赤松 良子(あかまつ りょうこ、1929年〈昭和4年〉8月2… 赤松 良子(あかまつ りょうこ、1929年〈昭和4年〉8月24日 - 2024年〈令和6年〉2月6日)は、日本の労働官僚、外交官、政治家。位階は従三位、勲等は旭日大綬章。筆名は青杉 優子。在ウルグアイ大使、文部大臣、公益財団法人日本ユニセフ協会会長を歴任した。女性の政治参画拡大を目指す市民団体「Qの会」代表。労働省の婦人局長として、1986年に施行された男女雇用機会均等法の成立に尽力し「均等法の母」と呼ばれた。 労働省婦人局長時代、男女雇用機会均等法制定の中核となった。細川護熙、羽田孜両内閣で文部大臣を務めたほか、国際女性の地位協会会長なども務めた。選択的夫婦別姓制度実現をめざす民法改正運動を行っているネットの呼びかけ人でもある。
堀川 清司(ほりかわ きよし、1927年〈昭和2年〉8月24… 堀川 清司(ほりかわ きよし、1927年〈昭和2年〉8月24日 - 2024年〈令和6年〉4月18日)は、日本の工学者。東京大学名誉教授。日本学士院会員。文化功労者。工学博士(東京大学)。専門は海岸工学。東京都出身。 埼玉大学学長時代の1993年3月25日午前8時15分頃、東京都三鷹市の自宅から歩いて出勤しようとしたところ、乗用車に乗った2人組の男に拉致され、身代金数千万円から1億円が埼玉大学へ要求、大学が現金の引き渡し場所に指定された。大学から通報を受けた埼玉県警は午後3時30分頃、浦和市大久保領家の県道で学長と犯人2人が乗った乗用車を発見、午後4時頃、埼玉大学近くで車両を再発見、工事中のためノロノロ運転をしていた車に職務質問をした上で2人組を逮捕、堀川は無事保護された。
星野 命(ほしの あきら、1927年8月24日- 2015年… 星野 命(ほしの あきら、1927年8月24日- 2015年11月7日)は、日本の心理学者。国際基督教大学名誉教授。 石川県金沢市生まれ。1952年東京大学文学部心理学科卒業、名古屋大学医学部精神医学教室臨床心理学研修生入局。54年同研究生。55年米国アイオワ州立大学大学院臨床心理学研究科にフルブライト奨学生として留学。56年ミシガン大学心理学クリニック研究員。1957年国際基督教大学教養学部専任講師。60年助教授、準教授、72年教授、90年定年、名誉教授、京都女子大学教授。2015年11月7日没。日本社会心理学会名誉会員。
足立 壽惠雄(あだち すえお、1926年8月24日 - )は… 足立 壽惠雄(あだち すえお、1926年8月24日 - )は日本の実業家。北米支配人兼丸紅米国社長・会長、丸紅カナダ会社社長。慶應義塾大学経済学部卒業。 王子製紙社長、日本商工会議所会頭等を歴任した足立正の四男。 宗教は曹洞宗、趣味はゴルフ。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
原田 一美(はらだ かずみ、1926年8月24日 - 201… 原田 一美(はらだ かずみ、1926年8月24日 - 2016年3月1日 )は、日本の児童文学作家。日本児童文学者協会会員。徳島ペンクラブ理事。徳島県麻植郡(現・吉野川市)山川町出身。 1947年徳島師範学校本科卒業後、県内の小学校・中学校で教員を務めたほか、徳島市教育委員会・徳島県教育委員会などで勤務、1987年3月、徳島市立富田小学校校長を最後に退職。 1961年に出版された『ホタルの歌』は第1回学研児童文学賞ノンフィクション部門を受賞、全国学校図書館協議会課題図書にも選定された。その後、『出会いがあって』で第1回石森延男児童文学賞を受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
岡田 光了(おかだ みつのり、1925年8月24日 - 19… 岡田 光了(おかだ みつのり、1925年8月24日 - 1998年5月27日)は、日本の裁判官。専門は刑事法。ロッキード事件丸紅ルート第1審の裁判長を務めたことで知られる。 ※以下の出典は(ロッキード事件関連を除き)「岡田光了先生略歴」『清和法学研究』6号(清和大学法学部、1999年3月31日、p.313)による。 1944年に海軍予備生となり、1945年8月に復員した。 1948年に東京大学法学部を卒業する。人事院事務官となるが、在職中に司法試験に合格し、1953年に人事院を退官した。司法修習生を経て、1955年に新潟地方裁判所の判事補となる。1965年に東京地方裁判所判事に転任する。1968年から司法研修所教官を務めた後、1972年からは再び東京地方裁判所に戻り判事、部総括判事(1975年)となる。
生田目 修(なまため おさむ、1924年(大正13年)8月2… 生田目 修(なまため おさむ、1924年(大正13年)8月24日 - 1999年(平成11年)6月20日)は、日本の陸軍軍人及び航空自衛官。第16代航空幕僚長。 陸軍航空士官学校卒業後は岐阜基地で実用機の訓練中に終戦を迎える。 戦後は郷里の茨城・日立に帰り農協に勤めるが、警察予備隊の旧軍出身者第一陣として1951年(昭和26年)6月に入隊。入隊後は普通科連隊の中隊長等を務めるが、1954年(昭和29年)9月、航空自衛隊創設と同時に転官。浜松でパイロットのリフレッシュ訓練を受けるが健康上の理由で要撃管制要員へ転換。 1955年(昭和30年)に要撃管制の米国留学第1期生として米国で訓練を受ける。その後の勤務は航空幕僚監部、航空総隊等で、作戦・運用と防衛一筋のエリートコースをたどり、3次防、4次防の策定、さらに空幕防衛部長として「防衛計画の大綱」の策定に携わった。
大野 豊(おおの ゆたか、1924年(大正13年)8月24日… 大野 豊(おおの ゆたか、1924年(大正13年)8月24日 - 2012年(平成24年)10月27日)は、日本の工学博士。京都大学名誉教授。栄典は、正四位・勲二等瑞宝章、紫綬褒章。日本で初めてのオンラインリアルタイムシステムMARS-1を開発し、日本国有鉄道(現:JR)の座席予約システムのコンピュータ化を実現した。 この項目は、工学・技術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:技術と産業)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
阿久津 善治(あくつ ぜんじ、1922年8月24日 - 19… 阿久津 善治(あくつ ぜんじ、1922年8月24日 - 1988年2月1日)は、日本の歌人。晩年の前田夕暮に師事し、直系中の直系として純粋で源泉的な生き方と作風を貫いた。1946年2月から1948年10月までの2年3か月にわたり、福島県郡山市から『詩歌』(白日社)の戦後復刊の編集刊行にあたった。1956年、ケルン短歌会を創設し、主宰となる。生涯で幾たびかの生死を分ける病魔との戦いを経て、人生の多くを病床で過ごす傍ら、自然主義歌人として身近な自然と人生の厳しさと温かさを透明な視点の中に収めつつ、高く深い立場から人間と自己を見つめ続けた。 福島県郡山市に生まれる。1928年、6歳の時に、商家を営む伯父の阿久津藤七・クニ夫妻の養子となる。
鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1922年8月24日 -… 鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1922年8月24日 - 2012年1月25日)は、日本の実業家。味の素創業者二代目鈴木三郎助の孫で、同社会長や名誉会長、日本食品添加物協会会長等を歴任した。 東京都港区出身。旧名鈴木重明。学習院高等科を経て、1946年東北大学法文学部卒業。1949年味の素入社。1961年取締役に昇格。1965年常務取締役。1969年専務取締役。1973年取締役副社長、日本油脂協会会長。1974年紺綬褒章受章。1975年取締役会長。1982年日本食品添加物協会会長。1988年レジオン・ドヌール勲章受章、全日本広告連盟理事長、日本宣伝クラブ理事長。1989年東京広告協会理事長。
金森 茂一郎(かなもり しげいちろう、1922年(大正11年… 金森 茂一郎(かなもり しげいちろう、1922年(大正11年)8月24日 - 2004年(平成16年)10月19日)は日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の元社長(11代目)・会長のほか、大阪近鉄バファローズのオーナー、学校法人・帝塚山学園名誉理事長、日本民営鉄道協会会長も務めた。 祖父は近鉄の前身である大阪電気軌道・参宮急行電鉄元社長、実質的な創業者の一人でもある金森又一郎。父は近鉄の元会長である金森乾次で、又一郎の二男。また、実弟は大阪大学元総長の金森順次郎である。 大阪市で生まれる。1944年に東京帝国大学法学部を卒業し、京阪神急行電鉄(現在の阪急阪神ホールディングスおよび阪急電鉄)に入社した。
伊地知 重威(いじち しげたけ、1921年8月24日 - 2… 伊地知 重威(いじち しげたけ、1921年8月24日 - 2007年3月16日)は、日本の銀行家。埼玉銀行頭取を務めた。 埼玉県出身。1944年に東北帝国大学法文学部経済学科を卒業し、1945年に埼玉銀行に入行。 1973年5月に取締役に就任し、1975年10月に常務、1978年6月に専務を経て、1981年6月に副頭取に就任し、1976年4月には頭取に昇格。1987年6月に会長に就任し、1989年3月から1990年6月まで社長も兼任した。1991年4月に取締役相談役、同年6月に相談役、1998年4月に特別顧問を経て、同年12月には名誉顧問に就任。 1986年11月に藍綬褒章を受章。 2007年3月16日肺炎のために死去。
佐藤吉男(さとう よしお、1921年8月24日 - 1972… 佐藤吉男(さとう よしお、1921年8月24日 - 1972年10月7日)は、日本の大蔵官僚。 大蔵省主税局総務課長、主計局総務課長、大阪国税局長、総理府人事局次長、主計局次長(末席)、主計局次長(次席)、大臣官房審議官(大臣官房担当)兼財務研修所長などを務めた。 広島県出身。東京商科大学(現在の一橋大学)商学部在学中の1943年7月に高等試験行政科を合格。1944年9月 東京商科大学商学部卒業。1945年8月 陸軍主計少尉となり、同年9月 召集解除。 同年10月 大蔵省入省。外資局属。1946年2月 理財局。1948年10月 倉敷税務署長。 1949年8月31日 主計局主計官補佐(大蔵係主査)。
小澤 保知(おざわ やすとも、1919年8月24日 - 20… 小澤 保知(おざわ やすとも、1919年8月24日 - 2009年12月21日)は、日本の工学者。工学博士(北海道大学)。専門は電気工学。北海道大学名誉教授・元北海道自動車短期大学学長。位階は正四位。北海道空知郡岩見沢町(現・岩見沢市)出身。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
松島 栄一(まつしま えいいち、1917年8月24日 - … 松島 栄一(まつしま えいいち、1917年8月24日 - 2002年12月12日 )は、日本の歴史学者。元大東文化大学教授。歴研・民科・歴教協等で活躍。 大阪府大阪市天王寺区に生まれる。1924年に大阪市立天王寺第五尋常小学校(現在の大阪市立五条小学校)、1930年に灘中学校、1935年に早稲田高等学院、1937年に早稲田大学文学部史学科にそれぞれ進学。大学在学中、教えを受けた津田左右吉に大きく傾倒する。 大学卒業の1940年、花見朔巳の勧めで東京帝国大学史料編纂所に勤務。当時の東京帝国大学国史研究室は平泉澄によって支配されていたが、その影響が及ばず実証主義をかたく守っていた史料編纂所に就職し、そこで家永三郎や遠山茂樹と同僚となったことは、その後に大きな影響を与えた。
三越 左千夫(みつこし さちお、1916年〈大正5年〉8月2… 三越 左千夫(みつこし さちお、1916年〈大正5年〉8月24日 - 1992年〈平成4年〉4月13日)は、日本の詩人、児童文学作家。本名は三津越幸助(みつこし こうすけ)。千葉県香取郡大倉村(現:香取市)出身。 昭和20年頃より神保光太郎、高橋新吉、山之口貘らと交流があり、戦後現代詩の書き手の1人として活動。1950年に江口榛一と童謡詩誌『キツツキ』を創刊。詩誌『薔薇科』などに同人として参加。また、NHKのプロデューサーであった三枝健剛(三枝嘉雄)と知り合い、ラジオ番組の台本の執筆の他、『音楽夢くらべ』という番組の詩の選と補選を十数年担当した。 主な詩集に『柘榴の花』『夜の鶴』、童話集に『あの町この町、日が暮れる』『ぼくはねこじゃない』『かあさんかあさん』などがある。
石川 悌二(いしかわ ていじ、1916年8月24日 - 19… 石川 悌二(いしかわ ていじ、1916年8月24日 - 1987年)は、日本の作家、文学・地理研究家。 台湾・台北生まれ、東京出身。1943年早稲田大学文学部国文科卒。1947年「魚紋」を発表して小説家を志し、1973年「近代作家の基礎的研究」を刊行。東京都公文書館主任調査員の傍ら、ライフワークとして「江戸東京坂道辞典」「東京の橋」などを執筆した。
赤司 俊雄(あかし としお、1915年(大正4年)8月24日… 赤司 俊雄(あかし としお、1915年(大正4年)8月24日 - 1992年(平成4年)12月26日)は、日本の実業家。三和銀行元頭取。 福岡県久留米市出身。1941年に東京帝国大学経済学部を卒業後、三和銀行に入行。1967年5月に取締役に就任し、常務、専務、副頭取を経て、1976年4月に同行が発足して以来、初めての生え抜きとして頭取に就任し、「ピープルズバンク」をモットーに、カードローンや年金型預金商品の開発などにより、銀行の大衆化を進め、金融業界では初めてQC(品質管理)活動を導入した。1982年6月に会長に退く。 その一方で、日本銀行参与、大阪銀行協会会長、全国銀行協会連合会副会長、日本ソフトボール協会会長なども歴任した。
浅野 建二(あさの けんじ、1915年8月24日 - 199… 浅野 建二(あさの けんじ、1915年8月24日 - 1990年7月17日)は、日本の音楽学者、民謡・歌謡研究者。学位は、文学博士(東京教育大学・論文博士・1962年)(学位論文(「日本歌謡の研究」)。山形大学名誉教授。 宮城県仙台市生まれ。1941年東京文理科大学国文科卒、群馬県師範学校教諭、1943年群馬師範学校助教授、1947年教授、宮城県第二高等女学校教諭、1950年山形大学山形師範学校教授、山形大学教育学部助教授、1962年「日本歌謡の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。1963年山形大学教授、1977年附属図書館長・評議員、1981年定年退官、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
竹中 宏平(たけなか こうへい、1915年8月24日 - 1… 竹中 宏平(たけなか こうへい、1915年8月24日 - 1977年8月24日)は、日本の経営者。兵庫県神戸市出身。 1938年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、同年に竹中工務店に入社。取締役を経て、1945年2月に副社長に就任し、1977年3月には社長に就任。 1977年8月24日肝硬変のために社長在任中に死去。62歳没。
西谷 三四郎(にしたに さんしろう、1914年8月24日 -… 西谷 三四郎(にしたに さんしろう、1914年8月24日 - 1994年1月25日)は、日本の精神医学者。 徳島県阿波市生まれ。旧姓・吉田。1943年千葉医科大学卒業、1950年学位論文「頭部通電の重積による精神障碍の研究」で金沢大学より医学博士の学位を取得。 金沢大学医学部助手、1948年国立金沢病院精神科医長、1959年東京教育大学教授、筑波大学教授、1978年定年退官、東京教育大学名誉教授、1981-85年文教大学教授。1963年11月に榊原清、尾島碩心らとともに一般社団法人日本特殊教育学会を創立した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
木下 康民(きのした やすたみ、1914年〈大正3年〉8月2… 木下 康民(きのした やすたみ、1914年〈大正3年〉8月24日 - 1982年〈昭和57年〉)は、日本の医学博士、新潟大学名誉教授。 鳥取県鳥取市西町の鳥取士族で、衆議院議員(鳥取市選出)、鳥取市会議長、鳥取県会議員などをつとめた木下義之の五男。 東北大学医学部卒業。1945年に台北帝大助手。1949年に新潟医大講師、1950年に助教授。1952年に新潟大医学部助教授を経て1960年に教授。1973年に腎研究施設長。 住所は新潟市浜浦町。 木下家は鳥取藩主の御殿医をつとめた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
桜井 祐一(さくらい ゆういち、1914年(大正3年)8月2… 桜井 祐一(さくらい ゆういち、1914年(大正3年)8月24日 - 1981年(昭和56年)11月4日)は、日本の彫刻家である。 山形県米沢市に生まれる。1924年に家族と共に東京へ移住。1932年(昭和7年)に平櫛田中から彫刻を学び、翌1933年(昭和8年)には自身の作品が日本美術会主催の展示会に出品され受賞された。1934年(昭和9年)には日本美術院研究所に入所し、院展に初入選される。1939年(昭和14年)には第3回文展にも出品され、第二次世界大戦中から戦後にかけて院展に出品された同院賞等数多くの賞を受賞した。 この業績により1955年(昭和30年)には日本美術院の同人となり、1961年(昭和36年)に院展彫刻部が解散した事により同郷の新海竹蔵や山本豊市、千野茂らと共に彫刻家団体S.A.Sの結成に携わった。
田中 元(たなか はじめ、1912年〈大正元年〉8月24日 … 田中 元(たなか はじめ、1912年〈大正元年〉8月24日 - 1953年〈昭和28年〉8月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 北海道函館区(現函館市)で生まれる。北海道庁立函館中学校(現北海道函館中部高等学校)を経て、1939年(昭和14年)東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)を卒業した。興亜院嘱託となり、同技手、在北京大使館技手、同技師を歴任した。 その後、日本興行取締役、函館ミツワ商会取締役会長、大洋貿易社長、函館ドック顧問などを務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で北海道第3区から民主自由党所属で出馬して初当選。第25回総選挙で自由党所属で出馬するも次点で落選。
斉藤 晋一(さいとう しんいち、1912年8月24日 - 1… 斉藤 晋一(さいとう しんいち、1912年8月24日 - 1985年10月6日)は、日本の経営者。住友ゴム工業3代目社長を務めた。新潟県栃尾市(現:長岡市)出身。 1936年に東京商科大学を卒業し、同年に住友電気工業に入社。1962年11月に取締役に就任し、1964年に常務、1969年5月に専務を経て、1971年5月に副社長に就任。1974年8月に住友ゴム工業社長に就任し、1980年3月に会長に就任。 1978年5月に藍綬褒章を受章。 1985年10月6日肝不全のために死去。73歳没。
西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006… 西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006年7月1日)は、日本の俳人。「ホトトギス」同人。本名は西村 一意(かずおき)。教育者でもあり、鹿児島県の公立高等学校の教頭や校長等を歴任。 鹿児島県谷山村麓(現・鹿児島市谷山中央)にて、教育者の藤太郎とトミの嫡子として生まれ、少年期は清渓学舎で郷中教育を受ける。1929年(昭和4年)に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業した後、神宮皇學館で学び卒業。 1929年(昭和4年)に17歳で句作を始め、1932年(昭和7年)に「ホトトギス」九月号で初入選。数年後、関西ホトトギス大会で虚子特選を得て、虚子を生涯師と仰ぐ。1935年(昭和10年)、佐賀県伊万里町で教員となり、当地で森永杉洞に師事。
富田 富士雄(とみた ふじお、1909年8月24日 - 19… 富田 富士雄(とみた ふじお、1909年8月24日 - 1999年3月12日)は、日本の社会学者・社会運動家。 横浜市生まれ。1934年関東学院神学部卒業。社会的キリスト教運動に参加して検挙。戦後米国に学んだのち関東学院大学教授、1968年関東学院長。横浜コミュニティ研究会会長。1972年横浜文化賞受賞、1982年勲三等瑞宝章受勲。 1970年 日本大学 文学博士 論文の題は「人口社会学の基本問題」。
広岡 知男(旧字体:廣岡 知男、ひろおか ともお、1907年… 広岡 知男(旧字体:廣岡 知男、ひろおか ともお、1907年8月24日 - 2002年1月5日)は、日本のアマチュア野球選手、新聞社経営者。朝日新聞社社長、日本学生野球協会会長、全日本アマチュア野球連盟会長。
中川 重雄(なかがわ しげお、1906年8月24日 - 19… 中川 重雄(なかがわ しげお、1906年8月24日 - 1989年3月4日)は、日本の物理学者、教育者。立教大学理学部元教授・学部長、立教大学原子力研究所所長、立教大学野球部元部長。妻・京子は佐々木隆興の三女。 中川友次郎(内務・農商務官僚、群馬県知事)の三男として東京に生まれる。 1930年(昭和5年)東京帝国大学物理科を卒業。満鉄中央試験所職員、理化学研究所職員、大阪帝国大学理学部講師、佐々木研究所理事を務めた。 1949年(昭和24年)に、理化学研究所から立教大学理学部に赴任した中川重雄を中心に、立教大学宇宙線研究室が開設。理学部教授の中川が行う宇宙線観測実験の成果は新聞紙上を賑わせることとなった。
梶哲次(かじてつじ 1904年8月24日 - 1934年5月… 梶哲次(かじてつじ 1904年8月24日 - 1934年5月12日)は昭和初期のの社会運動家、農民運動家、日本共産党員。富山県で農民運動を指導した後上京し、日本共産党中央委員会の農民部員として活動した。梶哲二の表記もある。 富山県西礪波郡立野村(現高岡市)で商家の次男として生まれる。1922年旧制高岡中学(現富山県立高岡高等学校)を卒業すると、伯父を頼りに上京、川崎銀行に就職した。しかし、向学心を捨てきれず、1923年に青山学院に入学する。翌1924年、学生連合会参加組織「社会思想研究会」が学校に公認されるとこれに加わる。このころから社会主義者であり、弟の謙三が哲次の寄宿舎を訪ねた際、押入れを本棚にし、マルクスの肖像が飾ってあった。
中村 テル(なかむら てる、1904年8月24日 - 200… 中村 テル(なかむら てる、1904年8月24日 - 2009年5月3日)は、日本の登山家、日本山岳会名誉会員。 鉱山経営をしていた父親のもと、北海道夕張市にうまれるものの、父親が事業に失敗、福島県喜多方市に移り住むことになった。さらにその後は東京へと移り住み、文京区の本郷にある桜井ちか子による桜井女塾に入塾し英語を学んだ。10代より登山を始め、夏の富士山に登頂を成功、1927年1月1日に女性として初めて冬の富士山登頂を果たした。1961年には早稲田大学の山岳部OGが中心となって結成されたニュージーランド日本女子親善隊の隊長を勤め、エグモント山、ルアペフ山などの登頂に成功した。 2009年5月3日、老衰のため死去。
金 晋燮(キム・ジンソプ、朝鮮語: 김진섭/金晉燮、1903… 金 晋燮(キム・ジンソプ、朝鮮語: 김진섭/金晉燮、1903年8月24日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮及び大韓民国の評論家、随筆家、詩人、作家、ドイツ文学者、アナウンサー。 号は聴川(チョンチョン、청천/聽川)。 全羅南道木浦に生まれ。幼少期いっとき慶尚南道安東で過ごす。1927年に法政大学文学部独文科卒。1925年に文学評論家として登壇、以後随筆の大家として名を鳴らした。 解放後は京城放送局員、ソウル大学校中央図書館長、ソウル大学校・成均館大学校教授を歴任したが、自宅にいた際に北朝鮮に拉致され、以後消息不明。
安藤 徳器(あんどう とくき、1902年〈明治35年〉8月2… 安藤 徳器(あんどう とくき、1902年〈明治35年〉8月24日 – 1953年〈昭和28年〉1月15日)は、大正から昭和にかけての文筆家・翻訳者・報道記者。別名義として安藤十九木や杉森鵬程もあり、他にもXYZや十九気などの筆名もあったという。維新史の研究者から実録文学の執筆に転じ、また、西園寺公望や野口遵に関する書籍を特に多く出版した。 山口県岩国市の警察官・安藤徳明の子として生まれる。最初は軍人を志し、広島陸軍地方幼年学校第21期生として入学。善通寺歩兵第43連隊士官候補生を経て、陸軍士官学校第36期生となる。しかしこの後の安藤は、軍人としてのキャリアを進まなかった。 軍人の道を諦めた安藤は京都帝国大学史科に転じ、維新史を専攻した。
蓮池 公咲(はすいけ こうさく、1902年8月24日 - 1… 蓮池 公咲(はすいけ こうさく、1902年8月24日 - 1968年1月14日)は日本の政治家。秋田県知事を務めた。 新潟県中蒲原郡村松町にて蓮池幸太郎と母しん(川東村小山田出身の医師高橋良折長女)の長男として生まれる。旧制新潟高校(現・新潟大学)では陸上部主将を務めた。1928年に東北帝國大学(現・東北大学)法学部を卒業して農林省に入省、1946年に官選の秋田県知事に就任。引き続き、翌1947年の公選の県知事選挙に出馬して当選。同年に行われた昭和天皇の戦後巡幸では、天皇に拝謁して県政の奏上を行ったほか、県内を随行して回った。その後、知事を1期4年を務め、後継に池田徳治を指名して引退した。1950年から2年半にわたり東北興業(現・三菱マテリアル)の総裁を務め、いち早くセメント製造用のシャフトキルンを導入した。
大須賀 喬(おおすが たかし、1901年8月24日 - 19… 大須賀 喬(おおすが たかし、1901年8月24日 - 1987年7月14日)は、日本の彫金家。帝展・新文展・日展で活動し、日本芸術院賞を受賞した。日展評議員・理事・参事を歴任し、日本金工作家協会会長も務めた。 香川県高松市に生まれる。1919年に高松工芸学校金工科を卒業後、東京美術学校金工科に進み、1925年に卒業した。 1927年、北原千鹿を中心として信田洋、田村泰二、村越道守、山脇洋二らと工人社を創立し、同人となった 1929年、第10回帝展に「壁面花挿」が初入選し、1933年、第14回帝展で「彫金花瓶」により特選を受賞した。。1936年の改組帝展では「仙人掌香盆」が推奨となり、新文展でも「象嵌文壷」「蝶文香盆」などを出品した。
金丸 徳重(金丸 德重、かなまる とくしげ、1900年8月2… 金丸 徳重(金丸 德重、かなまる とくしげ、1900年8月24日 - 1997年8月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期、日本社会党)。 山梨県出身。1928年東北帝国大学法文学部卒。逓信省に入り、満洲国に渡る。満洲国では交通部事務官、総務庁参事官を務め帰国した。その後熊本逓信局長、郵政省簡易保険局長を務める。1951年、山梨県知事天野久のもとで副知事に就任。1955年に副知事を辞職し、山梨県知事選挙に立候補したが、現職の天野に敗れた。1958年の第28回衆議院議員総選挙で山梨県から日本社会党公認で立候補して当選。1960年の第29回衆議院議員総選挙で落選。落選中の1963年の山梨県知事選挙に再び立候補したが敗れた。
佐藤 圓治(さとう えんじ、明治30年(1897年)8月24… 佐藤 圓治(さとう えんじ、明治30年(1897年)8月24日 - 昭和46年(1971年)7月30日)は、日本の俳優。娘は女優の三條美紀、孫は元女優の紀比呂子。 山形県東田川郡東栄村(藤島町を経た後に鶴岡市)出身。大正4年(1915年)山形県立荘内農業学校卒業。上京して慶應義塾大学に入るが中退。兵役につき、大正7年(1918年)にシベリアに従軍。大正11年(1922年)に帰還した。除隊後に会社(日本体育用品株式会社)に取締役として勤めるが、方向転換し、大正12年(1923年)に水口薇陽が設立した日本映画俳優学校に第1回目の入学生として入校した。同期には小杉勇、島耕二、森岩雄、八木保太郎等がいる。
天野 喜久代(あまの きくよ、本名:新井 ふく、1897年(… 天野 喜久代(あまの きくよ、本名:新井 ふく、1897年(明治30年)8月24日 - 1945年(昭和20年)3月10日)は、昭和初期の歌手、女優。 千葉県佐倉市出身。日本橋高等女学校卒業。 1913年(大正2年)に帝劇歌劇部二期生として入部し、1914年(大正3年)2月より舞台に出演。1916年(大正5年)5月に帝劇洋劇部が解散、その後伊庭孝、佐々紅華らの主催する歌舞劇協会、東京歌劇座を経て浅草オペラで活躍。 東京音楽学校で教えていたハンカ・ペツォールドに声楽を師事していたため基礎ができており、浅草オペラ凋落後の1929年(昭和4年)1月25日ほか浅草電気館レビューで活躍する傍ら東京の松竹少女歌劇団の声楽教師に就く。
内田 亨(うちだ とおる、1897年8月24日 - 1981… 内田 亨(うちだ とおる、1897年8月24日 - 1981年10月27日)は、日本の動物学者。北海道大学 名誉教授。学位は理学博士(東京帝国大学・1923年)。専門は動物分類学など。ウチダザリガニの献名者としても知られる。 1897年(明治30年)8月24日:静岡県生まれ。東京帝国大学理学部卒業。1923年(大正12年)4月、日本動物学会の機関誌「動物学雑誌」の編集委員のひとりであった江崎悌三が九州に異動となり、編集委員会は、岸田久吉、内田 亨の2名体制になったが年末に平岩馨邦が新たに加わり3名体制になった。1924年(大正13年)度末の日本動物学会評議員会の席で、1923年(大正12年)末に編集委員となった平岩馨邦が辞職を申し出たが入れられず、かわりに岸田久吉が勇退することになった。
清水 盛明(しみず もりあき / もりあきら、1896年〈明… 清水 盛明(しみず もりあき / もりあきら、1896年〈明治29年〉8月24日 - 1979年〈昭和54年〉4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県出身。久留米で陸軍少佐・清水盛次の長男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第14連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を卒業。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1926年(大正15年)3月、砲兵大尉に昇進し野砲兵第3連隊中隊長に就任。
濱口 雄彦(はまぐち たけひこ 1896年8月24日 - 1… 濱口 雄彦(はまぐち たけひこ 1896年8月24日 - 1976年10月5日)は、元東京銀行頭取。(社)日本陶磁協会 第3代理事長。東京府出身。濱口雄幸の長男。弟に濱口巌根。長女・幸は船後正道(中小企業金融公庫総裁、環境事務次官、大蔵官僚)に、次女・淑は正田巌(日銀監事)に嫁いだ。
平岡 宕峯(ひらおか とうほう(とほう)、1896年8月24… 平岡 宕峯(ひらおか とうほう(とほう)、1896年8月24日 - 1994年6月20日)は、日本の教育者、僧侶、実業家。本名は平岡 静人()。 勲三等瑞宝章。高野山真言宗大僧正。韓国圓光大学校名誉哲学博士。広島県安芸郡下蒲刈町(現・呉市)出身。真言宗京都大学、真言宗高野山大学、佛教専門学校(旧制)卒業。全国私立学校連合会副会長、日本私立中学校高等学校連合会会長ならびに大阪私立中学校高等学校連合会会長歴任。学校法人清風学園および同法人清風南海学園の創立者で、現在も前者では「校祖」、後者では「学父」と呼称される。 1896年(明治29年)8月24日、広島県安芸郡下蒲刈島村に平岡幸太郎の三男として生まれた。
小泉 梧郎(こいずみ ごろう、1895年(明治28年)8月2… 小泉 梧郎(こいずみ ごろう、1895年(明治28年)8月24日 - 1974年(昭和49年)3月4日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。位階は正四位。勲二等瑞宝章。 鳥取県出身。小泉謙蔵の五男として生まれる。第三高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し山梨県属となる。 以後、内務省社会局事務官、山形県書記官・警察部長、熊本県書記官・経済部長、広島県書記官・警察部長、福岡県書記官・警察部長、兵庫県書記官・警察部長、国民精神総動員本部常任理事、大政翼賛会協力会議部長などを歴任。 1942年1月、島根県知事に就任。
中野 与吉郎(なかの よきちろう、1894年〈明治27年〉8… 中野 与吉郎(なかの よきちろう、1894年〈明治27年〉8月24日 - 没年不明)は、日本の内務・警察官僚。弁護士。官選県知事。旧姓・住田。 滋賀県出身。第三高等学校を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、東京帝国大学法科大学を卒業。内務省に入省し大阪府属兼大阪府警部となる。 以後、島根県書記官・学務部長、群馬県書記官・警察部長、福井県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、内務書記官兼警察講習所教授、警保局警務課長、神奈川県書記官・総務部長、内務省土木局河川課長などを歴任。 1937年11月、福井県知事に就任。戦時体制の整備、結核撲滅に尽力。1939年4月、内務省神社局長兼造神宮副使に転じた。
中山 巍(なかやま たかし、1893年(明治26年)8月24… 中山 巍(なかやま たかし、1893年(明治26年)8月24日 - 1978年(昭和53年)5月19日)は、岡山県出身の日本の洋画家。 1893年(明治26年)8月24日、第8代岡山市長中山寛の四男として岡山県岡山市に生まれる。 1900年(明治33年)4月、岡山師範学校附属小学校入学。在学中、中堀愛作に啓発されて水彩画を描くようになる。 1900年(明治33年)、附属小学校を卒業し岡山県立津山中学校(旧制中学校)に進学。同級生に金田廉、矢野峰人、片岡鉄兵が居た。中学在学中に水彩画から油絵に移行。 1907年(明治40年)、奈良県で開かれた大下藤次郎の水彩画夏期講習会に最年少参加者として参加。翌1908年(明治41年)にも鎌倉で開かれた大下藤次郎水彩画夏期講習会へ参加している。
植村 環(うえむら たまき、1890年8月24日 - 198… 植村 環(うえむら たまき、1890年8月24日 - 1982年5月26日)は、日本で2番目の女性の牧師で、婦人運動家である。戦後再建された日本キリスト教会の指導者でもある。 1890年(明治23年)、日本基督教会の指導者植村正久・季野夫妻の三女として、東京市麹町区で生まれる。クリスチャン実業家渡辺荘の長女渡辺貞子と1年近く早天祈祷を続け、1905年(明治38年)に富士見町教会で正久より洗礼を受けた。1910年に女子学院専門部を卒業し、1911年に医師になるために渡米した。途中で哲学に転向し、1915年(大正4年)6月にウェルズリー大学を卒業して帰国した。帰国後は津田英学塾、女子学院の教師をつとめた。
河井 寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8… 河井 寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8月24日 - 1966年(昭和41年)11月18日)は、日本の陶芸家。陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも作品を残している。河井 寬次郎とも表記される。 当時の島根県安来町(現在の安来市)の大工の家に生まれる。旧制島根県立松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て1910年、東京高等工業学校(現東京科学大学)窯業科へ入学する。寛次郎には師と仰ぐ者がなく、師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となる。東京高等工業学校では、陶芸家の板谷波山の指導を受けたほか、窯業の科学的研究を行った。
小林 清貞(こばやし きよさだ、1890年8月24日 - 1… 小林 清貞(こばやし きよさだ、1890年8月24日 - 1968年4月21日)は、日本の学者、弁護士。元東京外国語学校教授、正四位・勲四等・独法学者。旧姓加藤。 愛知県立第一中学校、第八高等学校を経て1917年(大正6年)3月 東京帝国大学卒業。卒業後、朝鮮総督府検事補となる。 1922年(大正11年)2月に朝鮮総督府検事退官し、従四位勲四等を贈られる。同年3月に名古屋地方検事局弁護士名簿登録される。 東京外国語学校教授となったあと、1923年(大正12年)9月に名古屋三大商家・桑名屋の娘である小林初子と結婚し、小林家に入婿した。 1925年(大正14年)6月1日から1927年(昭和2年)12月15日の間、ドイツやアメリカに留学した。
北野 憲造(きたの けんぞう、1889年(明治22年)8月2… 北野 憲造(きたの けんぞう、1889年(明治22年)8月24日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 滋賀県出身。税務署長・北野本次郎の息子として生まれる。彦根中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業した。 教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、教育総監部課員、歩兵第3連隊大隊長、教育総監部課員、陸軍省人事局課員などを歴任し、1933年(昭和8年)8月、歩兵大佐に昇進し陸士本科生徒隊長となった。
伊東 岩男(いとう いわお、1888年(明治21年)8月24… 伊東 岩男(いとう いわお、1888年(明治21年)8月24日‐ 1966年(昭和41年)12月23日) は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、北郷町名誉町民。旧姓・関山。 宮崎県南那珂郡、のちの北郷村(北郷町を経て現日南市)で関山宗被の二男として生まれた。1906年(明治39年)宮崎県立農学校(現宮崎県立宮崎農業高等学校)を卒業した。1918年(大正7年)南那珂郡油津町(現日南市)の伊東スマエ(先代善衛門長女)の入夫となり家督を相続した。 南那珂郡農会技手を経て、北郷村会議員、南那珂郡会議員を務め、1923年(大正12年)宮崎県会議員に選出され4期在任した。この間、県会では県当局に迎合せず堂々と論戦を行った。