日下部 悦二(くさかべ えつじ、1923年 <大正12年> … 日下部 悦二(くさかべ えつじ、1923年 <大正12年> 10月31日 - 2021年 <令和3年> 3月11日)は、日本の経営者。古河電気工業社長、会長を務めた。位階は正四位。 兵庫県豊岡市出身。1946年に京都帝国大学工学部電気化学科を卒業し、同年に古河電気工業に入社した。1972年11月に取締役に就任し、1975年5月に常務、1977年6月に専務、1982年6月に副社長を経て、1983年6月に社長に就任。1989年6月に会長に就任し、1995年6月から相談役を務めた。 1985年4月に藍綬褒章を受章し、1993年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2021年3月11日、心不全のために死去。
大塚 利兵衛(おおつか りへえ、1922年 〈大正11年〉1… 大塚 利兵衛(おおつか りへえ、1922年 〈大正11年〉10月31日 - 2021年〈令和3年〉1月6日)は、日本のアナウンサー、フリージャーナリスト。 静岡県藤枝市出身。中央大学時代、学徒動員のためマレーシアにおり、終戦後は同国の刑務所で捕虜となった。 1947年に復員帰国して中央大学に復学後、「アナウンサー募集」の広告を見つけて応募し、日本放送協会入局を果たす。同時期入局は小川宏、八木治郎、木島則夫、野村泰治らがおり。入局後はアナウンス職に配属されてNHK釧路放送局、NHK札幌放送局に勤務して東京アナウンス室に異動。東京アナウンス室時代は報道番組を専門としてアナウンスを担当。 アナウンサーとして数々の歴史的事件や場面に遭遇したことでも知られ、自ら現場に向かってその一部始終をくまなくリポートしたことでも知られる。
犬養 廉(いぬかい きよし、1922年10月31日 - 20… 犬養 廉(いぬかい きよし、1922年10月31日 - 2005年5月7日)は、日本の日本文学者。お茶の水女子大学名誉教授。万葉集研究の第一人者である犬養孝は実兄。 東京生まれ。1952年東京大学国文科卒。北海道大学助教授、中央大学教授、お茶の水女子大教授、1988年定年、立正大学教授。1993年退職。墓所は谷中霊園。
西山 敬次郎(にしやま けいじろう、1922年10月31日 … 西山 敬次郎(にしやま けいじろう、1922年10月31日 - 1988年1月15日)は、日本の政治家、通産官僚。自由民主党所属の衆議院議員(当選1回)。 兵庫県出身。1949年、東京大学法学部を卒業。通商産業省に入る。大阪通商産業局長、中小企業庁次長、通商産業省貿易局長などを歴任する。1979年の第35回衆議院議員総選挙で兵庫5区から自民党公認で立候補したが落選。翌1980年の第36回衆議院議員総選挙でも落選。1983年の第37回衆議院議員総選挙で初当選した。1986年の第38回衆議院議員総選挙では選挙区の兵庫5区は「8増7減」の定数是正で減員区となり、議席が3から2に減少した。2議席を自民党の谷洋一と民社党の佐々木良作と争う形になったが西山は落選した。
井坂 英彦(いさか ひでひこ、1922年10月31日 - 1… 井坂 英彦(いさか ひでひこ、1922年10月31日 - 1997年1月24日)は、日本の病理学者。専門は、実験腫瘍学・細胞遺伝学・組織培養。医学博士(東京大学・論文博士・1957年)(学位論文「腹水肝癌の銀線維」)。鹿児島大学教授等を歴任。 茨城県生まれ、旧制水戸高等学校から1946年東北帝国大学医学部卒業、同大大学院第1期特別研究生修了後、同大病理学教室副手。1949年、 佐々木研究所研究員となり、吉田富三所長の下、腹水肝癌などの細胞遺伝学的研究、組織培養法に関する研究に従事。1957年、東京大学より医学博士の学位を取得、学位論文の題は「腹水肝癌の銀線維」。 1958年、同研究所病理部長。1974年、鹿児島大学医学部第一病理学教室教授。
粟谷 菊生(あわや きくお、1922年(大正11年)10月3… 粟谷 菊生(あわや きくお、1922年(大正11年)10月31日 - 2006年(平成18年)10月11日)は、シテ方喜多流の能楽師である。位階は正五位。 人間国宝、日本芸術院会員。社団法人日本能楽会会長。 広島藩主浅野家のお抱え能楽師の家系に連なる粟谷益二郎の次男として東京府東京市京橋区で生まれる。両親とも広島の出身であった。名付け親は喜多実。兄に粟谷新太郎。弟に粟谷辰三・粟谷幸雄。息子に粟谷明生。歌手のペギー葉山は従妹にあたる。 父ならびに喜多流宗家十四世の喜多六平太および同家十五世の喜多実に師事。喜多実の厳正重厚さと六平太の絢爛自在さをあわせもつといわれ、『羽衣』『安宅』『景清』など幅広い演目を得意とした。
千葉 治平(ちば じへい、1921年10月31日 - 199… 千葉 治平(ちば じへい、1921年10月31日 - 1991年6月23日)は、秋田県仙北市(旧田沢湖町)出身の小説家。本名は堀川 治平(ほりかわ じへい)。秋田県出身者としては、第41回(1959年)の渡辺喜恵子に次ぐ2人目の直木賞受賞者。 秋田工業学校(現・秋田県立秋田工業高等学校)で電気科を学び、1940年で旧満洲で満鉄調査部科学研究所入社を経て、南満洲工業専門学校を卒業した。 終戦後は故郷の秋田に戻り、農業の傍ら「月刊さきがけ」で懸賞小説に応募して、一席入選し、伊藤永之介に師事し、共に秋田文学を創刊する。 1966年に「秋田文学」23号から27号まで連載された「虜愁記」は第54回直木賞を受賞した。
石丸 久(いしまる ひさし、1921年10月31日 - 19… 石丸 久(いしまる ひさし、1921年10月31日 - 1999年12月26日)は、日本の近代文学者。早稲田大学講師、早稲田大学高等学院教諭、代々木ゼミナール講師。 北海道河東郡帯広町(現帯広市)に父・庄七と母・なほこの長男として生まれる。ヨーロッパでの生活経験があり英語・ドイツ語・フランス語に堪能。旧制千葉県立佐倉中学校、旧制静岡高等学校、旧制第二早稲田高等学院を経て、早稲田大学・および同大学院を卒業。大手大学受験予備校代々木ゼミナールの講師も務めた。後に早稲田大学教授。(石丸を「教授」としているのは小田原市の資料のみであり、他の資料では「講師」と記されている。要検証。) 2012年、夫人の希望によって、架蔵していた北原白秋の初版本60冊ほど(評価額150万円以上)が小田原市に寄贈された。
川井 直人(かわい なおと、1921年10月31日 - 19… 川井 直人(かわい なおと、1921年10月31日 - 1979年7月3日)は、日本の物理学者・地球科学者。専門は古地磁気学。1945年に京都帝国大学理学部地質学鉱物学科を卒業。大阪大学名誉教授。 大阪府生まれ。京都大学で松山基範の薫陶を受け、初めは古地磁気学者として、京都大学講師として教鞭を執った。岩石の微弱な磁化の測定で業績を上げ、松山期よりも新しい年代における逆磁極期の発見に貢献した。 1960年3月、京都大学より理学博士の学位を取得(論文は「地殻の磁気」)。その後、1962年に新設の大阪大学基礎工学部に教授として転任し、地球内部の状態を実験室で再現するための高圧物理の研究を始めた。そして、川井式マルチアンビルセルと呼ばれる高圧発生装置の開発に成功し、高圧条件下における岩石の相変化と地震波速度の不連続面とを関連付ける業績を上げた。
星野 紗一(ほしの さいち、1921年(大正10年)10月3… 星野 紗一(ほしの さいち、1921年(大正10年)10月31日 - 2006年6月22日)は、日本の俳人。夫人は俳人の星野明世(本名 明子)。元現代俳句協会顧問。 埼玉県浦和市(現・さいたま市)に生まれる。1933年(昭和8年)父の星野茅村や『水明』の長谷川かな女のもとで俳句を始める。1942年(昭和17年)拓殖大学を繰上げ卒業し、甲府連隊に入隊。 1946年(昭和21年)『七星会』を創刊。1955年(昭和30年)『水明』編集委員、1969年(昭和44年)『水明』運営委員、編集長。1973年(昭和48年)『水明』2代目主宰の長谷川秋子の急逝により、3代目主宰に就任。1975年(昭和50年)現代俳句協会会員、のち幹事を務めた。
加納 孝(かのう たかし、1920年10月31日 - 200… 加納 孝(かのう たかし、1920年10月31日 - 2000年6月4日)は、東京都出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW(左ウイング)。 左足のボールテクニックとスピードを生かしたドリブル突破が持ち味のウインガー。戦前、戦後を通じて日本代表として活躍し、インナー(現在の攻撃的MF)の岩谷俊夫とは名コンビとして知られた。 東京府立第八中学校(現:東京都立小山台高等学校)時代の1937年1月に開催された第18回全国中等学校蹴球選手権大会に出場。卒業後は早稲田大学理工学部へ進学しア式蹴球部に所属。早大WMW(現役選手とOBからなる混成チーム)の一員として1940年の全日本蹴球選手権大會 (第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会)の準優勝に貢献した。
川崎 敏男(かわさき としお、1920年10月31日 - 2… 川崎 敏男(かわさき としお、1920年10月31日 - 2004年2月23日 )は日本の薬学者、九州大学名誉教授。専門は天然物化学。薬学博士(1952年)。兵庫県出身。
稲葉 侃爾(いなば かんじ、1920年 <大正9年> 10月… 稲葉 侃爾(いなば かんじ、1920年 <大正9年> 10月31日 - 2017年 <平成29年> 1月14日 )は、日本の経営者。中国銀行頭取を務めた。位階は従四位。 岡山県出身。福山誠之館中学(現:広島県立福山誠之館高等学校)、旧制姫路高等学校を経て、1946年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に中国銀行に入行した。1970年9月に取締役に就任し、1975年12月に常務、1978年4月に専務を経て、1985年6月に副頭取に就任し、1987年6月には頭取に昇格した。1997年6月には会長も兼任し、1999年4月には会長に専任。2000年3月から6月までには再び頭取を兼任し、2001年6月に相談役を経て、2005年4月から参与を務めた。
佐藤 隆一(さとう りゅういち、1920年10月31日 - … 佐藤 隆一(さとう りゅういち、1920年10月31日 - 1984年12月11日)は日本の外科医、医学研究者、医学博士。群馬県邑楽郡小泉町(現大泉町)生まれ。慶応義塾大学卒業。吉田肉腫に非常に感受性の高いDONRYU-RAT(吉田富三博士提唱)の開発。佐藤の肺がんの樹立(ラットに肺がんを作出し)。受託試験業務の他ゲルマニュウム誘導体「バイオジトン8」(半導体の有機化合物)の薬効研究開発、バイオジトン研究グループ代表としてバイオジトンを世に出した。B型慢性肝炎治療薬セロシオンの開発者。 出典:旧制太田中学卒業後、1946年慶応義塾大学医学部卒業、1946年 第一回医師国家試験合格。1947年群馬県太田市所在の富士重工㈱付属太田医院勤務(外科医)。
飯島 宗享(いいじま むねたか、1920年10月31日 - … 飯島 宗享(いいじま むねたか、1920年10月31日 - 1987年4月19日)は、日本の哲学研究者。 東京大学文学部哲学科卒、東洋大学講師、助教授、教授。キェルケゴール、シェーラーなどの実存哲学を研究、翻訳した。
角 圭子(すみ けいこ、1920年10月31日 - 2012… 角 圭子(すみ けいこ、1920年10月31日 - 2012年10月29日)は、日本の作家、ロシア文学者。東京都生まれ。本名・石山芳。日本女子大学校国文科中退。ロシア文学を研究し、ほか小説を執筆した。1967年『大正の女』で小説新潮賞候補。
甲斐錦 勝(かいにしき まさる、1920年(大正9年)10月… 甲斐錦 勝(かいにしき まさる、1920年(大正9年)10月31日 - 没年不明)は、山梨県山梨市牧丘町(現役当時は東山梨郡中牧村)出身で、二所ノ関部屋(入門時は松ヶ根部屋)に所属した大相撲力士。本名は鶴田 勝(つるた まさる)。最高位は西前頭12枚目(1950年5月場所)。現役時代の体格は175cm、86kg。得意手は左四つ、吊り、寄り。 17歳の時に上京し、元小結・紅葉川が率いる松ヶ根部屋へ入門。1938年(昭和13年)5月場所で初土俵を踏んだ。同期生には、後の横綱・吉葉山や小結・大起などがいる。当初の四股名は、本名と同一の「鶴田」。改名後の「甲斐錦」は、故郷・山梨県の旧称・甲斐に因む。 三段目時代と新十両昇進時(1945年(昭和20年)6月場所後)に応召された事も災いして出世は遅れ、初土俵から新入幕(1949年(昭和24年)5月場所)まで、およそ11年を要した。
加藤 道子(かとう みちこ、1919年10月31日 - 20… 加藤 道子(かとう みちこ、1919年10月31日 - 2004年1月31日)は、日本の女優、声優。東京府東京市(現・東京都)出身。俳優・加藤精一の長女。 東京府立第五高等女学校(現東京都立富士高等学校)卒業。 1941年、東京放送劇団第1期生として入団。 1957年から森繁久彌と共に『日曜名作座』に出演していた。 2004年1月31日、膵臓がんのため、東京都港区の病院で死去。84歳没。
木村 實(きむら みのる、1919年10月31日 - 200… 木村 實(きむら みのる、1919年10月31日 - 2001年6月20日)は、日本の実業家。総合商社の住友商事の元常務取締役。 1919年10月31日生まれ。彦根高等商業学校(現:滋賀大学経済学部)を1940年に卒業し、同年に住友化学工業(現:住友化学)へ入社した。 その後、1958年に住友商事へ移り、化学品・化成品分野で昇進した。1959年に化成品部樹脂課長、1965年に大阪合成樹脂部次長、1967年にソウル事務所長、1969年に大阪化成品部長を歴任した。1973年には香港事務所長を務めた。 1976年6月に取締役に就任。その後、事務管理室長、開発本部副本部長、総務本部長、化学品本部長を歴任した。
福富 節男(ふくとみ せつお、1919年10月31日 - 2… 福富 節男(ふくとみ せつお、1919年10月31日 - 2017年12月18日)は、日本の数学者・社会運動家。元東京農工大学教授。専攻は、位相幾何学。 1919年、樺太に生まれる。第一高等学校理科を卒業後、東京帝国大学理学部数学科に進学。卒業間際に、1942年9月、樺太の砲兵連隊へ入営。1943年から陸軍特殊情報部で暗号解読作業に従事する。マニラに派遣された際、太平洋戦争におけるフィリピン戦線のさなか、ルソン島を逃げ回り、辛うじて生還。1945年、東京大学に戻り、助手として数学研究に従事する。「日本数学会」の設立にも参加し、岩波書店の『数学辞典』の編集に携わる。 1962年11月、日本大学文理学部数学科助教授であった福富節男ら四人は、秋葉安太郎学部長から、「日大の思想にあわぬ」との理由で、辞職を迫られる。
丘美 丈二郎(おかみ じょうじろう、1918年〈大正7年〉1… 丘美 丈二郎(おかみ じょうじろう、1918年〈大正7年〉10月31日 - 2003年〈平成15年〉12月11日)は、日本の探偵小説作家、SF作家。『地球防衛軍』など東宝の特撮映画の原作者としても知られる。本職は航空自衛隊および民間航空会社のテストパイロット。 大阪府出身。本名は兼弘 正厚。 ペンネームは、俳優の岡譲司に似ていると言われたことと、海野十三を愛好していたことから、海野のペンネームの一つである丘 丘十郎と岡の名をもじったものである。旧表記は丘見丈二郎。書籍『東宝特撮映画全史』では昭和30年代に現在の筆名に改名したと記述していたが、丘美自身は「丘見」表記は誤字であるとしている。資料によっては、名前の読みを「たけじろう」と誤記しているものもあった。
山口 シヅエ(やまぐち しづえ、1917年10月31日 - … 山口 シヅエ(やまぐち しづえ、1917年10月31日 - 2012年4月3日)は、日本の政治家。元日本社会党及び自由民主党衆議院議員(当選13回)。明るく華やぎのある雰囲気から下町の太陽と呼ばれた。本名静江。 東京都中央区日本橋小伝馬町に、「山口自転車」を経営していた山口重彦(後に参議院議員)の長女として生まれる。1935年、東京府立第七高等女学校(現・東京都立小松川高等学校)を卒業後、家業に従事。従業員への食事を手配する「炊事部長」を務めていた。 弟を戦争で亡くしたことで、「戦争反対を訴えたい」と国政選挙立候補を決意。賀川豊彦の後押しも得て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に東京都第1区から日本社会党公認で出馬し当選。
河西 健一(かさい けんいち、1916年(大正5年)10月3… 河西 健一(かさい けんいち、1916年(大正5年)10月31日 - 1992年(平成4年)2月16日)は、日本の鉄鋼技術者。
檜垣 徳太郎(ひがき とくたろう、1916年〈大正5年〉10… 檜垣 徳太郎(ひがき とくたろう、1916年〈大正5年〉10月31日 - 2006年〈平成18年〉10月15日)は、日本の農林官僚・政治家。自由民主党参議院議員(3期)。 愛媛県松山市出身。旧制松山高校を経て、1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部卒業。農林省に入省(水産局嘱託)。入省成績は下から2番目。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進。1945年に解員(復員)。 農林経済局肥料課長、大臣官房予算課長、農地局管理部長、大臣官房長、畜産局長、大臣官房長(再任)、1968年(昭和43年)食糧庁長官を経て、1969年(昭和44年)農林事務次官。
林 清一(はやし せいいち、1915年10月31日 - 19… 林 清一(はやし せいいち、1915年10月31日 - 1990年5月23日)は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)。
木下 祝郎(きのした しゅくお、1915年 <大正4年> 1… 木下 祝郎(きのした しゅくお、1915年 <大正4年> 10月31日 - 2011年 <平成23年> 3月19日)は、日本の農芸化学者、経営者。農学博士。協和発酵工業(現在の協和キリン)社長を務めた。位階は正四位。 京都府久美浜町(現京丹後市)出身。第八高等学校を経て、東京帝国大学に進み、1941年に同大農学部農芸化学科を卒業し、台湾総督府工業研究所に入所。同年12月開戦とともに徴兵され中国大陸南部に出兵、1946年5月に復員・帰国して協和産業(後の協和醗酵工業)に入社した。同社では、ペニシリンの量産化、ストレプトマイシン生産技術の導入などに取り組んだ。その後、同社東京研究所で、発酵によるアミノ酸製造技術(アミノ酸発酵)を発明した研究開発チームを主導した。
遠藤 要(えんどう かなめ、1915年10月31日 - 20… 遠藤 要(えんどう かなめ、1915年10月31日 - 2010年6月20日)は、日本の政治家。 宮城県議会議員を経て、参議院議員を4期務め、法務大臣や自由民主党参議院議員総会長などを歴任。 学歴は、白石高等小学校(現在の宮城県白石市)卒業。 1947年(昭和22年)、宮城県議会議員選挙に立候補し初当選し、同県議会議員に就任した。以後通算7回当選し、1971年(昭和46年)には同議会議長に選出された。 1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙に、自由民主党公認で立候補し当選、参議院議員に転身した。以後通算4回当選し、自由民主党内では田中派、竹下派(経世会)を経て、小渕派(平成研究会)に所属した。
大島寛一(おおしま ひろかず、1914年10月31日 - 1… 大島寛一(おおしま ひろかず、1914年10月31日 - 1994年9月23日)は、日本の大蔵官僚。近畿財務局長、内閣官房内閣審議室長、関東財務局長、財務参事官、日本銀行理事、日本監査役協会会長。大島堅造の長男。 兵庫県出身。旧制一高を経て東京帝国大学法学部法律学科在学中に高等試験行政科を合格。東京帝大法学部法律学科を卒業し、1937年4月 大蔵省入省。理財局属。1940年9月 大蔵大臣秘書官(事務担当)。1952年8月 理財局総務課長。1953年6月から1956年6月までは外務省在ニューヨーク総領事館・ 在米国大使館で勤務。1956年6月 大臣官房財務調査官(為替局担当)。1957年6月 近畿財務局長。
四宮 和夫(しのみや かずお、1914年10月31日 - 1… 四宮 和夫(しのみや かずお、1914年10月31日 - 1988年4月28日)は、日本の法学者。専門は民法・信託法。学位は、法学博士(東京大学、1962年)(学位論文「信託法」)。我妻栄門下。弟子に能見善久など。 香川県三豊郡観音寺町生まれ。歩く通説と呼ばれた指導教官の我妻に対し、歩く反対説とも呼ばれた[要出典]。四宮の反対説の提示によって初めて論点化された論点も多く[要出典]、日本の民法学に多大な貢献をもたらした。信託法の研究の第一人者であり、その地位は弟子の能見に受け継がれている。 後掲『請求権競合論』は、債務不履行と不法行為等の請求権競合問題に関する論文で、民事訴訟法学における訴訟物における旧訴訟物理論・実体法説と新訴訟物理論・訴訟法説の対立を踏まえた上で、民法学の見地から新訴訟物理論の考え方を取り入れ、債務不履行と不法行為の要件及び効果を利益衡量の上一本化すべきとして新実体法説(のうち、全規範統合説)を主張した。
大谷 昌行(おおたに まさゆき、1914年(大正3年)10月… 大谷 昌行(おおたに まさゆき、1914年(大正3年)10月31日 - 2002年(平成14年)5月9日)は、日本の実業家。元一畑電気鉄道社長、元日本海テレビジョン社長。 1914年(大正3年)10月31日、島根県平田市に生まれる。1938年(昭和13年)に法政大学法学部法律学科を卒業する。 三菱電機を経て、1945年(昭和20年)に一畑電気鉄道に入社する。1955年(昭和30年)に取締役、1957年(昭和32年)に常務、1965年(昭和40年)に社長に就任する。 一畑グループの総帥で、グループ数十社の社長・会長を務めた。また、日本海テレビジョン社長、松江商工会議所会頭、日本民営鉄道協会理事などを歴任した。
西山 方富(にしやま まさとみ、1914年10月31日 - … 西山 方富(にしやま まさとみ、1914年10月31日 - 1987年4月12日)は、日本の経営者。井村屋製菓社長、会長を務めた。三重県松阪市出身。 1932年に三重県立松阪商業学校を卒業。髙島屋での勤務を経て、1947年に井村屋に転じ、専務に就任し、1970年に副社長を経て、1974年5月には社長に就任。1979年6月に監査役に就任。 1987年4月12日食道静脈瘤破裂と肝硬変のために死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
奈良岡 末造(ならおか すえぞう、1913年(大正2年)10… 奈良岡 末造(ならおか すえぞう、1913年(大正2年)10月31日 - 1995年(平成7年)12月31日)は日本の政治家。青森県青森市長。 青森市出身。1931年、青森県立青森商業学校(現・青森県立青森商業高等学校)卒。卒業後は生家の米屋を手伝い、その傍ら、青森県信用組合連合会に勤務した。1947年、青森市議会議員に当選、4期16年務め、この間、1957年から4年間議長を務め、東北市議会議長会会長、全国市議会議長会副会長を歴任した。1963年に青森県議会議員に当選、1期務めた。1967年、社会党の推薦を受け、青森市長選挙に立候補し、現職の千葉元江を破った。 1971年4月25日、自民党公認の白鳥大八を破って再選を果たした。
長谷川 吉郎(はせがわ きちろう、1913年(大正2年)10… 長谷川 吉郎(はせがわ きちろう、1913年(大正2年)10月31日 - 1995年(平成7年)5月16日)は、日本の銀行家。元山形銀行頭取、会長。 長谷川吉三郎(吉弥)山形銀行頭取の子として、山形県山形市に生まれる。 慶大卒後、従軍、各社役員を経て、両羽銀行に入行。1972年(昭和47年)には、15年あまり頭取を務めた三浦弥太郎の後任として昇格する。 トップ在任中は経営の近代化に努め、1973年(昭和48年)の東証2部上場(1975年(昭和50年)1部に指定替え)を実現。山形県下の企業としては初の東証上場を成し遂げた。また、第一次オンラインシステムの構築、ファームバンキングシステムの開発、地区センター設置も手がけたほか、いわゆるオイルショックを卓越した経営手腕により無事に乗り切った。
紀藤 信義(きとう のぶよし、1912年〈大正元年〉10月3… 紀藤 信義(きとう のぶよし、1912年〈大正元年〉10月31日 - 没年不明)は、日本の政治家、文学博士。広島大学名誉教授。広島修道大学法学部教授。 山口県厚狭郡船木町(現・宇部市)出身。紀藤常助の二男。1937年、広島文理科大学文学部史学科を卒業。同年4月、北海道旭川師範学校教授。1943年6月、海軍教授となり海兵教官にて終戦。 1947年4月、山口県厚狭郡船木町町長に当選する。1948年7月、広島高等師範学校教授。1957年、琉球大学臨時講師。1964年、学位を受く。1976年、広島大学文学部教授の職を停年退任する。 著書は『近代化概念の展開と民主主義思想の発展』、『イギリス初期独占の研究』などがある。
北原 経太(きたはら けいだ、1910年10月31日 - 没… 北原 経太(きたはら けいだ、1910年10月31日 - 没年月日不詳)は、日本の医学者。専門は公衆衛生学。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1927年卒業)、旧制静岡高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業した。九大卒業後、当時の旧制鹿児島県立医科大学の教授(公衆衛生学)となる。 1946年に九州帝国大学から医学博士号を取得した。その後、鹿児島大学医学部の教授となる。1974年に開催された日本人類遺伝学会の大会会長を務めた。多くの衛生学に関する論文を残し、1983年には日本人類遺伝学会の名誉会員となる。鹿児島大学を退官後は名誉教授となった。
村上 至孝(むらかみ しこう、1910年10月31日 - 1… 村上 至孝(むらかみ しこう、1910年10月31日 - 1987年4月17日)は、日本の英文学者、翻訳家。 1933年京都帝国大学文学部英文科卒、第三高等学校教授、1949年京都大学教養部教授、1959年大阪大学文学部英文科教授、1974年定年退官、名誉教授、龍谷大学教授、大手前女子大学教授。1983年勲二等瑞宝章受章。 17-19世紀英国文学を専攻し、サッカレーなどの長篇小説、ヘンリー・フィールディングの悪漢小説の翻訳を行い、ロマン主義詩人の研究を行った。
白井 常(しらい つね、女性、1910年10月31日 - 1… 白井 常(しらい つね、女性、1910年10月31日 - 1999年7月27日)は、日本の心理学者、東京女子大学名誉教授。動物や幼児の認知発達を中心に研究。筆名は白井常子。 東京生まれ。東京女子大学卒、東京文理科大学卒、1949年東京女子大学助教授、同年 トロント大学に学び、1954年 Ph.D. を取得、同年東京女子大学教授、1976年定年 (名誉教授)、聖心女子大学教授。 1961年 東京教育大学文学博士、1983年 日本心理学会名誉会員、1983年 勲四等瑞宝章を受章。
高橋 喜一郎(たかはし きいちろう、1909年(明治42年)… 高橋 喜一郎(たかはし きいちろう、1909年(明治42年)10月31日 - 2001年(平成13年)9月16日)は、日本の政治家。山形県新庄市長(5期) 。位階は正五位。 山形県最上郡新庄町(現・新庄市)出身。1927年、山形県立新荘中学校(現・山形県立新庄北高等学校)卒。1947年、新庄町議会議員に当選。1949年、新庄町の市制施行により、新庄市議会議員となる。市議会議長を2期務めた。1965年、新庄市長に当選する。3期務めた後、1977年に落選。4年後の1981年に市長に返り咲き、2期務め、1989年に退任した。ほか、新庄体育協会、新庄市社会福祉協議会各会長、山形県体育協会理事を歴任した。
土州灘 浪五郎(としゅうなだ なみごろう、1909年10月3… 土州灘 浪五郎(としゅうなだ なみごろう、1909年10月31日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。二子山部屋→二所ノ関部屋所属。本名は石川 久治(いしかわ ひさじ)。高知県香美郡香我美町(現香美市)出身。最高位は西十両14枚目。得意技は左四つ、下手投げ。 同郷の前頭・土州山役太郎の二子山部屋に入門。1928年1月場所に初土俵を踏む。1936年5月場所に十両に昇進。この場所は1勝10敗と大きく負け越し、1場所で幕下に落ちた。幕下から三段目に落ち、1942年5月場所で廃業した。
常見 千香夫(つねみ ちかお、1908年(明治41年)10月… 常見 千香夫(つねみ ちかお、1908年(明治41年)10月31日 - 1988年(昭和63年)1月4日)は、埼玉県浦和町(現・さいたま市)出身の歌人。 旧制浦和中学校(現埼玉県立浦和高等学校)、東京薬学専門学校(現東京薬科大学)卒業。 浦和中学校在学中、加藤克巳らとともに、「菁藻」にて同校教諭であった高橋俊人に学ぶ。1927年(昭和2年)、村野次郎主宰の「香蘭」入社。1933年、「短歌至上主義」創刊に参加。 1940年、伝説的な合同歌集『新風十人』(八雲書林)に参加。参加者は、常見のほかに五島美代子、筏井嘉一、加藤将之、佐藤佐太郎、斎藤史、館山一子、坪野哲久、福田栄一、前川佐美雄であった。 戦後1946年、加藤克巳、大野誠夫と「鶏苑」を創刊するが、1953年廃刊、以後作歌生活を断った。
蔡 章麟(さい しょうりん、1908年10月31日 - 19… 蔡 章麟(さい しょうりん、1908年10月31日 - 1988年11月1日)は日本統治時代の台湾及び中華民国の法律家、法学者。 蔡章麟は旧制台北州立台北二中、旧制台北高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し同年に高等試験行政科に及第した。34年に高等試験司法科に及第すると、35年には判事に任官、青森地裁、神戸地裁、大阪地裁各判事を歴任し終戦時には大阪地裁所長だった。 台湾が日本領から中華民国領になると、蔡は日本の裁判所を退官し台湾に帰国、47年には台湾省行政長官公署法制委員会委員、台湾省政府法制室参事、台湾大学民事訴訟法教授に任命された。48年には台湾大学法学院学生部長に任命された。
白 斗鎮(ペク・トゥジン、はく とちん、1908年10月31… 白 斗鎮(ペク・トゥジン、はく とちん、1908年10月31日 - 1993年9月5日)は、大韓民国の政治家。黄海道信川郡出身。本貫は水原白氏。第4・10代国務総理、第8・10国会議長などを歴任した。日本名白川 實。 1934年旧制東京商科大学(現:一橋大学)を卒業して朝鮮銀行に入行。理事にまでなった。大学の先輩にあたる具鎔書に引き上げられ、独立後も韓国銀行理事を務め、1948年に外資庁長官・1951年財務部長官に就任。この時重石ドル事件への関与で野党から追及を受けるが、これを切り抜けて1952年に財務部長官兼務のまま国務総理代理となり、同時に米韓合同経済委員会の代表を務める。翌1953年に正式に国務総理となった、 4月革命後の国会議員補欠選挙に出馬・当選して政界入りするが、直後に5・16軍事クーデターが勃発。
石田 武雄(いしだ たけお、1907年10月31日 - 20… 石田 武雄(いしだ たけお、1907年10月31日 - 2000年11月28日)は、日本の経営学者。 東京出身。1932年東京帝国大学工学部土木工学科卒、1956年「経営組織の実証的研究 国有鉄道の組織を中心として」で拓殖大学商学博士。国鉄勤務を経て、青山学院大学経済学部教授、1978年定年、名誉教授。管理工学が専門。
岡田 實(おかだ みのる、1907年(明治40年)10月31… 岡田 實(おかだ みのる、1907年(明治40年)10月31日 - 1991年(平成3年)1月14日)は、昭和時代の日本の電気工学者。工学博士。 戦前から航空電子工学の研究に取り組み、戦後は日本電信電話公社電気通信研究所次長、工学院大学学長、運輸省航空事故調査委員会委員長を歴任した。 愛知県名古屋市に生まれる。1931年(昭和6年)3月に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、逓信省の電気試験所に入所。航空無線の研究に従事し、日本の船舶無線航行援助方式の主流となった「反転式回転無線標識」を考案。また、のちに米国で完成され国際標準として全世界で利用されるようになるVORと同一原理の「相差式無線標識」を発明し、無線標識を中心とした航空機無線嚮導方式に関する一連の研究により1941年(昭和16年)8月に東京帝国大学から工学博士号を授与された。
面谷 誠(おもだに せい、明治37年(1904年)10月31… 面谷 誠(おもだに せい、明治37年(1904年)10月31日 - 昭和46年(1971年))は日本の実業家。銘酒暁山醸造元、面谷合名会社代表社員。元境港商工会議所会頭、顧問。 鳥取県境港市出身。米子中学校(現米子東高校)卒業後、東京大蔵省醸造試験所に入所。翌年、試験所の課程を修了すると、帰郷して家業に従事する。 昭和19年(1944年)面谷合名会社の代表社員に就任。鳥取県酒造組合理事、鳥取県醤油工業協同組合理事を歴任。酒造業界の発展に尽力。 昭和23年(1948年)境港商工会議所会頭に就任。 境町学務委員をはじめ、境高等学校水産教育振興会会長も務め、教育会でも活躍した。 酒面谷酒類醤油醸造場として、明治4年(1871年)創業、昭和17年(1942年)根平、面谷支店、生中各店の権利を譲り受ける。
土井 武夫(どい たけお、1904年(明治37年)10月31… 土井 武夫(どい たけお、1904年(明治37年)10月31日 - 1996年(平成8年)12月24日)は、日本の航空機設計者。山形県山形市香澄町出身。
木村崋邦(きむら かほう、1903年10月31日-1982年… 木村崋邦(きむら かほう、1903年10月31日-1982年12月25日)は、日本の画家。本名は木村敞(きむら たかし)。 茨城県竹原下郷(現・小美玉市)出身。1920年に上京し、関田華亭に師事して崋山系花鳥画を学ぶ。1921年、日本南画会に初出品。1922年、松林桂月の天香画塾の塾生となり、主として山水花鳥などを描く。1923年、第1回茨城美術展に初出品。1948年、日本水墨会創立展に出品。1965年、日本南画院評議員に就任(1967年同理事、1971年同常任委員)。この頃、高松宮から推賞され、志操を一新した[要出典]。1969年、水墨画研究のため、黒曜会を主宰。1970年、第15回日本南画院に「浅春」200号を出品し、その後、東京銀座において、画業50年記念個展を催した[要出典]。
高野 弘正(たかの ひろまさ、1900年〈明治33年〉10月… 高野 弘正(たかの ひろまさ、1900年〈明治33年〉10月31日 - 1987年〈昭和62年〉5月27日)は、日本の剣道家。称号は剣道範士、一刀流中西派(または小野派一刀流中西派)宗家。 小野派一刀流の剣道家高野佐三郎の次男として東京に生まれる。6歳より父の道場明信館で剣術を修行し、後に小野派一刀流を継承する。小野派一刀流の中西子定から数えて8代目にあたる。 1918年(大正7年)、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一中学校・日本大学第一高等学校)を卒業。1923年(大正12年)、東京高等師範学校体育科を卒業。1926年(大正15年)、大日本武徳会から精錬証を授与される。 昭和に入り、早稲田大学に奉職する一方、修道学院を運営、さらに劇団を作って主演もした。
宮田 重雄(みやた しげお、1900年10月31日 - 19… 宮田 重雄(みやた しげお、1900年10月31日 - 1971年4月28日)は、日本の画家、医師。 愛知県名古屋市出身。重陽の節句(9月9日)に生まれたので 重雄と名付けられた。愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に進学後、慶應義塾大学医学部入学。上京後は勉学と並行して学内に絵画部ジュヌ・パントル[仏語で若い画家の意]を創立、1923年には第1回春陽会に出品、見事入選を果たし、医師と画家、両立の道へと進んでいく。1925年同大学卒業。1928年 - 1930年パリ・パスツール研究所に留学し、医療に従事するかわたら洋画家梅原龍三郎に師事。春陽会、国画会に所属。1934年慶應義塾大学医学博士。
野村 健三(のむら けんぞう、1899年(明治32年)10月… 野村 健三(のむら けんぞう、1899年(明治32年)10月31日 - 1948年(昭和23年)6月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。陸軍砲工学校第30期を優等で卒業。東京帝国大学応用化学科卒業。 陸軍省整備局資源課高級課員、兵器局器材課高級課員、野戦兵器長官部員、兵器局器材課長を経て、1941年(昭和16年)8月、陸軍大佐に進む。1942年(昭和17年)10月、陸軍兵器行政本部総務部第3課長に転じ、1945年(昭和20年)6月に陸軍少将に進んだのち、翌7月に同本部技術部長に補され終戦を迎えた。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。