妹尾 弘人(せのお ひろと、1928年(昭和3年)7月3日 … 妹尾 弘人(せのお ひろと、1928年(昭和3年)7月3日 - )は、日本の官僚、実業家。京成電鉄第8代社長、相談役。 東京都世田谷区在住。 1928年生まれ。1951年、東京大学法学部卒業し、運輸省へ入省。1976年、同省鉄道監督局民営鉄道部長となり京成電鉄の再建に関わり、当時日本興業銀行常務だった村田倉夫を同社に派遣させた。 1979年に同省海運局長、1980年に海上保安庁長官を歴任。1982年に退官したのち、大洋漁業(後のマルハニチロ、現・Umios)に入社し、1984年に同社専務、1987年に同社副社長に就任したが、同年5月から1990年まで船舶整備公団理事長となる。 その後、運輸省時代に京成電鉄再建に関わった縁で、1990年に同社に招聘され、同社の副社長となり、1992年6月同社代表取締役社長に就任。
高橋 華王(たかはし かおう、1928年(昭和3年)7月3日… 高橋 華王(たかはし かおう、1928年(昭和3年)7月3日 - 2003年(平成15年)8月14日)は古武術研究家・武道家(宮本武蔵円明流判官派第14代宗家)、教育者、セルフディフェンスビクス発案者。東京理科大学経営学部教授。 福島県伊達市出身。福島師範学校(現:福島大学)、東京教育大学、日本体育大学を卒業。東京教育大学、東京外国語大学、明治大学、日本女子体育大学講師を経て、東京理科大学経営学部教授。教授を務める傍ら、東京大学医学部解剖学教室にて人体解剖生理学を研究。 宮本武蔵円明流判官派第14代宗家(関西・武蔵円明流、東京・武蔵円明流判官派などとは異なる)。東洋医学に精通し、鍼灸の資格も持っていた。
大野 稔(おおの みのる、1927年〈昭和2年〉7月3日 -… 大野 稔(おおの みのる、1927年〈昭和2年〉7月3日 - )は、日本の技術者。1950年代〜70年代にかけて日立製作所にて半導体事業で活躍し、現在の集積回路の基幹技術であるMOSFETの国産化において中心的役割を果たし、日本国内におけるMOSFET(MOSトランジスタ)開発の立役者の一人として知られる。 1927年7月3日 名古屋市に生まれる。 1952年 名古屋大学工学部電気科(当時は電気工学科)卒業。その後、特別奨学生コースを終了し、工学部の助手を務める。(大学院では磁性材料の研究) 1957年 半導体の技術を探していた日立製作所の誘いに応じ入社、日立中央研究所に入所。当時からいわゆる電界効果トランジスタの可能性に着目し研究を進めていたが、当時の日本では懐疑的な見方をするものが多く、研究所の総務部長からは「せっかく入ったけれども、知り合いが所長の小さい研究所があるから」と暗に退社・転職を勧められるほどだった。
川又 昻(かわまた たかし 1926年7月3日 - 2019… 川又 昻(かわまた たかし 1926年7月3日 - 2019年10月5日)は、日本の撮影監督。日本映画撮影監督協会(J.S.C.)元・副理事長・名誉会員。 昂と正字体で表記されることもあるが、戸籍上の名は略字体の昻である。尚、昴(すばる)の表記は明らかな間違いである。 東京府東京市下谷区出生。茨城県水戸市出身。茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)、日本映画学校卒業。1945年松竹に入社。 松竹大船撮影所で小津安二郎作品の撮影助手を経て、33歳で撮影監督に抜擢される。 以降、同世代の大島渚、野村芳太郎監督らのコンビで98本に及ぶ作品で撮影監督を務める。新人の頃、スター女優・原節子に付けられたあだ名は「訛りの坊や」。
賀陽 治憲(かや はるのり、1926年〈大正15年〉7月3日… 賀陽 治憲(かや はるのり、1926年〈大正15年〉7月3日 - 2011年〈平成23年〉6月5日)は、日本の外交官。旧皇族、賀陽宮恒憲王の第2王子。海軍兵学校75期。1947年10月14日の皇籍離脱までは、治憲王(はるのりおう)。 1926年〈大正15年〉7月3日午前8時50分、賀陽宮恒憲王と同妃敏子の第2男子として誕生。御七夜の7月9日に「治憲」と命名された。 学習院初等科・学習院中等科を経て、1943年(昭和18年)12月1日、江田島海軍兵学校(75期)に入学。井上成美中将のもとで学んだ。入校式においては皇族の生徒として紹介を受け、同期生の敬礼を受けている(広島中央放送局ニュース再録に記録あり)。
上野 登(うえの のぼる、1926年7月3日 - 2014年… 上野 登(うえの のぼる、1926年7月3日 - 2014年2月2日)は、日本の地理学者(経済地理学)。 福岡県生まれ。1950年、九州大学経済学部卒業。 広島県立労働科学研究所、宮崎大学教育学部助教授、教授、1990年定年退官、名誉教授、九州共立大学経済学部教授。経済地理学会名誉会員、宮崎県山岳連盟会長、「土呂久・松尾鉱毒被害者を守る会」会長、アジア枇素ネットワーク代表、林野庁「綾の照葉樹林復元プロジェクト」署名、NGO「てるはの森の会」代表。 2014年2月2日、肺炎のため宮崎県宮崎市の病院で死去。87歳没。
田中 明(たなか あきら、1926年7月3日 - 2010年… 田中 明(たなか あきら、1926年7月3日 - 2010年12月8日)は、日本の韓国・朝鮮研究学者。 愛知県名古屋市生まれ。叔父の養子となり、小学校からソウルで暮らす。龍山中学校卒業後、海軍経理学校へ入学。第二次世界大戦の終戦後は名古屋の旧制第八高等学校に編入学し、さらに東京大学文学部の新制一期生となり、1952年に卒業。中日新聞を経て、朝日新聞に入社。 朝日新聞社時代には、『朝日ジャーナル』記者として韓国を取材。1972年に朝日新聞を休職して、韓国の延世大学校 韓国語学堂・高麗大学留学。1979年に朝日新聞社を退社。1981年から拓殖大学海外事情研究所教授を務めた。 2010年12月8日、心筋梗塞で死去。
辻 達也(つじ たつや、1926年7月3日 - 2022年9… 辻 達也(つじ たつや、1926年7月3日 - 2022年9月20日)は、日本の歴史学者、横浜市立大学名誉教授。専門は日本近世史。幕府政治史を中心に研究した。 1926年、辻善之助の次男として東京にて出生。東京大学国史学科に入学し、平泉澄ほかに師事。 1962年、学位論文『享保改革の研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。横浜市立大学助教授となり、1968年に教授昇格。1986年に横浜市立大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は専修大学教授として教鞭をとり、1997年に退任。 2022年9月20日に死去。
武藤 庸之助(むとう ようのすけ、1926年7月3日 - 2… 武藤 庸之助(むとう ようのすけ、1926年7月3日 - 2003年8月13日)は、日本の経営者。ユニー社長を務めた。 愛知県出身。1950年に同志社大学経済学部経済学科を卒業し、同年に東海銀行に入行。1974年11月に取締役に就任し、1978年6月に常務、1982年6月に専務を経て、1983年5月にユニー副社長に就任し、1991年5月には社長に昇格し、1993年5月までに務めた。 2003年8月13日膵臓癌のために死去。77歳没。
長野 吉彰(ながの よしあき、1925年(大正14年)7月3… 長野 吉彰(ながの よしあき、1925年(大正14年)7月3日 - 2016年(平成28年)8月31日)は、日本の銀行家。肥後銀行頭取、熊本経済同友会代表幹事、九州山口経済連合会副会長等を歴任した。1988年藍綬褒章。 熊本県玉名郡弥富村(現:玉名市)生、熊本市出身。 九州大学経済学部卒業後、肥後銀行入行。各部長等を歴任後、1984年には同行初のプロパーとして、頭取に就任した。 9年間の頭取在任時は、1985年9月には東証、大証1部への上場。新事務センターを建設し第三次オンラインシステム稼動を実現させた。また、業容の拡大に取り組み、1990年には預金残高2兆円、融資残高1兆5000億円の達成も成し遂げた。
後藤 茂(ごとう しげる、1925年7月3日 - 2015年… 後藤 茂(ごとう しげる、1925年7月3日 - 2015年6月5日)は、日本の政治家である。衆議院議員(6期)。原子燃料政策研究会理事、エネルギー・情報工学研究会議(解散)理事長を歴任した。
吉村 証子(よしむら あかしこ、1925年(大正14年)7月… 吉村 証子(よしむら あかしこ、1925年(大正14年)7月3日 - 1979年(昭和54年)4月23日)は、日本の科学史家、児童科学読物作家、科学読物研究家。 農政学者・小出満二(こいで まんじ)の双子の次女として福岡に生まれ、その後、東京に移った。1947年に津田塾専門学校(現:津田塾大学)理科1期生として物理化学科を卒業、1951年に東京大学理学部地球物理学科を卒業。普連土学園、神田女学園で講師をしながら平凡社の『理科事典』『科学技術史年表』の編集・執筆に当たる。1955年弁護士・吉村節也と結婚。1956年津田塾大学講師となり亡くなるまで科学史を教える。1967年日本子どもの本研究会を設立、副会長。
江本 義理(えもと よしみち、1925年(大正14年)7月3… 江本 義理(えもと よしみち、1925年(大正14年)7月3日 - 1992年(平成4年)4月11日)は、日本の化学者である。 江本義数の長男として東京に生まれる。東京大学理学部卒業後、1948年(昭和28年)に東京国立博物館に勤務し父が調査にあたった高松塚古墳の壁画や、中尊寺金色堂に祀られている即身仏等文化財の保存や調査にあたった。 また偽作かを証明するために調査した文化財に機器分析を導入し、特に当時真偽論争下だった「永仁の壺事件」では蛍光X線の用いた分析によって偽物である事を証明した事で名を馳せた。後に昭和女子大学等の教授を務め、1975年(昭和50年)には父が研究員を務めた経験があった東京国立文化財研究所に入所し、保存科学部長を務めた。
日沼 倫太郎(ひぬま りんたろう、本名:生沼正三、1925年… 日沼 倫太郎(ひぬま りんたろう、本名:生沼正三、1925年7月3日 - 1968年7月14日)は、日本の文芸評論家。 栃木県下都賀郡(現・小山市)生まれ。国際電気通信株式会社講習所に学ぶ。1944年朝鮮に赴任。戦後は通信技官、日本電信電話公社社員。そのかたわら文芸評論家として活動した。 1968年7月14日、心筋梗塞のため千葉県柏市の病院で死去。戒名は正教院法文信士。墓所は東京都立八柱霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
志津 三郎(しづ さぶろう、1924年7月3日- 没年不明)… 志津 三郎(しづ さぶろう、1924年7月3日- 没年不明)は、日本の作家。 三重県松阪市出身。本名・坂本實。宇治山田商業学校卒。1959年漫画家としてデビュー。その後、テレビ、演劇などの脚本家を経て、作家となる。バイオレンス、ミステリー、時代小説と幅広い。また時代小説においては、膨大な資料をもとに物語を再構築する特異な才能を発揮している。
米澤 貞次郎(よねざわ ていじろう、1923年7月3日 - … 米澤 貞次郎(よねざわ ていじろう、1923年7月3日 - 2008年5月20日)は、日本の化学者。勲等は勲三等。京都大学名誉教授。 1981年にノーベル化学賞を受賞した福井謙一の指導学生(博士課程)であり、米澤の指導学生(修士課程)の吉野彰も2019年にノーベル化学賞を受賞している。指導学生(博士課程)の北川進も2025年にノーベル化学賞を受賞している。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
服部 銈二郎(はっとり けいじろう、大正10年(1921年)… 服部 銈二郎(はっとり けいじろう、大正10年(1921年)7月3日 - 平成25年(2013年)6月9日)は、日本の地理学者。専門は、都市地理学、地誌学、アーバン・アメニティ論。立正大学名誉教授。日本地理学会名誉会員、日本都市学会顧問、アーバン・アメニティ研究所所長。 大正10年(1921年)7月3日、東京府東京市牛込区に生まれた。間もなく南足立郡千住町に移り、千住町立千寿第一小学校(足立区立千寿本町小学校に統合)に入学した。短歌を趣味とする母の旅行に年数回連れられる内、自身も旅行好きとなり、高学年には一人で日本各地を旅行するようになった。 東京府立第七中学校(東京都立墨田川高等学校)在学中、校友会雑誌に「奥羽地方の交通」「伊豆半島西海岸をめぐりて」を発表した。
富田 朝彦(とみた ともひこ、1920年〈大正9年〉7月3日… 富田 朝彦(とみた ともひこ、1920年〈大正9年〉7月3日 - 2003年〈平成15年〉11月13日)は、日本の警察官僚。第3代宮内庁長官。位階は正三位。北海道出身。 函館中学、旧制二高を経て、昭和18年(1943年)東京帝国大学法学部を卒業後、海軍を志願し、同年9月30日海軍三校のひとつ海軍経理学校に入学。 1944年2月、同校を卒業し海軍主計科士官(主計科短期現役第10期)となる。最終階級は海軍主計大尉。 戦後、内務省に入省。大臣官房属。その後は警察庁に入り警視庁交通部長、警察庁長官官房長、警察庁警備局長を歴任する。警備局長時代の警察庁長官は後藤田正晴であさま山荘事件などを担当した。その後、警視庁副総監、内閣調査室長を経て、1974年(昭和49年)11月26日 宮内庁次長、1978年(昭和53年)宮内庁長官に就任した。
石本 正(いしもと しょう(本名読み:ただし)、1920年7… 石本 正(いしもと しょう(本名読み:ただし)、1920年7月3日 - 2015年9月26日)は、日本画家。創画会会員、京都市立芸術大学名誉教授、京都造形芸術大学教授。 島根県那賀郡岡見村(現浜田市三隅町)出身。島根県立浜田中学(現:島根県立浜田高等学校)卒業。京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学したが在学中に徴兵され中国に渡る。復員後、人物や風景を描く。1944年(昭和19年)9月、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)日本画科卒業。1947年(昭和22年)第3回日展で「三人の少女」が初入選。1950年(昭和25年)より創造美術、新制作展に出品し、1951年(昭和26年)「旅へのいざない」など四度新作家賞を受賞。
竹中 知之(たけなか ともゆき、1917年(大正6年)7月3… 竹中 知之(たけなか ともゆき、1917年(大正6年)7月3日 - 1990年(平成2年)8月)は、日本の検察官であり、弁護士でもある。大分弁護士会会長を務めた後、大分県地方労働委員会会長を務める。岡山県高梁市出身。 1917年(大正6年)岡山県上房郡川面村(現:高梁市)の竹中家に出生する。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1935年(昭和10年)同校を卒業する。同年、旧制第六高等学校文科乙類へ進学し、1938年(昭和13年)同校を卒業、東京帝国大学法学部へ進学する。1941年(昭和16年)10月、東大在籍中に司法試験に合格。同年12月、第二次世界大戦の影響で、同大学政治学科を3ヶ月繰上げ卒業になった。
中山 正嘉(なかやま まさよし、1917年7月3日 - 19… 中山 正嘉(なかやま まさよし、1917年7月3日 - 1994年7月4日)は、愛媛県出身のプロ野球選手(投手)。
柳原 三郎(やなぎはら さぶろう、1914年(大正3年)7月… 柳原 三郎(やなぎはら さぶろう、1914年(大正3年)7月3日 - 1990年(平成2年)1月25日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岐阜県岐阜市出身。1932年(昭和7年)岐阜県立岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業。その後、日本大学を卒業した。 岐阜県会議員に選出され、司法保護委員も務めた。柳原工業工場長、同取締役副社長、岐阜商工会議所議員、岐阜県体育協会長などを歴任。岐阜青年連盟主幹に就任し『暁鐘』を主宰した。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で岐阜県第1区に民主党公認で出馬して初当選。その後、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
木下 昌雄(きのした まさお、1914年 <大正3年> 7月… 木下 昌雄(きのした まさお、1914年 <大正3年> 7月3日 - 1995年 <平成7年> 7月19日)は、日本の経営者、工学博士。日立造船社長を務めた。位階は正四位。運動生理学者・木下東作の次男。兄は動物生理学者の木下治雄。妻・敦子は東京都知事・日本赤十字社社長を務めた東龍太郎の長女。 大阪府出身。1937年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。海軍造船大尉を経て、1940年に東京帝国大学工学部助教授に就任し、1946年に鉄道技術研究所での勤務を経て、1949年に日立造船に入社。1964年11月に取締役に就任し、1967年11月に常務を経て、1973年11月に副社長に就任し、1979年6月に社長に昇格。
村上 重夫(むらかみ しげお、1913年7月3日 - 194… 村上 重夫(むらかみ しげお、1913年7月3日 - 1945年)は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)。
中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年… 中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年不明[戦死])は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手。 諏訪蚕糸学校(現・長野県岡谷工業高等学校)在学中に、甲子園に2回出場(春1回〔1930年〕、夏1回〔1930年〕)。1930年春の大会では、優秀選手賞を受賞。そして、最後の出場となった1930年夏の大会では準優勝投手に輝いた。長野県きってのNo.1投手との誉れ高く、その後明治大学やノンプロの諏訪紡績でも活躍した。 1937年に大東京へ入団。プロ野球入団後は内野手に転向し、「三振か長打か」の荒削りなバッティングで人気を博した。同年春季シーズンで喫した46三振は、リーグ最多三振記録(1939年に佐藤武夫〈東京セネタース〉が56三振をマークするまではプロ野球記録でもあった)。
玉置 一徳(玉置 一德、たまき いっとく、1912年7月3日… 玉置 一徳(玉置 一德、たまき いっとく、1912年7月3日 - 1978年11月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。京都府相楽郡加茂町出身。息子は、民主党元衆議院議員の玉置一弥。 桃山中学校、第四高等学校を経て、1936年に京都帝国大学法学部卒業。浅野セメントに入社するも兵役で中国各地を渡る。1943年除隊となり、朝鮮の鉱山会社勤務時に終戦を迎える。 戦後、農業を経て日本社会党結成に参加。相楽郡選出の京都府議を経て1960年の第29回衆議院議員総選挙で民主社会党公認で旧京都2区に立候補し初当選。以後通算当選5回。国対畑を歩み、党国会対策副委員長、国対委員長を歴任した。 議員在職中の1978年11月26日、胸部大動脈瘤破裂により死去した。
近衛 敏明(このえ としあき、1911年7月3日 - 没年不… 近衛 敏明(このえ としあき、1911年7月3日 - 没年不明)は、日本の俳優。北海道岩見沢市出身。本名は柿崎 敏一、旧芸名は近江敏明。趣味は音楽鑑賞。 早稲田大学経済学部卒業。 1934年、松竹蒲田撮影所に入り、同年の『会社員閣下』で主演する。誠実な青年役で注目を集めた。また、松竹の看板スターだったが、1935年に松竹を退社した藤井貢が主演していた『若旦那』シリーズに藤井の跡を継いで主演した。1930年代半ばから清水宏監督などのメロドラマで主役を演じたが、次第に脇役に回っていった。本人も「脇役のほうに持ち味があると自他ともに認めた」と語っている。1937年頃に上原謙、夏川大二郎、徳大寺伸と第八芸術(=映画)にちなんだ研究会「8クラブ」を結成し、毎月、演劇や音楽関係の有識者を呼んで、講演会を開いていた。
林 学洙(イム・ハクス、朝鮮語: 임학수、1911年7月3日… 林 学洙(イム・ハクス、朝鮮語: 임학수、1911年7月3日 - 1982年6月21日)は、日本統治時代の朝鮮及び朝鮮民主主義人民共和国の詩人。 号は岳伊(アギ、악이)。本籍は全羅南道順天市金谷洞。本名は林 岳伊(イム・アギ、임악이)。ただし、系図には林 栄沢(イム・ヨンテク、임영택/林榮澤)と記載されており、そのほか別名は林 乃洪(イム・ネホン)である。 全羅南道順天市出身。京城第一高等普通学校(現・京畿高等学校)を経て京城帝国大学英文科卒業。 以後、培花女子高等学校などで教員を務めながら詩作。ホメーロスの『イーリアス』を韓国に初めて紹介するなど、翻訳文学者としても活動した。また、朝鮮文人協会の発起人と幹事を務め、戦線への慰問に参加した。
竹内 季雄(たけうち すえお、1910年7月3日 - 198… 竹内 季雄(たけうち すえお、1910年7月3日 - 1981年8月3日)は、日本の経営者。間組社長を務めた。 山口県出身。1931年に熊本高等工業学校土木工学科を卒業し、1933年に間組に入社。1969年11月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1972年12月に専務、1974年11月に副社長を経て、1975年5月に社長に就任。 1981年8月3日、脳溢血のために在任時に死去。71歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
小山 武夫(こやま たけお、1909年7月3日 - 2003… 小山 武夫(こやま たけお、1909年7月3日 - 2003年1月1日)は、日本の新聞記者・実業家。中日新聞社相談役および中日ドラゴンズのオーナー兼球団社長を歴任した。静岡県出身。 1909年(明治42年)7月3日、静岡県駿東郡楊原村(現在の沼津市)で芹沢常晴の五男として出生。旧制沼津中学校を経て、1934年(昭和9年)に法政大学経済学部を卒業。 満州国通信社、同盟通信社で記者として勤務し、1944年(昭和19年)5月に応召、陸軍に入隊し歩兵第19連隊に配属される。1946年(昭和21年)5月に中部日本新聞社(現在の中日新聞社)へ入社し、東京総局政治部長などを経て、1952年(昭和27年)に『中国国民政府との講和締結会談の報道』でボーン国際記者賞を受賞する。
閔 泳南(ミン・ヨンナム、朝鮮語: 민영남、1907年7月3… 閔 泳南(ミン・ヨンナム、朝鮮語: 민영남、1907年7月3日または7月30日 - 1986年1月8日)は、大韓民国の農林・警察官僚、政治家。馬山面(朝鮮語版)長、海南警察署・光州警察署署長、第3・6代韓国国会議員、第9・11代全羅南道知事を歴任した。 全羅南道海南郡馬山面禾内里の驪興閔氏の集姓村出身で、元国会議員の閔炳楚(朝鮮語版)は同じ村出身の親戚である。京都帝国大学(現・京都大学)農学部林学科卒。農政実務を経て馬山面長、海南警察署・光州警察署署長、農林部林産課長・林政課長・造林課長を歴任した。1954年の第3代総選挙では前の国会議員選挙で2度も落選した弟の後継として海南郡乙選挙区から立候補し、金采庸、朴祺培らとの8人の戦いを勝ち抜いて無所属の民議員に当選し、その後は民主党に入党した。
中山 一郎(なかやま いちろう、1907年(明治40年)7月… 中山 一郎(なかやま いちろう、1907年(明治40年)7月3日 - 1995年(平成7年)6月11日)は、日本の技術者、実業家。日本軽金属社長や、電気化学協会会長、軽金属学会会長、日本アルミニウム連盟(現日本アルミニウム協会)会長等を歴任した。 千葉県千葉市出身。1930年東京工業大学窯業学科卒業。1933年東京工業大学応用化学科卒業。1944年日本軽金属入社。1961年日本軽金属取締役に昇格。1963年日本軽金属常務取締役。1965年日本軽金属取締役副社長。1967年日本軽金属取締役社長、日本ゼオン監査役。1968年藍綬褒章受章。1970年アルミニウム資源開発を設立し同社取締役社長に就任。同年沖縄アルミニウムを設立し同社取締役社長に就任。
広瀬 正雄(ひろせ まさお、戸籍上では「廣瀨 正雄」、190… 広瀬 正雄(ひろせ まさお、戸籍上では「廣瀨 正雄」、1906年7月3日 - 1980年12月3日)は、日本の政治家。日田市長、衆議院議員(自由民主党所属)。 佐藤内閣郵政大臣。
國ノ濱 源逸(くにのはま げんいつ、1906年7月3日 - … 國ノ濱 源逸(くにのはま げんいつ、1906年7月3日 - 1986年12月20日)は、鹿児島県姶良郡(現・霧島市)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は中馬 源逸(ちゅうま げんいつ)。現役時代の体格は身長170cm、体重109kg、得意手は押し。最高位は西前頭5枚目(1932年2月場所、3月場所)、血液型はB型。 同郷の9代井筒(第25代横綱・西ノ海嘉治郎 (2代))の勧めで入門、1923年5月場所初土俵。1924年5月場所序二段。病気のため1926年5月場所一旦序ノ口に陥落したが、その後は順調に昇進した。1928年10月場所、三段目で6戦全勝の優勝同点の成績を挙げて幕下入り。1931年5月場所は幕下筆頭で4勝4敗の五分、10月場所は3勝3敗のこれまた五分の成績だったが、1932年1月の春秋園事件で協会に残ったために2月場所でラッキーな新入幕を果たした。
富原 薫(ふはら かおる、1905年7月3日 - 1975年… 富原 薫(ふはら かおる、1905年7月3日 - 1975年1月25日)は、日本の作詞家、学校教員。『汽車ポッポ』の作詞をはじめ、多くの童謡にたずさわった。 1905年(明治38年)静岡県駿東郡御厨町(現・御殿場市)に生まれる。 県立沼津中学(旧制)を経て駿東郡高根村の高根村国民学校(現在の御殿場市立高根小学校)の教員を務める傍ら、音楽活動を行う。 1939年(昭和14年)に作詞した『兵隊さんの汽車』は大ヒットした。戦時色の強い歌詞は戦後改められ『汽車ポッポ』として現在まで歌い継がれている。 富原は学校の教員を務めていたこともあり、御殿場や沼津など駿東地区の小中学校の校歌を多く手掛けている。
吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日… 吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日 - 1967年〈昭和42年〉7月13日)は、近代日本の歌人・書家・文人墨客。号は艸心。多病に苦しみながら独自の詠風で境涯の歌を詠んだ。多数の美術鑑賞や随筆を残し、書家としても知られている。 『南京新唱』を読み、会津八一にひかれて師事。生涯を病とたたかいつつ、良寛を愛し、万葉調を基調にした、純粋な人間への愛憐を詠む。『寒蟬集』(1947年)、『晴陰集』(1950年)などの歌集がある。 群馬県高崎市に次男として生まれる。家は織物問屋の株式会社吉野藤であった。 1909年(明治42年)身体が病弱であったため富岡上町の祖父母のもとに移り住み、富岡小学校に入学。
菊池 重三郎(きくち しげさぶろう、1901年7月3日-19… 菊池 重三郎(きくち しげさぶろう、1901年7月3日-1982年4月16日)は、日本の作家、編集者、翻訳家。「芸術新潮」初代編集長。 宮崎県臼杵郡北方村(現在の延岡市) で生まれる。1920年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒業、1925年、立教大学文学部英文科を卒業。1925年から3年間、麻布中学校の英語教師を務め、1928年渡欧し、1930年帰国。 研究社、春秋社、新潮社に勤務し、傍ら文筆活動にも努める。 新潮社では、1950年「芸術新潮」初代編集長となり、創刊から62号まで携わり、1955年退職。 晩年の島崎藤村と交流があり、1947年の木曾馬籠の藤村記念館の設立に尽している。
守田 道隆(もりた みちたか、1898年(明治31年)7月3… 守田 道隆(もりた みちたか、1898年(明治31年)7月3日 - 1970年(昭和45年)11月26日)は、公選初代の福岡県八幡市長。八幡製鐵所職員。位階は正五位。勲四等旭日小綬章。 鳥取県鳥取市長谷で生まれる。第五高等学校を経て1925年(大正14年)、京都帝国大学工学部土木科を卒業し、同年に東京市吏員となる。1929年(昭和4年)に当時の図師兼弐市長に招聘される形で八幡市に入り土木課長に就任、製鉄事業の副産物として産出されるセメントを利用する形で小学校の校舎を鉄筋コンクリート造りに改築し、黒崎駅前の区画整理事業にも携わった。その後、長野県道路課長を経て1942年(昭和17年)に日本製鐵へ入社し土木部長・工務部長を歴任。
久板 栄二郎(ひさいた えいじろう、1898年〈明治31年〉… 久板 栄二郎(ひさいた えいじろう、1898年〈明治31年〉7月3日 - 1976年〈昭和51年〉6月9日)は、日本の劇作家、脚本家。久坂 栄二郎と誤記されることも多い。 宮城県名取郡岩沼町(現・岩沼市)生まれ。東京帝国大学国文科卒。在学中からプロレタリア演劇運動に参加し、戯曲を書く。1934年新協劇団創立に参加し、1935年「断層」、1937年「北東の風」「千万人と雖も我行かん」を書く。第二次世界大戦後の1950年、連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージにより、映画会社からの追放者リストに名を連ねることとなるが映画のシナリオを書き続けた。戦後の代表作として「巌頭の女」(1952年)がある。
山崎 宮市(やまざき みやいち、1898年7月3日 - 19… 山崎 宮市(やまざき みやいち、1898年7月3日 - 1980年7月1日)は、日本の経営者。愛知県名古屋市出身。 1923年に明治大学法学部法律学科を卒業し、翌年11月に東邦ガスに入社。1943年7月に西部ガスに転じ、1949年8月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1960年2月に社長に就任。1970年2月に会長。福岡大学理事、日本ガス協会理事なども歴任。 1961年11月に藍綬褒章を受章し、1967年1月に紺綬褒章を受章し、1968年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1980年7月1日肺腫瘍のために死去。81歳没。
木内 四郎(きうち しろう、1896年(明治29年)7月3日… 木内 四郎(きうち しろう、1896年(明治29年)7月3日 - 1988年(昭和63年)8月31日)は、日本の政治家、大蔵官僚。位階は正三位。科学技術庁長官(第21、24代)。 長野県下水内郡常盤村(現・飯山市)生まれ。旧制飯山中学(長野県飯山北高等学校)を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省に入省。理財局属。主計局決算局長、理財局国債課長、主計局長、専売局長官を経て、1946年(昭和21年)幣原内閣の内閣副書記官長となる。同年6月8日には貴族院勅選議員に勅任される。 1947年(昭和22年)第1回参議院議員通常選挙に民主党公認で長野県選挙区から立候補し当選する。炭鉱国管疑獄では、1948年(昭和23年)衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問されている。
黄 土水(黃土水, こう どすい, 台湾語:N̂g, Thô… 黄 土水(黃土水, こう どすい, 台湾語:N̂g, Thô͘ Chúi, 1895年7月3日 - 1930年12月21日)は、日本統治時代の台湾出身の彫刻家。台湾人として初めて日本の東京美術学校に入学、また台湾人として初めて日本の官展に入選するなど、台湾近代美術の先駆者として活躍したが、35歳で早世した。 1895年、台北市艋舺生まれ。1907年、父親の死去に伴い大稲埕の二兄の所に身を寄せた。黄土水は大工であった父親や三兄の影響を受け、彫刻に興味を持つようになったと言われている。1911年3月に大稲埕公学校(現在の台北市太平国民小学)を卒業、同年4月、台湾総督府国語学校 (後の台湾総督府台北師範学校)公学師範科乙科に入学した。
交野 政邁(かたの まさゆき、1893年(明治26年)7月3… 交野 政邁(かたの まさゆき、1893年(明治26年)7月3日 - 1966年(昭和41年)6月14日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・内藤。青年期には陸上競技やスケートでスポーツ界に足跡を残し、のちにスケート団体の会長を務めている。 旧日向延岡藩主・内藤政挙の息子として生まれる。堂上(公家)華族の交野家の養子に迎えられ、先代・交野時正の隠居に伴い家督を継承し、1918年(大正7年)3月11日、子爵を襲爵した。 1921年(大正10年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。松坂屋取締役、朝日興業取締役、名陶チャイナ・コーポレーション社長、大同メタル工業監査役などを務めた。
吉田一枝(よしだ かずえ、男性、1893年7月3日-1974… 吉田一枝(よしだ かずえ、男性、1893年7月3日-1974年4月1日)は、日本の法学者。 秋田県出身。札幌第一中学校卒、1918年京都帝国大学法学部卒、大阪鉄工所(日立造船〈現:カナデビア〉の前身)に入り1920年より社命で米国に学ぶ。22年帰国、康徳学園で教え、1928年関西大学法学部教授、1949年大阪商業大学・大阪学芸大学教授(兼任)、1957年退職し弁護士を開業、京都産業大学・梅花女子大学教授を兼ねる。
鮫島 実三郎(さめじま じつさぶろう、1890年(明治23年… 鮫島 実三郎(さめじま じつさぶろう、1890年(明治23年)7月3日 - 1973年(昭和48年)4月30日)は、日本の物理化学者である。 大阪市の生まれ。東京帝国大学理科大学(現在の東京大学大学院理学系研究科・理学部)に入学し、1914年(大正3年)に卒業後は後に義理の父となる池田菊苗に師事した。1918年(大正7年)離日し、アメリカ合衆国ではノーベル化学賞を受賞したセオドア・リチャーズに師事しイギリスではアイルランド出身のフレデリック・ドナン、フランスではジャン・ペランに師事する等欧米の津々浦々で学ぶ。その後帰国し1921年(大正11年)には東北帝国大学(現在の東北大学)の助教授となり、翌1922年(大正12年)には同大学の教授に昇格した。
村上 華岳(むらかみ かがく、1888年〈明治21年〉7月3… 村上 華岳(むらかみ かがく、1888年〈明治21年〉7月3日 - 1939年〈昭和14年〉11月11日)は、大正~昭和期の日本画家。 1888年(明治21年)、大阪(北区松ケ枝町)に生まれる。本名は武田震一(のち村上震一)。甲州武田氏の末裔。家庭の事情により幼い頃に実父母のもとを離れ、叔母の嫁ぎ先である神戸の村上家に預けられて、神戸の小学校に通った。1901年(明治34年)、震一13歳の時には実父が死に、実母は再婚して行方知れずとなり、少年であった震一が武田家の家督を継ぐこととなった。3年後の1904年(明治37年)、武田家の廃家が許可され、震一は養父母の姓である「村上」を名乗ることとなる。父方の祖母は、日本初の感化院とされる「池上感化院」を自宅に設立した池上雪枝。
中村 彝(なかむら つね、1887年〈明治20年〉7月3日 … 中村 彝(なかむら つね、1887年〈明治20年〉7月3日 - 1924年〈大正13年〉12月24日)は、明治の終わりから大正期の洋画家。 1988年、茨城県近代美術館敷地内に下落合にあった中村のアトリエを新築復元した「中村彝アトリエ」が創設された。 なお、1968年(昭和43年)にザ・ヒロサワ・シティ会館(水戸市千波町)入口に有志らで組織する中村彝会が「中村彝君像」(堀進二作)を建立したが、2025年(令和7年)1月6日に県近代美術館敷地内の「中村彝アトリエ」近くに移設されることとなった。 2013年(平成25年)新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンした。
馬岡 次郎(うまおか/まおか じろう、1887年〈明治20年… 馬岡 次郎(うまおか/まおか じろう、1887年〈明治20年〉7月3日 - 1966年〈昭和41年〉1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 三重県山田郡、のちの阿山郡布引村(大山田村を経て現伊賀市)出身。農林業を営む。布引村長、三重県会議員、同参事会員、同副議長、農林省委員、大山田村長となる。三重県山林会評議員、伊山銀行監査役、伊賀農商銀行、伊賀窯業各(株)取締役、馬野川水電(株)取締役社長、三重県信用購買販売組合連合会会長、全国購買組合連合会監事、全国購買販売組合連合会常務理事となる。 1937年(昭和12年)第20回衆議院議員総選挙において三重1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。
橋本 忠太郎(はしもと ちゅうたろう、明治19年(1886年… 橋本 忠太郎(はしもと ちゅうたろう、明治19年(1886年)7月3日 - 昭和35年(1960年)2月5日)は、明治から昭和にかけての植物学者、教師。滋賀県女子師範学校等で教鞭をとりつつ滋賀県下の植物調査を行った。 明治19年(1886年)7月3日に滋賀県蒲生郡北比都佐村大字十禅師(現滋賀県蒲生郡日野町十禅師)にて誕生。 明治39年(1906年)滋賀県立彦根中学(現滋賀県立彦根東高等学校)、明治44年(1910年)滋賀県師範学校(現滋賀大学教育学部)二部を卒業した。その後、郷里の北比都佐小学校(現日野町立必佐小学校)の教員となり、大正10年(1921年)中学校教員試験検定に合格し翌11年(1922年)より滋賀県女子師範学校、県立大津高等女学校の教諭となった。
上代 たの(上代 タノ、じょうだい-、1886年7月3日 -… 上代 たの(上代 タノ、じょうだい-、1886年7月3日 - 1982年4月8日)は、日本の英文学者、平和運動家。第6代日本女子大学長。 島根県大原郡春殖村出身。上代家は庄屋の家系で、父親の上代豊三郎は村長も務めた。大東下分尋常小学校から大東高等小学校へ進み、松江市立高等女学校を卒業後、地元に戻って大東尋常小学校の準訓導になったが、両親の勧めで日本女子大学校に進み、英文科を卒業。東京帝国大学への進学を望んだが女子の入学が認められず、同大教授だった新渡戸稲造に留学希望の手紙を書き、新渡戸の斡旋により1913年から4年間米国ウェルズ・カレッジで学ぶ。帰国した1917年に日本女子大学校教授となり、日本で最初のアメリカ文学とアメリカ史の科目を導入した。