三舩浪 盛吉(みふねなみ せいきち、1914年5月28日 -… 三舩浪 盛吉(みふねなみ せいきち、1914年5月28日 - 1943年9月23日)は、昭和時代の大相撲力士。浅香山部屋→井筒部屋所属。本名は有川 盛吉。最高位は十両5枚目。 鹿児島県姶良郡隼人町(現霧島市)出身。同郷の横綱であった三代目西ノ海の浅香山部屋に入門。1933年1月初土俵を踏む。間もなく師匠が亡くなり、井筒部屋に移籍する。1940年1月十両昇進。連続5場所その地位にあったが、1942年5月に幕下に落ちてから休場続きで、三段目まで落ちた1943年9月23日、現役のまま死去した。 錦江洋→三船浪→三舩浪
田坂 勝彦(たさか かつひこ、1914年5月28日 - 19… 田坂 勝彦(たさか かつひこ、1914年5月28日 - 1979年9月20日)は、日本の映画監督。広島県豊田郡沼田東村(三原市沼田東町)出身。兄は映画監督の田坂具隆。 尾道中学校(現広島県立尾道北高等学校)卒業後、百貨店勤務を経て、1937年に『明治一代女』のヒットで日活多摩川撮影所へ復帰した兄・具隆を追うように、日活京都撮影所監督部に入る。1942年に大映に移籍し、1952年に長谷川一夫主演の「勘太郎月夜唄」で監督デビュー。文芸作品を得意としていた兄とは違い、娯楽時代劇を多く撮った。 1964年の「夕日と拳銃」からテレビドラマの演出を手がけ、1965年に大映を退社。中小企業の経営の傍ら、1976年まで「銭形平次」「大岡越前」「水戸黄門」「伝七捕物帖(中村梅之助版)」など、テレビ時代劇の監督ローテーションに入っていた。
猪飼道夫(いかい みちお、1913年5月28日 - 1972… 猪飼道夫(いかい みちお、1913年5月28日 - 1972年1月3日)は、日本の運動生理学者。 愛知県出身。東京帝国大学医学部医学科卒。 1945年11月「頸反射の研究」で医学博士。 1950年お茶の水女子大学教授。東京大学医学部助教授を経て、1957年東大教育学部体育学科主任教授。 1958年から1年間米国に留学し、業績を挙げた。運動生理学の権威で1967年には国際体育会議の副会長も務めた。 1962年トレッドミル(自動式無限走行盤)を日本で初めて設置した。59歳で在任中に没。
井元 正流(いのもと まさる、1913年(大正2年)5月28… 井元 正流(いのもと まさる、1913年(大正2年)5月28日 - 2008年(平成20年)7月8日)は、昭和時代の政治家。医師。鹿児島県西之表市長。 西之表市出身。井元出千代・ヨ子の三男。1936年(昭和11年)東京医学専門学校卒業。 駿河台病院、立川飛行機病院に勤務。1943年(昭和18年)5月27日に応召され、近衛騎兵連隊附軍医となる。 1945年(昭和21年)9月6日をもって応召を終える。1946年(昭和21年)2月11日、西之表市に井元医院を開業。1951年(昭和26年)年4月23日から1955年(昭和30年)4月29日まで西之表町議会議員。1961年(昭和36年)12月23日から(昭和47年)1月12日まで西之表市教育委員会委員長。
徳田 白楊 (とくだ はくよう、本名:森下文夫、1911年5… 徳田 白楊 (とくだ はくよう、本名:森下文夫、1911年5月28日 - 1933年1月19日)は、昭和初期のアララギ派の歌人である。アララギ派の天才と呼ばれ将来を有望されていたが、夭折した。 1911年(明治44年)5月28日、大分県大野郡上緒方村(現・豊後大野市緒方町)に森下虎三郎の二男として生まれる。 1927年(昭和2年)、旧制竹田中学(現・大分県立竹田高等学校)在学中に16歳で肋膜炎を患い、休学を余儀なくされる。1929年(昭和4年)、竹田市の教会でキリスト教の洗礼を受ける。大分新聞(現・大分合同新聞)に短歌を投稿したところ選者の土屋文明が「宝玉的天才歌人」と呼んで高く評価し、重い病気を持っていることを知って新聞に30首一挙掲載を行う。
賀川 滋子(かがわ しげこ、1911年〈明治44年〉5月28… 賀川 滋子(かがわ しげこ、1911年〈明治44年〉5月28日 - )は、日本の産婦人科医、内科医、スーパーセンテナリアン。奈良県大和郡山市在住の長寿の女性。 江戸時代から続く医者の家の生まれ。93歳で死去した産婦人科医の叔父は80歳を過ぎても診察を行っていた。 郡山高等女子学校(現・奈良県立郡山高校)卒業を経て、1934年(昭和9年)3月 、大阪女子高等医学専門学校(現:関西医科大学)卒業。1934年(昭和9年)4月からは大阪市立南市民病院(現:大阪公立大学医学部附属病院)産婦人科で勤務、1936年(昭和11年)4月からは同病院内科で勤務した。1937年(昭和12年)7月に開業を果たした。 太平洋戦争中は大阪市内の病院にも勤務し、86歳まで現役の医師として勤めた。
佐々 久(さっさ ひさし、1911年5月28日 - 1999… 佐々 久(さっさ ひさし、1911年5月28日 - 1999年7月8日)は、日本の西洋史学者、教育者。熊本学園大学名誉教授。朝鮮京城府大和町生まれ。京都帝国大学文学部史学科卒業後、京城の高等女学校で教員生活を始める。第二次世界大戦後は父の故郷である熊本県で熊本師範学校教授、熊本短期大学・熊本商科大学(いずれも現・熊本学園大学)教授、熊本商科大学付属高校の校長などを務めた。1983年、勲四等旭日小綬章受章。 1911年(明治44年)5月28日、朝鮮京城府大和町に佐々正之(まさし)・トキ夫妻の四男として生まれる。兄3人、弟1人、妹2人の7人きょうだいだった。父・正之は熊本藩士・佐々陸助(むつすけ)の四男として幕末の熊本に生まれたが、結婚後に京城に移ってジャーナリストなどを務めており、久を含む7人きょうだいは皆京城で生まれた。
沖ツ海 福雄(おきつうみ ふくお、1910年5月28日 - … 沖ツ海 福雄(おきつうみ ふくお、1910年5月28日 - 1933年9月30日)は、福岡県宗像郡(現:福岡県宗像市)出身で若藤部屋に所属した大相撲力士。本名は北城戸 福松(きたじょうと ふくまつ)。最高位は東関脇。 1910年5月28日に福岡県宗像郡(現:福岡県宗像市)で生まれる。千田川部屋(大坂相撲)に入門するが龍神事件で師匠が廃業したため、1924年5月場所から東京市内の若藤部屋に移籍した。当初は上ヶ汐の四股名だったが、1926年5月場所より沖ツ海と改名した。1931年1月場所で新入幕を果たすと、この年は1月と5月の東京場所で5勝6敗と負け越したが、3月場所は8勝3敗、10月場所は7勝4敗と勝ち越して番付を上げた。
辻野 久憲(つじの ひさのり、1909年5月28日 - 19… 辻野 久憲(つじの ひさのり、1909年5月28日 - 1937年9月9日)は、日本の翻訳家、文芸評論家、随筆家、編集者。 第二次『四季』同人。その他、『詩と詩論』『コギト』『創造』などの雑誌に小論や随筆を寄稿した。 京都府舞鶴市生まれ。舞鶴憲兵分隊内の官舎で誕生。1916年、台湾の台中尋常高等小学校尋常科入学。基隆小学校、神戸小学校、伊丹小学校、伊丹中学校を経て、1929年、第三高等学校文科丙類を卒業。1932年、東京帝国大学仏蘭西文学科卒業。同年、書肆第一書房に就職。 『詩・現実』に参加し、1930年から1931年に伊藤整・永松定とジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を翻訳するかたわら、第一書房『セルパン』編集長。
西 亦次郎(にし またじろう、1909年5月28日 - 19… 西 亦次郎(にし またじろう、1909年5月28日 - 1974年11月13日)は、福岡県出身の実業家。元西鉄ライオンズオーナー・社長。日本プロ野球(日本野球機構)におけるドラフト制度の生みの親と言われる。 旧制福岡中学校(現:福岡県立福岡高等学校)、福岡高等学校 (旧制)を経て、1930年九州帝国大学法文学部卒業。西日本鉄道の前身会社の九州電気軌道に入社。小倉営業所長、東京出張所長、西鉄本社運輸局次長、小倉支社副支配人となり、戦前のプロ野球チーム・西鉄軍においてはチームと本社間のパイプ役を務めた。戦後の1950年、前年暮れに創立したばかりの西鉄クリッパース(翌1951年、西日本パイレーツを吸収し西鉄ライオンズに改称)オーナーに就任。
戸田 春子(とだ はるこ、1908年5月28日 - 没年不詳… 戸田 春子(とだ はるこ、1908年5月28日 - 没年不詳)は、日本の女優。本名同じ。 茨城県出身。出生は栃木県。 旧制佐藤高等女学校(現在の女子美術大学付属高等学校・中学校)卒業。 1927年に日本映画俳優学校卒業。同年2月、日活大将軍撮影所に入社。現代劇部に所属し、軽喜劇などで三枚目を務めたほか、母親役で出演した。興亜映画を経て、1942年、松竹太秦撮影所所属。1945年、東宝入社。1948年にフリーランスとなり、三元プロ、三木事務所を経て、1968年、天地プロ所属。その後、たつみプロに所属していた。 戦後は山本薩夫監督や今井正監督らの独立プロ映画や東映映画を中心に出演し、脇役、老け役で活躍した。
坂口 昇(さかぐち のぼる、明治40年(1907年)5月28… 坂口 昇(さかぐち のぼる、明治40年(1907年)5月28日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。米子市会議員を務めた。 実業家2代坂口平兵衛の義弟。 昭和5年(1930年)、東京帝国大学法学部卒業。日本製糸株式会社の取締役を経て、戦時中に三菱軽合金株式会社の資材課長に就いていたが、坂口合名会社を設立し、代表社員となる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
浜井 信三(はまい しんぞう、1905年(明治38年)5月2… 浜井 信三(はまい しんぞう、1905年(明治38年)5月28日 - 1968年(昭和43年)2月26日)は、日本の政治家、初代の公選広島市長(在任期間・1947年 - 1955年、1959年 - 1967年。渡辺忠雄市長を1期挟み通算4期市長を務めた)。濱井信三とも(胸像の銘文では濵井)。一貫して核兵器の全面禁止を訴え、広島の父、または原爆市長と称される。 広島平和記念都市建設法の成立に力を注ぎ、広島市中区中島町に平和を祈念する公園(広島平和記念公園)の建設、同じく市中心部への幅員100m道路(平和大通り)の建設を打ちだし、現在の広島市の街並みの基礎を造った。
中島 親孝(なかじま ちかたか、1905年(明治38年)5月… 中島 親孝(なかじま ちかたか、1905年(明治38年)5月28日 - 1992年(平成4年)5月31日)は、日本の海軍軍人。海兵54期。最終階級は海軍中佐。
阿部 定(あべ さだ、1905年〈明治38年〉5月28日 -… 阿部 定(あべ さだ、1905年〈明治38年〉5月28日 - 没年不明)は、1936年5月に愛人を殺害し、切断した性器を持ち去って大きな話題となった事件(阿部定事件)で知られる女性。 定は畳職、阿部重吉・カツ夫妻の四女として東京市神田区新銀町(現在の東京都千代田区神田多町2丁目)に生まれる。屋号は「相模屋」、江戸時代から数えて4代目の古い畳屋で、弟子や職人が出入りする裕福な家だった。父親の重吉は働き者で常時5、6人、多い時は10人から15人の職人を使っていた。母カツの乳の出が悪かったため、間もなく近所の家に里子に遣られ、約1年の後その里親が鎌倉に移転することになり、「毎日顔が見られなくては困る」というので引き取ったという。
杉浦 彦衛(すぎうら ひこえ、1904年(明治37年)5月2… 杉浦 彦衛(すぎうら ひこえ、1904年(明治37年)5月28日 - 1980年(昭和55年)9月13日)は、日本の政治家。愛知県安城市長(3期)、愛知県議会議員(2期)、安城町議会議員(安城市議会議員)(1期)などを歴任した。位階は従五位。 愛知県出身。福釜信用組合の前身である報恩社の設立者、杉浦彦次(ひこじ)の長男として生まれた。愛知県立安城農林高等学校卒業。1929年(昭和4年)3月、東京農業大学農学部卒業。 アメリカ合衆国農務省昆虫局嘱託、全国販売農業協同組合連合会(全販連。全国農業協同組合連合会の前身)の農畜特産課長などを務め、戦時中は海軍省兵備局からバンコクに派遣され、農作物の現地指導にあたった。
草地 貞吾(くさち ていご、1904年(明治37年)5月28… 草地 貞吾(くさち ていご、1904年(明治37年)5月28日 - 2001年(平成13年)11月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は大佐。 旧制大分県立宇佐中学校出身。陸軍士官学校第39期を卒業し、同期生の末松太平歩兵少尉とともに青森を衛戍地とする歩兵第5連隊に配属される。1936年(昭和11年)に末松歩兵大尉は、二・二六事件に連座している。 著名な同期生は、終戦時に陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、第53軍参謀の大橋武夫中佐がいる。第106師団では、同期の成富政一大佐(戦死後、進級)と勤務している。 終戦時、満州にあった関東軍の作戦課主任参謀。
野澤 隆一(のざわ りゅういち、1902年〈明治35年〉5月… 野澤 隆一(のざわ りゅういち、1902年〈明治35年〉5月28日 - 1991年〈平成3年〉3月31日)は、日本のジャーナリスト、実業家。信越放送代表取締役社長、共同テレビジョンニュース社(現・共同テレビジョン)代表取締役社長を務めた。 長野県上伊那郡伊那富村(現・辰野町)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、第二高等学校を経て、1927年東京帝国大学経済学部卒業。 毎日新聞社入社。東京大学総長小野塚喜平次に懇望され東京大学学生課に勤務し東京大学新聞社を創設、主幹を務めた。小平権一のもとで大政翼賛会企画部長を務め、日本出版会理事、日本印刷工業会専務理事を経て、1951年信越放送の設立に参画し東京支社長、1955年同社代表取締役社長。
稲本 早苗(いなもと さなえ、1900年(明治33年)5月2… 稲本 早苗(いなもと さなえ、1900年(明治33年)5月28日 ‐ 1977年(昭和52年)1月21日) は、昭和期の醸造家、実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県越智郡岩城村長。 愛媛県越智郡岩城村(現上島町)で、酒造業・稲本幸次郎の長男として生まれた。1922年(大正11年)早稲田大学専門部商科を卒業した。 1929年(昭和4年)岩城村長に就任し1946年(昭和21年)3月まで在任。この間、産業組合の改組、産業振興、道路整備、河川改修、診療所設置などに尽力した。1937年(昭和12年)9月、愛媛県会議員補欠選挙に当選し、1939年(昭和14年)9月に再選され1946年4月まで在任し、同参事会員も務めた。
荻野 一(おぎの はじめ、1898年5月28日 - 1981… 荻野 一(おぎの はじめ、1898年5月28日 - 1981年11月9日)は、昭和期の実業家、警察官。 1924年、関西大学専門部卒業。警察に入り、警察官として勤務し、後に特高警察を経て、太平洋戦争末期に兵庫県警察部の労務係長を辞した。身長180cm、体重95kgの巨体。日本製鉄出入りの運輸会社富島組に入社し常務となる。終戦直後、GHQから、広島県呉市沖の瀬戸内海に堆積していた旧日本陸海軍の砲弾処理作業を請け負い巨額の富を得る。爆弾を2メートル程度の浅瀬に捨て、処理料を得て、再び掘り出して火薬を抜き去り、抜け殻をスクラップとして売り払い二重にもうけた。これを元手に解散寸前の山陽製鋼(現・山陽特殊製鋼)を1000万円で買収、1948年社長に就任した。
加藤 謙一(かとう けんいち、1896年〈明治29年〉5月2… 加藤 謙一(かとう けんいち、1896年〈明治29年〉5月28日 - 1975年〈昭和50年〉6月30日)は、昭和期の雑誌編集者。戦前は大日本雄辯會講談社『少年倶楽部』の編集長を務め、戦後は独力で起こした学童社から『漫画少年』を編集・刊行し、多くの漫画家を世に送り出した。国立公文書館館長の加藤丈夫は四男。 1896年、青森県弘前市に生まれる。旧制弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)卒業後、学費の不要な陸軍経理学校への進学を目指し、学科試験は合格したものの体格試験に扁平足という理由で不合格となり、やむなく弘前市立三省尋常小学校で代用教員となる。小学校長の薦めで、当時の青森師範学校(現在の弘前大学教育学部)の二部(夜間部)に1916年に入学。
松岡 運(まつおか はこぶ、1895年(明治28年)5月28… 松岡 運(まつおか はこぶ、1895年(明治28年)5月28日 - 1963年(昭和38年)11月20日)は、日本の政治家、農業経営者。衆議院議員、福岡県嘉穂郡山田町長。 福岡県嘉麻郡熊田村大字上山田(現嘉麻市上山田)で、熊田村長、同村会議員を務めた松岡乙五郎の二男として生まれる。福岡県立福岡農業学校を卒業後、一年志願兵として入営し、その後、陸軍歩兵中尉に進級した。 その後、熊田村会議員、福岡県会議員、同参事会員、同副議長、山田農会長、同農業会長、帝国在郷軍人会分会長、同南嘉穂連合分会分会長、嘉穂郡南部食糧品統制組合理事長などを務めた。1933年5月から1945年2月まで山田町長に在任し、炭鉱最盛期の豊富な税収を将来のため町基本金百万円として積立てることを計画、また、1935年6月の大洪水からの復興、山田川改修工事の実施、学校の改築、道路整備などに尽力した。
後藤 真太郎(ごとう しんたろう、1894年5月28日 - … 後藤 真太郎(ごとう しんたろう、1894年5月28日 - 1954年1月27日)は、日本の出版・編集者、座右宝刊行会社長。
三尾 良次郎(みお りょうじろう、1894年(明治27年)5… 三尾 良次郎(みお りょうじろう、1894年(明治27年)5月28日 - 1978年(昭和53年))は、日本の歴史学者、政治家。 宮崎県日向市生まれ。広島高等師範学校を卒業。京都大学経済学部卒業。中国や台湾に渡り教鞭をとる。終戦後宮崎へ引き揚げる。町長・市長を歴任。日向市名誉市民に選ばれる。 著書に『黒田の家臣物語』『日知屋物語 三尾良次郎作品集』がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
三好萬次(みよし まんじ 1893年5月28日 - 1967… 三好萬次(みよし まんじ 1893年5月28日 - 1967年7月30日)は、日本の実業家で近畿日本鉄道株式会社元代表取締役会長、近畿車輛株式会社取締役。京都府出身。 1915年(大正4年)、関西大学専門部法律学科在学中に大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)に入社。会計課長から総務部長を経て、1934年(昭和9年)には常務取締役、3年後専務取締役に就任。1944年(昭和19年)には常任監査役となるが、1947年(昭和22年)、公職追放令により同社を退職。1951年(昭和26年)、公職追放解除となり、再び近畿日本鉄道取締役に就任。1954年(昭和29年)には同社取締役会長に選ばれた。1960年(昭和35年)には関西大学第四代理事長に就任した。
菊田 多利男(きくた たりお、1893年5月28日 - 19… 菊田 多利男(きくた たりお、1893年5月28日 - 1963年12月17日)は、日本の冶金学者。元日立製作所中央研究所所長。元日本金属学会会長。帝国学士院賞受賞。 宮城県仙台市出身。1920年東北帝国大学理学部物理学科卒業。1926年東北帝国大学理学博士。1933年戸畑鋳物(のちの日立金属)入社。1940年帝国学士院賞受賞。1948年日立製作所常務。1951年日立製作所中央研究所所長。1959年日本金属学会会長。日立化工社長、日本学術会議会員を歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岸井 寿郎(きしい としろう、1891年5月28日 - 19… 岸井 寿郎(きしい としろう、1891年5月28日 - 1970年10月1日 )は、日本の実業家、政治家。 元衆議院議員(通算1期)。岸井成格(毎日新聞特別編集委員)の実父。 香川県豊田郡常磐村(現 観音寺市村黒町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。『連盟を脱退すべし』『満洲の我移民村』等の著書を刊行。 1917年(大正6年)東京帝国大学卒業。満洲旅行、司法官試補を経て、1919年(大正8年)11月に大阪毎日新聞入社、東京日日新聞社に勤務する。 1924年(大正13年)同社印刷部長に昇進。創立以来、社会教育協会評議員として参加。1927年(昭和2年)より1年4ヶ月間、欧米各国を視察。
中村 孝次郎(なかむら こうじろう、1891年〈明治24年〉… 中村 孝次郎(なかむら こうじろう、1891年〈明治24年〉5月28日 - 1968年〈昭和43年〉11月17日)は、日本の大蔵官僚。 長野県上水内郡の松本家に生まれ、中村みねの養子となった。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格。大蔵属、副司税官、品川税務署長、税関事務官、大阪税関監視部長・総務課長、横浜税関総務課長、門司税関監視部長・総務課長を務めた。1933年(昭和8年)、関東庁事務官となり、財務局経理課長、財務課長を歴任。さらに札幌税務監督局長、神戸税関長、大蔵省為替局長、同資金局長を務めた。 退官後、北支那開発株式会社理事・経理部長、同副総裁を歴任した。
西岡 竹次郎(にしおか たけじろう、Takejiro Nis… 西岡 竹次郎(にしおか たけじろう、Takejiro Nishioka、1890年〈明治23年〉5月28日 - 1958年〈昭和33年〉1月14日)は、日本の政治家、実業家。西岡伊三次の養子。長崎県知事や戦前から戦後にかけ長崎民友新聞社長を務めた。位階は正四位。勲二等瑞宝章。 長崎市出身。1916年(大正5年)に早稲田大学法学部を卒業すると、普通選挙運動に関わり1921年(大正10年)からヨーロッパへ外遊。1924年(大正13年)に帰国すると同年5月の総選挙に中立候補として出馬し水産大学の誘致・総合大学の設置・国立博物館の建設等の6大政策を掲げたが、憲政会の対立候補だった本田恒之がそれを利益誘導として西岡を告訴したものの、結果的に本田・則元卯太郎(政友本党)と激戦の末に2,385票の最高点で初当選した。
多賀 秀敏(たが ひでとし、1890年(明治23年)5月28… 多賀 秀敏(たが ひでとし、1890年(明治23年)5月28日 - 1934年(昭和15年)7月14日)は、朝鮮総督府官僚。正五位勲六等。 大阪府大阪市出身。1918年(大正7年)、東京外国語学校英語学科を卒業。1921年(大正10年)には京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、翌年に高等試験行政科に合格した。朝鮮総督府属、道警視、咸鏡南道商工課長・審査課長、同水産課試験場長、忠清南道学務課長・土木課長、京畿道学務課長、忠清南道財務部長、慶尚北道財務部長、大邱府尹、光州税務監督局長などを歴任した。 1934年(昭和15年)7月14日、病気療養中に大阪市の大阪帝国大学医学部附属医院で死去、44歳。同年5月中旬より入院していた。
北澤 敬二郎(きたざわけいじろう、1889年(明治22年)5… 北澤 敬二郎(きたざわけいじろう、1889年(明治22年)5月28日 - 1970年(昭和45年)10月25日)昭和期の実業家。住友本社常務理事、大丸社長を務めた。位階は従三位。 山形県米沢市元籠町に於いて、旧米沢藩士で海軍省経理局などの官吏を務めた北沢虎蔵の次男として生まれる。米沢尋常中学興譲館(現・山形県立米沢興譲館高等学校)、一高を経て、1914年に東京帝国大学法科大学を卒業後、住友総本店に入社。アメリカ・プリンストン大学への留学を経て、住友電線支配人、住友倉庫専務、住友生命保険専務を歴任。1931年に住友本社常務理事となる。しかし、敗戦後の1946年に財閥解体で理事を辞任。翌1947年には公職追放の憂き目に遭った。
山本 宣治(やまもと せんじ、1889年(明治22年)5月2… 山本 宣治(やまもと せんじ、1889年(明治22年)5月28日 - 1929年(昭和4年)3月5日)は、日本の戦前の政治家、生物学者。京都府出身。山本宣治を略して山宣(やません)と呼ぶこともある。 1889年、京都府京都市の新京極で、花かんざし屋のワンプライスショップ(今でいうアクセサリー店)を営む山本亀松、多年の一人息子として生まれた。両親は熱心なクリスチャンだった。宣治の名は宣教師の「宣」に因んだ。宣治は厳粛な耶蘇教主義の下に薫陶された。 1901年、神戸中学校に入学したが、身体虚弱のため中退した。両親が彼の養育のために建てた宇治川畔の別荘(後に料理旅館「花やしき浮舟園」に発展)で花づくりをして育った。
吉井義次(よしい よしじ、1888年5月28日 - 1977… 吉井義次(よしい よしじ、1888年5月28日 - 1977年2月4日)は、日本の植物学者。 1888年(明治21年)5月28日、生まれる。東京帝国大学卒。1911年(明治44年)、井上禧之助らと共に帝国議会貴族院に「史蹟及天然記念物保存ニ関スル建議」を提出、採択された。 1919年(大正8年)、内務省史蹟名勝天然記念物考査員になる。 1922年(大正11年)、東京帝国大学の講師になり、1926年(大正15年)、欧米へ留学する。 1928年(昭和3年)、東北帝国大学教授になるも、1950年(昭和25年)退官。教授としての活動中、野外実験所の設置や、八甲田山高山植物実験所の設置を行った。他、機関紙「生態学研究」の発行にも携わる。
若山 喜志子(わかやま きしこ、1888年5月28日 - 1… 若山 喜志子(わかやま きしこ、1888年5月28日 - 1968年8月19日)は、明治期から昭和期の歌人。若山牧水の妻。旧姓は太田、本名は喜志。妹の潮みどりも歌人。 1888年(明治21年)、長野県東筑摩郡広丘村吉田(現・塩尻市)生まれ。松本高等女学校への進学を希望したが、母が病弱だったため断念した。高等小学校から補習科を終えて、島木赤彦が校長を務める広丘尋常高等小学校(現・塩尻市立広丘小学校)に裁縫教師として奉職。しかし赤彦からの影響は特に受けていない。「女子文壇」に投稿するようになったことで今井邦子や生田花世らを知り、横瀬夜雨から高い評価を受ける。22歳の頃、信濃毎日新聞歌壇に投稿し、選者の太田水穂に認められる。
丸山 千代(まるやま ちよ、1887年5月28日 - 196… 丸山 千代(まるやま ちよ、1887年5月28日 - 1967年4月11日)は、日本の聾唖教育者、社会事業家、ソーシャルワークの実践者。丸山ちよと表記されることがある。 山形県米沢市で、丸山孝一郎の四女として生まれる。姉と妹が聾唖者であったことから聾唖教育を志し、山形県立米沢女学校(現在の山形県立米沢東高等学校)を経て日本女子大学校に進学した。1909年3月に同校を卒業した後は、教職に就くも病気のため郷里に戻った。その後、父親の死を契機に上京する。日本女子大学校の同窓会組織である桜楓会が運営を模索していた託児所経営に、1913年から主任保母として参加し、貧しい婦人の労働機会を確保するとともにその子弟が教育を受ける機会を広げた。
佐藤 三郎(さとう さぶろう、1881年5月28日 - 19… 佐藤 三郎(さとう さぶろう、1881年5月28日 - 1964年10月5日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県南置賜郡三沢村赤芝(現・米沢市)出身。佐藤丑松の三男として生れる。米沢尋常中学興譲館を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。陸軍戸山学校付などを経て、1912年11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 陸士教官、参謀本部員、支那公使館付武官補佐官、参謀本部員、兼陸大教官、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部課長、欧州出張、歩兵第46連隊長、第3師団司令部付(済南駐在)などを歴任し、1929年8月、陸軍少将に進級。
安東 昌喬(あんどう まさたか、1880年(明治13年)5月… 安東 昌喬(あんどう まさたか、1880年(明治13年)5月28日 - 1956年(昭和31年)4月7日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 岐阜県士族安東吉右衛門の五男として生れる。札幌中学校を経て、1900年12月、海軍兵学校(28期)を卒業し、1902年12月、海軍少尉任官。日露戦争では第15艇隊付として出征し、日本海海戦では「常磐」分隊長であった。砲術練習所で学んだ後、呉海兵団分隊長、「筑波」分隊長、「卯月」艦長、「日進」砲術長、呉鎮守府参謀などを経て、1911年5月、海軍大学校(甲種9期)を首席で卒業した。 イギリス駐在、「香取」砲術長、軍令部参謀、軍令部第1班第1課部員などを歴任。
桝田 與三郎(桝田 与三郎、ますだ よさぶろう、1880年〈… 桝田 與三郎(桝田 与三郎、ますだ よさぶろう、1880年〈明治13年〉5月28日 - 1951年〈昭和26年〉9月30日)は、日本の商人(生糸繭屑物商)、愛媛県多額納税者、実業家、政治家。愛媛県会議員、大洲町会議員。桝田製糸社長。愛媛県製糸業組合長。大洲銀行取締役、同監査役。旧姓・井上。 愛媛県西宇和郡三机村大字大江(後瀬戸町、現伊方町)出身。父・井上安次郎、母・シカの三男。大江小学校卒業後大洲に来て、呉服雑貨商・河野真太郎方に入り、商いについて学んだ。1899年、桝田家に養子入籍。1901年、生糸・繭屑物売買業を開始し、後桝田商店として蚕糸業に足を踏みこんだ。 1915年、若宮に製糸工場を開設、「伊予生糸」と称する生糸を生産した。
三潴 信三(みつま しんぞうまたは みずま しんぞう、187… 三潴 信三(みつま しんぞうまたは みずま しんぞう、1879年(明治12年)5月28日 - 1937年(昭和12年)3月27日)は、日本の法学者。専門はドイツ法、民法。東京帝国大学法学部教授などを務めた。 1879年(明治12年)5月28日、東京湯島に生まれる。獨逸学協会中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学独逸法兼修に入学、1905年(明治38年)7月に卒業した。 東京帝国大学卒業の前から早稲田大学講師としてドイツ語を教え、卒業後の1907年(明治40年)には早稲田大学の派遣でドイツ、イタリアに留学し、民法や法理学を学んだ。1909年(明治42年)に帰国、早稲田大学教授に就任。この時期には複数のドイツ語文法書を出版している。
佐藤 丑次郎(さとう うしじろう、1877年〈明治10年〉5… 佐藤 丑次郎(さとう うしじろう、1877年〈明治10年〉5月28日 - 1940年〈昭和15年〉3月16日)は、日本の法学者・政治学者。専門は憲法学、政治学。山形県出身。佐藤功の父、さとうまきこの祖父。 山形県鶴岡市生まれ。荘内中学を経て、1899年(明治32年)に第二高等学校 (旧制)を、1902年(明治35年)に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。その後、京都帝大の副手、助手を経て、1906年(明治39年)に助教授(政治学・政治史担当)。1908年(明治41年)にドイツ、フランス、イギリスに留学。1911(明治43年)、京都帝国大学法科大学教授。1914年(大正3年)、澤柳事件で京都帝国大学法科大学を辞職し、中京法律学校(現:中京法律専門学校)講師に転じる。
朝吹 常吉(あさぶき つねきち、1877年(明治10年)5月… 朝吹 常吉(あさぶき つねきち、1877年(明治10年)5月28日 - 1955年(昭和30年)3月10日)は、日本の実業家。元三越社長。元帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長。 長男朝吹英一は木琴(シロフォン)の研究家で日本木琴協会(現 日本マリンバ協会)創立者、三男朝吹三吉は元慶應義塾大学法学部教授(フランス文学)、長女朝吹登水子は翻訳家として知られる。フランス文学者で詩人の朝吹亮二は孫。小説家で第144回芥川龍之介賞を受賞した朝吹真理子は曾孫。2001年、ノーベル化学賞を受賞した野依良治とは親族関係である。 実業家朝吹英二の子として東京府(現・東京都)に生まれた。慶應義塾幼稚舎を経て1893年12月、慶應義塾正科を卒業。
志田 順(しだ とし、1876年5月28日 - 1936年7… 志田 順(しだ とし、1876年5月28日 - 1936年7月19日)は、日本の地球科学者。理学博士(京都帝国大学)。 千葉県佐倉出身。1895年千葉県立千葉中学校卒業。1901年東京帝国大学理科大学物理学科卒業。1909年に第一高等学校教授を経て、京都帝国大学理工科大学に着任。理学博士(京都帝国大学)。京都帝国大学名誉教授。 地震のP波初動が地表面を押し引きする向きの地理的な分布、初動分布が四象限分布することを発見した。また、和達清夫よりも早く、深発地震の存在を指摘した(観測結果から存在を完全に証明したのは和達)。また、月と太陽の引力による地球の弾性変形(地球潮汐)に関する研究でも世界の先端を走り、「志田数」にその名を残した。
神野 三郎(かみの さぶろう、1875年(明治8年)5月28… 神野 三郎(かみの さぶろう、1875年(明治8年)5月28日 - 1961年(昭和36年)4月30日)は、愛知県西春日井郡清洲村(現・清須市)出身の実業家。養父である初代神野金之助の下で神野新田の開拓責任者となり、また1943年(昭和18年)に設立された中部瓦斯の初代社長を務めた。豊橋市名誉市民。出生名は竹田 三郎(たけだ さぶろう)。 改称については明らかとなる資料は見つかって無く諸説あるが、書籍の神野三郎伝に神野三郎の昭和34・35年頃の談話として、改称について次のような記述がある。 「最初は、確かに、ジンノだった。新田もジンノ新田だったが、大正の始め頃本家が、カミノと改めたので、わしのほうも、自然と、カミノになったのだ。
紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月2… 紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月22日) - 1936年(昭和11年)4月15日)は、日本の美術学者、美術評論家、早稲田大学講師・教授、本願寺文学寮講師、女子美術学校講師、日本美術学校校長。号は星峰(星峯)。 1872年5月28日(明治5年4月22日)、元津軽藩お抱えの能楽師(喜多流)である紀淑真の子として、東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれる。 東京専門学校普通科(1888年9月入学、1890年7年卒業)、東京専門学校文学科(1890年9月入学、1893年7月卒業)を経て、1893年(明治26年)9月から本願寺文学寮講師となり、国文学・英文学を担当する。1896年(明治29年)4月から早稲田尋常中学校教員、同年9月から東京専門学校講師となる。
井上 友一(いのうえ ともいち、明治4年4月10日(1871… 井上 友一(いのうえ ともいち、明治4年4月10日(1871年5月28日) - 大正8年(1919年)6月12日)は、東京府知事を務めた、地方行政を専門とした内務官僚。号は明府。弟に、陸軍中将・井上一次。 救済事業の精神は、救貧より防貧、さらに教化が重要であると考え、感化救済事業や地方改良運動などを推進した。
相沢 菊太郎(あいざわ きくたろう、1866年5月28日(慶… 相沢 菊太郎(あいざわ きくたろう、1866年5月28日(慶応2年4月14日) - 1962年(昭和37年)4月26日)は、明治から大正期の日本の政治家、神奈川県高座郡相原村村長。 神奈川県高座郡相原村(現:相模原市相原)に生まれる。1908年(明治41年)より地元相原村の村長となり、横浜鉄道(現:JR横浜線)の橋本駅開設や相模農蚕学校(現:神奈川県立相原高等学校)の誘致に尽力した。 菊太郎は1885年(明治18年)から死の直前までの78年間に渡り日々の生活を記録した日記を残した。昭和時代になり、子の相沢栄久の編集により、1965年4月に「相澤日記」として明治18年から明治25年の記述が刊行された。
宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日… 宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日(慶応2年4月14日) - 1940年(昭和15年)3月1日)は、日本の実業家、酪農家。北海道で初めて民間によるバターの製造を行ったほか、日本最初の酪農組合「札幌牛乳搾乳業組合」を組織し、雪印乳業(現:雪印メグミルク)の土台を築いた。これらの業績から「北海道酪農の父」と称されている。 豊後の下毛郡大幡村(現在の大分県中津市)の養蚕家であった武原文平、母ヤスの二男として生まれる。生家に伝わる家系図によれば、当初は仙二郎と命名されたが、戸籍簿に誤って「仙太郎」と記入されてしまい、これが本名となった。後に母方の親戚・宇都宮武平の養嗣子となる。
岡 烈(おか れつ、元治元年4月23日(1864年5月28日… 岡 烈(おか れつ、元治元年4月23日(1864年5月28日) - 大正6年(1917年)5月14日)は、日本の実業家。 長門国厚狭郡(現在の山口県)出身。 吉田松陰の松下村塾に学んだ後、上京して、明治法律学校(現明治大学)に学ぶ。卒業後、大蔵省税務官に任官。実業界に転向し、当時の大財閥であった鈴木商店に入り、支配人に就任(1906年)。更に、東京瓦斯(現東京ガス)の創立に携わり、設立と共に常務取締役に就任。1912年には帝国麦酒(現サッポロビール)を設立し、社長に就任。後に大正生命保険設立にも関与し、同社専務に就任。他にも、京王電鉄など数社の取締役、監査役を務めた。 1917年、死去。52歳没。
高野 源之助(たかの げんのすけ、1848年5月28日(嘉永… 高野 源之助(たかの げんのすけ、1848年5月28日(嘉永元年4月26日)- 1907年(明治40年)6月15日)は、幕末の会津藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 陸奥国会津郡若松城下で会津藩士の息子として生まれる。漢学、武術、英蘭学を修めた。戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦い、東北の戦闘に従軍。 1873年、小樽に渡り船舶回漕業を営んだ。1890年8月、小樽総代人に選出された。その後、小樽区会議員、北海道会議員を務めた。1903年3月、第8回衆議院議員総選挙に北海道庁小樽区から出馬し当選。交友倶楽部に所属し衆議院議員を一期務めた。 その他、小樽商業会議所会頭、北海道拓殖銀行創立委員、小樽米穀外五品取引所監査役、小樽銀行取締役、北海木材 (株) 監査役、北海生命保険 (株) 社長、北海道鉄道 (株) 取締役、大同生命保険 (株) 取締役、小樽電燈合資会社執行社員なども務めた。
境川 浪右衛門(さかいがわ なみえもん、1841年5月28日… 境川 浪右衛門(さかいがわ なみえもん、1841年5月28日(天保12年4月8日) - 1887年(明治20年)9月16日)は、下総国葛飾郡(現・千葉県市川市高谷)出身で境川部屋に所属した大相撲力士。第14代横綱。本名は宇田川 政吉(うだがわ せいきち(まさきち))で、のちに市川 政吉(いちかわ - )から市川 浪右衛門( - なみえもん)。 1841年に下総国葛飾郡(現:千葉県市川市)で製塩業を営む家に三男として生まれる。13歳で江戸・新川(現:東京都中央区新川)にあった酒問屋「小西屋」に奉公へ出たが、四斗樽を楽々と運ぶ政吉を見た相撲好きの主人が力士転向を熱心に勧め、境川部屋に入門、1857年11月場所で初土俵を踏んだ。