戸上 城太郎(とがみ じょうたろう、1916年5月18日 -… 戸上 城太郎(とがみ じょうたろう、1916年5月18日 - 1980年7月24日)は、日本の俳優。 長崎県に生まれる。本名・田川正三。 猶興館中学4年修了。東宝京都撮影所俳優養成所で学び、1939年に今井正監督の『沼津兵学校』でデビュー。すぐに日活に移籍し、1941年に稲垣浩監督の『海を渡る祭礼』で初主演。その後所属先は日活から大映、松竹と変わる。 大柄な体躯と野太い声が特徴で殺陣の名手としても知られたが、台詞回しの癖のため主演スターとしては伸び悩んだ。中年期以降は主に時代劇の悪役・敵役として活躍した。 1960年には高田浩吉、近衛十四郎と共に時代劇量産体制にあった東映に移籍。東映時代『梟の城』(1963年)において大友柳太朗と敵対する忍者の頭目の役で、高所恐怖症のため空を飛ぶシーンの撮影(クレーンとワイヤーを用いた)の際に苦労したとのエピソードがある。
青葉 高(あおば たかし、1916年 <大正5年> 5月18… 青葉 高(あおば たかし、1916年 <大正5年> 5月18日 - 1999年 <平成11年> 1月31日)は、農学博士。専攻は蔬菜園芸学。在来作物研究の先駆者であり、「在来野菜は生きた文化財」ということを訴えていた。位階は正四位。 埼玉県浦和町(現さいたま市)生まれ。1937年千葉高等園芸学校卒業。1963年「タマネギの球形成および休眠に関する研究」で京都大学農学博士。山形大学農学部助手、講師、助教授、1964年教授、1976年千葉大学園芸学部教授。1982年定年退官。1985-88年国立歴史民俗博物館研究協力者委嘱。1976年「球根作物の球形成に及ぼす温度の影響」で園芸学会賞学術賞受賞。1989年勲三等旭日中綬章受章。
高島 一岐代(たかしま かずきよ、1916年5月18日 - … 高島 一岐代(たかしま かずきよ、1916年5月18日 - 1986年7月29日)は、将棋棋士。大阪府八尾市出身。藤内金吾八段門下。棋士番号19。将棋棋士八段の高島弘光は甥。元指導棋士五段の高島一由岐は長男。 (2021年4月1日現在)
富永 直樹(とみなが なおき、本名 富永 良雄、1913年(… 富永 直樹(とみなが なおき、本名 富永 良雄、1913年(大正2年)5月18日 - 2006年(平成18年)4月11日)は、日本の彫刻家、三洋電機の工業デザイナー。長崎県長崎市生まれ。叙従三位。 東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科塑像部首席卒業。同校では北村西望、朝倉文夫、建畠大夢が教鞭をとっており、特に北村西望に師事した。〈在学中の1936年(昭和11年)に日展の前身、文展に「F子の首」(長崎県美術館蔵)にて初入選して以来、日展を主な舞台に活躍した。1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)にかけ、3年連続で日展の特選を受賞〉。同研究科卒業。 1972年(昭和47年)日本芸術院賞受賞。
和泉 覚(和泉 覺、いずみ さとる、1912年〈明治44年〉… 和泉 覚(和泉 覺、いずみ さとる、1912年〈明治44年〉5月18日 - 2005年〈平成17年〉5月7日)は、日本の宗教家、政治家。創価学会理事長(第4代)、参議院議員(1期)。 職業軍人として、1942年(昭和17年)暮れ、最前線のニューギニアに出兵。九死に一生を得て、1946年(昭和21年)6月復員。戦後、戸田城聖の下で、柏原ヤスらと共に、創価学会の再建に奔走。同会筆頭理事及び理事、小岩支部長、江東総支部長などを経て、日蓮正宗法華講大講頭となる。 1940年(昭和15年)、妻の和泉ミヨとともに東京・九段下の軍人会館で行われた創価教育学会第2回総会に出席、入会する。この総会では、後に和泉の前任者となる原島宏治や、学会理事長を経て東京都議会公明党の重鎮となる小泉隆ら、戦後の戸田城聖体制の下で創価学会を担う最高幹部が多数入会し、和泉もその一人となった。
黒田 海之助(くろだ うみのすけ、1911年〈明治44年〉5… 黒田 海之助(くろだ うみのすけ、1911年〈明治44年〉5月18日 - 1995年〈平成7年〉10月4日)は、日本の政治家。埼玉県熊谷市長。位階は従五位。 旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制松本高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学法学部法律学科卒業。卒業後は教員を経て、住友金属工業(現・日本製鉄)に勤務した。1950年(昭和25年)、熊谷市職員となる。1957年(昭和32年)に収入役となり、1961年(昭和36年)に第一助役となった。 1962年(昭和37年)5月19日に10代目熊谷市長に就任した。 1982年(昭和57年)の市長選挙に6選を目指して立候補したが、増田敏男ら2人に敗れて落選した。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 同年5月18日に市長を退任した。
張 暻根(チャン・ギョングン、朝鮮語: 장경근、1911年5… 張 暻根(チャン・ギョングン、朝鮮語: 장경근、1911年5月18日 - 1978年7月5日または7月25日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の裁判官、弁護士、政治家。初代ソウル地方法院(現・ソウル中央地方法院)院長、内務部・国防部次官、内務部長官、第3・4代韓国国会議員を歴任した。 漢字表記は張璟根とも。 日本統治時代の平安北道龍川郡または京畿道富川郡または京城府(現・ソウル特別市)出身。1932年京都第三高等学校卒。1936年東京帝国大学(現・東京大学)法学部卒、在学中の1935年に高等文官試験司法科合格。1936年または1937年または1938年から京城地方法院判事、1941年から京城覆審法院判事を歴任し、解放後は京城地方裁判所首席判事(1945年)、ソウル地方法院長(1948年)、弁護士、内務部次官(1949年)、国防部次官(1950年5月14日~1951年6月22日)、韓日会談首席代表(1953年)、第14代内務部長官(1957年2月4日~9月25日)、自由党政務部長・政策委員会委員長・民法起草委員長、国連総会韓国代表を務めた。
中井 春雄(なかい はるお、1911年 <明治44年> 5月… 中井 春雄(なかい はるお、1911年 <明治44年> 5月18日 - 1991年 <平成3年> 4月4日)は、日本の経営者。日本水産社長を務めた。位階は従四位。 三重県出身。1933年に名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)を卒業し、共同漁業での勤務を経て、1940年に日本水産に入社。1951年に取締役に就任し、1958年に専務を経て、1961年に副社長に就任し、1963年6月には社長に昇格。1973年11月に会長に就任し、1974年11月から1978年6月までに取締役相談役を務めた。 1983年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1991年4月4日心不全のために死去。79歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
北沢 彪(きたざわ ひょう、本名:菅野 義雄(すげの よしお… 北沢 彪(きたざわ ひょう、本名:菅野 義雄(すげの よしお)、1911年〈明治44年〉5月18日 - 1980年〈昭和55年〉8月4日)は、日本の俳優。東京市小石川区(現在の東京都文京区)出身。妻は俳優の堤真佐子。文化学院文学部卒。 文化学院在学中から演劇活動を行い、1931年、同窓生の長岡輝子らとテアトル・コメディを結成。 昭和12年、劇団解散とともにPCL(東宝の前身)に入社。 復員後はフリーランスで活動し、1950年に自宅で朗読(後に演劇)集団やまびこ会を主宰。多くの演劇青年がこれに参加し、本格的な活動を志向することとなり、テアトル・エコーと命名された。1956年に劇団現代座を創立。現代座と並行して綜芸プロに所属し、二月プロなどにも所属していた。
受田 新吉(うけだ しんきち、1910年5月18日 - 19… 受田 新吉(うけだ しんきち、1910年5月18日 - 1979年9月21日)は、昭和期の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(12期)。 山口県大島郡大島町(現周防大島町)出身。日本大学法科卒業。青年学校長、中学校校長、山口県教職員組合副委員長を経て政界入り。無所属、日本社会党(左右分裂時は右派社会党)を経て民社党結成に参加し、党中央執行委員や国会議員団長を務めた。 1963年8月、大島町公民館建設資金として10万円寄付により1964年4月18日紺綬褒章受章。 1979年、体調を崩し、声が出なくなる病に倒れたため引退を表明し、後継者に受田の元秘書で山口県議会議員の部谷孝之を指名。同年9月21日、肺癌のため茨城県新治郡桜村の筑波大学附属病院で死去した。
岩井 隆盛(いわい りゅうせい、1909年(明治42年)5月… 岩井 隆盛(いわい りゅうせい、1909年(明治42年)5月18日 - 1995年(平成7年)2月12日)は、日本の言語学者。金沢大学名誉教授。石川県羽咋郡押水町出身。 また、石川国語方言研究会会長(1950年-1960年)、石川県バレーボール協会顧問等を務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
朝融王妃知子女王(あさあきらおうひともこじょおう、1907年… 朝融王妃知子女王(あさあきらおうひともこじょおう、1907年〈明治40年〉5月18日 - 1947年〈昭和22年〉6月28日)は、日本の皇族。伏見宮博恭王と同妃経子の第3王女子。久邇宮朝融王の妃。香淳皇后の義姉。 1907年(明治40年)5月18日午前10時45分、伏見宮博恭王と同妃経子の第3王女子(第6子)として誕生。15分先に生まれた敦子女王(清棲幸保伯爵夫人)とは一卵性の双生児姉妹である。なお、後から生まれたほうを兄または姉とする風習もあるが、出生順通り、先に生まれた敦子女王が姉である。双生児であることは誕生当初から公表され、2人は引き離されることなく、ともに養育された。1925年(大正14年)に結婚し、朝融王妃となる。
村野 辰雄(むらの たつお、1907年(明治40年)5月18… 村野 辰雄(むらの たつお、1907年(明治40年)5月18日 - 1992年(平成4年)12月16日)は、日本の実業家。三和銀行元頭取。 奈良県御所市出身。1932年に東京帝国大学経済学部を卒業し、三和銀行の前身である山口銀行に入行。1952年5月に取締役、1957年10月に常務、1961年11月に専務を経て、1971年4月から1976年4月までに頭取を務め、銀行間のオンライン提携の推進とJCBの設立などにより、消費者金融により力を入れ、加州三和銀行の設立などで国際業務にも力を入れた。 その一方で、日本銀行参与、全国銀行協会副会長、日本経済団体連合会常任理事、大阪銀行協会会長なども歴任。ローマ字の普及にも力を入れたことでも知られる。
清棲 敦子(きよす あつこ、1907年〈明治40年〉5月18… 清棲 敦子(きよす あつこ、1907年〈明治40年〉5月18日 - 1936年〈昭和11年〉2月24日)は、日本の元皇族。伯爵清棲幸保夫人。伏見宮博恭王と同妃経子の第2王女子。旧名は、敦子女王(あつこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。 1907年(明治40年)5月18日午前10時30分、伏見宮博恭王と同妃経子の第2王女子(第5子)として誕生。15分後に生まれた知子女王(久邇宮朝融王妃)とは一卵性の双生児姉妹である。なお、後から生まれたほうを兄または姉とする風習もあるが、出生順通り、先に生まれた敦子女王が姉である。双生児であることは誕生当初から公表され、2人は引き離されることなく、ともに養育された。
松田昇(まつだ のぼる、1905年5月18日 - 1982年… 松田昇(まつだ のぼる、1905年5月18日 - 1982年11月20日)は、日本の高校野球指導者。高知県高等学校野球連盟初代理事長。高知商業高校、明徳高校野球部元監督。
鈴木 俊隆(すずき しゅんりゅう、1905年5月18日 - … 鈴木 俊隆(すずき しゅんりゅう、1905年5月18日 - 1971年12月4日)は昭和の曹洞宗の僧侶。アメリカに禅を広め、欧米では、鈴木大拙と並んで「2人の鈴木」と呼ばれている。 神奈川県平塚市の曹洞宗松岩寺に生まれる。12歳で静岡県森町の蔵雲院の玉潤祖温に弟子入り。駒澤大学在学中に蔵雲院住職となる。1930年同大卒業。永平寺、總持寺で修行。1936年に静岡県焼津町(現、焼津市)林叟院住職に転任。 1959年に55歳でアメリカに渡り、サンフランシスコの桑港寺の住職となる。桑港寺はそれまで主に日系人向けに教化活動をしていたが、当時の社会運動により、非日系アメリカ人の参禅者が増加。日系人との間で軋轢を生むようになり、鈴木は彼らのために1962年にサンフランシスコ禅センターを設立。
原 全教(はら ぜんきょう、1900年5月18日 - 198… 原 全教(はら ぜんきょう、1900年5月18日 - 1981年11月)は、日本の登山家。 石川県金沢市川除町生まれ。旧名・坂部武二。8人兄弟姉妹(上から男2人、女6人)の次男。 1917年神田電機学校(現東京電機大学)卒、1917年から雲水修行に入り北陸路を歩く。その後東京市役所都市計画課に勤務し1943年退職。兵役は1937年から2年間、満蒙へ出征。目黒でガリ版印刷『謄友社』を開業(現在は大田区の株式会社謄友社)。その後「新宿バーテンダースクール」の講師を経て、目黒区自由が丘にトリスバー「アイガー」を開店。その後亡くなるまで渋谷区恵比寿駅近くに焼き鳥バー「すず」を経営。没後は嫡男原信彦が後を継ぎ、再開発で立ち退きするまで営業していた。
栃ノ森 昇治(とちのもり しょうじ、1900年5月18日 -… 栃ノ森 昇治(とちのもり しょうじ、1900年5月18日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は室井 昇二。最高位は十両10枚目。 栃木県那須郡黒磯町(のち黒磯市、現那須塩原市)出身。出羽ノ海部屋に入門し、1918年「那須昇」の四股名で序ノ口に就く。1929年5月十両に昇進。この場所4勝7敗と負け越し、同地位の翌9月場所でも2勝9敗と負け越し、この場所で廃業した。
舩木 道忠(ふなき みちただ、1900年(明治33年)5月1… 舩木 道忠(ふなき みちただ、1900年(明治33年)5月18日 - 1963年(昭和38年)1月22日)は、日本の島根県の陶芸家である。 布志名焼舩木窯4代目。島根県無形文化財志布名焼技術保持者。 1900年(明治33年)5月18日、島根県八束郡湯町村志布名(現・松江市玉湯町布志名)の、江戸時代中期に出雲国松江藩藩主・松平不味に命ぜられ「出雲焼」の窯元を開いた「灘舩木」の屋号を持つ布志名焼の舩木平兵衛窯を営む家に、3代目の次男として生まれた。 画家を志して東京美術学校で洋画を学んだが、卒業後は帰郷して作陶活動を開始し家業を継いで布志名舩木窯4代目となった。 舩木窯は、明治、大正時代を通じて美術工芸品を制作し、フランスのリモージュ磁器やアメリカの陶器メーカー「ルックウッド」など、海外の窯元と技術的に競い合っていた。
石原 一郎(いしはら いちろう、1899年〈明治32年〉5月… 石原 一郎(いしはら いちろう、1899年〈明治32年〉5月18日 - 1972年〈昭和47年〉8月13日)は、日本の政治家。愛知県安城市長(2期)、愛知県議会議員(3期)、愛知県議会議長などを歴任した。位階は従五位。 愛知県碧海郡古井村(現・安城市古井町)出身。1918年(大正7年)3月、愛知県安城農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)卒業。1919年(大正8年)3月に愛知県農事試験場(現・愛知県農業総合試験場)練習生を修了後、安城町実業補習学校の助教諭となる。 1938年(昭和13年)4月に碧海郡役所書記となり、1940年(昭和15年)7月に愛知県庁官房室に転じ、1941年(昭和16年)4月、碧海地方事務所に勤務。
片倉 衷(かたくら ただし、1898年(明治31年)5月18… 片倉 衷(かたくら ただし、1898年(明治31年)5月18日 - 1991年(平成3年)7月23日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍少将。戦後は大平商事会長。 仙台に片倉小太郎陸軍大佐の次男として生まれる。熊本中学校、熊本陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て1917年(大正6年)12月に陸軍士官学校(第31期)に入校。1919年(大正8年)5月、同校を卒業し士官候補生、同年12月に陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第27連隊附を命ぜられる。 1922年(大正11年)12月に歩兵中尉に進級し陸軍大学校(第40期)に入校、1928年(昭和3年)12月、同校を卒業した。1929年(昭和4年)3月に歩兵大尉に進級し、歩兵第27連隊中隊長に補される。
湯河元威(ゆかわ もとたけ、1897年5月18日 - 195… 湯河元威(ゆかわ もとたけ、1897年5月18日 - 1958年8月8日)は、日本の農商務官僚、教育者である。
馬杉 復三(ますぎ またぞう、1896年(明治29年)5月1… 馬杉 復三(ますぎ またぞう、1896年(明治29年)5月18日 - 1947年(昭和17年)9月5日)は、日本の病理学者である。旧姓は望月。 滋賀県大津市に生まれ、滋賀県立膳所中学校、第三高等学校を卒業後、東京帝国大学医学部(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)医学科に入学する。同大学の教授だった緒方知三郎から病原学を学び、1921年(大正10年)に卒業した。1925年(大正15年)に研究のためにヨーロッパに留学し、帰国後の1927年(昭和2年)に千葉医科大学(現在の千葉大学医学部)にて教鞭を執った。 その後は教授としての活動の傍ら腎臓炎を発症させるために、実験動物に抗腎血清を投与させその原因としてアレルギー反応と証明される研究を行う。
金刺 不二太郎(かなさし ふじたろう、1895年(明治28年… 金刺 不二太郎(かなさし ふじたろう、1895年(明治28年)5月18日 - 1980年(昭和55年)1月4日)は、日本の政治家。川崎市長(7期)。全国市長会会長(4期)。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 静岡県賀茂郡(現在の西伊豆町)で、金刺長蔵の長男として生まれる。1912年に東京高等工芸学校を卒業、1914年に東京工科学校を卒業した。川崎田島町の建設会社飯草組(社長は飯草吉之輔で、東京自動車製作所支配人)に入り、1922年に堀之内の請負業万代商会・上田盛次郎(金沢市出身)の一大事業に協力した。1923年金刺組を興し、公共事業に携わる。川崎市議、同議長、参事会員、神奈川県議を経て、第17回衆議院議員総選挙に静岡県第2区より立候補するが落選に終わる。
井上 源治郎(いのうえ げんじろう、1895年〈明治28年〉… 井上 源治郎(いのうえ げんじろう、1895年〈明治28年〉5月18日 - 没年不明)は、日本の実業家。クレパス本舗桜商会取締役技術最高顧問。 大阪府大阪市西区出身。1917年、大阪高等工業学校応用化学科卒業。摂津製油、関西紙工、川上塗料各勤務の後1927年に桜商会入社。 1946年にクレパス本舗桜商会常務に推され、1950年に専務に就任。1967年に技術顧問。 宗教は浄土宗。趣味はカメラ、写真、園芸。住所は大阪市阿倍野区文の里4丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
石毛 郁治(いしげ いくじ、1895年5月18日 - 198… 石毛 郁治(いしげ いくじ、1895年5月18日 - 1981年9月1日)は、日本の化学技術者、実業家。東洋高圧工業(現三井化学)社長や、三井化学工業社長を務めた。 千葉県海上郡飯岡町(現旭市)生まれ。1912年飯岡小学校代用教員。1917年東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科卒業、三井鉱山入社。肥料用尿素の大量生産法の開発に成功し、1947年から東洋高圧工業社長を務め、1963年には会長に就任。1964年蔵前工業会理事長。1965年飯岡町名誉町民第1号。1966年からは三井化学工業社長を務め、1968年には東洋高圧工業と三井化学工業の合併にあたった。紺綬褒章、藍綬褒章、勲二等旭日重光章受章。
吉田 鉄郎(よしだ てつろう、1894年5月18日 - 19… 吉田 鉄郎(よしだ てつろう、1894年5月18日 - 1956年9月8日)は、日本の建築家。庭園研究家としても知られる。逓信建築の先駆者のひとりであり、多くのモダニズム建築を設計した。著書の『日本の住宅』(1935年)は、日本の伝統建築について西洋の言葉で書かれた出版物の中で最も影響力のあった一冊と言われる。 1894年(明治27年)、富山県東礪波郡福野町(現・南砺市)に郵便局長を務める五島寛平の三男として生まれた。旧制高岡中学校(現・富山県立高岡高等学校)を卒業後、美術学校への進学を志望したが兄の反対に遭って断念した。旧制第四高等学校(現・金沢大学)を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学建築学科を卒業した。
荒木 光太郎(あらき みつたろう、1894年5月18日 - … 荒木 光太郎(あらき みつたろう、1894年5月18日 - 1951年9月29日)は、日本の経済学者である。東京出身。荒木十畝の息子。
柳 兼子(やなぎ かねこ、1892年(明治25年)5月18日… 柳 兼子(やなぎ かねこ、1892年(明治25年)5月18日 - 1984年(昭和59年)6月1日)は、日本の声楽家(アルト歌手)。白樺派の柳宗悦の妻である。長男の柳宗理は工業デザイナー、次男の柳宗玄は美術史家、三男の柳宗民は園芸家として知られている。
安部 正義(あべ せいぎ、1891年5月18日 - 1974… 安部 正義(あべ せいぎ、1891年5月18日 - 1974年6月4日)は、日本の作曲家、教会音楽家である。 宮城県仙台市に生まれる、東北学院中学部卒業後に渡米し、ニューイングランド音楽院で、声楽、ピアノ、作曲を学び、1927年(昭和2年)に帰国する。 ニューイングランド音楽院(1926年卒業)ではピアノ及び作曲学をStuart C. Mason, F.S. Converse, George W. Chadwickに師事、三年連続で同学院作曲科エンドカット賞コンクール入選 優等賞を受賞した。 米国滞在中の主要作品として、小オーケストラ組曲「小川のほとりに」、「橋の上にて」 (1924)、オーケストラのための序曲「あけぼの」 (1925)、交響詩「ボストン生活の思い出」 (1926)などが挙げられる。
北条 雋八(北條 雋八、ほうじょう しゅんぱち、1891年〈… 北条 雋八(北條 雋八、ほうじょう しゅんぱち、1891年〈明治24年〉5月18日 - 1974年〈昭和49年〉5月30日)は、日本の政治家。貴族院議員。参議院議員(2期)。子爵。 1891年(明治24年)5月18日に元河内狭山藩主北条氏恭の四男として生まれる。1913年(大正2年)、学習院高等科を卒業。1916年(大正5年)、東京帝国大学農科大学林学科を卒業。帝室林野管理局技手となり、後に技師に昇進する。上松出張所長や東京支局業務課などに勤務した。 1925年(大正14年)、養父謙吉(実兄)の死去により家督を相続する。1939年(昭和14年)4月22日、補欠選挙で貴族院子爵議員に当選し、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
古谷 幸一(ふるたに こういち、1891年5月18日 - 1… 古谷 幸一(ふるたに こういち、1891年5月18日 - 1951年)は、日本の作曲家。宝塚歌劇団理事。 1891年(明治24年)、山口県厚狭郡須恵村(現在の山陽小野田市)に生まれる。旧制山口国学院中学校へ進学したが中退、1907年(明治40年)より2年にわたり地元の尋常小学校訓導を務めた後、1909年(明治42年)に東京音楽学校器楽科へ入学し山田源一郎、パウル・ショルツらの師事を仰いだ。 1917年(大正6年)に東京音楽学校を卒業後、宝塚歌劇団に作曲家として加入を打診されたが辞退し第六高等女学校および浅草区柳北尋常小学校の教員を務める。1922年(大正11年)に5年越しの要請を受諾して宝塚歌劇団へ加入、宝塚音楽学校講師および劇伴の作曲家として昭和前期まで活動し、理事に至った。
奥里 将建(おくざと しょうけん、1888年(明治21年)5… 奥里 将建(おくざと しょうけん、1888年(明治21年)5月18日 - 1963年(昭和38年)12月29日)は、日本の教育者、国語学者、国文学者、方言学者。 1888年(明治21)5月18日沖縄県宜野湾村生まれ(本籍は首里市寒川町)。 宜野湾小学校をはじめとして教員勤務の傍ら、日本古典文学や方言の研究を進め、1926年(大正15)『琉球人の見た古事記と万葉』を出版。1927年(昭和2)京都御所内東山文庫で源氏物語の校合に従事、1928年(昭和3)4月京都帝国大学国文学部に入学、1929年(昭和4)7月高等教員検定試験(国語科)合格、同年9月兵庫県立神戸第一中学校教諭に任じられ、1942年(昭和17)まで勤務。
坂田 道男(さかた みちお、1887年(明治20年)5月18… 坂田 道男(さかた みちお、1887年(明治20年)5月18日 - 1973年(昭和48年)1月4日)は、日本の政治家(元衆議院議員)、教育者で八代市長、名誉市民。長男は防衛庁長官、衆議院議長を務めた坂田道太。 熊本県八代郡植柳村(現在の八代市)に生まれる。父は明治新田製造の功労者たる坂田貞である。 八代中学校(現・熊本県立八代中学校・高等学校)時代から秀才の誉れが高かった。1905年(明治38年)9月、第五高等学校第一部独法科に入学する。 1908年(明治41年)7月、同科を卒業し、ただちに東京帝国大学法科大学独逸法科に入学する。 1912年(明治45年)7月、同大学を卒業する。 1913年(大正2年)9月、第五高等学校教授(法制経済・独逸語担当)に任ぜられる。
笹森 順造(ささもり じゅんぞう、1886年〈明治19年〉5… 笹森 順造(ささもり じゅんぞう、1886年〈明治19年〉5月18日 - 1976年〈昭和51年〉2月13日)は、日本の政治家、教育者、剣道家。位階勲等は正三位勲一等瑞宝章。称号は政治学士、剣道範士。東奥義塾塾長、青山学院院長、衆議院議員(4期)、参議院議員(3期)、復員庁総裁、賠償庁長官、全日本剣道連盟最高顧問などを歴任した。 青森県中津軽郡弘前町弘前若党町(現:弘前市若党町)に旧弘前藩藩士・笹森要蔵の六男として誕生。8歳で北辰堂道場に入門し、小野派一刀流剣術を学ぶ。14歳のときキリスト教の洗礼を受ける。 1910年、早稲田大学政治経済科を卒業後、雑誌『新公論』記者を経て1912年に渡米し、コロラド州デンバー大学大学院を修了。
小川 金之助(おがわ きんのすけ、1884年〈明治17年〉5… 小川 金之助(おがわ きんのすけ、1884年〈明治17年〉5月18日 - 1962年〈昭和37年〉3月30日)は、日本の剣道家。段位称号は範士十段。 愛知県丹羽郡岩倉村(現・岩倉市)に生まれる。名古屋へ出て北辰一刀流 加藤貫一(加藤七左衛門の養父)に入門。 愛知県警察部に勧誘されたが、小川は警察官になる気はなく、一旦断った。「制服は着なくてもよい、試験だけは形式的に受けろ」と説得され、1903年(明治36年)、愛知県警察部に奉職。京都の大日本武徳会出張修行を命じられ、3年半修行した。 愛知県巡査教習所剣道教師を経て、1914年(大正3年)に内藤高治の要請で武道専門学校助手に就任。 1919年(大正8年)、道場「弘道館」を開く。
宮原 庄助(みやはら しょうすけ、1884年(明治17年)5… 宮原 庄助(みやはら しょうすけ、1884年(明治17年)5月18日 - 1963年(昭和38年)5月8日)は、明治末から昭和期の漁業家、政治家。衆議院議員、茨城県会議長、茨城県那珂郡那珂湊町長、初代那珂湊市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。幼名・長松。 茨城県那珂郡湊村牛久保(湊町牛久保、那珂湊町、那珂湊市を経て現ひたちなか市牛久保)で、漁業家・宮原卯之松の長男として生まれる。湊尋常高等小学校を卒業。横須賀海兵団に入団し日露戦争に従軍して除隊した。 1908年(明治41年)12月に家業を継承した。漁業の全般の改良に務め、1920年(大正9年)2月、茨城製網常務取締役に就任。その他、湊漁業組合長、湊水難救済会長、那珂郡水産会長、茨城県漁業組合連合会長、同漁船保険組合長、同水産業会長、同信用漁業協同組合連合会長、水戸魚市場取締役、日本油脂販売監査役、宮庄漁業社長などを務めた。
斎藤 直橘(さいとう なおきつ / なおき、1883年(明治… 斎藤 直橘(さいとう なおきつ / なおき、1883年(明治16年)5月18日 - 1953年(昭和28年)10月20日)は、日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、福井県知事、福井市長。 宮城県出身。斎藤忠治郎の三男として生まれる。山口高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入り警視庁見習となる。以後、徳島県理事官、福井県理事官、大阪府理事官、茨城県警察部長、奈良県書記官・内務部長、富山県書記官・内務部長などを歴任。 1930年8月、福井県知事に就任。1931年12月18日まで在任して休職し、同月24日に依願免本官となり退官した。
南 鼎三(みなみ ていぞう、1881年5月18日 - 194… 南 鼎三(みなみ ていぞう、1881年5月18日 - 1943年9月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 大阪府出身。1907年、関西商工学校(現・関西大倉中学校・高等学校)土木科卒。大阪府土木工手、大阪府、東京市、京都市の各土木技手となる。のちに南工務所を開き、土木請負業に従事する。大阪府会議員、同参事会員、借地借家、金銭債務臨時各調停委員を務める。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において大阪10区(小選挙区制)から立候補して初当選。1924年の第15回衆議院議員総選挙で落選。1928年の第16回衆議院議員総選挙大阪6区(当時)から立候補して落選。1937年の第20回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補して再選した。
伊藤 平治郎(いとう へいじろう、1880年(明治13年)5… 伊藤 平治郎(いとう へいじろう、1880年(明治13年)5月18日 - 1941年(昭和16年)1月)は、三重県三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)富田一色出身の政治家・実業家・歌人。
田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1880年(明治13年)5… 田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1880年(明治13年)5月18日 - 1947年(昭和22年)2月1日)は、大正、昭和と全国の高等女学校で採用される楽曲、現在でも歌い継がれている童謡唱歌、多くの校歌を作曲など、兵庫県を代表する作曲家。 養父郡大蔵村(現:朝来市)の雑貨商「やまとや」の長男として生まれ、大蔵小学校高等科を卒業後、同小学校の教員などをしていたが、後に退職して1902年(明治35年)、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)師範科へ入学した。 音楽学校を卒業した1905年(明治38年)に音楽教員として兵庫県立神戸高等女学校(現:神戸高校)に着任し、その後33年勤務した。当時、神戸高等女学校は開校4年目の学校(現在の兵庫県庁1号館の場所にあった)であり、田中は生徒への指導はもちろん、音楽教育や社会音楽の向上も常々考えていたが、生徒たちにとって発表の場となり、一般市民に音楽に親しんでもらえる場にもなる発表会を企画した。
石原 誠(いしはら まこと、1879年(明治12年)5月18… 石原 誠(いしはら まこと、1879年(明治12年)5月18日 - 1938年(昭和13年)12月11日)は日本の生理学者、医学博士。 兵庫県伊丹出身。1901年(明治34年)東京帝国大学医科大学卒。当初、内科医を目指すものの中耳炎のため聴診・打診に支障をきたしたため生理学に転向する。卒業後、欧州留学(マールブルク、ウィーン)を命ぜられ、留学中に京都帝国大学福岡医科大学助教授に任官される。1906年9月同大学教授に就任する。 1911年(明治44年)に日本で初めて心電図を記録するなど心臓の自働性の研究(心臓前房の電流曲線の研究)に業績を上げ、この分野において石原は世界的権威として知られた。コイやフナの血清学的研究などで知られた。
浅田 良逸(あさだ りょういつ、1879年(明治12年)5月… 浅田 良逸(あさだ りょういつ、1879年(明治12年)5月18日 - 1958年(昭和33年)4月8日)は、大日本帝国陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。旧姓・笹森。 青森県弘前で笹森要蔵の五男として生まれ、陸軍大将・男爵浅田信興の養子となり、1927年(昭和2年)6月1日に男爵を襲爵した。 1899年(明治32年)11月21日陸軍士官学校(11期)を卒業後、1900年(明治33年)6月22日に歩兵少尉に任官。日露戦争に従軍し、陸軍大学校(22期、1910年11月卒業)に学び、1929年(昭和4年)8月1日に陸軍中将に至った。その間、近衛歩兵第2旅団副官、近衛歩兵第3連隊中隊長、参謀本部部員、陸軍歩兵学校研究部部員、歩兵第57連隊大隊長、教育総監部部員、陸軍大学校教官、歩兵第7連隊長、第11師団参謀長、歩兵第33旅団長、近衛師団司令部附、東京湾要塞司令官などを歴任した。
松崎 天民(まつざき てんみん、1878年5月18日 - 1… 松崎 天民(まつざき てんみん、1878年5月18日 - 1934年7月22日)は、日本の作家、新聞記者。 都市風俗、特にアンダーグランドの探訪を得意とし、『淪落の女』『銀座』などを著した。神戸事件の滝善三郎は祖母の弟。 岡山県真庭市(真庭郡落合町)生まれ。名は市郎。15歳で母親を亡くす。 学歴は小学校4年修業であるが、生来、文才があり、1900年、大阪新報をふりだしに、大阪朝日新聞、上京して国民新聞、東京朝日新聞、毎夕新聞、都新聞、二六新聞、中央新聞などで27年間の新聞記者生活をすごした。一方、35歳(1912年)のとき、浅草区千束町の私娼窟(いわゆる十二階下)をテーマにした『淪落の女』を著し、その叙情的名文で読者を酔わせた。
山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、1876年(明治9年)… 山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、1876年(明治9年)5月18日 - 1960年(昭和35年)2月18日)は日本の革命運動家、大陸浪人。孫文の革命活動に参加した山田良政の実弟である。 青森県弘前生まれ。伯父・菊池九郎が創立した東奥義塾を卒業後、室蘭炭礦汽船を経て上京、青森リンゴ販売商となる。東亜同文会の清国派遣留学生選考に合格して上海に渡り、その後南京同文書院(後の東亜同文書院)に入学した。この頃、兄に孫文を紹介されている。卒業後は同院教員、日露戦争での通訳従軍を経て南満州鉄道に入社した。 兄の遺志を継いで孫文を支援し続け、第一次世界大戦中の第2次大隈内閣による対華21か条要求など日本政府と袁世凱政権の関係悪化による孫文の対日不信の中にあっても山田は信頼を受けた。
江崎 幸太郎(えさき こうたろう、1876年〈明治9年〉5月… 江崎 幸太郎(えさき こうたろう、1876年〈明治9年〉5月18日 - 1923年〈大正12年〉2月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県下妻郡、のちの八女郡水田村(現筑後市)出身。1895年(明治28年)東京専門学校政治科卒。福岡県会議員、同参事会員、福岡県地方森林会議員となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において福岡14区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1923年、在職中に死去した。
小山 完吾(こやま かんご、1875年〈明治8年〉5月18日… 小山 完吾(こやま かんご、1875年〈明治8年〉5月18日 - 1955年〈昭和30年〉7月23日)は、明治・大正時代に活動した日本のジャーナリスト、大正・昭和時代の実業家である。時事新報社の記者を経て実業界に入り、明治生命保険取締役や時事新報社社長を務めた。記者時代に衆議院議員(当選1回)、晩年に貴族院勅選議員も務めた。長野県出身。 1875年(明治8年)5月18日、長野県佐久郡小諸町(現・小諸市)に小山謙吾の五男として生まれる。実家の小山家は小諸の与良に居を構え酒造業を営む旧家であり、父・謙吾は長野県会議員も務めた人物である。兄に酒造業を継いだ謹之助、千代田生命保険に勤めた禎三がいる。上京して福澤諭吉が開いた慶應義塾に学び、1904年(明治37年)大学部法律科を卒業。
板野 友造(いたの ともぞう、1874年(明治7年)5月18… 板野 友造(いたの ともぞう、1874年(明治7年)5月18日 - 1945年(昭和20年)12月12日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 岡山県吉備郡足守町(現在の岡山市北区)で生まれる。関西法律学校(現在の関西大学)を卒業後、明治法律学校(現在の明治大学)に学び、1901年に卒業した。同年、判検事試験に合格し、司法官試補として高松区裁判所に赴任するが、半年で辞した。1902年(明治35年)より大阪市で弁護士を開業。 1913年(大正2年)、大阪市会議員に選出され、副議長を務めた。1920年(大正9年)1月、衆議院に補欠当選。以後、当選回数は合計5回を数えた。当初は立憲国民党所属であったが、立憲国民党解党後は革新倶楽部を経て立憲政友会に参加した。
伊藤 道海(いとう どうかい、1874年5月18日 - 19… 伊藤 道海(いとう どうかい、1874年5月18日 - 1940年7月16日)は、日本の曹洞宗の僧侶。最乗寺住職、曹洞宗管長、總持寺独住9世貫首。別名、無辺光照禅師。号は天祐。 新潟県生まれ。幼少から肺肋膜を病む。1882年(明治15年)新潟広大寺の横木卍元(まんげん)に師事して得度。闘病と仏道修行に励む。1893年能登の総持寺僧堂に掛錫し、杉本道山に師事。1895年卍元に嗣法。一雲水として修行中の1898年、寺が全焼。猛火の中を宝物や重要文書を運び出し、優れた功績をあげた。1900年26歳のとき、選ばれて曹洞宗大学林(現駒澤大学)に入学。1904年同大学林卒業。同年7月、山形県宝鏡寺住職となる。
緒方 惟一郎(おがた ゆいいちろう、1874年〈明治7年〉5… 緒方 惟一郎(おがた ゆいいちろう、1874年〈明治7年〉5月18日 - 1951年〈昭和26年〉10月21日)は、日本の内務・警察官僚。位階は正五位。官選青森県知事、警視庁消防部長。 熊本県出身。緒方夫門の長男として生まれる。第五高等学校を経て、1904年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1905年3月、内務省に入省し警視庁属兼警部となる。 1910年、警視庁警視・神田警察署長に就任。以後、浅草南元町警察署長、麻布鳥居坂警察署長などを経て、1915年、警視庁消防部長となり、9年間在任した。 1924年6月6日、青森県知事に発令されたが、在任18日後の6月24日に休職となる。その理由は不明である。