大谷 四郎(おおたに しろう、1918年4月23日 - 19… 大谷 四郎(おおたに しろう、1918年4月23日 - 1990年11月9日)は、兵庫県神戸市出身のサッカー選手、サッカー指導者、サッカージャーナリスト。東洋紡元社長の大谷一二は実兄。また、俳優の大谷亮介は長男、高畑裕太は孫である。 1918年4月23日神戸市御影生まれ。内海紡績常務取締役を務めた大谷恭助の四男として生まれる。御影師範学校附属小学校時代からサッカーに親しみ、兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)でサッカー部に入部。1934年の全国招待大会、1935年の全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)に優勝し、2年連続全国大会制覇を達成した。第一高等学校(文科乙類)在学時代にも得点力のあるFWとして活躍。
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後藤 比奈夫(ごとう ひなお、1917年〈大正6年〉4月23… 後藤 比奈夫(ごとう ひなお、1917年〈大正6年〉4月23日 - 2020年〈令和2年〉6月5日)は、大阪府出身の俳人。本名は日奈夫(読み同じ)。「諷詠」名誉主宰。父は後藤夜半。 大阪府西成郡今宮村に生まれる。神戸一中、旧制一高を経て、1941年に大阪大学物理学科を卒業。戦時中は陸軍の技術研究所に勤務。1947年、大阪市にボン電気会社を設立。1951年、父・夜半について俳句の道に入り、夜半の主宰誌「花鳥集」に拠る。「ホトトギス」「玉藻」にも投句し高濱年尾、星野立子に師事。1954年、「花鳥集」が「諷詠」に改題され、その編集兼発行人となる。1955年、波電子工業所を創業、1960年に株式会社となり代表取締役に就任。
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チャールズ・アルフレッド・フィッシャー(Charles Al… チャールズ・アルフレッド・フィッシャー(Charles Alfred Fisher、1916年4月23日 - 1982年7月1日)は、イギリスの地理学者。ロンドン大学教授、東亜及びアフリカ研究所所長を歴任。 英国ノッティンガムシャーのアッテンバラ(Attenborough)生まれ。ケンブリッジ大学卒業。同大学大学院修士課程修了。さらにオックスフォード大学大学院修士課程修了。レスター大学を経てロンドン大学(University of London School of Oriental and African Studies)教授に就任。 第二次世界大戦中には東南アジアの現地調査中に現地で応召。その後、日本軍の捕虜となる。
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荻原 秀夫(おぎわら ひでお、1915年〈大正4年〉4月23… 荻原 秀夫(おぎわら ひでお、1915年〈大正4年〉4月23日 - 2004年〈平成14年〉6月14日)は、日本の小説家、編集者、警察官。 群馬県佐波郡宮郷村(現・伊勢崎市)に生まれる。内務省警察講習所(警察大学校)卒。警視庁に十年間勤務し、山岡荘八に師事、戦後犯罪小説や推理小説を書いた。1951年日本出版タイムス社に迎えられ、『週刊タイムス』編集局長を勤める。妻は詩人の荻原欣子(1925-2018)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
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石田 一良(いしだ いちろう、1913年4月23日 - 20… 石田 一良(いしだ いちろう、1913年4月23日 - 2006年9月17日)は、日本の歴史学者。東北大学名誉教授。杭州大学名誉教授。日本思想史学会名誉会長。文学博士。従四位勲二等瑞宝章。 1913年生まれ。京都市伏見区出身。1934年3月第三高等学校卒業。同年京都帝国大学法学部に入学。翌1935年に同文学部史学科に転じた。1939年、京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業して同大学院に入学。西田直二郎に学んだ。1945年まで在学。 1946年同志社大学文学部助教授となり、創設期の文学部文化学科の基礎確立に尽力。1948年2月に34歳の若さで教授に昇進、4月に新設の文化学科文化史学専攻で研究と教育にあたった。
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大宮 隆(おおみや たかし 1913年(大正2年)4月23日… 大宮 隆(おおみや たかし 1913年(大正2年)4月23日 - 2007年(平成19年)6月4日)は、日本の実業家。寳酒造株式会社元会長・社長を務め、京都財界の顔役の一人だった。宝ホールディングス会長の大宮久は子。
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小泉 一郎(こいずみ いちろう、1912年4月23日 - 1… 小泉 一郎(こいずみ いちろう、1912年4月23日 - 1991年10月20日)は、日本の英文学者。 茨城県水戸市生まれ。1937年東京帝国大学文学部英文科卒、1941年同大学院(旧制)満期修了。副手、水戸高等学校教授、茨城大学文理学部助教授、東京女子大学教授、学習院大学文学部教授を歴任。1983年定年退任、名誉教授。 1984年、勲三等瑞宝章を受章。 1991年10月20日、肺炎のため死去。
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景山 俊弘(かげやま としひろ、1911年(明治44年)4月… 景山 俊弘(かげやま としひろ、1911年(明治44年)4月23日 - 1999年(平成11年)3月19日)は、日本の政治家。掛合町議会議員、掛合町長を歴任した。位階は従五位。 旧制松江中学校(現島根県立松江北高等学校)卒。島根県の大財閥として重きをなしていた田部長右衛門知事の秘書をつとめる。1942年から1951年に合併するまで旧掛合村村議となり、町制施行後は引き続き掛合町議となる。また同町教育委員を1952年から1955年まで務め、同町農業委員も1957年から務めた。後に、掛合町から竹下登が田部の後押しを受け、県議を経て国会議員となると、景山は竹下側近として掛合町議会議員となり、町議会議長となった。
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岩田 一男(いわた かずお、1910年4月23日 - 197… 岩田 一男(いわた かずお、1910年4月23日 - 1977年12月7日)は、日本の英語学者、英文学者。ロバート・ルイス・スティーヴンソン研究の日本における第一人者で、スティーヴンソン・クラブの日本人唯一の会員。 横浜生まれ。祖父の岩田幸吉は中区石川町で質店を営んでいた。神奈川県立横浜第三中学校卒業。1932年(昭和7年)、東京外国語学校英語部文科卒業。横浜高等女学校(現横浜学園高等学校)教諭、小樽高等商業学校(現小樽商科大学)教授を経て、1943年(昭和18年)に東京商科大学(現一橋大学)講師、翌年に教授。1971年(昭和46年)に定年を前に退職。一橋文芸顧問を務めた。 横浜高等女学校では中島敦の同僚で、中島の「光と風と夢」に対するスティーヴンソンの手紙の影響を論じたりしている。
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富永 次郎(とみなが じろう 1909年4月23日 - 19… 富永 次郎(とみなが じろう 1909年4月23日 - 1969年7月14日)は、日本の美術評論家。 東京本郷に生まれる。富永太郎は兄、富永三郎は弟。1925年(大正14年)12月旧制成城第二中学校4年のとき、兄太郎死去。1927年(昭和2年)富永太郎詩集を没後出版。旧制成城高等学校で大岡昇平や古谷綱武と知り合い、1929年(昭和4年)4月、同人雑誌『白痴群』創刊時に、同人として参加。同誌は、編輯人を河上徹太郎が務め、村井康男とその門下生たち、中原中也が創作や翻訳を寄せるものであった。京都帝国大学文学部美学科卒業。1940年(昭和15年)小説『黄昏暦』を出版。そのほかに美術書、こども向けの美術案内書の著作がある。
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鈴木 朝英(すずき ともひで、1909年(明治42年)4月2… 鈴木 朝英(すずき ともひで、1909年(明治42年)4月23日 - 2000年(平成12年)9月11日)は、日本の教育学者。北海道大学名誉教授、元市立名寄短期大学学長。位階は正四位。 埼玉県熊谷市出身。1933年(昭和8年)東京帝国大学文学部卒業。同文学部助手。東京府豊島師範学校(現東京学芸大学)助教授。同教授を経て、1948年北海道大学教育学部助教授、1950年同教育学部教授。1973年(昭和48年)北海道大学停年退官。同名誉教授。市立名寄短期大学学長に就任。1977年(昭和52年)市立名寄短期大学退官。札幌商科大学人文学部人間科学科招聘教授(~1983年(昭和58年))。2000年死去。死没日付をもって正四位に叙された。
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関 四郎五郎(せき しろごろう、1908年4月23日 - 1… 関 四郎五郎(せき しろごろう、1908年4月23日 - 1971年11月7日)は昭和期の洋画家である。春陽会会員。 長野県東筑摩郡芳川村野溝(現在の松本市)に生まれる。名前の由来は、4男(姉を入れると第5子)だったので、末子の意味を込めて名付けられたのだが、その後に5人弟妹ができた。1920年に芳川小学校で開催された岸田劉生個展に深い感銘を受け、画家をこころざす。芳川村農業会に勤めながら独学で絵を描き始める。やがてフランス帰りの宮坂勝が主宰する松本洋画研究会に参加し、洋画を学ぶ。旺玄会展、白日会展、1935年第13回春陽展に初入選する。1937年に二科展に出品し入選、1938年(昭和13年)に上京し、二科会研究所に入所して熊谷守一の指導を受ける。
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見田 石介(みた せきすけ、1906年4月23日 - 197… 見田 石介(みた せきすけ、1906年4月23日 - 1975年8月9日)は、日本の哲学者・マルクス主義経済学者・ヘーゲル研究者。旧姓は甘粕、筆名「佐竹 恒有」、「瀬木 健」。 1906年、島根県津和野生まれ。1923年3月県立富山中学校4学年修了。1927年3月旧制第四高等学校理科卒業。1930年京都帝国大学文学部哲学科卒業。波多野精一に師事し、ヘーゲルの歴史哲学を研究した。 1930年4月に同大学大学院に進学し、同時に平安女学院講師に就職するが、1931年3月に大学院を退学。同年4月に平安女学院講師も退職する。1932年10月に創立された唯物論研究会に11月に参加。1933年機関誌『唯物論研究』に執筆開始。
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中山 正善(なかやま しょうぜん、1905年(明治38年)4… 中山 正善(なかやま しょうぜん、1905年(明治38年)4月23日 - 1967年(昭和42年)11月14日)は、日本の宗教家。天理教の2代真柱。管長。 天理教の教祖・中山みきの孫で初代真柱である中山眞之亮とその妻の中山たまへの長男として生まれた。三島尋常小学校在学中の1914年(大正3年)12月31日に眞之亮が亡くなり、翌1915年1月21日に10歳9ヶ月で管長に就任した。しかしながら幼少であったため、山澤為造が管長職務摂行者として教務に当たった。 14歳で旧制天理中学校に入学、19歳のときに旧制大阪高等学校に入学、1925年(大正14年)4月、学生の身分ながら正式に天理教管長に就任、この年に後の天理大学となる天理外国語学校を設立し、自ら校長となっている。
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原 健策(はら けんさく、1905年4月23日 - 2002… 原 健策(はら けんさく、1905年4月23日 - 2002年2月7日)は、日本の俳優。1953年までの芸名は原 健作。広島県呉市出身。本名は松原 義男。時代劇を中心に脇役として活躍した。 所属は第二新国劇から千恵プロ、1937年に解散した後は日活太秦撮影所、1942年に大都京都、1949年から東映へ移り、最後の芸能事務所は龍プロダクション。 娘は女優の松原千明、孫はモデルの松原すみれ。 1923年に旧制呉港中学校を中退。新民衆劇学校(のち第二新国劇)に1期生として卒業、2期生だった大河内傳次郎とともに第二新国劇の看板役者となる。 1925年に聯合映画芸術家協会『弥陀ヶ原の殺陣』の国定忠治役で映画デビュー。
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細谷 喜一(ほそや きいち、1904年〈明治37年〉4月23… 細谷 喜一(ほそや きいち、1904年〈明治37年〉4月23日 - 1980年〈昭和55年〉11月3日)は、日本の内務官僚。内閣官房副長官。 群馬県山田郡桐生町横山(現・桐生市横山町)出身。細谷信次郎の長男として生まれる。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、第一高等学校を卒業。1931年10月、高等試験行政科試験に合格。1932年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、内務省に入省し警視庁警部補となる。 以後、警視庁警務課教養係長、大塚警察署長、渋谷警察署長、地方警視・静岡県警察部刑事課長、岡山県警察部特別高等警察課長、興亜院事務官・政務部第三課勤務、警視庁警視・労働課長、兼警視庁事務官・調停官、地方警視・京都府警察部特別高等警察課長、千葉県官房長、四国地方総監府副参事官、香川県部長・警察部長などを歴任。
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連 震東(れん しんとう、1904年〈明治37年〉4月23日… 連 震東(れん しんとう、1904年〈明治37年〉4月23日 - 1986年〈民国75年〉12月1日)は、中華民国の政治家。中国国民党所属で、第1期(中国語版)国民大会代表、台北県長、内政部長などを歴任した。日本統治下台湾の台南庁(現:台南市)出身の本省人。字は定一。歴史学者の連横(中国語版)は父で、中華民国副総統、中国国民党主席などを歴任した連戦は長男。 1904年(明治37年)、台南庁(現:台南市)で生まれる。板橋林家の林熊徵(中国語版)から資金援助を受けて内地の慶應義塾大学経済学部に進学し、1929年(昭和4年)に卒業した。台湾に戻ると昭和新報に入社した。 1931年(昭和6年)4月10日、父の連横が中国国民党・国民政府の元老であり旧友の張継に手紙を書き、連震東に対し「台湾を解放したければ、まず祖国を建設しなければならない。
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李 教善(イ・ギョソン、朝鮮語: 이교선/李敎善、1903年… 李 教善(イ・ギョソン、朝鮮語: 이교선/李敎善、1903年4月23日または1905年4月23日 - 1970年2月14日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、政治家。第4代商工部長官、第2・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 本貫は全州李氏、号は松巌(ソンアム、朝鮮語: 송암/松巖)。キリスト教徒。 京畿道安城郡(現・安城市)出身。中東中学校本科を経て、1934年立教大学経済学部商学科卒。全州の中学校教員を経て、1940年渡米しニューヨーク大学研究科で商学を専攻した。1945年に京城師範学校・京城法学専門学校講師を務め、光復を迎えた。その後は米軍政庁の軍政長官秘書長、民政長官補佐官、中央物価行政処長を経て、1948年にソウル大学校副総長となり、その後は食糧営団理事長、自由党政権下の第4代商工部長官(1952年3月27日~11月6日)、第5代国会参議院軍関係不正調査特別委員会委員長、中東高等学校校長、ソウル学院院長、中東学院理事長、忠武公記念事業会理事長を務めた。
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井原 岸高(いはら きしたか、1903年〈明治36年〉4月2… 井原 岸高(いはら きしたか、1903年〈明治36年〉4月23日 - 1992年〈平成4年〉9月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。 愛媛県、のちの伊予三島市(現四国中央市)で生まれた。1916年(大正5年)三島尋常高等小学校(現四国中央市立三島小学校)卒業後、土建業を営み、丸和商事、井原建設工業(株)を創立、社長、会長となる。 政界では、三島町会議員となり、1947年(昭和22年)に愛媛県議会議員に当選して2期在任し、県政クラブ会長、同副議長、同議長を歴任 1958年(昭和33年)2月9日に行われた第27回衆議院議員総選挙愛媛2区補欠選挙で自由民主党から出馬して初当選し、以後補欠選挙での当選2回を含めて通算8期務める。
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三好 十郎(みよし じゅうろう、1902年4月23日 - 1… 三好 十郎(みよし じゅうろう、1902年4月23日 - 1958年12月16日)は、昭和初期から終戦後の復興期にかけて活動した劇作家、詩人、小説家。 佐賀県佐賀市八戸町生まれ。戸籍上は父の兄の子で、旧姓は森。孤児として育つ。4歳で三好家の養子になり、12歳で両親と育ててくれた祖母を失う。旧制佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、早稲田大学英文科卒業。早稲田大学在学中の1924年(大正13年)に「早稲田文学」に詩「雨夜三曲」など五篇を発表してデビュー。サンジカリズムからマルクス主義に接近。壺井繁治らと左翼芸術同盟を結成し、ナップの下部組織プロット(日本プロレタリア劇場同盟)に属して、プロレタリア劇の作家として活動。
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霞ヶ浦 忠男(かすみがうら ただお、1902年4月23日 -… 霞ヶ浦 忠男(かすみがうら ただお、1902年4月23日 - 1945年)は、茨城県行方郡牛堀町(現・潮来市)出身で、出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は今泉 忠。最高位は十両5枚目。 出羽ノ海部屋に入門し、1919年1月「諏訪錦」の四股名で序ノ口に就く。1929年1月、十両に昇進する。この場所と翌場所も2場所続けて負け越したため幕下に落ちた。1930年1月、再び十両に昇進して四股名を「霞ヶ浦」と改めた。5月に幕下に落ち、1931年1月に十両に復帰する。1932年1月、春秋園事件が起こり、霞ヶ浦は天竜三郎に従い、相撲協会を脱退した。その後、新興力士団、関西角力協会に所属し、同協会が1937年に解散した後も相撲協会に復帰しなかった。
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野川隆(のがわ たかし、1901年4月23日 - 1944年… 野川隆(のがわ たかし、1901年4月23日 - 1944年12月23日)は、日本の詩人である。 千葉県千葉市出身、父は東大医学部で森鷗外と同期であった野川二郎である。隆の出生後まもなく、父が岐阜県大垣市で医院を開業したため、大垣市で育つ。大垣中学に学び、卒業後は東洋大学に入学するも中退、横浜税関に勤めながら、詩作をはじめる。この当時は、モダニズム詩人として活躍し、1924年には、北園克衛らとともに詩誌『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』を創刊、ダダイスム的な活動をしている。この雑誌には、稲垣足穂や村山知義も寄稿していた。稲垣は、文学に物理学を持ち込んだ先駆者として、野川のことを回想している。
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北小路 功光(きたこうじ いさみつ、1901年〈明治34年〉… 北小路 功光(きたこうじ いさみつ、1901年〈明治34年〉4月23日 - 1989年〈平成元年〉2月27日)は、昭和時代の華族(子爵)、歌人。母は歌人として知られる柳原白蓮(柳原燁子)。昭和天皇とは又従兄弟にあたり、自身の誕生から6日後に誕生している。 1901年(明治34年)、北小路資武の長男として東京で生まれる。一家は困窮のため、北小路家縁の京都鞍馬口へ転居する。功光が5歳のときに両親が離婚したため、祖母・久子によって育てられた。 同志社中学から学習院を経て、東京帝国大学文学部中退。学習院時代には霊南坂教会に通っていた。1942年(昭和17年)2月28日に父子爵の資武が亡くなると、7月15日に子爵を襲爵した。
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代田 稔(しろた みのる、1899年〈明治32年〉4月23日… 代田 稔(しろた みのる、1899年〈明治32年〉4月23日 - 1982年〈昭和57年〉3月10日)は、日本の医学博士、実業家。ヤクルトの開発者で実質的な創業者。長野県下伊那郡竜丘村(現:飯田市)出身。 貧しい人でも健康を手に入れられるよう「ハガキ1枚煙草1本の値段で買えるヤクルト」を経営標語とし、「健腸長寿」を理念とした。 「ヤクルトの父 代田稔物語」という伝記漫画が2004年の小学館『小学三年生』四月号に掲載され、2015年4月からはヤクルト80周年記念サイトにて配信されている(原案:久保田千太郎 漫画:ながいのりあき) 正五位、勲三等瑞宝章を受章。
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水野 浩(みずの ひろし、1899年4月23日 - 1970… 水野 浩(みずの ひろし、1899年4月23日 - 1970年3月22日[要出典])は、日本の俳優である。本名は水野 浩一(みずの こういち)。青年期の舞台俳優から映画俳優に転向、老年期まで脇役に徹したことで知られる。 1899年(明治32年)4月23日、兵庫県神戸市に生まれる。 旧制・兵庫県第二神戸中学校(通称神戸二中、現在の兵庫県立兵庫高等学校)を卒業し、演劇を志して、佐藤紅緑が1915年(大正4年)に起こした劇団「日本座」に参加、その後、喜劇や歌劇(オペラ)、剣劇等の劇団を渡り歩く。満30歳を迎える1929年(昭和4年)、京都の松竹下加茂撮影所に入社、舞台俳優から映画俳優に転向する。その後、月形龍之介の月形プロダクション、尾上菊太郎の尾上菊太郎プロダクションに移籍したというが、出演記録は不明である。
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杉山 新樹(すぎやま しんじゅ、1898年4月23日 - 1… 杉山 新樹(すぎやま しんじゅ、1898年4月23日 - 1974年2月16日)は、日本の画家、愛知学芸大学(現・愛知教育大学)教授。教育者として西三河美術界に功績を残した。 愛知県額田郡矢作町(現・岡崎市矢作町字西河原)に生まれる。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)在学中、留年した尾崎士郎と同級になった。1916年(大正5年)、同校卒業。 1923年(大正12年)、東京美術学校卒業。岡崎に戻り、1925年(大正14年)に近藤孝太郎、山本鍬太郎らとともに「我々の会」を作り、洋画の展覧会を開き新人の育成に努める。1944年(昭和19年)まで春台会に所属した。同年、旺元会に出品。また、岡崎市立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)や愛知県岡崎師範学校で教鞭をとった。
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小室 孝雄(こむろ たかお、1892年(明治25年)4月23… 小室 孝雄(こむろ たかお、1892年(明治25年)4月23日 - 1955年(昭和30年)9月29日)は、日本の洋画家。 長野県南安曇郡東穂高村(現・安曇野市)に生まれる。東穂高農業補習学校(現長野県穂高商業高等学校)を卒業後、農業に従事するが、大正3年(1914年)に上京。本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事して、油絵制作に精進し、大正15年(1926年)西荻窪にアトリエを構えた。大正5年(1916年)第10回文部省美術展(文展)に「静物」が初入選すると、以後入選を重ねる。昭和12年(1937年)に従軍画家として中国大陸に渡り、戦場や戦時下の都市の風景を描いた。「大日本陸軍従軍画家協会」の名簿には、石井柏亭、小磯良平、川端龍子、向井潤吉らとともに名を連ねている。
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綾川 武治(あやかわ たけじ、1891年(明治24年)4月2… 綾川 武治(あやかわ たけじ、1891年(明治24年)4月23日 - 1966年(昭和41年)12月7日)は、日本の国家主義者、弁護士、政治家。衆議院議員。 埼玉県幡羅郡長井村字善ヶ島(のち大里郡長井村、現:熊谷市)で、小作農・綾川幸太郎、せん夫妻の長男として生まれる。江波学校(長井尋常小学校)、幡羅高等小学校を経て、1904年4月、埼玉県立熊谷中学校に入学。実家の家計悪化のため、1907年3月、中学を休学して、父の職場であった磐城炭鉱 (株) 越賀炭鉱(福島県石城郡内郷村)で一年余り働き、熊谷中四年に復学し1910年3月に卒業した。 無試験検定で合格し、1910年9月、第七高等学校造士館第一部甲(英法科)に入学。
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猪俣 津南雄(いのまた つなお、明治22年(1889年)4月… 猪俣 津南雄(いのまた つなお、明治22年(1889年)4月23日 - 昭和17年(1942年)1月19日) 戦間期日本の社会主義者。日本共産党創設(1922年)に参加。その後、『労農』同人に加わり、(第二次)共産党との論争で中心的役割を果たすが29年9月に脱退し、独自の立場から戦略論・組織論を展開。日本資本主義論争には参加せず。人民戦線事件(1937年)で逮捕されるまで政治・経済の現状分析や農村踏査に心血を注いだ。 ・1889年4月、新潟市の芸者・広木チヨの子として生まれる。父は長岡で油問屋を営む猪俣津平。小学校入学と同時に長岡の猪俣家に引き取られ、しばらくして猪俣姓を名乗る。 ・1902年に入学した県立長岡中学校は俳句が盛んなところで、猪俣も「鹿語」(ろくご)の俳号で句作に熱中する。
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高倉 徳太郎、(たかくら とくたろう、1885年4月23日 … 高倉 徳太郎、(たかくら とくたろう、1885年4月23日 - 1934年4月3日)は、日本基督教会の神学者、牧師。植村正久の後継者。 京都府何鹿郡綾部町字南西町101番地に生まれる。父は高倉平兵衛、母はさよ。平兵衛の養蚕の仕事による不在と、夫のキリスト教信仰のために、母さよは夫と子供を棄てた。そのとき徳太郎は5歳だった。 1903年9月金沢の四高(現金沢大学)に入学し、西田幾多郎の三々塾に入り、1906年6月卒業。「最も愛すべきものは自己なり」と書いた。 綾部の日本組合基督教会牧師の次女内田光恵に恋愛感情を持ち、結婚を考えるようになる。この少女は綾部一の麗貌だった。やがて婚約式を挙げたが、裕福な商家の長男で秀才の誉れ高く、外交官、政治家としての将来を嘱望されていた高倉が、立身出世の望みを捨てて牧師になろうとしたとき、貧乏牧師の妻にはさせないという光恵の母から婚約を破棄された。
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櫻澤千藏(さくらざわ せんぞう、1884年4月23日 - 1… 櫻澤千藏(さくらざわ せんぞう、1884年4月23日 - 1949年7月7日)は、日本の実業家。日東製粉(現・日東富士製粉)元社長。 埼玉県児玉郡東児玉村で生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、中央大学卒業。その後、北海タイムス記者となり活躍する。1908年、埼玉公論を主宰し埼玉公論社長となる。 1912年、松本米穀製粉会社に入社し支配人を経て、取締役となる。満州北支の治安回復とともに事業の大陸進出を進める中心人物となり日東製粉を、三大製粉会社といわれるまで成長させる。1948年、日東製粉社長となる。青柳製作所専務取締役。 郷里の埼玉県新井村に、農民武徳殿や農場を寄付し、熊谷市の小学校跡に児童公園をつくるなど篤行の紳士としても知られる。
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牧野 信之助(まきの しんのすけ、1884年4月23日 – … 牧野 信之助(まきの しんのすけ、1884年4月23日 – 1939年9月25日 )は、日本の歴史家。専門は日本中世の社会経済史。 福井県に生れる。1903年、福井県立武生中学校を卒業する。尋常高等小学校の代用教員を務めたのち、1906年、広島高等師範学校雇となり図書館に勤務し、内田銀蔵に師事するようになる。内田が京都帝国大学に転じると、牧野も1908年4月に京都帝国大学文科大学雇として国史研究室勤務となり、同年9月には助手となる。 1909年に京都帝国大学史学科選科に入学し、1912年に修了。同年10月に石川県立師範学校教諭となり、1916年に福井県史編纂主任になる。以後、滋賀県史編纂主任、堺市史編纂長、北海道史編纂長、大津市史編纂監修、福井県今立郡岡本村の村史編纂顧問などを務め、また1933年から京都帝国大学文学部講師も務めた。
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伊藤 勘助(いとう かんすけ、1883年(明治16年)4月2… 伊藤 勘助(いとう かんすけ、1883年(明治16年)4月23日 - 1966年(昭和41年)2月12日)は、明治から昭和時代前期の官僚、政治家、実業家。仙台鉄道局長、宇部市長、山陽急行バス社長、山口県公安委員長。 山口県大島郡久賀町(現・周防大島町久賀)出身。伊藤祥助の弟として生まれ、1921年(大正10年)分家する。1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、鉄道院に出仕。1911年(明治44年)同院副参事、ついで参事書記官を経て、1927年(昭和2年)仙台鉄道局長に就任。 1931年(昭和6年)7月に官界を去り、民間に転じ、精養軒社長、宮城電燈顧問などを歴任する。1938年(昭和13年)7月30日、推挙され、第7代山口県宇部市長に就任し、続いて第8代市長を1946年(昭和21年)1月21日まで務めた。
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安宅 安五郎(あたか やすごろう、1883年〈明治16年〉4… 安宅 安五郎(あたか やすごろう、1883年〈明治16年〉4月23日 - 1960年〈昭和35年〉9月1日)は、日本の洋画家。東京美術学校で藤島武二に師事。在学中に文部省美術展に入選し作品「靴屋」文部省買上。また大正8年に改組した第一回帝展で特選、続いて第二回帝展で特選となる。その後帝展、文展の審査員を度々務める。洋画だけでなく日本画も描く。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
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藤巻 太一(ふじまき たいち、1881年(明治14年)4月2… 藤巻 太一(ふじまき たいち、1881年(明治14年)4月23日 - 没年不明)は、日本の実業家。甲子不動産、佐賀炭鉱各元取締役。大阪港湾土地元監査役。朝鮮銀行総裁席外国為替元課長・初代ニューヨーク支店長。元参議院議員の藤巻健史と藤巻幸夫は孫。 新潟県出身。農業・藤巻伊三郎の次男として生まれる。兄が亡くなったため、戸主を継いだ甥・敏太郎から1930年(昭和5年)に分家する。1904年(明治37年)、旧制東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、第一銀行に入行。5年後の1909年(明治42年)、朝鮮銀行に転じ大連支店支配人、東京支店助役、東京総裁席課長を経て大阪支店の支配人に就任。一方で大阪港湾土地監査役に挙げらる。
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武富 済(たけとみ わたる、1879年(明治12年)4月23… 武富 済(たけとみ わたる、1879年(明治12年)4月23日 - 1937年(昭和12年)4月20日)は、日本の検事、弁護士、衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。正しくは武富 濟。
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廖 仲愷(りょう ちゅうがい、1877年4月23日 - 19… 廖 仲愷(りょう ちゅうがい、1877年4月23日 - 1925年8月20日)は、清末民初の革命家・政治家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党では容共左派の指導者として知られる。仲愷は字で、名は恩煦。別名に夷白。筆名に屠富、淵実。祖貫は広東省恵州府帰善県。兄は廖鳳書。妻は何香凝。子は廖夢醒、廖承志。 アメリカ合衆国サンフランシスコで、客家の銀行員の家庭に生まれる。1893年(光緒19年)に母を伴って帰国し、1896年(光緒23年)には香港に赴いて英語を習得した。翌1897年(光緒24年)10月に何香凝と結婚している。1902年(光緒28年)に日本へ留学し、早稲田大学経済予科を経て中央大学政治経済科に入学した。
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上村 松園(うえむら しょうえん、1875年〈明治8年〉4月… 上村 松園(うえむら しょうえん、1875年〈明治8年〉4月23日 - 1949年〈昭和24年〉8月27日)は、日本画家。気品あふれる美人画を得意とした。1948年に女性として初めての文化勲章を受章。息子に日本画家の上村松篁。孫に上村淳之。 京都に生まれ育ち、本名は上村 津禰(うえむら つね)、常子(つねこ)と名乗っていたこともある。 1875年(明治8年)、京都府京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる。父は上村太兵衛、母は仲子。松園の祖父・上村貞八は大塩平八郎の甥と言われる。父・太兵衛は松園が生まれる2ヶ月前に他界したが、仲子は再婚することなく女手一つで娘2人を育て上げた。
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小林 久平(こばやし きゅうへい、1875年4月23日 - … 小林 久平(こばやし きゅうへい、1875年4月23日 - 1954年2月7日)は、明治-昭和期の日本の化学者。 新潟県に生まれる。東京帝国大学卒。同大学の講師、宝田石油技師を経て、1918年に早稲田大学教授となる。石油精製に使われる酸性白土の発見および研究で知られる。「酸性白土」の命名も小林が行っている。1935年工業化学会有功賞、1953年日本化学会功績賞受賞。 化学機械協会(現: 公益社団法人化学工学会)の初代会長(1936年-1938年)を務めた。
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下郷 久成(しもごう ひさなり、1872年4月23日〈明治5… 下郷 久成(しもごう ひさなり、1872年4月23日〈明治5年3月16日〉 - 1946年〈昭和21年〉1月15日)は、明治後期から昭和にかけて活動した日本の実業家・政治家である。 滋賀県長浜の旧家下郷家の10代目。米穀商を開いて財を成した下郷伝平(久道)の長男で、公的には父の名を継いで2代目の下郷 伝平(下鄕 傳平、しもごう でんべい)を名乗った。襲名前の名は寅吉。実業界では仁寿生命保険社長を長く務め、政界では貴族院多額納税者議員や長浜町長に選ばれた。 下郷家は滋賀県長浜市(旧・坂田郡長浜町)の旧家である。家伝によると、賤ヶ岳の戦いに関係して豊臣秀吉から表彰された長浜城下の町人のうち下郷九左衛門を家祖とする(それ以前の系譜は不明瞭)。
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長内 則昭(おさない のりあき、1869年4月23日(明治2… 長内 則昭(おさない のりあき、1869年4月23日(明治2年3月12日) - 1937年(昭和12年)5月17日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。 長内泰民の子として陸奥弘前藩領西津軽郡穂積村(青森県西津軽郡稲垣村を経て現つがる市)に生まれる。東奥義塾を経て弘前公立病院附属医学校に入る。1885年(明治18年)同校閉校に伴い東京慈恵医学専門学校に入学するが、政治家を志し中退し新聞記者となる。その後、北海道に渡り材木商を始めるが挫折し、帰郷する。また、日清戦争に従軍した。 1899年(明治32年)稲垣村助役、1903年(明治36年)郡議から青森県会議員に転じ、1906年(明治39年)第3代稲垣村長に就任する。
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山根 一貫(やまね かづつら、1869年4月23日(明治2年… 山根 一貫(やまね かづつら、1869年4月23日(明治2年3月12日) - 1917年8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。男爵。旧姓:橋本。[要出典] 橋本房吉の長男として、山口県厚狭郡万倉村字矢矯(現・宇部市大字万倉矢矯)に生まれる。幼名を慶蔵と称し、山口師範学校講習科の講習で万倉小学校で教鞭を取り、後東京教導団に入団、時に19歳であった。1891年(明治24年)7月、陸軍士官学校(第2期)を卒業する。日清戦争に出征、中尉に進み、1895年(明治28年)山根家に入籍、陸軍少将山根信成の嫡子となる。 1899年(明治32年)12月に陸軍大学校(13期)を卒業し、陸士勤務となる。のちフランスに駐在する。
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日野 辰次(ひの たつじ、1868年4月23日(慶応3年4月… 日野 辰次(ひの たつじ、1868年4月23日(慶応3年4月1日) - 1926年(大正15年)6月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出身。肥後国人吉藩、現在の熊本県人吉市の生まれ。15歳のときに鹿児島市の三州義塾に入学。成績優秀につき三州社の社費生に選ばれて東京専門学校(現早稲田大学)に入学。1889年、東京専門学校英語本科卒。卒業と同時に三州義塾の英語教師に任命される。1891年、鹿児島新聞社(現南日本新聞社)の誘いにより客員として入社。1891年10月7日、鹿児島県加治木村(後に加治木町、現姶良市)の日野家に養子として迎えられ鹿児島県人となる。明治末期には佐藤平右衛門と加治木電気会社を設立。
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高久 倉蔵(たかく くらぞう、1866年4月23日(慶応2年… 高久 倉蔵(たかく くらぞう、1866年4月23日(慶応2年3月9日) - 1917年(大正6年)6月17日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 下野国都賀郡皆川村(現在の栃木県栃木市)出身。皆川村会議員、同村長、下都賀郡会議員、栃木県会議員を歴任した。1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、野州日報社主を務めた。
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中川 久知(なかがわ ひさとも、1859年4月23日(安政6… 中川 久知(なかがわ ひさとも、1859年4月23日(安政6年3月21日)- 1921年(大正10年)11月12日)は、明治から大正期の博物学者、政治家。衆議院議員、九州博物学会終身会長。青年期に一時、板倉久知を名乗る。熊本県近世博物学の開拓者。 岡藩主・中川久昭の二男として生まれる。藩校・由学館で漢籍を学んだ。1871年(明治4年)上京し、丹羽家塾、逢坂学舎、東京英語学校、開成学校で学んだ。1877年(明治10年)東京大学理学部に入学。同年10月13日、旧安中藩主板倉家当主・板倉種子(板倉勝殷四女)の入夫となり家督を相続したため東大を中退。しかし、1880年(明治13年)1月17日に隠居し、同月19日に離縁となり中川家に復籍した。
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小林 芳郎(こばやし よしろう、安政4年3月29日(1857… 小林 芳郎(こばやし よしろう、安政4年3月29日(1857年4月23日) - 昭和11年(1936年)3月23日)は、明治から大正期にかけて活動した日本の検事。大正時代初期には大阪控訴院検事長として辣腕をふるい、「検察の神様」と呼ばれた。 肥前国水ヶ江(現・佐賀県佐賀市)において、葉隠の武士、佐賀藩士 南里与助の四男として生まれる。生まれてすぐに、与助の兄・小林丈蔵の養子となった。このころ、叔父にあたる真崎秀郡や、その友人である楠田英世と交流を持った。上京ののち東京開成学校に学ぶも中退。明治12年(1879年)、中村正直の私塾・同人社に入学した。 明治16年(1883年)に判事補となり、のちに判事から検事に転じる。
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西巻 豊佐久(にしまき とよさく、安政元年(1854年)4月… 西巻 豊佐久(にしまき とよさく、安政元年(1854年)4月23日 - 明治43年(1910年)8月26日)は、日本の実業家、銀行家。横浜正金銀行の幹部として上海・神戸・ロンドン各支店の経営を担い、同銀行の国際金融展開を支えた人物。日本人による初のキリスト教団体「福音会」の創設者の一人でもある。 越後国刈羽郡田尻村(現在の新潟県柏崎市)に生まれる。明治10年(1877年)、志を抱いて渡米し、サンフランシスコで苦学生生活を送りながら学んだ。同地では、美山貫一、小方仙之助らと共に日本人初のキリスト教団体「福音会」を設立した。この福音会は、後の日本プロテスタント史における初期留学生信徒グループとして知られている。
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神津 専三郎(こうづ せんざぶろう、1852年4月23日(嘉… 神津 専三郎(こうづ せんざぶろう、1852年4月23日(嘉永5年3月5日) - 1897年(明治30年)8月18日)は、明治時代の日本の音楽教育者。名は仙三郎とも書かれる。 信濃国小県郡芝生田村(現・長野県小諸市)に生まれ、のちに神津家の養子となる。旧姓は小林。小諸藩儒の中山仙に学んだのち上京し、箕作秋坪の三叉学舎、中村正直の同人社で英語を学び、キリスト教に入信した。 1875年、伊沢修二、高嶺秀夫と共に文部省からアメリカ合衆国派遣を命ぜられ、ニューヨーク州オルバニーの州立師範学校に2年間留学。1878年に帰国すると東京女子師範学校訓導兼監事となり、次いで伊沢の元で音楽取調掛監事に就任し、西洋音楽史の講義や教材の日本語訳に努めた。
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栗原 イネ(くりはら イネ、嘉永5年3月5日(1852年4月… 栗原 イネ(くりはら イネ、嘉永5年3月5日(1852年4月23日)- 1922年(大正11年)1月31日)は明治期の実業家。ダイドーリミテッド創業者。
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柏田 盛文(かしわだ もりぶみ / もりふみ、1851年4月… 柏田 盛文(かしわだ もりぶみ / もりふみ、1851年4月23日(嘉永4年3月22日) - 1910年(明治43年)6月20日)は明治時代の日本の政治家、教育者。号は天颷。 鹿児島県会(鹿児島県議会の前身)議長、第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)校長、衆議院議員、文部次官、千葉・茨城・新潟の各県知事を歴任した。 薩摩国薩摩郡平佐郷平佐村(現在の薩摩川内市平佐町)出身の武士であり、部屋には東郷平八郎から送られた日本刀が飾ってあった。 鹿児島時代は漢学を修め武芸に秀でていた。薩長土の御親兵を務め上京。小松原英太郎、美澤進、鎌田栄吉、神津国助らと同志で、1874年(明治7年)慶應義塾で同窓の薩摩藩士・奥田直之助と学び、在学中から曙新聞に政策論を発表し、そうした関係で国会期成同盟会員となる。
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