小沼 勝(こぬま まさる、1937年12月30日 - 202… 小沼 勝(こぬま まさる、1937年12月30日 - 2023年1月22日)は、日本の映画監督。 1937年12月30日、北海道小樽市に生まれる。都立新宿高等学校を経て1961年、日本大学芸術学部映画学科を卒業し、日活に助監督として入社する。 1971年、『花芯の誘い』で映画監督デビューを果たす。以後、40本以上の日活ロマンポルノの作品を手がけた。耽美的な作風でSM物を得意とする。 1974年『花と蛇』での原作改変が原作者の団鬼六を激怒させ、その後は団原作ではないSM映画を数多く撮った。数年後には団とも和解して団原作映画も撮るようになっている。 ロマンポルノ以外では日本テレビ系『火曜サスペンス劇場』など、サスペンスドラマ作品の演出を手掛けたこともあった。
林 務(はやし つとむ、1936年12月30日 - )は、日… 林 務(はやし つとむ、1936年12月30日 - )は、日本の水泳指導者。 1936年、東京生まれ。1959年、明治大学商学部卒業。明治大学水泳部の監督を務めた他、アトランタオリンピック競泳競技監督、 ドーハ・アジア大会日本選手団団長、2004年アテネオリンピック日本選手団副団長などを務めた。また、日本オリンピック委員会副会長、日本水泳連盟副会長などに就任した。
吉岡 晋也(よしおか しんや、1936年12月30日 - 2… 吉岡 晋也(よしおか しんや、1936年12月30日 - 2005年12月31日)は、日本のアナウンサー。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
粕谷 宏紀(かすや ひろき、1936年12月30日 - 20… 粕谷 宏紀(かすや ひろき、1936年12月30日 - 2011年8月19日)は、日本の近世国文学者。専門は狂歌。 東京生まれ。1960年日本大学文理学部国文科卒、1963年同大学院文学研究科修士課程修了。日大教育制度研究所研究員、1970年高知大学教育学部助教授、教授、1983年日本大学文理学部教授。1986年『石川雅望研究』で角川源義賞、1989年同書で日大文学博士。2007年定年退職。 日本シャーロック・ホームズ・クラブ会員(ジュリア・カールスン・ローゼンブラットほか『シャーロック・ホームズとお食事を』、野呂有子と監修・監訳、東京堂出版 2006)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
伊藤 芳明(いとう よしあき、1933年12月30日 - )… 伊藤 芳明(いとう よしあき、1933年12月30日 - )は、静岡県浜名郡北浜村貴布祢(現:浜松市浜名区)出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ。 中学時代に野球を始めるが、肩が強く左投げだったため投手となる。興誠商業高校では2年生からエースとなり、3年次の1951年の夏の甲子園の静岡県予選の前には新聞に「ダークホース」と書かれたが、1回戦で静岡市立高校に0-1で敗れた。 1952年に中央大学へ進学すると、1年の春季から東都大学リーグで登板。2年次の1953年春季のリーグでは5勝を挙げて中央大学の全勝優勝に貢献する。同年の大学選手権でも勝ち上がるが、決勝で立大に敗れ準優勝となった。しかし、同年の夏場に背中の筋肉を痛める。
中西 治(なかにし おさむ、1932年(昭和7年)12月30… 中西 治(なかにし おさむ、1932年(昭和7年)12月30日 - 2020年4月12日)は、大阪市で生まれた歴史研究者。ソヴェト史、米ソ関係史、国際関係論等の研究を踏まえて宇宙学(Universal Studies)の創造をめざしていた。特定非営利活動法人地球宇宙平和研究所理事長、株式会社中西節子記念会代表取締役、中国の武漢大学客座教授、上海師範大学顧問教授、北京大学日本研究中心特約研究員であった。 2020年4月12日、横浜市の老人福祉施設にて死去したことが、同じく創価大学名誉教授の中野毅のTwitterにて告知された。同ツイートによれば、2019年に脳梗塞を患っていたという。87歳没。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
開高 健(かいこう たけし、かいこう けん、1930年〈昭和… 開高 健(かいこう たけし、かいこう けん、1930年〈昭和5年〉12月30日 - 1989年〈平成元年〉12月9日)は、日本の小説家。組織と人間の問題を扱った『パニック』『裸の王様』や、ベトナム戦争取材の体験をもとにした『輝ける闇』などがある。また趣味の釣りについて世界各地での体験を綴ったエッセイ『フィッシュ・オン』『オーパ!』などでも知られる。 大阪市天王寺区で父・正義、母・文子との間に長男として生まれる。7歳の時に住吉区北田辺(現・東住吉区)へ転居。子供時代は、紙芝居と本が好きで、江戸川乱歩、山中峯太郎、海野十三などを読んでいた。1943年4月に旧制天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)へ入学、勤労動員の合間に内外の文学作品を乱読した。
三谷 好憲(みたに よしのり、1928年12月30日 - 1… 三谷 好憲(みたに よしのり、1928年12月30日 - 1992年4月30日)は、宗教哲学者。 1928年、島根県大田市の寺院で生まれる。一家は朝鮮に渡り、布教活動に従事する。1945年、旧制京城帝国大学予科へ入学。敗戦を元山で迎え、北緯38度線を突破して帰国した。 帰国後は、旧制龍谷大学予科に入学し、1949年に卒業。1953年、京都帝国大学文学部哲学科を卒業し、同大学大学院哲学科に進んだ(1962年まで在学)。1953年より大阪市立汎愛高等学校で英語教師をつとめ、1963年からは大阪市立高等学校で英語教師をつとめた。1966年に京都産業大学講師となった。1972年より助教授、1978年より教授。
金平 聖之助(かねひら しょうのすけ、1928年12月30日… 金平 聖之助(かねひら しょうのすけ、1928年12月30日 - 2019年11月7日)は、日本の編集者、出版学者。小学館国際室長、大妻女子大学短期大学部教授などを歴任した。 京都府生まれ。早稲田大学第一高等学院を経て早稲田大学教育学部英語教育科卒業。小学館に入り、『めばえ』『よいこ』『幼稚園』編集長、国際室長、1988年大妻女子大学短期大学部教授。日本出版学会常任理事。アメリカ出版研究会主宰。 死後、蔵書は金平文庫として白百合女子大学に収められた。
因藤 壽(いんどう ひさし、1925年12月30日 - 20… 因藤 壽(いんどう ひさし、1925年12月30日 - 2009年8月8日)は北海道稚内市生まれの現代美術家。 モノクローム絵画が特徴。 1942年、北海道庁立苫小牧工業学校本科電気科(現在の北海道苫小牧工業高等学校)を卒業。卒業後、北海道大学超短波研究所に勤務。 1947年頃より仕事の傍ら、クレヨン画を始める。その後、喜茂別や倶知安の中学校の教員に転身。道内の美術展に積極的に出品する。1950年第2回読売アンデパンダン展に出品。以後も継続して出品。 1963年、大宮市(現さいたま市)に移り、首都圏の画廊で個展を開催。その後も精力的に制作活動に取り組んだ。 2009年8月8日、他界。 北海道立旭川美術館、北海道立近代美術館、埼玉県立近代美術館などが作品を所蔵する。
上原 和(うえはら かず、1924年12月30日 - 201… 上原 和(うえはら かず、1924年12月30日 - 2017年2月9日)は、日本の美術史家。成城大学名誉教授。専門は美学美術史。 日本領台湾台中市生まれ。九州大学法文学部哲学科美学美術史専攻卒業、同大学院文学研究科特別研究生、前期課程修了。宮崎大学学芸学部専任講師、成城大学文芸学部専任講師・助教授・教授・文芸学部長・大学院文学研究科長を経て1995年定年退任、名誉教授。 玉虫厨子研究をライフワークとし、この創作を飛鳥時代とし、法隆寺はその基礎の上に建てられたとの説を唱え村田治郎らと論争を行った。また、西域からギリシャまでの建築に関心を寄せ、詩人的な筆致による文章を書く。 1975年『斑鳩の白い道の上に』で亀井勝一郎賞受賞。
溝畑 茂(みぞはた しげる、Sigeru Mizohata、… 溝畑 茂(みぞはた しげる、Sigeru Mizohata、1924年12月30日 - 2002年6月25日)は、日本の数学者。専門は偏微分方程式。京都大学名誉教授。 1924年(大正13年)大阪府で生まれる。1944年(昭和19年)に第三高等学校理科、1947年(昭和22年)に京都帝国大学理学部を卒業。師は岡村博教授。1953年(昭和28年)京都大学理学部助教授に就任。 1954年(昭和29年)から1957年(昭和32年)にかけて、フランス政府給費留学生としてフランス、次いでアメリカ合衆国に留学した。以降、多くの論文をフランス語で執筆するなど、留学時の影響は大きい。1961年(昭和36年)京都大学教授に就任。
北条明直(ほうじょう あきなお、1923年12月30日ー20… 北条明直(ほうじょう あきなお、1923年12月30日ー2004年3月3日)は、日本の華道家。 山梨県大月市出身。都留中学校卒、1947年國學院大學文学部哲学科卒。文部省社会教育局芸術課に勤務、退職後はドキュメンタリーテレビ番組の構成作家、記録映画の監督として活動し、生け花界では初の文部大臣招待日本華道展、日花展の担当官として、生け花にかかわる。1965年跡見学園女子大学助教授、1971年いけばな造形大学を創設し学長。1999年日本フラワーデザイン専門学校校長。
水谷 光男(みずたに みつお、1923年(大正12年)12月… 水谷 光男(みずたに みつお、1923年(大正12年)12月30日 - 2016年(平成28年)8月28日)は、三重県伊勢市長(5期)。 三重県桑名郡多度町(現・桑名市)出身。1946年、國學院大學国史学科卒。同年、三重県庁に入る。県庁では知事公室県民室広報係長、県民室長補佐、県民室長、東京事務所長、農林水産、生活環境、福祉の各部次長、北勢県民局長を経て、1980年、伊勢市助役となる。1984年、伊勢市長に当選、2004年まで4期20年務めた。2005年旭日中綬章を受章。2013年瑞宝単光章を受章。2016年8月に死去した。死去後、死没日をもって正八位から従四位に叙された。
中江 要介(なかえ ようすけ、1922年12月30日 - 2… 中江 要介(なかえ ようすけ、1922年12月30日 - 2014年3月6日)は、日本の外交官。駐中華人民共和国大使などを務めた。位階は従三位。 1922年(大正11年)、大阪府生まれ。北野中学校、旧制第三高等学校を経て、京都大学法学部卒業、外務省に入省。チャイナ・スクールと誤解されることが多いが、実際はフランス語研修を受けたフレンチ・スクールで、条約局と国連外交が長い。 若い頃は演劇青年で学徒動員の経験をもち、「霞完(かすみ かん)」のペンネームでバレエの台本を執筆しており、『いのち』は東京とベオグラードにおいて、『動と静』は東京とカイロにおいて、『蕩々たる一衣帯水』は東京と北京において、それぞれ上演された。
中鉢 正美(ちゅうばち まさよし、1920年12月30日 -… 中鉢 正美(ちゅうばち まさよし、1920年12月30日 - 2013年7月11日)は、日本の経済学者、経済心理学研究者、慶應義塾大学名誉教授。 「生活」をキーワードに、心理学・生態学の視点を加えて人間の経済行動を学際的に研究し、「生活構造論」の方法を確立する傍ら、行政の各種諮問委員として幅広くフィールドワークを行い、日本の社会政策、社会保障の充実に寄与した。元(財)地域開発研究所所長。第4回今和次郎賞受賞。 (「回想・林試の森」(1995)P.203~205より作成) 趣味は、動物生態・能面鑑賞。 カトリック目黒教会(聖アンセルモ教会)の教会員であり、自身の洗礼名もアンセルモ(アンセルムス)。
閔 庚植(ミン・ギョンシク、朝鮮語: 민경식、1920年12… 閔 庚植(ミン・ギョンシク、朝鮮語: 민경식、1920年12月30日 - 2000年12月22日)は、満洲国のジャーナリスト、大韓民国の政治家、実業家。制憲韓国国会議員。 本貫は驪興閔氏。号は三隠(サムン、三隱/삼은)。 日本統治時代の京畿道龍仁郡(現・龍仁市器興区)出身。日本大学芸術科卒。満州日報記者、大韓青年団員を経て、1948年の初代総選挙に大韓独立促成国民会の候補として龍仁選挙区より出馬し、国会議員に当選した。その後は韓国ポプラ社長を務め、1960年代には全国でポプラの植樹運動を推進した。2000年に死去、享年80。
西村 進一(にしむら しんいち、1919年12月30日 - … 西村 進一(にしむら しんいち、1919年12月30日 - 2006年11月13日)は、京都府出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。旧姓は木村。
巖谷 大四(いわや だいし、1915年12月30日 - 20… 巖谷 大四(いわや だいし、1915年12月30日 - 2006年9月6日)は、日本の文芸評論家。 童話作家・巖谷小波の四男として東京に生まれる。早稲田大学英文科卒。卒業後、菊池寛の世話により社団法人日本文藝家協会書記となる。 戦時中日本文学報国会で事務をとる。1945年の終戦後、高見順の誘いで鎌倉文庫の編集者となる。1949年秋に鎌倉文庫がつぶれ、1950年1月に河出書房に入社して「現代日本小説大系」の編集者となる。1950-56年『文藝』編集長。『週刊読書人』編集長を務め、1965年から文筆活動に入る。 父の評伝『波の跫音』がある。1989年勲三等瑞宝章受章、1991年大衆文学研究賞受賞。墓所は多磨霊園。
原 忠實(忠実、はら ただみ、1913年(大正2年)12月3… 原 忠實(忠実、はら ただみ、1913年(大正2年)12月30日 - 1990年(平成2年)2月13日)は、昭和時代の政治家。佐賀県鳥栖市長。鳥栖市名誉市民。 佐賀県三養基郡鳥栖町(現鳥栖市)出身。1936年(昭和11年)明治大学専門部政治経済学科を卒業する。鳥栖町商工課長、1950年(昭和25年)鳥栖町収入役、1965年(昭和40年)鳥栖市助役を経て、1970年(昭和45年)1月、鳥栖市長に就任した。1973年(昭和48年)「みどりの産業都市」を理想像とした鳥栖市総合計画および1981年(昭和56年)「みどりと若さあふれ心ゆたかな鳥栖をめざして」を基本理念とした第2次鳥栖市総合計画を策定し、市政に尽くした。
澤野 久雄(さわの ひさお、1912年12月30日 - 19… 澤野 久雄(さわの ひさお、1912年12月30日 - 1992年12月17日)は、埼玉県浦和町(現・さいたま市)出身の小説家。 埼玉県浦和町(現・さいたま市)生まれ。埼玉県立浦和高等学校を経て、早稲田大学国文科卒。都新聞(現東京新聞)に勤務した後、1940年、朝日新聞社に入社、49年に同人誌『文学雑誌』に発表した「挽歌」が芥川賞候補になり、川端康成の恩顧を受ける。1951年、「方舟追放」で再度芥川賞候補、52年に「夜の河」を発表、三度芥川賞候補となるが落選、しかし同作は1956年に山本富士子主演で映画化され、これが代表作となった。1955年、「未知の人」で四たび芥川賞候補、遂に受賞には至らなかった。
市田 左右一(いちだ そういち、1910年12月30日 – … 市田 左右一(いちだ そういち、1910年12月30日 – 1986年6月30日)は、日本の実業家。国際サッカー連盟 (FIFA) 常任理事を日本人としてはじめて務めた。著名な切手収集家でもあり、日本の手彫切手の収集・研究に努めるとともに、多くの著作を通じてその成果を海外に紹介した。 1910年(明治43年)、市田幸四郎・四寿子夫妻の長男としてとして、東京に生まれる。父は日本におけるオフセット印刷の創始者と呼ばれる人物。母はキリスト教伝道者金森通倫の娘。市田家は神戸元町通で著名な写真館「市田写真館」を営んでおり、幸四郎は明治初年に神戸で活動した写真家市田左右太(1843年 - 1896年)から数えて3代目にあたる(ただし市田家は男子に恵まれず代々を養子で継いでおり、幸四郎も養子である)。
松井 魁(まつい いさお、1910年12月30日 - 198… 松井 魁(まつい いさお、1910年12月30日 - 1987年8月19日)は、日本の魚類学者。 山口県新南陽市(現・周南市)生まれ。1934年水産講習所(現・東京海洋大学)増殖学科卒。水産講習所助教授、1946年第二水産講習所教授、1952年「日本産鰻の形態及び生態に関する研究」で京都大学理学博士、下関水産科学賞受賞、水産学会賞、1953年小野臨湖実験場長、1954年日本農学会賞受賞、1971年水産大学校長、1975年下関水族館顧問。1976年宇部短期大学学長。1983年勲三等旭日中綬章受勲、主として鰻を研究し、随筆も書いた。
小竹 豊治(こたけ とよじ、1906年12月30日 - 19… 小竹 豊治(こたけ とよじ、1906年12月30日 - 1990年2月11日)は日本の経済学者。証券経済論。
伊藤 よし子(いとう よしこ、1905年12月30日 - 1… 伊藤 よし子(いとう よしこ、1905年12月30日 - 1991年3月24日)は、日本の政治家。日本社会党の衆議院議員(2期)。 急逝した夫の伊藤好道の地盤を継いで政治家の道を歩んだ。衆議院議員、愛知県会議員を務めた本多鋼治は義兄。 愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市昭和町4丁目)に雑貨商の成瀬保吉の三女として生まれる。旧姓は成瀬。挙母第一尋常小学校(現・豊田市立挙母小学校)から、「山の学校」と呼ばれた挙母尋常高等小学校(現・豊田市立童子山小学校)に進んだ。『改造』『解放』など大正デモクラシーを支えた雑誌に親しむ。当時、挙母町には書店は一軒しかなく、そこから西加茂郡全域に毎月配本される4冊の『改造』のうち1冊を伊藤がとっていたという。
清水 末雄(しみず すえお、1905年12月30日 - 19… 清水 末雄(しみず すえお、1905年12月30日 - 1993年6月21日)は、日本の経営者。奈良県出身。 1928年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に朝日新聞社に入社。 1960年1月に神奈川新聞社に転じ、1969年1月には社長に就任した。1981年1月に会長に就任し、1982年1月に取締役相談役を経て、1984年1月には相談役に就任した。 1980年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1993年6月21日脳血栓のために死去。87歳没。
天知 俊一(あまち しゅんいち、1903年12月30日 - … 天知 俊一(あまち しゅんいち、1903年12月30日 - 1976年3月12日)は、兵庫県西宮市出身の元野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 旧制甲陽中学校2年時に攻玉社中学校へ転校した後、明治大学予科へ進学するが、当時の中学校3年修了では資格が無いとして下野中学校へ再入学させられる。下野中で中学校4年修了となり、晴れて明治大学予科進学の資格を得られ、再度進学する。天知の学生生活は波乱に富んだものであったが、明大時代は捕手で、後に毎日オリオンズで監督を務める湯浅禎夫とバッテリーを組んだ。また、大学野球の審判を充実させる必要性を感じていた一学年先輩の二出川延明から野球のルールについての難問が毎朝10問、「宿題」として天知に出され、練習開始時間までに全問解く訓練を受けた。
加賀山 之雄(かがやま ゆきお、1902年(明治35年)12… 加賀山 之雄(かがやま ゆきお、1902年(明治35年)12月30日 - 1970年(昭和45年)8月7日)は、昭和期の鉄道官僚、政治家。位階は正三位。 第2代日本国有鉄道総裁(在任1949年-1951年)、参議院議員。 福井県大野郡大野町(現在の大野市)生まれ。大野中学、一高を経て、1927年(昭和2年)東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業し、鉄道省に入省した。 1932年(昭和7年)10月17日に十河信二の娘と結婚。 その後、運輸省鉄道総局長官などを経て1949年(昭和24年)6月1日の国鉄発足時、副総裁に就任する。当初は総裁の予定だったが、GHQが「戦中にベルリンの滞在が長かった」として難色を示し、アメリカ視察の経験があり、GHQが米国通と評価していた下山定則が初代総裁となった。
大川 博(おおかわ ひろし、1896年〈明治29年〉12月3… 大川 博(おおかわ ひろし、1896年〈明治29年〉12月30日 - 1971年〈昭和46年〉8月17日)は、日本の実業家、映画製作者、プロ野球オーナー。東映初代社長。日本教育テレビ (NET) 初代会長、2代目社長。 7人兄姉の末っ子として、新潟県西蒲原郡加奈居村大字羽黒(松長村、燕市の一部、中之口村を経て、現在の新潟市西蒲区)に生まれる。先祖は戦国時代の勇将、村上義清の家臣だったといい、江戸時代には庄屋、明治期には戸長(村長)を務め、村では名家として扱われていた。しかし、父が理財に疎かったこともあって家計は次第に苦しくなった。 1913年(大正2年)、15歳の時、上京して上野の岩倉鉄道学校に入学した。
竹腰 俊蔵(たけごし/たけこし しゅんぞう、1895年〈明治… 竹腰 俊蔵(たけごし/たけこし しゅんぞう、1895年〈明治28年〉12月30日 - 1963年〈昭和38年〉3月28日)は、日本の教員、政治家。群馬県知事(公選第4代)を務めた。群馬県群馬郡箕輪村(のちの箕郷町、現在は高崎市)出身。参議院議員を務めた竹腰徳蔵は実兄であり、群馬県知事に立候補していた兄の急死により補充立候補して当選を果たした。 1895年(明治28年)12月30日、群馬県群馬郡箕輪村西明屋(現・高崎市箕郷町西明屋)の酒造業者・竹腰徳蔵(先代)の次男として生まれる。1909年(明治42年)箕輪小学校を卒業後、1914年(大正3年)高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業。1915年(大正4年)に群馬県師範学校本科二部(現在の群馬大学教育学部)を卒業した。
高田 蒔(たかた まき、1892年〈明治25年〉12月30日… 高田 蒔(たかた まき、1892年〈明治25年〉12月30日 - 1978年〈昭和53年〉3月4日)は、日本の生化学者、内科学者、内科医。医学博士。東邦大学名誉教授、アメリカ国際アカデミー名誉会員。雅号は日庵主人。 新潟県新潟市学校町通(現 新潟市中央区学校町通)の新潟県直税署職員・高田善一郎の四男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)9月に仙台医学専門学校医学科に入学、1913年(大正2年)8月に東京府北豊島郡巣鴨町巣鴨(現 東京都豊島区巣鴨)の溝口伯爵家家扶・高田政敏の養子になった。 1915年(大正4年)9月に東北帝国大学医学専門部医学科を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
秋山 門造(あきやま もんぞう、1891年(明治24年)12… 秋山 門造(あきやま もんぞう、1891年(明治24年)12月30日 - 1944年(昭和19年)2月2日)は、日本の海軍軍人。海兵42期。太平洋戦争におけるクェゼリンの戦いで司令官として戦死した。死後特進により最終階級は海軍中将。 香川県豊田郡柞田村(現 観音寺市柞田町)出身。農家の秋山清五郎、イセの五男として生まれる。 中農だったが、厳しい家庭で、当時は機械化されておらず秋山も小さい頃から農業を手伝い、海兵時代も休暇の度に帰宅して農作業をしていた。 旧制香川県立三豊中学校(第7回)を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第26期)を受験し、双方に合格している。1911年(明治44年)9月11日海軍兵学校(第42期)に入校。
田中 好(たなか こう、1886年〈明治19年〉12月30日… 田中 好(たなか こう、1886年〈明治19年〉12月30日 - 1956年〈昭和31年〉5月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(当選4回)。日本の道路法の基礎を築いた。 京都府船井郡園部町(現・南丹市)生まれ。京都府士族・田中勝次の長男。幼くして父を失う。1910年、立命館大学専門部法律科卒業。京都府庁、兵庫県庁、内務省等に勤務した。その後、臨時震災救護事務局事務官兼鉄道省事務官をつとめた。一貫して道路・交通・治水行政に従事した。 1936年には第19回衆議院議員総選挙に立憲政友会より立候補し初当選。その後も公職追放の期間を挟んで戦前2回(京都府第2区)、戦後1回(京都2区)、計4期に渡り国政に携わるなど活躍。
東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12… 東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の40代内閣総理大臣、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。戦後、A級戦犯として死刑判決を受け処刑された。 陸軍次官(第25代)、陸軍航空総監(初代)、陸軍大臣(第29代)、参謀総長(第16代)、大政翼賛会総裁(第2代)、内務大臣(第57代)、外務大臣(第59代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第24代)、軍需大臣(初代)、関東軍参謀長(第10代)を歴任した。 父は岩手県(盛岡市)出身である東條英教(陸軍中将)、妻は東條かつ子。次男は東條輝雄(三菱自動車工業社長・会長)、三男は東條敏夫(空将補)。
田寺 俊信(たでら としのぶ、1882年(明治15年)12月… 田寺 俊信(たでら としのぶ、1882年(明治15年)12月30日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、姫路市長。族籍は兵庫県平民。 兵庫県飾西郡今宿村(飾磨郡高岡村を経て現姫路市)出身。兵庫県議会議長・田寺敬信の長男。第三高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し鳥取県属となる。 以後、鳥取県試補、同県八頭郡長、同理事官・庶務課長、高知県理事官・教育課長、同地方課長・視学官、奈良県理事官・教育課長・視学官、奈良県警察部長、長野県警察部長、香川県内務部長、埼玉県内務部長、愛知県警察部長などを歴任。
永田 稠(ながた しげし、1881年12月30日 - 197… 永田 稠(ながた しげし、1881年12月30日 - 1973年1月2日)は、日本の移民事業家。 長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)出身。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)卒業。玉川尋常高等小学校(現・茅野市立玉川小学校)の代用教員を務める。当時の校長は島木赤彦が務めていた。東京専門学校(現・早稲田大学)予科政治科中退。1906年北海道へ移住。1907年渡米青年を援助する日本力行会に入会。1908年渡米し1913年帰国後、日本力行会第2代会長に就任。1922年信濃海外協会設立に参画し理事、日本力行会海外学校設立。1924年ブラジルアリアンサ移住地建設に尽力。1933年関東軍移民部の嘱託として満州の現地視察を行い、ブラジル経験者ならではの批判を込めた報告を関東軍に提出。
小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月… 小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 - 1964年(昭和39年)4月16日)は、明治・大正・昭和時代の洋画家・日本画家・歌人・随筆家。本名は国太郎、別号に未醒、放菴。 長男は東洋美術研究者の小杉一雄で、放庵の著作を多数編纂している。二男はインダストリアルデザイナーの小杉二郎。俳優の小杉義男は甥。 栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。父は国学者でもあり、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)にかけては日光町長も務めていた。 1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となるが、五百城に無断で出奔、上京して白馬会洋画研究所に入る。
森 清(もり きよし、1875年(明治8年)12月30日 -… 森 清(もり きよし、1875年(明治8年)12月30日 - 1928年(昭和13年)1月3日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 在清国全権公使・森有礼の長男として生まれる。父の影響で「英気溌溂」なことも時代を送るが、父の死去に伴い1889年(明治22年)4月4日、子爵を襲爵。 学習院を経て、1901年(明治34年)7月、東京帝国大学文科大学英文学科を優等で卒業し、恩賜の銀時計を授けられた。 1908年(明治41年)3月7日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで在任した。
岡田 宇之助(おかだ うのすけ、1872年12月30日(明治… 岡田 宇之助(おかだ うのすけ、1872年12月30日(明治5年12月1日) - 1949年(昭和24年)10月17日)は、日本の内務官僚。官選県知事。旧姓・原。 兵庫県出身。原丈之助の弟として生まれ、岡田家の養子となる。第三高等学校を卒業。1896年、東京法学院(現・中央大学)を卒業。1897年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し内務属となる。 以後、島根県参事官、長野県参事官、同事務官・第一部長兼第三部長、愛媛県事務官、同内務部長などを歴任。 1912年12月、茨城県知事に就任。青柳橋の架橋、水海道分署新築、御大礼記念教育館建設、県道整備計画の策定などに尽力。1917年1月、佐賀県知事に転任。
山本 昇雲(やまもと しょううん、明治3年11月9日〈187… 山本 昇雲(やまもと しょううん、明治3年11月9日〈1870年12月30日〉 - 昭和40年〈1965年〉5月10日)は、明治時代から大正時代にかけて制作した浮世絵師で日本画家、石版画家で報道画家。名は茂三郎といい、昇雲のほか小斎、松谷と号す。 出身は高知県長岡郡後免町(現・南国市)、生家の古物商は江戸時代、旧土佐藩の郷士であった。二男として生まれた山本茂三郎が6歳頃から師事した柳本圭吾(号「洞素」)は駿河台狩野家・狩野洞白の門人で、元は山内家の御抱絵師も勤めた絵師である。9歳になる明治12年(1879年)に、柳本の斡旋で狩野永岳門人である河田小龍にも絵を学び、入門3年目に小龍から「小斎」の画号を受けた。
竹内 十次郎(たけのうち じゅうじろう、1869年12月30… 竹内 十次郎(たけのうち じゅうじろう、1869年12月30日〈明治2年11月28日〉 - 1937年〈昭和12年〉5月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍主計少監(主計少佐)。公金費消の嫌疑により免官となった人物である。大仏次郎の小説『帰郷』のモデル。 三重県出身。父は旧桑名藩士、兄は陸軍二等兵から中佐まで昇進した。三田英学校から海軍主計学校に進み、13名の同期生のうち首席・恩賜で卒業。日清戦争では旗艦「松島」の主計官として黄海海戦に参戦した。その後横須賀司計部計算官、「赤城」主計長などを勤め、造船造兵監督官としてイギリス駐在となり、現金前渡官吏を兼務。日本が発注する軍艦について代金支払の実務を担うこととなった。
大砲 万右エ門(おおづつ まんえもん、1869年12月30日… 大砲 万右エ門(おおづつ まんえもん、1869年12月30日(明治2年11月28日) - 1918年(大正7年)5月27日)は、岩代国刈田郡三沢村(現:宮城県白石市大鷹沢三沢)出身で尾車部屋に所属した大相撲力士。第18代横綱。本名は角張 萬次(かくばり まんじ)。 明治維新直後の1869年に農家の二男として生まれる。子供の時から身体が大きく怪力で、13歳で四斗俵を左右に軽々と提げて歩いた。この恵まれた体格を持つ少年の噂を聞いた伊勢ノ海部屋の元力士の夫人に見出され、1884年の春に上京して尾車部屋へ入門した。同年5月場所、故郷に因んだ「三沢滝(みさわたき)」の四股名で初土俵を踏んだ。入門当初は「コンニャク」と揶揄されるほど足腰が弱く、初土俵から4場所連続で前相撲から抜けられなかったが、1886年6月場所、師匠の初代尾車が勧進元になった際に、ようやくお情け(いわゆる"お蔭出世")で序ノ口昇進を認めてもらい、1887年1月場所に序ノ口に上がった。
桑田 熊蔵(くわだ くまぞう、1868年12月30日(明治元… 桑田 熊蔵(くわだ くまぞう、1868年12月30日(明治元年11月17日) - 1932年(昭和7年)12月10日)は、日本の法学者。学位は法学博士。貴族院多額納税者議員。工場法実現のために尽力した。 現在の鳥取県倉吉市に大地主・桑田藤十郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。さらに大学院に進み、労働問題を専攻する。1896年(明治29年)金井延らとともに社会政策学会を起こし、社会問題研究のためにヨーロッパに留学。帰国後は労働者の実態調査に従事し、1904年(明治37年)法学博士。 1920年(大正9年)中央大学教授。1930年(昭和5年)中央大学経済学部長等を歴任した。
瀬戸山 清彦(せとやま きよひこ、1867年12月30日(慶… 瀬戸山 清彦(せとやま きよひこ、1867年12月30日(慶応3年12月5日)- 1944年(昭和19年)6月30日)は、日本の医師、政治家、衆議院議員(1期)。 日向国諸県郡、のちの宮崎県西諸県郡加久藤町(現えびの市)で生まれた。1890年(明治23年)第三高等中学校医学部(現:京都大学医学部)卒。陸軍一等軍医(大尉相当官)となり、日清、日露の両戦争に従軍する。その後は医業に従事し、日向銀行頭取を務めた。 1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙において宮崎県から立憲政友会公認で立候補したが落選した。8月に塚本常弥の死去により繰り上げ当選となった。衆議院議員を1期務め、1915年(大正4年)第12回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
氏家 謙曹(うじいえ けんそう、1866年12月30日(慶応… 氏家 謙曹(うじいえ けんそう、1866年12月30日(慶応2年11月24日) - 1939年10月25日)は、日本、清国の教育者。 氏家作造の長男として岩手県水沢に生まれる。1893年東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。 1893年福岡県立尋常中学修猷館教諭を皮切りに、山口高等中学校教授、第二高等学校教授、宮城県立仙台第一中学校校長を歴任し、1904年再び第二高等学校教授となる。 1904年、在官のまま、清国政府の招聘に応じて京師大学堂(現・北京大学)師範館教習に就任し、1909年帰国したが、官を辞し、再び清国政府の招聘に応じて河南省開封府の優級師範学堂教習となる。 1911年早稲田大学理工科教授および評議員に就任し、早稲田高等学院教授・理科主任も務め、物理学を講じた。
井手 佐三郎(いで ささぶろう、文久2年11月10日(186… 井手 佐三郎(いで ささぶろう、文久2年11月10日(1862年12月30日) - 大正10年(1921年)5月26日)は、日本の教育者。福岡市長。 筑前国上座郡池田村(現在の福岡県朝倉市)出身。1881年(明治14年)から1884年(明治17年)まで慶應義塾で学んだ。卒業後は時事新報社に勤務したが、教員となり、愛知県中学校、広島県師範学校、徳島県尋常中学校に勤務した。1894年(明治27年)、母校慶應義塾の教師に転じる。1899年(明治32年)、茨城県中学校校長に就任。1904年(明治37年)、岐阜県視学官となり、1909年(明治42年)には長崎県事務官となった。 1914年(大正3年)、福岡市長に選出された。
後藤 安太郎(ごとう やすたろう、1859年12月30日〈安… 後藤 安太郎(ごとう やすたろう、1859年12月30日〈安政6年12月7日〉 - 1936年〈昭和11年〉10月2日)は、日本の実業家、資産家。財団法人後藤安報恩会(公益財団法人後藤報恩会の前身)初代理事長。族籍は岐阜県平民。 美濃国今尾村(のち岐阜県海津郡今尾町、現・海津市)の百姓、安太郎の長男。1880年、家督を相続し、襲名する。郷里で油雑穀営業に従事する。不動産、米、株と青年時代から利殖に心を砕く。株式仲買業を営む。 会社の重役であり、後藤商事社長、名古屋米穀取引所理事長・同相談役、愛知電気鉄道、名古屋電力各取締役などをつとめる。名古屋商業会議所議員に推される。 趣味は書画。画幅も多く、珍品を蒐集する。
佐藤 三吉(さとう さんきち、1857年12月30日(安政4… 佐藤 三吉(さとう さんきち、1857年12月30日(安政4年11月15日) - 1943年(昭和18年)6月17日)は明治〜昭和期の外科医、医学博士、貴族院議員。美濃国大垣藩(現岐阜県大垣市)出身。 東京帝国大学教授、東京帝国大学医科大付属医院長、東京帝国大学医科大学長として、同じ岐阜県出身の青山胤通とともに、日本近代医学の創生期に活躍した。 佐藤三吉は1857年(安政4年)に大垣藩士佐藤只五郎の三男として生まれた。1870年(明治3年)父が死去し、義兄安藤就高の援助を受け上京し勉学の場を与えられた。 妻の滋子(1871年生)は小崎利準の長女。 実弟に東京興信所所長の佐藤正美、興業主の米山米吉がいる。
山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日〈嘉永4… 山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日〈嘉永4年12月8日〉 - 1920年〈大正9年〉5月14日)は、日本の武士(津和野藩士)、明治期の紡績技師・実業家。従五位。 東洋紡(東証プライム)の創業者である。 嘉永4年(1851年)、石見国津和野城下の森町堀内にて津和野藩重臣・清水格亮(大目付、側用人を歴任し、明治維新後は権大参事を務めた)の二男として生まれる。幼名は虎槌または善蔵で、後に丈夫と改めた。4歳の時に同藩士の山辺正義の養子となる。 津和野潘の藩校であった養老館に学んだ後、1870年(明治3年)に藩の奨学制度によって文学修行の命を受け上京。当初は同藩出身の福羽美静の培達塾で学んでいたが、元来洋学を志していたため、西周の育英舎や中村敬宇の英学同人舎に移り英語や洋学を学んだ。
新田 邦光(にった くにてる、文政12年12月5日〈1829… 新田 邦光(にった くにてる、文政12年12月5日〈1829年12月30日〉 - 1902年〈明治35年〉11月25日)は、幕末の志士、明治期の神道家で、神道修成派の教祖。 文政12年12月5日、阿波国美馬郡拝原村(現在の徳島県美馬市)の郷士竹澤平太と母・曾米(田村氏の女)の三男として生まれる。初名は寛三郎。幼少の頃より南朝の英雄・新田義貞の弟脇屋義助の末裔であるという、家に伝わる旧記を読み、勤王を自覚し文武の道に励んだため、7歳にして論語を暗記した。 弘化4年(1847年)、山陰、山陽諸国を巡遊。神道家として、嘉永元年(1848年)20歳の時、布教伝道の志を立てる。これを修成派では立教元年としている。