小暮 智一(こぐれ ともかず、1926年6月10日 - 20… 小暮 智一(こぐれ ともかず、1926年6月10日 - 2025年5月22日)は、日本の天文学者。専門は天体物理学、天体分光学。京都大学名誉教授。美星天文台名誉台長。第35代日本天文学会理事長。群馬県桐生市出身。 1926年群馬県桐生市生まれ。父は開業医。9人兄弟。桐生市立昭和尋常高等小学校、旧制・群馬県立桐生中学校、旧制・浦和高等学校(理科甲類)を経て、1950年に京都大学理学部(宇宙物理学専攻)を卒業。数少ない同期の一人に寿岳潤がいた。大学卒業後、大阪市立高校で数学、京都府立高校で地学の高等学校教員を務める。 1961年京都大学理学部助手。1969年茨城大学理学部助教授。1969年茨城大学理学部教授。
佐野 實(さの みのる、1926年6月10日 - 2012年… 佐野 實(さの みのる、1926年6月10日 - 2012年5月8日)は日本の実業家。医療機器・ガラス製品メーカーであるニプロの創業者であった。 山梨県出身。東海科学専門学校(現・東海大学)を経て1954年にニプロの前身である精密機械会社「日本硝子商事」を設立。その後一代で医療機器・医薬品へ進出するなど順調に事業を拡大していき、1992年には東証一部へ上場させるなど経営者として成功を収めた。 ニプロで得た利益を地元・山梨へ還元し、母校である身延高校に対しては室内野球練習場建設の資金を提供、山梨に誕生したプロサッカークラブ・ヴァンフォーレ甲府へはNIPROロゴをユニフォームの胸スポンサーとして掲出し支援を行った。
池田 力(いけだ つとむ、1925年6月10日 - 没年不明… 池田 力(いけだ つとむ、1925年6月10日 - 没年不明)は、群馬県出身の元プロ野球選手。 桐生中学校から全桐生、日本大学を経て、1949年に東急フライヤーズへ入団。1951年に退団し、その後は大生相互銀行でプレーした。
石川 武(いしかわ たける、1925年6月10日 - 199… 石川 武(いしかわ たける、1925年6月10日 - 1997年4月3日)は、日本の経営者。大正海上火災保険社長、会長を務めた。東京都出身。 1950年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に大正海上火災保険(現在の三井住友海上火災保険)に入社。 1974年に取締役に就任し、1976年に常務、1978年7月に専務を経て、1982年7月には社長に就任。1990年6月に会長に就任。 1997年4月3日呼吸不全のために死去。71歳没。
上野 他一(うえの たいち、1924年6月10日 - 201… 上野 他一(うえの たいち、1924年6月10日 - 2015年5月4日)は、日本の経営者。クラレ社長を務めた。大分県大分市出身。 1958年に九州帝国大学法文学部を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。 1972年11月に取締役に就任し、1975年5月には専務に就任した。 1978年5月にクラレに転じ、同年6月に専務に就任し、1981年6月に副社長に就任し、1982年10月には社長に昇格した。1990年6月から相談役に就任した。 2015年5月4日前立腺がんのために死去。90歳没。
玉城 逸夫(たまき いつお、1924年6月10日 - 200… 玉城 逸夫(たまき いつお、1924年6月10日 - 2008年8月31日)は、京都府京都市出身の日本の土木・地球物理学者。大阪工業大学名誉教授。理学博士(京都大学)。物理探査学会元理事・名誉会員。勲三等瑞宝章受章。 専門は、地球物理学・地震工学、測量学、土木地質学・地学/地すべり学。 1950年京都大学理学部地球物理学科卒業。京都大学第1期特別研修生となり、修了後、1954年大阪工業大学に着任、工学部にて土木工学教育・研究を担当。1962年京都大学より論文「地震活動度と地殻構造の結びつき : 特に日本地域について」で理学博士の学位を取得。同年、大阪工業大学教授に就任。1965年同大学中央研究所所属となる。
川端 要壽(かわばた ようじゅ、1924年6月10日 - 2… 川端 要壽(かわばた ようじゅ、1924年6月10日 - 2013年3月14日)は、文芸・相撲評論家、小説家。 岐阜県出身。のち東京府南葛飾郡小岩町(現・東京都江戸川区)に移る。小岩町立下小岩尋常小学校(現・江戸川区立下小岩小学校)に入る。尋常小学校では後の横綱栃錦とは同級生だった。その後横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)を卒業する。数々の職業遍歴を経て、1969年から東京都板橋区の三和化学に勤務した。競馬を好む。
内藤 千百里(ないとう ちもり、1923年6月10日 - 2… 内藤 千百里(ないとう ちもり、1923年6月10日 - 2018年1月27日)は、日本の経営者。元関西電力(関電)代表取締役副社長。旧姓は竹内。 大阪府出身。天王寺中学校、旧制松江高等学校を経て、1947年、京都帝国大学経済学部卒業と同時に関電前身の関西配電に入社。1962年に芦原義重社長の秘書になり、政財界とのパイプ役を約30年間務めた。1970年に芦原は会長に退き、さらに相談役名誉会長に退いたが、その後も腹心であった内藤を用いて社内に強い影響力を持った。ところが、1986年に『朝日ジャーナル』誌で連載されていた「企業探検」で関電が取り上げられ、その一種恐怖支配とも取れるワンマンぶりが公となった(なお、この記事を執筆したのは当時龍谷大学教授だった奥村宏であった)。
伊藤 秀雄(いとう ひでお、1922年〈大正11年〉6月10… 伊藤 秀雄(いとう ひでお、1922年〈大正11年〉6月10日 - 2002年〈平成14年〉)は、日本の柔道家(講道館9段)、法務教官。旧姓大久保。 1922年、富山県富山市の富豪農家であった大久保家に生まれる。旧制神通中学校(現・県立富山中部高校)に入学すると、柔道か剣道が必須科目となっており、付き添いで来ていた父親が柔道の選択を即決したのが斯の道との出会いになった。身長173cm・体重72kgという大柄な体格に加え、2年生の時に寒稽古の納会試合で14人抜き達成したのが同校の柔道教師であった三鍋義三6段の目に付き、勧誘されて本格的に柔道を始めた。記録上の講道館入門は1938年10月4日付で、翌10月5日には初段を拝受。
鬼頭 恭一(きとう きょういち、1922年(大正11年) 6… 鬼頭 恭一(きとう きょういち、1922年(大正11年) 6月10日 - 1945年(昭和20年) 7月29日)は日本の作曲家。東京音楽学校本科在学中に学徒出陣、終戦17日前に霞ヶ浦航空隊で飛行訓練中に事故死した。戦後70年にあたる2015年、戦死した遺骨が故郷の愛する人の元に帰る情景を描いた歌曲「雨」が初演された。 大正11年(1922年)6月10日、名古屋中心地で酒問屋を営む父・儀一、母・成子の四人兄妹の長男として生まれる。実家近くにあったキリスト教系の幼稚園で賛美歌を耳にした事が、恭一の音楽の原点であった。幼少期の恭一について2歳年下の弟・哲夫は次のように証言している。 兄は幼い頃から「珍しいもの、新しいもの」を好み、やりたいことや欲しいものはとことん追求しなければ気が済まない「やんちゃくちゃ」(当時の名古屋弁) な腕白小僧で、しょっちゅう両親を困らせていました。
森 進一(もり しんいち、1922年6月10日 - 2005… 森 進一(もり しんいち、1922年6月10日 - 2005年10月11日)は、日本の古代ギリシア哲学研究者、小説家、関西医科大学名誉教授。 京都府京都市出身。京都帝国大学文学部で古代ギリシア哲学を専攻し、田中美知太郎の指導を受け、京大大学院古代哲学専攻博士課程中退。京都大学非常勤講師を経て、64年関西医科大学教養部助教授、65年教授、91年定年、名誉教授。 また森泰三の名で文学作品も発表、1963年「砧」で芥川賞候補、1972年「冬へ」、1976年「結婚」で3度候補にあがった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
亀山 龍樹(かめやまたつき、1922年6月10日 - 198… 亀山 龍樹(かめやまたつき、1922年6月10日 - 1980年3月23日)は、日本の翻訳家、作家。 佐賀県生まれ。東京帝国大学文学部インド哲学科卒業。第二次世界大戦に学徒兵として出征。 戦後は白木茂の下訳をし、小谷剛の同人誌『作家』に拠って小説を書いていた。 日本児童文芸家協会理事、少年文芸作家クラブ会長を務める。表記には亀山竜樹もある。息子に、写真家の亀山哲郎がいる。 翻訳家としては英文和訳を専門とした。英語以外の作品は、恐らく他人の翻訳をリライトしたものだが、これは児童文学の世界ではよくあることである。 最初に刊行された訳書はエラリー・クイーン『金色のわしの秘密』である。以後も英米のジュブナイルの翻訳、一般向けのSF・ミステリ・冒険小説を児童向けに抄訳することを主たる仕事とした。
長谷川 不二雄(はせがわ ふじお、1922年6月10日 - … 長谷川 不二雄(はせがわ ふじお、1922年6月10日 - 2016年1月22日)は、日本の経営者。日本製粉社長、会長を務めた。 北海道出身。1944年に早稲田大学法学部を卒業し、1946年6月に日本製粉入社。 1978年6月に取締役に就任し、1982年6月に常務、1984年6月に専務を経て、1989年6月には社長に就任。1993年6月に会長に就任し、1997年6月に相談役を経て、2000年6月には特別顧問に就任。 1998年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2016年1月22日老衰のために死去。93歳没。
宇佐美福生(うさみ ふくお、1921年(大正10年)6月10… 宇佐美福生(うさみ ふくお、1921年(大正10年)6月10日-1984年(昭和59年)6月2日)は、日本の政治家・俳人・市民運動家。北海道紋別郡生田原町出身。旧制北海道野付牛中学校(現、北海道北見北斗高等学校)を経て、早稲田大学政経学部卒業。北海道北見市長(1967年-1975年、2期)。 早稲田大学卒業後、市の職員として北見市立東陵中学校などの中学校教諭に就く。教師時代から、市民運動・住民運動に力を入れ、1956年(昭和31年)に北海道教職員組合北見市支部執行委員長に就き、その後、全北海道労働組合協議会副議長を歴任。1967年(昭和42年)北見市長選挙に出馬し現職の滝野啓次郎を破って革新系首長として初当選する。
泉田 喜義(いずみだ きよし、1920年(大正9年)6月10… 泉田 喜義(いずみだ きよし、1920年(大正9年)6月10日 - 没年不明)は、長崎県出身のプロ野球選手。 鎮西学院中学校から1940年に東京巨人軍へ入団。「チョコ投げの泉田」と呼ばれ、落ち着きのない投球フォームに定評があった。1942年に応召される。戦後は川南造船に在籍した。2003年に出版された澤宮優の『巨人軍史上最強の捕手』において、取材協力者の1人として名を連ねている。
日高 八郎(ひたか はちろう、1920年6月10日 - 19… 日高 八郎(ひたか はちろう、1920年6月10日 - 1997年1月10日)は、日本の英文学者。社会学者の日高六郎の弟。 中国・青島生まれ。父(1875-1951)は長崎県壱岐島出身、東京外国語専門学校支那語科を出て北京大使館に勤めたあと商店を開いていた。少年時代は『暁』という家庭内新聞を発行した。1945年東京帝国大学英文科卒。指導教授は中野好夫。旧制府立高校教授を皮切りに旧・東京都立大学講師を経て1952年東京大学教養学部助教授、のち教授。1981年定年退官後、東京大学名誉教授、東海大学教授。1996年春、勲三等旭日中綬章受勲。 専門はシェイクスピア及び現代英文学。現代英文学の研究対象はチャールズ・ディケンズ、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、D・H・ロレンス、T・S・エリオット、サマセット・モーム、オルダス・ハクスリー、ジョゼフ・コンラッド、キャサリン・マンスフィールド等多岐に渡る。
菊池 渙治(きくち かんじ、1919年(大正8年)6月10日… 菊池 渙治(きくち かんじ、1919年(大正8年)6月10日 - 2003年(平成15年)6月16日)は、昭和時代後期から平成時代の政治家。青森県むつ市長。 青森県下北郡田名部町(現:むつ市)に生まれる。早稲田大学付属第二高等学院を経て、1943年(昭和18年)同大文学部を卒業する。一時東京府の私立佐藤高等女学校教諭を務めた後に帰郷し、田名部農業協同組合長・田名部町議会議員に。むつ市設置でむつ市議会議員になり、初代の市議会議長になると共に紅服装専門学校の設置者などを務める。 1967年(昭和42年)に青森県議会議員に転じ、2期目途中の1973年(昭和48年)に原子力船「むつ」の受け入れ阻止グループから請われる立場でむつ市長選に出馬。
内田 善利(うちだ ぜんり、1919年(大正8年)6月10日… 内田 善利(うちだ ぜんり、1919年(大正8年)6月10日 - 2005年(平成17年)3月24日)は、日本の政治家。公明党参議院議員(2期)。 鹿児島県日置郡東市来村養母(現日置市)出身。鹿児島県立川内中学校 (旧制)を経て、1941年明治専門学校応用化学科卒。日本窒素肥料に入社するが、直後に召集。1946年の復員後、旧制鹿児島県立伊集院中学校・新制鹿児島県立伊集院高等学校や福岡県立折尾高等学校で教職に就く。1968年の第8回参議院議員通常選挙において公明党公認で全国区から立候補して当選する。6年後の第10回参議院議員通常選挙においても再選。参議院議員を2期務めた。この間、参議院運輸委員長などを歴任した。
他阿 真円(たあ しんえん、本名:加藤 円住(かとう えんじ… 他阿 真円(たあ しんえん、本名:加藤 円住(かとう えんじゅう)、1919年〈大正8年〉6月10日 - 2021年12月9日)は、日本の僧、政治家。時宗の74世法主(遊行上人)、藤沢清浄光寺57世住職(藤沢上人)。岡崎市議会議員を通算4期、市議会議長を1期歴任した。 愛知県碧海郡矢作町(現・岡崎市矢作町馬場4番地)の誓願寺に生まれる。1932年(昭和7年)、出家得度。1941年(昭和16年)、大正大学専門部を卒業し、龍谷大学に編入。 軍部に徴集され東南アジアに派遣される。マラリアに感染し入院。1943年(昭和18年)、誓願寺住職に就任するも、再び徴集され、東南アジアに派遣される。陸軍少尉として輜重を担う。
西野 一夫(にしの かずお、1918年6月10日 - 200… 西野 一夫(にしの かずお、1918年6月10日 - 2005年2月24日)は、元・東宝代表取締役副社長、芸苑社、東宝映像美術初代代表取締役社長。岡山県生まれの熊本県熊本市育ち。東京都港区南青山在住。 1936年4月から東京芦田工業所勤務。1938年に中央大学専門部経済学科中退と同時に東宝に入社。1948年11月、撮影所製作会計課長、1955年9月20日、撮影所製作部長、1960年7月、東京映画出向、撮影所支配人。 1969年3月25日に東宝撮影所支配人・東宝取締役に昇進し、1970年3月31日には馬渕威雄副社長の命で東宝美術代表取締役社長となる。その後、1974年8月22日に東宝常務取締役、1977年5月25日に東宝専務取締役を経て、1987年10月に亡くなった佐藤一郎に代わって芸苑社代表取締役社長となり、1988年には東宝映像、東宝美術が合併し東宝映像美術初代代表取締役社長となる。
鶴見 和子(つるみ かずこ、1918年(大正7年)6月10日… 鶴見 和子(つるみ かずこ、1918年(大正7年)6月10日 - 2006年(平成18年)7月31日)は、日本の社会学者、環境思想家。上智大学名誉教授。国際関係論などを講じたが、専攻は比較社会学。南方熊楠や柳田國男の研究などでも知られる。 1918年6月10日、東京府麻布区で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの1番目(長女)として生まれる。 牛込成城小学校から1927年4月に砧の成城学園に移り、1929年4月に女子学習院5年へ転校。1934年頃から、父と親交のあった河合栄治郎の「国家権力に対する言論闘争」に共感、影響を受ける。1936年3月、女子学習院を卒業し、同年4月、津田英学塾へ進学。
小口 禎三(おぐち ていぞう、1917年6月10日 - 20… 小口 禎三(おぐち ていぞう、1917年6月10日 - 2006年11月11日)は、日本の映画プロデューサー。岩波映画製作所創業者の1人で、初代代表取締役社長を務めた。 長野県岡谷市出身。長野県諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東京写真専門学校(現在の東京工芸大学)を卒業した。1938年、東宝映画(現在の東宝)に入社した。その後日本映画社を経て、1949年に中谷宇吉郎、吉野馨治、小林勇、羽仁進らとともに中谷研究室プロダクション(のちの岩波映画製作所)を設立した。同社は設立当初から社長ポストが空席であったが、1968年に岩波映画製作所代表取締役社長に就任し、その後会長、相談役を歴任した。
金堀 一男(かなほり かずお、1917年6月10日 - 没年… 金堀 一男(かなほり かずお、1917年6月10日 - 没年不詳)は、日本の警察官僚。 金堀卯太郎の三男として福岡市に生まれる。1935年福岡県中学修猷館、1937年3月旧制福岡高等学校文科乙類を経て、1941年3月東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 東大在学中の1940年に高等試験行政科に合格し、卒業後、内務省に入省したが、2週間足らずで海軍に入隊し、海軍経理学校を出て、重巡洋艦妙高に乗り込み戦地へ赴き、その後海軍陸戦隊庶務主任、病院船主計長から、山本五十六元帥の麾下に入り、トラック島、ラバウル、ウェーク島、サイパン島と転戦、終戦時は少佐まで累進している。 戦後、内務省に復職し、栃木県岩手県の各県本省調査局、総理庁官房勤務の後、1948年3月国家地方警察福岡県本部警備部長兼警備課長となり、佐賀県警察隊長、九州管区警察局公安部長、福島県警本部長、1960年7月鹿児島県警本部長、1963年2月警察庁警備局参事官、1965年3月静岡県警本部長を経て、1966年2月兵庫県警本部長に就任。
堀 葦男(ほり あしお、1916年6月10日 - 1993年… 堀 葦男(ほり あしお、1916年6月10日 - 1993年4月21日)は、俳人。 東京都生まれ。東京大学経済学部卒。大阪商船勤務、のち社団法人日本綿花協会専務理事。俳句は岡本圭岳、伊藤消雪、下村槐太に師事。1953年、同じ槐太門の林田紀音夫らとともに「十七音」を創刊。関西の前衛俳句運動の推進者として金子兜太と並び称された。兜太の「海程」創刊に参加、同人会長を務める。俳誌では「火星」顧問も務めた。1962年、第10回現代俳句協会賞受賞。句集に『火づくり』『機械』『山姿水情』『朝空』『過客』など、評論集に『俳句二十章』がある。現代俳句協会全国幹事、同関西地区会議副議長、大阪俳人クラブ副会長、読売俳壇選者などを歴任。
黒澤 俊夫(くろさわ としお、1914年6月10日 - 19… 黒澤 俊夫(くろさわ としお、1914年6月10日 - 1947年6月23日)は、大阪府出身のプロ野球選手(外野手)。
早坂 寿雄(はやさか としお、1914年(大正3年)6月10… 早坂 寿雄(はやさか としお、1914年(大正3年)6月10日 - 2004年(平成16年)3月9日)は、日本の電気音響学者。 1914年6月10日生まれ。1937年3月、東北帝国大学工学部電気工学科卒業。同年4月、同学部助手。1941年3月、逓信省電気試験所技師。1945年7月、工学博士。1952年11月、日本電信電話公社電気通信研究所音響研究課長。1959年2月、同電気通信研究所次長。1963年4月、同理事・所長。1967年5月、沖電気工業常務取締役。1970年5月、同専務取締役。1984年11月、勲三等瑞宝章受章。 1956年5月から1958年5月まで、日本音響学会会長。
朝比奈 正二郎(あさひな しょうじろう、1913年6月10日… 朝比奈 正二郎(あさひな しょうじろう、1913年6月10日 - 2010年11月28日)は、日本の生物学者(昆虫学)。トンボやムカシトンボ、ゴキブリなどの分類、生態の研究で知られ、日本蜻蛉学会の設立にも中心的に関わった。国際トンボ学会会長、日本昆虫学会会長、日本衛生動物学会会長、日本動物分類学会会長を歴任。薬学者で南極探検家の朝比奈菊雄は弟。 1913年、東京都文京区千駄木に生まれる。父は薬学者であり、また地衣類の分類学者でもあった朝比奈泰彦。父から昆虫採集の手ほどきを受けて、6歳頃からチョウなどの採集を始め、父の知り合いであった昆虫学者の三宅恒方にも接している。 東京府立六中(現:新宿高校)、成城高校を経て、1935年に東京帝国大学理学部動物学科(現:東京大学理学部)に進学。
岡本 良雄(おかもと よしお、1913年6月10日 - 19… 岡本 良雄(おかもと よしお、1913年6月10日 - 1963年2月6日)は、日本の児童文学作家。 「あすもおかしいか」「生きているレントゲン」「三人の0点くん」などの作品がある。 大阪府大阪市北区(現:此花区)で生まれる。1931年に上京、第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学文学部国文学科を卒業。大学在学中から早大童話会に入会し、口演童話や創作活動を行った。また卒業論文の題は「童話作家小川未明論」であった。 卒業後の1938年に大阪府に戻り、下畑卓や花岡大学らと同人「新児童文学集団」を結成。機関紙『新児童文学』に童話などを発表した。また、そこで発表した「八号館」が第1回日本新人童話賞を受賞、授賞式後すぐに上京、豊島区に下宿した。
林 百郎(はやし ひゃくろう、1912年6月10日 - 19… 林 百郎(はやし ひゃくろう、1912年6月10日 - 1992年6月1日)は、日本の政治家、弁護士。日本共産党衆議院議員。日本共産党議員所属初の「永年在職議員表彰」
青木 幸造(あおき こうぞう、1910年6月10日 - 没年… 青木 幸造(あおき こうぞう、1910年6月10日 - 没年不明)は、神奈川県出身の元プロ野球選手(外野手)。
瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年(明治40年)6… 瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年(明治40年)6月10日 - 2001年(平成13年)10月5日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。 1946年 - 1949年、米軍機関紙「うるま新報」(後の琉球新報)社長を務めた。復帰前に、那覇市長(1期)、立法院議員(3期)、沖縄人民党委員長、国政参加選挙で衆議院議員1期。本土復帰後、衆議院議員としては人民党で1期、日本共産党として連続5期。1973年以降共産党幹部会副委員長をつとめた。 太平洋戦争後のアメリカ合衆国による沖縄統治(施政権下)において、沖縄人民党を組織し、米国による統治に対する抵抗運動を行った。返還前の沖縄において立法院議員や那覇市長を歴任、国政参加選挙において衆議院議員に当選した。
阿部 襄(あべ のぼる、1907年6月10日 - 1980年… 阿部 襄(あべ のぼる、1907年6月10日 - 1980年4月22日)は、山形県出身の動物学者・生態学者。山形大学名誉教授。理学博士。 1907年、山形県飽海郡松山町生まれ。阿部富太郎とゆきの長男である阿部一郎の長男。叔父(父の弟)に、哲学者・美学者の阿部次郎、陸軍軍人・実業家の堀三也、動物学者の阿部余四男、日本史学者の竹岡勝也らがいる。 旧制山形高等学校を経て、1931年に東北帝国大学理学部生物学科卒業。1941年に「潮間帯ならびに浅海にすむ数種の無脊椎動物に関する生態学的研究」で東北帝国大学より理学博士の学位を授与。師道大学教授、山形県立農林専門学校教授、山形大学農学部教授を歴任。 戦前、日本学術振興会研究員として「パラオ熱帯生物研究所」に派遣されてサンゴなどの研究を行なった生物学者・生態学者であり、戦時中は満州産ドブガイなどの研究を行ない(阿部襄 1943)、終戦を吉林市で迎え(阿部襄 1970)、のちに山形大学農学部応用動物学研究室教授、山形大学名誉教授となった。
志田 延義(しだ のぶよし / えんぎ、1906年6月10日… 志田 延義(しだ のぶよし / えんぎ、1906年6月10日 - 2003年8月3日)は、日本の国文学者。専門は日本古代歌謡。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1957年)。鶴見大学名誉教授、山梨大学名誉教授。勲三等旭日中綬章受章。 富山県富山市出身。志田義秀の次男。富山中学校、甲南高等学校を経て、1930年東京帝国大学国文科卒。学問で久松潜一、短歌で佐佐木信綱に師事する。 神奈川県立の中学校教諭の後、1932年国民精神文化研究所助手、1937年同研究員として『国体の本義』研究、二度の中国への出張などの戦争協力を行う。戦後、公職追放。1952年から日本大学などで講師、1953年鶴見女子短期大学教授、1955年山梨大学教授、1957年歌謡研究で東京大学より文学博士の学位を取得、1966-1969年学芸学部長・教育学部長、1966-1981年国語審議会委員、1972年山梨大定年退官、名誉教授、鶴見女子大学文学部長、1977年辞職、鶴見大学名誉教授、勲三等旭日中綬章受章。
有泉 亨(ありいずみ とおる、1906年〈明治39年〉6月1… 有泉 亨(ありいずみ とおる、1906年〈明治39年〉6月10日 - 1999年〈平成11年〉12月20日)は、日本の法学者。専門は労働法。学位は法学博士(東京大学・論文博士・1962年)。東京大学名誉教授。弁護士。我妻栄門下。位階は正四位。 山梨県中巨摩郡白根町(現在・南アルプス市)出身。1928年、第一高等学校 (旧制)卒業。1932年、東京帝国大学法学部法律学科卒業。 1933年、同大学法学部助手。1940年、京城帝国大学法文学部助教授、1944年同法文学部教授、1946年本土に引揚げ後、法政大学法学部教授。1947年、東京大学社会科学研究所助教授。1948年、教授。1955年、所長。1962年、東京大学より法学博士の学位を受く。
小山 長規(こやま おさのり、1905年〈明治38年〉6月1… 小山 長規(こやま おさのり、1905年〈明治38年〉6月10日 - 1988年〈昭和63年〉1月31日)。は、日本の政治家。衆議院議員(12期)、建設大臣(第23-24代)、国務大臣環境庁長官(第3代)を歴任。 宮崎県西諸県郡小林村(後の西諸県郡小林町、小林市)に、森長興(西諸県貯蓄銀行頭取、宮崎県会議員等歴任)の息子(資料により二男や四男)として生まれる。1919年に細野小学校を卒業。旧制の鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)を1923年に、第三高等学校を1926年に卒業。第三高等学校と東京帝国大学ではボート部に所属。1928年高等文官試験司法科に合格。村上朝一最高裁判所長官は、ともに高等文官試験の勉強をした学生時代の親友。
金 東準(キム・ドンジュン、朝鮮語: 김동준、1905年6月… 金 東準(キム・ドンジュン、朝鮮語: 김동준、1905年6月10日 - 1969年以前)は、満洲国の公務員、大韓民国の実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 忠清南道瑞山郡出身。泰安公立普通学校(現・泰安初等学校(朝鮮語版))、普成高等普通学校(現・普成高等学校(朝鮮語版))、法政大学法文学部卒。日本弁理士試験・満州高等文官試験合格。満洲国間島省各県の官吏、大韓民報社社長などを務めた。1948年の初代総選挙で当選したが、1950年の第2代総選挙で落選した後は農業に従事した。1968年の『国会20年』によると、この本の出版時点ではすでに死去したとされる。
城 昌幸(じょう まさゆき、1904年6月10日 - 197… 城 昌幸(じょう まさゆき、1904年6月10日 - 1976年11月27日)は、日本の小説家、推理作家、詩人、編集者。本名は稲並 昌幸。 東京市神田練塀町生まれ。京華中学校4年次退学。城左門名義で詩作している。時代小説『若さま侍』シリーズは有名で、時代劇映画・ドラマ化された。江戸川乱歩は、城を「彼は人生の怪奇を宝石のやうに拾ひ歩く詩人である」と評している。またショートショートの先駆者と称される。日夏耿之介の門下。 横溝正史が創作した名探偵・金田一耕助のモデルとなった一人でもある。 1977年に東京都大田区の区立馬込図書館に旧蔵書4,750冊が寄贈され、翌1978年5月に「城昌幸記念文庫」が開設され、公開された。
栄 米治(さかえ よねじ、1904年6月10日 - 1976… 栄 米治(さかえ よねじ、1904年6月10日 - 1976年3月3日)は、北海道出身の建築家。 1904年に北海道広尾郡茂寄村(現・広尾町)で味噌製造を営む栄米蔵・ふゆ夫妻の四男として生まれ、広尾小学校を経て将来に期待を込め遊学させることとなり1916年に東京・浅草の松葉小学校に転校。 1922年に京華中学校卒業、1年浪人し1923年に東京美術学校に入学、1927年には小石川区の日本基督教団上富坂教会で結婚に向けてキリスト教の洗礼を受け、1928年に東京美術学校建築科を卒業。その後寄寓先の姪の加納春江と結婚。 東京美術学校卒業後は樺太庁に入庁し内務部土木科嘱託として建築技術者の道を歩み出す。1929年には技手に任官、大泊警察署を皮切りに10件の建築に携わる。
大山 茂樹(おおやま しげき、1903年(明治36年)6月1… 大山 茂樹(おおやま しげき、1903年(明治36年)6月10日 - 1995年(平成7年)4月5日)は、日本の政治家。岡山県倉敷市長。位階は従四位。 岡山県出身。大山俊吉の長男。1921年、倉敷商業学校(現・岡山県立倉敷商業高等学校)卒業。翌年、田村商会に就職、同社東京支店長代理などを経て、1948年に日本野草莚加工(株)を創立、1950年に岡山県輸出花莚野草莚協同組合を創立し、理事長となる。同年、岡山県議会議員に初当選。以後、5期連続務める。1964年、倉敷市長に初当選。1967年に倉敷市は児島市、玉島市と合併、新倉敷市の市長選挙に立候補し、当選した。市長は1979年まで務め、この間、全国市長会副会長などを務めた。
斎藤 達雄(さいとう たつお、1902年6月10日 - 19… 斎藤 達雄(さいとう たつお、1902年6月10日 - 1968年3月2日)は、日本の俳優、映画監督。 松竹蒲田撮影所に入り、独特の存在感を持つ飄々とした演技で、脇役や短篇喜劇映画の主役として多くの作品に出演した。初期の小津安二郎監督作品に欠かせない俳優でもあり、『肉体美』『会社員生活』『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』などの小津作品に主演した。戦後も貴重な脇役として活躍し、監督作も発表している。 1902年(明治35年)6月10日、東京府東京市深川区佐賀町(現在の東京都江東区佐賀)に生まれる。父は米の仲売人で日本橋区に店を構えていた。父は芝居道楽で、家業そっちのけに一座の勧進元になって巡業に出たりして財産を蕩尽し、5歳の時に佐賀町の家をたたんで神田明神近くへ引越しする始末だった。
松沢 令之助(まつざわ れいのすけ、1901年(明治34年)… 松沢 令之助(まつざわ れいのすけ、1901年(明治34年)6月10日 - 没年不明)は、昭和期の医師、政治家。長野県須坂市長。号は秋嶺。 長野県上高井郡高甫村(現須坂市)で、松沢新太郎、なわ の長男として生まれた。1916年(大正7年)3月、長野県上高井農学校(現長野県須坂園芸高等学校)を卒業。さらに、1941年(昭和16年)12月、哈爾濱医科大学(現ハルビン医科大学)開拓学院卒業、1952年(昭和27年)10月、東京医科大学専門部を卒業した。この間、1926年(大正15年)陸軍一等看護長となり、1942年(昭和17年)拓務省嘱託の医師として満州に派遣された。 1947年(昭和22年)上高井郡高甫村で医院を開業。
安藤 更生(あんどう こうせい、1900年(明治33年)6月… 安藤 更生(あんどう こうせい、1900年(明治33年)6月10日 - 1970年(昭和45年)10月26日)は、日本の美術史家。日本の仏寺、中国美術、鑑真、書道などを研究した。 東京出身。本名は正輝。早稲田中学を経て東京外国語学校(現東京外国語大学)を卒業。早稲田大学仏文学科へ進むも中退(1924年)。 会津八一に師事し、1923年、奈良美術研究会を創設(のち東洋美術研究会)。1929年に研究誌『東洋美術』を創刊。1938年、中華民国に渡り、新民印書館に勤務。安藤が編集した『北京案内記』は、北京に関する案内書としては、名著と言われ、評価が高い。1966年、多摩美術大学で教授を務めた。戦後は早稲田大学教授を務めた。
内田 守(うちだ まもる、1900年6月10日 - 1982… 内田 守(うちだ まもる、1900年6月10日 - 1982年1月17日)は、日本の医師。歌人としてのペンネームは内田 守人(もりと)と称する。九州療養所国立療養所菊池恵楓園、国立療養所長島愛生園、国立療養所松丘保養園で医師として働いた。ハンセン病研究家。ハンセン病療養所入所者に短歌の指導を行った。戦後は医院開業後、熊本短大で社会福祉を研究、講義した。ハンセン病資料を多数集め、熊本県立図書館に内田文庫として寄贈した。 熊本県菊池郡泗水村(現・菊池市)にて1900年(明治33年)6月10日父常平、母波津の3男として出生。県立中学済々黌(せいせいこう)を経て、旅順工科学堂を中途退学、1920年(大正9年)県立熊本医学専門学校(現熊本大学医学部)に入学。
今井 直重(いまい なおしげ/なおえ、1899年6月10日 … 今井 直重(いまい なおしげ/なおえ、1899年6月10日 - 1994年1月14日)は、日本の法学者、政治学者、哲学者。奈良教育大学名誉教授。学位は法学博士(京都大学)、文学博士(京都大学)。 奈良県出身。九州帝国大学文学部哲学科卒。京都帝国大学大学院文学研究科博士課程修了。 1964年「主権の憲法学的研究」で、法学博士(京都大学)の学位を取得。1968年「プラトンの国家論の研究」で、京都大学文学博士(京都大学)の学位を取得。 奈良学芸大学教授、奈良教育大学教授。1962年定年退官、名誉教授、大阪経済法科大学教授。1984年退職。
橋爪 清人(はしづめ きよと、1899年(明治32年)6月1… 橋爪 清人(はしづめ きよと、1899年(明治32年)6月10日 - 1966年(昭和41年)4月11日)は、日本の内務・警察官僚。最後の官選鹿児島県知事。 福岡県出身。第三高等学校を卒業。1924年、東京帝国大学法学部を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し、1926年、栃木県属となる。 1928年、群馬県警察部保安課長に就任。以後、静岡県警察部警務課長、長野県警察部工場課長、静岡県警察部特別高等課長、福岡県警察部特別高等課長、台湾総督府警務局保安課長、奈良県書記官・警察部長、茨城県書記官・警察部長、新潟県書記官・学務部長、高知県内政部長、熊本県内政部長、長野県内政部長などを歴任。
守屋 富次郎(もりや とみじろう、1898年6月10日 - … 守屋 富次郎(もりや とみじろう、1898年6月10日 - 1974年3月2日)は、日本の航空技術者。東京帝国大学、名古屋帝国大学、旅順工科大学教授、防衛庁技術研究所本部長、日本航空学会(現・日本航空宇宙学会)会長などを務めた。東京大学名誉教授。航空機の翼理論の権威。 岐阜県本巣郡真桑村上真桑に生誕。静岡県立静岡中学校に学ぶ。中学時代は野球部に所属。旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学に入学。新設された同大工学部航空学科の第1期生。1923年3月、卒業論文「Die Tragflügeltheorie.」(翼理論)を提出して卒業。東京帝国大学の講師、助教授を経て、1934年、教授。1938年、万国応用力学会議に日本代表として参加、ヨーロッパの航空事情の調査・研究を行った。
松隈 秀雄(まつくま ひでお、1896年(明治29年)6月1… 松隈 秀雄(まつくま ひでお、1896年(明治29年)6月10日 - 1989年9月30日)は、日本の大蔵官僚。大蔵次官、日本専売公社総裁。 神奈川県出身。旧制第一高等学校を経て、1921年(大正10年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科に合格。 1921年5月、大蔵省入省し、参事官付。主税局国税課長、大臣官房文書課長などを歴任。1940年(昭和15年)5月25日、銀行局長。同年12月14日、主税局長。1944年(昭和19年)に谷口恒二(のちに日本銀行副総裁、東京大空襲で戦災死)のあとを受けて大蔵次官に就任。1945年2月、田中豊に大蔵次官の座を譲って勇退した。
佐々木 孝三郎(ささき こうざぶろう、1896年6月10日 … 佐々木 孝三郎(ささき こうざぶろう、1896年6月10日 - 1969年9月29日)は、日本の経営者。 宮城県出身。1917年に東京外語学校蒙古語科を卒業。南満洲製糖、満蒙毛織を経て、奉天新聞社副社長、奉天銀行取締役、奉天商工会議所評議員を歴任。1951年に宮城第一信用組合組合長に就任し、1957年4月から1962年2月までに東北放送社長を務めた。 1969年9月29日食道がんのために死去。73歳没。
黒岩 重治(くろいわ しげはる、1896年(明治29年)6月… 黒岩 重治(くろいわ しげはる、1896年(明治29年)6月10日 - 1986年(昭和61年)4月24日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 高知県香美郡東川村別役(香我美町を経て現香南市)で、黒岩兼太郎、加根の二男として生れた。1916年(大正5年)高知師範学校男子本科を卒業した。 安芸郡安田、香美郡岡ノ内、富家、片地、高知市第五の各尋常小学校訓導、川内、神谷、美良布の各尋常小学校長兼同高等小学校長、城山尋常小学校兼実業青年学校長、高知県視学、高知市立第二国民学校長、城北国民学校長などを歴任し、1947年(昭和22年)に退職した。 高知県教員組合連合委員長を務め、同組織の推薦を受けて、1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に高知県全県区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
土田 耕平(つちだ こうへい、1895年(明治28年)6月1… 土田 耕平(つちだ こうへい、1895年(明治28年)6月10日 - 1940年(昭和15年)8月12日)は、日本の歌人、童話作家。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)に生まれる。18歳で両親を失う。1911年旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を中退、同郡玉川村立玉川小学校の代用教員となる。ここで島木赤彦に師事し『アララギ』に投稿、編集に携わる。1913年に上京し、1915年旧制東京中学校(現・東京高等学校)卒。1921年まで伊豆大島で病気療養、のち上諏訪へ帰り、長野県内各地を頻繁に転居。1924年信濃毎日新聞の歌壇撰者となる。 後半生の大半を不眠症の療養、短歌、童話の創作に費やした。1940年下伊那郡鼎町で心臓病で死去。