩年は横浜国立大学で教鞭をとった。
初代有明 月子(ありあけ つきこ、1905年〈明治38年〉1… 初代有明 月子(ありあけ つきこ、1905年〈明治38年〉12月18日 - 没年不明)は、元宝塚少女歌劇団月組主演娘役クラスの人物である。男役も経験した。大阪府大阪市北区中津出身。本名・横沢夏子、旧姓・福井。夫は元プロ野球監督、プロ野球選手の横沢三郎の兄。 この芸名は小倉百人一首の第21番:素性法師の 1918年(大正7年)、7期もしくは8期生として、宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)に入団。 1926年(大正15年)6月9日、宝塚歌劇団を20歳で退団。 1928年(昭和3年)、宝塚歌劇団に22歳で復帰。雪組に配属される。 1931年、宝塚歌劇団を退団。 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役)
小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 194… 小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 1942年3月24日)は、日本の歴史家。旧名は小野均。 岡山県岡山市生まれ。1925年第六高等学校、1928年東京帝国大学文学部国史学科をそれぞれ卒業。卒業論文は「近世城下町の研究」。同年から東京帝国大学史科編纂所に勤務、1937年史料編纂官となる。主に『読史備要』の作成、『大日本史料』の編纂を担当。近世都市と中世商業の研究を進めた。
陶山 節子(すやま せつこ、旧姓:吉川、1903年12月18… 陶山 節子(すやま せつこ、旧姓:吉川、1903年12月18日 - 2000年8月8日)は日本の宣教師の通訳者、伝道者、福音派の指導者の一人。 1903年(明治36年)に横浜市に6人兄弟の第4子として生まれる。小学校を卒業すると、米国美普教会(メソジスト・プロテスタント教会)本部によって設立された横浜英和女学校(現:青山学院横浜英和中学校・高等学校)に入学し、在学中に第8代目校長のオリヴ・ハジスの薫陶を受け、キリスト教に初めて触れる。 1920年頃、女学校の5年生の時に第三美普教会(日之出町教会、現在の日本基督教団蒔田教会)で洗礼を受ける。 1922年(大正11年)に横浜英和女学校を卒業し、東京女子大学に入学する。
川崎 堅雄(川﨑、かわさき けんお、1903年12月18日 … 川崎 堅雄(川﨑、かわさき けんお、1903年12月18日 - 1994年5月19日)は、昭和時代の労働運動家。全労会議・同盟副書記長。 高知県吾川郡諸木村(現高知市)生まれ。1922年私立高知工業学校機械科を4年で中退。兵役を経て、1927年4月東京電燈(現・東京電力)に入社。同時に日本大学専門部法科に入学。1928年1月関東電気労働組合に入会、労働農民党に入党。東京電力争議、目蒲電鉄争議、東京電灯争議などに参加。同年8月に当局がでっち上げた「帝都暗黒陰謀事件」で東京電燈を懲戒解雇。1929年高知県下の王子製紙争議を指導後、地下活動に入る。同年7月日本共産党に入党、全協常任委員・共産党全協フラクション責任者。
渡邊進(渡辺進、わたなべすすむ、1903年12月18日-19… 渡邊進(渡辺進、わたなべすすむ、1903年12月18日-1977年9月12日)は、日本の会計学者である。神戸大学名誉教授。日経・経済図書文化賞、産業教育80年記念教育功績者受賞。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
高橋 進太郎(たかはし しんたろう、1902年12月18日 … 高橋 進太郎(たかはし しんたろう、1902年12月18日 - 1984年6月5日)は、戦後昭和期の日本の政治家。参議院議員(3期)、行政管理庁長官(第20代)、宮城県知事(公選第7代)。 1902年(明治35年)生まれ、現白石市出身。1928年(昭和3年)、東北帝国大学(現・東北大学)法文学部を卒業した。高等文官試験に合格し、1936年(昭和11年)からはパラオ諸島コロールにあった南洋庁において、拓殖部長として南洋諸島の行政に関わった。拓務省企画課長、大東亜省行政課長などを歴任。 南洋諸島では1943年(昭和18年)12月から日本本土への帰還が始まり、海外移住組合連合会がそれを担っていたが、1944年(昭和19年)2月17日、18日のトラック島空襲や3月30日、31日のパラオ大空襲を受けて、同年4月に大東亜省が「財団法人南洋群島共助義会」を設立し、帰還を担当させた。
高村 坂彦(こうむら さかひこ、1902年(明治35年)12… 高村 坂彦(こうむら さかひこ、1902年(明治35年)12月18日 - 1989年(平成元年)10月7日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(自民党)、山口県徳山市長、徳山大学(現周南公立大学)初代理事長。 次男は数学者でお茶の水女子大学名誉教授の高村幸男(こうむら ゆきお、1931年8月13日 - 2009年3月21日)、四男は衆議院議員・元外務大臣の高村正彦。 山口県熊毛郡三井村(現光市三井)の農家に生まれる。農業・高村宇佐吉、キチの四男。父・宇佐吉は大工の棟梁でもあり、村会議員もしていた。 1917年(大正6年)、三井尋常高等小学校高等科卒業。「おまえは商人になれ」という父親の言いつけに従って厚狭郡船木町にある酒、醤油の醸造と呉服店を営む蔵重商店の別家に見習い奉公人として住み込む。
近藤 尚之(こんどう ひろゆき、1902年(明治35年)12… 近藤 尚之(こんどう ひろゆき、1902年(明治35年)12月18日 - 1970年(昭和45年))は、日本の政治家。初代鳴門市長。 旧板野郡撫養町出身。1920年(大正9年)、徳島県立撫養中学校(現在の徳島県立鳴門高等学校)卒業。1927年(昭和2年)、製塩業に従事し1939年(昭和14年)に徳島県塩業組合幹事に就任。 1942年(昭和17年)、旧撫養町議会議員に当選。1947年(昭和22年)に鳴門市が誕生し初代市長に就任する。1951年(昭和26年)に退任し、その後は徳島県人事委員会委員となる。1955年(昭和30年)に再び鳴門市長に就任し1959年(昭和34年)まで務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
木島 虎蔵(虎藏、きしま とらぞう、1901年〈明治34年〉… 木島 虎蔵(虎藏、きしま とらぞう、1901年〈明治34年〉12月18日 - 1983年〈昭和58年〉7月29日)は、昭和期の鉄道技術者・官僚、実業家、政治家。参議院議員、日本通運会長。旧姓は上山。 鳥取県気高郡湖山村(現鳥取市)で農業・上山昇の二男として生まれ、八頭郡若桜町、木島可恵の養嗣子となる。1926年(大正15年)3月、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業。1929年(昭和4年)10月、高等試験行政科試験に合格し、1930年(昭和5年)3月、東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。同年、鉄道省に入省し鉄道局技手に任官。 その後、金沢運輸事務所長、鉄道総局業務局保安課長、運転局運行課長、札幌鉄道局長、総裁室勤務、運輸総局輸送局長、日本国有鉄道理事などを歴任した。
井川定慶(いかわ じょうけい、1898年12月18日 - 1… 井川定慶(いかわ じょうけい、1898年12月18日 - 1977年5月27日)は、浄土宗の僧侶。佛教大学名誉教授。 1898年、奈良県磯城郡平野村(現:田原本町)瑞花院で生まれた。県立畝傍中学校(現:奈良県立畝傍高等学校)、佛教専門学校を経て、京都帝国大学文学部国史科に入学。1923年に卒業した。 卒業後は、華頂高等女学校教諭となり、次いで京都大学嘱託となって近衛家文書調査にあたった。 1945年、大阪府高石市の専称寺住職となった。また、京都西山短期大学講師として教鞭をとった。佛教大学助教授となり、後に教授昇進。1962年、学位論文『法然上人絵伝の研究』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1969年に佛教大学を定年退職し、名誉教授となった。
中村 幸八(なかむら こうはち、1898年(明治31年)12… 中村 幸八(なかむら こうはち、1898年(明治31年)12月18日 - 1966年(昭和41年)11月18日)は、大正から昭和期の商工官僚、政治家。衆議院議員、特許局長官。旧姓・鈴木。位階は従三位。勲二等旭日重光章。 静岡県浜名郡笠井町(現:浜松市中央区)で鈴木幸作の三男として生まれ、のちに同郡雄踏町(現:浜松市中央区)の旧家・中村源左衛門の養子となり中村家31代当主を継承した。第四高等学校を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、農商務省に入省し特許局属に任じられ、1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、特許局事務官、同審判官、同意匠課長、製鐵所参事、同労務部福利課長、大阪鉱山監督局鉱政課長、特許局事務官・庶務課長、商工書記官・鉱山局鉱政課長、仙台鉱山監督局長、福岡鉱山監督局長、特許局長官、北海軍需監理部長などを歴任し、1945年(昭和20年)に退官した。
宮田 笑内(みやた しょうない、1898年(明治31年)12… 宮田 笑内(みやた しょうない、1898年(明治31年)12月18日 - 1965年(昭和40年)5月18日)は、日本の内務・警察官僚。官選福井県知事。 鹿児島県坊津(現南さつま市の一部)出身。宮田長八の長男として生まれる。第七高等学校造士館を卒業。1924年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東京市役所を経て、1929年、内務省に入省し徳島県属となる。 以後、三重県警察部保安課長、大分県警察部特別高等警察課長、岡山県警察部特別高等警察課長、大阪府警察部外事課長、滋賀県書記官・警察部長、満州ハルピン駐在、茨城県書記官・警察部長、警視庁衛生部長、同保安衛生部長、同特別高等警察部長、内務省警保局外事課長、京都府部長・警察部長、警視庁警務部長などを歴任。
西川 弥平治(彌平治、さいかわ やへいじ、1898年〈明治3… 西川 弥平治(彌平治、さいかわ やへいじ、1898年〈明治31年〉12月18日 - 1958年〈昭和33年〉12月16日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、新潟県議会議長。旧姓は中林。 新潟県北魚沼郡川口村(川口町を経て現長岡市)で、素封家・中林茂吉、ヒデの四男として生まれた。1916年(大正5年)3月、新潟県立工業学校(現新潟県立長岡工業高等学校)機械科を卒業した。 1916年、新潟鐵工所柏崎工場に入社。1921年(大正10年)刈羽郡枇杷島村(柏崎町枇杷島を経て現柏崎市枇杷島)の西川藤助に強く望まれて西川商店鉄工部に入った。1923年(大正12年)藤助の父・西川善之助の養子となる。
河野 密(こうの みつ、1897年(明治30年)12月18日… 河野 密(こうの みつ、1897年(明治30年)12月18日 - 1981年(昭和56年)1月4日)は、日本の政治家。千葉県出身。 東京帝国大学法学部卒。大学在学中に新人会に参加し、卒業後日本労農党に参加。更に社会大衆党へ移って、1936年の第19回衆議院議員総選挙で初当選する。以後、当選12回。 戦後、日本社会党結成に参加するも、戦時中に大政翼賛会の活動に参画していたことから公職追放。追放解除後、1952年の第25回衆議院議員総選挙で社会党右派から政界復帰、1955年10月左右統一の日本社会党結成に参加する。 1956年鈴木茂三郎委員長の下で党国会対策委員長に就任。1958年警察官職務執行法改正法案に成田知巳総務局長と政府の赤城宗徳内閣官房長官への抗議や浅沼稲次郎書記長と与党自民党の川島正次郎幹事長、村上勇国対委員長に抗議した。
久米 精一(くめ せいいち、1897年(明治30年)12月1… 久米 精一(くめ せいいち、1897年(明治30年)12月18日 - 1949年(昭和24年)11月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 香川県出身。丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し山砲兵第11連隊付となる。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し山砲兵第11連隊中隊長となる。 陸軍省軍務局付勤務、軍務局課員(防備課)、陸軍省兵務局課員、航空兵団参謀を務め、1938年(昭和13年)3月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐となる。1939年(昭和14年)9月、第3飛行集団参謀に発令され日中戦争に出征。