林田 重正 (はやしだ しげまさ、1918年10月1日 - … 林田 重正 (はやしだ しげまさ、1918年10月1日 - 1997年1月4日)は、長崎県諌早市出身の画家。 山、川、野原、木立と言った、やさしい日本の風景を、心に映るままに描き続けた。 自由美術家連盟離脱後、特定の美術団体に属することもなく、かつ非常に寡作でありまた謙虚な性格であった為、一部の熱烈な理解者を得てはいた ものの、生前に美術界で大きな評価を得ることはなかった。 底本はによった。ただし、年齢は満年齢とした。 1918年 (大正7年)10月1日、長崎県北高来郡諫早村上ノ馬場(現諫早市上野町)に生まれる。父嘉八・母津枝。家業は地主。 1937年(昭和12年)3月(18歳)、県立諫早中学(現・県立諫早高等学校)を1年遅れで卒業。
谷 伍平(たに ごへい、1916年10月1日 - 2007年… 谷 伍平(たに ごへい、1916年10月1日 - 2007年6月20日)は、日本の政治家、官僚。元北九州市長(1967年~1987年)で、福岡県直方市出身。
石橋 弘(いしばし ひろし、大正5年(1916年)10月1日… 石橋 弘(いしばし ひろし、大正5年(1916年)10月1日 - )は日本の実業家、政治家。元境港市議会議員(副議長)。旧姓松井。医師松井功の実兄。境港造船(株)代表取締役石橋雄器のは婿養子。 鳥取県西伯郡淀江町(現米子市)出身。 昭和17年(1942年)早稲田大学商学部卒業。同年合名会社石橋造船鉄工所代表社員に就任。昭和18年(1943年)(株)石橋造船鉄工所代表取締役就任。昭和32年(1957年)境港造船(株)代表取締役就任。 尊敬する人物は西郷隆盛、上杉謙信。座右の銘は「百術は一誠にしかず」。趣味は旅行、カメラ、読書。住所は境港市岬町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
金丸 貞三(かなまる ていぞう、1916年(大正5年)10月… 金丸 貞三(かなまる ていぞう、1916年(大正5年)10月1日 - 1942年(昭和17年)12月24日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者でエース・パイロット。最終階級は陸軍中尉。 1916年(大正5年)10月1日、宮崎県宮崎市に生まれる。1934年(昭和9年)2月、陸軍少年飛行兵の第1期生として所沢陸軍飛行学校に入校した。1935年(昭和10年)11月に卒業すると、ついで明野陸軍飛行学校で戦闘機の戦技教育を受け、1936年(昭和11年)2月に飛行第8連隊(台湾・屏東)へ配属された。 1937年(昭和12年)7月に支那事変が勃発、8月中旬に戦火が上海に拡大すると、飛行第8連隊の1コ戦闘機中隊を基幹に独立飛行第10中隊(九五式戦闘機装備)が編成され上海戦線に投入された。
浅野 勝三郎 (あさの かつさぶろう、1915年10月1日 … 浅野 勝三郎 (あさの かつさぶろう、1915年10月1日 - 没年不明)は、阪急軍に在籍したプロ野球選手(投手)。旧名・山田勝三郎。
梅澤 濱夫(うめざわ はまお、1914年10月1日 - 19… 梅澤 濱夫(うめざわ はまお、1914年10月1日 - 1986年12月25日)は、日本の医学者、細菌学者、文化勲章受章者。 福井県小浜市生まれ。旧制武蔵高等学校を経て、東京帝国大学医学部卒業。卒業後、当時の東京帝国大学医学部細菌学教室、東京帝国大学付属伝染病研究所に勤務。1947年国立予防衛生研究所設立とともに初代抗生物質部長に就任。1954年以降は、東京大学応用微生物研究所教授(兼務)となる。 ペニシリンの国産化に尽力し、1956年、国産初の抗生物質カナマイシンを発見、精製。カナマイシンは、ストレプトマイシンの効きにくい耐性菌にも効果のある抗生物質として世界的に用いられた。当時の厚生大臣橋本龍伍の計らいにより、このカナマイシンの特許料を基金として、1959年財団法人微生物化学研究会を設立、理事長に就任。
佐藤 光夫(さとう みつお、1914年(大正3年)10月1日… 佐藤 光夫(さとう みつお、1914年(大正3年)10月1日 - 1997年(平成9年)7月17日)は、日本の運輸官僚、海上保安官。海上保安庁長官や運輸事務次官等を務めた後に、京成電鉄第6代社長として京成グループを率い、経営危機に陥っていたグループの再建を成功させた。敬虔なクリスチャンとしても知られた。1987年勲二等旭日重光章受章。 長野県諏訪郡上諏訪町(現:諏訪市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て旧制東京商科大学(一橋大学の前身)卒業後、実業に関係のありそうな省庁を希望し、鉄道省入省(大鉄局書記)。同期入省の木村睦男(元参議院議長)は、佐藤を「若いころからまじめを絵にかいたような男だった」と評する。
梅澤 濱夫(うめざわ はまお、1914年10月1日 - 19… 梅澤 濱夫(うめざわ はまお、1914年10月1日 - 1986年12月25日)は、日本の医学者、細菌学者、文化勲章受章者。
八十島 信之助(やそしま しんのすけ、1914年(大正3年)… 八十島 信之助(やそしま しんのすけ、1914年(大正3年)10月1日 - 1990年(平成2年)7月16日)は、日本の法医学者。札幌医科大学名誉教授。 東京府出身。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1938年に慶應義塾大学医学部を卒業。 東京都監察医として、1949年の下山事件で検視を行う。1951年「感電死の研究」で慶應義塾大学医学博士。慶應義塾大学講師。 1961年札幌医科大学教授。1985年定年退職、名誉教授。多くの司法解剖を行った。 1990年7月16日、死去。75歳没。 父は実業家の八十島親徳。岳父は医学者の川村麟也。兄に実業家の八十島親義、弟に土木工学者で東京大学名誉教授の八十島義之助。
加賀 大介(かが だいすけ、1914年〈大正3年〉10月1日… 加賀 大介(かが だいすけ、1914年〈大正3年〉10月1日 - 1973年〈昭和48年〉6月21日)は、石川県能美郡根上町(現能美市)生まれの作詞家。出生名・中村 義雄。後に本名をペンネームの一つでもあった加賀大介に改名。 1948年に朝日新聞が募集した全国高等学校野球選手権大会の大会歌に、婚約者(後に妻)であった当時23歳の金沢地方貯金局職員・高橋道子(結婚後は中村道子)の名前を借りて「加賀道子」の筆名で応募し、5,252篇の中から選ばれた。この歌は『栄冠は君に輝く』として知られる。 妻の名前を借りて応募したのは、当時加賀が短歌や演劇の会を主宰し、脚本を書いていたプロの文筆家であったため「懸賞金目当て」と思われるのが嫌だったからである。
杉本 俊朗(すぎもと としろう、1913年10月1日 - 2… 杉本 俊朗(すぎもと としろう、1913年10月1日 - 2012年9月27日)は、マルクス経済学者。横浜国立大学名誉教授。専門は国際経済学、経済書誌学。経済学者の平田喜彦は娘婿。 神戸市生まれ。1934年武蔵高等学校高等科文科乙類卒業。東京帝国大学経済学部に入学。大内兵衛ゼミで学ぶ。東京学生消費組合赤門支部の委員として活動。1937年に大学を卒業し、東洋経済新報社編集局に勤務。1940年に東洋経済記者の禰屋不二夫が石橋湛山主幹の京城支局への転勤命令を断り、9月9日付で退社。同僚若手記者らは石橋のワンマンぶりに反発し、杉本俊朗、細野宰男(のち細野武男に改名)、遊部久蔵、中野正の4名が9月13日付で退社した(のちに国松藤一も退社。
河井 信太郎(かわい のぶたろう、1913年10月1日 - … 河井 信太郎(かわい のぶたろう、1913年10月1日 - 1982年11月15日)は、愛知県宝飯郡蒲郡町(現・蒲郡市)出身の検事。「東京地検特捜部生みの親」とされる。 1913年(大正2年)10月1日に愛知県宝飯郡蒲郡町(現・蒲郡市)に生まれ、愛知県立蒲郡農学校(現・愛知県立蒲郡高等学校)在学中に兄のいる東京に上京した。東京実業学校から中央大学法学部の夜間部を経て、高等文官試験に合格。官吏になるまでの間、海軍経理学校短期現役学生(いわゆる短現組)に選ばれたエリートであった。そこで経理・会計を修得したことが、のちの特捜時代に役立った。 東京地方検察庁の隠退蔵事件捜査部が1949年に東京地検特捜部に改組された時から特捜部に加わっており、経済事犯に対応するため中央大学経理研究所などで制度確立のための研究に没頭していた。
清水 慎三(しみず しんぞう、1913年10月1日 - 19… 清水 慎三(しみず しんぞう、1913年10月1日 - 1996年10月18日)は、日本の労働運動家、評論家。 岡山県岡山市出身。日本製鐵社員、内閣企画院嘱託、総理府事務官経済安定本部勤務、日本労働総同盟調査部長、鉄鋼労連初代書記長、日本社会党(左派)中央執行委員、総評長期政策委員会事務局長、信州大学教授、日本福祉大学教授を歴任した。 主な著書に『日本の社会民主主義』(岩波新書、1961年)、『戦後革新勢力』(青木書店、1966年)、『戦後革新の半日陰』(日本経済評論社、1995年)など。『清水慎三著作集』(高木郁朗編、日本経済評論社、1999年)がある。 岡山市の呉服商の家に生まれる。岡山県第一岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第六高等学校、六高時代はボート部に属し、瀬戸内海で青春を謳歌。
鈴木 一(すずき はじめ、1913年(大正2年)10月1日 … 鈴木 一(すずき はじめ、1913年(大正2年)10月1日 - 1978年(昭和53年)2月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。参議院議員(1期)。 秋田県出身。1938年東京帝国大学文学部倫理学科卒。翌年文部省の嘱託となる。後に全国購買農業協同組合連合会課長、部長などになる。他、全国農業会書記長、委員長、労働組合委員長、会社社長などを務める。 1953年の第3回参議院議員通常選挙において秋田地方区から無所属で立候補して当選、当選後は日本社会党に入った。1958年の第28回衆議院議員総選挙では秋田1区から無所属で立候補して初当選。当選後の所属政党は日本社会党から民主社会党、民社党となった。
橋口 隆(はしぐち たかし、1913年〈大正2年〉10月1日… 橋口 隆(はしぐち たかし、1913年〈大正2年〉10月1日 - 2005年〈平成17年〉2月21日)は、日本の政治家、元商工・通産官僚、元自由民主党衆議院議員(6期)。 鹿児島県肝属郡根占町(現・南大隅町)出身。橋口順孝の長男。第七高等学校造士館を経て、1938年、東京帝国大学法学部を卒業。1937年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1938年、商工省に入省し貿易局属となる。 以後、商工省・情報局・軍需省・綜合計画局・戦災復興院・物価庁などの事務官、商工省木製品課長、通商産業省アルコール事業長、広島通商産業局長、福岡通商産業局長などを歴任。 1967年1月の第31回衆議院議員総選挙で鹿児島3区から自民党公認で立候補して初当選。
広田 稹(廣田、ひろた しげる、1913年 <大正2年> 1… 広田 稹(廣田、ひろた しげる、1913年 <大正2年> 10月1日 - 1987年 <昭和62年> 1月5日)は、日本の外交官。位階は正三位。 新潟県出身。1937年外交官試験に合格後、38年3月東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、外務省入省。アジア局第4課長、同第2課長、バンクーバー領事、大臣官房人事課長、経済局外務参事官、アラブ連合共和国大使館参事官等を歴任。1961年9月ハンブルク総領事、65年5月より中南米移住局長、翌年11月経済協力局長、68年1月より大臣官房審議官を務めた。 その後、ベネズエラ、マレーシア、オランダ駐在大使を歴任した。1975年12月退官。翌年、熊谷組顧問に就任。 1982年退社後、83年11月勲二等旭日重光章を受ける。
増野 正衛(ますの まさえ、1912年10月1日 - 198… 増野 正衛(ますの まさえ、1912年10月1日 - 1985年〈昭和60年〉3月10日)は、日本の英文学者、翻訳家。 1938年京都帝国大学文学部英文科卒、立命館大学助教授、京都工芸繊維大学教授、甲南大学教授、就実女子大学教授。ワイン研究家でもあった。 父親は、増野製作所創業者の増野清香。2代目社長の増野香次、3代目社長の増野鋼四郎は弟である。 東京府立第五中学校時代の同級生にNHKアナウンサーの田辺正晴がいる。
堀内 一彌(ほりうち かずや、1912年10月1日 - 19… 堀内 一彌(ほりうち かずや、1912年10月1日 - 1972年4月11日)は、日本の衛生学者。 慶應義塾大学附属医学専門部教授(1945年9月-1949年3月)、大阪市立医科大学(現・大阪市立大学大学院医学系研究科)教授(1947年3月-1972年4月11日)。重金属による環境汚染、とりわけ鉛中毒を専門とした。衛生学の分野に科学的手法を取り入れた、公害対策の第一人者であった。 東京都出身。1937年慶應義塾大学医学部を卒業し、同年聖路加病院内科に勤務する。1938年に陸軍の召集を受け、軍曹として軍務に付く。1939年6月少尉に任官し、1940年12月中尉に昇進する。1941年4月に召集解除となり、5月に慶應義塾大学医学部衛生学教室助手に就任。
服部 高顯(はっとり たかあき、1912年〈大正元年〉10月… 服部 高顯(はっとり たかあき、1912年〈大正元年〉10月1日 - 1993年〈平成5年〉3月24日)は、日本の裁判官。第9代最高裁判所長官。愛知県出身。位階は従二位。 第八高等学校、東京帝国大学法学部卒業。裁判官になったあと陸軍に召集され、下士官を過ごした。英語が抜群の出来で、戦後は司法省大臣官房で連合国との折衝にあたった。最高裁民事局第一課長の時に家事審判規則の制定に参画した。その後、司法研修所教官や東京地裁で裁判実務についた。1954年にフォード財団が支援した日米法学者交流でアメリカの大学に2年間留学した。帰国後、津地裁所長、東京高裁判事、福岡高裁長官、大阪高裁長官を歴任。 1975年12月3日に最高裁判所判事に就任。
阿部なを(あべ なを、1911年10月1日 - 1996年9… 阿部なを(あべ なを、1911年10月1日 - 1996年9月27日)は青森県青森市出身の料理研究家。本名は阿部チヨ。 青森高等女学校卒業。故郷で洋画家阿部合成と結婚して上京。26歳の時、人間国宝の堀柳女に師事し人形作家となる。日展、伝統工芸展などに次々と入選し、人形作家としての地位を築いた。3人の子に恵まれたが、離婚することとなり、人形では生活できないため料理の道に入った。1959年に東京上野のみちのく料理店「北畔(ほくはん)」を構えた。料理家としてテレビ番組出演や原稿執筆で活躍した。 娘は山口絵里、孫は河合真理。
宇高 基輔(うだか もとすけ、1911年10月1日 - 19… 宇高 基輔(うだか もとすけ、1911年10月1日 - 1994年4月23日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授。マルクス経済学を研究した。 岡山県生まれ。旧制閑谷中(現:岡山県立和気閑谷高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1936年東京帝国大学経済学部卒。戦後、東京大学社会科学研究所助教授、教授、1972年定年退官。また、専修大学教授を務めた。1994年4月23日、肝不全のため死去。
椎名 麟三(しいな りんぞう、1911年10月1日 - 19… 椎名 麟三(しいな りんぞう、1911年10月1日 - 1973年3月28日)は、日本の小説家である。本名は大坪 昇(おおつぼ のぼる)。
小西 秀次(こにし しゅうじ、1911年10月1日 - 19… 小西 秀次(こにし しゅうじ、1911年10月1日 - 1990年7月17日)は、日本の実業家。キリンビール社長、会長を務めた。三重県出身。 1937年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年にキリンビールに入社。 1966年に横浜支店長に就任し、営業部長、取締役、常務、専務を経て、1978年4月から1984年4月までに社長を務め、1984年4月から1988年までに会長を務めた。1988年から顧問を務めた。 専務在任時から1976年にはビール販売シェア63.8%と史上最高を達成し、シェア60%台を維持するなどキリンの黄金時代を築き上げた。 1990年7月17日、急性心筋梗塞のために死去。78歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
西川 五郎(にしかわ ごろう、1911年(明治44年)10月… 西川 五郎(にしかわ ごろう、1911年(明治44年)10月1日 - 1999年(平成11年)2月14日)は、日本の実業家。西川産業社長、昭和西川社長,大阪西川社長、京都西川会長。 現在の滋賀県近江八幡市出身。貴族院議員や八幡銀行頭取を務めた十二代西川甚五郎の五男として1911年に生まれる。西川産業会長、参議院議員、北海道開発庁長官を務めた十三代西川甚五郎は実の兄。慶應義塾大学経済学部を卒業し、1967年に西川産業の社長に就任した。 1968年にはグッドデザイン賞を初受賞し、1970年には新合繊わたファロンを開発した。他にも、積極的に業界初の試みをしていった。1971年にはデザイナー ウンガロとデザイン提携をし、1972年には森英恵やmarimekko社と提携した。
広津 雲仙(ひろつ うんせん、1910年〈明治43年〉10月… 広津 雲仙(ひろつ うんせん、1910年〈明治43年〉10月1日 - 1989年〈平成元年〉9月19日)は、昭和期に活躍し、日展内閣総理大臣賞や日本芸術院賞を受賞した書家。日展の要職を歴任し常務理事を務めたほか、日本書芸院の設立、読売書法会の創立に尽力した。また、書道雑誌『墨滴』を刊行すると同時に、墨滴会を主宰し、後進の育成に力を注いだ。長崎県北高来郡高来町出身(現、諫早市高来町)で、本名は廣津 四郎(ひろつ しろう)。雅号の「雲仙」は、長崎県の雲仙岳に由来する。 雲仙の作品は、堅実な古典的基礎の骨格を、穏和な肉付きで包んでいて、厳しい格調の高さや内的精神の強さが、気取りや誇張のない、やさしい品の良さで仕上げられている。
土井 修爾(どい しゅうじ、1909年10月1日 - 193… 土井 修爾(どい しゅうじ、1909年10月1日 - 1938年7月7日)は、日本の水球選手である。1932年に開催された夏季オリンピックの男子トーナメントに出場した。日中戦争中は陸軍に士官として召集されていたが、日本国内での訓練中の負傷がもとで病死(戦病死)した。 広島県広島市出身。父の土井與一は弁護士であった。広島市立袋町小学校、県立広島第二中学校(現在の広島県立広島観音高等学校)を経て、早稲田大学法学部に学ぶ。 早稲田大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。水球には4か国(ドイツ、アメリカ、ハンガリー、日本)が出場した。初出場の日本は国内の優秀選手を送り出したが、全敗を喫した。
平野 春逸(ひらの しゅんいつ、1909年10月1日-199… 平野 春逸(ひらの しゅんいつ、1909年10月1日-1992年8月23日)は、日本の医学者。医学博士。専門は生理学、解剖生理学。福岡大学名誉教授。クラシック音楽レコードの愛好収集する音楽評論家でもあり、また、ツバキの愛好収集家としても知られた。 鹿児島市出身で医師の長男。鹿児島女子師範学校附属小学校から旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)に入学し、1927年卒業。県立鹿児島病院研究補助員を務めた後、九州医学専門学校(現・久留米大学医学部)に入学。九州医学専門学校を1933年に卒業して、一度鹿児島へ戻り県立鹿児島病院の医員を翌年まで務める。1934年には九州医学専門学校内科に入局して、1936年には放射線科へ転じ、1937年に医局長となる。
佐々 久(ささ ひさし、1909年10月1日 - 1989年… 佐々 久(ささ ひさし、1909年10月1日 - 1989年6月8日)は、日本の郷土史家、東洋史学者、教育者。宮城県図書館長、仙台郷土研究会会長などを務めた。 宮城県仙台市生まれ。東北帝国大学で東洋史を専攻し東北学院の教授などを務めたのち、30代後半で宮城県の郷土史研究に転じる。公務員として教育行政や文化財保護、図書館運営に携わりながら『仙台市史』、『宮城県史』の編纂・執筆をし、また宮城県内の多くの自治体の地方史を監修した。1981年、勲四等瑞宝章受章。蔵書は宮城県図書館に寄贈され「佐々久文庫」として所蔵されている。 1909年(明治42年)10月1日、宮城県仙台市二十人町に7人きょうだいの長男として生まれる。
郡司 信夫(ぐんじ のぶお、1908年10月1日 - 199… 郡司 信夫(ぐんじ のぶお、1908年10月1日 - 1999年2月11日)は、栃木県出身のボクシング評論家。 大田原中学校から大正大学を経て、1930年に誠文堂新光社に入社。スポーツ誌編集に携わる。 1934年に独立してガゼット出版社を設立、「ボクシング・ガゼット」誌を創刊した。時同じくして「拳道会ボクシング練習場」を設立。拳道会は解散するが、戦後に「日本拳闘株式会社」を設立。一方、ガゼット誌の編集はベースボール・マガジン社に吸収されるまで約30年担当。 1952年からは30年に渡りTBSのボクシング解説者を務め、日本テレビの平沢雪村、フジテレビの石川輝らとともにボクシング解説者の草分けと呼ばれた。
山地八郎(やまじ はちろう 1908年10月1日 - 199… 山地八郎(やまじ はちろう 1908年10月1日 - 1999年6月9日)は、日本の元商工・通産官僚。長崎県南高来郡口之津町出身。
古賀 専(こが あつし、1908年10月1日 - 1993年… 古賀 専(こが あつし、1908年10月1日 - 1993年12月20日)は、昭和時代の労働運動家。通称は専(せん)。全国造船重機械労働組合連合会(造船重機労連)初代委員長。 佐賀県神埼郡城田村(現神埼市)生まれ。長崎県佐世保市出身。1923年佐世保尋常高等小学校を卒業。佐世保海軍工廠に電気工の見習として入り、佐世保海軍工廠教習所高等科を卒業。1924年海軍労働組合連盟佐世保労愛会に加盟。1927年佐世保民衆党、ついで社会民衆党で活動。1928年三・一五事件で検挙され解雇。1930年佐世保社会民衆党常任書記となり、西日本坑夫組合の結成に参加、主事。1932年柚木炭鉱争議で検挙。1937年中国へ渡った。
住吉 耕作(すみよし こうさく、1907年10月1日 - 1… 住吉 耕作(すみよし こうさく、1907年10月1日 - 1971年)は、日本の陸上競技(投擲)選手。 1920年代後半から1930年代前半までやり投で活躍した選手で、「槍の住吉」と呼ばれた。オリンピック出場2回(1928年アムステルダム・1932年ロサンゼルス)。姓はのちに岩崎。早稲田大学理工学部卒業。 広島県安芸郡江田島町(現在の江田島市)生まれ。呉一中(現在の広島県立呉三津田高等学校)を卒業。1925年の第7回極東選手権競技大会(マニラ)にやり投と走高跳で出場。 早稲田大学に進学後はやり投選手として活躍。1927年、第8回極東選手権競技大会(上海)ではやり投で優勝。 1928年4月29日に関東選手権で61m08の記録を出して日本記録を更新。
田辺 振太郎(たなべ しんたろう、1907年10月1日 - … 田辺 振太郎(たなべ しんたろう、1907年10月1日 - 1987年3月9日)は、日本の科学思想家。 京都出身。東京市本郷区西片町(現・東京都文京区)生まれ。雅号・素楽。1927年静岡県田方郡下大見村・私立大井上理農学研究所に技師として入所、1929年第一高等学校化学教室副手。1932年唯物論研究会の創立に参加。1933年岩波書店編集部勤務、1935-45年理化学研究所助手。磯部甫研究室(元・浅原源七研究室)所属。1945-47年武蔵高等学校(旧制)専任講師(化学)、1953年東京物理学校(現・東京理科大学)卒。戦前には、教育科学研究会の科学教育研究部会数学教育分会に参加。のち在野の哲学者として独自の技術論や認識論を展開した。
江崎 一治(えさき かずはる、1907年10月1日 - 19… 江崎 一治(えさき かずはる、1907年10月1日 - 1972年7月11日)は日本の会社経営者、政治家。 衆議院議員(日本共産党公認)を1期務めた。株式会社丹羽鉄鋼相談役。 京都府京都市出身。早稲田大学理工学部電気工学科を1933年に卒業後、1938年日本電気玉川向工場に入社。大津工場第2検査課長などを歴任したが、1946年に日本共産党へ入党したのを機に同党滋賀県委員や日本電気労働組合大津分会執行委員を務めた。しかしレッドパージに伴い同社を解雇されると、大阪府内で会社を経営。1949年の第24回衆議院議員総選挙で滋賀県全県区から出馬し初当選、滋賀県初の共産党国会議員となった。当選1回。 1972年7月11日、肝硬変のため神奈川県川崎市中原区の日本医科大学付属第二病院にて死去。
芦田 高子(あしだ たかこ、1907年(明治40年)10月1… 芦田 高子(あしだ たかこ、1907年(明治40年)10月1日 - 1979年(昭和54年)3月13日)は、日本の歌人。 芦田高子は、岡山県勝田郡勝北町(現・津山市)に生まれた。高等女学校を経て、梅花女子専門学校(現・梅花女子大学短期大学部)国文科を卒業後、婦女世界社の編集部に入社。そのころ二つ年下の医学生と知り合い、1931年(昭和6年)に結婚。門野高子となる。高子は、学資を援助したり面倒をみて医師に育てたという。その後、パルモア英学院(現・パルモア学院専門学校、啓明学院)、三省堂大阪支店出版課に勤務した。 そして、夫が能登の生地で開業することとなり、高子も石川県鹿島郡鳥屋町(現・中能登町)に移住。
小野寺 百合子(おのでら ゆりこ、1906年〈明治39年〉1… 小野寺 百合子(おのでら ゆりこ、1906年〈明治39年〉10月1日 - 1998年〈平成10年〉3月31日)は、日本の翻訳家、随筆家、ノンフィクション作家。トーベ・ヤンソンの『ムーミンシリーズ』などの児童文学翻訳で知られる。旧姓、一戸。陸軍少将小野寺信は夫。 東京都渋谷区生まれ。東京女子高等師範学校附属高等女学校専攻科(現・お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)卒。第二次世界大戦中、公使館附武官だった夫とともにスウェーデンに滞在し、和平工作のための夫の情報活動を手伝い、暗号電文を作ったり、本国からの電文を解読したりした。60歳を過ぎてから、トーベ・ヤンソンやアストリッド・リンドグレーン、エレン・ケイなどスウェーデン文学の翻訳に従事した。
李 升基(リ・スンギ、朝鮮語: 리승기、1905年10月1日… 李 升基(リ・スンギ、朝鮮語: 리승기、1905年10月1日 - 1996年2月8日)は、北朝鮮の化学者、政治家。ビニロンの発明者の一人。 日本統治時代の朝鮮の全羅南道潭陽郡生まれ。中央普通学校を経て松山高等学校理科甲類を1928年3月に卒業した。その後、京都帝国大学工学部に進学して1931年3月に卒業し、その後、京都帝国大学化学研究所では助教授を務めた。1939年には桜田一郎、川上博(大日本紡績)らと共にビニロンを合成し、世界で2番目の合成繊維を作成した。しかし戦時中の日本の軍事政策に協力しなかったために治安維持法により拘束され、終戦を迎えるまでとらわれの身となった。なお同時期の京大化研では同じ朝鮮人化学者の李泰圭も助教授・教授として在籍している。
馬淵 威雄(まぶち たけお、1905年〈明治38年〉10月1… 馬淵 威雄(まぶち たけお、1905年〈明治38年〉10月1日 - 1988年〈昭和63年〉9月20日)は、昭和期の実業家。死去時の役職は東宝相談役、フジテレビ取締役。京都府出身。 水戸高等学校を経て1930年に京都大学法学部を卒業。戦時中は軍需省管理官、戦後は中央労働委員会で第一部長兼第二部長を務める。労働争議に悩んでいた東宝社長田辺加多丸(小林一三の実弟)の懇請により、1947年12月26日に東宝取締役(労務担当)に就任、新社長の渡辺銕蔵と共に人員整理に取り組み、翌1948年の第三次東宝争議を乗り切って、経営権や人事権を会社側の専権事項とした。 馬淵はそののち、1948年10月8日に代表取締役副社長に就任したが、1949年4月12日に常務取締役に降格するや、渡辺銕蔵と再建策をめぐって対立、1949年9月26日に辞任した。
深沢 義守(ふかざわ よしもり、1905年10月1日 - 1… 深沢 義守(ふかざわ よしもり、1905年10月1日 - 1966年12月14日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を1期務めた。 山梨県南巨摩郡身延村(現・身延町)大野生まれ。日本大学在学中より山梨県内各地で農民運動に関わり、昭和初期以降、日本共産党の強い影響下にあった全国農民組合全国会議派県連書記長を務める事となる。 1930年には奥野田村(現・甲州市)の小作争議で主導的な役割を果たした他、翌年5月1日に行われた県初のメーデーでは中巨摩郡東部・東八代郡西部2地区の指導者として活躍。また、1930年3月1日発足の甲府消費組合では組合長も務めた。この間、治安維持法違反により検挙される事10数度を重ね、1933年に発生した山梨共産党事件に連座し投獄、2年間にわたる服役の後、郷里を離れた。
坂田 勝郎(さかた かつろう、1904年(明治37年)10月… 坂田 勝郎(さかた かつろう、1904年(明治37年)10月1日 - 1990年(平成2年)1月16日)は、毎日新聞社元常務取締役(大阪本社代表)、毎日放送(MBS)元社長・会長、テレビ東京(TX)元取締役、宮崎放送(MRT)元取締役。 宮崎県延岡市出身。旧制第五高等学校(現・熊本大学)を経て、京都帝国大学卒業後、1932年(昭和7年)に大阪毎日新聞社へ入社。1943年(昭和18年)に大阪毎日新聞と東京日日新聞は新聞統制で東西で異なっていた題号を「毎日新聞」に統一し、両紙の発行元であった大阪毎日新聞社は社名を「毎日新聞社」に改めてから、バンコク特派員、広島支局長、郷里である宮崎支局長、宮崎放送取締役を務め、毎日新聞社常務取締役(大阪本社代表)に就任した。
岡崎 忠(おかざき ちゅう、1904年10月1日 - 199… 岡崎 忠(おかざき ちゅう、1904年10月1日 - 1990年2月10日)は、昭和後期から平成期の実業家。岡崎財閥の2代目総帥で、神戸商工会議所会頭等を務めた岡崎忠雄の婿養子。元海軍中将川島令次郎の四男。東京都出身。 旧制静岡高校を経て、1929年東京帝国大学を卒業後、三菱倉庫に勤務していたが、1931年岡崎忠雄の婿養子となり、1933年神戸岡崎銀行(後の神戸銀行、現在の三井住友銀行)に入行した。 1936年に神戸銀行が誕生して以降は、支店次長、支店長、本店営業部長などを歴任、1945年に常務、1947年1月に当時の経営陣が公職追放を受けて銀行を去ると、その翌月に頭取に就任。戦後の混乱の中、都市銀行としての確固たる地位を築き上げた。
長谷川 才次(はせがわ さいじ、1903年(明治36年)10… 長谷川 才次(はせがわ さいじ、1903年(明治36年)10月1日 - 1978年(昭和53年)3月10日)は、時事通信社の初代代表取締役。時事画報社、内外ニュースの創業者。善本社会長。勲一等瑞宝章受章。 同盟通信社在職中から記者として活動し、戦後は保守系言論人としても活動した。1945年の時事通信社創業以来、四半世紀余りにわたって同社を率いたが、労使対立を招いた責任を取って1971年に辞任した。 青森県青森市の質屋業を営む家に、男3人、女4人のきょうだいの3男として生まれた。父は三井銀行(のち第五十九銀行に転職)に務める銀行員であったが、男子のいない長谷川家に婿養子として入り、質屋業を継いだ。
大谷 光暢(おおたに こうちょう、1903年10月1日 - … 大谷 光暢(おおたに こうちょう、1903年10月1日 - 1993年4月13日)は、明治時代から昭和時代にかけての浄土真宗の僧。法名は「闡如」(せんにょ)。東本願寺第二十四代法主。(のちに門首)真宗大谷派管長。伯爵。 1903年(明治36年)10月1日 、東本願寺第二十三代 彰如の長男として誕生。 1924年(大正13年)5月3日、大谷大学在学中に久邇宮邦彦王の三女で香淳皇后の妹にあたる智子女王と婚姻。 1925年(大正14年)9月、財政問題の責を負って退任した、父・彰如の後を受けて第二十四代法主に就任。 1947年(昭和22年)、妻・智子裏方とともに合唱団「大谷楽苑」を結成する。仏教音楽を用いた教化を推進するなど活躍する。
岡田 真吉(おかだ しんきち、1903年10月1日 - 19… 岡田 真吉(おかだ しんきち、1903年10月1日 - 1964年11月17日)は、日本の映画評論家、翻訳家。 東京・日本橋出身。1934年、東京帝国大学仏文科卒業。 高校時代から『キネマ旬報』に投稿。映画評論家、翻訳家として活躍し、フランス映画をはじめとする外国映画および理論を紹介。 また、『女の一生』などフランス文学の翻訳を多く行った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
錦織 清治(にしきおり せいじ、1903年(明治36年)10… 錦織 清治(にしきおり せいじ、1903年(明治36年)10月1日 - 1969年(昭和44年)6月17日)は日本の金属工学者。 島根県出雲市出身。1928年(昭和3年)、東北帝国大学工学部金属工学科を卒業する。1934年(昭和9年)に東北帝大工学部助教授に就任。 1935年(昭和10年)に大同製鋼に入社する。その間に、特殊水処理薬剤による鉄鋼防食、均質鋳造法(HOC法)、取鍋レンガの侵蝕、熔鋼に及ぼす耐火物の影響、高アルミナ質電気炉炉蓋煉瓦、低ニッケル高マンガンステンレス鋼、熱処理用連続炉、バルブ鋼、不消化石灰の実用試験などについての研究に従事する。 大同製鋼取締役、研究所長などを経て、1962年には大同工業短期大学、1964年(昭和39年)には大同工業大学(現・大同大学)の初代学長に就任した。
鶴田 義行(つるた よしゆき、1903年(明治36年)10月… 鶴田 義行(つるた よしゆき、1903年(明治36年)10月1日 - 1986年(昭和61年)7月24日)は、日本の水泳選手。1928年アムステルダムオリンピック並びに1932年ロサンゼルスオリンピックの男子200m平泳ぎの金メダリスト(競泳競技における日本人初の金メダリスト)。日本人初のオリンピック連覇者。男子200メートル平泳ぎの元世界記録保持者。鹿児島県鹿児島郡伊敷村大字上伊敷字飯山(現在の鹿児島市伊敷八丁目の一部)出身。 IOC(国際オリンピック委員会)が公認する記録
太刀若 峯五郎(たちわか みねごろう、1903年(明治36年… 太刀若 峯五郎(たちわか みねごろう、1903年(明治36年)10月1日 - 1988年(昭和63年)8月13日)は、三重県度会郡宇治山田町(現在の伊勢市)出身で高砂部屋(入門時は友綱部屋)に所属した大相撲力士。本名は馬場 米藏(ばば よねぞう)。身長178cm、体重98kg。得意手は左四つ、寄り。最高位は前頭6枚目(1937年1月場所)。 1917年(大正6年)に横綱・太刀山一行が伊勢に巡業に来た際に入門し、太刀山の内弟子として1918年(大正7年)1月場所に友綱部屋(前頭・海山太郎)から初土俵を踏んだ。この場所限りで太刀山が引退して年寄・東関を襲名して東関部屋を興したため移籍したが、1919年(大正8年)5月に行われた勝負検査役選挙での落選して廃業したため、高砂部屋(大関・2代朝潮)に移籍した。
中谷 孝雄(なかたに たかお、1901年(明治34年)10月… 中谷 孝雄(なかたに たかお、1901年(明治34年)10月1日 - 1995年(平成7年)9月7日)は、日本の小説家。妻は小説家の平林英子。 三重県一志郡七栗村(現・津市)出身。三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校)卒業後、旧制第三高等学校に進学し、梶井基次郎、飯島正、浅野晃らと出会う。平林英子とは三高在学中に出会い、2人が既に同棲をしていた下宿へ友人であった梶井基次郎や大宅壮一が遊びに訪れた。 1924年(大正13年)に東京帝国大学文学部独文科に進み、一旦離れていた平林英子と10月から同棲を再開し結婚。翌1925年(大正14年)1月に、同校の梶井基次郎、外村茂らと同人誌『青空』を創刊した。
浦松 佐美太郎(うらまつ さみたろう、1901年10月1日 … 浦松 佐美太郎(うらまつ さみたろう、1901年10月1日 - 1981年12月23日)は、日本のジャーナリスト・登山家。 今日では本業のジャーナリストとしてよりも、登山家・山岳作家としての仕事で知られている。 1919年、旧制芝中学校卒業後、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。ロンドンに留学して近代登山に出会い、帰国後『たった一人の山』((1941年刊)など、山岳紀行の分野を開拓する。 ジャーナリストとしては日本太平洋問題調査会に参加し、1929年京都で開かれた「太平洋会議」(太平洋問題調査会の国際会議)の後、その争点を検討する「東京政治経済研究所」を蠟山政道・松本重治・牛場友彦らとともに設立し、近衛文麿の外交問題ブレインを形成した。
五十嵐 吉蔵(吉藏、いがらし きちぞう、1901年〈明治34… 五十嵐 吉蔵(吉藏、いがらし きちぞう、1901年〈明治34年〉10月1日 - 1959年〈昭和34年〉6月24日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(5期)。蚕糸の第一人者。 群馬県佐波郡豊受村大字上蓮沼(現・伊勢崎市上蓮町)で、農業・五十嵐栄三郎の長男として生まれる。1918年(大正7年)群馬県立安中蚕糸学校(現・群馬県立安中総合学園高等学校)を卒業し、明治大学に進んだが中退。 組合製糸群馬社副社長、同代表理事、全国共栄蚕糸組合副理事長、日本蚕糸業会理事、刀洋織物社長、群馬県蚕種協同組合長などを務め、蚕糸行政に尽くした。 政界では、1933年(昭和8年)群馬県会議員に当選し3期在任。