谷 正雄(たに まさお、1924年〈大正13年〉11月16日… 谷 正雄(たに まさお、1924年〈大正13年〉11月16日 - 1999年〈平成11年〉3月6日)は、日本の経営者。北陸電力社長を務めた。富山県魚津市出身。位階は従三位。 1946年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1947年に北陸配電(のちの北陸電力)に入社した。1974年に取締役に就任し、1979年に常務、1981年に副社長を経て、1987年に社長に就任。1993年に会長に就任。 北陸経済連合会会長、ケーブルテレビ富山社長も歴任。 1986年に藍綬褒章を受章し、1998年に勲一等瑞宝章を受章。 1999年3月6日急性肺炎のために死去。74歳没。死没日付をもって従三位に叙された。
渡辺 一郎(わたなべ いちろう、1924年11月16日 - … 渡辺 一郎(わたなべ いちろう、1924年11月16日 - 没年未詳)は、日本の歴史家。武術・武道史、体育史に関して多くの著作がある。筑波大学名誉教授。 1924年、愛知県に生まれる。1948年に東京文理科大学文学部国史学科国史学専攻卒業。東京教育大学文学部助手を経て同大学体育学部助教授、同体育史講座に属し、1968年4月、体育学部武道学科に武道論講座が新設されると、柔道論講座の大滝忠夫教授と共に移行して武道学科武道論講座を担当した。後に同大学教授、筑波大学教授、名誉教授。また、大学助手時代から収集していた武鑑を復刻して出版している。 近代武道史研究資料(渡辺一郎 編) 武道伝書聚英(渡辺一郎、中林信二 共編) 文化史、武芸、芸道論 徳川幕府大名旗本役職武鑑
衞藤 瀋吉(えとう しんきち、1923年(大正12年)11月… 衞藤 瀋吉(えとう しんきち、1923年(大正12年)11月16日 - 2007年(平成19年)12月12日)は、日本の国際政治学者。専門は、中国を中心とする東アジア政治史、国際関係論。東京大学名誉教授、亜細亜大学名誉教授。亜細亜大学学長、東洋英和女学院院長を歴任。 1923年、旧満州奉天(現・瀋陽)で生まれた。「エリート教育、特殊教育を実践したユニークな学校」として知られていた満洲教育専門学校附属奉天千代田小学校を卒業。1941年に奉天第一中学校、1943年に第一高等学校文科甲類を卒業。同年、東京帝国大学法学部政治学科に入学。 しかし、同1943年の学徒出陣により陸軍に入隊。広島市の大本営第2通信隊に所属した1945年8月、広島駅近くの松本商業(現・瀬戸内高校)内にあった建物内で被爆。
妹尾 親尚(せのお ちかひさ、1921年〈大正10年〉11月… 妹尾 親尚(せのお ちかひさ、1921年〈大正10年〉11月16日 - 2012年〈平成24年〉1月7日)は、日本の実業家。富士銀行専務取締役、オカモト社長。 福岡県に生まれる。1939年福岡県中学修猷館、1942年旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1944年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業し陸軍主計少尉となる。在学中の1943年12月には学徒出陣をしている。 1946年5月、安田銀行(1948年富士銀行と改称し現みずほ銀行)に入行。1970年5月取締役となり名古屋支店長、1973年4月取締役大阪支店長、同年5月常務取締役、1975年5月専務取締役となる。1978年6月、富士銀行を退任し、岡本理研ゴム(現・オカモト)取締役副社長、1979年6月同社取締役社長に就任する。
市原 季一(いちはら きいち、1921年11月16日 - 1… 市原 季一(いちはら きいち、1921年11月16日 - 1979年8月3日)は、日本の経営学者。神戸大学教授・日本経営学会理事長を歴任。主にドイツ経営学の歴史研究や、同時代の西ドイツにおける経営学研究の日本への紹介にあたった。 京都市に生まれ、京都市立第二商業学校、彦根高等商業学校を卒業し、神戸商業大学(現神戸大学)に進んだが、臨時徴集で舞鶴海兵団に入り、短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、1944年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進んで除隊し、家業に従う。 1948年に神戸経済大学助手となり、1951年に神戸大学経営学部講師、翌1952年に助教授、1961年に教授と昇進した。
吉松 義彦(よしまつ よしひこ、1920年11月16日 - … 吉松 義彦(よしまつ よしひこ、1920年11月16日 - 1988年7月5日)は、日本の柔道家(講道館9段)。元・鹿児島県柔道協会理事長。 世界選手権大会準優勝や全日本選手権大会で史上初となる3回優勝等の成績を残し、松本安市や醍醐敏郎、石川隆彦らと共に終戦直後の日本柔道界を代表する選手の1人であった。 鹿児島県鹿児島市生まれ、出身。1934年に旧制鹿児島商業学校(現・市立鹿児島商業高校)に入学し、林岩三(のち講道館9段)から同校柔道部および修道館道場にて指導を受けた。林は白帯時代から吉松の才を見抜き、著書『柔道に生きる』の中で「吉松の柔道は、守勢の時は青竹のようにしなやかで、相手が力のバランスを崩すとすぐにビシっと弾き返す、攻撃と守備の区切りがない理想の動き」と絶賛している。
石山 四郎(いしやま しろう、1919年11月16日 - 1… 石山 四郎(いしやま しろう、1919年11月16日 - 1992年5月3日)は、日本の経済評論家、実業家。元ダイヤモンド社社長。 東京・赤坂にて、石山賢吉の長男として生まれる。1943年早稲田大学卒。1948年早稲田大学大学院特別研究生修了。ダイヤモンド社入社。編集局長、副社長、社長を経て、1973年退社。1976年新しい経営者像の会(AKK)を設立。
佐藤 國吉(さとう くにきち、1917年11月16日 - 2… 佐藤 國吉(さとう くにきち、1917年11月16日 - 2002年6月18日)は海事実業家、元佐藤国汽船会長及び、元日本内航海運組合総連合会名誉会長。 兵庫県神戸市生まれ、1941年(昭和16年)12月慶応義塾大学経済学部卒業。佐藤國汽船に入社、1964年(昭和39年)公団共有船主協会副会長就任、1966年(昭和41年)日本船主協会理事及び、海運造船合理化審議会専問委員就任。1968年(昭和43年)全日本内航船主海運組合会長就任。1972年(昭和47年)船員中央労働委員会委員就任。1973年(昭和48年)神戸海運業組合長就任及び、日本押船土運船協会会長就任。1975年(昭和50年)日本近海船主協同組合理事長就任。
木下 是雄(きのした これお、1917年(大正6年)11月1… 木下 是雄(きのした これお、1917年(大正6年)11月16日 - 2014年(平成26年)5月12日)は、日本の物理学者。 薄膜や固体表面に関する研究を進めていく一方で、ロゲルギストの一員として、雑誌『自然』に科学に関するエッセイを多数発表した。また、日本語教育に関する著書も多数発表した。特に『理科系の作文技術』は、1981年の初版から40年以上経っても重版されるほどのベストセラーとなっている。 1917年、医学者で熊本医科大学教授を務めた木下益雄の長男として東京府で生まれる。産婦人科学者の木下正中(東京帝国大学教授)は祖父。 1941年、東京帝国大学理学部物理学科を卒業、同年4月名古屋帝国大学理工学部講師、1942年、同大学工学部講師。
丹下 保夫(たんげ やすお、1916年〈大正5年〉11月16… 丹下 保夫(たんげ やすお、1916年〈大正5年〉11月16日 - 1966年〈昭和41年〉11月12日)は、日本の体育学者。東京教育大学教授。 茨城県東茨城郡石塚村(石塚町、常北町を経て現城里町)出身。1946年(昭和21年)に東京文理科大学教育学科を卒業。水戸市五軒小学校の訓導、東京女子高等師範学校講師、東京高等師範学校助教授、東京教育大学体育学部助教授を経て、同大学の教授を務める。「運動文化の獲得、継承、発展が体育の本質である」とする理論を築き、1955年(昭和30年)に学校体育研究同志会を組織する。1966年(昭和41年)に49歳で死去。
小阪 三郎(こさか さぶろう、1915年11月16日 - 1… 小阪 三郎(こさか さぶろう、1915年11月16日 - 1992年12月5日)は、三重県出身のプロ野球選手(内野手)。
内山 正太郎(うちやま しょうたろう、1915年11月16日… 内山 正太郎(うちやま しょうたろう、1915年11月16日 - 2003年7月23日)は、日本の経営者。フジテックの創業者。大阪府出身。 1935年に関西大学専門部商科を卒業し、戦前戦中は東洋オーチス・エレベータに勤務。独立後、1949年2月に富士輸送機工業(のちのフジテック)を設立し、社長に就任。1992年6月に会長も兼任し、1998年4月には社長の座を大谷謙治に譲り、会長に専任。 2003年7月23日肝不全のために死去。87歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
森須滋郎(もりす じろう、1915年11月16日-1995年… 森須滋郎(もりす じろう、1915年11月16日-1995年11月25日)は、日本の食味評論家。 福島県生まれ。本名・八巻千秋。東京帝国大学文学部美学美術史科卒。 1975年より料理季刊誌『四季の味』の編集長をし、日本全国の名店・名物料理を紹介。旨いものを知らしめる味の批評家として有名であっただけでなく、自身も家庭では包丁を握って客をもてなす家庭料理の達人であった。娘に八巻元子(1944-『四季の味』編集長)。[要出典]
片野 饗一(かたの きょういち、1915年(大正4年)11月… 片野 饗一(かたの きょういち、1915年(大正4年)11月16日 - 2002年(平成14年)2月24日)は、日本の銀行家。北都銀行取締役相談役、秋田あけぼの銀行頭取を歴任した。 秋田県湯沢市出身。東京商科大学(現一橋大学)卒業後、三菱商事入社。 1949年(昭和24年)には、父である片野重脩が設立を主導した秋田無尽に入社。その後、秋田相互銀行社長に就任した。 社長在任時は、1976年(昭和51年)の事務センターの開館、翌年にはオンラインシステムの稼動開始など事務のOA化を促進し体制の整備にあたった。また、1982年(昭和57年)には現在の北都ビルディングにあたる「新本店ビル」の竣功にこぎ着けた。
郷倉 和子(ごうくら かずこ、1914年11月16日 - 2… 郷倉 和子(ごうくら かずこ、1914年11月16日 - 2016年4月12日)は、日本の画家、日本芸術院会員。 日本画家郷倉千靭(ごうくら せんじん)の長女として東京に生まれる。1935年女子美術専門学校日本画科卒業、1937年安田靫彦に師事、院展に出品を続け、1957年日本美術院賞、1960年院展同人、1970年院展文部大臣賞、1984年院展内閣総理大臣賞、1989年日本芸術院賞・恩賜賞受賞、1992年勲四等宝冠章、1997年日本芸術院会員、2002年文化功労者。花鳥画が多い。 2013年11月、99歳(白寿)の誕生日を祝って企画された「白寿記念 郷倉和子展 心の調べ」が富山県立近代美術館で開催された。
野口 三千三(のぐち みちぞう、1914年〈大正3年〉11月… 野口 三千三(のぐち みちぞう、1914年〈大正3年〉11月16日 - 1998年〈平成10年〉3月29日)は、野口体操の創始者。東京芸術大学名誉教授。群馬県北群馬郡駒寄村(現・吉岡町)出身。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJ:スポーツ人物伝)。
山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年(大正2年)11月… 山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年(大正2年)11月16日 - 1947年(昭和22年)10月11日)とは、日本の裁判官。佐賀県杵島郡白石町出身。太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、闇市の闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを口にし、栄養失調で亡くなったことで知られる。 1913年(大正2年)、佐賀県杵島郡福治村(現在の白石町)に、小学校教師の長男として生まれる(→白石町ホームページ)。鹿島中学校(旧制)・佐賀高等学校(旧制)・京都帝国大学法学部を卒業。大学院に進み宮本英脩・佐伯千仭に師事、高等文官試験司法科試験に合格、判事となる。1942年(昭和17年)に東京民事地方裁判所に転任後、1946年(昭和21年)10月に東京区裁判所の経済事犯専任判事となる。
小牧 治(こまき おさむ、1913年11月16日 - 200… 小牧 治(こまき おさむ、1913年11月16日 - 2000年5月21日)は、日本の倫理学者。東京教育大学名誉教授。専門は西洋哲学、特にイマヌエル・カントの哲学や実存主義、カント倫理学の研究で知られる。 京都府生まれ。東京文理科大学哲学科卒。フランクフルト大学に留学。1961年、「社会と倫理 カント倫理思想の社会史的考察」で東京教育大学文学博士。東京教育大学教授。1977年、退任、名誉教授。 2000年5月21日、急性心不全のため死去。
近衛 八郎(このえ はちろう、1913年〈大正2年〉11月1… 近衛 八郎(このえ はちろう、1913年〈大正2年〉11月16日 - 1995年〈平成7年〉)は昭和期の歌手、作曲家。本名は、釜田 俊雄。妻は、戦前キングレコードで活躍したミッキー松山こと松山映子(1912年‐2006年)。 新潟県佐渡郡沢根町(佐和田町を経て現在の佐渡市)出身。佐渡中学校、武蔵野音楽学校卒業。1936年(昭和11年)キングレコードから「あの夢この夢」でデビュー。「ああ我が戦友」や「男なら (軍歌)」などがヒット。その後応召により出征する。 戦後は作曲に転向し、鎌多俊与の名で作曲家として活躍。1956年(昭和31年)、三橋美智也の「哀愁列車」が大ヒットとなった。その他、若原一郎「風の吹きよで」、春日八郎「玄海船乗り」、「居酒屋」、三橋美智也「俺ら炭鉱夫」などを作曲した。
矢嶋 三義(やじま みよし、1911年(明治44年)11月1… 矢嶋 三義(やじま みよし、1911年(明治44年)11月16日 - 1996年(平成8年)4月19日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。旧姓は安部。 大分県直入郡、現在の竹田市で安部家に生まれる。1933年(昭和8年)九州帝国大学附設教員養成所数学科を卒業した。 下野中学校教諭、栃木県立宇都宮中学校教諭、福岡県立八女中学校教諭、長崎県立長崎中学校教諭、熊本県立熊本中学校教諭、熊本県立熊本高等学校教諭などを務めた。 労働運動に加わり、熊本県教職員組合委員長、日本教職員組合九州地協委員長、熊本県学生協同組合理事長、同県教育会長などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に無所属で出馬して当選し、1956年(昭和31年)7月の第4回通常選挙で全国区に日本社会党公認で出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。
菊川 多賀(きくかわ たか、1910年11月16日 - 19… 菊川 多賀(きくかわ たか、1910年11月16日 - 1991年1月15日)は、北海道出身の日本画家。本名は孝子。日本画家の菊川三織子は姪。日本美術院同人。日本美術院評議員。勲四等瑞宝章受章者。 1910年に北海道で生まれる。豊水小学校卒業後北海高等女学校に進むが、一家の東京転居に伴い麹町高等女学校に転校、病気のため中退。父の友人であった日本美術院同人の清原斎に師事して絵を学んだ。戦後は堅山南風に師事。女性群像や歌舞伎・文楽などを題材とした作品を残した。日本美術院同人として、院展で院賞、文部大臣賞、総理大臣賞の各賞を受賞した。
牛場 信彦(うしば のぶひこ、1909年〈明治42年〉11月… 牛場 信彦(うしば のぶひこ、1909年〈明治42年〉11月16日 - 1984年〈昭和59年〉12月31日)は、日本の外交官。位階は従二位。 対外経済担当大臣(福田赳夫改造内閣)、在アメリカ合衆国日本国特命全権大使、外務事務次官、外務審議官、在カナダ日本国特命全権大使などを歴任した。世界和平連合会発足当時の理事。祖父は牛場卓蔵。兄に近衛文麿の秘書官を務めた牛場友彦がいる。弟は慶應義塾大学医学部教授で、国家公安委員会委員を務めた牛場大蔵。 1909年、兵庫県にて生まれる。東京府立一中、第一高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、外務省に入省。 入省後、第二次世界大戦敗戦まではドイツ畑を歩む。
栗山 良夫(くりやま よしお、1909年〈明治42年〉11月… 栗山 良夫(くりやま よしお、1909年〈明治42年〉11月16日 - 1988年〈昭和63年〉1月13日)は、日本の政治家、労働運動家。参議院議員(3期、日本社会党)。 岐阜県出身。1930年(昭和5年)浜松高等工業学校電気科卒業。東邦電力に入り、戦後、中部電力労働組合委員長、電産協議会議長に就任する(いずれも初代)。 1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙において愛知県地方区から日本社会党公認で立候補して初当選する(6位当選)。1950年(昭和25年)の第2回参議院議員通常選挙から全国区に転じ、2回当選した。この間、参議院電力問題に関する特別委員長、同労働委員長を歴任、社会党内では中央執行委員、党統制委員、愛知県連会長などを務めた。
まど・みちお(1909年〈明治42年〉11月16日 - 20… まど・みちお(1909年〈明治42年〉11月16日 - 2014年〈平成26年〉2月28日)は、日本の詩人。作詞家。本名は石田 道雄(いしだ みちお)。25歳のときに北原白秋にその才能を認められた。詩作りは20代から始め、以来生涯にわたって詩を作り続けた。創作意欲の源は、政治・行政・教育・経済・戦争などに対する不満である。「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などの、そのおおらかでユーモラスな作品は童謡としても親しまれている。表現の前に存在があるという意味で「存在の詩人」とも称された。 山口県都濃郡徳山町(のちの徳山市、現在の周南市)の生まれ。幼い頃に父が仕事の都合で台湾へ渡り、さらにまどが5歳の時に母がまどの兄と妹を連れて同地に移住したため4年ほどの間、祖父と2人での生活を送っている。
大川 一司(おおかわ かずし、1908年11月16日 - 1… 大川 一司(おおかわ かずし、1908年11月16日 - 1993年11月13日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。1950年日本農学賞受賞。従四位勲二等旭日重光章。文化功労者。 1908年、静岡県生まれ。1933年に東京帝国大学農学部を卒業。卒業後は、宇都宮高等農林学校教授、東京商科大学教授となった。 戦後の1949年、経済安定本部調査課長となる。1950年より一橋大学教授。1952年、学位論文『食糧経済の理論と計測 』を提出して農学博士号を取得。1958年、経済企画庁経済研究所(のち内閣府経済社会総合研究所)初代所長となる。1969年より一橋大学経済研究所所長。1972年に一橋大学を定年退職し、名誉教授となった。
久保 富夫(くぼ とみお、1908年11月16日 - 199… 久保 富夫(くぼ とみお、1908年11月16日 - 1990年3月22日)は、日本の技術者、経営者。 三菱重工業で飛行機の開発に携わり、大日本帝国陸軍の一〇〇式司令部偵察機では設計主務を勤めた。のちに自動車部門に転じ、三菱重工業から分社されて発足した三菱自動車工業で社長・会長・相談役を歴任した。 社長であった1973年から、三菱自動車工業は大韓民国の現代自動車へ技術供与を実施し、韓国の自動車産業の基礎を作った。 長崎県出身。1931年に東京帝国大学工学部航空学科を卒業し、三菱航空機(のちに三菱重工業となる)に就職、名古屋製作所勤務となる(堀越二郎の4年後輩に当たる)。 太平洋戦争後、日本では航空機の研究開発が連合国軍最高司令官総司令部によって、サンフランシスコ講和条約の発効まで禁じられた。
安藤 鶴夫(あんどう つるお、1908年〈明治41年〉11月… 安藤 鶴夫(あんどう つるお、1908年〈明治41年〉11月16日 - 1969年〈昭和44年〉9月9日)は、日本の小説家(直木賞受賞)、随筆家。落語、文楽、歌舞伎、新劇の評論家であり演芸プロデューサーでもあった。国際演劇協会理事。日本演劇協会常任理事。本名、花島鶴夫。「アンツル」の愛称で親しまれた。 東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区浅草橋)に、義太夫の8代目竹本都太夫の長男として生まれる。1934年(昭和9年)の法政大学文学部仏文科卒業の時に髪を切り、以後、死ぬまでイガグリ頭で通す。子供のころから親しんだ都新聞社へ途中入社したのは1939年(昭和14年)。都新聞は花柳界の広告を載せている文芸演芸の紙面に特色のある新聞で社長の福田英助の金言は「とかく人間は色と欲だ。
小川 太郎(おがわ たろう、1907年(明治40年)11月1… 小川 太郎(おがわ たろう、1907年(明治40年)11月16日 - 1974年(昭和49年)1月31日)は、日本の教育学者。 1907年、台湾生まれ。言語学者である父の小川尚義は、台湾総督府に勤務し、台湾語ならびに台湾原住民諸語について研究していた。東京帝国大学を卒業。卒業後は台北第一師範学校、愛媛師範学校に勤務した。 戦後、愛媛県教育研究所長。神戸大学教授となった。1971年に定年退官し、その後は日本福祉大学教授として教鞭をとった。大学外では、全国部落問題研究協議会長をつとめ、作文教育、同和教育に尽力した。1974年1月31日、肝臓がんのため神戸大学医学部附属病院で死去。66歳。
上島 治忠(うえしま はるただ、1906年11月16日 - … 上島 治忠(うえしま はるただ、1906年11月16日 - 1989年6月5日)は、日本の実業家。上島コーヒーグループの創業者。奈良県磯城郡田原本町出身。上島忠雄は弟。 1925年に畝傍中学校を卒業。翌年に上島商店(のちのウエシマコーヒーフーズ)を創業。1950年に社長に就任し、1970年に会長に就任した。 1989年6月5日急性腎不全のために神戸市の病院で死去。82歳没。
岩下 俊作(いわした しゅんさく、1906年11月16日 -… 岩下 俊作(いわした しゅんさく、1906年11月16日 - 1980年1月30日)は、日本の小説家。本名:八田秀吉。福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)生まれ。 旧福岡県立小倉工業学校(現福岡県立小倉工業高等学校)機械科卒業。1928年から1961年まで八幡製鉄所に勤務した。1938年、同郷の芥川賞作家・火野葦平や劉寒吉らと共に同人誌「九州文学(第二期)」に参加し、代表作となる『富島松五郎伝』(「九州文学」1939年10月号。「オール讀物」1940年6月号)で、1939年下半期・第10回直木賞候補、翌1940年上半期・第11回直木賞候補に挙げられるも受賞ならず。さらに、「辰次と由松」で同年下半期・第12回直木賞候補、「西域記」で1943年上半期・第17回直木賞候補となったが、いずれも受賞できなかった。
佐木 秋夫(さき あきお、1906年11月16日 - 198… 佐木 秋夫(さき あきお、1906年11月16日 - 1988年8月20日)は、日本の宗教学者。 左派の立場から宗教問題について研究した。 東京府東京市麹町区生まれ。1922年、旧制東京府立第四中学校を(1923年卒)4年修了。4年修了同期に末吉俊雄(元三井東圧化学社長)らがいる。旧制第一高等学校を経て、1930年に東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科を卒業。 巣鴨学園、英語塾高田女塾で英語を教えながら日本戦闘的無神論者同盟、唯物論研究会に拠って著作をなす。 軍国主義の圧迫を受け、1938年青江舜二郎らと教育紙芝居協会を設立。 戦後の極東国際軍事裁判で検事側にたって軍部の「紙芝居統制」を証言した。
根本 誠(ねもと まこと、1906年11月16日 - 197… 根本 誠(ねもと まこと、1906年11月16日 - 1976年1月2日)は、東洋史学者。中国法制史が専門だった。 東京生まれ。1933年早稲田大学文学部卒業。1934年安田商工業学校教員、1942年早稲田大学文学部講師、1946年助教授、1951年教授。その後、創価大学教授を務めた。 1976年1月2日、心不全のため東京都練馬区の小山病院にて死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小林 勝馬(こばやし かつま、1906年(明治39年)11月… 小林 勝馬(こばやし かつま、1906年(明治39年)11月16日 - 1987年(昭和62年)12月23日)は、日本の政治家、実業家、鍼灸師。参議院議員(1期)。 佐賀県佐賀郡鍋島村(現佐賀市)で小林鹿三郎の四男として生まれた。1927年 (昭和2年)鍼灸術営業免許所得[要出典]。熊本逓信講習所を卒業し、さらに1928年(昭和3年)無線電信講習所を卒業した。 1922年(大正11年)通信事務員となり、以後、警視庁技手、国際汽船事務長、無線電信技士、山王工業社長、日本光学兵器社長、自家用自動車組合理事、官立無線同窓会会長などを務めた。 1946年(昭和21年)東京都鍼灸按マッサージ師会理事長及び日本鍼灸按マッサージ師会副会長、全国鍼灸按マッサージ医法制定実行委員会書記長に就任[要出典]。
矢橋 六郎(やばし ろくろう、1905年11月16日 - 1… 矢橋 六郎(やばし ろくろう、1905年11月16日 - 1988年7月4日)は、日本の洋画家・実業家。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家・本家の出身。矢橋大理石商店代表取締役副社長。モザイクによる壁画、作品を制作。代表作にJR・名古屋駅新幹線口の「日月と東海の四季」。岐阜県・教育委員長をつとめ郷里の振興に寄与。 1905年11月16日、岐阜県不破郡美濃赤坂に生まれる。県立岐阜中学校を経て、1924年、川端画学校に通いはじめる。1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学し、1930年に同校を卒業。
伊藤 鈴三郎(いとう すずさぶろう、1905年(明治38年)… 伊藤 鈴三郎(いとう すずさぶろう、1905年(明治38年)11月16日 - 1986年(昭和61年)2月12日 )は、日本の実業家。松坂屋社長、日本百貨店協会会長を務めた。 15代目・伊藤次郎左衞門祐民の3男として愛知県名古屋市に生まれる。16代目・伊藤次郎左衞門祐茲は兄。 1929年に慶應義塾大学経済学部を経て、1933年にロンドン大学経済学部を卒業。同年9月に松坂屋監査役に就任し、1950年4月に取締役、1957年に副社長に昇進する。 1967年10月、16代目は65歳で社長を退き、会長に就任した。長男の洋太郎(伊藤次郎左衞門祐洋)はまだ35歳と若く、会社を任せるには時期尚早だったので、副社長の鈴三郎を社長に登用した。
豊口 克平(とよぐち かつへい、1905年(明治38年)11… 豊口 克平(とよぐち かつへい、1905年(明治38年)11月16日 - 1991年(平成3年)7月18日)は、日本のインダストリアルデイナーである。秋田県秋田市出身。 東京高等工芸学校(現在の千葉大学)卒業後、デザイナー活動を初める。当初は森谷延雄に師事していたが、後に急逝したため蔵田周忠に師事した。1928年(昭和3年)に蔵田と共に「形而工房」を結成する。1933年(昭和8年)には商工省(現在の経済産業省)工芸指導所に入省し、主に家具の制作計画や研究に携わった。 第二次世界大戦後は家具のみならず、航空機のインテリアデザインやカメラ、顕微鏡等の精密機械のデザインに携わり、数多く受賞した。特に豊口が開発した椅子は「スポークチェア」と呼ばれ、楕円形の椅子といった斬新な椅子であり、「トヨさんの椅子」と称された。
内田 憲民(うちだ けんみん、1905年11月16日 - 1… 内田 憲民(うちだ けんみん、1905年11月16日 - 1966年4月22日)は、日本の経営者。石川県金沢市出身。 1924年に市岡商業学校を卒業し、同年に内田洋行に入社。1938年6月には社長に就任。 1942年に藍綬褒章を受章。 1966年4月22日肝硬変のために死去。60歳没。
伊東 三郎(いとう さぶろう、1902年11月16日 - 1… 伊東 三郎(いとう さぶろう、1902年11月16日 - 1969年3月7日)は、日本のエスペランティスト、農民運動家。本名は宮崎巌。旧姓は磯崎。筆名はほかに伊井迂(イーウ)。 岡山市北区天瀬生まれ。大阪外国語学校(現大阪大学)中退。1925年エスペラント青年同盟を結成。1928年国際文化研究所の設立に参加。1930年日本共産党に入り農民運動を指導、全国農民組合(全農)戦闘化協議会の機関誌『農民闘争』の編集にあたる。1931年3月7日の全農第4回大会(大阪)で、運動方針の討議にあたって全農本部の杉山元治郎以外の大半が全国大衆党を支持するにあたって、特定政党の支持強制反対にあたり分裂する。本部反対派は、8月15日~16日の京都での会議(鞍馬会議)を開催し、全農全国会議(正式名称「労農政党支持強制反対全農全国会議」)派の創立および組織化を指導、1932年逮捕され豊多摩刑務所に入り、1936年保釈出獄、1940年に再検挙され巣鴨刑務所に入る。
鬼頭 白雨(きとう はくう、1901年(明治34年)11月1… 鬼頭 白雨(きとう はくう、1901年(明治34年)11月16日 - 1977年(昭和52年)10月4日) は、三重県津市出身の歌人。 その後に白駒の歌誌「ROVE」と合同し、「日輪」と改題して発刊したが当局の圧力を受け創刊即終巻となった。(伊勢平野 三重歌壇回顧録より) 「歌人稲森宗太郎」年譜によると、当時の一中(現 津高等学校)には伊賀出身の稲森宗太郎と同時代に鬼頭白雨も在学しており、中谷太郎、岩津資雄、城多又兵衛、後藤義之進らがおり、一級下には寺崎浩、中谷悌吉。また二級上には文学を志す中谷孝雄がいた。在学中には岩津資雄らと合同歌集「青白き薔薇」を発刊とあり、鬼頭白雨とも親交が深かったことが想像できる。
近藤 鶴代(こんどう つるよ、1901年(明治34年)11月… 近藤 鶴代(こんどう つるよ、1901年(明治34年)11月16日 - 1970年(昭和45年)8月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、参議院議員(2期)。日本初の女性国会議員となった39人のうちの一人であり、2人目の女性閣僚となった。 岡山県新見市に生まれる。1924年日本女子大学校家政科を卒業後、山陽高等女学校(現山陽学園高等学校)、岡山県第一岡山高等女学校(現岡山県立岡山操山高等学校)等で教諭を務める。家事や作法を教えていた。 戦後の1946年、日本進歩党衆議院議員の長兄小谷節夫が公職追放となり、兄の代わりとして、無所属で衆議院議員選挙に岡山全県区(当時)から立候補し当選、日本初の女性代議士の一人となった。
養老 静江(ようろう しずえ、1899年〈明治32年〉11月… 養老 静江(ようろう しずえ、1899年〈明治32年〉11月16日 - 1995年〈平成7年〉3月22日)は、日本の医師。次男は解剖学者で東京大学名誉教授の養老孟司。 神奈川県津久井郡(現在の相模原市)出身。 神奈川県立横浜第一高等女学校を経て、東京女子医学専門学校卒業。 1936年、鎌倉市で小児科を開業。94歳まで診療を続けた。 はじめに弁護士と結婚して二児をもうけるが、10歳年下の男性と恋愛をして、離婚、再婚をした。 1994年、荻野吟子賞を受賞。 1997年、田嶋陽子は養老静江にインタビューをした内容をもとに『女の大老境』という書籍を著す。 2020年、堀越英美によって著された『スゴ母列伝』に養老静江のことが取り上げられている。
友近 美晴(ともちか よしはる、1899年(明治32年)11… 友近 美晴(ともちか よしはる、1899年(明治32年)11月16日 - 1980年(昭和55年)3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛媛県出身。呉服卸商・友近彦次郎の三男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第4連隊付となる。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期)を卒業した。陸軍野戦砲兵学校付などを経て、1928年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し野戦重砲兵第4連隊中隊長に就任。
矢上 純雄(やがみ すみお、1898年(明治31年)11月1… 矢上 純雄(やがみ すみお、1898年(明治31年)11月16日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、昭和戦後の鹿児島県職員。 鹿児島県囎唹郡末吉村(現・曽於市)に生まれる。1918年(大正7年)8月、渡台し、台中郵便局雇、台湾総督府通信手、内務局勤務を経て、1937年(昭和12年)9月、地方理事官に進み、台北市助役に就任する。 1939年(昭和14年)4月、台中州豊原郡守に転じ、1940年(昭和15年)11月、台南州虎尾郡守に就任。1942年(昭和17年)8月、花蓮港庁総務課長を発令された。 終戦後は帰国し、1947年(昭和22年)から鹿児島県農地部農地課に勤務し、農地課長を経て、1949年(昭和24年)経済部水産課長に就く。
大倉 三郎(おおくら さぶろう、1897年〈明治30年〉11… 大倉 三郎(おおくら さぶろう、1897年〈明治30年〉11月16日 - 1982年〈昭和57年〉10月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 大阪府中河内郡布施町(現東大阪市)出身。旧制八尾中学中退。布施町議を務める。1935年(昭和10年)9月25日に大阪府会議員に当選して1939年(昭和14年)9月24日に退任した。そのほか布施市議となる。また、1937年(昭和12年)6月11日から1938年(昭和13年)8月1日までと、1939年(昭和14年)12月12日から1942年(昭和17年)6月15日まで初代及び第3代同市会議長を務めた。同年の第21回衆議院議員総選挙で大阪5区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。
津川 主一(つがわ しゅいち、1896年11月16日 - 1… 津川 主一(つがわ しゅいち、1896年11月16日 - 1971年5月3日)は、日本基督教団の牧師、教会音楽家。 1896年に愛知県名古屋市に生まれる。旧制名古屋中学校(現:名古屋中学校・高等学校)、関西学院神学部を卒業して、東京麻布美普教会の牧師に就任する。 牧師を辞めて、合唱運動に後半生をささげた。自由学園、恵泉女学園、青山学院神学部、東京YMCAなどの講師をつとめていた。東京オラトリオ、横浜オラトリオ、仙台オラトリオ、東京シンフォニック・コーラス、東京バッハ・ヘンデル協会などを創設して、指揮者を務めた。また、全日本合唱連盟の常任理事(1956年~66年)・名誉会員(1970年)、東京都合唱連盟の理事長(1956~57年)を務めた。
許斐 儀一郎(このみ ぎいちろう、1896年11月16日 -… 許斐 儀一郎(このみ ぎいちろう、1896年11月16日 - 1951年)は、日本戦前期の前衛写真家。 福岡市船町(現・中央区舞鶴)に生まれる。1915年福岡県立中学修猷館を経て、慶應義塾大学に学ぶが、結核療養のため中退し帰郷。療養中は古美術や絵画に親しむが、やがて写真にも興味を持つようになった。 快復後、実家の酒造業・許斐醸造所(のちの花関酒造)を手伝いながら撮影に没頭し、1934年頃に筑紫カメラクラブに入会。1939年には、高橋渡、久野久らと、前衛美術グループ「ソシエテ・イルフ」を結成し、写真雑誌などに作品を発表した。 身近のものを題材にとりながら、被写体の造形的な美を表現するのに優れ、戦前における前衛写真の代表的な作家として知られる。
坂 静雄(ばん しずお、1896年11月16日 - 1989… 坂 静雄(ばん しずお、1896年11月16日 - 1989年10月13日)は、日本の建築構造工学者、構造家。京都大学名誉教授。専門は鉄筋コンクリート工学。東京出身。 1921年東京帝国大学工科大学建築学科卒業。1922年4月京都帝国大学工学部助教授に就任。1928年工学博士。1933年教授に就任。1950年から神戸大学教授を兼任。1959年11月定年退官、名誉教授。 京大工学部の建築構造学講座を担当した。戦中や戦後すぐの時期には社寺建築や木造曲面屋根の研究報告を行っている。シェル構造の理論を広く国内に紹介した。また、建築分野で初めてプレストレストコンクリート技術の設計と施工の全領域を詳述した。
中西 悟堂(なかにし ごどう、1895年(明治28年)11月… 中西 悟堂(なかにし ごどう、1895年(明治28年)11月16日 - 1984年(昭和59年)12月11日)は、日本の野鳥研究家で歌人・詩人、天台宗僧侶。文化功労者。日本野鳥の会の創立者。本名は富嗣、悟堂は法名。他に筆名として赤吉(しゃくきち)。 「野の鳥は野に」を標語に自然環境の中で鳥を愛で、保護する運動を起こした。「野鳥」や「探鳥」は悟堂の造語。 1895年(明治28年)、石川県金沢市長町に生まれ、富嗣と命名される。祖父は加賀藩士。父親は海軍軍楽隊教官だったが、悟堂の生後まもなく病死し、母は長崎の実家に帰ったまま行方不明となり、父の兄で中西家十代の当主元治郎(悟玄)の養嗣子となる。3歳頃より四書五経を学び千字文を書写する。
阿以田 治修(あいだ じしゅう、1894年(明治27年)11… 阿以田 治修(あいだ じしゅう、1894年(明治27年)11月16日 - 1971年(昭和46年)2月15日)は、大正-昭和期の日本の洋画家。本名は会田 治修 。 東京府生まれ。私立郁文館卒。 自身のアトリエで洋画を描き始め、1914年(大正3年)太平洋洋画会研究所に入り、満谷国四郎に師事。1919年(大正8年)二科会に初入選を果たし、1922年(大正11年)からヨーロッパへ留学。フランスでロジェ・ビシエールに学んだほかイタリアやスペインにも渡った。 帰国後、1925年(大正14年)の第6回帝展に「読書するイボンヌ」を出品し、入選。さらに、1926年より第7回から9回までの帝展にて「髪」、「画房小閑」、「部屋つづき」が3年連続で特選に選ばれた。
長沼 直兄(ながぬま なおえ、1894年11月16日 - 1… 長沼 直兄(ながぬま なおえ、1894年11月16日 - 1973年2月9日)は、日本語教育者。 1894年11月16日、群馬県伊勢崎市近郊に長沼宗雄の三男として誕生。1915年6月、21歳の時に東京高等商業学校(一橋大学の前身)入学。隣人のアメリカ人の依頼で日本語教師の代行をしたことをきっかけに、「日本語教育」の道を歩んだ。ハロルド・E・パーマーとの出会いを機に、「英語教授研究所」に関わってパーマーを援け、その後、米国大使館で主任教官として米国陸海軍から送られたアメリカ人将校への日本語教育を担当した。日米開戦が近づき米国大使館の日本語教室は閉鎖され、文部省内に日本語教育振興会が設立されると、その理事としてアジア地域(大東亜)への日本語普及事業にも携わり、戦後は、財団法人言語文化研究所附属東京日本語学校を創立、生涯を日本語教育に尽力した。