川村 修(かわむら おさむ、1942年7月31日- )は、日… 川村 修(かわむら おさむ、1942年7月31日- )は、日本の実業家。株式会社シャンソン化粧品代表取締役会長、静岡県バスケットボール協会元会長。 静岡県出身。シャンソン化粧品創業者・川村弘の息子として生まれる。祖父は外科医。静岡県立静岡高等学校を経て、立教大学社会学部に入学。高校では応援団、大学ではゴルフ部に所属。ゴルフトーナメントのキャディも務め、杉原輝雄に付いてコースを回る経験をする。1965年に立教大学を卒業した後、シャンソン化粧品に入社。1967年UCLAビジネスアドミニストレーション課程卒業。1967年シャンソン化粧品副社長、1973年同社社長に就任。 運営する女子バスケットボールチームのシャンソンVマジックは、リーグ優勝16回、皇后杯優勝10回、リーグ戦108連勝という記録を持ち、オリンピックにも選手が出場するなど、日本の女子バスケットボールを牽引してきた。
石立 鉄男(いしだて てつお、1942年7月31日‐2007… 石立 鉄男(いしだて てつお、1942年7月31日‐2007年6月1日)は、日本の俳優。所属事務所は其田事務所、鈴木とし江事務所、アクターズプロモーション、アンクルベイビーに所属していた。本名は同じ。
佐々木 敏(ささき びん、本名:ささき さとし、1942年7… 佐々木 敏(ささき びん、本名:ささき さとし、1942年7月31日 - )は、日本の男性俳優、声優。岩手県出身。
福山 秀敏(ふくやま ひでとし、1942年(昭和17年)7月… 福山 秀敏(ふくやま ひでとし、1942年(昭和17年)7月31日 - )は、日本の物性物理学者。東京理科大学学長特別補佐。東京理科大学理学部第一部応用物理学科嘱託教授。東京大学名誉教授。元国際純粋・応用物理学連合(IUPAP)副会長。日本物理学会名誉会員。
新治 伸治(にいはり しんじ、1941年7月31日 - 20… 新治 伸治(にいはり しんじ、1941年7月31日 - 2004年5月4日)は、日本のプロ野球選手(投手)、実業家。東京大学野球部初のプロ野球選手である。 東京都文京区立第四中学校の1年生の時、東京都中学生による憲法記念野球大会で優勝する。都立小石川高校時代には硬式野球部がなく、軟式野球部にてプレー。3年生のときに東京都少年野球大会で優勝した。 新治は早稲田大学でのプレーを希望して知り合いに相談したところ、早稲田では硬式での経験がないと難しい、東大なら軟式上がりでもレギュラーになれるだろうと言われ、早稲田大学をあきらめ東京大学経済学部を受験し合格。硬式野球部に入部した。東京六大学野球リーグでは1961年春季リーグから8季連続最下位。
蟻川 芳子(ありかわ よしこ、1940年7月31日 - )は… 蟻川 芳子(ありかわ よしこ、1940年7月31日 - )は、日本の化学者。日本女子大学附属中学校・高等学校校長や、日本女子大学学長、学校法人日本女子大学理事長、日本分析化学会副会長などを務めた。 東京都生まれ。1956年日本女子大学附属中学校卒業。1959年日本女子大学附属高等学校卒業。1963年日本女子大学家政学部家政理学科一部卒業。1968年東京工業大学(のちの東京科学大学)大学院理工学研究科化学専攻博士課程修了、理学博士、日本女子大学家政学部専任講師。1975年日本女子大学家政学部助教授。1987年日本女子大学家政学部教授、ウィスコンシン大学ミルウォーキー校客員研究員。1992年日本女子大学理学部教授。
堀 武昭(ほり たけあき、1940年7月31日 - )は日本… 堀 武昭(ほり たけあき、1940年7月31日 - )は日本の作家、人類学者、文学博士。日本ペンクラブ常務理事。 1997年にはチェコのヴァーツラフ・ハヴェル大統領が主宰する「フォーラム2000」財団理事となり、2002年には日本人初の国際ペンクラブ理事に就任した。 横浜市生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、慶應義塾大学大学院博士課程修了。1966年、通商産業省(現・経済産業省)所管の日本貿易振興会(JETRO)に入社、米日財団副理事長、政策研究大学院大学(GRIPS)教授などを経て、シドニー大学に留学。広くオーストラリア、南太平洋諸国、中欧などで活躍。 関東学院大学教授、カレル大学、アングロアメリカン大学客員教授。
相羽 英勝(あいば ひでかつ、1939年〈昭和14年〉7月3… 相羽 英勝(あいば ひでかつ、1939年〈昭和14年〉7月31日 - )は、日本の政治家、元愛知県豊明市長(1期)。旭日双光章受章。 愛知高等学校を経て、1962年愛知学院大学商学部卒。同年愛知トヨタ自動車に入社。のちトヨタ情報システム愛知に転じ、代表取締役社長となる。その傍ら母校の愛知学院大学非常勤講師や愛知県情報サービス産業協会理事、吉池区区長、吉池区青少年健全育成推進委員長、愛知地区少年補導員を務めた。2007年豊明市長選挙に立候補し当選。豊明市長を1期務めた。
岡井 政義(おかい まさよし、1939年7月31日 - )は… 岡井 政義(おかい まさよし、1939年7月31日 - )は、日本の経営者。ゼネラル石油社長と東燃ゼネラル石油会長を務めた。 兵庫県出身。1962年に慶應義塾大学商学部を卒業し、同年4月にゼネラル石油に入社。1984年6月に取締役に就任し、1991年6月に常務、1992年6月に専務を経て、1993年6月には社長に就任。2000年7月から2002年3月までに東燃ゼネラル石油会長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
富島 五郎(とみしま ごろう、1937年7月31日 - 20… 富島 五郎(とみしま ごろう、1937年7月31日 - 2018年12月20日)は、茨城県出身のプロ野球選手。 土浦第三高校では、エースとして1954年秋季関東大会県予選準決勝に進むが、水戸一高に惜敗。高校同期に石上滋夫がいる。 1956年に石上とともに南海ホークスへ入団。1年目から一軍で起用され4勝を挙げるが、その後はやや伸び悩む。1960年にはウエスタン・リーグで防御率1位を記録。1961年にも4勝、1962年には自己最多の40試合に登板するが、1964年限りで引退。引退後は日立電線の土浦工場に勤務した。
金子 晃(かねこ あきら、1937年(昭和12年)7月31日… 金子 晃(かねこ あきら、1937年(昭和12年)7月31日 - )は、日本の会計学者、弁護士、法学博士、慶應義塾大学名誉教授、元会計検査院長(2期)、会計検査院検査官。公認会計士・監査審査会(金融庁)会長。瑞宝大綬章受章。 公共調達と競争政策に関する研究会座長、独占禁止法基本問題懇談会座長代理、社会保険庁の在り方に関する有識者会議座長、経済企画庁国民生活審議会委員、公正取引委員会独占禁止懇話会委員、国民生活センター非常勤理事、再販問題検討小委員会座長、建設業適正取引推進機構内官製談合防止法遵守の手引研究委員会座長、日本証券業協会規律委員会委員等を歴任。
天沢 退二郎(あまざわ たいじろう、1936年7月31日 -… 天沢 退二郎(あまざわ たいじろう、1936年7月31日 - )は、日本の詩人、仏文学者、児童文学作家、翻訳家。宮沢賢治研究者。東京大学文学部仏文科卒業。明治学院大学文学部フランス文学科名誉教授。
伊藤 宏見(いとう ひろみ、1936年7月31日 - 201… 伊藤 宏見(いとう ひろみ、1936年7月31日 - 2019年2月9日)は、日本の英文学者、詩人、歌人、劇作家、比較文化学者、東洋大学名誉教授。 横浜市生れ。1963年早稲田大学第一文学部英文学科卒業、65年同大学院修士課程修了。東京農業大学講師、助教授、東洋大学教授、2007年定年退任、名誉教授。日本歌人クラブ中央幹事。良寛会会長。沙羅短歌会主宰会長。W・B・イェイツ研究が専門。
中原 早苗(なかはら さなえ、1935年7月31日 - 20… 中原 早苗(なかはら さなえ、1935年7月31日 - 2012年5月15日)は、東京市四谷区(現:東京都新宿区)出身の女優。本名:深作 早苗。夫は映画監督の深作欣二、同じく映画監督の深作健太は長男である。 父は戦前東宝で活躍した藤尾純だが、早苗が幼少の頃に家を出てしまい、母で舞台女優だった南部雪枝が1人で育てた。 国本女子高等学校卒業。在学中の1953年に『村八分』(近代映画協会・現代ぷろだくしょん)にて主演級の役でデビュー。現代ぷろだくしょんに入ると、設立メンバーの山村聡の家に住み込んで女優としての所作を学ぶ。『蟹工船』に出演するなど独立プロ系の作品で活躍後、母と知り合いの水の江瀧子にスカウトされ、1955年に日活と契約(年間6本で1本当たり20万円と高額の条件であった)。
福田 昌久(ふくだ まさひさ、1934年7月31日 - 19… 福田 昌久(ふくだ まさひさ、1934年7月31日 - 1988年11月29日)は、福島県いわき市出身のプロ野球選手(投手、外野手)・コーチ・監督、解説者。 磐城高校、常磐炭坑、専修大学を経て、1956年に南海ホークスへ投手として入団。3年目の1958年には外野手へ転向し、主に左腕対策として起用され、1960年には自己最多の6本塁打をマーク。1961年に27試合、1962年には10試合に先発出場を果たす。長打力と強肩が売りで、巨漢で怪力の福田は打撃練習こそ打球が凄まじく、タイヤを叩く打撃練習では軸のなる支柱を折ってしまったりするが、肝心の試合になると「扇風機」と仇名がつくほどカーブが全く打てなかった。
藤田 義明(ふじた よしあき、1932年〈昭和7年〉7月31… 藤田 義明(ふじた よしあき、1932年〈昭和7年〉7月31日 - 2010年 <平成22年> 6月7日)は、日本の政治家。元兵庫県相生市長(2期)。位階は正六位。瑞宝双光章。 現在の兵庫県相生市出身。兵庫県立上郡高等学校卒業。相生市役所に入り、総務、民生経済の各部長を務めた。1988年(昭和63年)3月10日から1992年(平成4年)5月31日まで助役を務めた。 同年、相生市長片山力夫の死去による市長選挙に立候補し、病院長と前市議の2人の新人を破って、初当選する。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:77.89%(前回比:-pts) 同年6月14日に市長に就任した。 1996年(平成8年)の市長選挙に立候補して、元中学校教諭の新人を破って再選を果たした。
根來 泰周(ねごろ やすちか、1932年〈昭和7年〉7月31… 根來 泰周(ねごろ やすちか、1932年〈昭和7年〉7月31日 - 2013年〈平成25年〉11月4日)は、日本の検察官。位階は正三位。 東京高等検察庁検事長を最後に検察官を定年退官した後、弁護士(第一東京弁護士会所属)、公正取引委員会委員長、日本野球機構コミッショナーなどを務めた。 和歌山県和歌山市出身。和歌山県立向陽高等学校、京都大学法学部を卒業。京大在学中に司法試験と国家公務員I種試験に合格、法曹への道を選ぶ。 生家が浄土真宗本願寺派の寺であるため、僧侶の資格も取得している。浄土真宗本願寺派玄妙寺住職、浄土真宗本願寺派特別審事・監正局長を務めた。好きな言葉は親鸞聖人の開いた浄土真宗の教えを漢字四字で表した平生業成という。
堂本 暁子(どうもと あきこ、1932年7月31日 - )は… 堂本 暁子(どうもと あきこ、1932年7月31日 - )は、日本の政治家、ジャーナリスト。
山田 定市(やまだ さだいち、1932年7月31日 - 20… 山田 定市(やまだ さだいち、1932年7月31日 - 2014年1月21日)は、日本の農業経済学者・教育学者だった人物。専門は農業経済学・生活協同組合論・農業協同組合経営論・農業教育論。コープさっぽろの理論的支柱の1人だった。農学博士(北海道大学)。北海道大学名誉教授。旭川市出身 1955年北海道大学農学部卒業(高倉新一郎ゼミ所属)、1961年同大学院農学研究科博士課程修了(恩師:足羽進三郎)。論題は「農産物市場と協同組合」で農学博士。1961年北海道立農業研究所研究員。1962年北海道立総合経済研究所研究員。1963年北海道大学農学部助手。1971年北海道大学教育学部助教授。1982年同教授。
石森 史郎(いしもり ふみお、1931年〈昭和6年〉7月31… 石森 史郎(いしもり ふみお、1931年〈昭和6年〉7月31日 - 2025年〈令和7年〉6月9日)は、日本の脚本家。エ・ネスト所属。北海道羽幌町出身。 別名義に松宮瑩子などがあるほか、資料によっては石森史朗とも表記されている。漫画家の石ノ森章太郎は母方の従兄弟。 北海道留萌高等学校を経て、日本大学芸術学部を卒業した。日大在学中に執筆した『晩鐘』がシナリオ作家協会新人シナリオコンクールに入賞する。大学卒業後の1955年に近畿広告へ入社したが、脚本家を目指すため1959年に退社した。同年、テレビ『ママちょっと来て』で脚本家デビューする。 1963年に日活へ入社し、映画『噂の風来坊』から始まり、『私は泣かない』、『あゝひめゆりの塔』などを執筆。
秦 早穂子(はた さほこ、1931年7月31日 - )は、日… 秦 早穂子(はた さほこ、1931年7月31日 - )は、日本の映画評論家、随筆家。 東京府豊多摩郡渋谷町(現・東京都渋谷区)生まれ。祖父はシンガーミシン極東支配人を務めた秦敏之。秦敏之は日本初の本格的な洋裁学校であるシンガーミシン裁縫女学院を設立し、妻の秦利舞子が初代院長を務めた。ファッションデザイナーの秦万紀子は早穂子の叔母に当たる。 女子学院高等学校卒業。1957年、雑誌社の特派員という名目でフランスに渡る。帰国後、映画輸入業の新外映に入社。1958年、新外映の買い付け担当としてフランスへ渡る。 1959年半ばに帰国。同年5月、フランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』がカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞し、7月にはクロード・シャブロル監督の『いとこ同志』がベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した。
内田 栄一(うちだ えいいち、1930年7月31日 - 19… 内田 栄一(うちだ えいいち、1930年7月31日 - 1994年3月27日)は、日本の小説家、劇作家、放送作家、脚本家、演出家、映画監督。 岡山県出身。実家は岡山市内の古書店。鎌倉アカデミア中退。 若い頃には安部公房に師事。新日本文学会に入会して小説家としてデビューする。1974年には金子正次らとともに、劇団東京ザットマンを旗揚げするなど、アングラ演劇の活動も盛んに行っていた。 1930年(昭和5年)、岡山市に生まれる。生家は老舗の古書店。1945年、中学三年生のとき、高射砲の弾を作る工場に動員される。岡山大空襲で家を失い、愛媛県などに疎開。15歳の夏に終戦。戦後は、高校に通いながら、詩作と小説執筆に熱中。
平野 清(ひらの きよし、1929年7月31日 - 2002… 平野 清(ひらの きよし、1929年7月31日 - 2002年5月18日)は、日本の政治家。位階は正五位。元参院議員(1期)。元サラリーマン新党代表。 東京・板橋出身。神奈川大学法経学部卒。1953年に読売新聞社入社。整理部次長を経て、1986年に第14回参議院議員通常選挙で参議院議員に当選。1989年サラリーマン新党代表に就任。翌年自由民主党に移籍。1991年、環境政務次官就任。1992年の第16回参議院議員通常選挙で移籍がひびいて落選、政界引退。 1999年、勲三等旭日中綬章を受章。2002年5月18日、胆のうがんのため死去。正五位叙勲。 『現代政治家人名事典』(日外アソシエーツ編集・発行、1999年) この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
天羽 浩平(あもう こうへい、1928年(昭和3年)7月31… 天羽 浩平(あもう こうへい、1928年(昭和3年)7月31日 - )は、日本の計算機科学者、実業家。 外交官の父・天羽英二の三男として関東州・大連で生まれる。 東京市青南尋常小学校、旧制東京都立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、東京大学工学部電気工学科へ入学する。1952年(昭和27年)同大卒業後、東京芝浦電気(現・東芝)に入社。同年より第一回フルブライト留学生としてスタンフォード大学大学院電子工学科にてコンピュータを研究し工学博士の学位を取得する。1956年(昭和31年)に帰国し、コンピュータの開発、設計から商品化や事業化に取り組む。その後は、日電東芝情報システム常務取締役、東芝取締役・常務取締役、日本オリベッティ副社長、日本サン・マイクロシステムズ代表取締役社長、米国サン・マイクロシステムズ副社長、外資系情報産業研究会会長、日本サン・マイクロシステムズ代表取締役会長、会津リエゾンオフィサー、日本ピープルソフト監査役などを歴任した。
阪本 道隆(さかもと みちたか 1927年7月31日 - 2… 阪本 道隆(さかもと みちたか 1927年7月31日 - 2017年4月19日)は、日本の銀行家。元南都銀行頭取。元奈良商工会議所会頭。奈良県橿原市出身。 1953年名古屋大学経済学部卒業後、南都銀行入行。支店長、人事部長等の要職を経験した後、常務取締役、専務取締役を経て、頭取及び会長を歴任。銀行業務を通じ地域の発展に寄与した。また、数多くの公職を務め、2003年には旭日中綬章を受章。
金岡 秀友(かなおか しゅうゆう、1927年7月31日 - … 金岡 秀友(かなおか しゅうゆう、1927年7月31日 - 2009年7月23日)は、日本の仏教学者、真言宗僧侶、東洋大学名誉教授。文学博士。妙楽寺(新義真言宗系、八王子市)住職。 1927年、埼玉県で生まれた。東京大学文学部印度哲学科で学び、1952年に卒業。 卒業後は東洋大学文学部助教授となり、在職中にセイロン大学の招聘を受けた。1962年、学位論文『ミーマーンサー・スートラ研究』を東洋大学に提出して文学博士の学位を取得。後に東洋大学文学部教授に昇格。1992年に東洋大学を定年退任し、名誉教授となった。2009年7月23日、肺炎のため遷化。
美能 幸三(みの こうぞう、1926年7月31日 - 201… 美能 幸三(みの こうぞう、1926年7月31日 - 2010年3月17日)は、日本の実業家。元ヤクザ。広島県呉市の美能組初代組長。広島県呉市出身。広島抗争の中心人物の一人であり、後にそのいきさつを描いた『仁義なき戦い』の原型となる獄中手記を書いた人物である。詳細は広島抗争、『仁義なき戦い』の項を参照。 大正15年(1926年)7月31日、広島県呉市に生まれる。父親は退役軍人で海軍工場に勤め、母親は小学校の教員だった。呉第二中学校(現在の広島県立呉宮原高等学校)2年で退学し、毎日ぶらぶらとしていたが、昭和17年(1942年)に大日本帝国海軍に志願し大竹海兵団に入団、ラバウル、硫黄島を転戦しトラック島で終戦を迎え、浦賀に上陸し昭和20年(1945年)11月26日、復員。
黒川 俊雄(くろかわ としお、1923年7月31日-2013… 黒川 俊雄(くろかわ としお、1923年7月31日-2013年3月19日)は、日本の経済学者。
鍛冶 千鶴子(かじ ちづこ、1923年7月31日 - 201… 鍛冶 千鶴子(かじ ちづこ、1923年7月31日 - 2018年4月8日)は、日本の弁護士、著作家。日本婦人法律家協会会長、国民生活センター会長、市川房枝記念会理事長などを務めた。 熊本県阿蘇古城村出身。両親は教師。1936年に熊本第二高等女学校入学、3年生のときに、日本初の女性弁護士が3人(中田正子、久米愛、三淵嘉子)誕生という新聞記事に接する。同年父親を亡くす。 1942年、当時としては女性に法律専門家としての教育を唯一行っていた明治大学専門部に入学。太平洋戦争の激化で一時帰郷した後、1947年に明治大法学部に入学。大学同級生だった鍛冶良堅(明治大教授)と1950年に結婚し、後に一児をもうけた。
陶 隆司(すえ たかし、1921年7月31日 - 2010年… 陶 隆司(すえ たかし、1921年7月31日 - 2010年12月26日)は、日本の俳優。群馬県館林市生まれ埼玉県出身。本名及び旧芸名は陶 隆(読みは同じ)。 はちの会、、劇団中芸、東京芸術座、東京映画俳優協会、つくしグループに所属していた。 浦和町立浦和商業学校(現・埼玉県立浦和商業高等学校)卒業。東京陸軍経理学校卒業。 経理将校として、太平洋戦争(兵役(旧・満州国 関東軍経理将校)に従軍。 1951年、舞台『街道』でデビュー。 1954年、劇団中芸(東京芸術座の前身)発足時に、新人オーディションに合格して入団。 剣道と槍術の心得があり、双方では『嗚呼!! 花の応援団 男涙の親衛隊』の青田玄道役を、また、槍術ではテレビドラマ『新選組血風録』(1965年 東映京都+NET)の武田観柳斎役の起用のきっかけとなった。
藤原 弘達(ふじわら ひろたつ、1921年〈大正10年〉7月… 藤原 弘達(ふじわら ひろたつ、1921年〈大正10年〉7月31日 - 1999年〈平成11年〉3月3日)は、日本の政治学者、評論家。広島県尾道市生まれ。「ふじわら こうたつ」と呼ばれることが多い。 雑貨店の忠雄と美容師キクノの長男。5歳の時に父を腸チフスで亡くし、母は国鉄駅員と再婚。尾道市立筒湯小学校(現・尾道市立久保小学校)、福山誠之館中学を経て、第六高等学校に入学。同級生に星野直樹次男の星野良二。 1942年(昭和17年)東京大学法学部に入学。同級生に志垣民郎。高等学校の教師の伝手で法制局参事官の長村貞一の邸宅に下宿していた。1943年(昭和18年)12月末に学徒出陣に召集され、歩兵第11連隊補充隊(広島西部第2部隊)にて3か月間の普通教育を受けたのち、久留米第一予備士官学校に入学。
稲垣 泰彦(いながき やすひこ、1921年7月31日 - 1… 稲垣 泰彦(いながき やすひこ、1921年7月31日 - 1982年2月28日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。 広島県呉市生まれ。1939年に広島県立呉第一中学校を卒業し、広島高等学校文科に進学。同校2年生だった1940年の夏、東京中野在住だった兄の家に滞在していたときに、隣家に住んでいた宝月圭吾を紹介され、進学先の相談をしたところ、東京帝国大学を勧められ、同大学への進学を決めたという。1942年に高校を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科に入学。同期入学に永原慶二、安田元久、山口啓二らがいる。翌年、海軍に入隊し、その間の1944年9月に卒業。1947年、東京帝国大学大学院を退学。 同年、東京帝国大学史料編纂所に入所、1966年助教授、1969年教授。
上前 智祐(うえまえ ちゆう、1920年(大正9年)7月31… 上前 智祐(うえまえ ちゆう、1920年(大正9年)7月31日 - 2018年(平成30年)4月16日)は、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)出身の画家。独学で洋画を学んだ後に吉原治良に師事し、具体美術協会の結成に参加した。 1920年(大正9年)7月31日、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)1459番地に生まれた。父は上前由蔵、母は永濱里ん。1歳だった1921年には父の由蔵が死去した。1927年(昭和2年)3月の北丹後地震では家屋が倒壊し、下敷きになりそうなところを巫女に助けられた。同年には奥大野村倉垣尋常小学校に入学した。1932年(昭和7年)には舞鶴市の中村京染洗張り悉皆店に丁稚奉公に出たが、ここで経験した縫い作業がその後の創作活動の原点となった。
金 振晩(キム・ジンマン、朝鮮語: 김진만、1918年7月3… 金 振晩(キム・ジンマン、朝鮮語: 김진만、1918年7月31日または1918年11月11日 - 2006年5月10日)は、大韓民国の政治家、実業家。第3・4・6・7・8・9・10代韓国国会議員、第9代国会副議長。本貫は江陵金氏(朝鮮語版)。号は東谷(トンゴク、동곡)。 日本統治時代の江原道三陟郡(現・東海市)出身。1936年に日本浪華商業学校を卒業し、1937年に同志社高等商業学校で修学した。その後は金融組合及び会社で勤務し、解放後は三陟開発北三化学工業所自治委員長・常務理事・理事長を務めた。 1954年の第3代総選挙で自由党所属で初当選し、国会議員を7期務めたほか、自由党三陟郡党副委員長、民主共和党党務委員、院内総務、財政委員長、国会商工委員長、国会副議長、アジア国会議員連合(APU)第9次総会議長、韓英議員協会会長を歴任した。
九鬼 喜久男(くき きくお、1918年(大正7年)7月31日… 九鬼 喜久男(くき きくお、1918年(大正7年)7月31日 - 2005年(平成17年)10月31日)は、日本の実業家、政治家。第12代四日市市長(1966年(昭和41年)1月22日 - 1972年(昭和47年)11月18日)。九鬼産業グループの経営者。三重県松阪市飯高町(当時の飯南郡波瀬村)の出身、四日市九鬼家の婿養子で、旧姓は田中。四日市公害(四日市ぜんそく)裁判の引き金を引いた政治家である。 飯南郡波瀬村の旧家(大山林地主)田中家で田中彦左衛門の二男として誕生する。婿養子として結婚する前の姓名は田中喜久男であった。三重県知事(1955年 - 1972年)を務めた田中覚とは同族で、遠戚関係にあった。
三木 睦子(みき むつこ、1917年〈大正6年〉7月31日 … 三木 睦子(みき むつこ、1917年〈大正6年〉7月31日 - 2012年〈平成24年〉7月31日)は、日本の政治運動家、社会活動家。第66代内閣総理大臣三木武夫の妻。三木事務所代表。全国発明婦人協会、アジア婦人友好会、国連婦人会の各会長、社団法人中央政策研究所理事、国際教育交流協会理事長など役職多数。旧姓は森。 千葉県出身。森コンツェルン総帥で昭和電工の創業者・森矗昶の次女。この父をはじめ、兄の森曉と森清、弟の森美秀、甥の森英介はいずれも衆議院議員に、また長女の高橋紀世子は参議院議員になっている政治家一族の出身である。また、姉は元昭和電工社長の安西正夫に嫁いでいる。 東京府立第一高等女学校(現東京都立白鷗高等学校)卒業。
中野 幡能(なかの はたよし、1916年〈大正5年〉7月31… 中野 幡能(なかの はたよし、1916年〈大正5年〉7月31日 - 2002年〈平成14年〉12月3日)は、日本の歴史学者。宇佐八幡宮の研究で知られる。 大分県宇佐生まれ。1943年東京帝国大学文学部宗教学科卒。大分県立教育研究所副所長、61年新設の大分県立芸術短期大学教授、68年「八幡信仰史の研究」で東京大学文学博士。83年定年退官、名誉教授。91年秋勲三等瑞宝章受勲。西日本文化賞受賞。
中原 呉郎(なかはら ごろう、1916年〈大正5年〉7月31… 中原 呉郎(なかはら ごろう、1916年〈大正5年〉7月31日 - 1975年〈昭和50年〉6月12日)は、日本の医師。詩人の中原中也は兄で、弟に伊藤拾郎がいる。山口県吉敷郡(現:山口市)出身。 中原謙助、フクの六人兄弟の五男として生まれる。 1924年頃、弟の拾郎にハーモニカを教える。 1938年3月に山口高等学校を卒業して、4月に長崎医科大学に入学した。 1942年1月13日、医師免許証を取得し、同月20日に短期現役軍医として入隊する。 1946年、中原医院の事務員となる。 1955年には国立療養所多磨全生園厚生技官となる。 1959年に整形外科医長に就任した。はにかに屋で大酒飲みだったが、深酒した翌日も絶対に休診することはなかったとされる。
長岡 三重子(ながおか みえこ、1914年〈大正3年〉7月3… 長岡 三重子(ながおか みえこ、1914年〈大正3年〉7月31日 - 2021年〈令和3年〉1月19日)は、日本の女子水泳選手、実業家、能楽師。 1914年7月31日、山口県徳山市(現在の周南市)で、商家の7人兄弟の次女として生まれる。勉強熱心な家庭で山口県立徳山高等女学校(現在の山口県立徳山高等学校)に進学。同校を卒業したのち、1938年(昭和13年)、23歳の時に長岡守治と結婚し、藁工品の卸問屋「田布施長岡本店」に嫁ぐ。その後、守治との間に2人の子(二男)を授かり、専業主婦として一家を支え続けた。 1968年(昭和43年)、夫・守治が56歳で死去。53歳で家業を継ぐこととなったが、当時藁工品から化学製品への移行期で藁工品は斜陽になりつつあった。
堀江 英一(ほりえ ひでいち、1913年(大正2年)7月31… 堀江 英一(ほりえ ひでいち、1913年(大正2年)7月31日 - 1981年(昭和56年)11月3日)は、日本の経済史学者。京都大学名誉教授。 徳島県出身。京都帝国大学経済学部卒。同助教授を経て、1947年京都大学教授、1956年「明治維新の社会構造」で、経済学博士(京都大学)の学位を取得。1976年定年退官、名誉教授、名城大学教授。西欧と日本の資本主義発達史を専門とし、戦後の経済史学会の中心であった。
常木 実(つねき みのる、1913年7月31日 - 2005… 常木 実(つねき みのる、1913年7月31日 - 2005年1月31日)は、日本のドイツ文学者。 千葉県生まれ。1938年東京帝国大学文学部独文科卒。外務省嘱託、旧制山形高等学校教授、旧制浦和高等学校教授。戦後東京大学教養学部助教授、教授、74年定年退官、名誉教授、帝京大学医学部教授、94年退職。
小谷 正一(こたに まさかず、1912年7月31日 - 19… 小谷 正一(こたに まさかず、1912年7月31日 - 1992年8月8日)は、日本のイベントプロデューサー。兵庫県姫路市竜野町出身。 旧制姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)→早稲田第二高等学院を経て、1935年に早稲田大学卒業。その後1年ほど松竹大船撮影所付属の脚本研究所に入るが、結局松竹を退社して大阪毎日新聞社に入社する。ただ毎日新聞では事業部に配属されたため、第二次世界大戦末期の一時期を除いて新聞記者として働いた時期はほとんどない。毎日新聞社主催の音楽コンクールヴァイオリン部門で第1位となった辻久子のリサイタルを企画した。 1946年に毎日新聞が紙不足の状況下、自社のダミーとして『新大阪』を発行する新大阪新聞社を設立すると、毎日新聞から同社に派遣される形で同社編集局長に就任。
木村陽二郎(きむら ようじろう、1912年7月31日 - 2… 木村陽二郎(きむら ようじろう、1912年7月31日 - 2006年4月3日)は、日本の植物学者・科学史家。東京大学名誉教授。 1912年、山口県山口市生まれ。旧制長崎中学、旧制山口高校を経て、東京帝国大学理学部に進んだ。大学では中井猛之進に師事。卒業後の1938年、東京帝国大学副手に着任。1939年、同大学助手に昇進。1944年、学位論文『おとぎりそう科ノ研究』を提出して理学博士号を取得。 太平洋戦争後の1949年より、東京大学教養学部生物学科助教授。1960年に同教授に昇進。1973年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は中央大学教授として教鞭をとった。学界では、日本植物分類学会の創設に尽力し、1977年から1980年まで会長を務めた。
中村 立行(なかむら りっこう、1912年7月31日 - 1… 中村 立行(なかむら りっこう、1912年7月31日 - 1995年3月30日)は日本の写真家である。本名は中村立行(なかむらたつゆき)。 神戸市出身。東京美術学校(現東京芸術大学)卒業後小学校の図画の先生をしていて、「毎晩1升近く飲んでいた酒を減らせれば」と夜できる道楽を探していて、飲み屋で誰かが借金の支払いとして置いて行った六櫻社(コニカを経て現コニカミノルタ)製のパーレットオプターF6.3付きを安価に入手したのが写真を始めたきっかけになった。ただ押し入れで現像をするようになっても押し入れにコップを持ち込み酒量は減らなかったという。 パーレットはヴェスト・ポケット・コダックのコピー品で撮影範囲を見当で決めなければならず構図を考えるのが難しかったため、厳密に構図を決められる二眼レフカメラのローライが欲しくなったが、月給が60円の時代に数百円したため高価で到底購入できず、1943年末にミノルタ(現コニカミノルタ)製のミノルタフレックスI型プロマーF3.5付きを購入した。
青木 太郎(あおき たろう、1908年〈明治41年〉7月31… 青木 太郎(あおき たろう、1908年〈明治41年〉7月31日 - 1977年〈昭和52年〉)は、昭和期の歯科医師、政治家。中野市長。元中野市長の青木一は長男。 長野県下高井郡延徳村大字三ツ和(現・中野市三ツ和)で、元長野県議会議員の青木賢一郎と千代の長男として生まれた。青木家は代々松代藩の庄屋を勤役した旧家。 旧制長野中学(現・長野県長野高等学校)を経て、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒業後、東京帝国大学医学部修了(選科生)。帰郷し、中野で歯科医院を開業した。1937年(昭和12年)に応召し、1946年(昭和21年)陸軍大尉で復員した。 1947年(昭和22年)長野県議会議員に選出され2期在任。
戸田 繁子(とだ しげこ、1908年7月31日 - 2019… 戸田 繁子(とだ しげこ、1908年7月31日 - 2019年3月31日)は、日本の音楽教師。広島市で音楽教室「杉の子会」主宰。作曲家糀場富美子、指揮者大植英次らを育てた。 島根県飯南町出身。1923年に高等小学校を卒業、島根県女子高等師範学校に入学した。1927年に卒業後、島根県飯石郡吉田村小学校に赴任するが、さらに学ぶために松江市の飯田忠義の元に通いレッスンを受ける。1929年4月、東京音楽学校に設置された教員養成所の試験に合格。翌1930年5月から1932年3月まで、同校でピアノを遠山つや、声楽を田中伸江(ピアニスト田中希代子の母)に学ぶ。 1932年に卒業後は故郷に帰り、島根県立今市高等女学校(現・出雲高等学校)に勤務。
藤岡 通夫(ふじおか みちお、1908年7月31日 - 19… 藤岡 通夫(ふじおか みちお、1908年7月31日 - 1988年11月19日)は、日本の建築史家。東南アジア諸国の王宮や日本の城郭などを研究した。東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)出身。父は藤岡作太郎、兄は藤岡由夫。 近世建築史(城郭・住宅建築)研究に業績を残すほか、東洋建築史研究では戦前にアンコールワットを調査し、近年はネパール王宮の建築研究と保存実施への道を拓いた。 関野克は本郷の誠之小学校で同級。太田博太郎は同小学校で4年後輩。1929年に松本高等学校理科甲類を卒業し、東京工業大学建築学科に入学。1932年卒業したのちは同大学助手、同講師を経て1939年助教授。 1938年「天守閣建築概説」を発表。
竹岡 信幸(たけおか のぶゆき、1907年(明治40年)7月… 竹岡 信幸(たけおか のぶゆき、1907年(明治40年)7月31日 - 1985年(昭和60年)9月9日)は、昭和期の日本の作曲家。 神奈川県横浜市出身。 古賀政男の後輩にあたり、明治大学マンドリン倶楽部を経て作曲家になった。1934年(昭和9年)、「赤城の子守唄」の大ヒットで一躍人気作家となった。コロムビアレコードを中心に活躍し、数々の曲を作曲した。 夫人は1932年のロサンゼルス五輪水泳代表選手で、のちに宝塚歌劇団(23期生、芸名「水尾みさを」)を経て映画界入りした女優の横田みさを。 1985年9月9日没、墓所は静岡県駿東郡小山町の冨士霊園。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
岡本 成蹊(おかもと せいけい、明治38年(1905年)7月… 岡本 成蹊(おかもと せいけい、明治38年(1905年)7月31日 - 1988年4月28日)は、日本のイギリス文学者、法政大学名誉教授。 鳥取県米子市東町出身。父は薬剤師の岡本正。 良善幼稚園、啓成尋常小学校、米子中学校(現米子東高校)を経て昭和5年(1930年)法政大学文学部英文科卒業。34年法政大講師、日本出版文化協会勤務ののち、46年法政大教授。60年「イギリスに於ける近代小説の形式 その系譜と要因」で法政大文学博士。文学部長をへて76年定年退職、名誉教授。埼玉医科大学の創立にかかわり教養部教授。 宗教は曹洞宗。趣味は野球、その他のスポーツ。 実業家の坂口平兵衛 (2代)とは幼稚園、小学校、中学校と同期であり、親しい関係にあった[要出典]。
井上 清一(いのうえ せいいち、1905年〈明治38年〉7月… 井上 清一(いのうえ せいいち、1905年〈明治38年〉7月31日 - 1967年〈昭和42年〉1月8日)は、日本の内務官僚、政治家。参議院議員(2期)、京都市長。 1905年に富山県婦負郡速星村の多額納税者井上清孝の長男として生まれる。第四高等学校から東京帝国大学法学部政治学科に進学し、在学中の1929年(昭和4年)10月に高等試験行政科試験合格。翌1930年帝大卒業とともに内務省へ入省し、四国地方行政事務局次長、同物価事務局長、京都府警察部長を歴任。 京都府知事木村惇の下で副知事を務めるが、1950年(昭和25年)4月に木村が公職選挙法違反で辞任したことで保守系の推薦で京都府知事選挙に立候補するも蜷川虎三に敗れる。