大橋 吉之輔(おおはし きちのすけ、1924年11月27日 … 大橋 吉之輔(おおはし きちのすけ、1924年11月27日 - 1993年11月2日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。 1937年に広島高師附属中学校に入学、いわゆる「四修」で四年で卒業し、1941年に旧制広島高校に進学。1943年に東京帝国大学に入学した。1945年、召集を受けて朝鮮に派兵されるが間もなく終戦となり、戦後八か月ほど同地に滞在した後、1946年に帰国。1948年3月に東京帝大文学部英文科を卒業する。学生時代は慶應義塾とは一切関わりがなかった。東大では、中野好夫に師事した。卒業論文でシャーウッド・アンダスン論を書こうとしたが、そのための資料が東大の図書館にはほとんどなく、早稲田大学の龍口直太郎教授が作品を所蔵していることを聞きつけ、直談判し資料の貸し出しに成功した。
伊狩 章(いかり あきら、1922年3月31日 - 2015… 伊狩 章(いかり あきら、1922年3月31日 - 2015年3月19日)は、国文学者、新潟大学名誉教授。叙正四位。
安川 定男(やすかわ さだお、1919年6月17日 - 20… 安川 定男(やすかわ さだお、1919年6月17日 - 2007年1月14日)は、国文学者、中央大学名誉教授。文芸誌『同時代』同人。
清水 孝之(しみず たかゆき、1918年11月5日 - 19… 清水 孝之(しみず たかゆき、1918年11月5日 - 1994年3月1日)は、日本の国文学者。愛知県三河地方の小中高校の校歌を数多く作詞した。 1918年、愛知県岡崎市で生まれた。1936年、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)を卒業。東京帝国大学文学部国文科に進み、1941年に卒業。 卒業後は、愛知第二師範学校講師に就いた。その後、安城女子専門学校(現・愛知学泉短期大学)講師。1951年、広島女子短期大学助教授となった。次いで高知女子大学助教授。1962年、学位論文『蕪村は画家か俳人か:その俳諧史的研究』を大阪大学に提出して文学博士号を取得。愛知県立芸術大学教授となり、在任中は同附属図書館長も務めた。
安田 章生(やすだ あやお、1917年〈大正6年〉3月24日… 安田 章生(やすだ あやお、1917年〈大正6年〉3月24日 - 1979年〈昭和54年〉2月13日)は、昭和期の歌人、国文学者。文学博士。 尾上柴舟門下の歌人・安田青風の長男として兵庫県に生まれる。2歳のとき朝鮮・釜山に、4歳のとき京城に移る。1921年、兵庫県揖保郡龍野町(現たつの市)に転居。1925年、宍粟郡山崎町に移る。 龍野中学校(現兵庫県立龍野高等学校)、姫路高等学校文科を経て、東京帝国大学国語国文学科卒。大手前高等女学校教諭となる。戦中は土浦海軍航空隊教授嘱託、海軍教授を務める。1945年、天理語学専門学校(現天理大学)教授。1946年、樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大学)教授。
多田 幸蔵(ただ こうぞう、1916年2月4日 - 2010… 多田 幸蔵(ただ こうぞう、1916年2月4日 - 2010年2月25日)は、日本の英文学者。東京大学名誉教授。 愛媛県生まれ。福岡高等学校を経て、1940年(昭和15年)東京帝国大学英文科卒。群馬県立高崎中学校教諭、1943年応召、満州で軍務につく。1946年福岡高校講師、1947年教授、1949年九州大学助教授、1950年東京大学教養学部助教授を経て教授、1976年定年退官し名誉教授、のち専修大学教授(1986年まで)。1989年勲三等旭日中綬章受章。2010年2月25日没 享年94。 受験生向けの英語参考書を多く執筆し、翻訳書が多くある。
井浦 芳信(いのうら よしのぶ、1914年12月8日 - 1… 井浦 芳信(いのうら よしのぶ、1914年12月8日 - 1994年)は、日本の国文学者・演劇研究者。専門は、日本近世文学・近世演劇。中世に興った地方芸能の調査研究も行った。 福岡市地行西町(現・地行)にある浄土真宗本願寺派浄満寺の住職井浦領順の二男として生まれる。1932年福岡県中学修猷館、1935年旧制福岡高等学校文科甲類、1938年東京帝国大学文学部国文学科卒業、同大学大学院に進学し、1939年3月、同大学文学部副手となり国文学研究室に勤務する。 1945年10月旧制弘前高等学校教授となり、1950年3月同校が弘前大学となると、同大学文理学部の教授に就任。1953年8月から1959年4月まで同大学評議員も務めた。
森 有正(もり ありまさ、1911年11月30日 - 197… 森 有正(もり ありまさ、1911年11月30日 - 1976年10月18日)は、日本の哲学者、フランス文学者。 東京府豊多摩郡淀橋町角筈(現・東京都新宿区西新宿)生まれ。明治時代の政治家森有礼の孫に当たる。父の森明は有礼の三男で、有馬頼寧の異父弟、キリスト教学者、牧師。母は伯爵徳川篤守の娘。祖母寛子は岩倉具視の五女。妹は世界平和アピール七人委員会の委員を務めた関屋綾子。 生後間もない1913年に洗礼を受けてクリスチャンとなり、6歳からフランス人教師のもとでフランス語、後にラテン語を学んだ。暁星小学校・暁星中学校から東京高等学校 (旧制)を経て1938年に東京帝国大学文学部哲学科を卒業(卒論は『パスカル研究』)、同大学院を経て東京帝国大学の特研生、副手、助手を歴任。
小川 和夫(おがわ かずお、1909年8月10日 - 199… 小川 和夫(おがわ かずお、1909年8月10日 - 1994年3月26日)は、日本の英文学者。元NHK職員。 東京市浅草区(現・東京都台東区)生まれ。水戸高等学校文科乙類を経て、1935年に東京帝国大学文学部英文科を卒業。 翌1936年に当時社団法人だったNHKにアナウンサーとして入局。戦前のNHKは軍の宣伝機関であったこともあり、今日のような分業制はとられておらず、報道記者も兼ねていた。戦後の改革で報道専業となり、外信部(現在の国際部)に配属。1961年ロンドン支局長、1962年ヨーロッパ総局長、1965年報道局長、1967年解説委員室主幹。 記者勤務の傍ら、イギリス・ロマン派の文学を研究、翻訳を行った。
朝倉 季雄(あさくら すえお、1909年6月29日 - 20… 朝倉 季雄(あさくら すえお、1909年6月29日 - 2001年4月11日)は、日本の文学研究者、フランス語学者・フランス文学者。 東京生まれ。1922年 東京私立暁星小学校卒業。1927年東京私立暁星中学校卒業、1931年官立東京高等学校文科丙類卒業、1934年 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科卒業。母校・暁星小学校の教師となる。1946年日本大学三島予科教授、1949年茨城大学助教授、1953年東京大学教養学部助教授。1959年9月よりNHK教育で始まったテレビフランス語講座の講師となる(1962年まで)。1961年東大教授、1970年定年退官、中央大学経済学部教授。1987年東京大学名誉教授。
伊藤 武雄(いとう たけお、1909年(明治42年)1月11… 伊藤 武雄(いとう たけお、1909年(明治42年)1月11日 - 1977年(昭和52年)9月16日)は、日本のドイツ文学者。 大阪府大阪市生まれ。1921年大阪市浪速区難波立葉尋常小学校卒業、1925年大阪府立市岡中学校4年修了、1928年第三高等学校文科乙類卒業、1931年東京帝国大学文学部独文科卒業。 1933年に宇都宮高等農林学校非常勤講師に就いたのを皮切りに、1934年に第八高等学校専任講師、1935年教授に就任し、1948年に名古屋大学に転じて文学部助教授、1958年教授に就任した。 1959年「ケラー叙事文学の研究」で名大文学博士。同著で中日文化賞受賞。1972年に定年で退官した後は名誉教授となった。
高野 巽(たかの たつみ、1907年7月29日 - 没年不明… 高野 巽(たかの たつみ、1907年7月29日 - 没年不明)は昭和期の日本の文学者。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの研究で知られる。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1925年卒業)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文学部を卒業した。 東大卒業後、熊本高等工業学校講師、教授、第五高等学校教授を経て熊本大学教授となる。1961年から熊本大学法文学部長に就任した。定年退官まで母校である第五高等学校の後身の熊本大学の教壇に立ち続けた。 また、学生運動が盛んな頃は学生部長も務めた。退官後は名誉教授となり、熊本工業大学の教授も務めた。
犬養 孝(いぬかい たかし、1907年〈明治40年〉4月1日… 犬養 孝(いぬかい たかし、1907年〈明治40年〉4月1日 - 1998年〈平成10年〉10月3日)は、日本文学者(万葉学者)。大阪大学名誉教授、甲南女子大学名誉教授。文化功労者。高岡市万葉歴史館名誉館長。 1907年、下谷区谷中清水町一番地(現・東京都台東区池之端3-1)に生まれた。1929年、第五高等学校文科甲類を卒業。東京帝国大学文学部国文学科に進み、1932年に卒業した。 卒業後は、神奈川県立横浜第一中学校教諭となる。1942年、台北高等学校教授に任じられる。高等学校では国文学を教え、東京帝国大学文学部卒業後、台北高校で教鞭を執り、辜寛敏や竹内昭太郎の担任を務めた。終戦後は大阪大学で教授として教えた。
阪本 越郎(さかもと えつろう、1906年(明治39年)1月… 阪本 越郎(さかもと えつろう、1906年(明治39年)1月21日 - 1969年(昭和44年)6月10日)は、日本の詩人・ドイツ文学者。
水野 亮(みずの あきら、1902年11月18日 - 197… 水野 亮(みずの あきら、1902年11月18日 - 1979年2月14日)は、日本のフランス文学者・翻訳家。 長野県北佐久郡高瀬村(現佐久市)出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1926年東京帝国大学仏文科卒業。 東大図書館に勤務しつつ、オノレ・ド・バルザックを主として数多くの翻訳を行った。豊島与志雄の『レ・ミゼラブル』の翻訳の誤訳や脱漏を指摘し、豊島に喜ばれ、自らの翻訳を刊行した。 明治大学では非常勤講師、中央大学では専任講師としてフランス語を教えた。 没後、旧蔵書の中でバルザックに関係する資料は武蔵大学附属図書館で水野文庫として保存され、目録が刊行された。
入江 直祐(いりえ なおすけ、1901年3月13日 - 19… 入江 直祐(いりえ なおすけ、1901年3月13日 - 1991年)は、日本の英文学者、翻訳家。 岡山県出身。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高校)旧制第六高等学校を経て、六稜学舎では詩人でもある山宮允に学び、1938年東京帝国大学卒業、市河三喜に学ぶ。アルフレッド・テニスン、ウォルター・スコットなどの翻訳で知られる。1962年まで法政大学教授、その後神奈川大学教授。1989年まで創価大学教授を務めた。
秋山 六郎兵衛(あきやま ろくろうべえ、1900年4月11日… 秋山 六郎兵衛(あきやま ろくろうべえ、1900年4月11日 - 1971年8月23日)は、日本のドイツ文学者。専門は、E.T.A.ホフマンの『牡猫ムルの人生観』の翻訳、ヘルマン・ヘッセの研究。 香川県三豊郡下高瀬村(現 三豊市三野町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科卒業。 東京帝国大学在学中、同ドイツ文学専攻の手塚富雄等と第8次、第9次「新思潮」に参加。1926年(大正15年)旧制福岡高等学校にドイツ語教師として赴任。1936年(昭和11年)10月、同高等学校の同僚の浦瀬白雨・大塚幸男等と文芸同人誌「九州文壇」を創刊。1937年(昭和12年)8月、「九州文壇」を廃刊し、「九州文学」(第1期)を創刊。
本多 顕彰(ほんだ あきら/けんしょう、1898年10月7日… 本多 顕彰(ほんだ あきら/けんしょう、1898年10月7日 - 1978年6月30日)は、日本の英文学者、評論家、浄土真宗の僧侶。法政大学名誉教授。 愛知県名古屋市の寺院に生まれ、自らも僧籍を有した。本名・けんしょう。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を経て、1923年東京帝国大学文学部英文科卒。九州帝国大学講師、旧制福岡高等学校教授、東京女子高等師範学校教授を経て、1933年から1966年まで法政大学教授を務めた。その後、駒沢大学、実践女子大学、武蔵野女子大学の教授を歴任。シェイクスピア、ロレンスなど英文学の翻訳・研究に加え、近代日本文学など広範な評論活動をおこなった。 夏目漱石、親鸞に関する著作のほか、エッセイストとしても長年執筆を行い、学内事情を暴露した『大学教授』や『歎異抄入門』はベストセラーとなった。
田代 三千稔(たしろ みちとし、1898年(明治31年)7月… 田代 三千稔(たしろ みちとし、1898年(明治31年)7月10日 - 1984年(昭和59年)2月4日)は、日本の英文学者、翻訳家、ラフカディオ・ハーン研究家。 福岡県遠賀郡香月村(現・北九州市)生まれ。 旧制福岡県立東筑中学校、旧制第五高等学校を経て、1924年に東京帝国大学文学部英文学科を卒業。五高の同窓に劇作家の木下順二、帝大時代の同期生には作家の北村喜八がいた。 1924年4月法政大学講師、1926年4月同大教授。 1946年3月日本大学教授となり、同年10月には鎌倉アカデミアという特殊の教育機関の教授も兼ねた。 横浜市立大学が横浜医科大学と統合した1952年4月には、かねてから親交のあった三枝博音学長から招かれて、教授に就任し、図書館長などの役職に就いた。
河野 多麻(こうの たま、1895年10月 - 1985年1… 河野 多麻(こうの たま、1895年10月 - 1985年1月24日)は、日本の国文学者。河野与一の妻。 静岡県浜松市生まれ。旧姓中村。1913年静岡女子師範学校卒、小学校教諭を一年勤めたのち、東京女子高等師範学校に入り、1918年卒業、川越高等女学校教諭、1920年から1923年まで東京帝国大学で初の女子聴講生となり国文学を学び、実践女学校専門部国文科教師、1928年東北帝国大学法文学部に入学、当時助教授であった河野与一と知る。1931年卒業し実践女子専門学校講師。1937年教授となり、河野との結婚を公表する。1943年辞職し、1944年河野のいる宮城県築館町に疎開、戦後1950年に与一が岩波書店顧問となり上京、1962年『宇津保物語』全三巻を岩波古典文学大系として刊行する。
亀尾 英四郎(かめお えいしろう、明治28年(1895年)3… 亀尾 英四郎(かめお えいしろう、明治28年(1895年)3月10日 - 昭和20年(1945年)10月11日)は日本のドイツ文学者。東京高等学校教授。 鳥取県米子市糀町出身。家業は足袋製造業。亀尾定右衛門の四男。 米子中学校、岡山の第六高等学校を経て、大正10年(1921年)、東京帝国大学文学部独文科を卒業、同大学研究室副手となる。1919年、坪田譲治、相良守峯らと『地上の子』を創刊する。 ドイツ文学者として早くからゲーテに心酔し、その貴重な入門書とされるヨハン・エッカーマン『ゲエテとの対話』を完訳して世に問うたのは大正11年(1922年)、27歳のときである。 大正14年(1925年)東京高等学校教授となる。
久松 潜一(ひさまつ せんいち、1894年〈明治27年〉12… 久松 潜一(ひさまつ せんいち、1894年〈明治27年〉12月16日 - 1976年〈昭和51年〉3月2日)は、日本の国文学者。学位は文学博士。 1894年(明治27年)、愛知県知多郡藤江村(現・知多郡東浦町)で生まれた。愛知一中、第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部国文学科に進んだ。1919年(大正8年)、大八車で搬入したとされる大部の卒業論文を提出して卒業し、同大学大学院に進学した。 1922年(大正11年)、佐佐木信綱の三女三枝子と結婚。一高教授となり、1925年(大正14年)からは東京帝国大学国文学科助教授となった。1934年(昭和9年)、学位論文『日本文学評論史ノ研究』を東京大学に提出して文学博士を取得。
藤森 秀夫(ふじもり ひでお、1894年(明治27年)3月1… 藤森 秀夫(ふじもり ひでお、1894年(明治27年)3月1日 - 1962年(昭和37年)12月20日)は、日本のドイツ文学者、童謡作家。別名に藤太彦。
斎藤 清衛(さいとう きよえ、1893年5月26日 - 19… 斎藤 清衛(さいとう きよえ、1893年5月26日 - 1981年3月4日)は、日本の国文学者。筆名・伎世江。 1893年、山口県熊毛郡で生まれた。徳山中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学国文科に進学。1918年に卒業。 大学卒業後は教諭となり、埼玉師範学校に勤務。次いで1920年より広島高等師範学校教授、1933年に退職し、欧米を訪ねた。1938年、学位論文『応永永享時代文芸意識の研究』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。1940年、北京師範大学教授として中国に赴任。1942年、京城帝国大学教授に就いた。 1946年、広島文理科大学教授に就いた。1953年、旧・東京都立大学教授に転じた。
山宮 允(さんぐう まこと、1890年(明治23年)4月19… 山宮 允(さんぐう まこと、1890年(明治23年)4月19日 - 1967年(昭和42年)1月22日)は、日本の詩人、英文学者。日本詩人クラブ発起人の一人。 山形県山形市出身。山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)から、第一高等学校に進む。一高時代からアララギの歌会に参加した。 1914年在学中に中心となって第三次『新思潮』を創刊、ほかに豊島与志雄、山本有三、井出説太郎(土屋文明)、柳川隆之介(芥川龍之介)、草田杜太郎(菊池寛)、成瀬正一、久米正雄、佐野文夫、松岡譲がいた。 1915年東京帝国大学英文科卒。 1917年、川路柳虹らと詩話会を結成、1918年から評論集『詩文研究』を上梓する。
石川 佐久太郎(いしかわ さくたろう、1888年7月30日 … 石川 佐久太郎(いしかわ さくたろう、1888年7月30日 - 1954年)は、日本の国文学者・歌人。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校、第六高等学校 (旧制)を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。東京女子高等師範学校教授、日本女子大学教授を歴任した。国文学者。歌人。号して横村。
高木 市之助 (たかぎ いちのすけ、1888年(明治21年)… 高木 市之助 (たかぎ いちのすけ、1888年(明治21年)2月5日 - 1974年(昭和49年)12月23日)は 、日本の国文学者である。愛知県名古屋市出身。
萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月… 萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月29日 - 1957年(昭和32年)7月9日)は、日本の歌人、小説家、英文学者。鹿児島県生まれ。 鹿児島県日置郡串木野町羽島(現在のいちき串木野市)の裕福な地主の家に生まれる。旧制川内中学から旧制第七高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。東京で与謝野鉄幹に師事し、「明星」、「スバル」に参加、堀口大學から「短編実作者の第一人者」と評された。また石川啄木、高村光太郎、北原白秋、森鷗外らと親交し、東大卒業後は愛媛県西条中学校などで教鞭をとった。 28歳の時、加世田の私有地を売った資金で「我等」を創刊するも下宿の火事により原稿が消失、廃刊。京都に移り住み、「街道」を発行して再起を図るも1944年、戦時統制による紙不足でまたも廃刊、戦後は農地改革により地主としての地位を失い、故郷に戻る願いも叶わず1957年、京都で70年の生涯を終えた。
大藪 虎亮(おおやぶ こりょう、1885年12月1日 - 1… 大藪 虎亮(おおやぶ こりょう、1885年12月1日 - 1966年)は、日本の国文学者。号は紫牛。 福岡県出身。1905年福岡県立尋常中学修猷館、1909年第五高等学校英語文科を経て、1912年東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。 1920年第四高等学校教授に就任し、国語を講じる。1935年旧制広島高等学校教授に転じて、国語を講じる。
豊田 実(とよだ みのる、1885年9月16日 - 1972… 豊田 実(とよだ みのる、1885年9月16日 - 1972年11月22日)は、英語学者、英文学者。
沢村 寅二郎(さわむら とらじろう、1885年3月28日 -… 沢村 寅二郎(さわむら とらじろう、1885年3月28日 - 1945年7月7日)は、英文学者、東京帝国大学助教授。
田部 重治(たなべ じゅうじ、1884年〈明治17年〉8月4… 田部 重治(たなべ じゅうじ、1884年〈明治17年〉8月4日 - 1972年〈昭和47年〉9月22日)は、日本の英文学者・登山家。 富山県富山市長江(旧:富山県上新川郡山室村)生まれ。田部家と養子縁組したが旧姓は南日で、長兄の英語教育者南日恒太郎、次兄の英文学者田部隆次、と共に南日三兄弟と呼ばれる。玄孫に建築家の永山祐子がいる。 1897年富山中学校入学(14回生)、1902年には四高(現金沢大)入学を経て、1905年9月に東京帝国大学英文科入学。在学中に夏目漱石や上田敏らに師事し、中勘助らと級友となります。大学卒業後、海軍経理学校、東洋大学、法政大学などで講義をする。研究対象は19世紀の英文学で、ウォルター・ペイター、ウィリアム・ワーズワースなどを研究した。
次田 潤(つぎた うるう、1884年(明治17年)4月26日… 次田 潤(つぎた うるう、1884年(明治17年)4月26日 - 1966年(昭和41年)4月9日)は、日本文学者。岡山県出身。田村剛の兄。
三井 甲之(みつい こうし、1883年〈明治16年〉10月1… 三井 甲之(みつい こうし、1883年〈明治16年〉10月16日 - 1953年〈昭和28年〉4月3日)は、日本の歌人、文学者、右翼思想家。皇道歌人として知られる。原理日本社共同創立者。山梨県中巨摩郡敷島村出身。本名は甲之助。 山梨県中巨摩郡松島村(旧同郡敷島村及び敷島町、現・甲斐市大下条)出身。生家は地主の家庭。甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)に入学したが校風になじめず、上京して京華中学校に転入。 1901年(明治34年)、第一高等学校第一部文科入学。文科の同級生に阿部次郎、岩波茂雄など。1902年(明治35年)に死去した正岡子規の短歌革新に共感する。三井の日記や手帳には子規句の書き抜きや、子規の死に際した追悼句が記されている。
野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 -… 野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 - 1950年2月23日)は、日本の英文学者、能楽研究者。「臼川」(きゅうせん)と号した。法政大学総長を務め、能研究の発展にも多大な寄与をした。レジョンドヌール・オフィシェ勲章受章者。 1883年、大分県臼杵市生まれ。臼杵中学、第一高等学校を経て1908年に東京帝国大学文科大学英文科を卒業。同級生に安倍能成・藤村操・岩波茂雄がいて、共に夏目漱石に師事した。 東京帝大卒業後、国民新聞社の文芸記者となる。1909年に法政大学講師となり、1920年に同大学教授となる。予科長・学監・理事を歴任し、森田草平・内田百閒・井本健作など漱石門下の文学者を教授陣に招聘するが、1933年に学内紛争(法政騒動)で辞職(1941年復職)。
内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977… 内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977年9月19日)は、フランス文学者、評論家、翻訳家、エッセイスト。
正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)… 正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)10月14日 - 1960年(昭和35年)12月7日)は、日本の華族、実業家、『白樺』初期の文学者。その文業は『明治文学全集 初期白樺派文学集』に収められている。 伯爵正親町実正の長男として東京に生まれた。弟の実慶も『白樺』の作家で、日下諗(くさか しん)の筆名を持った。学習院初等科に入り、高等科の時に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄と知り合う。『学習院輔仁会雑誌』の編輯委員となり小品を発表。1906年に高等科を卒業して東京帝国大学英文科に入るが中退。1908年、志賀らと回覧雑誌『望野』を始め、1910年には『白樺』創刊に参画、ほかに里見弴・園池公致・児島喜久雄らと交わる。
厨川 白村(くりやがわ はくそん、1880年11月19日 -… 厨川 白村(くりやがわ はくそん、1880年11月19日 - 1923年9月2日)は、日本の英文学者・文芸評論家。本名・辰夫。 『近代の恋愛観』がベストセラーとなり、大正時代の恋愛論ブームを起こした。夏目漱石『虞美人草』の小野のモデルとも言われる。 1880年(明治13年)、京都市柳馬場押小路生まれ。養父の厨川磊三(らいぞう)は元津山藩士で蘭学を修め、維新後は京都府勧業課、大阪造幣局などに勤めた人物。子がなかったため、実弟の子だった白村を養子とした。 大阪市の滝川尋常小学校、盈進高等小学校を経て、大阪府第一尋常中学校から京都府立第一中学校に転校後、第三高等学校を経て1901年(明治34年)、東京帝国大学英文科入学。
金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 196… 金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 1962年1月3日)は、日本の英文学者、翻訳者。 1880年(明治13年)、新潟県中頸城郡新井町に生まれる。高田中学校から東京の郁文館中学校、第四高等学校を経て1905年に東京帝国大学英文科を卒業した。 帝大在学中、一年の前半は小泉八雲、八雲退任後の三年間は夏目漱石の講義に出席して、その様子を詳しく日記に記している。日記の内容は著書『人間漱石』(いちろ社、1948。増補版は協同出版、1956)や、孫の金子三郎が編纂した『川渡り餅やい餅やい――金子健二日記抄』(上中下巻、私家版、1998)、『記録 東京帝大一学生の聴講ノート』(リーブ企画、2002)等に紹介されており、漱石研究者にとって非常に貴重な資料となっている。
櫻井 天壇(さくらい てんだん、1879年〈明治12年〉10… 櫻井 天壇(さくらい てんだん、1879年〈明治12年〉10月18日 - 1933年〈昭和8年〉9月10日)は、日本のドイツ文学者、文芸評論家。第八高等学校第二語学科主任教授。会津八一の先輩で義弟。本名は櫻井 政隆(さくらい まさたか)。 新潟県南蒲原郡中野原新田村(現 三条市中野原)出身。1893年(明治26年)4月に新潟県尋常中学校に入学、「九泉童子」と号し、文芸雑誌『文庫』に投稿。 1898年(明治31年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1901年(明治34年)7月に第一高等学校を卒業、9月に東京帝国大学文科大学独逸文学科に入学、カール・フローレンツに師事。 1903年(明治36年)6月から「天壇」と号し、『帝國文學』に評論を発表、1904年(明治37年)7月に東京帝国大学文科大学を最優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
物集 高量(もずめ たかかず、1879年4月3日 - 198… 物集 高量(もずめ たかかず、1879年4月3日 - 1985年10月25日)は、国文学者・作家。「物集 梧水」名義による著作もある。 1879年、国学者の物集高見と夏子(旧姓岩田)の長男として東京市神田区駿河台(東京都千代田区神田駿河台)に生まれた。同年7月、父が出羽三山の宮司に任命されたため、1882年夏まで山形県東田川郡手向村(現在の鶴岡市)に育つ。 1882年に帰京し、東京市本郷区弓町(東京都文京区本郷)に住んだ。1883年、父の高見が東京帝国大学講師に就任。1884年、父の教育方針で4歳9ヶ月にして本郷小学校に入れられるが、第1学年で落第を経験。1885年2月3日、はしかを患う。後遺症で骨膜炎となり、終生左脚の自由を失う。
岩城 準太郎(いわき じゅんたろう、1878年3月12日 -… 岩城 準太郎(いわき じゅんたろう、1878年3月12日 - 1957年4月9日)は、日本の国文学者。 富山県上新川郡大広田村字大村(現富山市)出身。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)、第四高等学校を経て、1902年東京帝国大学文学部国文科卒。三重県立第一中学校教師、第四高等学校教授、1916年奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)教授。1906年『明治文学史』を刊行し、明治文学史を初めて文学史の対象とした。おもな著作に「明治大正の国文学」「新修日本文学史」などがある。
鈴木 虎雄(すずき とらお、1878年〈明治11年〉1月18… 鈴木 虎雄(すずき とらお、1878年〈明治11年〉1月18日 - 1963年〈昭和38年〉1月20日)は、日本の古典中国文学者。新潟県西蒲原郡粟生津村(のち吉田町、現在は燕市に合併)出身。燕市名誉市民。 父鈴木惕軒は、長善館二代館主、その八男(戸籍上は五男)。一時大橋家の養子となり、大橋姓を称したが、後に鈴木姓に復した。甥には岩手県知事(官選)を務めた鈴木脩蔵がいる。妻鶴代は陸羯南の次女。 幼少時は長善館で父惕軒に師事する。上京後、東京英語学校、東京府尋常中学、第一高等中学校で学び、1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学漢学科卒業。同大学院中退後、日本新聞社、台湾日日新報社、東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)講師・教授などを経て、1908年(明治41年)に新設間もない京都帝国大学文科大学助教授に就任する。
垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1… 垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1952年8月25日)は、日本の国語教育学者・国文学者。 岐阜県高山市出身。旧姓は代情(よせ)。6歳で分家の垣内雲嶙の養嗣子となった。1903年東京帝国大学国文科卒。 東京帝国大学講師、東京女子高等師範学校教授、1919年ヨーロッパ外遊、1920年東京高等師範学校講師、1924年教授。のち東洋大学教授。 筆名として「まつみ」とも読ませた[要出典]。墓所は雑司ヶ谷霊園。 垣内は国学を研究すると同時に、言語学・心理学・現象学といった西洋諸科学とを止揚する学術体系の構築を目指し、生涯をかけてこれに取り組んでいるが、その渉猟する学術領域の広さ、探究する対象群の深さ、そして独創的な発想と理想の高さは、いずれにおいても他の追随を許さないものとなっている。
高野 辰之(たかの たつゆき、1876年〈明治9年〉4月13… 高野 辰之(たかの たつゆき、1876年〈明治9年〉4月13日 - 1947年〈昭和22年〉1月25日)は、日本の国文学者、作詞家。文学博士(東京帝国大学・論文博士・1925年)(学位論文「日本歌謡史」)。号は斑山(はんざん)。 1876年、長野県水内郡永江村(現・中野市永江)の豪農の家に生まれた。1887年、豊津学校永江支校小学中等科を卒業。1890年3月、下水内高等小学校高等小学科を卒業。 1890年5月、永田尋常小学校授業生(代用教員)となった。しかし3年後の1893年、長野県尋常師範学校に入学。1897年3月には同師範学校を卒業した。1897年4月からは下水内高等小学校訓導となった。1898年6月、国語科の師範学校・尋常中学校・高等女学校教員免許状を取得。
五来 欣造(ごらい きんぞう、1875年(明治8年)6月 -… 五来 欣造(ごらい きんぞう、1875年(明治8年)6月 - 1944年(昭和19年)8月1日)は、日本の政治学者、文学者、読売新聞主筆、明治大学教授、早稲田大学教授、皇化連盟代表。茨城県出身。五来素川(ごらい そせん)や斬馬剣禅(ざんば けんぜん)の筆名での作品を残す。青年時代に植村正久の教えをうけた敬虔なクリスチャンであった。
藤村 作(ふじむら つくる、1875年(明治8年)5月6日 … 藤村 作(ふじむら つくる、1875年(明治8年)5月6日 - 1953年(昭和28年)12月1日)は、国文学者、東京帝国大学名誉教授。東洋大学第9代学長。 1875年、福岡県柳川で藤村順吉の次男として生まれた。橘蔭学館(のちの福岡県立伝習館高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学国文学科に進学。1901年に卒業。 卒業後は、第七高等学校造士館教授に就いた。1903年より広島高等師範学校教授を務め、1910年に東京帝国大学国文科助教授となった。1922年に教授昇格。1934年からは東洋大学学長を兼任。1936年に東京大学を定年退職。1940年からは、汪兆銘政権下の北京大学で教鞭を執った。
上田 敏(うえだ びん、1874年(明治7年)10月30日 … 上田 敏(うえだ びん、1874年(明治7年)10月30日 - 1916年(大正5年)7月9日)は、日本の英文学者・詩人・翻訳家。学位は、文学博士。京都帝国大学文科大学教授。族籍は静岡県士族。「柳村」と号したため、上田柳村名義でも執筆活動を行った。 外国文学、とくに西欧の象徴詩の紹介と翻訳を精力的に行った。名訳詩集『海潮音』(1905年)は、日本の詩壇を覚醒させ、「パンの会」結成などに影響を与えた。作品に訳詩集『牧羊神』(1920年)など。 1905年(明治38年)に本郷書院で刊行された訳詩集『海潮音』で知られ、日本にベルギー文学や南仏プロヴァンス文学、象徴派や高踏派の詩を紹介した。 『海潮音』に収められたドイツの詩人カール・ブッセの詩『山のあなた』より「山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ。
登張 竹風(とばり ちくふう、1873年(明治6年)10月2… 登張 竹風(とばり ちくふう、1873年(明治6年)10月2日 - 1955年(昭和30年)1月6日)は、日本のドイツ文学者、評論家。本名、信一郎(しんいちろう)。 広島県佐伯郡津久茂村(現・江田島市江田島町津久茂)生まれ。広島中学(現広島国泰寺高校)、山口高等中学校を経て東京帝国大学卒業(1897年)。母校旧制山口高校教授として赴任、当時の同僚に西田幾多郎、教え子にやがて法科に転じた河上肇やドイツ文学者として知られた片山孤村がいる。1901年、高山樗牛が「美的生活論」を発表すると、「美的生活論とニイチエ」を発表して樗牛に賛同し「美的生活論争」を惹き起こした。1902年『ニイチェと二詩人』『気焔録』でニーチェ主義を標榜する。
吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月1… 吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月15日 - 1916年(大正5年)3月7日)は、日本の作詞家、文学者、教育者。代表作は「早春賦」など。東京府立第三中学校教諭、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。大分県北海部郡海添村(現・臼杵市海添)出身。 日本基督教団の牧師で讃美歌第二編の委員長の藤田昌直の実父。 大分県の旧臼杵藩下級武士・吉丸角内の長男として生まれる。小学校尋常科から小学校高等科卒業までの成績は非常に優秀で、県から度々表彰を受けるほどだった。1889年、大分県立大分中学校(のち大分県立大分上野丘高等学校)を経て1894年、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)に進学する。