丸山 昇(まるやま のぼる、1931年5月4日 - 2006… 丸山 昇(まるやま のぼる、1931年5月4日 - 2006年11月26日)は、日本の中国文学者。東京大学名誉教授。実兄は推理作家・評論家の佐野洋。 東京府荏原郡池上町(現・東京都大田区)に生まれる。1949年に東京大学教養学部文科二類に入学する。在学中より学生運動、社会主義運動に参加した。1950年6月19日、日本共産党に入党する。1951年4月5日、出隆の東京都知事選挙の応援中に逮捕され、5月23日に釈放された。1952年のメーデー事件で同年6月1日に自宅で逮捕され、同事件の被告となる(1970年1月まで20年にわたる裁判をおこない勝訴)。1953年に東京大学文学部中国文学科を卒業し、引き続き大学院に進む。
小島 三郎(こじま さぶろう、1930年5月4日 - 198… 小島 三郎(こじま さぶろう、1930年5月4日 - 1984年7月8日)は、日本の経営学者。 東京市本郷区(現・文京区)白山生まれ。都立小石川高校(現都立小石川中等教育学校)卒業後、1953年慶應義塾大学経済学部卒業、1958年同大学院博士課程満期退学、同商学部助手となり、1962年助教授、1968年経済学博士。1969年教授、1979年商学部長となるが53歳で死去した。
浦岡 敬一(うらおか けいいち、1930年5月4日 - 20… 浦岡 敬一(うらおか けいいち、1930年5月4日 - 2008年11月24日)は日本の編集技師。 1948年、松竹に入社。浜村義康に師事し、小津安二郎監督作品などの編集助手を務め、1958年『人間の條件』(小林正樹監督)で編集技師となる。1969年、松竹を退社。その後も、フリーの技師として精力的に幅広い作品を担当する。1989年には『帝都物語』(実相寺昭雄監督)、『優駿 ORACION』(杉田成道監督)で第12回日本アカデミー賞優秀編集賞を受賞。 日本映画編集協会(現・協同組合日本映画テレビ編集協会)の設立にも尽力し、初代編集協会理事長を務めた。また、日本映画学校に於いて多数の後進の育成に努めた。
村上 伸(むらかみ ひろし、1930年5月4日 - 2017… 村上 伸(むらかみ ひろし、1930年5月4日 - 2017年11月23日)は、日本のキリスト教学者。東京女子大学名誉教授。 福島県生まれ。東京神学大学大学院修士課程修了、愛知県で牧師。1966年から1968年まで西ドイツに留学、組織神学を専攻。1974年から1978年まで南西ドイツ福音主義教会世界宣教部研究主事。1978年東京女子大学教授、1996年定年退任、名誉教授。 2017年11月23日、死去。87歳没。墓所は多磨霊園の代々木上原教会共同墓地。
仲谷 昇(なかや のぼる、本名;仲谷 昇流<なかや の… 仲谷 昇(なかや のぼる、本名;仲谷 昇流<なかや のぼる>、1929年5月4日 - 2006年11月16日)は、日本の俳優である。東京府(現東京都)出身。
武田 勝彦(たけだ かつひこ、1929年5月4日 - 201… 武田 勝彦(たけだ かつひこ、1929年5月4日 - 2016年11月25日)は、日本の英文学者・文芸評論家。 東京小石川出身。早稲田大学名誉教授。上智大学卒業、上智大学大学院修士課程修了。本名、武田春樹。 慶應義塾大学講師、トロント大学、ハワイ大学客員教授を経て早稲田大学政治経済学部助教授に就任。のちに教授。インディアナ大学、ヴァンダービルト大学、ブラウン大学客員教授も務める。 本来の専攻は英文学で、英語学習の著作、サリンジャーの翻訳、研究もあるが、日本文学についても多く論じ、また日本文学の英語圏での受容についても研究、川端康成、立原正秋に関心が深い。『富士ふたつ』は、北米移民についての実録小説であり、ジャーナリスト的な視点から数多くの著作がある。
森 菊蔵(もり きくぞう、1927年〈昭和2年〉5月4日 -… 森 菊蔵(もり きくぞう、1927年〈昭和2年〉5月4日 - 1997年〈平成9年〉1月21日)は昭和・平成期日本の詩人、作詞家、ラジオパーソナリティ。日本詩人クラブ会員。 別名義に槍 一之(やり かずゆき)がある。 群馬県桐生市出身。旧制桐生中学校を経て、慶應義塾大学在学中より地元の群馬2区選出であった衆議院議員・長谷川四郎の秘書を務める。福田正夫の知遇を得て主観社文学会へ入会し、後に『日本詩壇』復刊へ参加した。1955年(昭和30年)、詩集『背後』を刊行。 詩人として活動する傍ら日本抵抗器工業振興会事務局長やNETテレビ番組企画委員を務め、1965年(昭和40年)に株式会社東京企画を設立して以降はいわゆる「代議士ソング」や市町村歌、音頭の企画を精力的に売り込んでいた。
落合 東朗(おちあい はるろう、1926年〈大正15年〉5月… 落合 東朗(おちあい はるろう、1926年〈大正15年〉5月4日 - 生没不詳)は、日本のロシア文学研究者、評論家。 北海道根室郡和田村字落石()(現・根室市落石)生まれ。1945年7月満州ハルビンの関東軍第263部隊に入営。同地で敗戦を迎え、シベリアに抑留。1949年舞鶴に帰還した。1955年早稲田大学第一文学部露文科卒業。早大広報課に勤務、広報課長、早稲田大学出版部(wikidata)代表取締役を務めた。また、早稲田大学総長室調査役のほか同大理工学部講師も務めた。1986年11月退職。ロシア文学などについて著述を行った。
山中 智恵子(やまなか ちえこ、1925年5月4日 - 20… 山中 智恵子(やまなか ちえこ、1925年5月4日 - 2006年3月9日)は、日本の歌人。 前川佐美雄に師事。深い古典教養と幻想性を混交させた作風から「現代の巫女」とも評された。女流における前衛歌人の代表的存在である。 愛知県名古屋市西区出身。父・渡辺鑑三は尾張藩医の末裔で、その従兄は俳人の沼波瓊音。母タマエ(旧姓馬島)の本家も代々の尾張藩医で、後水尾天皇を快癒させたことで知られる高名な眼科医の家系。母方の祖父は明治の蘭方医。母は尾上柴舟に師事して国文学を学んでいた。二兄一姉をもつ次女(次兄は智恵子生誕以前に死亡)。6歳の秋に父が脳出血で倒れて半身不随となり、療養のために愛知県知多郡新舞子の別宅に移住。
下山 敏郎(しもやま としろう、1924年5月4日 - 20… 下山 敏郎(しもやま としろう、1924年5月4日 - 2013年6月30日)は、日本の実業家。光学機器メーカー、オリンパス光学工業の社長、会長を歴任した。同台経済懇話会副代表幹事。新しい歴史教科書をつくる会賛同者[要出典]。 1945年(昭和20年)陸軍士官学校(第58期)卒。 1984年(昭和59年)に北村茂男の後を受けてオリンパス光学工業社長に就任。 1980年代半ば、急激な円高で営業利益が急速に落ち込んだオリンパスの業績を挽回するために財テクを行う方針を打ち出す。バブル崩壊後に財テクによる損が発生したため、損失を取り戻すため営業特金を増やした。営業特金だと算定上損が分かりにくくなるというのも理由の1つであったという見方もある。
千葉 乗隆(ちば じょうりゅう、1921年5月4日 - 20… 千葉 乗隆(ちば じょうりゅう、1921年5月4日 - 2008年4月12日)は、浄土真宗の僧侶、仏教学者・歴史学者。学位は、文学博士(論文博士・1977年)。龍谷大学名誉教授・元学長、元相愛学園長・理事長。 真宗史、真宗教団史他の研究において数多くの研究、業績を残した。浄土真宗本願寺派安楽寺第26世住職。徳島県生まれ。
村田 秀三(むらた ひでぞう、1921年5月4日 - 198… 村田 秀三(むらた ひでぞう、1921年5月4日 - 1985年1月5日)は、日本の労働運動家、政治家、参議院議員(4期、日本社会党)。 福島県白河市出身。1939年仙台逓信講習所卒、白河郵便局に勤務する。第二次世界大戦中に召集され南方作戦を経験、多くの戦友を失ったことが戦後、労働運動に携わる動機となる。1956年全逓福島地区委員長、福島県労組協議会議長などを経て、1965年の第7回参議院議員通常選挙で福島県選挙区から日本社会党公認で立候補して初当選。4期連続当選した。この間、社会労働委員長、災害対策特別委員長、参議院国会対策副委員長、社会党県委員長などを歴任した。 議員在職中の1985年1月5日、心筋梗塞のため、福島県白河市で死去した。
中谷 信夫(なかたに のぶお、1920年5月4日 - 199… 中谷 信夫(なかたに のぶお、1920年5月4日 - 1992年5月21日)は、京都府京都市出身のプロ野球選手。左投右打で、ポジションは投手。 京都市立第一工業学校(現・京都市立洛陽工業高等学校)、立命館大学から門司鉄道局(現・JR九州硬式野球部)を経て、シーズン途中ながらも1947年に南海ホークスへ入団し、1年目に15勝を挙げ、翌年も開幕から12連勝で、前年御園生崇男が記録したプロ野球記録の13連勝に挑んだ6月25日の対金星スターズ戦では6対2で敗戦投手となり連勝を止めるものの、この年は21勝を挙げる。1951年には14勝して最高勝率のタイトルを獲得し、5年連続二桁勝利も記録した。1955年に現役引退後は、1960年までコーチとなる。
永井 萠二(ながい ほうじ、1920年5月4日 - 1993… 永井 萠二(ながい ほうじ、1920年5月4日 - 1993年9月6日)は、日本のジャーナリスト、児童文学作家。 東京生まれ。父の萬助は新聞記者。早稲田大学文学部社会学科卒業。在学中は早大童話会に所属。 1946年朝日新聞社に入社、戦後は出版局編集委員を務める。児童向けのノンフィクションやルポルタージュを執筆。 1956年『ささぶね船長』でサンケイ児童出版文化賞受賞。のち聖徳学園短期大学教授を務めた。墓所は多磨霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
戸沢 政方(戸澤 政方、とざわ まさかた、1919年5月4日… 戸沢 政方(戸澤 政方、とざわ まさかた、1919年5月4日 - 2005年2月14日)は、日本の政治家、厚生官僚。衆議院議員(4期)。 1919年(大正8年)、現在の神奈川県小田原市に生まれる。小田原中学校(現:小田原高等学校)を経て、1944年(昭和19年)、東京帝国大学法学部卒。同年、内務省に入る。翌年厚生省に転じる。1970年(昭和45年)保険局長。1972年(昭和47年)社会保険庁長官。1973年(昭和48年)厚生事務次官。翌1974年(昭和49年)厚生省を退官。翌年、神奈川県知事選挙に立候補するが落選。1976年(昭和51年)から神奈川3区から立候補して4回当選した。1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙で落選。
沢田 敏男(さわだ としお、1919年〈大正8年〉5月4日 … 沢田 敏男(さわだ としお、1919年〈大正8年〉5月4日 - 2017年〈平成29年〉10月18日)は、日本の農学者(農業農村工学)。農学博士(京都大学・論文博士・1955年)。京都大学名誉教授、国立工科大学名誉教授、福井県立大学名誉教授、仁愛大学名誉教授。階級は陸軍技術中尉。勲一等瑞宝章受章。日本学士院会員、文化功労者、文化勲章受章。 京都帝国大学農学部研究嘱託、岡山農業専門学校教授、京都大学農学部教授、京都大学農学部学部長、京都大学総長、農業土木学会会長、滋賀総合研究所理事長、日本学術振興会会長、国際高等研究所所長などを歴任した。 農業土木・ダム工学を専攻する農学者・工学者である。三重県伊賀市出身。
田中 角栄(たなか かくえい、旧字体: 田中 角榮、1918… 田中 角栄(たなか かくえい、旧字体: 田中 角榮、1918年〈大正7年〉5月4日 - 1993年〈平成5年〉12月16日)は、日本の政治家、実業家、建築士。号は越山。 衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第31代)、自由民主党総裁(第6代)、内閣総理大臣(第64・65代)を歴任した。 自民党内最大派閥である田中派を率い、日本列島改造論を計画・実行し、他にも様々な政策を成し遂げたことでも有名であり、今太閤や影の総理などと呼ばれ、多大な影響力をもった政治家として知られる。 自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。
唐沢 隆三(からさわ りゅうぞう、1918年5月4日 - 2… 唐沢 隆三(からさわ りゅうぞう、1918年5月4日 - 2011年5月6日)は、社会運動研究者・俳人・自由律俳句研究者・作家。「唐沢柳三」の筆名も使用する。石川三四郎に師事する。 長野県に生まれる。滋野尋常高等小学校、長野県上田中学校(現:長野県上田高等学校)、純真学園、東京物理学校(現:東京理科大学)を経て、北海道帝国大学理学部数学科を卒業。北海道大学応用電気研究所に勤務。同研究所を退職後、東京に移住し、東京都立桜町高等学校、東京都立北高等学校ほか都立高校の教員を務めた。 出版のためにソオル社を興し、書籍の編集・発行も行った。 上田中学校時代に荻原井泉水の俳句誌『層雲』に参加した。 個人誌『柳』および『美』の発行者。
牛来 正夫(ごらい まさお、1916年5月4日 - 2002… 牛来 正夫(ごらい まさお、1916年5月4日 - 2002年2月4日)は、日本の地球科学者。専門は岩石学。学位は、理学博士(九州大学・1948年)(学位論文「岩石学的見地から見た斜長石双晶の研究」)。東京教育大学教授を歴任 福島県出身。東京高等師範学校卒業。東京文理科大学を経て東京教育大学理学部教授。 1948年、「岩石学的見地から見た斜長石双晶の研究」で、九州大学より理学博士の学位を取得。井尻正二の盟友として、地学団体研究会の創設に参加、その重鎮として岩石学分野の研究活動を指導。「斜長石双晶の型に関する岩石学的研究」で日本地質学会賞を受賞。この研究は国際的にも高い評価を受け、牛来の名を世界の岩石学界に知らしめた。
吉沢 國雄(よしざわ くにお、1915年5月4日 - 200… 吉沢 國雄(よしざわ くにお、1915年5月4日 - 2008年11月9日)は、埼玉県出身の医師。佐久市立国保浅間総合病院名誉院長 浅間総合病院初代院長であり、糖尿病インスリンの自己注射の実現をはじめ、住民と一体となった集団健診や栄養改善、ひと部屋暖房運動など生活様式の改善活動に取組み、脳卒中死亡率の低下をはじめ、長寿のまちの基礎を築いた。 昭和34 年4 月浅間病院の初代院長として佐久の地に赴任した。当時は、地域住民の健康管理状況は必ずしも良好でなく、脳卒中の死亡率は日本でも最高位であった。このような環境の中で診療と保健予防活動という二本の柱を、地域に密着して住民と共に実践するために、広く地域住民の健康を守る医療、地域医療の推進を提唱し、佐久市立国保浅間病院を中心にその実践活動をした。
井筒 俊彦(いづつ としひこ、1914年5月4日 - 199… 井筒 俊彦(いづつ としひこ、1914年5月4日 - 1993年1月7日)は、文学博士、言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。慶應義塾大学名誉教授。エラノス会議メンバー、日本学士院会員。語学の天才と称され、大部分の著作が英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、欧米において高く評価されている。
桝井 迪夫(ますい みちお、1914年(大正3年)5月4日 … 桝井 迪夫(ますい みちお、1914年(大正3年)5月4日 - 1992年(平成4年)6月11日)は、日本の英語学者・英文学者。 1914年、鳥取県生まれ。広島文理科大学で学び、1938年に卒業。卒業後は、広島高等師範学校教授に就いた。1945年被爆。 学制改革に伴い広島高等師範学校が1947年より広島文理科大学となると同大学助教授。1949年に広島文理科大学が広島大学に包摂されて以降は、同大学文学部教授。文学部長も務めた。1961年、学位論文『チョーサーの脚韻語の構造研究』を東京大学に提出して文学博士を取得。1978年に広島大学を定年退官し、名誉教授となった。 学界では、日本英文学会の評議員、理事を務めた。
前田山 英五郎(まえだやま えいごろう、1914年5月4日 … 前田山 英五郎(まえだやま えいごろう、1914年5月4日 - 1971年8月17日)は、愛媛県西宇和郡喜須来村(現:愛媛県八幡浜市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。第39代横綱。本名は萩森 金松(はぎもり かねまつ)。 1914年5月4日に愛媛県西宇和郡喜須来村で生まれる。喜須木尋常高等小学校を卒業後、1928年に高砂一行が高知市へ巡業に来た際、体格の良い金松少年がいるのを見つけた高砂が自ら勧誘した。当時の金松少年は相撲に対して興味を示さなかったが徐々に気持ちが傾き、大工だった兄を頼って上京してその日の夜に高砂部屋へ入門、1929年1月場所で初土俵を踏んだ。金松は入門に関して自惚れのようなものがあり、自分より体の小さい力士がおり、それには勝てるだろうなどと思っていた。
森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 200… 森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。
森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 200… 森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。
若槻 哲雄(わかつき てつお、1913年5月4日 - 199… 若槻 哲雄(わかつき てつお、1913年5月4日 - 1993年4月2日)は、日本の物理学者。専門は原子核物理学。第10代大阪大学総長。元大阪府教育委員長。長野県長野市出身。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
今中 寛司(いまなか かんじ、1913年5月4日 - 200… 今中 寛司(いまなか かんじ、1913年5月4日 - 2007年12月4日)は、日本の思想史学者。学位は、文学博士(京都大学・1968年)(学位論文「徂徠学の基礎的研究」)。同志社大学名誉教授。専門は、近世日本政治思想史、特に荻生徂徠。 奈良県出身。京都帝国大学卒。1968年、「徂徠学の基礎的研究」で京都大学より文学博士の学位を取得。神戸大学教育学部助教授、1959年、同志社大学文学部助教授、教授、1984年、定年退任、名誉教授。1989年、勲三等瑞宝章受章。奈良本辰也と『荻生徂徠全集』全5巻を編纂した。 2007年12月4日、老衰のため死去。
岡村 俊昭(おかむら としあき、台湾名:葉天送、1912年5… 岡村 俊昭(おかむら としあき、台湾名:葉天送、1912年5月4日 - 1996年1月25日)は、プロ野球選手。
林 茂(はやし しげる、1912年5月4日 - 1987年7… 林 茂(はやし しげる、1912年5月4日 - 1987年7月3日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。専門は日本政治史。 1912年、和歌山県で生まれた。1932年に第一高等学校文科乙類を卒業し、東京帝国大学法学部政治学科に入学。1936年に卒業し、同大学大学院に進学した。1938年に東京帝国大学大学院を退学。 1942年、京城帝国大学法文学部助教授に就任。翌1943年、陸軍に臨時召集、終戦まで過ごした。 1948年、東京大学社会科学研究所助教授に就いた。1956年、同研究所教授に昇格。1973年、東京大学を退任し、名誉教授となった。その後は神奈川大学法学部教授として教鞭をとった。1976年、津田塾大学学芸学部教授に転じた。
古谷 倉之助(ふるや くらのすけ、1911年5月4日 - 1… 古谷 倉之助(ふるや くらのすけ、1911年5月4日 - 1961年)は、東京都出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは投手、一塁手、外野手、二塁手。 史上初の打点王を獲得し、史上初タイとなる本塁打王も獲得している。 八王子中学から八王子実業団を経て1936年に名古屋金鯱軍へ入団。金鯱軍では主将を務めたほか、投手としては先発陣の一角を占め、打っては時には4番に座るなど、主力選手として活躍した。 1年目の1936年秋季リーグでは、山下実、藤村富美男と並んで本塁打王を獲得。さらに打点王も獲得。打率は中根之に及ばず2番目の成績だったためプロ初の3冠王とはならなかったが、見事2冠王となった。この年の秋季リーグは投手兼任だったが全試合出場を記録している。
何 初彦(が はつひこ、1911年5月4日 - 1997年7… 何 初彦(が はつひこ、1911年5月4日 - 1997年7月19日)は、日本の新聞学研究者、東京大学名誉教授[3]。東京大学新聞研究所所長、上智大学教授などを歴任した[3]。
高祖 保(こうそ たもつ、1910年〈明治43年〉5月4日 … 高祖 保(こうそ たもつ、1910年〈明治43年〉5月4日 - 1945年〈昭和20年〉1月8日)は、日本の詩人。 1910年(明治43年)5月4日、岡山県邑久郡牛窓町(現:瀬戸内市)の素封家に生まれる。 1919年(大正8年)、前年の父の死去を機に分家し、母の実家がある滋賀県犬上郡彦根町(現:彦根市)の外馬場に移り住む。 彦根尋常高等小学校(現:彦根市立城東小学校)を卒業。 1928年(昭和3年)、滋賀県立彦根中学校(現:滋賀県立彦根東高等学校)を卒業。 1930年(昭和5年)12月、金沢の第九連隊第一中隊に、幹部候補生として入隊。 1932年(昭和7年)、母と別居し、國學院大学附属高等師範部に入学。
斎藤 秀夫(さいとう ひでお、1909年〈明治42年〉5月4… 斎藤 秀夫(さいとう ひでお、1909年〈明治42年〉5月4日 - 2003年〈平成15年〉9月6日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法、特に競売法、司法学。学位は、法学博士(東北大学・論文博士・1952年)。東北大学名誉教授。司法権論、裁判官論など、日本の司法学の開拓者として著名。菊井維大門下。弟子に小室直人など。 宮城県出身。旧制仙台第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1933年東北帝国大学法文学部卒、同助手。東京帝国大学法学部に内地留学し、菊井維大、兼子一に師事した。その後、1937年東北帝国大学助教授、1949年東北大学法学部教授。1952年「国会と司法権の独立 国政調査権と裁判官弾劾」で東北大学より法学博士の学位を取得。
田中 隆造(たなか たかぞう、1908年5月4日 - 198… 田中 隆造(たなか たかぞう、1908年5月4日 - 1989年3月3日)は、日本の実業家。元阪神電気鉄道社長。元阪神タイガースオーナー。 次弟は、元三菱自動車工業会長の田中利治。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、京都帝国大学法学部法律学科卒業。 1921年(大正10年)三豊中学に入学。在学中は、実技が出来ないにもかかわらず、野球への趣味は相当強いものがあり、少ない対外試合にも熱心に観戦に出掛けていた。当時の野球部長の目に留まり、4年生の時に半ば強制的にマネージャーとなる。同野球部には、第6回全日本都市対抗野球大会優勝投手の木村秀一(全神戸)が在籍していた。
岡崎 真一(眞一、おかざき しんいち、1907年〈明治40年… 岡崎 真一(眞一、おかざき しんいち、1907年〈明治40年〉5月4日 - 1971年〈昭和46年〉1月20日)は、昭和期の実業家、政治家。岡崎財閥の2代目総帥岡崎忠雄の長男。義父に大谷尊由。 兵庫県出身。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾大学予科を経て、慶應義塾大学経済学部を1932年(昭和7年)に卒業し鐘紡、岡崎汽船を経て、神戸海上運送火災保険に入社した。同社取締役を歴任して、昭和19年(1944年)3月、戦時経済・金融統制の下、横浜火災海上保険、共同火災海上保険、朝日海上火災保険(楽天損害保険との旧社名と同じだが無関係)と4社が合併して誕生した、同和火災海上保険の新社長に就任した。 戦後は、東京衡機製造所、日豊海運など岡崎家系列の企業の社長や、日本航空、日本テレビ、東洋パルプなどの取締役、1955年(昭和30年)から1964年(昭和39年)に掛けて神戸商工会議所会頭を務めたのに加え、日本商工会議所副会頭も歴任した。
大江 巳之助(おおえ みのすけ、本名:大江 武雄、1907年… 大江 巳之助(おおえ みのすけ、本名:大江 武雄、1907年(明治40年)5月4日 - 1997年(平成9年)1月24日)は、徳島県鳴門市出身の人形製作者。撫養中学(現徳島県立鳴門高等学校)中退。 2009年現在、文楽で用いられている人形の首(かしら)の大部分は彼が製作したものである。 板野郡大津村大代(現鳴門市大津町大代)の人形師の二男として生まれる。1930年(昭和5年)に人形師見習いとして大阪文楽座に入る。同年8月に美之助(のちに巳之助)四代目大江巳之助を襲名。 1969年に学術功労者として徳島県知事表彰、1971年に紫綬褒章、1974年に第十回キワニス文化賞、1976年に吉川英治文化賞、徳島県文化賞、1982年に勲四等瑞宝章、1988年に文楽協会功労者表彰、1990年に国際ソロプチミスト千嘉代子賞、第三回文化庁長官賞、鳴門市市民栄誉賞など、数々の賞を受賞している。
今西 正雄(いまにし まさお、1905年5月4日 - 199… 今西 正雄(いまにし まさお、1905年5月4日 - 1990年6月13日)は、日本の歴史学者。同志社大学名誉教授。 1905年5月4日、京都市の西陣に織問屋を営む今西家の長男に生まれる。1928年、同志社大学法学部経済学科卒業。アメリカ合衆国やドイツに留学。1949年より同志社大学経済学部教授。専攻はドイツ経済史。1965年ころから「低開発」問題に関心をもち、ブラジル経済史、特にポピュリスト的指導者ヴァルガスの計画経済の研究にとりくむ。1976年の退職後は、同志社大学や他大学で後進の指導にあたった。1990年6月13日、ブラジルで逝去。享年85。
城米 彦造(じょうまい ひこぞう、1904年5月4日 - 2… 城米 彦造(じょうまい ひこぞう、1904年5月4日 - 2006年5月8日)は、日本の昭和時代に活動した画家、路上詩人。第二次大戦後の10年間、国鉄の有楽町駅前にて自作の詩集を手売りしていたことで知られる。 1904年、京都にて16代続いた老舗呉服・染物屋の長男に生まれる(京染め悉皆業の長男と表現する資料もある)。実母を亡くした後、継母との仲に悩んだ末、放浪を繰り返し、その後、18歳の時に上京する。小石川区の旧制私立豊山中学校(現日本大学豊山高校)定時制卒業。城米が文筆家の道を歩み始めたのは、神田区役所(現千代田区役所)に勤務していた1931年のこと。小説家の武者小路実篤のもとに税金の督促に赴き、そこで感化されたことによる。
斎藤 義重(さいとう よししげ、1904年5月4日 – 20… 斎藤 義重(さいとう よししげ、1904年5月4日 – 2001年6月13日)は、青森県弘前市出身の現代美術家。多摩美術大学教授。「さいとう ぎじゅう」と読まれることもある。絵画と彫刻の垣根を超えた表現を追求して作品を制作した。戦後以降の現代美術を代表する作品の数々を残し、「もの派」の作家らに大きな影響を与えた。 1904年5月4日、青森県弘前市に生まれた。本籍は東京市四谷区左門町(現・東京都新宿区)。なお、本人は東京出身であるとも青森出身であるとも語ったことがあり、かつては文献によって出生地に揺らぎがあった。父親の斎藤長義は南部藩士の家に生まれた陸軍軍人(騎兵小将)であり、陸軍第8師団が設置されていた弘前市は父親の赴任地である。
金成 増彦(かなり ますひこ、1904年5月4日 - 200… 金成 増彦(かなり ますひこ、1904年5月4日 - 2003年9月10日)は、日本の経営者。富士電機社長、会長、福島放送会長を務めた。福島県出身。 1928年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に富士電機に入社。1947年12月に取締役に就任し、1949年8月に常務、1956年5月に専務を経て、1958年5月には社長に就任。1964年11月に常任相談役に就任。 1960年11月に藍綬褒章、1974年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2003年9月10日心不全のために死去。99歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
前田 實(まえた みのる、1903年(明治36年)5月4日 … 前田 實(まえた みのる、1903年(明治36年)5月4日 - 1983年(昭和58年)11月15日)は、日本の銀行家。秋田銀行頭取・会長および相談役を務めた。 商法学者前田庸(学習院大学名誉教授)の父。 福島県大沼郡高田町(現在の会津美里町)に、前田寅三郎の長男として生まれた。 1928年(昭和3年)東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。同年、旧・秋田銀行に入行する。秋田・福島各支店支配人を歴任し、1946年(昭和21年)10月、常務に選任された。 1959年(昭和34年)には、鈴木直吉の後を受け頭取に昇格した。 頭取在任時は、店舗の県内外への新設や再編に取り組んだほか、現本店ビルの竣工や事務センタービルの建設、オンラインシステムの稼働、さらには東証2部上場の実現など経営の近代化を推進した。
栃ノ花 善治郎(とちのはな ぜんじろう、1902年5月4日 … 栃ノ花 善治郎(とちのはな ぜんじろう、1902年5月4日 - 1992年4月23日)は昭和時代の大相撲力士。春日野部屋所属。本名は原→秋山善治郎。最高位は十両2枚目。 現在の東京都渋谷区出身。旧制錦城中学に入り、相撲部で主将をつとめ、1919年の全国大会で活躍した。翌1920年卒業後に春日野部屋に入門し、5月に初土俵を踏む。1927年1月十両昇進。十両を4場所連続在位したが、幕下に落ちた。1928年3月再十両を果たしたが、全休してそのまま25歳で廃業した。1992年に満89歳で死去した。
鏡岩 善四郎(かがみいわ ぜんしろう、1902年5月4日 -… 鏡岩 善四郎(かがみいわ ぜんしろう、1902年5月4日 - 1950年8月6日)は、青森県上北郡四和村(現:青森県十和田市)出身で粂川部屋に所属した大相撲力士。本名は佐々木 善四郎(ささき ぜんしろう)。最高位は西大関。 1902年5月4日に青森県三戸郡猿辺村(現:三戸町)に生まれる。幼いころに父親と死別し、母親の再婚に伴い上北郡四和村に移り住む。 子供の時から草相撲に出場し、怪力として鳴らした。そんな善四郎少年を見つけた粂川から勧誘されて粂川部屋に入門、1922年1月場所で初土俵を踏んだ。入門が遅かったために昇進も遅く、1927年10月場所で新十両昇進、1928年3月場所で新入幕を果たしたが、入幕時で既に25歳と決して速くなかった。
富永 太郎(とみなが たろう、1901年(明治34年)5月4… 富永 太郎(とみなが たろう、1901年(明治34年)5月4日 - 1925年(大正14年)11月12日)は、日本の詩人、画家、翻訳家である。
佐々 憲三(ささ けんぞう / さっさ けんぞう、1900年… 佐々 憲三(ささ けんぞう / さっさ けんぞう、1900年5月4日 - 1981年11月18日)は、日本の土木・地球物理学者。理学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授、大阪工業大学第4代学長。日本の地すべり・防災工学研究の第一人者の一人。勲二等旭日重光章受章。 日本地すべり学会創設者・初代会長。文部省測地学審議会委員、日本学術会議会員、地震学会委員長(現・日本地震学会会長)、京都市防災会議地震対策委員会委員長、財団法人防災研究協会理事長などを歴任した。京都大学関連では京都大学防災研究所元所長、京都大学阿武山地震観測所元所長、元桜島火山観測所施設長などを歴任している。 専門は、地球物理学・土木地質学・地学/地すべり学、地震学・火山学・防災工学。
笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年〈明治32年〉5… 笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年〈明治32年〉5月4日 - 1995年〈平成7年〉7月18日)は、大正・昭和時代の日本の篤志家、右翼運動家、元A級戦犯被疑者、座右の銘は「世界一家 人類兄弟」。 戦前は国粋大衆党総裁、衆議院議員。戦後は、財団法人日本船舶振興会(1962年設立。現在の公益財団法人日本財団)会長、全日本空手道連盟(1964年設立)の会長、国際勝共連合名誉会長(1968年就任)、全日本カレー工業協同組合特別顧問、福岡工業大学理事長を務めた。箕面市名誉市民。勲一等旭日大綬章受章者。戦後は日本国内のボートレース(競艇)の創設に尽力し、「競艇界のドン」の異名を取った。 妾との次男が笹川堯、三男が笹川陽平である。
福田 雅之助(ふくだ まさのすけ, 1897年5月4日 - … 福田 雅之助(ふくだ まさのすけ, 1897年5月4日 - 1974年12月21日)は、東京府豊多摩郡戸塚村(現在の東京都新宿区西早稲田)出身の男子テニス選手である。全日本テニス選手権の第1回大会男子シングルス優勝者。 早稲田大学では1902年9月に運動場が改築され、その一部が福田家の所有する土地であったことから、雅之助はごく幼い頃から運動場でのスポーツ観戦を楽しんでいた。彼は戸塚睦合小学校(現在の戸塚第一小学校)時代は野球部員であったが、早稲田中学に入学した1910年に13歳でテニスを始めた。福田が16歳の時、1913年(大正2年)に慶應義塾大学庭球部が「硬式テニス(ローンテニス)への転向」を表明したが、早稲田大学庭球部は当初は硬式テニスに乗り気ではなく、三神八四郎(1887年 - 1919年)の説得に応じなかった。
安東 義良(あんどう よしろう、1897年(明治30年)5月… 安東 義良(あんどう よしろう、1897年(明治30年)5月4日 - 1986年(昭和61年)1月20日)は、日本の外交官、弁護士、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。衆議院議員(2期)。 岐阜県可児郡御嵩町出身。1922年東京帝国大学法学部卒業、外務省入省。1925年パリ大学卒業(法学博士)。 外務省調査部第3課長、欧亜局、大東亜省総務局長、1942年11月条約局長、同省政務局長、1945年退官。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙に岐阜2区から当選。衆議院では外務委員長を務める。1949年1月の第24回衆議院議員総選挙では落選するが1952年10月の第25回衆議院議員総選挙で返り咲き。
芹沢 光治良(せりざわ こうじろう、1896年(明治29年)… 芹沢 光治良(せりざわ こうじろう、1896年(明治29年)5月4日 - 1993年(平成5年)3月23日)は、日本の小説家。静岡県沼津市名誉市民(1980年‐ )。1965年‐1974年に日本ペンクラブ会長を務めた。日本芸術院会員。 フランス留学後、『ブルジョア』で出発。『巴里に死す』で注目された。作品は父性希求、天理教を主題にしたもの、日本と西洋の対比やその矛盾を追究するものの系列があり、冷徹な目を据えながら、生と死、愛の問題を扱った主知的ヒューマニズム作家。日本よりもむしろ海外(特にフランス)で高い評価を受けた。特に1950年代に『巴里に死す』がフランスでも高く評価され、ノーベル文学賞候補者となったという噂も流れた。
松下 芳男(まつした よしお、1892年〈明治25年〉5月4… 松下 芳男(まつした よしお、1892年〈明治25年〉5月4日 - 1983年〈昭和58年〉4月9日)は、日本陸軍の軍人(陸軍中尉)・軍事評論家・軍事史家。「明治軍制史論」で法学博士(東京大学)。新潟県新発田町(新発田市)出身。 祖父は越後長岡藩藩士、父は陸軍少佐松下亀蔵である。松下はその長男として生まれる。松下の長男は東京大学教授。小学校時代の友人の兄に大杉栄がおり、大杉の死の直前まで交友があった。新発田中学、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、大正2年(1913年)に陸軍士官学校を卒業(25期)。士官学校の同期には武藤章・富永恭次・田中新一らがいる。 同年、陸軍歩兵少尉となり、弘前の歩兵第52連隊に配属される。