芳野満彦(よしの みつひこ、1931年(昭和6年)11月8日… 芳野満彦(よしの みつひこ、1931年(昭和6年)11月8日 - 2012年(平成24年)2月5日)は、日本の登山家・RCC IIの創立同人・画家。東京都荒川区日暮里生まれ。アルムクラブ所属。ボート選手の芳野法一は弟。 第一日暮里小学校卒業、旧制の早稲田中学校入学。 1948年(昭和23年)、早稲田中学2年の17歳のとき八ヶ岳の主峰赤岳で遭難して両足指をすべて欠くが、不屈の精神で登山を続けた。1957年(昭和32年)3月の前穂高岳IV峰正面壁積雪期初登攀など多くの初登攀を記録。 1963年(昭和38年)、大倉大八とともにアイガー北壁に日本人として初挑戦。 1965年(昭和40年)、渡部恒明とともにマッターホルン北壁の日本人初登攀を達成し、アルプスの岩峰への先鞭をつけた。
川村 たかし(かわむら たかし、 1931年11月8日 - … 川村 たかし(かわむら たかし、 1931年11月8日 - 2010年1月30日)は、日本の児童文学作家。本名、川村 隆。 奈良県五條市出身。奈良県立五條高等学校、奈良学芸大学(現・奈良教育大学)卒業後、花岡大学に師事。 「近畿文化」に寄稿したのを機に創作活動に専念。1960年、花岡大学らとともに近畿児童文化協会を結成し、機関紙『近畿児童文化』を発刊した。1970年に、花岡大学らと「幼年芸術」を発刊した。1981年には那須正幹ら児童文学者らとともに児童文学創作集団「亜空間」を結成し、同名の季刊誌「亜空間」を創刊した。 1978年『山へいく牛』で国際アンデルセン賞優良作品賞、野間児童文芸賞を受賞し、1980年『山へ行く牛』『北へ行く旅人たち - 新十津川物語』で路傍の石文学賞を受賞、その後NHKによりテレビドラマ化(主演・斉藤由貴)された。
塙 治夫(はなわ はるお、1931年11月8日 - 2016… 塙 治夫(はなわ はるお、1931年11月8日 - 2016年4月7日)は、日本の外交官、アラブ文学翻訳家。 茨城県生まれ。茨城大学政経学部で学び、1952年外務省入省、1953年から1954年までカイロでアラビア語の研修を受けた後、エジプト、レバノン、シリア、イラク、オーストラリア、サウジアラビアへの勤務を経て、駐カタール大使、駐オマーン大使を歴任。 大使時代を含め、アラブ七カ国に駐在、のちエジプトのノーベル文学賞作家となるナギーブ・マフフーズの作品などを翻訳する。「カイロ3部作」の翻訳により、2012年に日本翻訳出版文化賞、2015年にアラブ首長国連邦のシェイク・ザーイド・ブック・アワードの翻訳賞を受賞した。
大野 瑞男(おおの みずお、1931年11月8日 - 202… 大野 瑞男(おおの みずお、1931年11月8日 - 2026年1月4日)は、日本史学者、東洋大学名誉教授。 水戸市生まれ。1954年東京大学文学部国史学科卒、58年同大学院修士課程修了。1961年文部省史料館研究員・国文学研究資料館助教授、教授、1982年東洋大学文学部教授、2002年定年退任、名誉教授、1997年「江戸幕府財政史論」で東大文学博士。 2026年1月4日、膀胱がんで死去。94歳没。
前田 庸(まえだ ひとし、1931年(昭和6年)11月8日 … 前田 庸(まえだ ひとし、1931年(昭和6年)11月8日 - 2013年(平成25年)11月1日)は、日本の法学者。専門は商法、特に手形小切手法。手形小切手法の分野で独創的な二段階創造説を構築。学習院大学名誉教授。東京証券取引所社外取締役。住友信託銀行監査役。社団法人商事法務研究会会長。日本銀行金融研究所国内顧問。鈴木竹雄門下。 父は元秋田銀行頭取の前田實。岳父(妻の父)は元東京銀行監査役の斎藤保義。義兄(妻の兄)は元毎日新聞社代表取締役社長・会長の斎藤明。義姉(妻の姉)は国際基督教大学名誉教授の斎藤美津子。 秋田県の銀行員家庭で育つ。小学校6年生のときに肺結核になった。それで1年間休学した。
出光 豊(いでみつ ゆたか、1930年11月8日 - 201… 出光 豊(いでみつ ゆたか、1930年11月8日 - 2019年11月11日)は、日本の実業家。新出光社長・会長を歴任。
田辺 明雄(たなべ あきお、1930年11月8日 - 200… 田辺 明雄(たなべ あきお、1930年11月8日 - 2002年12月4日)は、演劇・文芸評論家。 大阪府出身。大阪大学文学部仏文科卒、同大学院中退。文学者を目ざして小説や評論を書いたがものにならず、競艇場の管理人をして糊口をしのぐ。のち箕面市役所に勤務したが競艇場の管理はかわらなかった。1976年『真山青果』で毎日出版文化賞。関西文学賞特別賞受賞。劇作も行った。
斎藤 恒夫(さいとう つねお、1930年11月8日 - 19… 斎藤 恒夫(さいとう つねお、1930年11月8日 - 1990年1月5日)は、愛知県豊川市出身の作曲家・編曲家。 2009年、編曲者として古賀政男音楽博物館が定める「大衆音楽の殿堂」入りを果たした。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
狩野 直禎(かの なおさだ、1929年〈昭和4年〉11月8日… 狩野 直禎(かの なおさだ、1929年〈昭和4年〉11月8日 - 2017年〈平成29年〉2月7日)は、日本の東洋史学者。京都女子大学名誉教授。 東京府生まれ。1950年旧制第三高等学校を経て、1953年京都大学文学部史学科卒業(東洋史専攻で、古代中国史を専門)。1961年聖心女子大学助教授、1971年京都女子大学文学部教授。1993年から1997年まで学長。1998年定年退任となり名誉教授の称号を授与。 1994年、「後漢政治史の研究」で京大文学博士。『三国志』などについて一般向けの著書が多く、「三国志学会」会長でもあった。また第三高等学校の校史の編纂にあたった。 狩野直喜の嫡孫で、弟子らの講義ノートを基に著作の編さん解説を行った。
寺村 輝夫(てらむら てるお、1928年11月8日 - 20… 寺村 輝夫(てらむら てるお、1928年11月8日 - 2006年5月21日)は、日本の児童文学作家。東京都出身。代表作は『王さまシリーズ』『こまったさん』『わかったさん』シリーズ、『かいぞくポケット』など。 東京都本郷区(現・文京区)真砂町に、9人兄弟(男7人・女2人)の6男として生まれる。父は日本橋馬喰町の名刺メーカーに勤める中流階級、母は浅草田原町の宮大工の娘。天皇即位礼(御大典)の影響で典夫と名づけられる予定だったが、ありきたりな名という事で、当時の新聞に目立った「輝」を取って輝夫と命名された。幼少時は「特定の境遇にある者を差別してはいけない」と寺村に何度も教えた母の後を追いかけてばかりだったという。
野村 栄太郎(のむら えいたろう、1928年11月8日 - … 野村 栄太郎(のむら えいたろう、1928年11月8日 - 2012年4月29日)は、日本の経営者。京都新聞社社長を務めた。京都府京都市出身。 1951年に同志社大学商学部を卒業し、同年に京都新聞社に入社した。 1981年6月に取締役に就任し、1982年12月に常務、1983年3月に専務を経て、1987年6月には副社長に就任した。 1999年6月には社長に昇格し、2003年には会長も兼任し、2004年を以って、退任。 2012年4月29日脳出血のために死去。83歳没。
浦井 洋(うらい よう、1927年11月8日 - 2015年… 浦井 洋(うらい よう、1927年11月8日 - 2015年4月30日)は、日本の政治家、医師。元衆議院議員(日本共産党公認、7期)・党兵庫県委員。 東神戸病院名誉院長、兵庫県民医連会長を歴任。 兵庫県神戸市出身。神戸医科大学(現・神戸大学医学部)卒業後、東神戸診療所長、東神戸病院院長をへて、1969年の第32回衆議院議員総選挙に兵庫県第1区(神戸市全域)から初当選。その後連続7選するものの、1990年の第39回衆議院議員総選挙で落選。 議員在任中はアスベスト問題や乳幼児医療費無料化などに取り組む。衆議院議員落選後は医療現場に戻り、港湾労働者への診療を行っていた。2015年4月30日、呼吸不全のため死去。
篠崎 昭彦(しのさき あきひこ、1927年11月8日 - 2… 篠崎 昭彦(しのさき あきひこ、1927年11月8日 - 2024年2月4日)は、日本の経営者。住友金属鉱山社長、会長を務めた。 北海道出身。1952年に東京大学法学部法律学科を卒業し、同年に別子銅山(のちの住友金属鉱山)に入社。1979年6月に取締役に就任し、1983年6月に常務、1987年6月に専務を経て、1988年6月に社長に就任。1995年6月に会長に就任し、1998年6月から相談役を務めた。 1999年4月に勲二等旭日重光章を受章した。 2024年2月4日午後5時40分、病気のため死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
植田 英一(うえた えいいち、1925年<大正14年>11月… 植田 英一(うえた えいいち、1925年<大正14年>11月8日 - 2019年<平成31年>2月11日) は、日本の政治家。自由民主党所属。福島県議会議員 (4期)、福島県議会議長 (64代)、全国都道府県議会議長会長、郡山市議会議員を歴任。 岩瀬農学校 (現・福島県立岩瀬農業高等学校) 卒業。1963年に田村町 (現・郡山市) 議会議員選挙に初当選し、田村町は1965年に郡山市と合併し、以降郡山市議含め5期務めた。その後、福島県議会議員に転身し4期務める。2001年3月から2003年5月まで櫛田一男副議長とともに64代福島県議会議長。2002年7月から2003年4月まで全国都道府県議会議長会長。
山本 太郎(やまもと たろう、1925年(大正14年)11月… 山本 太郎(やまもと たろう、1925年(大正14年)11月8日 - 1988年(昭和63年)11月5日)は、日本の詩人。父は画家の山本鼎。母方の祖父は北原白秋。 1925年(大正14年)、画家の山本鼎と、北原白秋の妹イヱ(家子)の長男として、東京府荏原郡入新井町(現:東京都大田区大森北)に生まれる。旧制佐賀高校から東京大学文学部独文科卒。詩誌『零度』ののち、1951年(昭和26年)に『歴程』同人となり、1954年(昭和29年)に第一詩集『歩行者の祈りの歌』を刊行。以後数多くの詩集・評論を上梓した。 両親が共に国柱会の信者だったこともあり、1968年(昭和43年)に「霊廟讃歌」を献詩した。 1970年(昭和45年)、『覇王紀』で読売文学賞受賞。
岩崎 武夫(いわさき たけお、1925年(大正14年)11月… 岩崎 武夫(いわさき たけお、1925年(大正14年)11月8日 - 2012年(平成24年)2月19日)は、国文学者。元東京医科歯科大学教授。 東京生まれ。法政大学文学部日本文学科を卒業し、法政大学大学院修士課程を修了する。専攻は日本中世・近世文学。法政大学講師を経て東京医科歯科大学教授、千葉経済大学教授を務めた。特に説経節の研究で知られる。著書に『さんせう太夫考-中世の説経語り』(平凡社、1973年)、『続さんせう太夫考-説経浄瑠璃の世界』(平凡社、1978年)がある。 2012年2月19日、前立腺がんのため、神奈川県茅ヶ崎市の病院で死去。86歳であった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
樋口 謹一(ひぐち きんいち、1924年11月8日 - 20… 樋口 謹一(ひぐち きんいち、1924年11月8日 - 2004年1月9日)は、日本の歴史学者、政治思想学者。専攻はヨーロッパ政治思想史。京都大学名誉教授。 京都大学卒業。1965年に設立した京都ベ平連の中心メンバーの一人だった。京都大学人文科学研究所助教授・教授、佛教大学教授を歴任し、日本平和学会会長も務めた。2004年叙従四位、授瑞宝中綬章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
川勝 義雄(かわかつ よしお、1922年(大正11年)11月… 川勝 義雄(かわかつ よしお、1922年(大正11年)11月8日 - 1984年(昭和59年)4月4日)は、日本の東洋史学者。京都大学人文科学研究所教授。専門は六朝期の中国史、中国思想史。京都市生まれ。 京焼の一つ粟田口焼の窯元の息子として生まれ、京都府立第一中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校、京都帝国大学文学部卒業。京都大学人文科学研究所の司書系の助手になり、後研究系の助手、フランスに留学してヨーロッパ東洋学を学び、東洋学者アンリ・マスペロの著書を翻訳した。帰国後京都大学人文科学研究所教授在職中に没した。 内藤湖南・宮崎市定の魏晋南北朝時代を中世とする論を受け継ぐ京都学派の一人であり、特に中国の貴族制研究において谷川道雄と共に「豪族共同体論」を展開し、矢野主税・越智重明らと激しい論争を繰り広げた。
鈴木 圭一郎(すずき けいいちろう、1922年11月8日 -… 鈴木 圭一郎(すずき けいいちろう、1922年11月8日 - 2011年2月23日)は、兵庫県出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。 娘はピアニストの佐伯真魚。 中外商業(現・兵庫県立尼崎北高等学校)から華北交通を経て、1946年にセネタース(1947年・1948〜1953年東急フライヤーズ、1948年急映フライヤーズ、1954年〜東映フライヤーズ)へ入団。1950年代の東急の正捕手として活躍した。チームメイトの青バットの大下弘とは、神戸小学校の同期生。1956年に現役引退。1952年から1954年前半にかけて、捕手として丸々2シーズン半全試合全イニング連続出場の記録は、のちの野村克也、城島健司両捕手の記録の先駆け的存在であり、球団よりA級10年選手の栄誉を受けた。
松浦 高雄(まつうら たかお、1921年11月8日 - 20… 松浦 高雄(まつうら たかお、1921年11月8日 - 2005年4月12日)は、日本の経営者。小糸製作所社長、会長を務めた。 北海道出身。1945年に東北帝国大学工学部を卒業し、1946年にトヨタ自動車工業に入社。1972年5月に小糸製作所常務に就任し、1976年4月に専務、1979年6月に副社長を経て、1985年6月には社長に就任。1992年7月に会長、1995年6月に取締役相談役を経て、1997年6月に相談役に就任。 1988年に藍綬褒章を受章し、1993年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2005年4月12日腸閉塞のために死去。83歳没。
三橋 敏雄(みつはし としお、1920年11月8日 - 20… 三橋 敏雄(みつはし としお、1920年11月8日 - 2001年12月1日)は、俳人。 東京都八王子市出身。実家は絹織物業であったが、家業が傾き進学を諦め、書籍取次の東京堂(後に取次部門は日本出版配給に吸収)で働きながら実践商業学校(現実践学園中学・高等学校)夜間部を卒業。1943年召集を受け横須賀海兵団に入団。戦後は1972年まで運輸省所属の練習船事務長として日本丸、海王丸などに勤務した。 俳句は1935年、東京堂の先輩に勧められ社内句会に参加。1936年に「句と評論」「馬酔木」などに投句。1937年渡辺白泉の「風」に参加、白泉に師事し、新興俳句無季派の俳人となる。1938年「広場」同人となり、西東三鬼にも師事。
中田剛直(なかた たかなお、1920年11月8日 - 198… 中田剛直(なかた たかなお、1920年11月8日 - 1980年1月21日)は、日本文学研究者、国文学者。 秋田県大館市生まれ。父は教育者。弘前高等学校卒、1943年東京帝国大学文学部国文科卒。池田亀鑑に師事。東京高等学校講師、48年要書房編集長。1957年獨協高等学校講師、1959年上智大学文学部助教授、66年教授。 『竹取物語』研究の新井信之の義弟。池田亀鑑没後、『池田亀鑑選集』、随筆集『花を折る』(いずれも至文堂刊)を、長野嘗一、木田園子らとともに編集・刊行した。 ・『古本竹取物語』 大修館書店 1968 ・『影印本紫式部日記』新典社、1968
横山 正治(よこやま まさはる、1919年(大正8年)11月… 横山 正治(よこやま まさはる、1919年(大正8年)11月8日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍少佐。岩田豊雄(獅子文六)の小説「海軍」及びこれを原作とした映画「海軍」の主人公・谷真人のモデル。
末永 隆甫(すえなが たかすけ、1918年 <大正7年> 1… 末永 隆甫(すえなが たかすけ、1918年 <大正7年> 11月8日 - 2004年 <平成16年> 1月25日)は、日本の経済学者。専門は経済学史。大阪市立大学(現大阪公立大学)名誉教授。元神戸商科大学(現兵庫県立大学)学長。 兵庫県神戸市生まれ。兵庫県立第一神戸中学校(現兵庫県立神戸高等学校)を経て、1941年東京商科大学(現一橋大学)卒業。杉本栄一や高島善哉に師事した。同年から早川泰正とともに企画院嘱託として調査部で勤務した。1942年第54師団輜重兵部隊入隊。1946年大阪市立大学経済学部助手着任。1949年大阪市立大学経済学部助教授。1955年大阪市立大学経済学部教授。1962年大阪市立大学経済学博士。
酒巻 和男(さかまき かずお、1918年(大正7年)11月8… 酒巻 和男(さかまき かずお、1918年(大正7年)11月8日 - 1999年(平成11年)11月29日)は、日本の海軍軍人、後にビジネスマン。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として参加。艇が座礁し、太平洋戦争における最初の日本人捕虜となる。最終階級は海軍少尉。 徳島県阿波郡林村(現:阿波市)で、8人きょうだいの次男に生まれた。徳島県脇町中学校を経て1940年(昭和15年)8月7日に海軍兵学校を卒業(第68期生)した。同期生に豊田穣、広尾彰がいる。その後、日本海軍に入隊した。 太平洋戦争(大東亜戦争)における第一撃として、日本海軍は日本時間の1941年(昭和16年)12月8日、米領ハワイのオアフ島真珠湾に停泊するアメリカ海軍太平洋艦隊や周辺の軍事基地に対する奇襲(真珠湾攻撃)を実施。
野崎 孝(のざき たかし、1917年〈大正6年〉11月8日 … 野崎 孝(のざき たかし、1917年〈大正6年〉11月8日 - 1995年〈平成7年〉5月12日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。 『ライ麦畑でつかまえて』など一連のサリンジャー作品のほか、フィッツジェラルドやヘミングウェイ、スタインベックなどの翻訳で知られる。 パン屋の長男として青森県弘前市に生まれる。1929年、旧制弘前中学校(青森県立弘前高等学校の前身)に入学、4年間を首席を通し、語学の天才と讃えられる。4年修了で旧制弘前高等学校(弘前大学の前身)に入学。1937年、東京帝国大学文学部イギリス人文学科に進み、中野好夫に師事。卒業後は東京の商業学校などで教鞭を執る。第二次世界大戦で出征、中国大陸で転戦する。
木内 信敬(きうち のぶゆき、1917年11月8日 - 19… 木内 信敬(きうち のぶゆき、1917年11月8日 - 1997年8月7日)は、日本のアメリカ文学者、千葉大学名誉教授。 東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)生まれ。 1940年東京帝国大学英文科卒。1950年より千葉大学助教授、1968年より教授を務め、1981年定年退官、名誉教授。1983年東洋女子短期大学教授、1991年より学長。1994年、勲三等旭日中綬章を受章。1997年、膵臓癌のため死去。 日本におけるジプシー(ロマ)研究のさきがけであった。
若月 正吾(わかつき しょうご、1916年11月8日 - 2… 若月 正吾(わかつき しょうご、1916年11月8日 - 2001年12月)は、日本の仏教学者・僧侶。専門は禅学。山梨県東山梨郡牧丘町出身。 1942年駒澤大学文学部仏教学科卒業。その後、世田谷学園中学校教諭や曹洞宗宗学研究所研究員、学校法人駒澤大学職員を経て、1963年駒澤大学仏教学部専任講師。1964年同仏教学部教授。1965年駒澤大学教務部長。1973年同附属図書館長。1975年苫小牧駒澤短期大学学長・駒澤大学附属苫小牧高等学校校長・駒澤大学苫小牧学園理事長。1976年駒澤大学北海道教養部3代部長・岩見沢駒澤短期大学3代学長・駒澤大学附属岩見沢高等学校3代校長・駒澤大学岩見沢学園3代理事長・駒澤大学保育専門学校初代学校長(講師兼任)。
吉武 泰水(よしたけ やすみ、1916年11月8日 - 20… 吉武 泰水(よしたけ やすみ、1916年11月8日 - 2003年5月26日)は、日本の建築学者・建築家。東京大学名誉教授、筑波大学名誉教授、九州芸術工科大学名誉教授、神戸芸術工科大学初代学長。大分県生まれ。東京育ち。父親は、国会議事堂の設計者の1人、雑誌新建築創刊号の表紙を手がけた吉武東里である。 日本における建築計画学の創始者であり、病院・学校・集合住宅などの研究に業績を残した。集合住宅のプロトタイプである「51C型」や、建築における規模計画に用いられる数理・統計手法「あふれ率法(α法)」などで知られる。設計した作品も、病院・学校などの公共建築が多い。 1951年に東京大学建築学科の吉武研究室が「公営住宅標準設計51C型」として提唱した51C型は、戦後の日本の集合住宅の原型となった。
三宅 洋一郎(みやけ よういちろう、1914年11月8日 -… 三宅 洋一郎(みやけ よういちろう、1914年11月8日 - 1994年8月1日)は、日本の音楽家、ピアニスト、合唱指揮者、フェリス女学院短期大学名誉教授。 長年にわたり日本女声合唱団の指導にあたるとともに、フェリス女学院短期大学学長などを務めた。 熊本県に生まれたが、間もなく神奈川県横浜市へ移った。東京音楽学校に学び、ケルン音楽大学へ留学した。1941年からフェリス女学院(戦時下では「横浜山手女学院」)で教鞭を執り、専門学校音楽科を開設する際には團伊玖磨とともに中心的な役割を果たし、戦後における短期大学音楽科への昇格でも中心となって、後の大学音楽学部への発展の基礎を築いた。 1969年には第18回横浜文化賞を受賞し、1978年には第27回神奈川文化賞を妻である三宅春恵とともに受賞した。
團藤 重光(だんどう しげみつ、1913年〈大正2年〉11月… 團藤 重光(だんどう しげみつ、1913年〈大正2年〉11月8日 - 2012年〈平成24年〉6月25日)は、日本の法学者。専門は、刑法・刑事訴訟法。裁判官。学位は、法学博士(東京大学・論文博士 1962年)。東京大学名誉教授。日本学士院会員、文化功労者。文化勲章受章。位階は正三位。勲等は勲一等。団藤 重光とも表記される。 東京帝国大学法学部助教授、東京大学法学部教授、東京大学法学部学部長、慶應義塾大学法学部教授、最高裁判所判事、社団法人学士会理事長などを歴任した。 山口県生まれ、岡山県育ちの法学者である。専門は刑事法全般に及び、戦後の日本刑事法学の第一人者である。東京帝国大学、東京大学、慶應義塾大学で教鞭を執ったのち、最高裁判所判事に就任した。
鈴木 芳太郎(すずき よしたろう、1913年11月8日 - … 鈴木 芳太郎(すずき よしたろう、1913年11月8日 - 1978年5月10日)は、静岡県出身の元プロ野球選手(投手)。
団藤 重光(だんどう しげみつ、正字体:團藤、1913年(大… 団藤 重光(だんどう しげみつ、正字体:團藤、1913年(大正2年)11月8日 - 2012年(平成24年)6月25日)は、日本の法学者。岡山県出身(ただし生まれは山口県)。東京大学名誉教授。1974–83年(昭和49–58年)最高裁判所判事。1981年(昭和56年)日本学士院会員。1987年(昭和62年)勲一等旭日大綬章。1995年(平成7年)文化勲章。
陣内 傳之助(じんない でんのすけ、 1912年11月8日 … 陣内 傳之助(じんない でんのすけ、 1912年11月8日 - 1987年8月30日)は、日本の外科医。大阪大学医学部名誉教授、近畿大学医学部名誉教授、近畿大学医学部附属病院初代院長。
島崎 敏樹(しまざき としき、1912年11月8日 - 19… 島崎 敏樹(しまざき としき、1912年11月8日 - 1975年3月17日)は、日本の医学者、精神科医。専門は精神病理学。東京医科歯科大学名誉教授。医学博士。 東京医科歯科大学医学部精神医学教室初代教授となり、日本における精神病理学の礎を築いた。西丸四方、村上仁らと共に、日本の精神病理学第一世代を代表する人物である。 村上仁、西丸四方らと共に、日本の精神病理学第一世代を代表する人物である。精神医学の基礎領域である精神病理学を広く精神科臨床に根付かせるなど、日本の精神医学の発展に大きく貢献した。島崎は人間を「個々の症状の寄せ木細工としてでなく、人格の深みから孤立化していく人間像としてとらえなおそう」とする学風で知られており、主論文『精神分裂病における人格の自律性の意識の障碍』は日本における精神病理学の嚆矢となった。
鈴木 二郎(すずき じろう、1912年11月8日 - 没年不… 鈴木 二郎(すずき じろう、1912年11月8日 - 没年不明)は、日本の経営者、工学博士。古河電気工業社長を務めた。東京都出身。 1935年に東京工業大学電気工学科を卒業し、同年に古河電気工業に入社。1962年11月に取締役に就任し、1964年6月に常務を経て、1968年11月には社長に就任。1974年11月から1975年5月までに会長を務めた。 1974年9月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲二等瑞宝章を受章。
柳谷 寛(やなぎや かん、1911年11月8日 ‐ 2002… 柳谷 寛(やなぎや かん、1911年11月8日 ‐ 2002年2月19日)は、日本の俳優。本名同じ。長男は俳優の柳谷慶寿、次男は数学者・作家の柳谷晃。 1911年11月8日、青森県青森市に生まれる。旧制東奥義塾中等部(現在の東奥義塾高等学校)を経て、日本映画俳優学校卒業後、P.C.L.に入社して映画『坊つちやん』のガキ大将役でデビューする。1938年にP.C.L.が東宝に改編された後も、同社の作品に多く出演した。 戦後は菅井一郎らの俳優グループ第一協団に所属して、東宝・大映・東映・日活など幅広く活躍。独特の演技で才能を発揮し、朴訥()とした雰囲気を持つ個性派の脇役俳優として知られた。東映の映画『月光仮面』には五郎八役で全シリーズに出演。
手塚 豊(てづか ゆたか、1911年〈明治44年〉11月8日… 手塚 豊(てづか ゆたか、1911年〈明治44年〉11月8日 - 1990年〈平成2年〉4月14日)は、日本の法制史学者。慶應義塾大学名誉教授。 愛知県名古屋市出身。1935年慶應義塾大学法学部卒業。1958年「明治初期刑法史の研究」で、法学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。慶應義塾大学法学部助教授、教授、1977年定年退任、名誉教授。
李 太熙(イ・テヒ、朝鮮語: 이태희、1911年11月8日-… 李 太熙(イ・テヒ、朝鮮語: 이태희、1911年11月8日- 1999年10月27日)は、大韓民国の検察官、弁護士。第8代検察総長。日本名は三江 達夫。 平安南道江東郡出身。平壌高等普通学校を経て、1934年佐賀高等学校文科甲類卒業。1937年東北帝国大学法文学部法科卒業。高等文官試験司法科に合格し、1960年に許政内閣で検察総長に任命されたが、5・16軍事クーデター後、弁護士に転じた。日本名は三江達夫。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大後 美保(だいご よしやす、1910年(明治43年)11月… 大後 美保(だいご よしやす、1910年(明治43年)11月8日 - 2000年(平成12年)7月25日)は、日本の農学者、気象学者である。東京府(現在の東京都)出身。 牛込中里(新宿区)にて生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学する。大学時代は農学部に在籍し、1935年(昭和10年)に卒業した。卒業後は中央気象台(現在の気象庁)に入庁し、産業気象の要員や後に技手として活動した。大学で学んだ農学と気象について学び、主に気候による農作物への影響を研究する。その後は気象台に所属する技術官の養成所や気象技師、古巣の東京大学農学部の講師を務めた。1946年(昭和21年)に同課長に就任し、同時に農学博士の称号を得た。
黒田 俊夫(くろだ としお、1909年11月8日 - 200… 黒田 俊夫(くろだ としお、1909年11月8日 - 2006年12月30日)は、日本の人口学者。厚生省人口問題研究所所長、日本大学人口研究所所長、日本人口学会会長などを歴任した。 兵庫県姫路市伊伝居生まれ。姫路市立姫路商業学校(現兵庫県立姫路商業高等学校)では同級生の柿坪正義(のちに特命全権大使)とともに東京商科大学(現一橋大学)を目指し、勉強し、1931年同大学商学専門部卒業、支那経済事情研究会入会。1933年東京商工会議所入所。1936年日本大学商経学部経済学科卒業。1939年上海中支那軍票交換用物資配給組合入所。1947年厚生省人口問題研究所入所。1953年東京商科大学専攻科修了。1961年資源調査会専門委員。
久保田 尚志(くぼた たかし、1909年11月8日 - 20… 久保田 尚志(くぼた たかし、1909年11月8日 - 2004年1月1日)は、日本の化学者。理学博士。大阪市立大学名誉教授。有機化学の権威。日本化学会名誉会員。 鹿児島県鹿児島市出身。鷹師町で生まれて1914年に市内の上竜尾町に転居し、鹿児島市立大龍小学校を出る。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、第七高等学校造士館 (旧制)理科甲類を1929年に卒業。東北帝国大学理学部化学科で真島利行に師事して1932年に卒業し、東北大の助手となって藤瀬新一郎の下で研究に従事。1936年に大阪帝国大学理学部小竹無二雄研究室の助手に転じて、1939年に大阪大学助教授。同年「白茶に含まれるフラパノール、アンペロプチンの構造研究」で理学博士。
近藤 豊(こんどう ゆたか、1909年(明治42年)11月8… 近藤 豊(こんどう ゆたか、1909年(明治42年)11月8日 - 1994年(平成6年)5月24日)は、日本の建築学者。京都市生まれ。 古建築の研究者で、古建築の細部の意匠や文様を分類した。 中学生の時より京都帝大教授の天沼俊一に師事し、天沼とともに日本・朝鮮の古建築の多数の写真を撮影した。 1940年に京都大学大学院を卒業。京都大学工学部建築学教室嘱託を経て、滋賀県立短期大学建築科教授、大阪教育大学家政学部教授、摂南大学工学部建築科主任教授などを歴任。 一心寺本堂(大阪府大阪市)、明王院多宝塔(岡山県浅口市)など多数の建築の再建における設計監督も務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
吉田 重春(よしだ しげはる、1908年(明治41年)11月… 吉田 重春(よしだ しげはる、1908年(明治41年)11月8日 - 没年不明)は、日本の実業家。北海道小型自動車販売協会、札幌地区軽自動車協会各専務理事。衆議院議員・立憲民主党代表の泉健太は外孫。 北海道出身。吉田重貞(札幌毎日新聞社社長)・キミの長男として生まれる。1930年(昭和5年)小樽高等商業学校卒業。高商卒業後、住友本社鴻之舞鉱業所、住友鉱業(現・住友金属鉱山)、住友石炭鉱業(現・住石マテリアルズ)、北海道マツダ販売を経て北海道小型自動車販売協会、札幌地区軽自動車協会各専務理事に就いた。 趣味は読書、麻雀、将棋、酒。 娘婿に元石狩市議の泉訓雄がいる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
伊大知 良太郎(いおち りょうたろう、1908年〈明治41年… 伊大知 良太郎(いおち りょうたろう、1908年〈明治41年〉11月8日 - 1985年〈昭和60年〉5月26日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。一橋大学経済研究所長、日本統計学会会長等を歴任した。 東京出身。1931年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。1934年同研究科修了。台北高等商業学校教授、総理府統計局、横浜国立大学教授を経て、一橋大学経済研究所教授を務めた。1963年から高橋長太郎の後任として第8代一橋大学経済研究所長を務めた。1965年に所長を退任し都留重人と代わる。1971年から1972年まで第10代日本統計学会会長。1973年一橋大学定年退官、一橋大学名誉教授、東海大学教授。
赤堀 全子(あかほり まさこ、本名:赤堀房江、1907年11… 赤堀 全子(あかほり まさこ、本名:赤堀房江、1907年11月8日 - 1988年3月4日)は、日本の料理研究家。放送開始の最初期からNHK『きょうの料理』に関わり、赤堀栄養専門学校校長なども歴任した。赤堀割烹教場(現・赤堀料理学園)4代目。 赤堀割烹教場(赤堀料理学園の前身)を1882(明治 15)年に創設した赤堀峯吉(初代)の孫である赤堀峯吉(3代) の長女として、東京に生まれる。初代峯吉は、親が営んでいた掛川宿の料理屋が1832(天保 3)年の大火で焼失したため、江戸に出て修業したのち、1860(万延元)年に45歳で日本橋元大工町(現・中央区八重洲一丁目4、日本橋二丁目1・2)に割烹店を開業、67歳で赤堀割烹教場を開設した。
福島 幸夫(ふくしま さちお、1907年11月8日 - 19… 福島 幸夫(ふくしま さちお、1907年11月8日 - 1983年2月13日)は、日本の検察官、弁護士。東京地検特捜部初代部長、検事正(佐賀地検、新潟地検)、最高検検事等を歴任した。 鹿児島県日置郡串木野村(後の串木野市、いちき串木野市)出身。1928年に第七高等学校造士館文科を卒業。1930年11月、高等試験司法科合格。1931年3月に東京帝国大学法学部を卒業し、同年6月に司法官試補となる。1933年9月、東京地方裁判所予備検事に任官され、11月より横浜地方裁判所予備検事。1934年4月、前橋区裁判所検事に任官され、1936年4月より千葉区裁判所検事、1937年7月より東京区裁判所検事。1939年10月、司法省刑事局事務官となる。
山口 好一(やまぐち こういち、1903年11月8日 - 1… 山口 好一(やまぐち こういち、1903年11月8日 - 1969年3月19日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(7期)。弁護士。 栃木県栃木町(現:栃木市)に生まれる。旧栃木中、旧制一高を経て、1927年東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒。卒業後は栃木商業学校教諭となり、1935年に高等試験司法科試験に合格し、弁護士となった。この他明治大学、日本大学の各講師を務めた。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙において栃木県(全県1区)から日本自由党公認で立候補して初当選。以来当選7回。在職中は衆議院地方行政委員長、同懲罰委員長、同科学技術振興対策特別委員長、第3次吉田内閣法務政務次官などを歴任した。
塩谷 太郎(しおや たろう、旧字体: 鹽谷 太郞、1903年… 塩谷 太郎(しおや たろう、旧字体: 鹽谷 太郞、1903年〈明治36年〉11月8日 - 1996年〈平成8年〉)は、日本の翻訳家、児童文学者。本名・相馬 一正(そうま かずまさ)。 群馬県桐生市生まれ。群馬県立桐生中学校出身。東京外国語学校(現・東京外国語大学)ドイツ語科を卒業。商社勤務を経て翻訳家になる。ドイツ語圏、英語圏の児童文学・ノンフィクションなどを日本語に翻訳した。最初の訳書はおそらく1941年のテオドル・シュトルム『少女ローレ』(改造社)。(ヴィツキー・バウムの長篇 Das große Enimaleins を訳出したが、出版に至っていない。)1962年、『ハウフ童話全集』でサンケイ児童出版文学賞を受賞。
楊井 克巳(やない かつみ、1903年11月8日 - 199… 楊井 克巳(やない かつみ、1903年11月8日 - 1997年9月14日)は、日本の経済学者、東京大学名誉教授。 1903年、山口県生まれ。旧制山口高等学校を経て、東京帝国大学経済学部に進む。大学では矢内原忠雄に師事した。 太平洋戦争後、東京大学経済学部教授となり、経済学部長をつとめた。1959年、「アメリカ帝国主義史論」を提出して経済学博士号を取得。1964年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後も日本大学教授、立正大学教授、帝京大学教授として教鞭をとり、1990年に退職した。