大麒麟 將能(だいきりん たかよし、1942年6月20日 -… 大麒麟 將能(だいきりん たかよし、1942年6月20日 - 2010年8月4日) は、佐賀県佐賀郡東川副村(のち諸富町、現・佐賀市)出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は堤 隆能(つつみ たかよし)。最高位は東大関。現役時代の体格は181cm、140kg。得意手は右四つ、寄り、吊り、うっちゃり。 1942年6月20日、整骨院を経営していた父・善治と母・かつの3男として生まれる。出生時で3600gという大柄な体格で、東川副小6年の時には健康優良児に選出されている。 諸富中学では柔道の選手として活躍。また生徒会長を務めるなど人望もあり、体力のみならず学力にも秀で、将来は防衛大学校を目指していたといわれ、後に理論、頭脳明晰として知られる人物の片鱗を見せていた。
永渕 洋三(ながふち ようぞう、1942年5月4日 - )は… 永渕 洋三(ながふち ようぞう、1942年5月4日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手(外野手、投手)。
三井 誠(みつい まこと、1942年1月4日 -)は、日本の… 三井 誠(みつい まこと、1942年1月4日 -)は、日本の法学者。同志社大学客員教授。神戸大学名誉教授。専門は刑事訴訟法。法学博士(東京大学、1969年、学位論文「起訴便宜主義」)。佐賀県佐賀市出身。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
三井 徹(みつい とおる、1940年3月31日 - 2023… 三井 徹(みつい とおる、1940年3月31日 - 2023年2月19日)は、日本の音楽学者、英文学者。金沢大学名誉教授。 佐賀県佐賀市生まれ。福井県小浜市育ち。1964年、九州大学大学院文学研究科修了。1967年、インディアナ大学大学院民俗学研究科博士課程中退。1964年から愛知大学勤務、1969年、金沢大学講師、助教授、教授。2005年、定年退官、名誉教授。 本来の専門は英文学だが、のちに日本のアカデミズムにおけるポピュラー音楽研究の第一人者となった。国際ポピュラー音楽学会会長(1993年 - 1997年)、日本ポピュラー音楽学会会長などを歴任。ケンブリッジ大学出版局発行の「ポピュラー・ミュージック」国際顧問編集者もつとめた。
古賀 常次郎(こが つねじろう、1939年〈昭和14年〉5月… 古賀 常次郎(こが つねじろう、1939年〈昭和14年〉5月18日 - 2026年〈令和8年〉3月4日)は佐賀県の実業家、篤志家、発明家。古賀商事代表取締役。更生保護活動への取り組み、旭日双光章など数々の受章・受賞で知られる。佐賀県佐賀市出身。
蒲原 弘幸(かもはら ひろゆき、1939年4月22日 ‐ )… 蒲原 弘幸(かもはら ひろゆき、1939年4月22日 ‐ )は、日本の高校野球指導者。佐賀県出身。4校を甲子園大会に導いている。 佐賀県佐賀市(旧川上村)の生まれ。上京後、東京都立田園調布高等学校に進学。早稲田大学では野球部で三塁コーチを務めた。卒業後は河合楽器硬式野球部に所属したが、教員試験合格後、1964年に佐賀県立佐賀商業高等学校の監督に就任。翌年に第47回全国高等学校野球選手権大会出場に導いたが、スパルタ指導が問題視され辞任。その後、千葉県に移り、千葉県立東金商業高等学校では甲子園に導けなかったが、千葉県立千葉商業高等学校では1970年の第42回選抜高等学校野球大会に導いている。1974年に千葉県立印旛高等学校に移り3度の甲子園出場を果たす。
若林 茂熙(わかばやし しげき、1939年2月21日 - )… 若林 茂熙(わかばやし しげき、1939年2月21日 - )は国画会会員の画家。佐賀県佐賀市出身。父は画家若林景光、弟は画家若林夏生。
川内 通康(かわうち みちやす、1935年(昭和10年)12… 川内 通康(かわうち みちやす、1935年(昭和10年)12月2日 - 2019年(平成31年)3月5日)は、日本の実業家。ニッポン放送元社長。佐賀県佐賀市出身。 佐賀市水ケ江にあるロングサン薬局の長男として産まれる。 佐賀大附属中、佐賀高校を経て、1959年に東京大学教育学部を卒業し、同年にニッポン放送に入社。 1979年に取締役に就任し、1983年に常務、1985年に専務、1989年6月に副社長を経て、1992年6月に社長に就任し、1999年6月会長に退いた。 1992年から1999年までに日本民間放送連盟の理事を務め、2001年と2002年に東京国際映画祭のゼネラルプロデューサーも務めた。
田中 久寿男 (たなか くすお、1935年4月24日 - 2… 田中 久寿男 (たなか くすお、1935年4月24日 - 2001年2月24日)は、佐賀県佐賀市出身のプロ野球選手(投手、内野手、外野手)・コーチ。 長男の浩二は、かつて俳優として活動していた。 佐賀工業高校から東洋高圧大牟田を経て、投手として1955年に西鉄ライオンズへ入団。 2年目の1956年に4月15日の近鉄戦ダブルヘッダー第2試合(大阪)にて初登板で先発投手を任されるが、打者2人に1安打1四球で1死も取れずに降板。シーズン中盤には野手に転向した。3年目の1957年には河野昭修と一塁手のレギュラーを争い、三塁手や外野手としても起用され、同年は50試合に先発出場。1958年の巨人との日本シリーズでは全7戦中5戦に先発出場するが、19打数3安打と活躍できなかった。
針 すなお(はり すなお、1933年3月15日 - )は、日… 針 すなお(はり すなお、1933年3月15日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター、武道家。本名は高閑者 順(たかがわ すなお)。 政治家や芸能人、スポーツ選手など著名人の似顔絵で知られているほか、武道家として、武術「体の杖(たいのじょう)」を創始した。 佐賀県佐賀市出身。生家は旧佐賀藩の菩提寺・高伝寺(針自身も住職を務めた)。五男。 子供の頃から絵を描くのを好み、実家の寺に届けられた布施の包み紙を住職の父親から貰い絵を描いていた(戦時中で、紙が貴重品であったため)。寺の廊下で住職や兄の似顔絵を、小学校のクラスで友達や教師の似顔絵を描いて人気を得た。中学、高校になると漫画を描くようになった。
宮崎 礼子(みやざき れいこ、1931年3月29日 - )は… 宮崎 礼子(みやざき れいこ、1931年3月29日 - )は、日本の家政学者、日本女子大学名誉教授。 佐賀県佐賀市生まれ。1952年日本女子大学家政学部児童学科卒、同農家生活研究所研究員、1966年日本女子大専任講師、助教授、1980年教授。農村生活改善普及事業に草創期から関わり、「〔一家に1枚、フライパンを持とう〕という合い言葉によって食生活の向上、家族関係などの変革」をも目指したという。国連女性の10年には丸岡秀子の共同研究者として成果を『変貌する農村と婦人』に寄稿した。 日本女子大学在職中は同学図書館友の会の活動に参加、1999年定年、名誉教授。 生活経済学会会員として2000年に第15回研究大会準備委員長を務める。
宮崎 邦次(みやざき くにじ、1930年(昭和5年)1月15… 宮崎 邦次(みやざき くにじ、1930年(昭和5年)1月15日 - 1997年(平成9年)6月29日)は、日本の銀行家。第一勧業銀行頭取・会長、全国銀行協会連合会会長、日本経営者団体連盟副会長等を歴任した。 1997年に発覚した第一勧業銀行が関連した総会屋利益供与事件(小池隆一事件)で取り調べを受けていた最中、自宅で首吊り自殺した。 佐賀県佐賀市出身。父の宮崎林三郎(2代目)は、失明と貧困の中で画期的な縄ない機を発明し成功を収めた林三郎(初代)から見込まれ、養子に入り農機具販売店を営み、両親共に篤志家()として知られていた。 宮崎は7人兄弟の下から2番めの4男として生まれ、長兄の宮崎善吾は佐賀県副知事を経てエフエム佐賀社長等を歴任、次兄は家業を継ぎ、三兄の宮崎幸造は西日本新聞社で編集局次長を務めた。
宮島 剛(みやじま たけし、1925年〈大正14年〉9月19… 宮島 剛(みやじま たけし、1925年〈大正14年〉9月19日 - 2006年〈平成18年〉4月3日)は、日本の厚生官僚、政治家。佐賀県佐賀市長(2期)。 佐賀県佐賀市出身。1949年(昭和24年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年厚生省に入省し、薬務局長、官房長などを歴任する。1976年(昭和51年)に退官。退官後は親類が経営する会社に勤めた。 1979年の佐賀市長選挙に立候補して当選、2期務める。2期目が満了に近づいた1986年暮れ、病に倒れ市長を辞任した。翌1987年船員保険会会長に就任した。その後、日本血液製剤協会理事長を務めた。2006年4月3日入院先の東京都港区の病院で死去。
江頭 数馬(えがしら かずま、1925年8月4日 - 200… 江頭 数馬(えがしら かずま、1925年8月4日 - 2004年7月26日)は、日本のジャーナリスト、中国研究家。 佐賀市生まれ。東亜同文書院大学第44期生、京都大学文学部東洋史学科卒。毎日新聞社に入り、北京支局長となるが文化大革命に際し国外追放となる。受難の書「燕山夜話」紹介解説で1966年菊池寛賞受賞、1968年米中関係全国委員会の招請で渡米報告、1979年論説委員で退社、日本大学商学部教授を務め、95年退職。上海師範大学客員教授。
浜田 百合子(はまだ ゆりこ、1923年3月31日 - 消息… 浜田 百合子(はまだ ゆりこ、1923年3月31日 - 消息不明)は日本の女優。佐賀県佐賀市生まれ、東京育ち。プロデューサーの本木荘二郎は元夫。日本映画学校卒業。 1945年に東宝入社。1946年の『民衆の敵』でデビューする。1958年に引退。引退して以降、現在までに70年近くも経っているため、生死も含めて消息不明である。
石丸 進一(いしまる しんいち、1922年7月24日 - 1… 石丸 進一(いしまる しんいち、1922年7月24日 - 1945年5月11日)は、プロ野球選手(投手・内野手)、大日本帝国海軍軍人。
井手 雅人(いで まさと、1920年1月1日 - 1989年… 井手 雅人(いで まさと、1920年1月1日 - 1989年7月17日)は、日本の脚本家、小説家。 佐賀県佐賀市出身。豊島師範学校本科第一部卒業。戦後に小学校教員を務めたのち、1948年に新東宝に入社。長谷川伸に師事して小説を書き、『地の塩』が1953年の第30回直木賞候補になる。 1954年に新東宝を退社し、フリーの脚本家として活動。脚本家としては、単独執筆の『証人の椅子』『ダイナマイトどんどん』『鬼畜』などがキネマ旬報ベストテンなどで評価されているほか、共同脚本の一員として黒澤明監督作品『赤ひげ』『デルス・ウザーラ』『影武者』『乱』などに関わる。 1985年から1989年まで日本シナリオ作家協会常務理事を務めた。
山口 正之(やまぐち まさゆき、1918年1月1日 - 19… 山口 正之(やまぐち まさゆき、1918年1月1日 - 1999年3月20日)は、日本のマルクス経済学者。 佐賀県佐賀市出身。東京帝国大学経済学部卒。立命館大学産業社会学部教授、1983年定年、名誉教授、大阪経済法科大学教授。日中友好協会会長を務めた。1999年、肺炎のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
佐賀ノ花 勝巳(さがのはな かつみ、1917年12月5日 -… 佐賀ノ花 勝巳(さがのはな かつみ、1917年12月5日 - 1975年3月28日)は、佐賀県佐賀市出身で二所ノ関部屋(入門時は粂川部屋)に所属した大相撲力士。本名は北村 勝巳(きたむら かつみ)。師匠の玉錦譲りの鋭い出足から「飛燕の出足」「サッと寄り切る佐賀ノ花」などと呼ばれていた。最高位は東大関。 1917年12月5日、佐賀市八戸町に生まれる。幼少期は西魚町で育った。日新小学校時代の地域の相撲大会での活躍ぶりは、現在も語り草になっているという。 高等小学校卒業後、苦しい家計を助けるため鹿島市の兄のもとで板前修業を始める。1934年、鹿島市へ巡業に来た玉錦三右エ門が佐賀ノ花が務めていた料亭に宿泊。
坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26… 坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年(平成12年)9月22日)は、日本の海軍軍人。ポツダム進級により最終階級は海軍中尉。太平洋戦争におけるエース・パイロット。著書『大空のサムライ』で有名。
石丸 藤吉(いしまる とうきち、1914年7月25日 - 1… 石丸 藤吉(いしまる とうきち、1914年7月25日 - 1991年11月21日)は、佐賀県佐賀市出身のプロ野球選手(内野手)。
古川 進(ふるかわ すすむ、1913年8月19日 - 199… 古川 進(ふるかわ すすむ、1913年8月19日 - 1991年10月23日)は、日本の実業家。大和銀行元頭取、会長。佐賀県佐賀市出身。 1938年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に野村銀行(のちの大和銀行。統合により現在はりそな銀行となる。)に入行した。 1961年11月に取締役に就任し、1963年4月に常務、1966年11月に専務、1968年11月に副頭取を経て、1973年4月からは大和銀行頭取を務め、1977年4月からは会長、1987年6月からは相談役を歴任した。 その一方で、1981年12月から1985年12月までに大阪商工会議所会頭を務め、海外交流に力を入れた。日本商工会議所副会頭、大阪銀行協会会長、全国銀行協会連合会副会長、関西経済同友会代表幹事なども歴任した。
豊増 昇(とよます のぼる、1912年〈明治45年〉5月23… 豊増 昇(とよます のぼる、1912年〈明治45年〉5月23日 - 1975年〈昭和50年〉10月9日)は、日本のピアニスト、音楽教育者。日本藝術院会員。佐賀県佐賀市出身。 1933年、東京音楽学校卒。高折宮次、レオ・シロタらに師事。1936年ドイツに留学、1943年東京音楽学校教授。その後、京都市立音楽短期大学教授を経て、1959年に武庫川女子大学音楽部長となった。 1940年にベートーヴェンのピアノソナタとピアノ協奏曲全作品の連続演奏会、1949年にバッハ死後200年記念ピアノ曲連続演奏会、さらに1950年にもバッハのピアノ曲全作品の連続演奏会をおこなった。1956年、日本人として初めてベルリンフィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に出演した(指揮はヨーゼフ・カイルベルト)。
戸川 幸夫(とがわ ゆきお、1912年〈明治41年〉4月15… 戸川 幸夫(とがわ ゆきお、1912年〈明治41年〉4月15日 - 2004年〈平成16年〉5月1日)は、日本の小説家、児童文学作家。動物に関する正しい観察・知識を元にして動物文学を確立させ、日本においては椋鳩十と並ぶ第一人者(特に闘犬に関する作品が多い)。 それまでは噂のみの存在だったイリオモテヤマネコの標本を今泉吉典にもたらし、新種発見に大きく貢献したことでも知られる。ルポルタージュ、戦記物語などの作品もあり、漫画原作も手がけた。 佐賀市に生まれ、1歳の時に、医師で、またハンターでもあった戸川益勇の養子となる。10歳までは福岡県若松市及び八幡市(いずれも現・北九州市)で育つ。幼少から動物好きで、動物学者になることを志し、動物に関する本を耽読した。
江下武二(えした たけじ、1910年(明治43年)11月22… 江下武二(えした たけじ、1910年(明治43年)11月22日 - 1932年(昭和7年)2月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は工兵伍長。佐賀県神埼郡蓮池村(現:佐賀市蓮池町)大字古賀1010番地あるいは佐賀県杵島郡大町村大字福母杵島炭砿126舎出身で爆弾三勇士の一人。 親の事業の失敗から佐賀県東松浦郡相知村(現・唐津市相知町)字久保や小城郡の別府、杵島郡の福母に転住。炭鉱を転々とし、少年期から杵島炭鉱で働く。父も兄二人も久留米歩兵連隊に入営した軍人一家で武二は海軍志望だったが、1931年(昭和6年)、父兄と同様に久留米工兵第18連隊に入営。翌年には混成旅団工兵中隊に編入され、陸軍一等兵として第一次上海事変に出征。
弥富 武(いやとみ たけし、1910年4月19日 - 197… 弥富 武(いやとみ たけし、1910年4月19日 - 1975年5月28日)は、日本の経営者。東京建物社長を務めた。 佐賀県佐賀市出身。1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に安田銀行に入行。1955年に取締役に就任し、1959年10月に常務を経て、1963年2月に東京建物副社長に就任し、同年8月には社長に昇格した。 1975年5月28日、急性心不全のために在任中に死去。65歳没。
永倉 三郎(ながくら さぶろう、1910年(明治43年)2月… 永倉 三郎(ながくら さぶろう、1910年(明治43年)2月15日 - 1993年(平成5年)10月20日 )は、日本の経営者。九州電力社長。九州旅客鉄道初代会長。九州・山口経済連合会会長。 佐賀県佐賀市出身。佐賀県立佐賀高等学校卒業。1934年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に東邦電力に入社。 1942年に九州配電(のちの九州電力)に転じる。戦時中は陸軍第49師団の主計中尉としてインパール作戦に従軍した。1963年5月に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1974年5月に社長に就任。1983年6月に会長に就任し、1987年6月から取締役相談役を務めた。福岡放送取締役、九州旅客鉄道初代会長、九州・山口経済連合会会長なども歴任。
大塚 幸男(おおつか ゆきお、1909年2月18日 - 19… 大塚 幸男(おおつか ゆきお、1909年2月18日 - 1992年9月9日)は、日本のフランス文学者、比較文学者。福岡大学名誉教授。 佐賀県佐賀市生まれ。1933年九州帝国大学仏文科卒、1957年パリに遊学。のち福岡大学教授。アナトール・フランスなど近代フランス文学専攻、比較文学会でも活躍し、著書・翻訳は多数ある。 漫画家の小林よしのりは教え子の一人。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
立石 春美(たていし はるみ、明治41年(1908年)5月1… 立石 春美(たていし はるみ、明治41年(1908年)5月16日 - 平成6年(1994年)4月27日)は昭和時代から平成時代のかけての日本画家。 明治41年(1908年)に佐賀県佐賀郡大和町(現・佐賀市)に生まれる。本名は春美(はるよし)。清方の作品に接して画家を志し、昭和2年(1927年)に上京、洋画家の梶原貫五の紹介により清方に入門を願うがかなわず、翌昭和3年(1928年)に深水画塾に入り、伊東深水に師事、日本画を学ぶ。昭和6年(1931年)に第12回帝展に「淑女」を出品、初入選を果たす。以降、帝展や新文展で活躍する。昭和26年(1951年)、朝倉賞を受賞する。その後、日展の委嘱を経て昭和38年(1963年)、日展審査員となった。
若林 景光(わかばやし かげみつ、1908年2月15日 - … 若林 景光(わかばやし かげみつ、1908年2月15日 - 1994年9月30日)は画家。佐賀県佐賀市出身。長男は洋画家で国画会会員の若林茂熙。次男に洋画家若林夏生。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小林 勝馬(こばやし かつま、1906年(明治39年)11月… 小林 勝馬(こばやし かつま、1906年(明治39年)11月16日 - 1987年(昭和62年)12月23日)は、日本の政治家、実業家、鍼灸師。参議院議員(1期)。 佐賀県佐賀郡鍋島村(現佐賀市)で小林鹿三郎の四男として生まれた。1927年 (昭和2年)鍼灸術営業免許所得[要出典]。熊本逓信講習所を卒業し、さらに1928年(昭和3年)無線電信講習所を卒業した。 1922年(大正11年)通信事務員となり、以後、警視庁技手、国際汽船事務長、無線電信技士、山王工業社長、日本光学兵器社長、自家用自動車組合理事、官立無線同窓会会長などを務めた。 1946年(昭和21年)東京都鍼灸按マッサージ師会理事長及び日本鍼灸按マッサージ師会副会長、全国鍼灸按マッサージ医法制定実行委員会書記長に就任[要出典]。
小澤 武(こざわ たけし、1906年(明治39年)6月23日… 小澤 武(こざわ たけし、1906年(明治39年)6月23日 - 1985年(昭和60年)3月28日)は、日本の剣道家。段位は範士八段(全日本剣道連盟)。北辰一刀流剣術宗家(日本古武道協会認定)、新田宮流抜刀術継承者。 佐賀市生まれ。旧姓は中島。京都の大日本武徳会武道専門学校に入学し内藤高治に剣道を学ぶ。 1929年(昭和4年)、武道専門学校を卒業し、茨城県師範学校及び水戸商業高等学校の教諭に赴任。小澤家の婿養子となり[要出典]、水戸東武館第4代館長を務める。1932年(昭和7年)、武道専門学校研究科を卒業。 1953年(昭和28年)、太平洋戦争中の水戸空襲で焼失した水戸東武館を再建。1966年(昭和41年)、茨城県剣道連盟会長に就任。
中地 シゲヨ(なかち シゲヨ、1905年〈明治38年〉2月1… 中地 シゲヨ(なかち シゲヨ、1905年〈明治38年〉2月1日 - 2021年〈令和3年〉1月11日)は、日本の教育者、長寿の女性(スーパーセンテナリアン)。佐賀県佐賀市出身。存命中は田中カ子に次いで日本国内で2番目の長寿者であった。 1905年(明治38年)2月1日、佐賀県佐賀市西与賀町の米屋の5人兄弟の2番目の長女として生まれる。12歳で佐賀高等女学校に入学。女学校時代に大隈重信から講義を受けた経験を持つ。卒業後、17歳から小学校教員として30年間勤務し、戦後は資格を取得して62歳まで幼稚園教員として14年間働いた。 小学校教員の頃は厳しい指導がモットーで、勉強が苦手な児童を毎日放課後居残りで指導したが、頑張ったご褒美にあんパンを食べさせた。
下村 兼史(しもむら けんじ、1903年2月10日 − 19… 下村 兼史(しもむら けんじ、1903年2月10日 − 1967年4月27日)は、日本の鳥類生態写真家、記録映画監督。 映画作品『或日の干潟』(理研科学映画、1940年)が文部大臣賞、皇紀2600年奉祝芸能祭文化映画コンクール首席、『ちどり』(東宝教育映画部、1947年9月公開)が映画世界賞受賞、文部省選定、『こんこん鳥物語』(東宝教育映画、1949年)が文部大臣賞、第4回毎日映画コンクール教育文化映画賞受賞。その他の作品でも受賞多数。鳥類を中心に、写真や映像に野生生物をフィルムに収め、日本初の鳥類生態写真集を刊行し、鳥類標本では得られない生態の研究に貢献した。 鳥類を撮影した写真は、財団法人山階鳥類研究所にかなりの数が収蔵されている。
福田 薫(ふくだ かおる、1903年(明治36年〉1月14日… 福田 薫(ふくだ かおる、1903年(明治36年〉1月14日 - 1968年(昭和43年)12月19日)は、日本の実業家。日本経済新聞社元常務取締役。日本教育テレビ(現:テレビ朝日)元代表取締役副社長。日経映画社(現:日経映像)元取締役。 佐賀県佐賀市出身。東京都新宿区在籍。福田国作の長男に生まれる。1928年(昭和3年)早稲田大学商学部を卒業後、中外商業新報社(現:日本経済新聞社)に入社。相撲部の記事からキャリアをスタートさせた。 社会・通信各部長、編集局長次長を経て、総務局長に昇進。1947年(昭和22年)取締役に就任。1949年(昭和24年)辞任し、夕刊中外新聞社長に就任。 1952年(昭和27年)日本経済新聞社との合併により、同社取締役工務局長に転じ、1954年(昭和29年)3月常務大阪支社長となる。
富永 理(とみなが ただし、1902年(明治35年)8月2日… 富永 理(とみなが ただし、1902年(明治35年)8月2日 - ? )は、日本の哲学者。松商学園短期大学第5代学長。「リベラルな思想家」と評された。 佐賀県佐賀市生まれ。第七高等学校から、東京帝国大学文学部に進み、哲学科を卒業した。東亜研究所に勤務したが、戦後にシベリア抑留を経験し、1950年に鹿児島商科短期大学(後の鹿児島経済大学〜鹿児島国際大学の前身)教授となり、1959年に松商学園短期大学教授に転じた。 1971年6月に、当時の学長であった長守善が死去した後、学長事務取扱となり、翌1972年3月1日から正式に第5代学長となった。4期8年の学長在任中に、松商学園高等学校と共有されていたキャンパスの分離移転に取り組み、新村地区(現在の松本大学の校地の一部)への短大の新築移転を実現した。
豊増 秀俊(とよます ひでとし、1902年1月 - 1987… 豊増 秀俊(とよます ひでとし、1902年1月 - 1987年11月)は、日本の人文学者。大学などには勤務せず、終生在野の立場で研究に当たった。 豊増竜次郎の次男として佐賀県佐賀市に生まれる。1927年、早稲田大学文学部に入学するが、1930年に学問的理由により退学、独学する。この間、弁証法的唯物論を確信する。 1935年7月、財団法人東亜経済調査会(のち南満州鉄道に合併)に入会する(調査局調査課)。1940年に満鉄を退社し、中華民国新民会(在北京)に入会、専門委員、企画部次長を務める。1941年12月に退職する。1942年1月、中央亜細亜協会(在北京)の設立に参加、主宰となる。1944年4月に退職して日本に帰国する。
宮田 又三郎(みやた またさぶろう、1898年2月25日 -… 宮田 又三郎(みやた またさぶろう、1898年2月25日 - 1985年8月9日)は、日本の実業家で、西日本鉄道社長を務めた。 佐賀県佐賀市出身。1920年に長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)を卒業し、東邦電力(現・九州電力)での勤務を経て、西日本鉄道の前身である福博電車に入社した。 旧帝国大学出身者が学閥を組んで経営の中心となっていた西鉄の中で、高商卒の宮田はまさに「叩き上げ」で出世していく。常任監査役、常務、専務を経て、1960年から1963年11月までに社長を務めた。在任中に西鉄ライオンズのオーナーも務めた。 西鉄不動産、筑豊電気鉄道、大分交通、テレビ西日本、福岡スポーツセンターなどの各取締役を歴任した。
中尾 都昭(なかお くにあき、1894年(明治27年)4月6… 中尾 都昭(なかお くにあき、1894年(明治27年)4月6日 - 1980年(昭和55年)9月9日)は、佐賀県出身の実業家、佐賀新聞社社長。 1894年(明治27年)、佐賀郡久保田村(現在の佐賀市久保田町)久富の網元中尾清三郎と母チヨの次男として生まれる。新田尋常小学校から青藍高等小学校に進学し、卒業後は一時漁師の家業を継いだものの18歳のときに志願兵として海軍に入り、佐世保海兵団に入団する。第一次世界大戦に従軍し勲八等瑞宝章と従軍記章を授与されて退役した。 その後1926年(大正15年)に佐賀市内にて「農村青年新聞」を発行し新聞経営を始める。翌年には「佐賀自由新聞」(週刊)に改題、1931年(昭和6年)には日刊の「佐賀毎夕新聞」とした。
山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 19… 山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 1978年1月7日)は、日本の経営者。 佐賀県佐賀市出身。1919年に行文行政科に合格し、1920年に東京帝国大学法学部英法学科を卒業し、同年に逓信省に入省し、岡山郵便局長、経理局長、航空局長官などを歴任。1943年に退官し、北海道配電(のちの北海道電力)社長に就任。北海道放送取締役、北日本航空社長なども歴任。 1978年1月7日老衰のために死去。84歳没。
陣内 利夫(じんのうち としお、1891年(明治24年)12… 陣内 利夫(じんのうち としお、1891年(明治24年)12月 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 佐賀県神埼郡蓮池村(現在の佐賀市)出身。1921年(大正10年)に朝鮮に渡り、1923年(大正12年)に高等試験行政科に合格した。京畿道警視、理事官・江原道学務課長、慶尚南道学務課長、忠清北道地方課長、事務官・平安北道財務部長を経て、1931年(昭和6年)、馬山府尹に就任した。 その後、全州専売支局長、京城地方専売局長、咸鏡南道産業部長、張家口朝鮮総督府出張所長、朝鮮総督府鉄道局理事を歴任した。 退官後、華北煙草株式会社取締役を務めた。
空閑 昇(くが のぼる、1887年〈明治20年〉12月8日 … 空閑 昇(くが のぼる、1887年〈明治20年〉12月8日 - 1932年〈昭和7年〉3月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 佐賀県佐賀市水ヶ江町出身。地裁監督書記・空閑正尚の長男として生れる。空閑家は龍造寺家の血を引き、代々鍋島藩の槍術師範を務めた家柄で、父・正尚は佐賀の乱に参戦した経歴がある。高等小学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月歩兵少尉に任官し歩兵第69連隊付となる。青島守備歩兵第3大隊付、歩兵第69連隊付などを経て、シベリア出兵に従軍。1925年(大正14年)5月、陸軍歩兵学校甲種を卒業。
武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12… 武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12月13日 - 1964年(昭和39年)8月21日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、駐トルコ大使。
宮地 嘉六(みやち(みやじ) かろく、1884年(明治17年… 宮地 嘉六(みやち(みやじ) かろく、1884年(明治17年)6月11日 - 1958年(昭和33年)4月10日)は佐賀県出身の小説家。戦前は無産派文学の旗手として知られた。 佐賀市生まれ。貧困のため小学校を中退して仕立て屋の丁稚となるが、1896年に佐世保へ移り、12歳で海軍造船廠(佐世保海軍工廠)の見習工となる。このとき尾崎紅葉や徳冨蘆花を読んで文学に目覚めた。その後16歳から31歳までは兵役を挟み旋盤工から旋盤師として約10年間を呉海軍工廠で、その他神戸、長崎、東京の工場を転々とした。労働争議が続いた呉海軍工廠時代にはストライキの首謀者として広島監獄に拘禁もされた。代表作『煤煙の匂ひ』(『中外』1918年7月)、『或る職工の手記』(『改造』1919年9月)などはこの時代の経験を母胎としたもの。
秋山 虎六(あきやま とらろく、1883年〈明治16年〉8月… 秋山 虎六(あきやま とらろく、1883年〈明治16年〉8月2日 - 1952年〈昭和27年〉4月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。佐賀県佐賀市巨勢町出身。 旧制佐賀中学校から海軍兵学校に進学。1905年(明治38年)5月27日、翌28日にかけて日本海海戦に参戦する。同年11月28日、海軍兵学校33期卒業。同期に豊田貞次郎、豊田副武、有地十五郎、小野弥一、中村亀三郎など。 各軍艦勤務をへて海軍砲術学校高等科に入校。1912年(大正元年)英国出張。第一次世界大戦・日独戦争では英国と共に海軍陸戦重砲隊中隊長として、ドイツ帝国が清国から租借し、権益を持つ山東省青島の戦いで奮戦した。1916年11月、海軍大学校(甲種14期)を卒業。
江崎 利一(えざき りいち、1882年〈明治15年〉12月2… 江崎 利一(えざき りいち、1882年〈明治15年〉12月23日 - 1980年〈昭和55年〉2月2日)は日本の実業家。江崎グリコの創業者。現・会長の江崎勝久と、その弟の江崎正道の祖父。 佐賀県神埼郡蓮池村(現・佐賀市蓮池町)に生まれた。父は清七、母はタツといって江崎が生まれる二年前から薬種業を始めていた。ときには近在近郷を一軒ずつめぐり歩き、医療の相談相手もつとめていた。暮らしは貧しかった。6人兄弟姉妹の長男(姉2人と弟と妹2人)だった江崎は家事の手伝いや弟妹の子守りに明けくれた。 1897年(明治30年)春、小学校高等科を卒業した。薬の商売のほかに朝食前の塩売りを始めた。1901年(明治34年)6月、父が死去。
岩松 玄十(いわまつ げんじゅう、1881年〈明治14年〉2… 岩松 玄十(いわまつ げんじゅう、1881年〈明治14年〉2月5日 - 1976年〈昭和51年〉3月5日)は、日本の検事。 佐賀県佐賀市出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。大津地方裁判所判事、奈良区裁判所検事、東京区裁判所検事、長野地方裁判所検事、千葉地方裁判所検事、同検事正、台湾総督府高等法院検察官長、横浜地方裁判所検事正、東京控訴院検事、司法省行刑局長、宮城控訴院検事長、長崎控訴院検事長を歴任し、1941年(昭和16年)からは大阪控訴院検事長を務めた。 1976年(昭和51年)3月、急性心不全で死去した。
橋爪 勇(はしづめ いさむ、1880年(明治13年)2月21… 橋爪 勇(はしづめ いさむ、1880年(明治13年)2月21日 - 没年不詳)は、佐賀市長。弁護士。 佐賀県佐賀市出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。同年、司法官試補となる。1911年(明治44年)に長野地方裁判所判事、米子区裁判所判事となったが、翌年に退官した。退官後は佐賀市で弁護士事務所を開業し、また高取鉱業株式会社監査役・肥前電気株式会社取締役も務めた。1916年(大正5年)、佐賀市会議員に当選し、副議長、議長を歴任した。 1936年(昭和11年)、佐賀市長に選出され、1946年(昭和21年)まで務めた。その後、公職追放となった。
嘉村 達次郎(かむら たつじろう、1879年(明治12年)1… 嘉村 達次郎(かむら たつじろう、1879年(明治12年)11月6日 - 1963年(昭和38年)2月20日)は、明治・大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍少将。 父卯七母トメの長男として東与賀村下飯盛生まれる。地元の私塾「興文塾」で学んだのち、軍人を志して陸軍士官学校に進学する(陸士13期)。1902年(明治35年)歩兵少尉として歩兵第24連隊に配属。その後は熊本陸軍幼年学校生徒監(大尉)、仙台陸軍幼年学校長(中佐)、金沢連隊区司令官、歩兵第42連隊長(大佐)と進み、1930年(昭和5年)8月少将に昇進し朝鮮軍第20師団所属の歩兵第39旅団長に就任した。
鳥巣 玉樹(とす たまき、1877年〈明治10年〉12月1日… 鳥巣 玉樹(とす たまき、1877年〈明治10年〉12月1日 - 1949年〈昭和24年〉5月21日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。佐賀県佐賀市出身。 佐賀県佐賀中学校、福岡県立尋常中学修猷館を経て、海軍兵学校第25期入校。入校時成績順位は36名中第4位、卒業時成績順位は32名中第3位。 鳥巣の経歴の特徴は教育部門勤務とイギリス派遣が目立ち、駐在武官2回、艦船回航委員2回の計4回の在英経験は当時としても多い方である。1924年(大正13年)から1925年(大正14年)には、東宮御用掛として海軍軍事学を進講した。 艦隊司令官在勤2年未満を理由に大将昇格は見送られ予備役に編入された。