上之園 昌隆(うえのその まさたか、1936年(昭和12年)… 上之園 昌隆(うえのその まさたか、1936年(昭和12年)2月8日 - 2013年(平成25年)9月5日)は、日本の医学博士、予防医学研究家、サプリメント開発者。 京都府生まれ。1954年に京都大学医学部に入学。後に交換留学生として、パリ国立医学大学に留学。生化学を専攻し、卒業後パリに20年間在住し予防医学を研究。 その後、日本に帰国し、慶應義塾大学病院に勤務。 予防医学を浸透させるべく、1991年(平成3年)に株式会社アーヴァン研究所を開設。自身の患者の治療のためのサプリメントの製品を開発し、治療効果を上げた。開発した商品は、現在主流となっているコラーゲン、プロポリス、ブルーベリー等を主成分とした先駆的製品となっている。
今村 貞夫(いまむら さだお、1935年2月5日 - )は、… 今村 貞夫(いまむら さだお、1935年2月5日 - )は、日本の医師。医学者。京都大学名誉教授。医学博士。専門は皮膚科学。 1935年、京都府京都市生まれ。1953年、福井県立若狭高等学校卒業。1959年、京都大学医学部卒業。1968年、「ブドウ球菌、連鎖状球菌の螢光抗体法による研究:主としてアレルギー性皮膚疾患への関与について」で京都大学より医学博士号取得。1972年1月、京都大学医学部講師、1978年同助教授、1980年から1997年まで同教授。皮膚疾患に関する多くの研究を行った。 学術業績としては,小児腹壁遠心性脂肪委縮症 (Lipodystrophia centrifugalis abdominalis infantilis (Imamura)の発見が知られる。
奈倉 道隆(なぐら みちたか、1934年7月29日- )は、… 奈倉 道隆(なぐら みちたか、1934年7月29日- )は、名古屋市出身の浄土宗の僧侶、医師、東海学園大学名誉教授。専門は共生人間論、老年医学。 名古屋市生まれ。1960年京都大学医学部卒。1973年医学博士。1974年 佛教大学文学部仏教学科卒。大阪社会事業短期大学助教授、大阪府立大学社会福祉学部教授、1986年龍谷大学社会学部教授、1997年東海学園大学教授、2005年同名誉教授、四天王寺国際仏教大学教授、放送大学客員教授。 2018年6月22日、奈倉ら吉田寮出身者で組織される「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会」が、京都大学の総長の山極寿一に2018年9月以降に吉田寮の旧棟を保存活用するよう求める要請書を提出した。
中井 久夫(なかい ひさお、1934年1月16日 - 202… 中井 久夫(なかい ひさお、1934年1月16日 - 2022年8月8日)は、日本の医学者・精神科医。位階は従四位。瑞宝中綬章。文化功労者。専門は、精神病理学・病跡学。神戸大学名誉教授。学位は、医学博士(京都大学・論文博士・1966年)。 統合失調症の治療法研究が専門で、風景構成法の考案、PTSDの研究・紹介など多くの功績がある。詩の翻訳やエッセイでも知られる。筆名に楡林達夫、上原国夫がある。著書に『記憶の肖像』(1992年)、『「昭和」を送る』(2013年)など。 笠原嘉、宮本忠雄、木村敏、安永浩らと共に、日本の精神病理学第2世代を代表する人物である。専門は統合失調症の治療法研究。 中井が1969年に考案した風景構成法 (英: Landscape Montage Technique) は、心理療法におけるクライエント理解の有力なツールとして、日本で独自に創案・開発されたものである。
笠井 寛司(かさい かんじ、1933年11月2日 - 200… 笠井 寛司(かさい かんじ、1933年11月2日 - 2002年2月2日)は日本の女性器学者、産婦人科医。元滋賀医科大学助教授。 京都市左京区岡崎生まれ。京都大学医学部薬学科を経て、1961年(昭和36年)医学科を卒業。1966年に京都大学大学院医学研究科博士課程修了。1968年に医学博士号を取得。1969年より日本バプテスト病院産婦人科に勤務。その後、1976年に滋賀医科大学助教授となる。組織内分泌学の研究と解剖学的体型要素を分析した。女性のセックス(女性問題)と女性器研究と女性の性行動に実態調査を行った。 1990年から第10回日本性科学学会の学会長を務めた。組織内分泌学の研究と、生物学・老化・医学・哲学・ジェンダーの観点から女性の性器研究、男性経験など性行動の実態調査、女性器とは何かの性問題などを追及した。
畑中 正一(はたなか まさかず、1933年3月23日 - )… 畑中 正一(はたなか まさかず、1933年3月23日 - )は、日本の医学者、医師。専門はウイルス学(ヒトがんウイルス分野)。京都大学名誉教授。
伊藤 邦幸(いとう くにゆき、1931年6月28日 - 19… 伊藤 邦幸(いとう くにゆき、1931年6月28日 - 1993年8月8日)は、日本の医師。 広島県出身。1955年東京大学文学部倫理学科卒、1957年同大学院修士課程修了、1963年京都大学大学院基督教学博士課程満期退学。1960-61年南極探検隊に参加。1963-67年京大医学部学生。1963年医師黄聡美と結婚。1968年医師免許、日本キリスト教海外医療協力隊としてネパールへ医師として派遣。インドで生活。以後数次、インド、ネパールへ出張。妻・伊藤聡美(そうび、1937-86)。
太田 富雄(おおた とみお、1931年4月17日 - 201… 太田 富雄(おおた とみお、1931年4月17日 - 2016年11月27日)は、日本の脳神経外科医、大阪医科大学名誉教授。 1956年京都大学医学部卒、同大学院脳神経外科博士課程修了、1961年「合成樹脂による脳動脈瘤の破裂予防およびその補強法」で京都大学より医学博士の学位を取得。大阪医科大学教授、2002年定年退任、名誉教授、医誠会病院脳機能研究所、大阪脳神経外科病院、富永脳神経外科病院院長。
木村 敏(きむら びん、1931年2月15日 - 2021年… 木村 敏(きむら びん、1931年2月15日 - 2021年8月4日)は、日本の医学者・精神科医。位階は従四位。専門は精神病理学。河合文化教育研究所所長。学位は、医学博士(京都大学・論文博士・1964年)。京都大学名誉教授。元名古屋市立大学医学部教授。元日本精神病理学会理事長。 人間存在を探究し、「あいだ」を基軸とする独自の人間学を構築して、国内外に影響を与える。著書に『自己・あいだ・時間』(1981年)、『関係としての自己』(2005年)などがある。 1931年、朝鮮慶尚南道生まれ。旧制岐阜県斐太中学校、三高を経て、1955年に京都大学医学部卒業。1964年、京都大学より医学博士の学位を取得。
井村 裕夫(いむら ひろお、1931年(昭和6年)2月4日 … 井村 裕夫(いむら ひろお、1931年(昭和6年)2月4日 - )は、日本の医学者、医学博士。京都大学名誉教授・元総長。第27代日本学士院院長。専門は内分泌代謝病学、糖尿病学。 1931年、滋賀県神崎郡八日市町(現:東近江市)生まれ。滋賀県立八日市高等学校卒業。1954年京都大学医学部医学科卒業、医学博士。米国カリフォルニア大学内科研究員、京都大学講師、神戸大学医学部教授、京都大学医学部教授、同大学医学部長を経て、1991年~1997年京都大学総長。同時に国立大学協会会長。京大総長選挙は当時、立候補も他者推薦も無しで各教官が適任と思う人物を紙に書く制度であったため予期せず突如選ばれ、研究を一時中断するほど多忙であったという。
武田 隆男(たけだ たかお、1931年 - )は、日本の医師… 武田 隆男(たけだ たかお、1931年 - )は、日本の医師、医学博士である。愛媛県出身。武田病院グループ会長。 愛媛県出身。1958年(昭和33年)京都大学医学部卒業。 1970年(昭和45年)、のちの武田病院グループの基礎となる武田病院を開設し、院長に就任。以来、社団法人京都私立病院協会の会長や京都府医師会の理事、京都中央看護婦養成事業団(現京都中央看護師養成事業団)の理事長を務めるなど、質の高い地域医療提供活動は勿論のこと、看護師、検査技師、保健医療管理士といったコ・メディカルの養成・育成にも取り組むなど、長きにわたって保健医療福祉の面から京都の地域社会の発展に寄与し続けている。 また、社団法人日本病院会でも、副会長等、同会やその関連団体にて数多くの役職を歴任。
宇野 昌人(うの まさと、1931年 - 2014年7月10… 宇野 昌人(うの まさと、1931年 - 2014年7月10日)は、日本の精神科医。愛媛県生まれ。1956年京都大学医学部卒業。60年東京大学文学部哲学科卒業。
浅田 高明(あさだ たかあき、1930年 - 2020年2月… 浅田 高明(あさだ たかあき、1930年 - 2020年2月11日)は医師、医学博士(京都大学)。太宰治研究者。 富山市生まれ。旧制富山高等学校理科乙類を経て、1954年京都大学医学部医学科卒業。京都大学結核胸部疾患研究所において結核および呼吸器学を専攻する。1960年京都大学医学博士。論文の題は「ツベルクリン過敏性の局所性受身感作に関する実験的研究」。(財)近江サナトリウム、京都府立洛東病院、国立療養所宇多野病院勤務のあと1988年現在、ダイハツ工業株式会社 京都工場診療所長を務めた。 その傍ら太宰治の人と文学に関する実証的研究に長年携わってきた。 その中で『パンドラの匣』 のモデルとなった木村庄助の実家の取材を通じて、この面における太宰治研究の第一人者として知られる。
藤縄 昭(ふじなわ あきら、1928年10月4日 - 201… 藤縄 昭(ふじなわ あきら、1928年10月4日 - 2013年1月29日 )は、日本の医学者・精神科医。専門は精神病理学。学位は、医学博士(京都大学・1959年)。京都大学名誉教授。国立精神・神経センター精神保健研究所所長などを歴任。 兵庫県神戸市生まれ。京都大学精神科において村上仁教授のもとで精神病理学を学んだ。加藤清、笠原嘉、木村敏らと共に研究を行い、『京都学派』を形成した。 1928年兵庫県神戸市生まれ。1953年京都大学医学部医学科卒業。1960年四日市日永病院、三重県立大学医学部講師。1959年京都大学より医学博士の学位を取得。1976年京都大学教養部教授。1977年-1983年文部省在外研究によりウィーン大学、ミュンヘン大学精神医学教室出張。
阪本 健二(さかもと けんじ、1928年6月26日- )は、… 阪本 健二(さかもと けんじ、1928年6月26日- )は、日本の精神科医。 大阪府に坂本病院創設者・阪本三郎の長男として生まれる。弟は阪本良男。1953年京都大学医学部卒、55年助手、1956年ニューヨーク大学ベルビュー病院助手、57年ロンドン大学神経学研究所助手、58年阪本病院副院長、1959年京都大学医学博士。62年京大講師。68年父三郎の死により阪本病院院長、1979年財団法人阪本精神病理学研究所設立。長女の夫は岩井圭司(神戸大学医学博士、兵庫教育大学教授)。
笠原 嘉(かさはら よみし、1928年1月26日 - 202… 笠原 嘉(かさはら よみし、1928年1月26日 - 2025年10月6日)は、日本の医学者・精神科医。専門は精神病理学。名古屋大学名誉教授。元藤田保健衛生大学教授。元日本精神神経学会理事長。学位は、医学博士(京都大学・1959年)。 中井久夫、宮本忠雄、木村敏、安永浩らとともに、日本における精神病理学第2世代を代表する人物である。1958年、京都大学で師事した村上仁教授から精神病理学を学んだ。学園紛争時代には京都大学保健管理センターに勤務し、ひっそりと留年をくり返す学生に気づき、スチューデント・アパシー(退却神経症)の研究を行った。また、日本における健康保険制度は諸外国と比して低廉に受診できるメリットがあるが、一方面接時間は10分程度が限界であり(初診のみ45分程度必要と述べている)、薬物療法を補完する技法として外来でできる小精神療法を提唱している。
細川汀(ほそかわ みぎわ、1927年(昭和2年)2月27日-… 細川汀(ほそかわ みぎわ、1927年(昭和2年)2月27日-2020年(令和2年)1月21日)は、日本の医師、医学者。 岡山県高梁市生まれ。京都大学医学部卒、1961年三重県立大学医学博士。大阪市立衛生研究所、関西医科大学衛生学公衆衛生学教室講師、京都府立衛生公害研究所、京都府向陽保健所長、京都市衛生研究所、京都府立大学教授、90年定年、神戸健康共和会労働医学研究所。京都府交通・労働等災害救済事業団。働く人の生命と健康を守る全国センターなどの参与。専攻は労働医学、社会医学、地域保健医療福祉。「過労死」の語の名付け親の一人。
宇佐 晋一(うさ しんいち、1927年2月21日 - 202… 宇佐 晋一(うさ しんいち、1927年2月21日 - 2025年6月5日)は、日本の精神科医、森田療法家。父である宇佐玄雄の後を継ぎ、京都市の三聖病院の第2代院長として長年にわたり森田療法の実践を行った。特に森田療法を禅の思想と融合させた「禅的森田療法」として徹底させたことで知られる。 父・玄雄の死後、1957年に29歳という若さで三聖病院院長に就任した晋一は、講話を工夫するために禅の勉強を始めた。晋一にとって決定的な転換点となったのは、三省会に出席した臨済宗の老師からの厳しい批判であった。老師は森田療法を「造花」と評し、「禅はそれを言葉を用いずにやる」「禅には別種の論理がある」と述べた。この経験から、晋一は「負けてなるものか」と奮起し、「論理を抜くこと、つまり理屈抜きということの徹底」を目指すことになった。
白崎 昭一郎(しらさき しょういちろう、1927年1月17日… 白崎 昭一郎(しらさき しょういちろう、1927年1月17日 - 2014年8月3日)は、作家、歴史家、医師。 東京生まれ。1950年京都大学医学部卒。開業医、福井保健所長、福井工業大学教授、97年定年退職。『福井県史』古代史部会の副部会長などを務めた。
中川 米造(なかがわ よねぞう、1926年3月23日 - 1… 中川 米造(なかがわ よねぞう、1926年3月23日 - 1997年9月30日)は、日本の医師・医学者。 朝鮮・京城生まれ。穀物取引業を営む中川泰治の長男。京都府出身。旧制松江高等学校を経て1949年京都大学医学部卒、1955年医学博士。1950年京都大学附属病院耳鼻科助手、1955年大阪大学医学部講師、80年教授。89年定年退官し、名誉教授。滋賀医科大学教授、大阪国際女子大学教授を経て、1996年仏教大学教授。1970年阪大医学部の森永ヒ素ミルク中毒症追跡調査会代表を務め、訴訟では原告側証人として因果関係を証言。68年に札幌医科大学で実施された日本初の心臓移植(和田心臓移植事件)については告発する会を結成し、「病者のための人権宣言」を発表。
千葉 康則(ちば やすのり、1925年9月25日 - 200… 千葉 康則(ちば やすのり、1925年9月25日 - 2004年12月16日)は、日本の脳生理学者、医師。医学博士(1956年)(学位論文「ヒキガエルの膀胱の神經支配 」)。法政大学名誉教授。 東京府(現墨田区)生まれ。京都大学医学部卒。1956年医学博士。学位論文の題は 「ヒキガエルの膀胱の神經支配 」。 京都大学医学部助手、山口県立医科大学(現山口大学医学部)助教授、法政大学教養部教授、1996年定年、名誉教授。2003年瑞宝中綬章叙勲。知能研究所所長。日本生理学会、日本健康科学学会、たばこ問題を考える会会員。専攻は脳生理学、行動科学。 2004年12月16日、慢性腎不全のため死去。
谷口 謙(たにぐち けん、1925年5月28日 - 2022… 谷口 謙(たにぐち けん、1925年5月28日 - 2022年10月3日)は、京都府中郡口大野村(現・京丹後市大宮町口大野)出身の医師・詩人。京丹後市名誉市民。 1925年(大正14年)5月28日、京都府中郡口大野村(現・京丹後市大宮町口大野)に生まれた。父は開業医の谷口海山、母はしん。父方の曽祖父は峰山藩士の儒医であり、母方の曽祖父は姫路藩勘定奉行、母方の祖父は姫路町収入役だった。夭逝した兄、2人の姉がいた。2歳だった1927年(昭和2年)3月7日に北丹後地震を経験したが、幼少だったため地震の記憶はないという。 1932年4月(昭和7年)に口大野尋常高等小学校に入学し、1938年(昭和13年)3月に卒業した。
逸見 武光(へんみ たけみつ、1925年3月8日 - 200… 逸見 武光(へんみ たけみつ、1925年3月8日 - 2002年3月25日)は、日本の精神科医。 京都市出身。京都帝国大学附属医学専門学校精神科卒。1960年「てんかん及び類てんかんの犯罪精神医学的研究」で京都大学医学博士。京大医学部精神医学教室、法務省大津少年鑑別所、総合研究所、文部省、東京大学医学部教授、1985年定年退官、聖マリアンナ医学研究所顧問。島津一郎らと研究会を開いた。薬物依存治療を研究した。
太田 美實(おおた よしみ、1924年11月1日 - 201… 太田 美實(おおた よしみ、1924年11月1日 - 2015年1月16日)は、日本の内科・小児科・泌尿器科医師、馬主。 京都府京都市東山区に所在する太田医院元院長。京都馬主協会に所属していた馬主でもあり、1993年のダービー馬のウイニングチケットなどを所有していた。妻の珠々子は本城珠喜の芸名で活動していた元タカラジェンヌである(宝塚歌劇団37期生)。 1924年、京都府出身。京都大学医学部を卒業し、その後太田医院を開院した。1993年時点では東山医師会の会長を務めていた。 2015年1月16日、心不全のため逝去。90歳没。 日本中央競馬会(JRA)および地方競馬全国協会(NAR)に登録した馬主としても知られた。
大橋 博司(おおはし ひろし、1923年9月26日 - 19… 大橋 博司(おおはし ひろし、1923年9月26日 - 1986年9月21日)は、日本の医学者・精神科医。国立京都病院(現:国立病院機構京都医療センター)院長。京都大学名誉教授。専門は臨床精神医学、特に失語症を中心とする神経心理学。 1946年京都大学医学部卒業後、医学を専門とするかたわら帝塚山大学にて哲学や古典を勉強した。1953年「失語における一般障碍について」で京都大学より医学博士の学位を取得。 1973年 - 1985年京都大学精神医学教室教授(第4代)。
荻野 恒一(おぎの こういち、1921年6月19日 - 19… 荻野 恒一(おぎの こういち、1921年6月19日 - 1991年10月15日)は、日本の医学者・精神科医。専門は精神病理学。南山大学文学部教授、金沢大学教育学部教授、慶應義塾大学客員教授を務めた。 1921年、大阪で生まれた。旧制山口高等学校を経て、京都帝国大学医学部医学科に進学。1944年9月に同大学を卒業。 1944年10月、京都帝国大学医学部精神医学教室副手に採用され、実施修練に入った。後に助手、講師昇格。1952年、学位論文『易感性関係妄想の成立機転』で京都大学より医学博士の学位を取得。1953年3月から1955年12月まで、パリ大学医学部精神医学教室にに研究留学。 1956年1月、南山大学文学部教育家助教授に就任、のち教授に昇格。
菅原 努(すがはら つとむ、1921年2月5日 - 2010… 菅原 努(すがはら つとむ、1921年2月5日 - 2010年10月1日)は、日本の医学者・医師。京都大学名誉教授。専門は放射線基礎医学。 旧制浪速高等学校を経て、1944年京都帝国大学医学部卒業。1950年大阪大学理学部卒業。三重大学医学部助教授、1960年国立遺伝学研究所変異遺伝部副部長、1961年放射線医学総合研究所室長、京都大学医学部放射能基礎医学教室初代教授。同放射線生物研究センター長、医学部長、1985年定年退官、名誉教授、国立京都病院院長。財団法人慢性疾患・リハビリテイション研究振興財団理事長。 1995年、勲二等瑞宝章を受章。2010年10月1日、慢性腎不全のため死去。
秋月 辰一郎(あきづき たついちろう、1916年(大正5年)… 秋月 辰一郎(あきづき たついちろう、1916年(大正5年)1月3日 - 2005年(平成17年)10月20日)は、日本の医師で、元長崎聖フランシスコ病院院長。長崎へ原爆が投下された当時、自らも被爆しながら、医師として負傷した被爆者の治療にあたった。また、医師のかたわら、原爆の証言の収集を長年に渡って行った。 秋月平和賞は、生前の秋月辰一郎の平和貢献活動をたたえて長崎市の市民団体が2008年(平成20年)に創設した賞である。秋月平和賞は核兵器廃絶に貢献する活動をしている個人や団体に贈られ、2024年には15回目となった。 この項目は、医療関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:医学と医療、PJ:医学、PJ:歯学)。
宮崎 淳臣(みやざき きよおみ、1915年(大正4年)4月2… 宮崎 淳臣(みやざき きよおみ、1915年(大正4年)4月27日 - 没年不明)は、日本の陸軍軍人(軍医将校)、医師。最終階級は陸軍軍医少佐。かつて731部隊に所属していた。宮崎神経科嵯峨病院創立者。子に豊田潤多郎、孫に豊田剛一郎。紺綬褒章受章者。 兵庫県出身。宮崎伝治の長男として生まれる。旧制姫路高等学校理科乙類を経て、1939年(昭和14年)に京都帝国大学医学部を卒業後、近衛歩兵第1連隊付軍医中尉に任官。1943年(昭和18年)軍医少佐に累進後、陸軍軍医学校教官兼陸軍軍医学校中山出張所長を務める。1946年(昭和21年)千葉県血清製造初代所長となり、1948年(昭和23年)公職追放され医院を開業。
日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年〈明治44年〉1… 日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年〈明治44年〉10月4日 - 2017年〈平成29年〉7月18日)は、日本の医師、医学者。位階は従三位。学位は医学博士(京都帝国大学)。聖路加国際病院名誉院長、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長。 京都帝国大学医学部副手、大日本帝国海軍軍医少尉などを経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長、英知大学客員教授などを歴任した。 京都帝国大学医学部第三内科副手、大日本帝国海軍軍医少尉等を経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーバード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長等を歴任した。
山田 憲吾(やまだ けんご、1911年(明治44年)9月1日… 山田 憲吾(やまだ けんご、1911年(明治44年)9月1日 - 1990年(平成2年)1月19日)は、日本の医学者、整形外科医。新潟県北蒲原郡中条町(現胎内市)出身。京都帝国大学医学部医学科卒業。徳島大学名誉教授。勲二等瑞宝章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
間中 喜雄(まなか よしお、1911年4月11日 - 198… 間中 喜雄(まなか よしお、1911年4月11日 - 1989年11月20日)は、日本の外科医、鍼灸師、医学博士。 神奈川県足柄下郡小田原町(現小田原市)出身。 1935年に京都帝国大学医学部を卒業し、同大学病院で外科を習得後、父の開業した間中外科医院を継ぐ。第二次世界大戦に医師として従軍、1946年に復員すると間中外科医院を医療法人温和会間中病院に改組した。 西洋医学の医師でありながら、東洋医学、特に鍼灸医学の普及発展に貢献し1950年には日本東洋医学会の設立に参加した。1957年に京都大学医学部で医学博士号を取得、小田原医師会会長に就任。その後、中国やアメリカ、フランスなどで講演活動を行う。
野村 良樹(のむら よしき、1911年 - 1946年)は、… 野村 良樹(のむら よしき、1911年 - 1946年)は、日本の医学者、精神科医。旧制京都一中、旧制三高、京都帝国大学医学部卒業。 ウジェーヌ・ミンコフスキー『精神分裂病』(村上仁共訳) 弘文堂書房、1946年 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
村上 仁(むらかみ まさし、1910年1月26日 - 200… 村上 仁(むらかみ まさし、1910年1月26日 - 2000年11月1日)は、日本の医学者・精神科医。専門は精神病理学。京都大学名誉教授。元名古屋市立大学医学部教授、元兵庫医科大学医学部教授。学位は、医学博士。 西丸四方、島崎敏樹らと共に、日本の精神病理学第一世代を代表する人物である。精神医学の基礎領域である精神病理学を広く精神科臨床に根付かせるなど、日本の精神医学の発展に大きく貢献した。1964年には日本精神病理・精神療法学会を創設し、後に京都学派と呼ばれる多くの精神医学者を輩出した。フランス留学時にはジャネの心理学体系を学び、ウジェーヌ・ミンコフスキー、ルートヴィヒ・ビンスワンガー、メダルト・ボスなどの人間学的理解に加えて、ジークムント・フロイトの精神力動的視点から患者の精神構造の理解を試みた。
石川 太刀雄(いしかわ たちお、1908年3月29日 - 1… 石川 太刀雄(いしかわ たちお、1908年3月29日 - 1973年10月19日)は、医師、病理学者。父は同じく医学博士の石川日出鶴丸。別名「石川 太刀雄丸」(いしかわ たちおまる)、「石川 大刀雄」いしかわ たちお)。 1908年、石川日出鶴丸の息子・太刀雄丸として富山県射水郡下村で誕生。本人の弁によると、自分としては太刀雄であるが戸籍係の間違いで丸の字がついたのだ、といわれている。第四高等学校 (旧制)を経て、1931年、京都帝国大学医学部を卒業。 卒業後は、同大医学部講師に就任。1938年、医学博士の学位を取得した。京都帝国大学の病理学者清野謙次の勧めで、大日本帝国陸軍技師として満州国にわたった。
鄭 準謨(チョン・ジュンモ、朝鮮語: 정준모、1904年5月… 鄭 準謨(チョン・ジュンモ、朝鮮語: 정준모、1904年5月23日 - 1978年11月26日)は、大韓民国の医師、病院経営者、陸軍軍人(陸軍少領)、政治家、実業家。保健社会部次官・長官、第3・4代韓国国会議員を歴任した。 本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。漢字表記は鄭準模とも。 全羅北道(現・全北特別自治道)長水郡出身。京城薬専、平壌医専を経て、1937年京都帝国大学(現・京都大学)医学部研究科卒。1939年医学博士号取得。1928年医師試験合格。同仁外科医院経営者、ソウル医師会副会長、陸軍軍医学校校長、保健社会部次官(1952年)、高等選考委員、大韓医学協会理事、大韓赤十字社副総裁、第3代国会保社委員長、自由党中央委員、第2代保健社会部長官(1956年5月26日~1957年6月16日)を務めた。
趙 瓊奎(チョ・ギョンギュ、朝鮮語: 조경규、1904年1月… 趙 瓊奎(チョ・ギョンギュ、朝鮮語: 조경규、1904年1月6日 - 1983年1月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の産婦人科医、実業家、政治家。第2・3・4代韓国国会議員、第3代前・後期民議院副議長。 本貫は咸安趙氏。ジャーナリストの趙鏞寿(朝鮮語版)の叔父である。 慶南咸安出身。培材高普、セブランス医学専門学校(現・延世大学校)卒、京都帝大大学院修了。産婦人科医、大邱民報社長、大邱時事新報社長、慶北国民訓練院長、国民会大邱市副委員長・大邱支部組織部長・慶尚北道支部長・中央本部副会長、大韓労総最高委員を歴任した。1948年の初代総選挙に出馬したが落選し、1950年の第2代総選挙で大邱市から初当選し、自由党院内議員部政策委員長・中央委員、国会懲戒資格委員長・内務治安委員長・全院委員長・内務委員長、第3代国会民議院副議長を務めた。
金 憲植(キム・ホンシク、朝鮮語: 김헌식、1904年 - … 金 憲植(キム・ホンシク、朝鮮語: 김헌식、1904年 - 没年不詳)は、大韓民国の医師、政治家。第2代韓国国会議員。 京都帝国大学(現・京都大学)研究科卒。医師であったほか、論山邑消防署長などを務めた。1950年の第2代総選挙では論山甲選挙区から無所属で出馬し当選したが、朝鮮戦争時に北朝鮮に拉致された。
栗原 善夫(くりはら よしお、1902年〈明治35年〉12月… 栗原 善夫(くりはら よしお、1902年〈明治35年〉12月26日 - 1977年〈昭和52年〉11月21日)は、日本の皮膚科学者、皮膚科医。医学博士。大阪医科大学名誉教授、日本皮膚科学会名誉会員。趣味は蝶の収集。 新潟県西蒲原郡味方村大字西白根(現 新潟市南区西白根)の白根尋常高等小学校訓導・栗原九十九の長男として出生。1908年(明治41年)4月の父の吉田尋常高等小学校への異動に伴って新潟県西蒲原郡吉田村(現 燕市)に転居。 吉田尋常高等小学校を経て、1921年(大正10年)3月に新潟中学校を卒業、1925年(大正14年)3月に新潟高等学校を卒業、1930年(昭和5年)3月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。
八木 日出雄(やぎ ひでお、1899年(明治32年)8月18… 八木 日出雄(やぎ ひでお、1899年(明治32年)8月18日 - 1964年(昭和39年)5月6日)は日本の医学者、医師(産婦人科医)。岡山大学教授、同大医学部長、1958年-1962年まで第3代学長などを歴任した。義兄(妻の兄)に競泳選手の松沢一鶴。 兵庫県出身。第三高等学校(旧制)、京都帝国大学を卒業し、岡山医科大学(旧制)教授に招かれ産婦人科教室を主宰した。新制岡山大学に移行し、同医学部教授となる。昭和32年8月医学部長、翌33年6月1日より昭和37年5月31日まで岡山大学長(第3代)に就任。 第三高等学校在学時代からエスペラントに惹かれ、普及のための講演活動に従事したが、生涯継続した。
細野 史郎(ほその しろう、1899年8月1日 - 1989… 細野 史郎(ほその しろう、1899年8月1日 - 1989年5月6日)は、日本の医者。東洋医学の発展に貢献した人物の一人。 京都府綾部市出身。1927年京都帝国大学医学部卒業。幕末から明治時代にかけて活躍した浅田宗伯の流れを汲む漢方医学の医師新妻良輔の弟子となり、東洋医学を学んだ。弟子には坂口弘らがいる。1950年に日本東洋医学会が設立され、坂口らとともに参加した。また、漢方エキス製剤の臨床研究を重ね、今日のエキス製剤による漢方治療の道を開いた。
五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - … 五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - 2000年4月23日)は、日本の俳人、内科医。本名は久雄(ひさお)。兵庫県出身。 姫路市鍛冶町に生まれる。野里尋常小学校、姫路中学校、第三高等学校を経て、1923年京都帝国大学医学部卒業。卒業後に松尾内科勤務を経て、神戸市立中央市民病院に勤務。同病院の副院長・院長を1959年まで務める。1961年に神戸市生田区で五十嵐内科を開業、1993年まで医師として務めた。 大学在学中の1920年より句作をはじめ、京大三高俳句会で高浜虚子と出会い師事する。1922年、「京鹿子」同人。1930年、山本梅史の跡を継いで「九年母」選者。1932年、「ホトトギス」同人。
安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - … 安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - 1983年4月22日)は、日本の医師・歴史家。ゾルゲ事件に連座して執行猶予付きの有罪判決を受けた。 京都市生まれ。妹は高倉輝夫人。父の死後一家が伯母(山本宣治の母)の経営する旅館(宇治・花やしき浮舟園)に引き取られる。 1920年、京都帝国大学医学部に入学。在学中から従兄の山本宣治の産児制限運動に関わる。1930年、医学博士。さらに無産運動に関係し、医師としてこれを支援。 1933年、共産党シンパとして検挙された。1941年にはリヒャルト・ゾルゲらのゾルゲ諜報団に連座し逮捕、1942年に事件裁判で有罪判決(執行猶予付き)を受けた。 医師としてドイツ語に優れ、唯物論的科学思想史の研究を行い、ジークムント・フロイトの訳・解説は今日まで重版。
尹 日善(ユン・イルソン、いん にちぜん、1896年10月5… 尹 日善(ユン・イルソン、いん にちぜん、1896年10月5日 - 1987年6月22日)は、大韓民国の医師、教育者、医学者、大学教授。大韓民国学術院会長、ソウル大学校総長などを歴任した韓国医学界の泰斗。本貫は海平尹氏(朝鮮語版)、号は東湖(동호、ドンホ、とうこ)。日本姓、日本名は伊東 日善(いとう にちぜん)。 1896年10月5日、日本の東京府東京市にて、教育者の尹致旿(ko:윤치오)と李淑卿(이숙경、李敬淑とも)夫妻の長男として生まれる。 父の致旿は1884年の甲申政変で日本に避難した後一旦帰国、その後日本留学生監督に任命されるなど日本との往来が多い人物だった。1906年に大韓帝国に帰国し、父の職場近くにあった漢城府鋳洞(日本名日出町)の京城日出小学校に通った。
日高 忠男(ひだか ただお、1896年(明治29年)1月6日… 日高 忠男(ひだか ただお、1896年(明治29年)1月6日 - 1974年(昭和49年)5月31日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(当選1回)、医学博士。 島根県邑智郡、後の出羽村(瑞穂町を経て現邑南町)で生まれる。旧制島根県立杵築中学校、旧制第六高等学校を経て、1922年(大正11年)京都帝国大学医学部を卒業。その後、同大学院で研修し、1929年(昭和4年)医学博士を取得した。興仁会病院(浜田市)勤務、浜病院(新宮市)勤務を経て、1931年(昭和6年)松江市で日高医院を開業した。 1947年(昭和22年)島根県医師会長に就任。1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙に島根県全県区から自由党から立候補して3位で当選。
尹 致旺(ユン・チワン、朝鮮語: 윤치왕、1895年2月17… 尹 致旺(ユン・チワン、朝鮮語: 윤치왕、1895年2月17日 - 1982年12月21日)は、韓国の産婦人科医師、軍医である。朝鮮戦争時、彼は軍医官として在職し軍医官を教育、育成した。尹雄烈の庶子であり政治家である尹致昊の異母弟。字は「聖雲」、号は「南圃」。日本名は「伊東致旺」。 1895年、漢城府生まれ。京都帝国大学で学び、1930年8月5日、京都帝国大学大学院で医学博士号を取得(産婦人科分野)。また、グラスゴー大学大学院 医学修士(産婦人科分野)。 1949年8月18日、陸軍本部医務監となる(~1953年9月5日)。。 1953年5月16日、少将に任ぜられる。1956年11月より、第2軍管区司令官。
笹川 久吾(ささがわ きゅうご、1894年〈明治27年〉9月… 笹川 久吾(ささがわ きゅうご、1894年〈明治27年〉9月5日 - 1968年〈昭和43年〉5月16日)は、日本の生理学者、医師。医学博士。京都大学名誉教授、日本生理学会特別会員、日本体力医学会名誉会員。日本鍼灸学会初代会長。 新潟県西蒲原郡金巻村大字大野町(現 新潟市西区大野町)出身。1914年(大正3年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第四高等学校を卒業、1923年(大正12年)6月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。 1925年(大正14年)6月に京都帝国大学医学部生理学第二講座(担任:石川日出鶴丸教授)助手に就任、1928年(昭和3年)11月に大阪高等医学専門学校教授に就任、1929年(昭和4年)6月に京都帝国大学から医学博士号を取得。
前田 和三郎(まえだ わさぶろう、1894年〈明治27年〉7… 前田 和三郎(まえだ わさぶろう、1894年〈明治27年〉7月28日 - 1979年〈昭和54年〉8月17日)は、日本の整形外科医、医学博士、慶応義塾大学教授。 大阪市出身。1920年京都帝国大学医学部卒。卒業後は同大学の副手となる。1922年に助手となり、翌年同大学院に入り、1925年学位を受け、講師となる。1926年熊本医大(現・熊本大学医学部)教授兼整形外科医長となり、1928年慶應義塾大学医学部教授兼整形外科教室主任。1948年医師国家試験委員。1951年立川病院長も兼任した。この間文部省在外研究員として欧米に留学。日本外科学会、日本整形外科学会、日本胸部外科学会、麻酔学会の各会長を務めた。
浦本 政三郎(うらもと せいさぶろう、1891年〈明治24年… 浦本 政三郎(うらもと せいさぶろう、1891年〈明治24年〉5月21日 - 1965年〈昭和40年〉10月8日)は日本の医学博士、尺八奏者。山形県鶴岡市出身。号である浦本 浙潮(うらもと せきちょう)の名でも知られる。 1891年(明治24年)、山形県西田川郡大宝寺村新斎部万年橋(現在の鶴岡市新海町)の名家、榊原家に生まれる。幼少期を鶴岡市で過ごすが、荘内中学校在学中に熊本の浦本家に入り、熊本中学校に転校する。その後は旧制五高、京都帝国大学医科大学、同大学院を経て1921年(大正10年)に医学博士となる。その後は東京慈恵会医科大学の教授を務め、1951年(昭和26年)ごろに退職、浦本研究所を開設する。
服部 峻治郎(はっとり しゅんじろう、1890年(明治23年… 服部 峻治郎(はっとり しゅんじろう、1890年(明治23年)12月18日 - 1983年(昭和58年)4月19日)は、日本の医学者、小児科医。医学博士。第14代京都大学総長。 1890年兵庫県生まれ。京都帝国大学教授、同病院長を経て1951年に京都大学総長に就任。その直後、昭和天皇の京都大学視察訪問に際し、学生が公開質問状を用意し「平和の歌」をうたって迎えた『京大天皇事件』が起こり、その責任をとって1953年辞任。1983年に92歳で死去。 主な受章歴は以下のとおり。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。