川村 禎三(かわむら ていぞう、1922年7月14日 - 2… 川村 禎三(かわむら ていぞう、1922年7月14日 - 2003年1月16日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 岩手県矢巾町に生まれ、旧制盛岡中学校(のちの県立盛岡第一高校)へ進学。中学時代には、東北の団体戦柔道大会で圧倒的な体格と強さを発揮し、旧制盛岡中学を優勝に導いた。また中学5年次の1940年6月には、岩手県予選を勝ち抜き府県選士として紀元二千六百年奉祝天覧武道大会にも出場、予選リーグ戦を勝ち抜くには及ばなかったものの、20代・30代の精鋭が集う中にあって弱冠17歳(最年少)での川村の出場は快挙であった。 1941年に東京高等師範学校体育科二部(柔道専攻)に入学し、また同年5月に講道館へ入門して僅か2カ月後には4段位を許された。
伊藤 秀雄(いとう ひでお、1922年〈大正11年〉6月10… 伊藤 秀雄(いとう ひでお、1922年〈大正11年〉6月10日 - 2002年〈平成14年〉)は、日本の柔道家(講道館9段)、法務教官。旧姓大久保。 1922年、富山県富山市の富豪農家であった大久保家に生まれる。旧制神通中学校(現・県立富山中部高校)に入学すると、柔道か剣道が必須科目となっており、付き添いで来ていた父親が柔道の選択を即決したのが斯の道との出会いになった。身長173cm・体重72kgという大柄な体格に加え、2年生の時に寒稽古の納会試合で14人抜き達成したのが同校の柔道教師であった三鍋義三6段の目に付き、勧誘されて本格的に柔道を始めた。記録上の講道館入門は1938年10月4日付で、翌10月5日には初段を拝受。
辛 道煥(シン・ドファン、朝鮮語: 신도환、1922年5月2… 辛 道煥(シン・ドファン、朝鮮語: 신도환、1922年5月25日 - 2004年3月24日)は、大韓民国の政治家、柔道家(青濤館4・5・6段、大韓柔道会7・8・9・10段)。第4・8・9・10・12代韓国国会議員。本貫は寧越辛氏。号は滄帆(チャンボム、창범)。キリスト教徒。 大邱生まれ、日本統治時代の慶尚北道義城郡出身。大邱達城普通学校、大邱啓聖学校、1943年に明治大学法学科卒業。1950年代に東京大学法学部、コロンビア大学国際法課程修了。 1958年の第4代総選挙に無所属で出馬して当選し、同年に大韓体育会長署理を務め、翌年に大韓反共青年団を設立し団長を務めた。大韓反共青年団は3・15不正選挙と四月革命の引き金となる「高大生被襲事件」で暴力団の動員に関与したとみなされたため、1960年に不正選挙関連の容疑で死刑を求刑されたが無罪で解放された。
張 坰淳(チャン・ギョンスン、朝鮮語: 장경순、1922年ま… 張 坰淳(チャン・ギョンスン、朝鮮語: 장경순、1922年または1923年3月23日 - 2022年7月18日)は、大韓民国の政治家、陸軍軍人、柔道家(2004年9月より名誉十段)、実業家。第6・7・8・9・10代韓国国会議員、第6・7・8代国会副議長、元農林部長官。 本貫は仁同張氏。号は霞原 (ハウォン、하원)。 日本統治時代の朝鮮で全羅北道の金堤に生まれた。東洋大学専門部拓殖科卒業。全北中高等学校で体育教師を務めた後、陸軍士官学校(7期特別班)、陸軍大学を卒業した。その後、陸軍情報学校校長、陸軍本部教育処長、陸軍士官学校参謀長、国家再建最高会議最高委員、農林部長官、国家再建最高会議運営分科委員長を務めた。
吉松 義彦(よしまつ よしひこ、1920年11月16日 - … 吉松 義彦(よしまつ よしひこ、1920年11月16日 - 1988年7月5日)は、日本の柔道家(講道館9段)。元・鹿児島県柔道協会理事長。 世界選手権大会準優勝や全日本選手権大会で史上初となる3回優勝等の成績を残し、松本安市や醍醐敏郎、石川隆彦らと共に終戦直後の日本柔道界を代表する選手の1人であった。 鹿児島県鹿児島市生まれ、出身。1934年に旧制鹿児島商業学校(現・市立鹿児島商業高校)に入学し、林岩三(のち講道館9段)から同校柔道部および修道館道場にて指導を受けた。林は白帯時代から吉松の才を見抜き、著書『柔道に生きる』の中で「吉松の柔道は、守勢の時は青竹のようにしなやかで、相手が力のバランスを崩すとすぐにビシっと弾き返す、攻撃と守備の区切りがない理想の動き」と絶賛している。
羽鳥 輝久(はとり てるひさ、1920年5月28日 - 19… 羽鳥 輝久(はとり てるひさ、1920年5月28日 - 1997年1月28日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 東京都千代田区は神田駿河台に生まれ、幼少時に港区の芝へ移った。1932年、慶應義塾幼稚舎6年生の時に三田綱町道場にて柔道を始める。当時から肥満体であったため夏は少し動いただけでも大汗をかき、熱心に稽古をしているように見られて思わぬ景品を受けた事もあったという。3年後には講道館へ入門し飯塚国三郎9段(のち10段)の内弟子となって、同年5月に初段、11月には2段に昇段。また、この頃に併せて指導を受けた中野正三7段(のち10段)は子供相手にも惜しみなく受身を取ってくれたので、羽鳥を含めて幼年組の生徒達は技の体得が早かったという。
松本 安市(まつもと やすいち、1918年(大正7年)5月2… 松本 安市(まつもと やすいち、1918年(大正7年)5月25日 - 1996年(平成8年)3月6日)は、日本の柔道家。段位は講道館8段。 昭和天覧試合(1940年)準優勝者、第1回全日本選手権大会(1948年)優勝者であり、後に天理大学等で柔道師範や1964年東京オリンピック日本代表の監督を務めた。 福岡県久留米市で洋品雑貨の卸売業を営む家の長男として生まれる。福岡県中学明善校入学後は授業で柔道を経験したが、クラブ活動ではバレーボール部に所属。中学3年の始めに上級生の強引な勧誘を受け、嫌々ながら柔道を始めたというのが柔道人生への第一歩となった。 1937年4月に武道専門学校に入学するも、親元を離れた解放感から酒色に溺れ、不摂生が祟って2年生の9月には体調を崩して結核を患い、故郷・福岡での安静生活を余儀なくされる。
木村 政彦(きむら まさひこ、1917年〈大正6年〉9月10… 木村 政彦(きむら まさひこ、1917年〈大正6年〉9月10日 - 1993年〈平成5年〉4月18日)は、日本の柔道家・プロレスラー。段位は講道館柔道七段。鬼の木村の異名を持つ。 全日本選手権13年連続保持、天覧試合優勝も含め、15年間不敗のまま引退。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられ、後々にも史上最強の柔道家と称されることが多い。身長170 cm、体重85 kgと小兵ながら、トレーニングにより鍛え抜かれた強靭な肉体、爆発的な瞬発力、得意技である切れ味鋭い大外刈りのスピードとパワー、高専柔道で身につけた寝技技術、またこれらを支える一日10時間を越える練習量と柔道に命を賭す強靭な精神力を武器に15年間不敗を成し遂げた。
石川 隆彦(いしかわ たかひこ、1917年〈大正6年〉5月1… 石川 隆彦(いしかわ たかひこ、1917年〈大正6年〉5月15日 - 2008年〈平成20年〉6月9日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 戦前から戦後にかけて昭和天覧試合準優勝、第2回・第3回全日本選手権優勝等の成績を残し、晩年は米国で柔道普及を行った。身長175cm、体重82kg。 柔術無双流の免許皆伝者であり当時講道館柔道3段の石川文八を父として、香川県三豊郡神田村(現・三豊市)に生まれる。父が飛島組の土木技師であったため長野県に転居し、そこで入学した長野県飯山中学の在学中に3段まで取得。日本大学・国士舘専門学校で修業し、国士舘では主将を務めた。5段位で卒業するとすぐに国士舘専門学校の助教授に就任し、1940年の紀元二千六百年奉祝天覧武道大会では事実上の日本一決定戦となる指定選士の部に出場して木村政彦と決勝を争ったが、緊張で固くなった石川は一方的に攻められて完敗を喫した。
渡辺 利一郎(わたなべ りいちろう、1916年10月 - 1… 渡辺 利一郎(わたなべ りいちろう、1916年10月 - 1984年12月2日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 現在の栃木県足利市に生まれ、小学4年生頃より本格的に柔道を始める。天才柔道少年と呼ばれ新聞にも掲載され話題になった。 1932年初段取得。現在よりも初段取得が難しく、2段を持っていれば警察署等で充分に柔道教師が務まった当時、渡辺は翌33年1月に2段となって飯塚国三郎(のち10段)の門下となり、同年8月には3段に昇段。翌1934年には4段に進んで1936年1月に弱冠19歳で5段と、異例の早さで昇段を重ねた。この間、飯塚の助手として東京農業大学や東京工業大学、慶應義塾大学、立正大学のほか水産講習所で指導の傍ら自身も修行に励み、講道館の高等柔道教員養成所を卒業した。
山本 博(やまもと ひろし、1916年9月9日 - 1993… 山本 博(やまもと ひろし、1916年9月9日 - 1993年)は、日本の柔道家(講道館9段)。 大阪府布施市域(現・東大阪市)出身で、生家7人姉弟のうち唯一の男児であった。逆七福神と言われ過保護の中で育ち、幼少時代からの病弱・泣き虫を見かねた父の取り計らいにより中学は大阪市内ではなく、勉学よりもスポーツを志して府下の旧制四條畷中学校(現・府立四條畷高校)に入学。50番目中32番目という小柄な体格であった山本が、いじめに遭わないようにと自らの意志で柔道部に入部したのが柔道との出会いであった。中学校の柔道教員は山本が生涯の師と仰ぐ事となる浜野正平(のち大阪府警師範)で、山本は浜野の元で“道場の虫”とあだ名されるほど稽古に打ち込んだ。
姿 節雄(すがた せつお、1916年 <大正5年> 5月15… 姿 節雄(すがた せつお、1916年 <大正5年> 5月15日 - 1999年 <平成11年> 2月18日)は日本の柔道家(講道館9段)。広島県神石郡神石町(現・神石高原町)古川出身。 子供の頃から柔道を始め(記録上の講道館入門は1932年4月で15歳の時)、1934年の3月に県立府中中学校を卒業する時には全国でも数少ない中学生での3段位に列せられた。 卒業後は上京して明治大学の専門部へ入学し、名人・三船久蔵の内弟子に。入学から3ヵ月後に4段、翌35年1月には2年生の弱冠18歳ながら5段に昇段して同年秋の講道館紅白試合では5段の部で5人抜きを達成している。 3年次の1936年4月30日に福岡市で開催された第1回全日本東西対抗大会(両軍32人ずつの抜き試合)には大会最年少選手として出場し、武専の名手・阿部謙四郎5段をあっさり横四方固で降したものの、続く南満州鉄道の加藤幸蔵5段には跳巻込で敗れた。
阿部 謙四郎(あべ けんしろう、1915年〈大正4年〉12月… 阿部 謙四郎(あべ けんしろう、1915年〈大正4年〉12月15日 - 1985年〈昭和60年〉12月1日)は、日本の柔道家、合気道家、剣道家である。柔道7段(1960年代末に8段を授与されたとする情報もある)、合気道6段、剣道6段。 日本では戦前の著名な柔道家として知られる。戦後は日本の柔道界と対立して1955年にイギリスに渡った。イギリスではKenshiro Abbeの名で、1960年代のイギリスに合気道・剣道などを紹介した人物として知られる。1960年代にイギリス柔道カウンシル(BJC)を設立した。求心道(英語版)(Kyūshindō)を創始し、その理論に基づいて武道を教える道場が現在も多くある。
広瀬 巌(ひろせ いわお、1915年12月15日 - 198… 広瀬 巌(ひろせ いわお、1915年12月15日 - 1982年10月11日)は、日本の柔道家(講道館九段)。 身長170cmに満たない小柄な体格ながら、戦前の明治神宮競技大会、昭和天覧試合、日本選士権大会、全日本東西対抗大会、戦後の全日本選手権大会等の主要大会で永く活躍。後に大阪府警察の柔道師範として後進の指導に当たり、今日の府警柔道の礎を築いた。 宮崎県出身。身長150cm・体重70kgの小躯ながら支釣込足や巴投、肩車の名手として名を馳せた尾崎伊助8段に柔道の手ほどきを受け、旧制都城中学校(のちの県立都城泉ヶ丘高校)を経て武徳会武道専門学校に進学すると、磯貝一や田畑昇太郎ら範士、阿部謙四郎等の先輩に学び、終生の得意技となる払腰・釣込腰・一本背負投等に磨きをかけた。
島谷 一美(しまや かずみ、1915年10月12日 - 20… 島谷 一美(しまや かずみ、1915年10月12日 - 2005年2月13日)は、日本の柔道家(講道館9段)、レスリング選手。 北海道歌棄郡種前村(現・寿都町)出身で、小学生であった13歳の時に函館市の本間武勝3段の元で柔道を始めた。以来、三田国衛8段や松代林太郎6段らに師事し、函館商業学校では主将として活躍して北海道中等学校柔道大会の個人戦で優勝を果たす傍ら、同時に商業学校卒業までの7年間は新聞配達を経験して、厳冬下セーターと法被1枚で1日10kmを走り込むなど足腰を中心に身体を鍛えた。 卒業後は強豪で知られた日魯漁業(現・マルハニチロ)ラグビー部に引き抜かれ、センターやスリークォーターバックとし活躍。
佐藤 儀一郎(さとう ぎいちろう、1912年11月5日 - … 佐藤 儀一郎(さとう ぎいちろう、1912年11月5日 - 1997年6月13日)は日本の柔道家(講道館9段)、政治家。 宮城県角田市坂津田出身。1928年に旧制東北中学校(現・東北高等学校)を卒業。病弱な体を克服するために柔道を始めて恩師・佐久間弥太郎より厳しい指導を受け、後には高橋喜三郎、高橋勇蔵らにも師事した。記録上の講道館入門は1930年12月8日付だが、関東・東北・北海道柔道大会では同年と翌31年に個人戦・団体戦とも連覇を達成。身長180cm・体重95kgの恵まれた体躯と、得意技である固技や横捨身技が武器であった。 1934年より5年間は仙台鉄道局に籍を置き、1940年より6年間は旧制第二高校(現・東北大学)の柔道師範を務めた。
道上 伯(みちがみ はく、1912年10月21日 - 200… 道上 伯(みちがみ はく、1912年10月21日 - 2002年8月4日)は、日本の柔道家である。講道館七段、フランス柔道連盟九段。 愛媛県八幡浜市出身。1926年、愛媛県立八幡浜商業学校(のちの県立八幡浜高校)入学を機に柔道を始める。1927年に大日本武徳会柔道初段を取得。しかし実際は1926年の時点で既に昇段審査を通過しており、13歳という当時としては異例の若さでの合格だった為、試験官の一存によりこの時点での昇段は見送られていた。その後、15歳の誕生日を迎えた時に改めて正式に初段の段位を与えられている。 1929年、武徳会二段を取得。1930年、アメリカ渡航の夢を抱き、誰にも告げずに八幡浜から出奔。
堀安 成文(ほりやす なりふみ、大正元年(1912年)9月2… 堀安 成文(ほりやす なりふみ、大正元年(1912年)9月26日 - 昭和54年(1979年)6月8日)は、日本の柔道家、政治家。元鳥取県議会副議長。元県柔道連盟米子支部顧問。 堀安家は松江城主堀尾吉晴の末裔である。 鳥取県米子市出身。堀安憲の長男。立命館大学卒業。 昭和30年(1955年)から約10年間にわたって県公安委員長。昭和42年(1967年)県議初当選以来、連続三期当選。昭和52年(1977年)7月~昭和54年(1979年)4月県議会副議長。 代々堀安家は制剛流俰を伝える家であり、堀安成文は制剛流15代目であった。 大学在中柔道主将、卒業後講道館で柔道を錬磨し五段を授けらる。邸内に礎道館を設立、広く柔道の普及興隆に尽力。
清水 正一(しみず しょういち、1912年8月1日 - 19… 清水 正一(しみず しょういち、1912年8月1日 - 1989年7月25日)は、日本の柔道家。 長野県東筑摩郡島立村(現松本市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、日本体育会体操学校卒業。昭和9年(1934年)母校の体操学校に奉職し、同18年(1943年)教授に就任。同13年(1938年)から慶應義塾大学柔道部師範を兼務。同20年(1945年)から同25年(1950年)まで帰農していたが、同26年(1951年)東京大学講師、慶應義塾大学柔道部師範に復職。同43年(1968年)日本体育大学武道科特任教授、同48年(1973年)学長に就任し、また、柔道整復師養成施設設立を理事会に提案し、日体柔整専門学校初代校長に就任した。
横地 治男(よこち はるお、1912年3月10日- 2007… 横地 治男(よこち はるお、1912年3月10日- 2007年3月28日)は、日本の実業家、柔道家。島根県隠岐の島町名誉町民。 島根県隠岐郡出身。島根県立隠岐商船水産学校(現・島根県立隠岐水産高等学校)を卒業し陸軍に入隊、少尉で終戦を迎えて満州から復員した。復員後は防錆用の塗料販売業を手掛け、1956年に大日本化学商事(現ダイニッカ)として法人化。リッカーが経営破綻した際には一時期事業管財人を務めている。 実業界での活動の傍ら1975年には東京都世田谷区に柔道の私塾「講道学舎」を創立。オリンピック選手をふくめ、約200名の選手を輩出した。また、全日本柔道連盟顧問も務めた。 2007年3月28日、不整脈のため東京都目黒区の病院で死去、95歳没。
中島 正行(なかじま まさゆき、1911年8月15日 - 1… 中島 正行(なかじま まさゆき、1911年8月15日 - 1952年5月29日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 戦前の明治神宮大会柔道競技で優勝したほか、全日本選士権大会にも5度出場して優勝2度・準優勝1度の戦績を有す、戦前を代表する強豪柔道家の1人である。選手として活躍する傍ら神奈川県警察部や横浜市警察にて柔道指導に当たり、多くの後進の警察官育成に尽力した。 福岡県久留米市に父・末治郎の長男として生まれ、少年時代より同市花畑に町道場を開いていた今村の手解きを受けた。1929年6月に17歳で講道館へ入門して翌月に初段を許されると、その半年後に2段、1931年10月には3段に列せられた。 神奈川大学夜間部を経て1932年には神奈川県警察部相川勝六部長の知遇により同部巡査を拝命し、警察官としての職務に精励しながら柔道助教を務める。
山本 秀雄(やまもと ひでお、1911年8月6日 - 199… 山本 秀雄(やまもと ひでお、1911年8月6日 - 1991年11月16日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 東京市品川の二本榎に生まれた。父が寺の住職をしていた関係で小学校と中学校時代は北海道の函館で過ごし、函館中学校(後の函館中部高校)を経て早大一高に進学、この頃から柔道で頭角を現し始めた。同時期、小内落を考えだし研究し完成させた。膝を柔らかく保って両足の指先は左右に開かず真っ直ぐ平行に構え、小柄な体格と他人には真似のできないその独特の足運びから小さな大選手として名を馳せた。1933年10月の第7回明治神宮大会柔道競技では準決勝戦で東京高等師範学校の加藤幸蔵5段を小内落で降し、同門対決となった決勝戦では早大専門部の山口利雄5段の払釣込足に辛酸を舐めたものの準優勝という成績を残した。
新原 勇(しんばら いさむ、1911年7月15日 - 198… 新原 勇(しんばら いさむ、1911年7月15日 - 1987年5月18日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 昭和初期に日本国内における最高峰の柔道大会であった全日本選士権大会や明治神宮競技大会等で活躍し、指導者としては朝鮮や台湾でその礎を築いたほか日本国内においては福岡県立嘉穂中学校を全国優勝に導いた実績を有す、戦前を代表する柔道家・柔道指導者の1人である。 現在の福岡県飯塚市幸袋に生まれる。県立嘉穂中学校に入学すると、当時福岡県下における柔道の大家であり同校の師範を務めていた榎本本吉より熱心に手解きを受け、 1929年に2段位で卒業して翌年京都の武道専門学校に入学した。武専で磯貝一、田畑昇太郎両範士に師事し、柔道教士であった福島清三郎、栗原民雄、森下勇らの胸を借りて稽古に励んだ新原は1932年に精錬証を受け、翌33年には講道館5段位、1934年の教士号試合では飯山栄作に競り勝って称号を拝受している。
関口 恒五郎(せきぐち つねごろう、1910年7月29日 -… 関口 恒五郎(せきぐち つねごろう、1910年7月29日 - 1988年11月3日)は、昭和時代の日本の柔道家、関口病院院長。全日本学生柔道連盟会長などを歴任[要出典]。講道館八段。父は関口孝五郎、兄は関口林五郎。
小崎 甲子(こさき かつこ、1908年9月6日 - 1997… 小崎 甲子(こさき かつこ、1908年9月6日 - 1997年2月17日)は、愛知県名古屋市出身の日本の柔道家。講道館五段。1932年(昭和7年)に大日本武徳会から、1933年(昭和8年)に講道館からそれぞれ初段を認められ、明治以降の近代柔道において女性として初めて黒帯を許された人物である。 小崎甲子は1908年(明治41年)、名古屋市中心部に位置する伊勢町(現在の中区丸の内)にて、美術商「清源堂」店主小崎天大(たかお)の次女として誕生した。幼少期から活発なお転婆娘として鳴らし、金城女学校在学中はテニス・ソフトボール・陸上競技と様々なスポーツに打ち込んだ。1925年(大正14年)に女学校を卒業後は実家の美術商にて家事手伝いの身となったが、家事や稽古事を習いつつ縁談を待つ、当時の子女の当たり前の人生を自分には合わないものと考えていた。
佐々木 巌夫(ささき いわお、1907年12月3日 - 19… 佐々木 巌夫(ささき いわお、1907年12月3日 - 1971年12月3日)は、日本の柔道家(講道館9段)、実業家。旧姓笠原。 学生時代に全国中等学校柔道大会や明治神宮大会柔道競技で優勝等の成績を残し、特に早稲田大学在学中には学生柔道界の花形としてその勇名を轟かせ全日本選士権大会も獲得。卒業後は古河鉱業に就職し、営業部長や資材部長、炭鉱所長、監査役、顧問等を歴任し、実業家として活躍した。 栃木県宇都宮市で医師を務める笠原家10人兄弟の5男として東京都世田谷区の奥沢に生まれ、少年期より栃木県で育った。兄3人が旧制宇都宮中学校(現・県立宇都宮高校)から旧制第四高校へ進んだ柔道選手であったほか、姉2人の夫も旧制第四高校の柔道選手であった関係で、笠原も物心が付いた頃には家の中の十畳間で兄達が乱取を行うのを見て育つなど、既に柔道が身近な存在となっていた。
阿部 信文(あべ のぶふみ、1907年(明治40年)2月24… 阿部 信文(あべ のぶふみ、1907年(明治40年)2月24日 - 1983年(昭和58年)12月29日)は、日本の柔道家(講道館9段)、教育者。 講道館創始者嘉納治五郎に直接柔道の手ほどきを受けた直弟子で大正末期から昭和初期の現役時代には得意の背負投を武器に一世を風靡し、後には全日本柔道連盟評議員・常任理事、境港市教育委員長、鳥取県体育協会評議員、鳥取県柔道連盟会長、境港市体育協会会長を務めるなど日本柔道界の重鎮として知られた。 鳥取県西伯郡余子村(現・境港市高松町)出身。県立米子中学校(現・県立米子東高校)時代には右の一本背負投や跳腰で名を馳せ県下に伍する者無く、身長165cm・体重68kgの小兵ながら在学中に大日本武徳会で2段位を取得した。
大谷 晃(おおたに あきら、1906年10月9日 - 196… 大谷 晃(おおたに あきら、1906年10月9日 - 1963年2月22日)は日本の柔道家(講道館9段、大日本武徳会教士)。 1929年の明治神宮大会や1934年の天覧試合で選手権を獲得、後には拓殖大学や大阪府警察で後進の指導に当たるなどした、戦前・戦後の柔道界を牽引した柔道家の1人である。 広島県出身。中外商業学校(のちの県立尼崎北高校)、大日本武徳会大阪支部で柔道を学び、1924年17歳の時に講道館入門。入門半年後に初段、1925年1月に2段、1926年11月に3段、1927年2月に4段と、毎年順調に昇段を重ねた。身長157cmと上背はないものの、重心が低く巌のような体重89kgの体から繰り出す右の背負投と得意とし、1927年の第4回明治神宮大会柔道競技において青年団の個人戦・団体戦に出場。
松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日… 松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日 - 平成12年(2000年)12月25日)は日本の柔道家、実業家、政治家。境港商工会議所名誉会頭。元境町会議員、境港市会議員。 鳥取県境港市出身。万一の長男。 米中卒。松本材木店経営。姫路野砲第十連隊入隊、昭和19年(1944年)再応召、陸軍中尉。 昭和21年(1946年)松本木材(株)を設立、取締役社長に就任、同年境港商工会議所会頭(のち公職追放で辞任)。昭和30年(1955年)~昭和61年(1986年)境港商工会議所会頭。 昭和34年(1959年)(株)米子木材市場取締役社長、境港外材輸入(協)理事長、昭和38年(1963年)大山産業(株)取締役社長、昭和57年(1982年)松本木材(株)を境港木材工業(株)に改組、取締役顧問。
古曳 保正(こびき やすまさ、1906年2月21日 - 20… 古曳 保正(こびき やすまさ、1906年2月21日 - 2003年2月6日)は、日本の柔道家(講道館9段)、教育者。 鳥取県西伯郡法勝寺村(現・南部町)出身。小学校高等科まで剣道に励み、旧制米子中学校(現・県立米子東高校)でも剣道部に入部するが上級生に気の合わない者がいて退部、阿部信文の勧誘もあり柔道部へ転入部した。阿部や山根英師など諸先輩の胸を借りて学業成績が下がるほど柔道に熱中し、親や兄弟が柔道をやめるよう言ったが親の目を盗んでは稽古に励んだ。1924年、旧制松江高校主催の山陰中学校大会の選手に選ばれて出場、旧鳥取一中学校(現・県立鳥取西高校)相手に2人勝ち抜き、選手としての地位は確立された。
菊池 揚二(きくち ようじ、1906年2月1日 - 1978… 菊池 揚二(きくち ようじ、1906年2月1日 - 1978年12月22日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 中央大学在学中に戦前の東京学生柔道界の花形として活躍し、東京学生連合と警視庁との対抗試合や満州との対抗試合で名を馳せた。このほか昭和天覧試合や全日本選士権大会でも活躍し、戦後は指導者として警視庁や母校・中央大学の師範を歴任して多くの後進を指導。実父は菊池謙二郎、義父は講道館10段永岡秀一で、存命中は“最も毛並みの良い柔道家”との評を得ていた。 旧制第二高校校長等を務め硬骨な教育家として知られる菊池謙二郎の二男として、茨城県の水戸市に生まれた。当時、父が中国の上海市にて東亜同文書院の教授(実際は教授の上の現地責任者の教頭)を務めており、市内を流れる大河・揚子江の“揚”の字と、二男の“二”の字を取って“揚二”と名付けられたという。
山本 正信(やまもと まさのぶ、1905年10月25日 - … 山本 正信(やまもと まさのぶ、1905年10月25日 - 1984年6月4日)は、日本の柔道家(講道館9段、大日本武徳会教士)。 選手として戦前の全日本選士権大会で連覇を達成したほか昭和天覧試合や明治神宮大会等でも活躍し、指導者としては出身地の兵庫県にて各学校や警察の柔道師範を務めるなど、昭和時代の柔道界を牽引した柔道家の1人であった。 兵庫県神戸市に生まれ、小学校5年次より大日本武徳会兵庫支部にて田辺又右衛門(不遷流)や小角弥三次(天神真楊流)らの元で柔道を始めた。小角の訓えである「稽古中は絶対に休むな」「どんなに強い相手でも全力を傾倒して倒しにいけ」を子供ながら忠実に守り、これを実行したという。
胡井 剛一(えびい こういち、1905年1月10日 - 19… 胡井 剛一(えびい こういち、1905年1月10日 - 1988年2月22日)は日本の柔道家(講道館9段)。 愛媛県出身で、京都の平安中学校を経て武道専門学校に入学。身長167cm・体重68kgと決して大柄な体格ではなかったが、絶品と言われた小内刈や大内刈、巴投から固技への連絡を武器に柔軟な体や熱心な技の研究とも相俟って腕を磨き、また背負投や大外刈にも長じてその名を轟かせた。記録上の講道館入門は1928年3月20日。1930年5月に柔道教士を拝命した。 1931年3月に武専を卒業するとそのまま同校の助手として残る傍ら京都府警察部堀川警察署でも指導を行い、また京都同志社高商では師範として寝技を部員に徹底的に叩き込んで1937年の全国高専柔道大会で同校を優勝に導いた。
早川 勝(はやかわ まさる、1904年4月19日 - 197… 早川 勝(はやかわ まさる、1904年4月19日 - 1979年2月5日)は、日本の柔道家(講道館8段)、実業家。 学生時代に旧制第六高校師範の金光弥一兵衛や同校柔道部員らと共に前三角絞を開発した事で知られ、社会人となってからは三菱鉱業を経て日本経営者団体連盟専務理事を務めるなど実業家として活躍した。また兄・昇(のぼる)も学生時代に柔道選手として腕を鳴らし、後には王子製紙にて専務取締役を務めている。 東京府中野区に生まれ、4歳年長の兄・昇と同じ県立第一神戸中学校(後の県立神戸高校)に進学して柔道を始めた。中学在学中には昇が籍を置いていた金光弥一兵衛率いる旧制第六高校柔道部の選手たちと共に前三角絞を編み出し、勝は大日本武徳会兵庫支部主催のもと1921年11月に開かれた兵庫県下中学柔道大会に主将として出場しこの技を駆使して優勝、その有効性を証明して見せた。
牛島 辰熊(うしじま たつくま、1904年(明治37年)3月… 牛島 辰熊(うしじま たつくま、1904年(明治37年)3月10日 - 1985年(昭和60年)5月26日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。 明治神宮大会3連覇、昭和天覧試合準優勝。その圧倒的な強さと気の荒さから「鬼の牛島」と称された。柔道史上最強を謳われる木村政彦の師匠として有名だが、牛島自身も木村に負けぬ実績を持つ強豪であった。 熊本県熊本市の製油業者の家に生まれる。元々は剣道を修行していたが、15歳の時に長兄の影響で肥後柔術三道場の一つ、扱心流江口道場に入門した。熊本では講道館柔道よりも、まだ古流柔術の方が盛んであった。 この肥後柔術三道場の対抗戦は、判定勝利はなく「参った」のみで勝負を決するもので、時には腰に短い木刀を差して試合をやり、投げて組み伏せ、最後は木刀で相手の首を掻き斬る動作をして一本勝ちとなるルールでも戦った。
小谷 澄之(こたに すみゆき、1903年8月3日 - 199… 小谷 澄之(こたに すみゆき、1903年8月3日 - 1991年10月9日)は、日本の柔道家(講道館10段)、レスリング選手。 身長162cm・体重69kgという小柄な体格ながら現役時代は柔道選手として明治神宮競技大会で優勝したほか、昭和天覧試合や熊本・福岡対抗試合、満州・福岡対抗試合等にも出場して活躍した。レスリング選手としてもロサンゼルス五輪に出場している。 現役を退いてからは欧州やアメリカ等を歴訪して柔道の普及と振興に尽力する傍ら、講道館や全日本柔道連盟で要職を歴任して永く柔道界の運営に携わり、晩年には講道館10段位に列せられた。 小谷は兵庫県但馬、朝来郡中川村(現・朝来市)の農村の家に4人兄弟の末っ子として生まれる。
戸田 清(とだ きよし、1902年7月8日 - 2001年9… 戸田 清(とだ きよし、1902年7月8日 - 2001年9月19日)は、日本の数学教育学者、柔道家。 1902年、岡山県生まれ。岡山の六高で高専柔道に励む。1921年までに初段となる。1921年、六高が開発した脚への関節技・膝跨関節十字固(膝十字固め)に最も熟練していて対四高戦で新兵器として使用した。相手が怒りだし蹴飛ばされる。相手は審判から注意され、耐えて引き分けとなる。だが、四高側が反則だと猛烈に抗議し出し、協議の結果、暫定的に以降使用禁止となる。この後、柔道で本格的に禁止技になったが、サンボやプロレス、MMAで使用されるようになった。 東京帝国大学理学部数学科を卒業。卒業後は広島高等師範学校教授。
古沢 勘兵衛 (ふるさわ かんべえ、1902年(明治35年)… 古沢 勘兵衛 (ふるさわ かんべえ、1902年(明治35年)1月10日 - 1973年(昭和48年)5月2日)は、日本の柔道家(講道館9段、大日本武徳会教士)。元朝鮮総督府柔道教官。 持ち前の怪力を武器に全日本選士権大会で優勝2度、準優勝1度の成績を残したほか昭和天覧試合にも2度出場した実績を有す、戦前を代表する柔道家の1人である。 1902年(明治35年)1月10日に栃木県芳賀郡益子町本沼に生まれる。中学は地元の栃木県立旧制真岡中学校(現・栃木県立真岡高等学校)に進学し、1920年(大正9年)に講道館へ入門すると翌21年(大正10年)には当時中学生としては珍しかった初段に列せられた。卒業後は柔道の専門家を志して大日本武徳会武道専門学校 (旧制)に進学。
行岡 忠雄(ゆきおか ただお、1901年(明治34年)2月1… 行岡 忠雄(ゆきおか ただお、1901年(明治34年)2月18日 - 1974年(昭和49年)4月27日)は、日本の医師、医学博士、柔道整復師。 大阪医科大学(現・大阪大学医学部)卒。日本初 の柔道整復師養成施設である大阪接骨学校(昭和7年)と、行岡外科病院(大阪接骨学校附属行岡外科病院)(昭和9年)を設立する。 大阪府柔道整復師会 会長(1933年、1957年5月)、社団法人 大阪府医師会会長(1954年4月)、大阪府保険医協会理事長(1953年4月)、大阪市会議員(1951年以降連続6期)などを歴任。 大阪接骨学校(現:行岡医学技術専門学校・大阪行岡医療専門学校長柄校)の創設者。 1974年大阪市議のまま急性心不全のため、阪大病院で死去。
富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 197… 富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 1979年12月25日)は、日本の武道(合気道・柔道)家。教育学者(武道論)。日本合気道協会、秋田県角館町(後の仙北市)出身。 満州建国大学教授、早稲田大学教育学部教授を歴任、合気道創始者・植芝盛平の高弟として成立期の合気道に理論面で影響を与え、自ら考案した競技合気道の普及発展に努めた。講道館柔道創始者・嘉納治五郎が柔術を柔道に昇華させたように、合気道をより昇華させることを目指し、合気道の乱取り稽古を考案し導入した。富木の合気道は乱取り稽古を行うなど、他の会派と異なる点も多く、区別するため、「富木流合気道」、「富木合気道」と通称される(ただし、富木自身はこの呼称を用いておらず、「新合気道」「合気道競技」と命名していた)。
阿部 英児(あべ えいじ、1899年12月16日 - 196… 阿部 英児(あべ えいじ、1899年12月16日 - 1969年10月25日)は、日本の柔道家(講道館8段)、実業家。 学生時代に慶應義塾大学柔道部の傑物として名を馳せ、社会人となってからは昭和天覧試合で3位に入る活躍を見せる傍ら、大日本製糖で専務取締役兼工場長を務めるなど実業家として活躍した。また兄の大六も学生時代に柔道選手として腕を鳴らし、後には中部配電にて常務取締役を務めている。 1899年、司法官僚であり実業家でもあった阿部泰蔵の七男として、東京府東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。六男の大六(だいろく)とは双生児であった。慶應義塾在籍時、少年時代は飯塚国三郎に、後には中野正三に師事して柔道のイロハを学んだ。
川石 酒造之助(かわいし みきのすけ、1899年8月13日 … 川石 酒造之助(かわいし みきのすけ、1899年8月13日 - 1969年1月30日)は日本の柔道家。講道館柔道七段。兵庫県飾磨郡手柄村(のちの姫路市)出身。フランス柔道の父と称され、日本よりも日本以外で著名な柔道家である。 「川石メソッド」 (Méthode de Judo Kawaishi) 、「メトードK」と呼ばれる。パリの道場に迎えられた川石は柔道の技の系統的分類を、従来の講道館五教の技よりも多い147の技数でまとめた。川石は技の分類の上で、技毎に番号をつけ記号化したものを教えることで外国人に教授することに奏功した。ボルドー大学教授ミッシェル・ブルースの研究によると川石メソッドは科学者でありヨーロッパで最初の黒帯取得者と言われているモーシェ・フェルデンクライスの影響を受けていることが言及されている。
浜野 正平 (はまの しょうへい、1899年3月22日 - … 浜野 正平 (はまの しょうへい、1899年3月22日 - 1974年4月29日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 戦前の明治神宮競技大会や全日本選士権大会で選手として活躍し、後には大阪府警察名誉師範や大阪柔道連盟会長等を務めるなど大阪柔道界の重鎮として知られた。 現在の香川県坂出市に出生し、幼少時代は地元香川に伝わる無相流の柔術を学んだ。坂出商業時代に吉本官次より柔道の手解きを受け、卒業後は上京して明治大学法科専門部へ進学、後には大阪外国語学校支那語科(二部)にも通った。この間、明治大学で三船久蔵に師事したほか講道館および大日本武徳会で永岡秀一・佐村嘉一郎両範士の指導を仰ぎ、1917年9月付で講道館入門。
関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉… 関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉3月5日 - 1973年〈昭和48年〉6月26日)は、日本の医師(関口整形外科病院院長、群馬県医師会会長)、柔道家(講道館八段)。父は接骨師で柔道八段・関口孝五郎、弟は医師で柔道八段・関口恒五郎。群馬県体育協会会長、群馬県公安委員長、群馬県立前橋高等学校同窓会長。正五位、藍綬褒章、紺綬褒章、勲三等瑞宝章受章。 1899年(明治32年)3月5日、柔道家・関口孝五郎の長男として、群馬県群馬郡白郷井村(北群馬郡子持村を経て現在渋川市)に生まれる。2歳の時父が柔道場「弘道館」を開いたため前橋市に移住。旧制・群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業後、旧制・日本医学専門学校(現・日本医科大学)に進み1923年(大正12年)卒業。
伊藤 四男(いとう かずお、1898年11月8日 - 197… 伊藤 四男(いとう かずお、1898年11月8日 - 1974年3月20日)は日本の柔道家(講道館9段・国際武道院(英語版)名人10段)。 戦後、講道館の中で東京高師閥と共に興盛を誇った三船久蔵閥の主力人物であり、警視庁や日本体育大学、東洋大学等で柔道師範を務めた。その後北米や欧州各国で柔道指導を行い、柔道の国際的発展にも貢献している。 晩年は講道館の9段位に列せられたほか、国際武道院を主宰して師の三船に次ぐ名人10段位を名乗った。 山形県新庄市下金沢町の伊藤家に四男(よんなん)として出生し、警察官を退官後に町役場吏員を務める父・一から柔道の手解きを受けた。後の市立日新小学校を卒業後は1913年に旧制佐世保中学校(後の長崎県立佐世保北高校および同南高校)に入学して柔道を修行、その後は佐世保の海兵隊に進んで同隊在籍中の1920年4月に講道館へ入門した。
工藤 一三(くどう かずぞう、1898年7月27日 - 19… 工藤 一三(くどう かずぞう、1898年7月27日 - 1970年7月2日)は、日本の柔道家(講道館9段・大日本武徳会範士)。 戦前の明治神宮競技大会等で活躍して古賀残星の選抜した“柔道十傑”の1人に数えられ、旧制浦和高校助教授を経てドイツに留学し柔道の普及に尽力。後には警視庁にて逮捕術制定の任に当たって講道館審議委員や全日本柔道連盟の理事を務めるなど、柔道界の大家として知られた。 青森県弘前市富田に生まれ富山県で育った。県立高岡中学校(現・県立高岡高校)在学中に磯貝一の実兄である誠三(のち6段)の手解きを受け、1916年に同校を卒業後は上京して東京高等師範学校体育科に進学し、生来の研究熱心も手伝い永岡秀一の指導のもとで以前にも増しその腕を上達させた。
晴山 福一郎(はれやま ふくいちろう、1898年 - 198… 晴山 福一郎(はれやま ふくいちろう、1898年 - 1980年)は、教育者・柔道家。岩手県久慈市出身。 江戸時代から大正期まで久慈町の豪商として栄えた橘屋の下かまど(分家)に生まれる。岩手師範学校卒業後盛岡市内の小学校で教鞭を執り、大日本武徳会武道専門学校に入学。岩手県の許可が下りず退学し教職に戻った。岩手県久慈地域の小学校長を歴任し、1946年、戦中翼賛壮年団長だったことから公職追放となった。 追放解除後は整骨院を久慈市と岩泉町で経営する傍ら、久慈町消防団長、久慈市教育委員長、久慈市消防署長を始め、数多くの役職を歴任し、戦前・戦中・戦後を通し、旧久慈町、久慈市の指導的立場にあった。 特筆すべきは、1933年に南部桐を使った「晴山式新案骨格模型」を作成し、当時の石黒英彦岩手県知事から激賞された。
牧野 政信(まきの まさのぶ、1898年 - 1948年3月… 牧野 政信(まきの まさのぶ、1898年 - 1948年3月9日)は日本の柔道家(講道館8段)、政治家。 秋田県山本郡浜口村の出身で講道館入門は1913年。1924年に明治大学政治経済科を卒業すると、設立されたばかりの旧制弘前高等学校(現・弘前大学)にて講師を約1年ほど務めた。 その後東京に戻ってからは職らしい職には就かず、柔道の稽古に明け暮れる毎日に。1930年に第1回全日本選士権大会が開催されると牧野は一般壮年後期の部に第2区(東京)代表で出場し、福岡の島井安之助5段に次ぐ準優勝という成績を残した。1931年に母校・明治大学の選手を引率して渡米しカリフォルニア州とハワイ州で柔道を紹介し、1937年の満州遠征には理事を務める東京学生連合会の監督として参加。
田中 良三(たなか りょうぞう、1898年 - 1985年1… 田中 良三(たなか りょうぞう、1898年 - 1985年10月9日)は、日本の柔道家。 明治31年群馬県安中市生まれ。日本柔道選士権大会 第六回3位。第八回準優勝、講道館6段(財団法人講道館 記録資料より)。県立高崎高等学校など、広く後進の育成にあたり、篠原秀吉らと共に群馬県柔道界を牽引した。最終段位は講道館8段。 赤川徳次郎(六段/東京)− 田中良三(六段/群馬) この項目は、柔道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P柔道/PJ柔道)。
神田 久太郎(かんだ きゅうたろう、1897年12月20日 … 神田 久太郎(かんだ きゅうたろう、1897年12月20日 - 1977年6月15日)は、日本の柔道家。講道館9段。 柔術を修行して肩車や双手刈といった技に長じ戦前の全日本選士権大会や明治神宮競技大会柔道競技で優勝、戦後も50歳で全日本選手権大会に出場するなど永く選手として活動した、昭和初期を代表する柔道家の1人である。警視庁柔道師範や福島県警柔道師範を務めたほか、1964年の東京五輪柔道競技での強化委員や福島県柔道連盟会長等も歴任した。 福島県出身で本籍地は福島市荒町。幼少時より宏道館道場の渡辺峰松の元で約3年、さらに大日本武徳会福島支部にて学んだ。 上京して日本大学中学校(現:日本大学第一中学校・高等学校)に進学するも中退し、時を前後し千葉の武徳殿で戸塚派揚心流山本欽作範士の門下となって1915年には武徳会の初段を取得。